2018.08.14

明治中期の日本庶民~小泉八雲 「日本の面影」より~

小泉八雲は有名な「耳なし芳一」や「怪談」などの再話文学以外にも、パトリック・ラフカディオ・ハーンとして、日本の美しさを西洋に向けて紹介する紀行文や随筆、評論を多数遺しました。

今回ご紹介する『新編 日本の面影』は1894年に八雲が来日して最初に上梓した紀行文『知られぬ日本の面影』を小泉八雲研究を専門とする英文学者、池田雅之がまとめ直して刊行したものとなります。

著者がはじめて訪れた日本は、彼の目にどう映っていたのでしょうか。八雲作品を読む上で忘れてはならない、必読の1冊です。

小泉八雲は明治時代に島根県の松江に赴任し、1年余を過ごしました。本書に収録された紀行文はほとんどがこの期間に書かれたものであり、そこには西洋人である彼の目を通して見た明治の日本の姿が、美しく表現されています。

日本に魅せられ、日本人としてその生涯を終えた西洋生まれの作家、小泉八雲。本書は日本を愛した彼の原点というべき作品だと思います。彼によって描かれた美しい明治日本の景色に、今度は読者が魅了されてしまうに違いありません。

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2018.08.12

縄文を骨相学から語る(後半)~縄文人は存在するが、それに対応する弥生人はいない。

後半は弥生人について書かれた部分です。

弥生人と縄文人、対立する存在、対極の存在と見られがちです。教科書的には渡来系は全て弥生人、土着民が縄文人と考えられ、あたかも日本人の中に弥生系と縄文系の2種類の人種が混在しているように勘違いされがち。
事実は弥生時代の人骨データーが非常に少なく、また、少ない弥生人骨はいずれも渡来したばかりの大陸人の骨で、縄文人と混血して弥生人になる前のものであった可能性が高いというもの。弥生人とは渡来人が縄文人と混血を重ね何世代もかかって出来上がった人種で言わば日本人の総体で、弥生時代に弥生人が来て日本に広がったわけではないのだ。今回もるいネット投稿から紹介します。
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野口氏の著書「骨が語る日本人の歴史」には弥生人の事も克明に書いてある。縄文人が地域差や時代差が極めて少ないのに対して弥生人は地域差も時代さも激しい人種のミックスした総体を為すという。所謂、縄文人は存在するがそれに対応する弥生人はいないのである。
引き続き本編から紹介したい。

>前章で縄文時代の人々を語るときにたんに縄文人としたが、弥生時代の人々については、いわゆる弥生時代人との意味合いで「弥生人」としたい。もちろんわけがある。

縄文人は1万年の長きにわたったにもかかわらず、だいたいのところ、縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまりに大きな時期差は認められない。しかるに弥生時代は700年程と短いが、その遺跡で出る人骨はけっこう多様であり、地域差などの身体現象の問題を詳細に論じるのが困難になる。実際に「弥生人」はさまざま。同時代人なのに、さながら「盛り合わせ」のような人々だった。
まるで「縄文人」そのものような「弥生人」や、「縄文人」に似た「弥生人」。その一方で朝鮮半島を越えてきた人々かその係累につながるような渡来系「弥生人」もいた。また、縄文系「弥生人」と渡来系「弥生人」とがミックスしたような混血「弥生人」、次の古墳時代の墳墓から抜け出てきたような「弥生人=新弥生人」もいた。

弥生人は地域性がとても強くて、同じ地域でも前期、中期、後期で時期差が無視できない。もしも北部九州や土井が浜遺跡の人骨ではなく、たとえば西北九州や神戸新方遺跡の弥生時代人骨をなどを復顔材料に使えば「弥生人と縄文人の顔立ちは非常に違う」と信じる方々の期待は裏切られてしまうだろう。一重マブタで平耳、薄い唇に淡い皮膚色、直毛で粉耳といった「弥生人の顔」神話が生まれたのは理由がある。

実はある一部の地域を除くと弥生時代の遺跡で発見される人骨の数は驚くほど少ない。日本のどの地域でも1990年代の頃までは、ほとんど「弥生人」骨は見つかっていない。人口が希薄で遺跡が少なかったからではない。日本列島の特殊な土壌事情がゆえに、そして弥生時代の遺跡の立地条件が故に、骨類が土に帰してしまい、人骨が残らないのだ。

