/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2006年11月30日

日本の私権国家への道すじ

こんばんは。くまなです。
弥生時代の研究は、神話のような古事記・日本書紀がベースで、ネットでも諸説あってよくわからないので、まとめてみることにしました。

目的は日本における私権制度の移入・確立のようすを明らかにすること。
これから数回に亘って、史実を時系列で押さえていこうと思います。

予定としては、まずは弥生時代から、日本に渡来した人々の時期と出自を明らかにします。また、できれば古事記や日本書紀に書かれた「神話」と言われている部分と史実との関連も明らかにしたいと考えています。

時代の射程は私有制身分制が確立する7世紀ごろまでを考えています。
最後は年表のかたちにまとめます。関連する情報の援護投稿も歓迎です!

弥生時代ということで、まずは↓これが‘弥生’の呼称を生んだ‘弥生町’で発見された土器
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それでは、まずは紀元前3世紀の江南人の渡来から。

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2006年11月27日

大型竪穴住居 5000年前の北海道森町に!

はじめまして。縄文ファンのオカです。

以前、るいネットの投稿「縄文時代の同類緊張圧力」(by細田氏)に、青森三内丸山に匹敵する北海道函館の縄文巨大遺跡サイベ沢遺跡の紹介がありましたが、2004年にそのすぐ北の森町で大型竪穴住居が発掘されています。
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↑写真は三内丸山遺跡のものです。

『大型竪穴住居 5000年前の北海道 大人80人が車座に』2004年12月19日毎日新聞より
 北海道森町の「森川3遺跡」で縄文時代前期末(約5000年前)の土ぶき屋根の竪穴式住居跡が見つかった。大人80人が車座になれる大きさで、保存状態も極めて良い。北海道埋蔵文化財センターが02年度から発掘調査していた。
 最大の住居跡は長軸13メートル、短軸11メートルのだ円形で床面積約130平方メートル。壁の周辺に主柱の穴が8カ所、中心部に大黒柱を立てたとみられる穴が2カ所あった。住居跡の床面は、厚さ20~80センチの黄色いローム層の粘土で覆われていた。粘土は縦穴を掘るときに出たもので、そのまま屋根として利用したとみられる。建物が放棄された後、崩落、覆いかぶさったらしい。
 道埋蔵文化財センター第2調査部の熊谷仁志第3調査課長は「粘土はきめが細かく、水を浸透させないので虫害もない。夏はかやぶきよりも涼しく、冬は暖かい住居だったと考えられる」と話している。(以上、記事)

 「円筒土器と石刃鏃①」(by細田氏)の投稿にあるように、森町の森川3遺跡は、サイベ沢遺跡を拠点集落とする衛星集落だったのであろうか(その場合は三内丸山と緊張状態にある)、それともサイベ沢遺跡、森川3遺跡とも三内丸山の衛星集落なのであろうか?

土器型式では、東北地方、北海道南端の渡島半島とも、縄文時代前期は円筒下層式、中期は円筒上層式と共通の文化圏である。
 
サイベ沢遺跡の詳細を調べれば見えてくるように思います。
サイベ沢遺跡調べたくなりました? 8)

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2006年11月26日

アイヌに関して~故萱野氏を偲んで

こんばんわ。tanoです。今日はアイヌネタで一つ投稿します。

2年前の週間朝日のシリーズコラム(夫婦の情景)でアイヌの血を引く現在アイヌ民族学者の萱野 茂(78歳)とその奥さんのれい子さん(73歳)のインタビューを通したアイヌ文化が紹介されました。その中からいくつか読み取れた現在のアイヌについて紹介します。

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>萱野氏はアイヌ唯一の元参議院議員。出身である苫小牧東部に位置する平取町二風谷は、アイヌコタン(集落)が今でも点在する。平取町6千人のうちアイヌの血を引く人は2千人。萱野氏は二風谷アイヌ資料館館長を勤めておられる。

 アイヌ文化には文字がない。アイヌ社会でアイヌに精通する人はすでに少なくなっているが、茂さんの父親はアイヌ語を知り尽くしていた。茂るさんが幼い頃囲炉裏端で毎晩のようにアイヌ語で昔話を語ってくれた祖母かってさんは、1945年に95歳で亡くなるまで、ついに日本語を話さなかった。
 茂さんは畑で収入が上がらず木の彫り物をして収入を得ていく。その傍ら、民話も残したいと思い1960年、テープレコーダーの購入とともに様々なアイヌの口承文化を録音していった。彫刻でお金を得てそれでテープを購入、そのくりかえしだったそうだ。その時間は800時間にものぼり、うち翻訳が済んだのがまだ40時間分。78歳の現在、仕事はまだまだ残っているという。

 以降は夫婦の会話。続きはポチッ
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2006年11月24日

縄文人へ同化してみませんか?

