| メイン |

2007年02月05日

西ローマ帝国の滅亡(民族の玉突き)

こんばんわ。初めまして、たかあつです。
古代のヨーロッパはどうやってできていったのでしょうか?
その秘密は古代ローマにあります。
古代ローマは世界支配に新しい形を示したとされる。それ以前は先進国が後発国を支配して覇権国となったが、ローマになってそれが逆転し、後発国が先進国を支配することで覇権国となるという形があることを示したといわれる。それとてヘレニズム世界が先駆けであったといえなくはない。このローマも、その将軍小スキピオ(前185-129)がカルタゴの劫火をみながら、「ローマの運命もいつかはこうなるだろう」といったようになる。
それは、ローマ帝国の住むすべての自由民が首都ローマ人と同じように市民権を持つこととなり、また属州の支配者たちがローマの貴族や騎士と同じように振る舞い、その領地を自前のポリスとして運営するようになると、ローマ帝国は分裂するしかなくなる。それを「蛮族」に一撃されて瓦解する
海上交易の世界と歴史 
%E5%8F%A4%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg
時代を遡って前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。(武帝という皇帝の時代)この以前から中国北方の草原地帯では匈奴(きょうど・フンヌ)という遊牧国家があり、中国を圧迫していましたが、武帝の時代になってはじめて北方遠征で匈奴に勝利します
負けた匈奴は漢に追われる形で西に移動を開始しました。・・・さてここからヨーロッパが作られていきます。
なんで!と思った方は ポチッとお願いします。
 Blog Ranking

 にほんブログ村 歴史ブログへ


匈奴は約400年かけてゆっくり移動したようです。途中に出会った他の遊牧グループと合体したり吸収したりしながら移動したと思われます。(これがフンという名でローマの歴史に登場します。匈奴とフン族は同じモノだろうといわれています
ローマ帝国の北方から黒海北岸にはゲルマン人が住んでおり、部族単位で農耕牧畜中心のをして生活していたようです。そこに東方からフン族が移動、玉突き状態になって、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」となります。フン族に追われて移動するゲルマン人は、安住の地を求めてローマ帝国内に侵入していきます。
以前からゲルマン人のなかにはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となるものなどもいたようです。その中には強引にローマ帝国内に集団移住しようとする集団もあってローマ皇帝は頻繁に辺境で戦っています。しかし、それと今回の移動は規模が異なりました。(大量のゲルマン難民が大量に流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています)東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功しゲルマン人が侵入するのをくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗します。
次々に雪崩れ込むゲルマン人で西ローマ帝国は大混乱となり、最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケル(ゲルマン人)に殺されてます。(476年)ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国のあちこちに勝手に建国し、さらにお互いに交戦することとなります。 :evil:
例えばガリア地方北部に侵入したフランク族はフランク王国をつくりました。(これが現在のフランスのもとです)ローマ人たちはこの新しい「蛮族」となんとか折り合いをつけて生活するしかなかったと思われます。長引く混乱のなかでローマ時代の文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態であったようです

投稿者 taka-atu : 2007年02月05日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/02/132.html/trackback

コメント

なるほど~。
面白い事例ですね。そういえば子供の頃貝を集めていて宝貝だけは別格でした。きっと海の地方の商人が内陸部の王様に届けて喜ばれていたんでしょう。
「この貝は世界にひとつしかありません。命がけで取ってまいりました」と。
確かに商人は嘘はついていません。(--)
こんな話が現在の市場の源流にあったのです。ホントかうそか?

投稿者 tano : 2007年2月18日 00:46

中国にも貝貨ってあったんですね。
貝貨は、必ずしも私権と密接に関わっていた訳ではなさそうです。これは、調べて投稿しようとも思っているのですが、未開部族が、貝などの独自の貨幣シンボルを用いているからです。
どうも市場・交易システムとは別の貨幣という独自のシンボル世界というか交換システム?があるのではないかと思います。
私権時代でも、貝貨は残りますが、身近な集団間の日常品に近い物の交換は貝貨で行い、貴重品の交換は金銀などでおこなっていた例があるようです。
そう考えると貝貨は、限られた地域・共認域での日常的な交換手段として用いられてきたのではないかと感じてます。
※今回の殷の事例は、殷という海から遠い集団には貴重品ということで、商人が持ち込んだのかもしれませんね。

投稿者 Hiroshi : 2007年2月18日 16:36

tanoさん
ホントか嘘か?で言えば、殷に関してはやはり祭祀=宗教が統合軸。そのような信仰深さが、貴重であるという認識に繋がったのかなと思います。

投稿者 さーね : 2007年2月19日 17:46

Hiroshiさん
なるほど。
殷も未開部族も信仰という点では同じですね。
しかし、統合形態が支配か共同かの違いがあるのかなぁと思います。
中国では、殷だけでなく、その後も貝貨に似せた貨幣のようなものが流通している時代もあるようで、やはり幻想共認があったのではと判断しました^^
もうちょい、追ってみます^^

投稿者 さーね : 2007年2月19日 17:51

コメントしてください

*