/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2006年10月29日

縄文貝塚は防腐剤?

貝塚を単なるごみ捨て場と思ったら、明らかに間違いであろう。とにかく、いろいろなものがこの遺跡から出てくる。縄文の“玉手箱”である。ここからしばしば、人骨も出土するので貝塚墓地とも呼ばれる。
 県内では八戸市の長七谷地貝塚などでも、人骨が見つかっているが、その代表的なケースが上北町の古屋敷貝塚(縄文前期中葉)だ。ここからは若い成人女性と胎児のそれが出土している。二十歳前後と推定される女性の周囲には、貝殻が敷き詰められていたため残存状態が良好で、ほぼ全体の骨格部がそろっていた。
 三内丸山遺跡もそうだが、概して日本は酸性土壌のため、古い人骨は残りにくいといわれている。それでも、考古学教授の小林達雄さんが書いた「縄文人追跡」によると、これまでに発見された縄文人骨は一万体以上に上り、弥生人のほぼ三倍以上になるそうだ。弥生より古い時代にもかかわらず、縄文人の遺体が多く見つかるのは縄文人自らが築いた貝塚のおかげ、と小林さんは書いている。

http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_09.htm
さーねさんから紹介いただいたテーりー東北新聞社のコラムからの紹介です。
貝が遺体の酸化を防いだという事でしょうか?
それにしても縄文人の人骨は1万体も発見されているとは知りませんでした。
弥生時代がその1/3というのは貝のせいもありますが、縄文時代に比べて600年と時代の期間が1/20しかないのも原因かもしれませんね。人口が増えたのも弥生後半になってからだし・・・。

tano

 

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2006年10月26日

自然を利用する天水農耕と、自然を克服する灌漑農耕

メソポタミア地方では紀元前約4、5千年前にウバイド文化が起こります。時はちょうどそれまでの小氷期時代に温暖な地域を求めてメソポタミア一体に南下してきた人々が、その後のヒプシサーマル/クライマティック・オプティマムと呼ばれる長い温暖の時期に作った文化だと推測されています。

さて、この時代にはメソポタミア南部の低地帯を中心とした"灌漑農耕”と、北部の"天水農耕"の2種類の農耕様式があったようです。その後のシュメール文明を支えていったのは、後に再び寒冷化が始まり(紀元前3700年前ごろ)乾燥化が進んでいった南部だったようです。
何故北部メソポタミアではなく、南部の方が発展していったのでしょう。

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posted by saah : | |

縄文人って弓矢を発明?したんじゃないの?

るいネットやこのブログにて縄文の基礎情報がたくさん集まってきましたね :D

今日は、一風変って、新聞社の縄文に関するコラムを読んでみました。その中でも、弓矢の存在に注目しました。

デーリー東北新聞社~縄文紀行 北日本の遺跡~実像に迫る
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_menu.htm

参考にしたコラムは
6.韮窪遺跡”新兵器”弓矢の登場
7.大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感
です。

上記のコラムを参考に考察すると、もしかして縄文人って弓矢を発明 :m050: したんじゃないの :m050: (というのはオーバーで、適応するために自ら生み出したのではないか :m052: という説です) :nihi:

shuryoumondoki.gif

縄文後期:韮窪遺跡「狩猟文土器」⇒見事に弓と矢が表現されてます :m051:

by さーね

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posted by postgre : | |

2006年10月25日

人口減少に憂う縄文人

縄文時代の人口は気候変動などの要因もあり、中期に最盛期を迎え以後減少してゆきます。

縄文草創期 1万2千年~1万年前  人口不明   
・縄文時代の基礎構築時代
縄文早期  1万年~6千年前    約2万人     
・南九州で縄文文化が開花
縄文前期  6千年~5千年前    約10万5千人
・文化の中心が東日本に移る
縄文中期  5千年~4千年前    約26万1千人
・人口が最高となる・縄文文化の最盛期
縄文後期  4千年~3千年前    約16万人    
・気候の寒冷化・人口激減
縄文晩期  3千年~2千5百年前  約7万6千人  
・出生率の低下・渡来人の帰化始まる

