« 2006年11月 | メイン | 2007年01月 »
2006年12月31日
今年の「縄文ー古代ブログ」を振り返って
9月から始まった縄文―古代ブログですが二十数人の方の参加のおかげでかなりの投稿数をいただき、なかなかの盛り上がりが出てきています。ランキングの方も人気ブログランキングで一時期1位を記録していた事もありました。(現在7位)
来年に向けてまだ助走時期だと思いますが、ますます :tikara: 盛り上げていきたいと思います。
そこで今年投稿された内容を振り返って、来年の追求課題を設定したいと思います。
では、最初(9月7日)に設定した課題群から再度眺めて見ます。以下色を付けている部分が今年投稿があった部分です⇒つまり、色が付いていない部分はまだ手をつけていない部分です。・・・・・⇒ぜひ来年は追求テーマにして下さい。色のついている追求過程の部分はさらに深化させてください。
PS:今回は縄文までの総括と課題化をしました。
年明けには古代世界の方と弥生時代を扱います。
①縄文時代を掌握する。→【縄文―基礎情報アレコレ】
②縄文前夜を明らかに【縄文―縄文時代の生い立ち】
③縄文時代はどこまでわかっているのか?何が未明なのか?【縄文―新報・追求テーマ】
④弥生時代に入り縄文文化は何が残ったのか?【縄文―縄文体質とは何か】
⑤ ディテール編【縄文―ディテール編】
A.食料事情(山、海、川)/B.土器技術と様式/C.土偶とは何か/D.生業全般:栽培技術・狩猟技術・採取技術/E.服装・建築・装飾具/F.思想:アニミズムの実態/G.社会:縄文の階級社会の中身とは(階層ではなく階級である)/H.贈与・交易:黒曜石・翡翠/J.海洋技術/K.祭祀:どんなお祭りがあったのか?
さて、投稿の全容を見て見ます。すごく手間がかかったのですが、今年の投稿を縄文系―弥生系―世界系に分けて月別に分類してみました。続きを読むをクリックしてください。(これを見るだけでも圧巻です・正月の間の歴史の勉強にも使ってください :-) )
縄文ー古代ブログの会員の方へ・・・今年1年、ありがとうございました。また、読者として参加いただいた日本中の縄文ファンの方ありがとうございました。来年は、さらなる追求と解明に微力ですが力を注いでいきますのでよろしく。また、新規会員募集していますので一緒にやりたい!という方はご連絡下さい。(管理人 田野)
posted by tano : 02:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月30日
鉄器の登場と戦争の関係は?
12月20日のみつこさんの記事「灌漑による集団統合課題の登場☆」、みなさん読まれましたか:m052:
水利をめぐって、戦争がおこるようになってしまったのはなぜ:m052:
ヒントは”鉄器”とのことで・・・私がそのネタ奪っちゃいます :nihi: :m034: :m034:
続きへ行く前にワンクリックお願いします。
:m118: :m118:
![]()
posted by pingu : 07:11 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月29日
渡来人と豪族の盛衰
5世紀中頃(古墳時代後期)から飛鳥時代を経て、平安京が築かれた奈良時代にかけて、それまでの物部・蘇我氏などの豪族と呼ばれる人たちの争いから、藤原氏を中心とする、強固な国家を造ろうとする動きが登場してきました。

図は「飛鳥の時代」さんよりお借りしています。
藤原氏らは、唐や新羅と争う一方で、中国の制度をとり入れた新しい国家の建設に努め、天武・持統両天皇の時にこの事業はほぼ完成しました。
律令(刑法と行政法)が国家の法典とされ、豪族の支配下にあった全国の民衆は、中央・地方に置かれた役所を通じて中央政府に支配され、694年の藤原宮の完成をもって律令制国家ができあがったといえます。
この豪族の盛衰と国家統合の背後にどのような力関係があったのか、
知りたい!と思った方はポチッとお願いします。
posted by simasan : 20:56 | コメント (1) | トラックバック (0)
縄文草創期の石器大量発掘!!
久しぶりの投稿♪さーねです^^
(先週はちょっとノロにやられましてお休みしてしまいました~すいません!)
