2017.01.01

機は熟した。動きだせ、日本人!

今、世界が胎動している~2017年は日本人がいよいよ動き出す時、機は熟したのではないかと思います。
一昨年の年始記事に「立ち上がれ日本人!」というテーマで書かれたものがあります。
リンク
昨年はその頃を考えると大きな変化が起きています。イギリスのEU離脱、アメリカではトランプが立ち、金貸し勢力が没落、プーチンが世界の中心に立とうとしています。そんな中、日本人は2020年東京五輪という時勢はあるものの、経済低迷、人々の意識は2年前に比べ決して高揚した状況にはありません。2017年、沈黙を破り、世界に先駆けて日本人が動き出す時ではないかと期待しています。
年始の今回の特集では昨年のるいネットから珠玉の日本人にまつわる記事を結集し、今年1年を期する投稿としたいと思います。全部読むには少し長いですが正月の余裕のある時間を使って気になる投稿を探してみてください。

m117.gif2016年るいネットで最も使われた言葉が“追求”の時代
その先駆けとなった投稿から紹介したい。

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posted by tanog at : 2017年01月01日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2016.12.31

織田信長の真実

旧来の秩序を壊し、戦国乱世を切り拓いた「破壊者」――。日本史上、最も有名な男と言っても過言ではない織田信長に対して、多くの人がそのような人物像を思い浮かべることでしょう。

しかし近年、そんな従来のイメージに囚われない、「新たな信長像」が提議されています。新史料の発見、あるいは史料の解釈の変化によって、これまで常識として語られてきた「通説」が改められることは、歴史研究ではしばしばあります。

今回はそんな織田信長に関して見直されている史観と謎をいくつか紹介したいと思います。

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posted by katsuragi at : 2016年12月31日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2016.10.20

日本人は元来“陽気”な人々だった

電車の中向かいに座っている人々の顔を見ると、みんな疲れている、なんだか心が暗そう。
逆に旅行客の西洋人は快活に話している。対照的。日本人は暗いのだろうか?
確かに、経済も社会も、会社も学校も決して楽しいとは言えません。

しかし、日本人とは元来、陽気な民族なのです。今から150年前その姿は全く逆でした。

楽しく生きるとは何か?
「陽気」(万物が今まさに生まれ出で、活動しようとする気)をもって、自分の心を支配できる人物
無能 唱元著 「小さなサトリ ミニ・エンライトメントが人生を変える」から抜粋。

江戸時代の庶民を時の外交官が驚きを持って綴った文章があります。
るいネット外国から見た江戸時代以前の日本の姿1~「逝きし世の面影」 渡辺京二著より引用~

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■第二章 陽気な人びと 
―――――――――――――――――
●ボーヴォワル
この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。

●ルドルフ・リンダウ(スイス通商調査団の団長)
日本人ほど愉快に成りやすい人種はほとんどあるまい。良いにせよ、悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである。

●A・ベルク(オイレンブルク使節団報告書の著者)
彼らは、話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである。

●リンダウ
いつも農婦達の素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持ってきてくれるのであった。
私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。・・・最も大胆な者は私の服の生地を素手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出して行くこともあった。
いくつかの金属製のボタンを与えると・・・『大変有難う』と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、まったく驚いた次第である。
私が遠ざかっていくと、道の外れまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、
『さようなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった。

●ジョン・R・ブラック(『ヤング・ジャパン』著者)
彼らの無邪気、素直な親切、むき出しだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。
一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。
さらに、通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、『おはよう』という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった。

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「陽気」を大辞泉で見てみます。
よう‐き【陽気】
[名・形動] 気候。時候。「春らしい―になる」 万物生成の根本となる二気の一。万物が今まさに生まれ出て、活動しようとする気。陽の気。⇔陰気。 気分。雰囲気などがはればれしていること。にぎやかで明 るいこと。また、そのさま。

この万物が今まさに生まれ出で、活動しようとする気を持って、自らの心を支配するということは、途轍もなく大きな天地の力をお借りして人生を切り開いて行くということなのだろうか?
忠さんの徒然草より紹介

caption title-img-season-spring日本人は自然の力、人と人の共認充足の力を得て、心で触れあい、感謝する事で自然と明るく陽気に生きる術や、活力を得ていたのだと思います。毎日人と会い、まっさらな気分で挨拶をし、心を通わす。他愛もないそうした事が子供も大人も女も男も大切にし、きっと生命力=陽気さを作り上げてきたのでしょう。
自然が豊かで、共同体が温存されていた江戸時代の日本人の楽しく生きる力は、これから私たちが様々な新しい外圧の中で難解な課題に取り組み社会を作り上げていく上で持っておきたい心のありようだと思います。

ずっと繋がりたい~江戸時代の子供達のこんな仕草が心に響いてきます。
>私が遠ざかっていくと、道の外れまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、
『さようなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった。
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posted by tanog at : 2016年10月20日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2016.10.06

諏訪と縄文第2話~出雲族とは何か?

