2018.01.01

2018年 働き方を通じて日本人が再生される

当ブログでは過去年末年始特集としてその年のるいネットの佳作、秀作を紹介しその中から来年に繋がるようなテーマを探してきました。昨年は機は熟した“動き出せ日本人”と題して2017年の変化を期待しました。2017年はどんな年だったか、はたして日本人は動き出したのだろうか?
そして2018年はどう変化していくのか?年始に際して少し考えてみたいと思います。

2018年は混迷からの脱出ではないかと思います
世界情勢も日本経済も政治も2017年決してよい方向には向っていない。混迷の一途です。昨年は「働き方改革」という言葉が流布しました。しかしスローガンだけで実態の処は決して改革ではなく時間短縮で人々を締め付け、窮屈にするだけでした。働き方改革というのなら働く意味や活力を持って仕事をするには、を追求しなければならないはず。その足元が全く議論されず制度だけを決めていく。その政府の方法論には毎度の事ですがうんざりさせられます。

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2017.12.31

大和朝廷に先駆けて、一大国家を気づき挙げた古代出雲国

みなさんこんにちわ。

今年ももう終わろうとしています。去年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮の年でにぎわいましたが、私も出雲地方の出身でして、来年も出雲大社を参拝しようとたくらんでいるところです。

そこで、今年の最後の記事として出雲についてふれてみようと思います。

 

出雲最大の謎は、オオクニヌシの天下統一までのプロセスについて、『古事記』では詳述されているのに、ヤマト公認の歴史書である『日本書紀』は一切触れられていないことです。

 ヤマト王権の支配の正統性を主張することが『日本書紀』の目的だったから、ヤマトよりも先に日本を統一した英雄が地方にいたことを、公式の歴史として盛り込みたくなかったためと考えられています。

『日本書紀』が必死に隠蔽工作を行った一方で、記紀以上に地元の「言い分」が盛り込まれている歴史書も残っています。  712年にできた『古事記』から約20年後の733年に完成した『出雲国風土記』です。この中でオオクニヌシは「天(あめ)の下つくりましし大神オホナモチ」と、天下統一をした神との称号を与えられています。

考古学的には、3~4世紀のヤマト王権よりも前に列島を統一した勢力があった証拠はありません。弥生時代の各地の有力な勢力はせいぜい今の県か市レベルの支配域しかもっていませんでした。

しかし出雲だけは例外で、ヤマトよりもはるかに早い1~2世紀頃、富山県を東端とする日本海沿岸のかなり広範囲に、ヒトデのような形をした「四隅突出型墳丘墓という出雲文化を広げていたことが考古学からわかっています。

実際、オオクニヌシが結婚した女性の出身地を見ると、西は玄界灘の孤島・沖ノ島の宗像大社沖津宮(おきつみや)にまつられるタギツ姫(福岡県)、東は新潟県のヌナカワ姫までと、考古学上で確認される出雲の勢力圏とかなり重なっています。

ヤマト王権は、前方後円墳という共通の形をした墓を広めることで全国支配を行ったことから「前方後円墳国家」と呼ぶ研究者もいるくらいです。  その先駆者である出雲、つまりオオクニヌシが『古事記』で「はじめて国を作った神」と紹介されたのは、こうした偉業があったからといえます。

オオクニヌシはまさしく日本初の「天下人」なのでした

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2017.10.05

「教科書の嘘を検証する」第8回~倒幕から維新はなぜ起きたのか?その本質は2度目の南北朝戦争

第8回はいよいよ江戸末期の倒幕の部分です。明治時代を文明開化と呼び、それ以前の歴史を悪しき封建時代として評する教科書の構造がこのあたりから急激に見えてきます。なぜ長州藩が尊王攘夷を行ったのか、彼らが目指したのは何なのか?裏で操っていたのはどの勢力か、それに触れずしてこの時代を読み解く事ができるのでしょうか?いつものようにまず教科書の記述を紹介します。(アンダーラインはおかしな部分です)