今年も今日を含めて後3日。早いですねー
ただし、この縄文と古代文明を探求しよう!ブログに休みは関係なし!
逆に、冬期休暇中こそ、探求できる時間ですよ!
早速ですが、縄文草創期のイメージがだいぶ変りそうな発掘情報です :m051:
場所は、岡山県勝央町黒土、大河内(おおこうち)遺跡
>遺物は約30メートル四方の範囲でまとまって出土。東日本を中心に分布する神子柴(みこしば)型石斧2点(長さ17センチと15.1センチ)をはじめ、槍先に付ける尖頭器、弓矢の石鏃、動物の皮はぎに使うスクレイパー(削器)など、伐採や狩猟用の多様な石器が計45点発見された。(H18.10.6山陽新聞記事より)
草創期は、その生活様式含めて発展途上のイメージがありましたが、かなり変りそうな予感が… :m051: :shock:
:m118: :m118: 衝撃の発掘情報?はボタンを押してからどうぞ :m118: :m118:
posted by sawatan : 20:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年12月27日
藤原氏って何者?
学校の日本史の授業でところどころ「藤原氏」という名前がでてきます。
飛鳥時代から出現して、日本を動かした中心となった家というイメージですが、どんなふうに影響を与えてきたのでしょう?今回は藤原氏について調べてみました。
(この記事は、「系図でみる近現代」 「ウィキペディア」を参考にさせていただいています。)

●はじまりは中臣鎌足
最初に「藤原氏」を名のったのは、中臣鎌足。
大化の改新の功により天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族が藤原氏のはじまりです。
↓
鎌足の死後、中臣氏を率いた右大臣中臣金が壬申の乱で処刑された事もあって、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えた。
↓
●藤原不比等(645年-740年)・・・奈良時代の権力者
藤原不比等は藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖ともいえます。
↓
●不比等の4人の息子
藤原武智麻呂(むちまろ)680年 - 737年 (藤原南家)
藤原房前(ふささき)681年 - 737年 (藤原北家)
藤原宇合(うまかい)694年? - 737年 (藤原式家)
藤原麻呂(まろ)695年 - 737年 (藤原京家)
不比等亡き後、元正天皇・聖武天皇の時代に渡る長屋王との政権争いに勝ち、729年から737年の間、朝廷の政治を担ったが、737年の天然痘の流行により相次いで病死。四兄弟の子が若かったため、実務は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が担うことになった。この間、主立った実務官僚も次々に亡くなり、ついで、四兄弟のうち宇合の息子藤原広嗣が740年に乱を起こし、討伐されたため藤原氏の高位官僚の不在時代がしばらく続くことになるが隆盛を極めたのが、房前を初代とする藤原北家。
●現代の藤原氏は「藤原さん」ではないそうです。
実は、数世紀にわたって、大家族に膨れ上がった藤原氏は、日常生活を
するうえでの紛らわしさから、便宜的にその居住地に由来する家名を
名乗るようになり、鎌倉時代あたりからそれは、次第に定着していった。
例えばこの藤原北家のなかでも、道長・頼通の直系で、
摂政・関白になり得る最高の家柄を摂家・・・近衞・九條・二條・一條・鷹司(たかつかさ)を名乗るようになる。これが五摂家。
実質的には「藤原氏」の祖といっても過言じゃない藤原不比等はどんな仕事をしたのでしょう。まずはクリックお願いしま~す :m148:
posted by bunchan : 23:55 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月26日
大和朝廷の支配体制
天皇家を中心に、日本統一を果たした大和朝廷ですが、どのような方法を用いたのでしょうか?
当時の支配体制をまとめてみたいと思います。
氏姓制度http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-4-4.htmより抜粋
大和朝廷は、日本を統一し、天皇家中心による中央集権国家を築くことを目指していた。
それを実現させるためには、当然、中央・地方の諸豪族を支配体制下に組み入れる必要がある。
そこで、大和朝廷が導入した制度が氏姓制度(しせいせいど)だ。

posted by naoto : 21:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年12月24日
神々はついに人間と同じになった!?