第2回は諏訪を語る上で触れておきたい存在で出雲族の話である。
出雲族と言えば出雲に集まっていた古代人と捉える向きがあるが、実際には中国の夏王朝の時代に黒竜江から日本列島に流れ着いた製鉄技術の民の一派、総称である。

出雲族は樺太―小樽―日本海側を経て最終は出雲に辿り着いた。もう一方の流れが諏訪にあった。従って諏訪の出雲族は出雲から来たのではなく、出雲と同時期(3000年前頃)に日本で拠点を築いた製鉄部族なのである。まだ弥生時代が始まる前である。

第2回はこの出雲族の事を書いた随筆を紹介してみたい(出典はなかったが、おそらく梅原猛氏の文章だと思われる)
出雲族は諏訪土着の縄文人と神社を作る事で融和し、御柱祭りを催す事で縄文ー弥生部落の結集を成した。おそらく、渡来人が日本で定着し縄文人と融合していったというくだり、決して簡単な事ではなかったという事を慮る。彼らは融和しなければ生きていけないという切実な状況にあった。

m282.gif出雲族
縄文と弥生のはじめての接触という歴史的役割をはたしたのは出雲族であった。西村真次博士の著書「大和時代」によれば、出雲族は黒竜江あたりのツングース(女真族)で、BC1800〜1000 年頃、船で日本海を南下して、樺太―小樽―陸奥―出羽さらに出雲に進出したという。そして出雲の地が良質な砂鉄が取れる為、ここに大きな王朝を作ったとある。

当時の縄文人は、森に近い乾燥した高台に住み、その土地では合理的といえる竪穴式住居に住んでいたが、一方の出雲族は、木造の高床式の住居文化を持っていた。この高床式は湿気の多い平地でも作ることができ、変化に富む住宅形式であった。一言で言って、日本の縄文人たちとは異質のより高い文明をもっていた。

この出雲族が日本大陸で出会ったのが、武力争いとは無縁の、平和な交流しか知らない縄文人たちであった。この集団が日本列島に入ってきたとき、どのように縄文人たちと接したのだろうか。その舞台はまず、新潟から北陸、そして諏訪でおきた。
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出雲族の勢力範囲

 m282.gif出雲族はどのように諏訪に定着していったか~諏訪大社は誰が作ったのか?
さてこれほどの縄文銀座であっても、諏訪湖周辺に注目すれば、諏訪湖湖畔には遺跡は発見されていないのだ。縄文遺跡はすべて水面から 800mより上に存在しているという調査結果がある。水位が変化しても土地が浸水しないところでないと竪穴住居はできないのだ。
この地を代表する4つの諏訪大社も見事にその線上にある。これが縄文由来の神社である証拠でもある。現代の湖畔は高級リゾートで開発され尽くしているが、諏訪湖南東の湖畔にぽつんと遺跡がある。これが数少ない弥生遺跡なのだ。

さてこの地に落ち着いた建御名方命の集団はまず諏訪湖湖畔に耕筰地を開き穀類の栽培を指導した。先に示した湖畔にわずかに残る弥生時代の遺跡だ。縄文人たちはおずおずと800m 下の湖畔に降り立った。ここはアイヌ語で言うサハ(平野)だ。弥生文化の特別な意味を込めて湖畔をサハと呼び、やがてサワ(沢)からスワ(諏訪)と呼ぶようになっていったのではないだろうか。

諏訪の名前を得た出雲族即ち建御名方命の集団は、この地の成功を元に、次々と南下していった。勢力範囲を広げないと生きていけなかったのだ。農耕を初めて、収穫にいたるには何年もかかる。その間は狩猟採取の縄文部落からの貢物で生きていかなければならない。その生産力は低いので、ひろく多くの縄文部落を支配下に収めなければならなかった。各地に見る諏訪神社はその浸透の地域を示すものであろう。takeminakata_1

 m282.gif諏訪大社は出雲族が建てたが、縄文人と一体となって信仰していたのでは。
切りとった4本の巨木を立てて聖地を囲むのは縄文由来の祭りに違いない。三内丸山の 6本柱,チカモリ遺跡 真脇遺跡の列柱は太陽の祭りに関係付けられたが、諏訪の4本の巨木は聖地を聖別した。柱の巨木はここでは杉だ。栗の木のようには長持ちはしない。7年毎に立て替えになる。祭りにするには良いタイミングかもしれない。八ヶ岳の西山麓は縄文遺跡の宝庫だが、ここで御柱の原木が取り出されるまでには多くの準備の神事がある。そしてこれを縄文の各村を通って、諏訪大社まで運ぶのが御柱祭だ。途中の山おろしの勇壮なところだけが有名だが、この全行程で全部落総出で担ぎ送るのが、縄文から現代まで続くお祭りなのだ。最後にこの高さ16m もの巨大な宮柱を綱で引き立てて終わる。

縄文人たちは、自然に出雲族の指導に服しながら、狩猟採取の山麓生活から平野でも農耕生活に移行していった。その過程で諏訪地方の神事もその支配体制に準じていった。最高権威である大祝(おおほうり)という生神は建御名方命の子孫を名乗る諏訪氏が任じ、縄文信仰の神官守矢氏はその配下に置かれた。生神様がいるのは、明治時代までは良かったが、天皇御一人が現人神でおられる明治政策ではゆるされなかった。誇り高い先住の出雲族としては、大祝(おおほうり)の地位家系をそのまま継続したかったが、抵抗むなしく明治の宗教政策に屈し廃止された。

縄文人の子孫は、多分神社の上層部のことはどうでもよかったのではないか、この御柱祭の祭りの熱狂さえ残れば。

 第3回は諏訪で現在でも活躍する人、これまで歴史上活躍した人物を追いかけてみたい。日本人の中の縄文性とは何かに一歩でも近づきたい。

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posted by tanog at : 2016年10月06日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2016.09.29

諏訪と縄文 ~なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

今年の夏に諏訪に行ってきました。たった2日の滞在でした。
出雲と並んでずっと一度は行きたいと思っていた縄文の聖地です。
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諏訪大社 秋宮参道から見た諏訪の山々(私が撮影しました)

戻ってきて何か書こうと考えてきましたが、なかなか出てこない。ただ圧倒されて言葉も出てこなくて私の拙い文章で表現するにはあまりにも巨大な対象だと感じていました。

1ヶ月経った今、諏訪の事も少しネットで調べ、私の体験と併せて諏訪とは何なのか?諏訪から縄文や日本を見ると何が見えてくるか、とんでもないテーマを追求してみたいと思いました。果たして何が書けるか、楽しみにしつつゴールを設定せずに始めてみたいと思います。