倒幕への動き)
1863年に尊王攘夷運動の中心であった長州藩が朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を約束させました。そして同年、長州藩は率先して関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖しました。攘夷運動の高まりをおそれた幕府は朝廷の支持を取り付け、京都から攘夷を主張する公家や長州藩士を追放しました。
1864年、長州藩は京都での主導権を取り戻すため、京都を攻めましたが、御所を守る会津藩、薩摩藩などと戦って敗れました。幕府は諸藩に命じて長州に出兵して、幕府に従わせました。同じ時期、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の艦隊は、連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。欧米の軍事力を実感した長州藩の木戸孝允などは列強に対抗できる強い統一国家を造るため、幕府を倒そうと考えるようになりました。
幕府に従う姿勢を見せていた長州藩は下関で長州藩士の高杉晋作が兵を挙げ、木戸孝允とともに藩の実権を握りました。薩摩藩でも生麦事件の報復の為起こった薩英戦争でイギリス艦隊に鹿児島を砲撃されると、西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり、イギリスに接近して軍備を強化しました。
1866年土佐藩出身の坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の間を仲介し、薩長同盟を結ばせました。同年、幕府は再び長州藩を攻めましたが、出兵した藩の戦意は低く、各地で敗れた幕府は、将軍徳川家茂の死を理由に停戦しました。

大政奉還と王政復古)
このような情勢の中で第15第将軍となった徳川慶喜は1867年土佐藩のすすめで政権を朝廷に返し(大政奉還)、260年余り続いた幕府はほろびました。慶喜は幕府にかわる新政権の中で主導権を握ろうとしましたが、同年、西郷や公家の岩倉具視などが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。また徳川家の政治的な影響力を除く為、慶喜に官職や領地の返上を命じました。1868年これに不満を持つ旧幕府軍との間で鳥羽、伏見の戦いが起こり、新政府軍が勝利しました。新政府は江戸城を明け渡させ、その後も軍を進めて翌年には函館で旧政府軍を最終的に降伏させ国内を平定しました。こうした旧幕府軍と新政府軍の戦いを戊辰戦争といいます。

幕末で明らかにしたいのは以下の事です。

・尊王攘夷運動とは何か?
・なぜ長州藩が主導したのか?
・欧米の軍事力に屈した長州藩が幕府を倒そうとした理由があきらかにおかしい。
・大政奉還をした徳川を攻めた戌辰戦争の本当の目的とは。

これらを盛り込み以下のように書き換えました。(赤文字が追記、修正した部分です)

倒幕への動き)
幕末に突如として尊王攘夷運動が起こります。この運動は欧米圧力が高まる中、天皇を尊び、外国勢力を排除するとありますが、実のところ南朝天皇による北朝天皇の排除、交代です。また北朝天皇と繋がっていた徳川幕府を倒す事が南朝勢力の念願でした。南朝の中心勢力であった長州藩は尊王攘夷運動を起こして幕府に反旗を翻します。
1863年にその中心であった長州藩が朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を約束させました。そして同年、長州藩は率先して関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖しました。攘夷運動の高まりをおそれた幕府は朝廷の支持を取り付け、京都から攘夷を主張する公家や長州藩士を追放しました。
1864年、長州藩は京都での主導権を取り戻すため、京都を攻めましたが、御所を守る会津藩、薩摩藩などと戦って敗れました。幕府は諸藩に命じて長州に出兵して、幕府に従わせました。同じ時期、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の艦隊は、連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。この時に長州藩は欧州連合に取り込まれ、武器や資金の提供を受け、後の倒幕の手先勢力になっていきます。元々南朝復活を目指していた長州藩は倒幕という目的で欧州連合を支援していたロックフェラー財閥と利害が一致したのです。