神々に対する信仰の変遷を見てゆく中で、私もメソポタミアの神話を調べています。もともと崇め敬う存在だった神様が、いつしか人間と同じように扱われていく様はたいへん興味があります。
今日はそんな中から、ついに神と同等の立場に立った人間の事例を紹介します。 :nihi:
posted by saah : 10:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月22日
様々な説からみる土偶とは??

土偶については様々な説があるけど、「どこかにまとまっているのないかなー・・・」と、思った人は多いんじゃないかな :shock: そんなことを思っていた時、友人に良いHP(http://www.kenkenfukuyo.org/reki/konoha/konoha01.html)を教えてもらったので紹介します :D
:m118: 興味のある人はポチっと押して続きを読んでね :m118:
posted by postgre : 21:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
神様が時代とともに姿を変えたのは何で?
「困ったときの神頼み」「ああ神様、仏様!!」・・・普段はあまり、神様とか宗教とか、身近に感じませんが、人間、本当にどうしようもなくなると、人知を超えたものにすがりたくなるようです。ということは、神様や宗教っていうのは、人間が自分達で解決できない難題に直面したとき、やむにやまれず生み出したものなのかもしれません。
でも、神様と一口に言っても、その時代、時代によって、結構姿かたちを変えているのです。ということは、その時の時代がどんな状況だったかを考えると、神様の形も見えてくるのかもしれません。
ここでは、古代メソポタミアの信仰や神の形の変化を3つの「なんで?」に分けて考えていきたいと思います。続きを読む・・・
posted by hiroshi : 21:17 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年12月21日
信仰や宗教が生まれたのはなんで?(メソポタミヤ版)を追求してみませんか?
12月17日のなんでや劇場では「武力支配国家」と「宗教」の成立が扱われました。
世界史のなかでもメソポタミヤ地域は、最も古くから掠奪闘争が繰り返された地域であり、その闘争の中でより強力な武力支配国家が次々と出現し淘汰されて武力支配国家の原型が出来上がっていった訳ですが、そこでは「守護神信仰」というものが武力支配国家の成立に大きな働きをした事が扱われました。
日本でも古代国家の成立期のシャーマンである卑弥呼や国造りの神話が現れたように、信仰や宗教は(現実的な武力による支配と共に)統合上必要だったのだと思われます。
続きを読む "信仰や宗教が生まれたのはなんで?(メソポタミヤ版)を追求してみませんか?"
posted by nandeya : 22:35 | コメント (2) | トラックバック (0)
土偶解明のキーワード

土偶・・・いろいろな解釈があるようですが、
先ずは“土偶の特徴ってなんだろう?”って
ところから考えてみようか・・・とネットサーフィンで写真を集めていたところ、
既に土偶の特徴をまとめてくれているサイトがありました。
題して“土偶解明のキーワード”
三本指の土偶なんてのもあるんですよ! :shock:
:m118: まずはポチットクリックお願いします!クリック :m092: クリック :m092:
posted by mrran : 22:30 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年12月20日
灌漑による集団統合課題の登場☆
こんばんは~ :m017: 面白い記事が続いていますが、今日はちょっと縄文・弥生にトリップしてください :m083: :m003:
るいネットの投稿『縄文人の集団規模と共認の関係』に、
縄文時代は30人規模の単位集団だった。それは意思疎通が図れる範囲で、共認形成を諮ることを第一義としたから!という紹介がありました。みなさん、お読みになられましたか :D ?
でもね、集団のありようも時代(外圧変化)とともに変化するものなんです。。。
今日は灌漑稲作が始まって、集団のありようはどういう変化を迫られたのか?を見ていきたいと思います!
まず、ちょっとお勉強・・・。そもそも、灌漑って何?