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まず諏訪には大きな湖、諏訪湖がありますが、湖の美しさより湖を囲む山の美しさに圧倒されました。
特に諏訪大社上宮から幾重もの山を越えて顔を出す八ヶ岳は何とも言えず神々しい。
なぜ諏訪に縄文人が住みつき、現在までその文化が御柱際として残り続けたか、それは湖というより、この山々にあるように思いました。縄文人は山を神として崇め、山から昇太陽、沈む太陽を命として拝んだのだと思います。
この山から一旦しずんだ諏訪盆地こそ、信州の山を見上げ崇めるに実にすばらしい立地だったのでしょう。_MG_3253_201512s
諏訪湖と八ヶ岳

さらに縄文人は定住しながらも実はかなりの交易範囲を持つ贈与ネットワークを中心とした交易民としての特徴を持っています。諏訪湖は中央構造体の結節点に位置し、縄文時代の広域の黒曜石やヒスイなどの物品が通行する位置にあったと言われています。八ヶ岳山麓から諏訪湖に到る谷にはおそらく縄文メッカと言われるぐらいの中期の縄文集落の遺跡が集中しています。諏訪湖はこれらの造山活動の境界、ひずみとして誕生し、それら山の恩恵、山の影響、エネルギーを深く受けた古来からのパワースポットなのです。
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八ヶ岳山麓に集まる縄文遺跡(赤印)こちらより借用しました。

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。
おそらくは弥生時代前期~中期、紀元前200年~紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。
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諏訪大社の位置           上社前宮(私が撮影)
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上社 前宮の御柱

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。
2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。
現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。
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現在では毎年8月15日の夜に行われる日本一の規模の花火大会が有名ですがこの花火大会には毎年50万人の人が全国から諏訪に集結し、湖上の花火を堪能するそうです。諏訪の人口の10倍の人々が一夜に集結する、これも一つの祭り場です。
花火もまた諏訪の祭性、縄文性を象徴する行事の一環なのかもしれません
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何が諏訪に人々を惹きつけるのか、諏訪が人々に何を与えるのか、まだはっきりした事はわかりませんが、おそらく人智を超えた何かを伝えているのではないかと思います。諏訪大社の造形の迫力はそれらを私達に無言で伝えているのかもしれません。
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下宮 秋宮〈私が撮影しました)

次回からは様々なネットで語られている諏訪の謎、魅力、歴史を紹介していきたいと思います。

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posted by tanog at : 2016年09月29日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2016.09.02

新説「日本史」最終回~藤原時代再来

武士の時代は徳川慶喜の大政奉還をもって終焉する。
教科書を始め多くの日本人の常識は明治維新は近代化において歓迎すべき輝かしい時代の曙で、それまでの旧くて時代錯誤の徳川時代は成るべくして終焉したと捉えられているし、実際日本は明治の富国強兵から太平洋戦争敗北後まで経済が発展し続け欧米に肩を並べる経済大国に成長した。それがこれまで学校教育で正しいと教え込まれた近代日本史観である。
しかしそれが大きな間違いで、事実と反する事がいくつも介在しているしたらどうだろう。日本史は百済・藤原によって乗っ取られ、天皇制というなにやら訳のわからない制度がはびこり、事実無根の日本書紀や古事記が唯一最古の日本の史書と信じ込まされ、そして明治以降はロスチャイルドやロックフェラーという世界の金貸しの罠にまんまとはまり込んでいった。その先鋒を担ぎ日本人を歴史書ごと騙したのもまた百済由来の田布施勢力であり、明治天皇を輩出し現在の安倍総理まで権力の一手に掌握し日本を食い物にして滅亡させようとしている裏の勢力である。
現在彼らがやらかす、不正選挙やお上の暴走に目を光らせ、黙らせない声としてネットや書物、さらに薄々感じ始めた大衆の違和感をベースにしてそれらの日本をダメにする塊が浮き上がりつつある。最終回はそれらの記事、声、そして教科書で正しいとされていた事を覆す事実を並べ読者に日本史の事実を考えていただくネタとして提供したい。
教科書で教えられた常識を捨て、事実を求めて探索してほしい。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
葛城・物部時代(200年~450年)250年間
葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間前半
藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間後半
武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
それまで長く続いた高句麗―武士時代が幕を閉じたのも秦氏の力による。
秦氏は神社、商業ネットワークをバックにそれまで潜伏していた裏天皇(南朝)を使い、明治以降の日本の政権交代劇を画策する。
当時、日本を取り巻く外圧は高まっており、徳川の鎖国政策では太刀打ちできない状況になっていた。金貸しロスチャイルドと手を組んだ秦氏はかねてから逆転を狙っていた百済系、南朝の力を持ち上げ政策能力の無い天皇を中心とした国づくりを始める。

秦氏が舵取りを誤り、日本にとって不幸にも最大の失敗は、この時代に立った田布施出身の百済系の連中が国家や国民の事をまったく考えない連中だった事だ。彼らは己たちの私財、権力の拡大のみにしか関心が無かった。
明治以降、市場時代が拡大するとそれまでの力の源泉であった商業ネットワークを持っている甘みは消滅し、同時に秦氏の力も失われていく。秦氏の舵取りを失った権力志向の藤原ー百済系は天皇の力を武器に戦争を繰り返し財力を蓄え、日本を廃土にしながらも自らの資産を増やしていく。
何百兆にもふくれ上がった天皇財閥はスイスに埋蔵されているらしい。