幕府に従う姿勢を見せていた長州藩は下関で長州藩士の高杉晋作が兵を挙げ、木戸孝允とともに藩の実権を握りました。南朝末裔のもうひとつの勢力である薩摩藩でも生麦事件の報復の為起こった薩英戦争でイギリス艦隊に鹿児島を砲撃されると、西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり、イギリスに接近して軍備を強化しました。
1866年土佐藩出身の坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の間を仲介し、薩長同盟を結ばせました。坂本竜馬も同時に欧米の支援を受けて倒幕へと動いていた一人です。同年、幕府は再び長州藩を攻めましたが、出兵した藩の戦意は低く、各地で敗れた幕府は、将軍徳川家茂の死を理由に停戦しました。

大政奉還と王政復古)
このような情勢の中で第15第将軍となった徳川慶喜は1867年、盟友であった土佐藩のすすめで苦渋の末、政権を朝廷に返し(大政奉還)、260年余り続いた幕府はほろびました。慶喜は幕府にかわる新政権の中で親幕派で主導権を握ろうとしましたが、同年、西郷や公家の岩倉具視などが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、(南朝)天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。また徳川家の政治的な影響力を除く為、慶喜に官職や領地の返上を命じました。新政府軍はそれだけに留まらず、旧幕府の息のかかる諸藩に戦いを仕掛け、兵力と鉄砲を中心とした軍事力の差で次々と勝利します。
新政府は江戸城を明け渡させ、その後も軍を進めて翌年には函館で旧政府軍の中心勢力(北朝勢力)を皆殺し、完全に消滅させました。こうした旧幕府軍を武力で征圧した新政府軍の戦いを戊辰戦争といい、明治政府はこの凄惨な戦争の上に誕生します。300年前に終わっているはずの天皇同志の醜い勢力争いが復活、幕末とは2度目の南北朝戦争だったのです。

参考投稿:徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?
明治維新、西郷隆盛及び征韓論について ~金貸しと明治政府(長州)が作った歴史~
維新という幻想② 「薩長同盟」とは英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介したというのが正しい

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2017.09.21

「教科書の嘘を検証する」第7回~江戸時代は庶民と地方の時代

日本の歴史において最も平和で安定し、庶民の文化が発展したのはこの時代。
江戸時代の日本の文明レベルはその教育レベルにおいても諸外国と比べても遜色なく、むしろ、欧米を凌ぐレベルであった事が近年知られています。
しかしながら、明治以降を文明時代とする教科書のスタンスは江戸は徳川が支配する悪しき身分序列の時代と教えています。教科書が明治以降を美化し、江戸を蔑むその構造を見ていきたいと思います。いつものように先に教科書の記述を記載します。

江戸幕府の成立
 豊臣秀吉の死後、関東を領地とする徳川家康が勢力をのばしました。1600年、秀吉の子豊臣秀頼の政権を守ろうとした石田三成は、毛利輝元などの大名に呼びかけ、家康に対して兵を挙げました。家康も三成に反発する大名を味方につけ、全国の大名はそれぞれ三成と家康に分かれて戦いました(関が原の戦い)。これに勝利した家康は、全国支配の実権をにぎりました。1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を開きました。江戸幕府は、260年余りも続く戦乱のない平和な時代を作り上げました。この時代を江戸時代といいます。家康は1614年、1615年の2度に渡る大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、幕府の権力を固めました。

 大名や朝廷の統制
 幕府は武家諸法度という法律を定め、大名が許可なく城を修理したり大名どうしが無断で縁組をしたりする事を禁止しました。大名の参勤(江戸に来ること)は主従関係の確認という意味があり、第3代将軍徳川家光は、参勤交代を制度として定めました。これ以降、大名は1年おきに領土と江戸とを往復することになり、その費用や江戸での生活のため、多くの出費を強いられました。また、幕府は京都所司代をおいて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度という法律で天皇や公家の行動を制限し、政治上の力を持たせませんでした。

 教育の広がり
 京都や大阪などでは、学者が私塾を開き、武士だけでなく町人や百姓の入門も許しました。大阪の医者緒方洪庵の適塾には、全国から弟子が集まりました。長崎では、オランダ商館の医者シーボルトが医学塾を開き、手術などを行って見せました。諸藩では藩校を設け、武士に学問や武道を教え、人材の育成を図りました。庶民の間にも教育への関心が高まり、町や農村に寺子屋が開かれ、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技術を教えました。

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2017.09.07

「教科書の嘘を検証する」第6回~教科書では武士が登場した理由が書かれていない!