ともかく縄文時代の貝塚遺跡と比べて、骨の残存状態が著しく悪い。それが弥生時代の遺跡の特徴である。唯一の例外が北部九州地域と土井ケ浜遺跡などがある地域である。これらの土地、対馬海峡と朝鮮海峡にまたがる海峡地帯のあたりだけは、弥生時代人骨が例外的に多く残存する。それに保存状態にもすぐれている。1950年代の早い時期から研究者によって集中的に発掘、研究活動が進んだ為に、尋常ならざる数の弥生時代人骨が発見され蓄積されている。
b_171212弥生時代の人骨出土 (1)
2017年発見された弥生時代人の人骨(佐世保)

実際、この地域で見つかる人骨は、たしかに縄文人骨との身体的特徴の違いは目立ち、弥生時代人骨の「代表選手」「典型」のように取り扱われ、この地域で見つかる人骨こそが「弥生人」骨となり、縄文人と弥生人は大きく異なるという論法に繋がっていった。
しかし、この地域は日本列島のごく一部でしかない。そして歴史的に大陸の玄関になってきたところでもある。そういう地理的、歴史的条件を考慮するなら、この地域の人骨を日本列島全体の弥生人の骨の無作為標本と見なす事は躊躇せざるをえない。
これら、北部九州地域の骨はこれまでに発掘された弥生時代人骨の全体の80%を占有するのだ

おそらく倭人は、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥生人」を基盤とした。そこに北部九州から日本海沿岸部に住み着いた渡来系「弥生人」が重なった。続いてその当たりを中心に両者が混血して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。そうだとすれば、倭人あるいは「日本人」の内訳は一方で縄文人の流れを強く受け継ぐ人々がいた。その対極に渡来人の系譜に繋がる人々がいた。やがてそれらが混血した。つまり、縄文系か弥生系かの二分論で日本人論を展開するのはいささか乱暴なのである

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2018.08.09

縄文を骨相学から語る(前半)~縄文人は日本列島で生まれ育った

前回の記事に重ねます。
2015年10月にるいネットに掲載された記事がちょうどこの著書について書かれています。少し長いですが、この著書を読むよりはるかに短いので興味のある方はじっくり読んでみてください。
引用:リンク1リンク2

2105年5月に刊行された片山一道氏の「骨が語る日本人の歴史」という書籍を最近購入したが、この著書は歴史学といった先入観を排除して発掘された人骨という事実情報だけを元に縄文ー弥生ー日本の歴史を紐解いている。従来の教科書的歴史が扇動的で事実は別の処にあるという論点を多分に提起しており、非常にユニークで説得力のある著書だと評価できる。
いくつかこの本に書かれている「事実」情報をるいネットにも紹介していきたい。小見出しが非常に魅力的なのでそこと併せて紹介したい。
非常に文学的な表現の中に氏が提起したい事実情報が散りばめられているので注意して読んでほしい。

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2018.08.03

「骨が語る日本人の歴史」~歴史学に根付く誤診を検証

面白い本を発掘したので紹介します。 「骨が語る日本人の歴史」片山一道 ちくま新書

発掘された古人骨を調べ、当時の人の様子を明らかにする「骨考古学」。その進展によって、日本列島の歴史は大きく書き換えられねばならないことがわかってきた。実は縄文人は南方からやってきたのではない。大陸から渡来した弥生人が縄文人を駆逐したというのも本当ではない。そもそも「弥生人顔」など存在しない―旧来の歴史学に根強く残る誤謬を科学的視点から検証。人々の生身の姿を復原し歴史をひもとく「身体史観」を提唱する。骨考古学の第一人者が、日本人の実像に迫る。

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2018.08.02

日本人のルーツ最新研究2~DNA研究で明らかになった「日本人の二重構造モデル」

日本人のルーツ最新研究~アジア集団の中で最初に分岐した特異集団だった”の続きです。
前半は日本人のルーツがアジア全体で見ても世界的に見ても人類の原初に位置づけられる特異なものである事が書かれていました。

後半はさらに我々日本人にとって重要な事実がDNA研究で明らかになっています。1980年代、今から30年以上前に世に出された埴原和郎氏の「日本人の二重構造モデル」の学説はDNA分析によってゆるぎない事実となりました。
また今回の学説では縄文人は3万8千年前に渡来した旧石器時代の人類の進化系である可能性が十分にあるとしています。縄文人は1万2千年前に日本に渡来したアジア人集団ではなくさらに2万年以上遡る事になるのです。
そしてその縄文人のDNAはアイヌでは50%、沖縄でも20%、本州の現日本人においても12%も残っている事が同じくDNA研究で明らかになってきています。また、出雲と東北地方のDNAの類似性で今回明らかになった「”新”二重構造モデル」では辺境の日本人に多くの縄文的素因が残っている事を示しており、今後日本人を語る上で2重モデルの周辺地域(東北、北陸、島地域)にルーツを持つ人材に”現状を切り開く”大きな可能性が秘められている事もあるのではないかと思っています。(例えばテニスの錦織(松江市)や野球の大谷翔平(岩手県)など)