寺家遺跡(弥生) 灌漑用の水路を、完掘した状態です。この溝の周辺には水田が広がっていたものと思われます。 いしかわの遺跡 さんから頂きました。
灌漑(かんがい)とは農地 :m146: に外部から人工的に水 :m010: を供給すること(by ウィキペディア)で、日本における灌漑技術の段階は大きく以下の4段階だそうです。(以下、引用及び参考は鷲田豊明氏『日本社会システムの起源』より。)
①弥生時代初頭~後期
自然河川に堰を設けて水位を上昇させ、溝で導水する
②弥生時代末期~5世紀の中頃
自然河川相互を結ぶ人工流路の掘削
③5世紀末or6世紀初頭~
②に、堤防を構築することによって自然河川を堰き止め流路を変更する、つまり、自然河川を途中から人工河川に転換する方式が加わる。
④7世紀初頭~
長大な人工流路の掘削による計画的大開発と溜池潅漑の普及
(その内、弥生時代は①~②に該当。だんだん技術が進歩してるのが分かりますね :m103: )
つまり、自然の雨水 :m007: に頼ったりするのではなく、人工的に河川水 :m064: を利用して農業を行うってことみたい。でもでも、この技術が私たちの先祖の集団関係に大きな影響を及ぼすのです!
えっ、どういう風に :shock: ?って思われた方、ポチっと押して続きをどうぞ :m027:
posted by mituko : 22:30 | コメント (3) | トラックバック (0)
2006年12月19日
卑弥呼伝説を明らかにする(2)
こんばんわ! :D tanoです。
前回の投稿から~以上から卑弥呼は海部氏の家系の人物(第6代孫)であると特定できるようだ。
さて海部氏とはなんだろうか?丹後半島に弥生時代に海部氏の足跡がある。卑弥呼を説く鍵は丹後半島にあった。次回に続く・・・。
今回も日本建国史さんから紹介します。
>私は弥生時代の強力な王権は、稲作に適した平野部に生まれたと考えていた。
なのに丹後地方は、日本海に面した山の中である。卑弥呼を擁立するような、王権が生まれるなど、とても信じ難い。
しかし、私の疑問を解く発掘がある。

posted by tano : 22:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年12月17日
中国の母系氏族社会
中国では、約6000年前に黄河中流区域で母系氏族社会繁栄期 :m102: に入ったと言われています。その当時の状況について興味深い史実があったので紹介します。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX1-2.htm)
↓写真は、現在も母系社会を続けているナシ族の女性です

母系氏族社会の原始宗教は自然発生したものである。こうした宗教は、原始の人々が共同で生きていく中で考え出したものであるが、いったん生み出されると、氏族集団全体の信仰に変わり、生活の各方面に浸透していった。
~~~ 中略 ~~~
こうした原始宗教は自然崇拝・トーテム崇拝・天神崇拝・祖先崇拝などを含んでいたが、母系氏族制の中で最も特徴的なものは女性崇拝(女始祖崇拝や女陰崇拝などを含む)である。
中国の上古の大部族はすべて母系氏族から発展した。そうした部族連合を統率する者は、母親は知っていても父親は知らないことが多く、自分は竜・閃電・虹などの自然物が人間と感応して生まれたのであると考えていた。
posted by postgre : 23:35 | コメント (1) | トラックバック (0)
縄文の言葉が残ったこと・・・・
縄文文化って今の日本にいったいどの位のこってるのかなー?と疑問に思ったことがあったけど、
先日あっそうか!と思った。普段はなしている言葉(日本語)ってひょっとすると・・・縄文時代から連綿と続いているのでは・・・

3000年位前の熊の土偶(青森県尾上山)
森の精霊、かわいいね。
posted by ihiro : 16:49 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年12月16日
舟を通じた中国文明と古代日本の交易
中国文明と古代日本の関係を交易を通じて俯瞰してみます。
中国には黄河流域の「馬の分化」と長江流域の「舟の分化」の2つがあったようです。今回は「舟の分化」を紀元前までの期間で辿ってみます。
>環シナ海に広がる「百越の民」と倭人たちは、秦・漢以前からゴンドラ型の竜骨舟にのって往来していたのだろう。東シナ海の荒波にもまれてしばしば遭難したこともあったろうが、呉越の造船技術や操船技術の発達はかなりのもので、すでに春秋戦国期に外洋航海の記録がある。 船首と船尾の反り上がったゴンドラ型の船は、季節風と黒潮に乗って朝鮮や日本に到来したことは、朝鮮海峡や日本海岸に残されたこの竜骨舟の絵図からも知られている。