第6回は武士の登場の部分です。武士が地方発なのか都発なのか?教科書は都発という立場をとっています。武士の起源やその後の武士の発展を見ると、都発とは言えない部分が多いと思われます。それはなぜ武士が誕生したのかという要因を見て行く事で見えてきます
教科書の記述を先に書き、おかしな部分にアンダーラインを入れて後で書き換えを試みます。

武士の登場)
10世紀になると都や地方では武士は成長し始めました。武士はもともとは弓矢や馬などの戦いの技術に優れた都の武官や地方の豪族たちで、朝廷や国府の役人になって、天皇の住まいや役所の警備、犯罪の取締りなどを担当するようになりました。
都では貴族に仕えて屋敷を警備する武士もいました。都の武士が地方の役職に就いてそのまま住みついたり、地方の武士が都に上って朝廷に仕えたりすることもありました。このように武士は都と地方を行き来しながら、朝廷や国府では貴族との繋がりを通じて、社会の中での地位を高めていきました。
やがて地方の武士たちは貴族を主人にむかえ、多くの家来を従えて武士団を作るほどに成長していきました。10世紀の中頃、北関東では平将門が、瀬戸内海では藤原純友が朝廷の政治に不満を感じてそれぞれの周辺で武士団を率いて大きな反乱を起こしたのは武士の成長の現れです。一方朝廷も武士団の力によってこの反乱をおさえることができたため、武士の力が認められるようになりました。

武士団と荘園)
成長した武士団の中でも天皇の子孫である源氏と平氏が有力でした。11世紀後半には東北の武士同士の争いをきっかけにした大きな戦乱(前九年、後三年合戦)が起こりました。この争いをしずめた源氏の源義家が東日本に勢力をひろげ、東北地方では平泉を拠点にした奥州藤原氏が力を持ちました。12世紀前半には瀬戸内海の海賊をしずめた平家が西日本に勢力を伸ばしました。
地方の武士は地位や武力を利用して土地の開発を進め、領地を都の皇族や貴族、寺社に寄進しました。こうした荘園では武士が年貢を農民から集めて納める代わりにその土地を支配する権利を保護してもらい、力をのばしました。一方荘園以外の国司が支配する土地(公領)でも武士が犯罪の取り締まりや年貢の取立てを任されるようになりました。こうして11世紀の後半には武士は荘園や公領に館を築いて地方の中心になっていきました。

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2017.08.31

「教科書の嘘を検証する」第5回~平安時代は百済派支配の単独政権

第5回は平安時代を扱います。

平安時代も大和朝廷の始まりと同じくらい重要な時代。教科書では平安時代とは国家の安定、蝦夷討伐による国家統合の基盤つくりといったプラス価値で捉えられていますが、この平安時代こそ最も暗黒時代であったという認識が必要です。それは百済支配が最も深く、公家や貴族が私腹を肥やし、国家を混乱させ、腐らせた時代だったからです。平安という時代の名前とは真逆の混乱した時代でした。武士はその混乱を背景に登場する事になるのです。

教科書の記述を先に書き、おかしな部分にアンダーラインを入れて後で書き換えを試みます。


(平安京)

奈良時代の後半には、貴族や僧の間で勢力争いが激しくなり、政治が混乱しました。そこで桓武天皇は、新しい都で政治を立て直そうとして、784年に都を長岡京に移し、次いで794年には現在の京都市に移しました。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を平安時代といいます。

8世紀の末には唐の勢力が弱まり、東アジアの国々の間での緊張関係がゆるんだため、朝廷は東北地方や九州地方以外では一般の人々の兵役をやめました。また、役所を整理したり、国司に対する監督を強めたりして、支配の仕組みを立て直そうとしました。しかし、不自然に女性の数が増えるなど、戸籍にいつわりが多くなったこともあり、複雑な手続きが必要な班田収受法は行われなくなっていきました。