こんばんわ。管理人のtanoです。
今日は縄文人への同化という観点でひとつ投稿したいと思います。

安田 喜憲氏の著書である「日本よ森の環境国家たれ」の冒頭の文章からの抜粋です。

>「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさの涙こぼるる」

これは西行法師が伊勢神宮の内宮でよんだ歌である。
森羅万象に神の気配を感じ、思わず涙する。これが「森の民」としての日本人の感性の根幹を形成している自然観なのである。

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いつも読んでいただいてありがとう!続きは・・・
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2006年11月21日

縄文人の食卓

9/13カッピカピさんの『縄文人の主食「木の実」について』の記事に引き続き縄文人の食べ物シリーズです :m078: :m078:
前回は木の実や山菜、サケやマス、イノシシなどを食べていたことがわかりましたが、なんと今回は驚くべき発見を :shock: :m049:
なんと、ハンバーグを食べていたそうです。
縄文人ってなかなかグルメ :m028: :m029:

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  :m118: :m118: :m118:

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posted by pingu : | |

2006年11月19日

中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?

中国4000年の歴史~とよく言いますね :D
黄河文明や長江文明~夏王朝をきっかけとした様々な王朝の興隆 :m054: …いろんなサイトに、その長さと数々の興亡 :m096: :m097: が記されています

今日は、黄河・長江文明後のいかに国家を成立させたか :m052:

漢字=表意文字であることが、実は国家を成立させるのに非常に重要な役割を担っていた :m050:

ちなみに今日は歴史サイトからの引用ではなく、面白いことに中国ビジネス系のサイトからの引用です

中国産業レポート  上海平野磁気有限公司  董事長 平野 信幸
第11回 <歴史に中国を観る> 第壱項
http://www.chinawork.co.jp/e-hirano/hirano-11.htm

ちなみに第弐項もなかなか面白いですよ~

日本人も普段使っている漢字
日本人なら読んでおかないとー

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byさーね :roll:

posted by sawatan : | |

2006年11月18日

長江文明の担い手『苗族』が日本に渡来し、稲作文化を伝えた

苗族(ミャオ族)って知ってますか?
ウルルン滞在記でも時々紹介されているらしい。

今も中国の貴州省や雲南省に住む少数民族http://www.china.org.cn/ri-shaoshu/miao.htmで、その祖先が長江文明の担い手だったと言われています。
彼らは長江流域で稲作を営み、太陽・鳥・蛇を信仰し、太陽族・鳥族・蛇族の三苗と呼ばれました。

その彼らが、4000年前頃の気候変動(寒冷化)に伴い、北方の牧畜民(漢民族の祖先)が南下し、牧畜民との戦いに敗れ?、あるいは移動せざるを得なくなり、長江文明も滅んだとされています。

そしてその際、苗族は長江奥地の雲南省などに移動したわけですが、一部は船に乗って九州へ渡り、稲作文化を伝えたとされています。

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posted by nishipa : | |

2006年11月17日

中国・朝鮮から日本への渡来ルートを探る

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縄文から弥生にかけて、大陸の人が東シナ海や朝鮮ルートを通って九州北部に渡来してきた。その後、縄文人と混血したり戦争を通じて国家統一を成し遂げた、というのが定説になっているようですが、「「新しい日本の歴史」
にこれと違う見解が書かれていましたので紹介します。

>丹後半島の中国人  その2
中国人が九州にいっぱいやって来たことは、書きました。九州に限らず、日本海の各地には流れ着いたと思います。韓国から九州に直接来ることは相当エネルギーが必要です。中国の福建省あたりを出発しますと九州に到達します。韓国辺りを出発すると島根半島から丹後半島の間と思います。
魏志倭人伝に倭国の国々の名前が挙げられています。九州の末盧国から始めますから、日本史は訳の解らないものになりました。やはり、松江に最初に着いたことにすれば、邪馬台国は吉備の辺りになります。

であれば、出雲や丹後半島の伝説でよく知られる
イザナギノミコトや天照大神系の人たちは朝鮮から渡来

九州北部に到達した人たちは中国南部から渡来

ということになりますが、実際どうなんでしょうか?