この往来を通じて環シナ海の自然崇拝の観念が共有されるようになっても不自然ではない。長江中下流域の「良渚文化」から上流域の「三星堆文化」にいたるまで、越系の人々が河姆渡以来の太陽信仰・精霊信仰・鳥信仰・目玉信仰などの観念を共有していたことは、『ギャラリ-』の「長江文明のイメ-ジ」を参考にしてもらえれば、それが稲作と操船の民のどんな自然崇拝であったかを見ることができるが、朝鮮半島や日本に居住した倭人もまた太陽(女神)信仰・鳥信仰・蛇信仰などの観念を共有していたのである。 文明の周縁より
⇒三星堆遺跡から発掘された縦目仮面と青森県亀ヶ岡遺跡から出土された縄文時代の土偶の目がいずれも大きいのは、目玉信仰の系譜を踏んでいるように感じます。
*時代整理:
日本の縄文時代BC10000~BC500年。
中国の良渚文化と三星堆分化BC3300~BC1000年
疑問はBC8000~BC3300年の空白期間の交易はどのようなものだったのか?
続きを読む人は、ポチッと押してください。
posted by postgre : 22:03 | コメント (1) | トラックバック (0)
卑弥呼伝説を明らかにする!(1)
:D tanoです。
卑弥呼は非常に謎の多い女王である.
卑弥呼とはどんな人物か?どこに拠点があったのか?何をした人なのか?
どんどん関心が高まります。まだ調べ始めたところでタイトルのように展開できるかは自信がないのですが、方々の優秀な諸氏のHPを参考にしながら読み解いていきたいと思います。(予定では数回に分けて投稿しますが今回はまず第1回です)
まずは基礎データーを押さえておきましょう。ウィキペディアから紹介http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
>卑弥呼(ひみこ、158年頃?-248年頃?)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。

↑卑弥呼復原像~大阪府立弥生文化博物館より拝借しました。
次に魏志倭人伝から(同じウィキペディアから掲載です)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏志倭人伝によると、
「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」
卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明)。
「年已長大 無夫壻」
年長大であったが夫を持たず、
「有男弟佐治國」
弟がいて彼女を助けていたらしい。
「自爲王以來 少有見者」
王となってから後は、彼女を見た者は少なく、
「唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設」
ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。
「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏志倭人伝を素直に読むと卑弥呼は大衆を惑わす?とてつもない呪術師であり、王になってからは姿すら誰も見れない。生涯独身で長寿。唯一使えたのが側近の男性。卑弥呼の死と共に大衆は悲しみ後を追って死んだという。
さて天照大神から神功皇后まで諸説があるが古事記、日本書紀には卑弥呼の明確な記載はない。
卑弥呼を推定するにはこの魏志倭人伝が唯一の根拠になる。従って卑弥呼の実態には諸説があり、まさに史実から古代ロマンに近いものまで女王伝説が乱立しているのである。
その中で海部氏の『勘注系図』から卑弥呼を割り当てた論説がある。
海部氏(あまべし)とは・・・
>京都府の日本海側、宮津市に、日本三景の一つと知られる、天の橋立がある。
天の橋立が、あたかも参道のように海中に延びた北の端に、籠(この)神社と呼ばれる古い神社がある。その神社の宮司家である、海部(あまべ)家に古い系図が伝わる。
posted by staff : 08:40 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月14日
邪馬台国ってどこにあるの?・・・近畿説と九州説
邪馬台国ってどこにあるんでしょうか?
魏志倭人伝にかかれた邪馬台国への道のりを図にすると次のようになります。
(弥生ミュージアムさんからお借りしました)

邪馬台国の場所についてはいろいろな説があります。
「邪馬台国はなかった」という説まで・・・・・
が、そのなかでも有力と見られている説は近畿説と九州説です。
今日は、この近畿説と、九州説を紹介します。
続きを読む "邪馬台国ってどこにあるの?・・・近畿説と九州説"
posted by bunchan : 23:50 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月13日
土偶は妊婦を葬る葬儀品
土偶シリーズ第2弾!