百済人の部落であった田布施からは明治天皇が替え玉で登場しただけでなく、伊藤博文から現在の安倍総理に至るまですき間無く日本を支配している。しかし最大の力の源泉はいまだ残り続ける根強い天皇制の力である。この天皇制の悪しき実態を世に表し、万人の審判を仰ぎ、本来の大衆自治に変えていかない限り日本の次の時代は無い。
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m282.gif徳川は大政奉還によって日本を植民地化から守った
~徳川は既に幕末に金貸しの意図を掴んでいた。
金貸しが作り上げた驚異的な武力国家がまずは脅す。国家の政権勢力は金貸しから金を借りるか、組み込まれるかの選択に迫れる。同時に金貸しは国内の反対勢力に優先的に融資し、武器を売り込む。やがて、国内で力が拮抗し内乱が勃発する。既に金貸しに実権を握られた反対勢力が政権を執り、その後は金貸し支配の下、半植民地として吸い取られていく。
江戸晩期には薩長がその策略にはまり、倒幕勢力にまで昇りつめた。
徳川の大政奉還とはそういう中で実施されたのだ。既にフランスから240万ドルの融資を受けてはいたが、15代慶喜は薩長が勢力を付けていく過程のどこかで金貸しの真意に気がついた。「国内の内乱を引き起こし、最後は西洋の金貸し勢力がこの国を手中にする」と。大政奉還を施行する前には徳川と薩長との間で話し合いが持たれ、金貸しの真意を理解し「江戸城の無血開城」を合意したという。大政奉還によって日本の植民地化は回避されたのだ。
徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?より抜粋

 m282.gif明治維新を画策したのは金貸し〈ロスチャイルド〉
~諸外国同様、日本もまた近代化には金貸しが深く潜入している。
日本の幕末~明治維新にかけて、欧米列強(ロシアを含む)による開国要求、植民地支配の圧力が強まって行きますが、それらの対日工作を裏で画策していたのもロスチャイルドです。直接的には日本の開国は米国の黒船の圧力によるものでしたが、その後の倒幕~明治維新を裏で画策したのはロスチャイルドです。日本支配に向け、佐幕派(幕府支持、水戸藩、会津藩)に金を貸したのは仏ロスチャイルドで、倒幕派(薩長土肥)に金を貸したのは英ロスチャイルドです。どちらが勝っても儲かるように対立する両勢力に金を貸すのが金貸しの常套手段であり、倒幕派(薩長土肥)によって明治維新を実現させた黒幕はロスチャイルドと見ておくべきです。
日本の支配構造 明治天皇がすり替えられたのはなぜか?より抜粋

m282.gif明治天皇から現在の安倍総理まで連なる田布施システムとは
山口県の小さな町から、なぜか多くの首相や重要人物が出ている
伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。
明治維新後、田布施出身の多くの志士が明治政府の重要なポストに就くこととなります。そしてその流れは受け継がれ、現在の安倍首相へと繋がっているようです。この明治維新から受け継がれてきた一連の流れは、「田布施システム」と呼ばれています。
「田布施システム」と明治天皇替え玉説1より抜粋

 m282.gif実は明治天皇は孝明天皇の子ではない
~明治天皇は替え玉説、これは最近かなり言われてきている事だが、マスコミどころか一般の人はほとんど知らない。あまりに以前の天皇(麻呂顔)と顔が異なる。
孝明天皇(北朝系)はいよいよ大政奉還、明治維新というときに急に殺されて崩御になり…睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇(南朝系)の第 11番目の皇子光良親王の子孫で長州萩で毛利氏が守護してきた。
薩摩と長州の間には、この南朝の末孫を天皇にすると言う密約があり、これが王政復古御一新を志した勤皇の運動である」(田中光顕)
「田布施システム」と明治天皇替え玉説2より抜粋

m282.gif太平洋戦争がなぜ勃発したのか?
~教科書では太平洋戦争の勃発の理由は書かれていない。それは書けないからでもある。
>226事件は、公表的には帝国陸軍:皇道派の青年将校たちが「 昭和維新・尊皇討奸 」「 天皇親政 」をスローガンに企てたクーデター未遂とされていますが、これは事実のホンの一部分を取り上げたものにしか過ぎません。
実際には、昭和天皇を捕獲:廃帝にし、一応公表上、昭和天皇の弟とされている秩父宮を新しい天皇に据えるべく起こした帝国陸軍最強の第2師団( 仙台師団 )に依るクーデターで、青年将校たちの決起はその先遣隊だったのです。
先遣隊の暗殺&天皇捕獲に続いて、仙台から上野に秩父宮と共に向かっていた仙台師団は、帝国海軍陸戦隊が戦車隊まで繰り出して青年将校の先遣隊が完全制圧したため、プランを断念せざるを得なくなってしまいます。
太平洋戦争は旧陸軍vs天皇・海軍の戦争だった  ~日本の2つの勢力~より抜粋

m282.gif明治天皇になって最もそれ以前と変わったのは軍の全権を法的に与えられた事
~それによってその後の日本は狂った。国民の事などどうでもよかった朝鮮人の出自(田布施システム)は己達の利益が一番重要だった。
明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸し付けていた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。
日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。
この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。
国民を売って金儲け、正真正銘の売国奴=天皇より抜粋

m282.gifスイスに金塊を隠し続けている天皇一族
~天皇が戦争で大儲けして金塊をスイスに預けているという話は事実のようだ
近衛文麿首相はいく度も天皇に戦争の中止を訴えた。
天皇一族は、日清戦争や日露戦争を通じて多額の賠償金を手にしており、その一部はスイス銀行に預けられた。それは日本の天皇だけでなく、ルーズベルトやチャーチル、スターリンなどもそうであり、このような悪事を通じて彼らは国際銀行家(イルミナティ)に弱みを握られることになった。フルシチョフ元首相の『フルシチョフ回顧録』にはそれらのことが克明に書かれており、明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座はスキャンダルの種になり得るものであった。そしてここに、近衛首相の忠告を無視して、再び太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源があるのだ。
太平洋戦争と政府、天皇、そして赤十字の関係より抜粋

 

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posted by tanog at : 2016年09月02日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2016.08.25