この先読みたいと思った人は、ポチッとお願いします :m044:
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posted by postgre : | |

2006年11月15日

ユダヤ人は弥生時代に日本に到達している!

こんばんわ!tanoです。 :-)
この話はかなり有名な話で聞いたことのある人も多いかと思いますが、私は最近知るようになりました。最近勉強させていただいているブログ「新しい日本の歴史」でもかなり力を入れてこの事が書かれています。

著者の説によるとユダヤ系民族は紀元前に朝鮮半島から日本に渡り、主に岡山県を活動拠点としていたようです。 :shock:
神の付く地名が岡山県にたくさんあり、ユダヤ人は主にその地を渡って絹を運んでいたのではないかと考えられています。また有史では初代天皇とされている9代神武天皇はユダヤ人という説もあり、神武天皇の吉野が里征服、国家統一にユダヤ系渡来人が大きく寄与したとの事です。 :m198:

以下ブログからの転載です。
岡山県小田郡笠岡町に神ノ島があり、その南隣が、神武天皇が八年駐留したと言われる高島です。この地域の式内社の分布は、美作11 備前26 備中16 備後 17 安芸3 というように、全部あわせても、73社です。他地域に比べて圧倒的に少なく、これだけしか式内社を獲得できなかったと言うことでは、漢人が入る余地がなかったことなり、天皇勢力の強かったことは確かです。
これらのことから、ユダヤ人は、早い頃から、天皇の側についていたようですし、神武天皇の東征のおりには、いろいろの面で援助したことが推察できます。また、神武天皇が、安芸に七年、吉備に八年駐留した理由も説明がつきます。

それでもユダヤ人が日本に来た、さらに天皇家の血に流れている、というのはまだ根拠が不足しているのでは・・・・
と疑う方は以下を読んでみてください。 8)

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弥生期以降の氏族系統(2)

弥生期は、様々な異民族が日本に流れ込んできた激動の時期だったようですね。 :m196:
引き続き、その様子を見ていきたいと思います。

【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm
その王家の支族は二世紀前半頃に筑前海岸部へ遷住(いわゆる「天孫降臨」で、「日向」とは筑前国怡土郡から那珂郡にかけての一帯とその近隣地域のこと)、更にその王族庶子が遙か東方の大和へ移動して(いわゆる「神武東遷」。後記)、二世紀後葉に原初大和朝廷を形成した。
この王家一族の後裔諸氏の多くは、皇別(皇親)や神別の天孫に属したが、初期大和朝廷の王統(皇統)自体はこの部族内で交替があったとみられる。天皇家のほかでは、物部連、出雲臣、額田部連、服部連、鳥取連、玉祖連などを代表とする。

  この種族の源流は、中国古代の周・殷・羌族などの東夷系(北狄ともかなりの混血があったか、習俗で似通ったものがある)に通じており、箕子朝鮮の王族ないし扶余王族の流れとしてよさそうである。地域的には、朝鮮半島南部の伽耶(とくに安羅)→忠清南道北部→中国の遼西→山西省南部、さらにはその遠い源としては西域まで遡る可能性がある。また、西域から四川省に進出し、古代三星堆文明を築いた種族も同族とみられる。

  この一派として別途、遅れて日本列島に渡来したのが天日矛の一族であり、子孫が一旦朝鮮半島に戻って暫時留まった後、その子孫(この引率者も同名の「天日矛」として伝える)が再来日して但馬の出石地方に定住した。出石定住は三世紀前半頃とみられる。

  以上の三ないし四の種族・部族が主となって融合して、現代の日本人の多くにつながってきたものとみられるが、当然ながら、日本列島の中でも地域により混血の対象・程度に濃淡の差がかなりある。
なお、古代の蝦夷・熊襲・隼人などは、弥生文化を拒絶して辺地に居住した部族のようであり、古来からの山祇系の色彩が強い