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2006/12/post_57.html#moreの続編です。

しかし、とすれば一体この像は何か。 :confused: 私は長い間それを考えていまして、そして、この謎は今までどのような学者によっても解明されていません。それゆえ、10年程ずっと私はこの問題を考えてきました。しかし、アイヌのばあちゃんとの対話によって長い間の私の疑問が解けました。 :shock: そのばあちゃんは浦川はる というばあちゃんです。
著者梅原氏はばあちゃんの話をヒントに以下の結論を導き出しました。
土偶には葬られている。では何の為に・・・土偶が妊婦を葬る儀式として使われたことを示すものでありましょう。この、実際に葬られた妊婦と胎児の墓と、丁重に葬られた土偶の葬り場との関係はよくわからないが、多分、そのような葬儀の一端として使われたものであるに違いありません。(追記内の文章から抜粋)
posted by staff : 10:13 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月12日
卑弥呼は大倭の女王?
邪馬台国については、九州説と畿内説の論争が続いているようですね。
今回は、畿内説の立場からの記事を紹介したいと思います。
女王の統属する範囲
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/10c.htm
要旨:女王の統属する範囲は、西は、対馬、壱岐を含む九州北部。東は京都府と滋賀県の境まで。
この範囲を魏志倭人伝は『倭国』と称す。

続きを読む前にポチッとお願いします :D
posted by naoto : 23:49 | コメント (2) | トラックバック (0)
縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたの?vol.2
竪穴式住居についてさらに調べてみました。
調べていくとなかなか興味深い事が分かってきましたよ。
続きはランキングバナーをポチッと押してからお読み下さい。
↓ ↓ ↓ ↓
![]()
続きを読む "縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたの?vol.2"
posted by mukai : 20:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
日本の私権国家への道すじ(2)
こんばんは、くまなです。
前回は、前4世紀、海神族と白狄人(イザナギ・イザナミ)を紹介しました。今回は、前3世紀から2世紀初頭です。
中国では秦が中国を統一する前夜です。
各地で戦乱が絶えません。
前277年:秦が楚を討ち、江南を取る。
前254年:秦が魏を討ち、呉城を取る。
前224年:楚、江南で挙兵する。
上記のように中国の南東部(長江河口域)で、激しい戦乱が起こります。
このころ日本に中国南部の河姆渡人と思われる海人(アマ)族が渡来します。
対馬経由で出雲、その後北部九州志賀島を拠点に、筑前・肥前の沿岸部に居住します。
海人族の特徴は、温和、漁労(潜水漁)、海洋技術、金属技術(青銅・銅鐸・銅矛の製作)、全身入墨、稲・葦・竜蛇・鴨を祀る、で出雲神話と一致します。
→大国主命(オオクニヌシノミコト)ではないかという説があります。
さて、その後の中国は、
前222年:秦が燕を滅ぼす。
前221年:秦が中国統一。
【図:秦の中国統一】

⇒詳細な画像
(「最新世界史図表」第一学習社より)
posted by kumana : 00:10 | コメント (4) | トラックバック (0)
2006年12月11日
縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたの?vol.1
縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたのでしょうか?