縄文人は人口減少危機に対応するため祭りや文化を発達させていったようです。


土偶は、魔よけや動植物の繁殖、子孫の繁栄を願って製作されました。しかし、縄文中期には全国に26万人いた人口が、後期から晩期には7万5千人にまで急減したと推定されています。藤田富士夫氏は、縄文人がこの事態を新しい祭式を導入することによって乗り切ったと推測しています(「生と死の姉妹土偶」富山新聞2003年6月10日)。これまでの土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。真脇遺跡(石川県能登町)からは天狗のように目をつり上げて怒りをあらわにしている土製仮面(縄文後期)が出土しました。顔を仮面で覆い、呪術者が精霊に化身したと推定されています。

 この仮面祭祀が盛んに行われるようになることで、それまでの土偶の姿にも変化がおこりました。仮面を装着した土偶を製作することで、より一層の呪力や効果を期待しました。
 土偶が大型化し、独鈷石や石刀、石剣などの祭祀・呪術的な遺物が増え、桜町遺跡(小矢部市)のように祭礼の場とみられるウッドサークル(縄文晩期)が造られるなど後期~晩期は縄文時代の精神文化が色濃く表れてきます。

 長岡八町遺跡から出土した土偶は、わざとこわされ、谷に捨てられていました。こわして谷に捨てることによって、新たな命の誕生を願うまつりごとを行っていたと考えられます。2点もの大型土偶が用いられた背景には、縄文時代の長岡八町ムラが周辺地域の村々の人々が集まり、祭祀が行われていた拠点的な集落となっていたと推定されます。当時の人々のよりどころとなっていたのでしょうか。

posted by tiwawa : | |

2006年10月24日

縄文集団が小規模なのはなんで?

こんばんは~、谷光です。 :D

しばらくインダス文明が続きましたが、縄文も追究続けます :tikara:

と、言っても、、、 あぁぁ :m081:
今日はみんなで鷲田豊明氏の『日本社会システムの起源』を読んだのですが、なかなか理解できず・・・。そこでみなさんに質問 :m049: してみようと思います。

どれどれ、答えてやろう :P と思ってくれた方は、ポチっとお願いします :m027:
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posted by mituko : | |

2006年10月23日

インダスの人は装飾好き!?

インダス文明時代、インダスには紅玉髄という石や瑠璃の加工して作るビーズ工房がたくさんあったようです :m034:

またインダスから出土されている土偶は、これでもかと思うくらいの装飾品をつけているそうです :m034: :m034:

http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/page004.html

さてさてここで少し疑問が :confused:
なんでそんなにインダスの人は装飾品をみにつけたのでしょうか :m052: :m052:
るいネットでもインダス文明についていろいろ議論されていて、こんな投稿を見つけました。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=120651

確かに現代人の感覚だと装飾品=性市場というのは考えやすいですが、当時の装飾が持つ意味合いは“魔よけ”の意味合いが強いと言われています。そう考えるとやっぱり“魔よけ”ためにたくさんの装飾品をつけていたと考えるほうが、妥当な気がします。

それじゃあなんでそんなに“魔よけ”に力を注いでたんだろう :roll:
またまた疑問が湧いてきました :m107:

どなたかこの謎が解明できた方いらっしゃれば、ぜひぜひ教えてくださ~いo(^0^)o

posted by nkktchnm : | |

インダスの海上交易の不思議

>古代の交易が支配者の威信を維持するための財貨の入手にあるとき、メソポタミアとは違って、インダスには専制的で好戦的な王はおらず、ほとんどの奢侈品は自給されていた。事実、インダスにはメソポタミア産の遺物は、ほとんど出土していない。インダスが、確かにマガンの銅やメソポタミアの一部産品を輸入していたとしても、その輸入量はわずかであったであろう。