(4) その後も絶え間なく、大陸や朝鮮半島から新しい文化や技術・信仰などをもって人々が渡来してきた。なかでも、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての応神朝頃の渡来の波(このときは弓月君を中心とする秦部族や、阿智使主を中心とする東漢部族が二大要素)、五世紀後葉の雄略朝頃の渡来の波(今来の漢人)が大きかった。
  七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入してきた人々も、また大量であった。奈良時代にも、大陸との交流を通じて人々がやってきたが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途断した。このころから一千年超の期間、現代日本人にむけての形成・融合の過程が着実に進行することになる。
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posted by naoto : | |

2006年11月14日

弥生期以降の氏族系統(1)

イザナギ、イザナミ、スサノオ、天照大神・・・ずっと、神話の世界の作り話だと思っていました。
でも、あれこれ探求してみると、実在していたようですね :shock:
だとしたら、彼らは何者?
ちょっと長いのですが、わかりやすく説明されているサイトがあったので、2回に分けて、紹介させて頂きます :roll:

【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm

○ 現代日本人は単一民族の後裔ではない。中国や朝鮮半島の国々と同様、上古以来、周囲から日本列島に流入したいくつかの種族が長い期間のうちに混合融解して形成されたものとみられる。その形成の時期・過程については明確には記述し難いが、言語や神話・祭祀などから、大づかみに把握することは何とかできそうである。

(1) 日本列島の形成が一万年ほど前のこととして、その前後から原日本人が居住していたことが考えられる。この主体を縄文人とか「山祇族」と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。
  この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏の多くは、神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。

(2) 次に、中国江南沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部(忠清南道南部の松菊里遺跡に関係か)を経て、紀元前の時代(明確にはし難いが、前三~前二世紀か)に日本列島に到来してきた種族がいた。主として筑前・肥前北部の沿岸地域に居住し、水稲耕作農業を行い青銅器を使用して、わが国の弥生文化前期の主力を担ったもので(「弥生人」は、前者(1)との混血の結果生じたもので、語の用い方に注意を要する)、航海・漁労に優れた能力をもつ人々であり、「海神(綿積)族」と呼んでよかろう。
  この種族は、中国のタイ語族(現代の主要民族としてはチワン族など)やタイの人々に類似する要素が大きい。この後裔諸氏の多くは、神別の地祇に属したが、出自を仮冒して皇別や神別(天孫)に分類された諸氏も、また多い。阿曇連や和珥臣、尾張連、三輪君などを代表とする。

(3) 三番目に、中国東北地方の内陸部を原住地として、朝鮮半島を経、その南部を根拠として紀元一世紀代頃に日本列島に到来した種族がいた。鉄器文化や鳥トーテミズムをもち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。古代朝鮮の箕子朝鮮、扶余・高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族とも同族の可能性が強く、「天孫族」と呼んでおく(これもやはり弥生人の一大構成要素であったことに注意)。
  この種族は、松浦半島に上陸して松浦川に沿って溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)の北麓~西麓の辺り、筑後国の御井・山本郡を中心とする地域に定着した。これが、『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(いわゆる「高天原」。ただし、この呼称はそれまでの居住地についても用いられた可能性あり)であり、こうした原始国家を二世紀初頭前後頃から形成し、それが魏朝のときに最盛期をむかえ女王卑弥呼などを出した。

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posted by naoto : | |

2006年11月10日

縄文土器の形・文様の意味~~自分たちの存在や仲間意識を示すマークでは!

日本最古(16500年前)の土器が青森県大平山元遺跡から出土しています。 縄文土器の特徴は、形は大きく色はあか茶色で大胆な印象を受けます。縄目、火炎および渦巻き模様が施されておりかなり複雑な装飾です。メソポタミア、エジプト、アメリカ、中国、ジャワ、チリ、エクワドル、南太平洋バヌアツ共和国で類似土器が出土しています。 :roll: 縄文土器の発明はさーねさんの投稿にあるように食生活を大きく変えました。それだけではなく、移動型の狩猟生活から定住型の狩猟・漁労・採取の生活へ、生産様式にも大きく変化をもたらしました。
 狩猟採集を中心とした生活では、つねに移動することを強いられますが、食べものを貯えられるようになって、人びとは集落をつくって暮らすようになりました。そして持ち運ばずにすむようになると土器などの生活道具はしだいに大型化して行きます。
縄文土器の変遷を写真で説明したサイトを紹介します。
http://www2.airnet.ne.jp/shibucho/joumondoki.html http://www.gunmaibun.org/guide/6/6-2-2.html