答えは、みなさんご存じのように竪穴式住居です。 :lol:
これまでの調査・研究の成果から「竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)」と「平地式住居(へいちしきじゅうきょ)(掘立柱建物:ほったてばしらたてもの)」という、2種類の建物に暮らしていたのではないか、と考えられます。
続きを読む "縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたの?vol.1"
posted by mukai : 20:03 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年12月10日
武力統合のために「超越神」が必要だった
今回は宗教のお話しです。
古代宗教の起源はどこにあったのだろうと、少し調べてみました :roll:
「森と人の地球史」より引用すると、
>◎あらゆる自然を神と一体に見る「*マナイズム」
◎万物の精霊を神とし、自分たちを護ってくれる先祖の霊を信仰する「*アニミズム」
◎祖霊・万物の精霊が憑依し、現世の対話やお告げを行う「シャーマニズム」
◎種族を象徴する守護神、特定する主神を祭る「トーテミズム」
◎「言霊」によって悪霊を避け幸せを願う、あるいは敵対するものに災いをもたらす「呪術」
>*上田篤『神なき国ニッポン』は、マナイズムを「万物の中で超人間的、あるいは超自然的な力を持つものを畏れる「超人間教」「超自然教」、アニミズムは「精霊教」といってよく、万物にはどんなものにでも肉体の他に精霊がある」とみるものである」と定義している。
精霊信仰~守護神信仰~呪術信仰など、いろいろありますが、
さて、縄文時代はどうだったか?と云うと、
>マツリというハレの日には、男女とも精一杯のおめかしをしてご馳走を並べ、その喜びを祖霊に、森羅万象を形成する自然神に、森の中のありとあらゆる精霊に、種族を守護してくれる守護神に、心からの喜びの祈りや収穫の品を捧げて踊り、ニワトコやヤマブドウなど木の実の酒を飲んでトランス状態となり、神々や精霊と一体になって、笑い泣きまた陶酔の境地の中で歌い舞い明かしただろう。そうしたハレとケという習慣や心情は、かなりの部分いまのわれわれの心の中に継承されてきた。
>恐ろしい地震は「地母神」の怒りであり、火事は「火の神」、噴火は「山の神」、台風は「雨の神」と「風の神」、旱は「天の神」の洪水は「川の神」の、そして津波は「海の神」の怒りであった。縄文の民は過酷な自然現象に自らの罪意識を重ね合わせ、恐れおののいて許しを乞い、あるいは自然の恵みに素直に喜びを表現した。
確かに、地母神信仰などは感覚的に分かりますね。
日本人の心の中には色濃く残っていそうです :-)
ところが、どの文明を見ても、最初は精霊信仰や守護神信仰だったものが、古代国家へと統合されていく段階には超越神なるものが現れていますが、それは何でだろう?
posted by postgre : 19:15 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月09日
土偶はすべて異様な顔をしている??

土偶ってなんでみんな変な顔をしているんでしょう?みなさん考えたことありますか?
下記のHPに興味深い記事を見つけました。
ちょっと長い(これでも抜粋しました)ですが、本文をそのまま紹介したいと思います。
紹介文読む前にこれ :m097: ポチットお願いしますね!
(「縄文人の世界観」・日本人の原像を求めて 三方町縄文博物館館長 梅原 猛)
posted by mrran : 21:55 | コメント (3) | トラックバック (0)
2006年12月08日
縄文時代の「よくわからない石器」~争いに触れてしまった縄文人の意識
るいネットの投稿「土偶に見る収束不全」
は、縄文後期の意識状況に近いんじゃないかな?と感じさせるものであると思います。その中で、以下の部分が僕としてはすごーく気になったところです :confused:
>弥生に突入する直前、BC1000年頃土偶が急激に増えています。土器もさまざまな複雑な表現が加えられます。その時代朝鮮半島から弥生人が入りだし併せて農業が始まった事と重なります。その後弥生時代を迎える九州地方は突然土器の様式が無紋という形に変化し土偶は完全に姿を消します。
BC1000年頃=約3000年前は、ちょうど縄文時代後期に当りますが、この時期になんのために作ったのか?「よくわからない石器」が増えているのです。
一体この時期に何が起きたのでしょうか :m050:
:m118: :m118: ポチっとクリックしてくださーい :m118: :m118:
byさーね
続きを読む "縄文時代の「よくわからない石器」~争いに触れてしまった縄文人の意識"
posted by sawatan : 12:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2006年12月07日
二重構造モデルの補足の補足
カッピカピさんこんばんわ。 :D
tanoです。コメントにかけなかったのでエントリー投稿します。
さてカッピカピさんが補足していただいた二重構造モデルって一体なんなんでしょう?
