2012年01月31日
庶民が作り出したお上意識2~浸透しなかった天皇制
(天武天皇・矢田山金剛寺所蔵)
現代では、私達の誰もが「天皇制」「天皇」の存在を知っています。憲法でも、天皇は日本国民の「象徴」であるとされ、多くの人はそのことに対してそれほどは違和感を感じていないでしょう。
しかし、突き詰めて天皇の何が「象徴」で、どのような系譜を辿ってきたのかを考えることはせず、むしろそれを考える事は天皇に対する冒涜でありタブーであるとされています。また明治以降、津田左右吉など何人かの歴史学者がそれに異を唱え、史実との整合性を見直そうとしましたが、忽ち当時の国粋主義者に取り押さえられ、学問としても取り上げられる機会はありませんでした。
したがって現在では、庶民にとっての天皇とは、その存在そのものが当然であり、日常でもあるのです。最近ではマスコミの後押しもあり、皇室の行事は忽ち国民的行事として取り上げられ、少し前ですが雅子さまのご成婚が新聞紙面を覆ったことをご記憶の方は多いでしょう。国家体制が不安定になり、秩序収束、民族収束が加速化している現代、天皇制はむしろ為政者に利用され、また大衆も無意識に望んでいる兆候すらあります。
しかしこの天皇の大衆化、誰もが信じ、誰もが否定しない天皇史観は、天皇の始まりとされる大和朝廷の頃から脈々と流れていたのでしょうか?
この答えは後に回します。読者の皆さんも、本文に入る前に少し考えてみてください。
今回の記事はそれを明らかにする目的で、まずは天皇制と古代信仰の関係を見ていきます。
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posted by yaga : 20:18 | コメント (5) | トラックバック (0) Tweet
2012年01月22日
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」9~遊牧民からみた中国史
今回の中国シリーズではこれまでの8回の記事で古代から漢代までの中国史を見てきました。
1.国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史
2.中国の市場国家の起源とは?
3.道教から中国の可能性を探る
4.中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?
5.中国の自然外圧は豊か?厳しい?
6.春秋戦国時代~秦・漢時代の支配・戦争の歴史
7.鉄によってもたらされた中国の市場
8.諸子百家とはなんだったのか?
ここまでの段階でも既に明らかなように中国とは遊牧民が作った商業国家であり、官僚国家である事が明らかになってきます。同じ遊牧民が作った西洋や中東が武力と宗教で支配の系譜が続いたのに対して中国の場合、武力は用いますが、ここまでの中国史は集団と集団の縄張り争い、覇権闘争の中から国家が誕生してきた事が伺えます。
群雄割拠の中、武力で制覇した秦であっても、制覇した後はひたすら防衛の為の施設=万里の長城を築き、北の遊牧民に備えました。
中国とはいろんな見方ができると思いますが、今回の記事では、一旦遊牧民から見た中国という視点で古代から中世、そして近世まで俯瞰してみたいと思います。
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posted by tano : 01:36 | コメント (5) | トラックバック (0) Tweet
2012年01月19日
第3部 「庶民が作り出したお上意識」~お上意識の醸成過程
シリーズ「日本人はいつものを考えはじめるのか?」もいよいよ第3部に入ります。
これまでのシリーズ投稿を並べてみます。
第1部「弥生時代の解明シリーズ」
1倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?
2倭人は、どのように縄文人と融合していったか?
3弥生時代は階層化していたのか?
4神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立
第2部「支配者からみた属国意識」
1朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか?
2朝鮮支配者が来る前夜の状況
3支配者層はなぜ庶民に配慮したのか?
4支配者が作り出した天皇主義1
支配者が作り出した天皇主義2
支配者が作り出した天皇主義3
5武士とは日本の支配史にとって何か
この1部、2部で日本の縄文社会から弥生時代、さらにその後の大和朝廷以降の朝鮮系支配者による日本の支配者の側からの歴史史観を扱ってきました。
第2部では属国意識で凝り固まった朝鮮系支配者が日本に渡来して以降、すでに各地に根を広げていた弥生人集団をそのまま温存する形でその上に乗っかって支配した状況を扱いました。さらに日本に来た横暴な朝鮮系支配者が大衆に配慮するという政治手法を取る事になります。支配者も日本に渡来し、縄文体質に触れ、変化して行ったのです。

リンクよりお借りしました。
さて、今回の第3部ではこの支配者の意識を受けて、庶民はどのように上を見ていたのか?従ってきたのか、それを追求していきたいと思います。
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posted by tano : 01:14 | コメント (2) | トラックバック (0) Tweet
2012年01月16日
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」 8~諸子百家とはなんだったのか