新説「日本史」第8回~武士時代

藤原支配から脱却した日本は新たな自治の時代、武士時代を迎える。
平安時代後半から始まるこの時代は江戸末期までおよそ900年間継続した。武士時代とは葛城が治めた大和朝廷と似ており、それまでの中央集権から封建へ、連携、連合、持ち合い、共存が力学としてあり、最も激しい戦乱にあった戦国時代にあっても信長や秀吉は常に武のない世、太平の世を求めて天下統一に励んだ。さらにそれを継いだ徳川にあっては東を抑える事で、260年間続く安定基盤を作り上げた。その手法は藤原時代が権力と富の集中で作りあげた中央集権とは相対しており、地方自治誘導、中央へは専ら地方の力を結びつけ交流を図る参勤交代という自治を重んじた中での緩やかな中央集中政治を実現した。

武士の時代とは通じてみれば東国(縄文由来)の時代であり、東に拠点を置く時代(鎌倉、江戸)が最も安定した政治、治安をなすことができた。一方で西側は京や大阪で市場が拡大し、東の政治、西の経済という構図がこの時代ますます進んでいく。
また、この時代の庶民の動きも武士時代に合わせて作られていく。惣村という村落共同体の基本が作られたのも鎌倉から室町時代にかけて、庶民もまた、自治の有り様を模索しながら自然発生的に各地にその縄文的体質をベースとした共同体が作られていったのは特筆すべきことだろう

一方で武士に実質上の支配権を奪われた藤原家率いる天皇一派は南北朝に分かれ、その力を分断されながらも、水面下で脈々と温存され、やがてくる明治天皇の時代に再び復興した。北家も南家も藤原家だが、南家に百済直系の一派が残りまた惣村や共同体から離れた自由民(エタ、非人)が加わり裏勢力を形成、後の明治天皇を生み出す山口県の田布施を中心に潜伏した。
今回の記事はその集大成とも言える江戸時代にスポットを当てて記事紹介をしていきたい。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
葛城・物部時代(200年~450年)250年間
葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間前半
藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間後半

■武士時代(900年~1860年) 960年間
荘園制度の転換に伴い、各地に治安不安が生じると部落ごとに自衛の必要が生じた。武力を持っていた坂東武士を中心に護衛の役として武士が誕生する。武士は専ら東日本に誕生し、後に西日本にも武士が登場するがそれは関東のそれを真似た物に過ぎなかった。
関東の武士団はたちまち力をつけ、横の連携を持つと朝廷に対抗する勢力に成長していく。その延長で誕生したのが源氏率いる鎌倉幕府である。以後、自治を旗印に武士中心の政権が継続する。

朝廷、天皇も制度として残されるが、その統治力も権力も無く江戸時代に入るとその存在意義すら失う目立たないものに成り下がった。武士が天皇を残したのは、いかにも縄文由来の日本人的発想で、天(自然)に抗えない、天を奉るという畏れ意識に起因した可能性が高い。事実最大権力者の信長ですら天皇をほぼ無視しているが滅ぼしてはいない。

武士時代は江戸時代も含めると900年以上続くが、その裏では秦氏率が支える藤原ー天皇が脈々と続いており、また同時期に秦氏は商業ネットワークと諜報ネットワークを全国網で形成することで武士を骨抜きにしていく。
武士支配の世界に反旗を翻したのが後醍醐天皇が引き起こした南北朝戦争だったが、天皇家は北朝を表、南朝を裏に建て江戸時代は潜伏した。

■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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m282.gif江戸幕府の自治
押さえておきたいのは、江戸幕府は中央集権ではなく封建制でもなく、地方の事は地方に任せるを徹底した「村の自治」、「藩の自治」をベースにした信任関係を機軸にした世界でも稀に見る政府だったという事です。家康自身が乱世、戦国時代の教訓を基に作り出した政治手法だったのでしょうが、大衆(=農民)を支配する発想を全く逆転させたところに徳川家の凄さがあります。参勤交代とはそういった中で、地方と中央を繋ぐ位置にあり、間接的かつ奥ゆかしく地方を配下においたのです。そういう意味では既に市場経済が開花し、富と貧困が拡大する中でとった手法としてはこれしかないといった“バランス感覚”に優れた政治でした。

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「地域再生を歴史に学ぶ~第8回 江戸時代は惣村自治の集大成」より抜粋

m282.gif江戸は縄文の再生
戦乱の世を経て蓄積された家康の平和・安泰への希求が、天海の持つ争いとは無縁の縄文的思想に触れることで施策として結実したのが江戸時代だったのでしょう。だからこそ、江戸時代を通じて様々な施策が平和、再生、集団、自然志向といった縄文的価値観に貫かれて生み出されていったのです。
しかし、国家規模で社会変革を引き起こした江戸のシステム、これは家康や天海の個人の才覚だけでは成り立ちません。それを受け入れ下支えした東国人、さらに日本各地の地方では庶民にまだ縄文由来の共同体資質が色濃く残存していた事もまた押さえておきたいと思います。こうして江戸は天海―家康が導く縄文的社会の再生として日本史の中に登場したのです。