少し調べて判ってきた事がありますので補足の補足をします。
二重というのは何かの上に何かが重なるという事ですね。(文字の通り :confused: )
この二重とは基層となる縄文人に渡来人(弥生人)の血が加わり現在の日本人ができているという理論です。なぜ二重構造モデルが必要になったのか?ネットで検索して拝借した下記の論文ではその事に少し触れています。
>縄文文化の担い手たちを「縄文人」、弥生文化の担い手たちを「弥生人」と呼ぶとすると、縄文人=弥生人というのが、この説の主張するところです。縄文文化の担い手であった日本人の先祖たちが、大陸や朝鮮半島の進んだ文化を受け入れて、弥生時代という新しい文明段階に進んでいった、というわけですね。
ところが近年、形質人類学や分子人類学、ウイルス学等の発達に伴い、骨格や頭蓋骨の形と歯形、そしてウイルスやDNAなどをより厳密に比較することが可能となり、縄文人と弥生人との間には、とうてい同一人種とはみなせない相違があることが明らかとなりました。
この問題を解決するため、人類学者の埴原和郎氏は「二重構造モデル」という仮説を提出しています。『日本人の骨とルーツ』という本から、少し長いのですが、引用します。この中で埴原氏は縄文系と渡来系という言葉を使っていますが、渡来系とは弥生人のことであるとお考えください。
さて、埴原氏の文献を見て見ましょう!。
『日本人の骨とルーツ』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31018072
「日本人の起源と形成の問題はいまだに研究者の興味を引き、論争の的になっている問題も少なくない。本書では、現代にもみられる日本人の地域性を、縄文系集団と渡来系集団の混血の濃淡によって説明し、地域性や自然環境、文化の発展などにも着目する。日本人の形成史を縄文系と渡来系の「二重構造モデル」で分析し、自然人類学の視点で日本人のルーツを探る。」~yahooブックス解説より

埴原氏の原文を読んでみたい と思った人はぽちっと押して次へどうぞ。
posted by staff : 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
二重構造モデルの補足
こんにちは、カッピカピです。
yuyuさんが以前に書いてくれた記事に出てきた「二重構造モデル」について調べていたところ面白いHPを見つけたのでご紹介したいと思います。
posted by hi-ro : 16:56 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年12月05日
スサノオは、箕子朝鮮から逃げ延びた王族の一派だった!?

古事記によると、イザナギが黄泉の国から逃げ帰ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます。
スサノオは、乱暴物 8) として描かれています。アマテラスのところにいってさんざん暴れまわった挙句、とうとうアマテラスは岩戸に隠れるという事件を引き起こしたり・・・一体何者 :m052:
「古代で遊ぼ」さんによると、スサノオは逃げてきた箕子朝鮮の王族だったのでは?と考えられています。
そのまえに箕子朝鮮って何? と思った人はぽちっと押して次へどうぞ。
続きを読む "スサノオは、箕子朝鮮から逃げ延びた王族の一派だった!?"
posted by bunchan : 18:54 | コメント (5) | トラックバック (0)
2006年12月04日
黄河文明 古代の戦争は呪力と呪力の闘い!?
古代の統治は、祭祀によって行われていた。血縁関係のない多くの部族を結びつけるには、祭祀が必要だったようだ。
そしていざ戦争ともなると、強力な呪力を持った巫女の勢力による呪詛が敵に向かって放たれ・・・
:twisted:
(写真は殷時代の紋章と言われているもの)
posted by ihiro : 10:01 | コメント (5) | トラックバック (0)
2006年12月03日
古代中国が一妻多夫制だったって本当?
古代中国は母系制社会だったと言われていますが、それは「姓」に表れています。
サイト「中国的こころ」http://www.h3.dion.ne.jp/~china/に林雅子氏訳『中国姓氏考』が紹介されていますので、引用して紹介します。
>中国人の名前には、姓、氏、名、字、号があります。ひとりの人物が色々な名で呼ばれるのは、これらが複雑に絡み合っているからなのです。
へー、こんなにあるとは知らなかった!
>古代中国人の男性の名は、「姓」+「名」で構成されていました。姓とは何でしょうか。
姓とはいわゆる苗字ですが、『説文解字』には「姓は人の生まれる由来であり、女に従い生に従うという。故に姓(女+生)という