リンクより抜粋させていただきました。

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2018.07.26

日本人のルーツ最新研究~アジア集団の中で最初に分岐した特異集団だった

こんばんわ。久しぶりに更新します。半年間仮眠しておりました。再開最初の記事は縄文人の最新情報からです。
2017年12月に読売新聞で掲載された斉藤教授の記事は日本人のルーツを探る上で大きな発見、発信になっています。私たち日本人はアジア人ですが、アジアの最も東の日本人は当然西側のアジア人が進化、変化適応しながら最後に流れ着いたと思われてきたのですが、今回の研究結果で縄文人を作った基礎となるDNAは出アフリカした人類の内、最初に分岐した最も古いアジア人の一派であった事がわかったのです。日本語がなぜ他のアジアの国々と言語体系(膠着語)が異なるのか、その根拠にもなってきます。我々日本人の中には12%の日本で独自に進化した古代人(縄文人)のDNAが今でも作動しているのです。
リンクより転載させていただきました。

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!

日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 ( なるや ) 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

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2018.01.01

2018年 働き方を通じて日本人が再生される

当ブログでは過去年末年始特集としてその年のるいネットの佳作、秀作を紹介しその中から来年に繋がるようなテーマを探してきました。昨年は機は熟した“動き出せ日本人”と題して2017年の変化を期待しました。2017年はどんな年だったか、はたして日本人は動き出したのだろうか?
そして2018年はどう変化していくのか?年始に際して少し考えてみたいと思います。

2018年は混迷からの脱出ではないかと思います
世界情勢も日本経済も政治も2017年決してよい方向には向っていない。混迷の一途です。昨年は「働き方改革」という言葉が流布しました。しかしスローガンだけで実態の処は決して改革ではなく時間短縮で人々を締め付け、窮屈にするだけでした。働き方改革というのなら働く意味や活力を持って仕事をするには、を追求しなければならないはず。その足元が全く議論されず制度だけを決めていく。その政府の方法論には毎度の事ですがうんざりさせられます。

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2017.12.31

大和朝廷に先駆けて、一大国家を気づき挙げた古代出雲国

みなさんこんにちわ。

今年ももう終わろうとしています。去年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮の年でにぎわいましたが、私も出雲地方の出身でして、来年も出雲大社を参拝しようとたくらんでいるところです。

そこで、今年の最後の記事として出雲についてふれてみようと思います。

 

出雲最大の謎は、オオクニヌシの天下統一までのプロセスについて、『古事記』では詳述されているのに、ヤマト公認の歴史書である『日本書紀』は一切触れられていないことです。

 ヤマト王権の支配の正統性を主張することが『日本書紀』の目的だったから、ヤマトよりも先に日本を統一した英雄が地方にいたことを、公式の歴史として盛り込みたくなかったためと考えられています。

『日本書紀』が必死に隠蔽工作を行った一方で、記紀以上に地元の「言い分」が盛り込まれている歴史書も残っています。  712年にできた『古事記』から約20年後の733年に完成した『出雲国風土記』です。この中でオオクニヌシは「天(あめ)の下つくりましし大神オホナモチ」と、天下統一をした神との称号を与えられています。

考古学的には、3~4世紀のヤマト王権よりも前に列島を統一した勢力があった証拠はありません。弥生時代の各地の有力な勢力はせいぜい今の県か市レベルの支配域しかもっていませんでした。

しかし出雲だけは例外で、ヤマトよりもはるかに早い1~2世紀頃、富山県を東端とする日本海沿岸のかなり広範囲に、ヒトデのような形をした「四隅突出型墳丘墓という出雲文化を広げていたことが考古学からわかっています。

実際、オオクニヌシが結婚した女性の出身地を見ると、西は玄界灘の孤島・沖ノ島の宗像大社沖津宮(おきつみや)にまつられるタギツ姫(福岡県)、東は新潟県のヌナカワ姫までと、考古学上で確認される出雲の勢力圏とかなり重なっています。

ヤマト王権は、前方後円墳という共通の形をした墓を広めることで全国支配を行ったことから「前方後円墳国家」と呼ぶ研究者もいるくらいです。  その先駆者である出雲、つまりオオクニヌシが『古事記』で「はじめて国を作った神」と紹介されたのは、こうした偉業があったからといえます。

