2007年01月10日
鉄器の流通
明けましておめでとうございます
みつこ
です。
今年も少しづつですが、このブログで勉強していきたいと思います
さて、今日は古代の鉄について調べてみました~。
弥生時代はこれまでの石器に変わって鉄器が普及して、農業の生産効率を飛躍的に上げることになるのでしたよね。
でもその普及にも、やはり段階があるようです
。
①鉄の使用
日本で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部だそう。
しかし、縄文時代はまだまだ石器
が主体なんです。
弥生時代に入り、青銅器に続きようやく鉄器が普及しだすのですが、それはまだまだ輸入ものなんです。
弥生時代初め、北部九州に伝わった鉄器はまだわずかで、ごく一部の人々しか手にできないものでした。やがて稲作文化が日本各地に定着したころ、中国が戦国時代をむかえ国内外が動乱した影響で、朝鮮半島製青銅器とともに中国製鉄器が日本に流入するようになりました。それらを独占した北部九州の有力者は、権威を表すものとして良質の管玉(くだたま)・ 勾玉(まがたま)を欲し、日本海を渡り山陰や北陸と交易を行ったようです。
鳥取の潟湖(せきこ)に接した海辺のムラ・青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は、その交易ルート上に位置する重要な寄港地だったため、山陰・北陸地方で最も古い中国製鉄器が出土しています。
②鉄の加工
弥生時代中期中葉から後半(1世紀)になると、北部九州では鉄器
が普及し石器
が消滅していきます。(でもタイムラグがあるので全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了するのだそうです。)
弥生時代になると、鍛冶工房の遺跡が不完全ながらも出土しており、かなりの高温
を作り出せていたようで、ご先祖さまたちは加工をし出します。
日本に伝わった初期の鉄器は中国製で、溶かした鉄を鋳型(いがた)に流し込んで造った鋳造(ちゅうぞう)の斧がほとんどでした。それらは木を伐採するのに絶大な威力を発揮しました。また、たとえ割れて破片になってしまっても、一辺を砥石(といし)で磨き刃をつけ、ノミや小型の斧として再利用されました。こうした工夫は弥生時代の石器にもみられるもので、倭人(わじん)が考え出したリサイクル方法といえます。鋳造された鉄斧(てっぷ)は炭素をたくさん含むために堅い反面、衝撃に弱くて壊れやすい特徴があり、これを補うために表面の炭素を減らして柔軟性を持たせる“脱炭(だったん)”処理を施していました。青谷上寺地遺跡の鋳造鉄斧を分析したところ、やはり表面に脱炭処理を施した痕跡がみられました。初期の鉄器使用を可能にしたのは先進地・中国の高度な技術と倭人の知恵だったのです。
すごいですね
!
さらに
、鉄の導入をめぐる集団間の同類圧力の上昇を示す記事を発見
(
少し長いですが・・・)
少し遅れて、丘陵上に集落を営む妻木晩田遺跡でも鉄器を製作するようになります。交易で得た外国産素材から作られた地元製品と、九州から運ばれた製品、そして少数の外国製品という鉄器の組み合わせは青谷上寺地遺跡も同じで、両集落が最盛期を迎える頃(約1800年前)には、他に例を見ないほど多数の鉄器を保有するまでになります。同じ頃、朝鮮半島で鉄器の生産がさらに活発となって倭国内での鉄器の流通量が増え、鉄の効用が広く知られるようになったことで、木製農工具の多くに鉄製の刃が付けられました。その結果、日本海沿岸ルートの交易の比重が大きくなり、山陰は周辺地域との関わりを深めていきました。特に北陸は鉄と交換する玉材の産地であり、高杯に代表される木製容器や鉄器・玉の製作技術に共通点が見られることから、強いつながりがあったことがうかがえます。当時のリーダーには次第に高まる鉄の需要を満たすだけの供給量を確保することが求められましたが、北部九州を窓口とする交易だけでは十分な量は賄(まかな)えなかったことでしょう。