>インダスやペルシア湾の商人たちの、きわめて少数の船が少量の貨物を積み、年1回、せいぜい隔年くらいで、それぞれの交易地に訪れる程度であったとみられる。ただ、ペルシア湾内においては、安定的とはいえないとしても、連続的な海上交易が行われていたであろう。

 とあるが、これほどぜい弱な交易であっても、紀元前2500年~1800年までの約700年間は存続していたとされている。何故これほど長い間続いたのか、何が目的で行われていたのか、具体的に何が取り引きされていたのか非常に気になるところだ。

 その具体的なものとして提示されているのが、真珠や象牙、マガンの銅、メソポタミアの一部の産品である。つまりインダスの人々はマガンの銅が目当てで交易を行っていたのでは、と考えられる。もしくは、他の国々が真珠や象牙を目当てにしていたか…どちらにせよ銅の代わりに鉄が使われるようになってからはインダスの人々にとって交易があまり意味のあるものでなくなったのではないかと思う。

posted by postgre : | |

2006年10月22日

始原の都市=シュメールの都市

:m013: :m013: その昔々、はるかかなたの地、紀元前3500年頃になるとメソポタミア南部にシュメールの都市:m013: が現れ始める。

それは、神殿を中核とした城壁に囲まれた都市 だった。 神殿は神(主神)をまつるもので、時代を下るほど巨大になっていき前3100年頃には街を見下ろすほど巨大になっていく。面白いのは当初は、巨大な神殿はあるが、王の宮殿や王墓などはなく、かなり後になって前2700年頃に登場してくることだ。都市の中心は神殿であり、神官が力を持っていたらしい。この頃文字 :m133: も登場してくる。 

shumer_6.jpg

[ウルクの都市予想図、中央にジグラッドが見える]

by Hiroshi

posted by ihiro : | |

2006年10月21日

インダス文明の謎?~インダス文明の担い手は-ドラヴィダ人って?

今晩は :m027:  さーねです :nihi:

インダス文明を調べよう…色々探ってみましたが、謎だらけすぎます!! :shock: :m050: なので、一つ一つ解明していかないと無理そうです :cry:

まず、インダス文明は誰が創ったの?=今最も有力とされているドラヴィダ人に焦点を当てたいと思います。 :o

今日引用したサイトは、●松本正剛の千夜千冊http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1005.html『インド古代史上下)』中村元著の解説より

ドラヴィダ人は、どうやら母系社会であった様。母系社会であるということは何を意味するのか :m050:

[採集生産の集団は、なぜ母系なのか?]
>①一般の哺乳類は、若♂放逐が本能原理=自然の摂理。
>②♀は生まれた集団に残る方が安定度が高い=女共認が形成しやすい。
>♀は元々集団収束力が弱い(=首雄に収束する性的存在・充足存在)。
>・集団は、生殖と生産(闘争)課題を包摂している。
>・本能次元では、♀は生殖(と充足)存在、♂は闘争存在。
>・外敵からの防衛を♂が担い、その安全域で出産・子育て・採集生産。
>・それを実現しやすい集団の在り様とは何か? という集団統合課題。
>;その素直な実現態が「母系集団」である。
(るいネット「遊牧の起源と特異性」父系集団の発生とそれによって刻印された問題http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=132199より)

ドラヴィダ人の集団は、女性が安心して暮らせる集団であったということ。この時期イラン高原では、遊牧部族によって玉突き的に掠奪闘争が勃発!多くの部族が掠奪集団化⇒父系制であったのに対して、インダス文明は、母系制=共同体的集団から始まっている!

byさーね

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2006年10月14日

縄文基礎情報/人口分布

縄文時代の人口分布について、調べてみました。

地域毎の人口一覧表はこちら→http://www.komenet.or.jp/database/culture/culture02/culture02-1.html