オオクニヌシはまさしく日本初の「天下人」なのでした

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2017.10.05

「教科書の嘘を検証する」第8回~倒幕から維新はなぜ起きたのか?その本質は2度目の南北朝戦争

第8回はいよいよ江戸末期の倒幕の部分です。明治時代を文明開化と呼び、それ以前の歴史を悪しき封建時代として評する教科書の構造がこのあたりから急激に見えてきます。なぜ長州藩が尊王攘夷を行ったのか、彼らが目指したのは何なのか?裏で操っていたのはどの勢力か、それに触れずしてこの時代を読み解く事ができるのでしょうか?いつものようにまず教科書の記述を紹介します。(アンダーラインはおかしな部分です)

倒幕への動き)
1863年に尊王攘夷運動の中心であった長州藩が朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を約束させました。そして同年、長州藩は率先して関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖しました。攘夷運動の高まりをおそれた幕府は朝廷の支持を取り付け、京都から攘夷を主張する公家や長州藩士を追放しました。
1864年、長州藩は京都での主導権を取り戻すため、京都を攻めましたが、御所を守る会津藩、薩摩藩などと戦って敗れました。幕府は諸藩に命じて長州に出兵して、幕府に従わせました。同じ時期、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の艦隊は、連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。欧米の軍事力を実感した長州藩の木戸孝允などは列強に対抗できる強い統一国家を造るため、幕府を倒そうと考えるようになりました。
幕府に従う姿勢を見せていた長州藩は下関で長州藩士の高杉晋作が兵を挙げ、木戸孝允とともに藩の実権を握りました。薩摩藩でも生麦事件の報復の為起こった薩英戦争でイギリス艦隊に鹿児島を砲撃されると、西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり、イギリスに接近して軍備を強化しました。
1866年土佐藩出身の坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の間を仲介し、薩長同盟を結ばせました。同年、幕府は再び長州藩を攻めましたが、出兵した藩の戦意は低く、各地で敗れた幕府は、将軍徳川家茂の死を理由に停戦しました。

大政奉還と王政復古)
このような情勢の中で第15第将軍となった徳川慶喜は1867年土佐藩のすすめで政権を朝廷に返し(大政奉還)、260年余り続いた幕府はほろびました。慶喜は幕府にかわる新政権の中で主導権を握ろうとしましたが、同年、西郷や公家の岩倉具視などが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。また徳川家の政治的な影響力を除く為、慶喜に官職や領地の返上を命じました。1868年これに不満を持つ旧幕府軍との間で鳥羽、伏見の戦いが起こり、新政府軍が勝利しました。新政府は江戸城を明け渡させ、その後も軍を進めて翌年には函館で旧政府軍を最終的に降伏させ国内を平定しました。こうした旧幕府軍と新政府軍の戦いを戊辰戦争といいます。

幕末で明らかにしたいのは以下の事です。

・尊王攘夷運動とは何か?
・なぜ長州藩が主導したのか?
・欧米の軍事力に屈した長州藩が幕府を倒そうとした理由があきらかにおかしい。
・大政奉還をした徳川を攻めた戌辰戦争の本当の目的とは。

これらを盛り込み以下のように書き換えました。(赤文字が追記、修正した部分です)

倒幕への動き)
幕末に突如として尊王攘夷運動が起こります。この運動は欧米圧力が高まる中、天皇を尊び、外国勢力を排除するとありますが、実のところ南朝天皇による北朝天皇の排除、交代です。また北朝天皇と繋がっていた徳川幕府を倒す事が南朝勢力の念願でした。南朝の中心勢力であった長州藩は尊王攘夷運動を起こして幕府に反旗を翻します。
1863年にその中心であった長州藩が朝廷を動かして、幕府に攘夷の実行を約束させました。そして同年、長州藩は率先して関門海峡を通る外国船を砲撃し、海峡を封鎖しました。攘夷運動の高まりをおそれた幕府は朝廷の支持を取り付け、京都から攘夷を主張する公家や長州藩士を追放しました。
1864年、長州藩は京都での主導権を取り戻すため、京都を攻めましたが、御所を守る会津藩、薩摩藩などと戦って敗れました。幕府は諸藩に命じて長州に出兵して、幕府に従わせました。同じ時期、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国の艦隊は、連合して長州藩に報復の攻撃を行い、下関砲台を占領しました。この時に長州藩は欧州連合に取り込まれ、武器や資金の提供を受け、後の倒幕の手先勢力になっていきます。元々南朝復活を目指していた長州藩は倒幕という目的で欧州連合を支援していたロックフェラー財閥と利害が一致したのです。