8世紀末から9世紀にかけて、朝廷は支配に従おうとしない東北地方の蝦夷に対してたびたび大軍を送り、特に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の働きもあって、その勢力を広げました。しかし、その後も蝦夷は律令国家の支配に強く抵抗し続けました。

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2017.08.24

「教科書の嘘を検証する」第4回~百済からの支配者が押し進めた律令国家への歩み

第4回は日本の国家が形成される時代、奈良時代の直前を書かれた部分です。ここは天皇制の始まりを表現する重要な箇所で、また謎の戦争 白江村の戦いを書いた部分です。その後の日本の骨格となった天皇制、律令制をこの時代に表現する場面。
教科書はどのように表現したのか興味深いですが、やはりここも非常に曖昧に書かれています。何よりこの時代を取り仕切った藤原不比等については全く名前が登場していません。
教科書の記述を先に書き、おかしな部分にアンダーラインを入れて後で書き換えを試みます。

>「律令国家への歩み」
朝鮮半島では、唐が新羅と組んで、百済をほろぼしました。663年、日本は百済の復興を助けるために大軍を送りましたが、唐と新羅の連合軍に敗れました(白江村の戦い)。唐と新羅は高句麗もほろぼしましたが、やがて新羅は唐の勢力を追い出し、朝鮮半島を統一しました。
中大兄皇子は、西日本の各地に山城を築いて、唐や新羅からの攻撃に備えました。大津宮(滋賀県)に都を移した皇子は、ここで即位して天智天皇となり、初めて全国の戸籍を作るなど、改革を進めました。

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2017.08.18

「教科書の嘘を検証する」第3回~大和朝廷とは渡来民の国家

第3回は時代が前後しますが、大和朝廷の誕生から渡来人の流れを書かれた部分です。ここは日本史においても最も重要な所で、ここが正確に伝わらないと後の歴史が正しく読めないという弊害を生じます。現在の教科書はなぜかこの部分をぼかしかつ間違って書かれています。

今回も先に、教科書「東京出版の中学歴史」の記述を見てみましょう。 おかしな点にはアンダーラインを付けています。

 「大和政権の発展」
3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に、王を中心に、近畿地方の有力な豪族で構成する勢力(大和政権)が生まれました。王や豪族の墓として大きな古墳が造られ、大和政権の勢力が広がるにつれて、全国の豪族も前方後円墳などの古墳を作るようになりました。古墳が盛んに造られた6世紀頃までを古墳時代と呼びます。
5世紀には王は大王と呼ばれるようになり、有力な豪族たちが、親から子へとそれぞれの役割を引き継ぎながら大王に奉仕する仕組みが出来上がりました。

 「古墳文化」
~内容がないので割愛~

 「中国・朝鮮半島との交流」
中国では4世紀ごろまでは国内が分裂し、5世紀から6世紀には、南北に分かれて、国々の対立が続きました(南北朝時代)。朝鮮半島では、高句麗と4世紀頃におこった百済、新羅の三国が勢力を争いました。大和政権は百済や伽耶地域(任那)の国々と結んで、高句麗や新羅と戦ったことが、好太王(広開土王)碑に記されています。
稲荷山古墳の出土の鉄剣や江田船山古墳出土の鉄刀と、前方後円墳の分布から、5世紀には大和政権の王は九州地方から東北地方に到る各国の豪族を従え、大王と呼ばれていたことが分かります。また、南朝の宋の歴史書である「宋書」には、同じ頃、倭の王としての地位と、朝鮮半島南部の軍事的な指揮権とを中国の皇帝に認めてもらおうとして、たびたび使いを送ったことが記されています(倭の五王)。