>縄文時代で人口が最大になるのが中期で、日本の総人口は約27万人でした。これを地域別にみると、人口の分布(図2-2)は西日本よりも東日本がより密で、東北と関東だけで全体の半分以上を占めています。この人口分布の地域的な差異は、野生動植物の資源量が日本列島の東と西で非常に違うことが原因と思われます。このため、東日本では西日本よりも安定した豊かな生活が営まれていたと考えられています。


地域毎の人口分布を年代別に表わしたのが下図です。

by eto

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2006年10月13日

縄文時代の海水面、気候変動グラフ

【縄文―基礎情報アレコレ】

●縄文時代の海水面、気候変動グラフ

 『縄文人と私たちhttp://www.jamstec.go.jp/jamstec-j/enlight/umihoshi/learning/2_0800.html』から

By 「R」

 

 

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2006年10月12日

縄文の時代区分

縄文の時代区分について、まだ明確にわかっていなかった :m050: ので、サイトで探索してみました :D

以下「縄文文化と東北地方―東北の基礎文化を求めて」からの抜粋です。http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j21jyomontime4.html

>なぜ、土器の形式によって分類するのであろか。

>我々は、通常は時代を、あるエポックメーキング的な出来事・それが何年に起きたのか、ということによって区分していく。その多くは国の成立、支配者の交代など、何らかの権力の移行とそれに伴う社会/文化の変化であろう。

しかし、縄文時代はそのような考え方では分類出来ない。縄文時代の文化は、現在残っているものとして、土のなかから発見される遺物、とりわけその出土量が豊富な土器によってその特徴・広がり等を表さざるを得ない。しかし、土器は、地域・時代によって変化の速度が様々である。従ってこれが年代の数値的な変化を跡づけるものとはなりえない。そのため、山内清男がその研究理念で述べているように、土器型式の研究は縄文文化の相対的な時代区分の指標をつくるという作業仮説なのである。

時代区分の捉え方として、とても面白いと感じたと同時に、日常生活の変化や進化が時代区分となっているということ自体新鮮でした。ある意味、権力がはびこっている世の中ではなかったという表れでもあります。このような人々の意識を捉えた歴史観は、歴史事実を学ぶ時にも重要だと思います。

さーね

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2006年10月11日

考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。

こんにちわ ちわわ です。 よろしく :roll: !
縄文って奥深いですねー。
おもしろい意見があったのでこぴぺ :m057: します。


:m030: 考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。 :m030:

この全く正反対の結論を、どのように整合させたらよいのか。
この難問に挑んだのが、九州大学教授で形態人類学を研究する中橋孝博氏である。

先ほど甕棺の人骨は、最初の渡来から200-300年が経った時期のものであると述べた。
中橋さんは、この時間差に注目した。

つまり、考古学が示すように、当初に渡来してきた人々の数は決して多くなかった。
しかし数百年のうちに渡来系の人々は、その数を増やして、
人類学が示す渡来系一色の状態が作り出された。

これが中橋さんが両者を矛盾なく説明するために立てた仮説だった。

結論を先取りして言うと、
渡来系の人々は爆発的に人口を増加させる事によって、
あっという間に縄文系の人々の人口を追い越し、福岡周辺の平野を埋め尽くしていったのだ。


中橋さんの研究から、縄文系と渡来人の人々の平均寿命も明らかになっている。

縄文系の平均寿命は僅か :shock: 14歳、これに対して渡来系は :evil: 25歳である。

このように書くと現在の我々との余りの落差に、どちらも短命だったように見えるが、これは乳幼児の死亡率が非常に高いためである。
渡来系の人々でも成人になるまでに生きられる人は、半分程度だという推計が出ている。