循環型社会
「江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由」より抜粋

m282.gif江戸社会の理とは何か
江戸時代は、集団の自立した活動に権限をゆだねることで個々の活力を創出し、中央と地方の交流により同類圧力を生み出し、さらなる活力上昇へつなげることができたまれに見る社会だといえます。
規範による自我の封印
技術革新により開かれた私権追求の可能性から生じる自我を、末端の集団規範で完全に封じ込めることができました。さらに、中央からの質素・倹約の規範を、武士から末端の農民に至るまで浸透させた事も、自我の封印に大きく寄与しました。
石高制による実質経済
石高制という実質価値に基ずく力の尺度を用いることで、金融による架空経済の暴走を阻止し、地に足の付いた生産活動を主体とする実質経済を成立させることができました。
幕藩体制と参勤交代で同類活力を上昇
蕃毎の自給自足と、自立した地方自治が主体性を向上させ、さらに参勤交代という地方と中央を交流させる政策により同類圧力が高まり、末端までの活力を上昇させました。
このように江戸時代は、豊かさ欠乏と倹約の精神がバランスし、経済活動も地球環境においても究極の循環型社会が実現した、世界でも類を見ない奇跡の時代であったと言えるでしょう。
「江戸は縄文の再生3.~中央と地方を逆転させた江戸の理(ことわり)」より抜粋

m282.gif惣村とは
そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまっ   て暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
西洋式の民主主義の導入する以前に既に日本にはお上にブレーキをかける民衆主体の基盤(共同体基盤)ができていました。

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「地域再生を歴史に学ぶ~第4回 惣村の形成とはなんだったのか?」より抜粋

m282.gif南北朝とは何か?
下記の記事に裏の支配者南朝について詳しく、かなり正確に書かれています。
「裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク」

【1】南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力(非人経済)であり、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力、つまり、貴族をはじめとする荘園領主であったこと。
【2】日本における市場勢力の源流は2つある。一つは百済の滅亡後~鎖国まで続いた大陸・朝鮮からの流入民であり、彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。もう一つは、百済系の北朝の収奪と寒冷化によって農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
【3】彼ら市場の住人となった非農業民たちは、非人・河原者と呼ばれ、差別の対象となっていったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
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明治天皇の出身「田布施」の場所

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posted by tanog at : 2016年08月25日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2016.08.16

あまりにも平穏な、権力者と人民の闘争=百姓一揆

虐げられた農民たちの怒りが頂点に達し起こるのが、武装蜂起「百姓一揆」である。最新の教科書にも「幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、指導者を厳罰に処した。しかし一揆は増加し続け、凶作や飢饉のときには全国各地で同時発生した。」と強調されるように、権力者と民間人の衝突の最前線とみなされている。

「江戸時代=百姓一揆の時代」とイメージする人も多いのではなかろうか。

また、百姓一揆といえば、打ちこわしをともなう乱暴なものであり、鎮圧せんとする領主側と血で血を洗う武力抗争に発展し、多くの命が失わ

れたと思われている。

しかし、そのような一揆像に訂正を迫る研究が進展している。

様々な事例を見ていこう。

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posted by tanog at : 2016年08月16日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2016.08.16

新説「日本史」第7回~藤原(秦)時代~《後半》

第7回は藤原時代の後半を描いてみます。後半は藤原支配が東国武士に取って代わる時代です。不比等が作った百済系日本は平安朝でその栄華を極めますが、日本を統一的に支配していた訳ではありません。平安時代とは文字通り平安を願った百済系天皇桓武が起こしたのですが、平安とは名ばかりでこの400年間は日本史の中でも最も不安定な時代でした。これは日本にあった東と西の別々の国が対立を深めバラバラになる可能性があった時代です。

西は藤原が率いる朝廷国家―貴族社会、東は高句麗人が土着縄文人と形成した続縄文国家です。西は律令制により地域の掌握が浸透していきますが、東は全く受け付けず逆に土着の共同体は強固になり独自に自衛組織を持つ武士集団を抱えます。日本史は専ら朝廷中心に書かれており、都合の悪い東の歴史などは正しく書かれず、ゆえに東の存在は蝦夷討伐や反乱といった表現になります。朝廷が征夷大将軍と名づけて時の武将を持ち上げたのは東の悪しき高句麗人、縄文人を征夷せよという意味合いが入っています。従って初代征夷大将軍の坂上田村麻呂が成した蝦夷討伐は英雄物語として称えられたのです。(実際には蝦夷討伐などは全く達成されておらず、その後の混乱、武士の誕生へと繋がっていきます)

そして武士の時代が始まります。10世紀半ばに始まる武士の時代とは力の中枢が朝廷から武士に移行した時代であり、藤原支配から高句麗系武士(坂東武士)へ力が移行した時代でもあったのです。言い換えると西から東へ力の中心が移行し、その後誕生した鎌倉時代とは日本的に言えば百済支配から(一旦は)脱却した画期的時代でもあったのです。
時に朝廷から派生して生まれた源氏、平氏は彼ら武士を統合し、朝廷と繋げる役割を果たします。出自も含めて源平は謎だらけですが、藤原家と付かず離れずで動いた彼らこそ、その後の武士社会を動かしていきます。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
葛城・物部時代(200年~450年)250年間
葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間

■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
藤原時代は藤原京、平城京、平安京とそれまでの既存勢力を排斥する目的で遷都を繰り返し、平安時代以後は百済一色の藤原支配が確立した。

668年に滅びた高句麗は、その一部が関東、東北に渡来。その後の武士に繋がる勢力を形成していく。高句麗勢力の国内の拡大に危機を持った朝廷は平安時代に入ると度々蝦夷討伐で兵を繰り出し、801年蝦夷征伐に成功する。しかし、東北に拠点を得たに過ぎず、完全に征伐されていない高句麗残党は100年間で力をつけ、武士団として再生する。