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2017.08.14

「教科書の嘘を検証する」第2回~架空の存在聖徳太子が実在した。

2回目は聖徳太子についてです。

まずは、教科書「東京出版の中学歴史」の記述を見てみましょう。 おかしな点にはアンダーラインを付けています。

「聖徳太子の政治」

朝鮮半島では、6世紀に百済や新羅が勢力を強め、大和政権と密接な交流があった伽耶地域の国々を併合しました。  このころ日本では、地方の豪族が反乱を起こし、また大和政権の中でも、蘇我氏や物部氏などの豪族が、それぞれの支持する皇子を大王にしようとして争いが続きました。この争いを和らげるために女性の推古天皇が即位すると、おいの聖徳太子(厩戸皇子)が摂政になり、蘇我馬子と協力しながら、中国や朝鮮に学んで、大王(天皇)を中心とする政治制度を整えようとしました。なかでも、かんむりの色などで地位を区別する冠位十二階の制度は、家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を、役人に取り立てようとしたものです。また、仏教や儒学の考え方を取り入れた十七条の憲法では、天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました。  中国では、6世紀末に、隋が南北朝を統一して強大な帝国を作り上げました。そこで日本は、東アジアでの立場を有利にし、隋の進んだ制度や文化を取り入れようと、607年に小野妹子などを送り、この後数回に渡って隋に使者を送りました。こうした遣隋使には、多くの留学生や僧が同行しました。

「飛鳥文化」

6世紀の半ばに、百済から朝廷に仏像や経典が送られ、仏教が伝わりました。それまで自然の神々を信じ、素朴な死後の世界を考えていた人々は、病気の回復や、祖先の死後の世界での幸福を祈る手段として、仏教を信じるようになりました。豪族たちの中には、それまでの古墳にかわって寺を作ることで権威を示そうとする者も現れました。  蘇我氏は、聖徳太子とともに仏教を広めようとしたので、大王がいた飛鳥地方(奈良盆地南部)を中心に、日本で最初の仏教文化が栄えました。これを飛鳥文化といい、法隆寺の釈迦三尊像などの仏像がその代表です。また、法隆寺の建物も、火災にあって再建されてはいますが、聖徳太子が建てた当時の姿を残しているといわれています。これらは、主に渡来人の子孫によって造られましたが、南北朝時代の中国や、さらに遠くインドや西アジアなどの文化の影響も受けています。

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2017.08.12

「教科書の嘘を検証する」第1回~あまりに少ない縄文記述

今回より教科書嘘シリーズを始めます。最初は縄文時代。
参考とする教科書は「東京出版の中学歴史」です。

書き方としては、まずは教科書の記述を記載し、嘘、おかしな点にアンダーラインを引き、当方で書き直した記述を後に添付します。

 「縄文文化」
日本列島の人々は1万2千年ほど前から土器を作り始めました。これはどんぐりなど木の実を煮て食べるために考え出されたもので世界的に見ても古い時代とされています。厚手で低温で焼かれたため、黒褐色をしたこの土器は、表面に縄目のような文様がつけられていることが多いので、縄文土器と呼ばれています。このため、このころの文化を縄文文化、この時代を縄文土器と呼びます。

 縄文時代には植物の栽培が始まりましたが、海面が上昇し、海岸には多くの入り江ができたため、魚や貝が豊富にとれ、くり、どんぐりなどの木の実や、鳥、しか、いのししなど動物も豊かだったので、農耕や牧畜はあまり発達しませんでした。海岸や水辺には、食べ物の残りかすなどを捨てた貝塚ができました。

 人々は集団を作って食料が得やすい場所にとどまり、地面をほったくぼみに柱を立てて屋根をかけた、たて穴住居に分かれて住みました。大人になったことを示す儀式として抜歯が行われ、霊の災いを防ぐためと思われる屈葬が行われていました豊かな生産をいのるためのものと考えられる土偶も作られました。

 このような縄文時代の人々と、その後に大陸から移ってきた人々が混じりあって、長い年月の間に共通の言葉や文化を持つ人々が日本列島に広がっていきました。(532文字)~東京出版より

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