諸子百家とは、いまから約2600年前からの300年間、中国の春秋戦国時代に現れた多くの思想家(遊説家)たちのことを指します。
なぜ、中国でこの時代、多くの思想家が登場したのか。それはその後の中国にどのように影響したのか。それを明らかにします。まずは、諸子百家の思想がどのようなものだったのか、概要を押さえます。
そもそも諸子の思想の内容は?
時代は春秋戦国、群雄割拠。富国強兵のためには、いかにして人民の生産力を高め、納税・労役・兵役をさせるかが必要になります。そのために、人民をどう治めるかという発想に基づく政治学説が発達しました。
どれほど多くの思想が登場したのか。今から約1900年前、後漢時代の『漢書』芸文志(げいもんし)の「諸子略」には189家、4324篇の書が記されています。中でも代表的なものは儒家、法家、墨家、道家、名家、陰陽家、縦横家、農家、兵家です。
①儒家(孔子2500年前・孟子2300年前・荀子2250年前)
孔子は西周時代初期の政治思想である「礼」の復活をめざした。天命思想を起原とし、従来の貴族政治の形式を尊重しながらも、法制の整備に反対した。家族や親族の間の道徳秩序(孝・悌)を基礎として仁の世界を実現することをめざし、徳をもって民衆をみちびく徳治主義を主張した。孟子は、人の本性は善(性善説)であり、徳をもって天下を治める王道政治を強調した。後の荀子になると、人の本性は欲望に弱いもの(性悪説)であり、その是正に礼が必要であると説いた。礼は国家の諸制度までをも含み、法治主義への道をひらいた。
②法家(商鞅2350年前・韓非2250年前)
商鞅は、儒家の徳治を法治に置きかえて、信賞必罰を政治の基本的手段とすることを主張した(法治主義)。法の有効な行使によって業績をあげる必要と、空理空論を克服し実効をあげる理論を強調した。秦に仕え、什伍制(隣保同責)、分異の法(分家移住)を実施した。のちの韓非は、儒家の荀子に学び、商鞅の法思想を継承した。
③墨家(墨子2400年前)
孔子の仁、家族道徳や礼の形式は、差別愛として非難し、人間相互の広い愛と助け合い(兼愛)を説いた。相互扶助(交利)・国家間の非戦(非攻)を説き、その思想の基盤の上に勤倹節用・薄葬などの具体的政策を展開した。儒家と激しく論争し、強力な教団を形成した。
④道家(老子2450年前、荘子2300年前)
老子は儒家の徳を低次元のものとして否定し、無為自然・小国寡民(自給自足の農村)こそ真の道であると説き、自然と人間の調和や「無為にして化す」平和非戦の政治道徳を強調した。後世、神仙説、陰陽五行説と結合し、道教を生んだ。荘子は老子の「道」に基づき、個人的解脱を重視し、自我を去って万物の絶対性に従うことを説いた。
⑤名家(恵施2380年前、公孫竜2300年前)
論理学、名(概念)と実(実体)の関係を研究。非戦から認知主義を主張するが詭弁に陥った。公孫竜の名言(迷言)に「白馬は馬にあらず」がある。
⑥陰陽家(鄒衍すうえん2250年前)
万物は陰と陽に分類されるという陰陽思想を説いた。陰陽説は、自然と社会の現象を陰陽二元の相反と相互依存によると説いた。その影響を受けて宇宙生成を、木・火・土・金・水の5要素の消長によって説いたのが五行説。
⑦その他
「戦わずして勝つ」ことを最上の策としながらも、戦略戦術を説く兵家(孫子・呉子)、外交政策に特化し、強国秦に対して、東方6国の連合同盟(合従策)や秦と各国の同盟(連衡策)を唱えた縦横家(蘇秦、張儀)、君民並耕による一種の無政府主義を説く農家(許行)、各派の思想を参酌し、総合化しようとして雑家、故事や民間の風俗をまとめた小説家。
このような多種多様な思想家たちがなぜ登場したのでしょうか。
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posted by kumana : 23:45 | コメント (2) | トラックバック (0) Tweet
2012年01月09日
弥生時代の解明4~神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立
シリーズ前回投稿では、弥生時代の墳墓をみることで、「弥生時代は階層化していなかった」との結論が得られました。さて、今回は、集団統合の祭祀の場として重要な「神社」を扱います。
神社というと、正月にお参りするし、(また、歴史的には天皇家と関係が深そうで)多くの日本人は、日本古来のものと思いがちですが、実は起源は大陸にあります。参照るいネット
そして、今回のテーマに繋がりますが、大陸由来である神社にも2系統の神社があり、中国(江南)系の神社と朝鮮系の神社があります。


出雲大社(上)と伊勢神宮(下)
上段の大きな注連縄があるのが中国(江南)系、そして下段の注連縄の無いほうが朝鮮系の神社です。中国(江南)系の神社には大きな注連縄があり、それは、蛇が絡み合いながら性交する様子を象徴しているといわれ、より原始的な神社信仰を象徴しています。(実際、神社信仰の「原型」は、江南地方起源とされています。)
前回投稿まで、中国・江南人が日本列島に渡来、大きな争いも無く、縄文人と緩やかに融合し弥生人が形成されていく過程がレポートされました。その後、現天皇家につながる朝鮮系渡来人がやって来て支配体制を確立することになるのですが、今回のエントリーは「中国系神社」「朝鮮系神社」の分布や歴史をみることで、朝鮮系部族による支配体制への移行過程に迫ろうと思います。
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posted by fwz2 : 17:22 | コメント (11) | トラックバック (0) Tweet