■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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m282.gif平安時代とはどういう時代だったか
平安時代は百済系桓武天皇が伽耶、新羅系を完全に押さえきり、百済一系で皇族を押さえた現在にいたる皇室体制の始まりの時です。桓武、嵯峨天皇は着任すると同時に唐からの文化を強力に取り込み、厳格な律令制と仏教を用い、それまでの日本で育まれた縄文土着と大陸渡来文化の混交社会からの脱却を図ります。平安京には1600人の貴族が集結し、あらたな百済系中心の日本社会が形成されていきます。
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平安時代は女にとって、男にとって受難の時代だった。

m282.gif藤原の最大課題は高句麗残党の居た蝦夷討伐
蝦夷を配下に置くことは大和朝廷からの積年の課題であった。
古くは斉明天皇時代の阿部比羅夫の658年蝦夷進行に始まる。
以降、奈良時代にも数回に渡り蝦夷へ兵を送り柵を造営する。
唐の圧力が弱まった平安時代、兵力を一気に国内に向け、本格的に蝦夷制圧が始まる。788年から攻め続け、アテルイ初めとする東北の縄文末裔の集団である陸奥制圧に50年かけて到達する。
平安時代の年表(武士の歴史は私権社会に対する集団防衛から始まった)

m282.gif東にあったもうひとつの日本とは
高句麗は6世紀末に唐―新羅の連合軍によって滅ぼされますが、滅ぼされた一派は北へ逃れ、沿海州方面にいた靺鞨(マッカツ)人と共に渤海という国を作ります。東北地方に高句麗勢力が入り込んできたのはこの時代からではないかと思われます。727年に始めて渤海使が出羽国に到着する以前から、日本海を挟むネットワークはあったものと考えるからです。
また、同時期に百済も滅亡し、大和朝廷は国内の高句麗勢力殲滅の為に関東に百済の居住民を数百人規模で植民し、農業を広げていきます。関東の高句麗勢力がそれに伴い東北に移動した可能性もあります。大和朝廷は後の平安時代9世紀に征夷大将軍・坂上田村麻呂を送り込み、再三東北に攻め込みます。これは一説には蝦夷(縄文人の末裔)の征伐と言われていますが、本当のところは、大和朝廷に逆らう東の勢力、高句麗残党が勢力をもった東国を意識していたのではないでしょうか? 大和朝廷が数度の進行を経てようやく征圧したと言われていますが、只の縄文人支配にこれほど手間と時間がかかるとは思えません。アテルイやモレはおそらく高句麗系の騎馬民族であった可能性が高いと思われます。アテルイの肖像はそれを示しています。
日本の源流を東北に見る(9)~大和支配の外にあったもう一つの日本

m282.gif武士の起源は坂東にあった
坂東侍を抜きにして武士の歴史を語ることは出来ない。坂東の侍は気性が激しく、土地を中心とした結束が固く主従の関係も強い絆で結ばれていた。坂東とは箱根と碓氷を結んだ線の東側にある相模(神奈川)武蔵(埼玉、東京、神奈川東部)安房(千葉南部)上総(千葉中部)下総(千葉北部、茨城南部)常陸(茨城)上野(群馬)下野(栃木)の八カ国の地域を指す。坂東の人々は農耕と同時に狩猟生活も営んでいたので、気質は勇猛果敢、特に馬に乗り弓矢を使うことが巧みで武芸に優れていることから、九州防衛の防人(さきもり)や蝦夷鎮圧のために多くの坂東人が駆り出された。
また、奥羽地方では度々大規模な反乱が起こった。しかし朝廷には常備軍がいなかった為に、朝廷はそのたびに征夷大将軍を任命し、征夷大将軍に任命された者は坂東に来て討伐軍を募集、編成し反乱鎮定のために奥羽地方に向かった。従って事がある度に坂東の武者達は駆り出された。このような条件の下、坂東人は鍛えられ戦闘に巧みな者が育っていった。
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坂東武士の基本構造

m282.gif武士と朝廷を繋いだ源平
都では平安初期に東国を攻め、9世紀初頭までに東北地方各地に城址を築く。それまで東国を運営していた高句麗人+縄文人の土着集団を解体する目的で、武術を有する蝦夷の民を都に連れ帰り  組織化した。それが俘囚制度である。彼らがその後に国家の常備軍として戦地に送られるが、平時には京で武術を教える人材となる。
坂東で盗賊蜂起による混乱が発生すると、手柄によって位を上げたがっていた平氏達は進んでその鎮圧に動いた。平氏は武力で混乱を制するとそのままその地の受領として定着する。武士第一号が平高望で、彼は坂東の地で英雄になっていく。
その後高望率いる平家一族が別れて坂東の地で分割統治する。これが坂東武士の起源である。
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平将門の乱
なぜ中世の武士は源平に収斂したのか

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2016.08.12

新説「日本史」第6回~藤原(秦)時代~《前半》

第6回はいよいよ国号「日本」の始まり、そして同時に天皇制の始まり、それらを演出した藤原氏政権の始まりを書く事になります。いわば日本書紀に書かれた以降の歴史の始まりです。しかし残念ながら我が国は日本という国号ができた時が最も本来の日本、縄文とはかけ離れた時代にありました。日本という名前を付けた百済だったのです

日本にはそれまで江南人を始め高句麗、伽耶、新羅と大陸から様々な渡来民を受け入れ、彼らは少なからず現地の縄文人や弥生人と混血、文化交流し日本的なる物に変わっていきました。そういう意味では渡来人でありながら日本人な訳です。ところが7世紀前半に入り込んできた百済人だけはそれ以前の渡来民とは大きく性格を異にしています。
一番異なるのが、彼らは本国を失い行き場をなくし、日本を第2の百済にしようと考えたのです。あわよくば日本を拠点にして百済を奪還しようと試みていた。それがあの勝ち目もないあり得ない戦争、白村江の戦いです。そして本国奪還が不可能となると今度は日本を昔から居たと欺きその中心に君臨した。それが藤原不比等であり、偽書日本書紀です。
不比等は自らがひたすら百済人であることを隠し、それ以前の日本の歴史(記録)を抹消しました。その挙句に出来上がったのが百済人の系譜を連綿と続けてきた天皇制なのです。

現在のこの情報化時代の中にあっても日本の国の始まりや天皇制の本質はタブーとされ追求されていません。追求した学者はこれまで少数ながら居ましたがいずれも迫害、除籍されその立場、存在を失っていきました。新説「日本史」の最も伝えたい一つがこの時代の中に結集されています。