幕府に従う姿勢を見せていた長州藩は下関で長州藩士の高杉晋作が兵を挙げ、木戸孝允とともに藩の実権を握りました。南朝末裔のもうひとつの勢力である薩摩藩でも生麦事件の報復の為起こった薩英戦争でイギリス艦隊に鹿児島を砲撃されると、西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり、イギリスに接近して軍備を強化しました。
1866年土佐藩出身の坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の間を仲介し、薩長同盟を結ばせました。坂本竜馬も同時に欧米の支援を受けて倒幕へと動いていた一人です。同年、幕府は再び長州藩を攻めましたが、出兵した藩の戦意は低く、各地で敗れた幕府は、将軍徳川家茂の死を理由に停戦しました。

大政奉還と王政復古)
このような情勢の中で第15第将軍となった徳川慶喜は1867年、盟友であった土佐藩のすすめで苦渋の末、政権を朝廷に返し(大政奉還)、260年余り続いた幕府はほろびました。慶喜は幕府にかわる新政権の中で親幕派で主導権を握ろうとしましたが、同年、西郷や公家の岩倉具視などが朝廷を動かして王政復古の大号令を出し、(南朝)天皇を中心とする政治にもどすことを宣言しました。また徳川家の政治的な影響力を除く為、慶喜に官職や領地の返上を命じました。新政府軍はそれだけに留まらず、旧幕府の息のかかる諸藩に戦いを仕掛け、兵力と鉄砲を中心とした軍事力の差で次々と勝利します。
新政府は江戸城を明け渡させ、その後も軍を進めて翌年には函館で旧政府軍の中心勢力(北朝勢力)を皆殺し、完全に消滅させました。こうした旧幕府軍を武力で征圧した新政府軍の戦いを戊辰戦争といい、明治政府はこの凄惨な戦争の上に誕生します。300年前に終わっているはずの天皇同志の醜い勢力争いが復活、幕末とは2度目の南北朝戦争だったのです。

参考投稿:徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?
明治維新、西郷隆盛及び征韓論について ~金貸しと明治政府(長州)が作った歴史~
維新という幻想② 「薩長同盟」とは英国の商社お抱えの武器密売商人坂本龍馬を長州に紹介したというのが正しい

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2017.09.21

「教科書の嘘を検証する」第7回~江戸時代は庶民と地方の時代

日本の歴史において最も平和で安定し、庶民の文化が発展したのはこの時代。
江戸時代の日本の文明レベルはその教育レベルにおいても諸外国と比べても遜色なく、むしろ、欧米を凌ぐレベルであった事が近年知られています。
しかしながら、明治以降を文明時代とする教科書のスタンスは江戸は徳川が支配する悪しき身分序列の時代と教えています。教科書が明治以降を美化し、江戸を蔑むその構造を見ていきたいと思います。いつものように先に教科書の記述を記載します。

江戸幕府の成立
 豊臣秀吉の死後、関東を領地とする徳川家康が勢力をのばしました。1600年、秀吉の子豊臣秀頼の政権を守ろうとした石田三成は、毛利輝元などの大名に呼びかけ、家康に対して兵を挙げました。家康も三成に反発する大名を味方につけ、全国の大名はそれぞれ三成と家康に分かれて戦いました(関が原の戦い)。これに勝利した家康は、全国支配の実権をにぎりました。1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を開きました。江戸幕府は、260年余りも続く戦乱のない平和な時代を作り上げました。この時代を江戸時代といいます。家康は1614年、1615年の2度に渡る大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、幕府の権力を固めました。

 大名や朝廷の統制
 幕府は武家諸法度という法律を定め、大名が許可なく城を修理したり大名どうしが無断で縁組をしたりする事を禁止しました。大名の参勤(江戸に来ること)は主従関係の確認という意味があり、第3代将軍徳川家光は、参勤交代を制度として定めました。これ以降、大名は1年おきに領土と江戸とを往復することになり、その費用や江戸での生活のため、多くの出費を強いられました。また、幕府は京都所司代をおいて朝廷を監視し、禁中並公家諸法度という法律で天皇や公家の行動を制限し、政治上の力を持たせませんでした。

 教育の広がり
 京都や大阪などでは、学者が私塾を開き、武士だけでなく町人や百姓の入門も許しました。大阪の医者緒方洪庵の適塾には、全国から弟子が集まりました。長崎では、オランダ商館の医者シーボルトが医学塾を開き、手術などを行って見せました。諸藩では藩校を設け、武士に学問や武道を教え、人材の育成を図りました。庶民の間にも教育への関心が高まり、町や農村に寺子屋が開かれ、読み・書き・そろばんなどの実用的な知識や技術を教えました。

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