土器の形はその時代の生活様式を物語る! ぜひ読んでみてください! :m281:
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posted by mukai : | |

縄文土器:必要だった!⇒貯蔵・煮炊きによって食生活が圧倒的に飛躍した

考古学上、土器は時代区分のモノサシの意味合いがあります。そうすると、~型式土器,~文土器のようにどうしても時代区分を示すだけのもの…そのように思いがちです :confused:

しかし、縄文人の意識を推察するに、やはり必要だったから土器をつくったのだと思います。なんで必要だったか?そこを解明することによって、縄文人の生活を推察することができると思います :D

そこで、土器の形に注目して、一体どのように使われていたか :m050: を探りたいと思います。

財団法人 横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センターhttp://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb14/tame14.html
からの抜粋です

byさーね

土器の形はその時代の生活様式を物語る!
ぜひ読んでみてください!
:m118: :m118: :m118: :m118: :m118:
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土器の形
dokibunrui.gif

posted by sawatan : | |

2006年11月09日

遺跡分布図から見た生活様式の変遷

 旧石器時代・縄文時代・弥生時代の遺跡分布から当時の人口・気候・生活様式の変遷を推察 :m051:

■旧石器時代
kyusextuki.bmp
 旧石器時代には定住化がまだ始まっておらず、住居や墓などの「遺構」は非常に少ない :shock:
遺跡は一部を除き、関東平野を含む西日本に集中。当時の海面は現在より100m程度低かったが、多数旧石器時代の遺跡を残していることから、狩猟採集を生活の糧としていた旧石器人は、動物たちの移動を観察しやすい高台で生活していたのでは :m050:


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posted by postgre : | |

シュメールってどんなところ?

田村です。
シュメールについて調べていますが、そもそもシュメールが存在したメソポタミヤ南部とはどんな地域なんでしょうか?調べて見ました。

以下、南風博物館より引用
>メソポタミア文明の発祥の地、メソポタミア南部平原の遺跡を、時代ごとにまとめてみた。
 ティグリス・ユーフラテス川が複雑に入り組み、またその多くの支流が織りなして造りだした広大な平野は、ほとんどが湿地帯であった。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/maps/southernmesopotamia.html

posted by nandeya : | |

2006年11月08日

縄文人の集団規模と共認の関係

ちょっと前に、「縄文集団が小規模なのはなんで?」 :roll: :m052: というみつこさんからの投稿がありましたが、ワタクシ、ぴんぐ~も調べて見ました。
縄文時代の集団規模が単位集団(核家族数単位分)であった理由 :m027: :m028: :m029:
ポチっと押してから次へ進んでね~ :P :m042:

  :m118: :m118: :m118:

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2006年11月07日

倭人のルーツ~地図より

タノです。
弥生が熱いですね。 :o
面白いHPがありました。個人の方の資料なのですがよく調べてあり、縄文後期~弥生の倭人の動きと日本列島での移動状況がわかります。
弥生を概観する上で参考になります。以下の文章を読んだ後に地図を見てください。

地図ですリンク

>倭人のルーツを単独に特定することは非常に難しいが、一般的には大きく三つの地域の人種が融合した結果が、現在の日本人を形成していると考えられている。その三つの地域の人々とは、

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2006年11月06日

エジプト文明はどうやってレバノン杉を手に入れた!?

古代エジプト文明はピラミッド内部の王室や柩を作る際に良質な「レバノン杉」を利用していたという。
では、一体その杉をどこからどのようにして手に入れていたのだろうか??? :roll:
定説ではレバノンまで木こりを派遣して伐採をし、輸入していた。とあるがここでは違った考えをしてみたい 8) :m258:


☆ギルガメシュ叙事詩から考察してみよう :m071:

かの有名なギルガメシュ叙事詩によるとギルガメシュ王は実在していたのはウルク第一王朝時代である :m281:
:m116: 叙事詩が書かれたのはウル第三王朝時代(今から約2000年前には書き始められていた。)