だが、乳幼児の危機を乗り切ったひとが、
その後に何歳くらいまで生きられたかを見てみると、縄文系と渡来系では大きな差が出てくる。

中橋さんは一例として15歳の女性の平均余命(=15歳の女性が平均して、あと何年生きられるか)を挙げている
それによると縄文系が :m032: 16年なのに対して、渡来系は :m043: 30年を超えている。
これは単に、その人が長生きでおめでたいと言うだけの話ではない。
女性を引き合いに出したのは、わけがある。
つまり15歳を出産開始年齢と仮定すると、子供を産める期間が16年から30年へと倍増しているのである。
これは渡来系の人々の方が、縄文系の人々より、かなり子だくさんだった可能性が高い :roll: 事を示している。

水田稲作という安定した生産基盤が持つ高い人口支持力。
良好な栄養状態に支えられた長い寿命と多産。
渡来系の人々は、縄文系の人々に比べて遙かに増殖力の高い人達だった。
これが人口爆発を引き起こし、容易に縄文系の人々の人口を逆転できた要因だったのだ。 :shock:


渡来人は年に十数人しか渡来しておらず、専従縄文人と対立するほど集団の体を成していなかったのではないでしょうか。 :m300:

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2006年10月10日

縄文人はどうやって渡来人を受け入れた?

縄文人は、突然やってきた渡来人を特に争いもなく受け入れ、一緒に集団を作っているのが不思議だなぁと思ったのですが・・・

私も不思議 :roll: と思われた方、ポチッとお願いします :m146: :m147:
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2006年10月07日

メソポタミア文明:女性の意識

メソポタミア文明の婚姻制は概ね一夫一婦制で、極端な父系社会であったようです。

メソポタミア文明は様々な王朝の興亡=戦争の歴史が示しているように、支配の歴史でもあります。
そのような、支配圧力の中で部族間圧力も強かったようで、男上位の社会になったものと思われます。

しかも、極端な男尊女卑だったようです。 :m051:
女性の意識に焦点を当てると、なぜそんな男尊女卑の世界になったか :m050: がわかると思います。

さーね

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メソポタミアの文書は初期何に使用されたか

メソポタミア文明では、現在のところ最古の文書として残るのは、農作物や家畜の数を記録した粘土板だそうです。メソポタミア人にとって所有するということを記憶したり、証明するために文書が必要とされたのではないでしょうか。

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2006年10月03日

古代文明の追求 その2 (当面のテーマとして)

世界の古代文明を探っていくにあたって、
当面追求していく必要のある点をまとめてみました。
基礎データを収集し、追求していく上での視点をまとめてみたものです。

●基礎データの把握 
(メソポタミア、次いで巨石文明、エジプト、インド、中国、メソアメリカ)
・気候変動、生業、掠奪・戦争、集団形態・婚姻形態、
集落、都市・神殿の変遷、身分制、税制、金属器、武器、
神話・信仰、交易、文字や数学・文学・・・と多岐に渡る。

 →年表の作成で時系列的にて関係性をおさえる。
 →そのためにも、基礎情報の収集投稿をしてください。

・さらにディティール情報として項目毎のデータ蓄積と整理:
A:都市、家屋、服装、
B:生業全般(食料、職業、技術全般)
C:掠奪と戦争、武器
C:社会制度全般(部族社会→神殿と国家、階級、税制)
D:集団形態と婚姻制
E:市場と交易
F:神話と信仰
F:文字、数学、文学
G:他

→上記のネタ、見つけたらお願いします。
ちょっとしたものでも結構です。    
  
●追求する上で、実現論をベースにしつつ以下4つの視点が追求ポイントになると思います。かつ、この点はメソポタミアのみならず、他の文明でも追及ポイントになるはずです。
それぞれの視点での事実収集と構造化が課題です。(但し、巨石文明は、別途要)