新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
葛城・物部時代(200年~450年)250年間
葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間

■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
645年大化の改新(一巳の変)で蘇我氏が暗殺されると藤原政権が始まる。
藤原は中臣氏が変名した氏族だが、この時代突然現れ、その出自も明らかになっていない。
歴史上では突然現れた藤原氏が大量渡来した百済人をバックに大和朝廷を乗っ取ったように取れるが、蘇我氏から藤原氏に切り替えることを画策したのも秦氏であった可能性が高い。秦氏は後に奈良時代には藤原氏と血縁の関係になり、藤原氏率いる天皇一派と接近する。
朝鮮半島は660年に百済が滅亡、大量の百済人が日本に流れる。藤原氏は百済出自でこの時代の百済人を組織化し、秦氏の支援をバックにそれまでの伽耶―高句麗勢力を組み入れた。鎌足は百済奪還を目指して朝廷軍を繰り出すが、白村江の戦いで失政。

鎌足の後に登場した藤原不比等は持統天皇を初代天皇として天皇制を立ち上げ、それまでの蘇我、葛城時代の日本の歴史を全て無き物とする為に嘘の歴史書、日本書紀、古事記を編纂する。自らは右大臣に就任し、以後の藤原氏の政治権力を万全のものとした。
藤原時代は藤原京、平城京、平安京とそれまでの既存勢力を排斥する目的で遷都を繰り返し、平安時代以後は百済一色の藤原支配が確立した。

■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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m282.gif藤原不比等は百済系~奈良時代は日本を百済に染め上げる為の時代
百済~藤原氏は渡来して直ぐに日本を支配できたわけではない。奈良時代を通じて周到な地固めをした後、平安時代でその栄華を得る。

>不比等は藤原鎌足の息子と成り代わり、持統天皇の元、太政大臣に昇格。その後の日本の律令を定めていく。ただし、不比等は渡来して百済の後ろ盾がなく、止むを得ず土着伽耶系の豪族と手を組む。奈良時代とは百済系不比等と伽耶系豪族の連合政権であった。奈良時代に勃発した権力闘争は、百済系対伽耶系での主導権争いで、そういう意味では奈良時代は百済系の純粋王朝ではなかった。不比等が最も消したかったのは蘇我が立ち上げた高句麗系の日本の律令史であり、自らの百済の出自だった。不比等の系譜を日本古来から存在する藤原に仕立てたのだ。日本書紀、古事記はその為の歴史書として編纂され、日本の捏造史と併せて百済、伽耶が都合よく書かれた。
大和朝廷の誕生から明治維新まで~不比等を百済系として組み立てなおす

m282.gif百済はことばを通じて日本人の意識に浸透していった
百済は朝廷、公家を押さえると知識層を中心とした言語を用いて日本人の意識に長い年月かけて浸透していった。逆に言えば大衆はつい最近までその影響を受けなかったとも言える。
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奈良時代前にあった藤原京
>司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。
「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。
百済が日本にもたらしたもの~文化でなく言語にその本質があるのではないか

m282.gif百済支配の最も罪深い事
>藤原氏は、陰謀・テロによって政権を奪取、殺戮した王族の業績や正当性を隠蔽するために、それまでの日本の歴史を根こそぎ抹殺した。そして、日本において自らを正当化するために、古事記・日本書紀を捏造したのだ。
これが現代に至るまで、日本の歴史を捻じ曲げ、謎だらけにして混乱させている元凶であるが、現在の教科書や学者の言説を見ると彼らの狙い通りになっているように見える。
645年のクーデター・大化の改新の折、『天皇記』と『国記』が焼失しているのである。これらは、大化の改心の折、蘇我氏によって火が架けられたと通説は説く。しかし、これらの史書は620年の蘇我氏の政権下に編纂されたものである。
クーデターの首謀者・藤原氏と中大兄皇子にとって都合が悪いモノであったと考えて始めて説明がつく事である。
中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子にとって、『天皇記』と『国記』に記載された日本古代史を消さなければならなかった。
百済王族、藤原氏3 ~それまでの日本史を根こそぎ抹殺した藤原氏~

m282.gifなぜ日本の原点、日本書紀は誰も追求しないのか?
無題
>日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。
その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。
教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。
そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏」の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。
書き換えられた歴史・藤原氏の正体  その1

m282.gif藤原氏が日本に食い込めた最大の影の力とは・・・。
秦氏は5世紀に日本に1万人規模で渡来した新羅系(古くは中国系)技術者集団ですが、日本での最大の影響力は蘇我氏時代に張り巡らした神社ネットワーク。後発で来た藤原氏が力を発揮するには秦氏の支援を受けずにはあり得ないはずです。蘇我に見切りをつけた秦氏は藤原氏に乗り換えたのです。決して歴史上には現れない秦氏ですが、神社ネットワークを残し続ける事で、その情報力、影響力は現在に至るまで厳然と残っています。
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>藤原家は、確かに秦氏とは婚姻関係にありますが、秦氏ではありません。藤原の祖は鎌足で、元は中臣(なかとみ)と言います。中臣氏の一族が鎌足の代になって帝より藤原の名を頂いて、それから藤原家が始まっているのです。元々は卜部(うらべ)氏や忌部(いんべ)氏など神道の神事を行っていた一族の血筋です。(中略)
天皇家の名のもとに色々と動かしていたのは藤原の事。秦氏が建立した全国の神社は八万社。関係している社をあわせると九万社に及ぶ。天皇家よりも古くから神事に関わっていたのは忌部氏。忌部氏は、物部の血筋。日向族から天皇制度が始まり、物部も秦氏も天皇家に支配される。秦氏の一部は山背の鴨川流域に拠点を置き‘鴨’を名乗り‘賀茂氏’となる。
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posted by tanog at : 2016年08月12日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List