:m049: ここで注目すべきは叙事詩の「第三節~第四節」である :m106:
:m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118:
ギルガメシュ王がエンキドゥと【レバノンの森】へフンババ(獣)退治に行くのが記されている :m071:
これは驚くべき発見ではなかろうか :m052: :m052: :m052: :love:
そう・・・・・・・・・・・・すなわちウル王朝のレバノン侵攻では :m050: :m050: :m050:

:m244: 当時のレバノンは【山地】で【緑豊かな国】であった。 :tikara:
ということはメソポタミア(ウル王朝)に住む人から見ればレバノン人は山に住む獣同然だったと伺える :blush:
メソポタミア地方はもちろん河川流域なため材木には乏しい=材木が欲しい :twisted: (良質な :m021:

フンババ(獣)退治とは勝者の歴史上言えるのであって、ただの侵攻では・・・?? :cry:
:m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118: :m118:
こうして良質なレバノン杉を手に入れることができるようになった。。。 :m067:
:m118: :m118: :m118: が・・・しかしその後・・・ 8)
メソポタミア(ウルク含め)地方の国々はエジプトの支配下に・・・ :m252:
⇒こうして古代エジプトはメソポタミアを介して良質なレバノン杉を手に入れたのでは :m050: :m050: :lol:


こう考えれば使う海路は地中海のみなので古代エジプト文明の造船技術の低さも納得がいく :m096:
恐るべし古代エジプト :m051: おいしいとこだけ頂いちゃうんやね :blush: :m240:

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2006年11月05日

環壕集落ってなに?

こんにちは、yuyuといいます。
最近、ブログ「新しい日本の歴史」を読んで勉強しているんですが、その中で「環壕集落」がでてきたので、少し調べてみました。

>大和286、河内・和泉175、近江155 この三ヶ所は、最大の環濠集落を有する所です。順番に、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。下之郷遺跡にいたっては、3条の内濠(内郭)と6条の外濠(外郭)の合計9条の構造になっていて、いかに、外部からの攻撃を恐れたかが判ります。
河内・和泉には、池上・曽根遺跡があります。環濠というものの、深さは浅く防御用とは考えにくいですが,河内平野にある巨大古墳は、中国人との関連でみる必要があると思われます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page571.html
(「新しい日本の歴史」No16式内社が教えてくれること その3より)

>環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
(ウィキペディア「環濠集落」より)

なるほど読んで字の如く、周囲に堀をめぐらせた集落のことなんですね。

  iseki.jpg    
  (大塚遺跡) 

  hukugen.jpg
  (大塚遺跡の復元図)


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posted by yuyu : | |

2006年11月02日

吉野ヶ里は漢人の日本侵略拠点ではないか

はじめまして :D 、くまなです。よろしくお願いします。

ブログ「新しい日本の歴史」の内容を紹介します。

当該ブログの論説では、弥生時代を、日本国内での漢人(中国)と天皇(朝鮮)の対立抗争の時代という構図で描いています。その中で、吉野ヶ里遺跡は、日本における漢人(中国)の拠点と位置づけておられます。

【論旨】
漢人(中国系)は、吉野ヶ里を拠点に絹(主に秩父から)の集荷と輸出を行い、九州南部(熊襲:漢人系か?)との協力関係も築いていた。一方、朝鮮人(天皇系)は、九州北部に拠点をもち、吉野ヶ里の包囲網として周辺に神明宮(祭祀:天照大御神)を数多く配置する。とくに漢人と熊襲との結びつきを断つために天草周辺には多く配置し、苗族を入植させた。遠賀川流域の岡田宮を拠点に吉野ヶ里を攻撃した。

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以下に詳細な記述を掲載させていただきます。

posted by kumana : | |

2006年11月01日

古事記って。。。(その2)

前回の続きです~。
つぎつぎと日本各地を征服(平定?)していったイザナギとイザナミはどこからやってきた人たちだったのでしょう :m052: :m052: :m052:

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古事記って。。。(その1)

はじめまして、ぶんです :m146:  よろしくお願いします。

古事記は、和銅五年(712年)太安万侶によって献上された日本最古の歴史書 :m061: です。
稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものです。
上巻(かみつまき)には、天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が日本神話の形式で語られています。

天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナギ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。
こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。
そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。
イザナギは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98(ウィキペディアから抜粋)<

実は、この神話の意味って侵略と同類闘争の過程を述べているものだったようなんです!! :shock:

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