そのため、北部九州を仲介しない朝鮮半島との交易を試み、鉄器を獲得しようとしたと考えられます。青谷上寺地遺跡の大型鉄斧や妻木晩田遺跡の踏み鋤(すき)(土掘具(つちほりぐ))など、北部九州でも出土していない朝鮮半島製鉄器がみられ、大刀などの大型武器が日本海沿岸地域の王墓に副葬されることも朝鮮半島との交易を示しているのでないでしょうか。
なるほど
鉄の流通経路を開拓したり、独占?できた者(集団)が、より力をつけていく様が分かります
。
引用元:『とっとり弥生の王国の謎をさぐる』
投稿者 mituko : 2007年01月10日 20:30
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コメント
面白い記事をありがとうございます。
縄文人は「手」を使い、工夫思考で様々なものを生み出していますよね。縄文土器、漆塗りなどは世界的に見て驚くべき成果と思います。
採集部族として定住をして適度な余暇を得た彼らは、その余暇を様々な技術開発にあてたのだと思います。
こうして培われた追求姿勢が製鉄技術などにもいかされたのでしょうね。
輸入した技術を骨格にして工夫を重ね、改善に次ぐ改善を施し、結果として、オリジナルの技術をはるかに凌駕する成果を出す、というのは日本人の特徴。
「日本人にはオリジナリティがない」などと揶揄されたりしますが、この世界に誇るべき追求姿勢は縄文期に培われたものかもしれませんね。
(ちょっと横道にそれたコメントでごめんなさい)
投稿者 隼 : 2007年01月11日 11:59
日本の鉄の文化をもっと調べると面白いかもしれませんね。
鋳鉄、製鉄、鍛鉄・・・。
古代の鉄はたたら吹きという製法があったそうです。
5世紀頃 出雲地方や九州地方で製鉄が始められた。しかし、他の文化圏のように高温を保つ技術力が無かったため、製鉄としては低温なたたら吹きが開発され広まった。幸運な事に、たたら吹きでは純度の高い玉鋼を作り出す事ができ、それが後の日本刀を生み出す礎となった。
たたら吹きとは・・・(踏鞴吹き、鈩吹き、たたらぶき、タタラ とは、和鋼(玉鋼)を製造する製鋼法で、玉鋼製造ともいい砂鉄による直接製鋼法で日本独自のものである。木炭と砂鉄を交互に装荷し、燃焼反応により砂鉄を還元させ和鋼を得る方法。島根県横田町(現奥出雲町)に日刀保たたらがあり、そこが唯一の正統な日本刀の素材供給所として、この方法で和鋼を製造している。
隼さんがおっしゃるように、まさに「手」の文化の結晶ですね。
投稿者 tano : 2007年01月11日 20:26
隼さん、tanoさん、コメントありがとうございます☆
そうなんですー。調べていたら"たたら"に関する記事が多くヒットしました!特に中国地方は砂鉄や鉄鉱石が採れ、多くのたたら場があったようですね。
中でも村下(むらげ)と呼ばれる技術責任者?は、どのタイミングで風を送り込むのか?とか相当の熟練の技を持っていたようです。村下の中には、火を直視する為ついには視力を失ってしまう方も多かったそうです><。(火の中に精霊を見てたりしたのかな?)
縄文時代に培われた追求力、現代こそ発揮していきたいですね。
投稿者 みつこ : 2007年01月12日 20:07
そういえば、旧暦の10月を神無月といいますが、
出雲では全国から神々があつまるので、神在月に
なっているといいます。この理由の一つに、諸神の
母神であるイザナミの法事を行うということが考えられています。鉄の都、安来にはイザナミの御神陵があるので、「神々の首都」とは面白い表現ですね。
じつは、島根県観光動態調査というところを検索して、島根県の各地域の1年間の観光客数の推移を見てみますと、他の地域はお盆に観光客数が増えるのに、毎年、安来だけは神無月にピークをむかえているのです。なんかきになりますよね。
あと「雲太、和二、京三」ってことばの別解釈に
首都の変遷順を示しているという説があるのも見逃せないですね。
投稿者 久米横屋 : 2007年09月01日 23:31
和鋼ってひょっとすると日立金属さんのヤスキハガネの前身のもののことじゃないですか?特殊鋼業界ではいちばん有名な素材の大本の話になっているわけですね。
投稿者 八島 : 2008年07月30日 21:24
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