もちろん、360度からの追求が必要なので、抜けなどがあればどんどん投稿お願いします。

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古代文明の追求課題 -そのⅠ-

縄文に続いて、世界の古代文明の追求へ!・・・・

>人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られている。

どこから見直すか・・・・、世界は広すぎて少しとまどってしまいますが、古代文明が始まった最初の部分にやはりカギがあるはずです。

古代文明は、都市国家の成立時期から推測すると以下のような伝播ルートが想定されます。
メソポタミア(前3400年頃)
   →エジプト(前3100年頃?)
   →中国 草原の道を通って黄河流域へ(前2000年頃?竜山)
   →インド(インダス文明 前2500年頃→ガンジス流域の都市国家)
   →地中海の都市国家群(フェニキア、ギリシャ)→古代ローマ 

これはメソポタミア近辺で掠奪闘争が開始され、玉突き的に世界各地へ伝播していったこと、そして掠奪闘争の勝ち抜き戦を通して、その覇者が各地で古代文明(都市国家→国家)を成立させたことを伺わせるものです。

従ってまず・・・

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2006年10月02日

オリエント―遠隔地交易人の登場

長い古代メソポタミアの歴史のなかで交易は発達したが、その中心は遠隔地交易にあった。この遠隔地交易は支配者の必要を満たすものとして、常にその独占と統制の下に置かれた。交易商人は、宮廷の官吏あるいは御用商人、一定の出自を持つ自国人商人、そして居留外国人商人という構成になっていた。

そうした中で、交易都市の形成、関税や通行税の徴収、度量衡の制定、そして法典の制定の必要性が生じてきた。

>この私権「文明」は、人類を含めて全ての生物がその中で育まれ、進化してきた本源集団を破壊した上に築かれている。しかも、

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メソポタミア文明におけるハンムラビ法典の概要。

紀元前3500年頃、メソポタミア(現在のイラク)に、最古の文明が花開きました。その担い手は、シュメール人といわれています。

彼らは、都市国家を作り、金属器を使い、世界最古の文字を発明しました。この文字は、粘土板にアシの茎を斜めに切ったもので刻まれ、その形状から楔形(くさびがた)文字と呼ばれています。

そして、前1800年頃、この文字を使って書かれた全237条の法典が登場します。これが、「ハンムラビ法典」です。ハンムラビとは、当時メソポタミアを支配していたバビロニア王国の国王の名だそうです。

現代でも言われる「目には目を」。あまりに強烈な印象を与えるこの言葉は、実は、ハンムラビ法典に由来しています。

しかし、その意図は現代の解釈とは異なっている。
現在一般に「やられたらやりかえせ」の意味で使われるが、元来はハンムラビ法典196条に由来している。この法令は、復讐を認めた法と曲解されることがあるが、倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐのがこの条文の本来の趣旨である。


その内容を見ていくと・・・「もしある市民が、他の市民の目をつぶすならば、彼の目をつぶさなければならない」←この部分が「目には目を!」ですね。

また、第200条には、こうあります。

「もしある市民が、彼に対等の市民の歯を打ち折るならば、彼の歯を打ち折らなければならない」

「歯には歯を」なのです。この、「同害復讐」の原則こそ、人類が初めて制定した法なのです。


もっとも、ハンムラビ法典は、カンペキな同害復讐法だったというわけではなく、身分によって刑罰が違っていたようです。たとえば、奴隷の目をつぶしても、自分の目をつぶされることはありません。傷つけた相手が奴隷だからです。その場合には、罰金だけで済みました。あくまでも、支配者階級の法律だったんですね。

また、ハンムラビ法典に基づく裁判は、かなりいいかげんな部分も多く、立証不可能な訴訟に関しては、容疑者を水に投げ込んでみるんだそうです。そして、おぼれて死んだら、彼は有罪、浮かんできた場合は無罪となり、逆に原告の方が虚偽の告発をしたかどで死刑となったんだそうです。(!?
「・・・!?」絶句の一言に尽きますね・・。
補足をしておくとこの場合の投げ込む「水」というのは「選ばれた川」のことである。
当時は川は神聖な場所とされており、川に投げ込むことで審判を神に委ねるといった解釈で行われており、最終審判として行っていたようです。


以下参照。
『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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