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2007年04月30日
中国文明:支配は食にも及ぶ!?~中華料理の起源とは?
今晩は、さーねです :o
今日は、先日のラーメン文様の秘密!?に続き、”食 :m078: ”のネタです :m029:
たまたま、ネット探索中に東京対馬館さんで面白い”食ネタ”に出会いました :m051: :P
今日のネタはとても簡単です。
GW連休中、中華料理を楽しむ方達もいるでしょう。食を楽しむだけではなく、なんでこんな食文化になったんだろう :m050: ちょっと考えてみると、また食事も楽しくなるのではないでしょうか :m050: :D
:m118: 知りたい人はぜひ応援をー :m051: :m118:
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posted by sawatan : 13:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月29日
中国と日本の死生観の違いって?
お墓の話題が続いていますね、こんばんは。
今回は中国文明からアプローチして、死生観のサワリに触れてみたいと思います。
日本の諺に、
「人生は夢のごとし」、「生ある者は死あり」などありますね。
いずれも人生の無常を説いたものですが、これは仏教が伝わって以降です。
一方で、日本には儒教の教えも影響していますね。
>死者の魂はこの世のしがらみから解放されれば一応成仏したというが、その後も定期的にこの世へ戻ってくる(あるいはわれわれが招き寄せる)と考え、その時に備えて死体の一部を墓に納めて管理し、招かれた魂と死体が依りつけるようにと位牌を用意する。そもそも丁重な祖先祭祀の出発点として、盛大な葬儀を催す。(『沈黙の宗教―儒教』と宗教の本質より)
それよりも、儒教や仏教が伝わる前から、
>日本人は死を意識しながら生きている民族であり、日常的に経験する死の場面を文化にまで昇華させているように思われる。自然の摂理に融け込みながら、死を生活の一部として淡々と取り入れ、自分が人生の最終局面に向かい合うときにはいかにしてきれいに死ぬのかを考えているようである。(やまさんのブログより)
このような日本人の死生観は、もっと追及していきたいところです。
さて、一方の中国では、
死刑囚の臓器売買を行なったり、皮膚から化粧品を作ったりと、日本人の感覚からは考えられないようなことを平気で行なっていますが、ここには死生観の違いが影響しているようです。
では儒教の強い中国では、どのような死生観なのでしょうか?
posted by nishipa : 20:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
古代の墓の変遷~集団統合から、支配・国家統合の為の装置へ
こんにちは、simasanです。
お墓についての話題で盛り上がっていますが、ここでちょっと、古代の墓の変遷について、時代背景と墓の特徴を整理してみました。
以下、一部
「お墓の歴史 縄文時代」
「日本社会システムの起源」 から引用させてもらってます。
知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします。
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posted by simasan : 15:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月26日
弥生~古墳時代 一般人の墓事情

「方形周溝墓」
画像は発掘情報いばらき さんよりお借りしました。
こんばんは :m208: bunchanです。今日もお墓の話題です。
646年。「薄葬令」っていう御触れがだされています。墓や葬るにあたって、簡素化しなさいってことのようです。・・・てことはそれまでは華美だったってことですよね。
時代は大化の改新の翌年。その前は古墳時代でした。中国・魏文帝の節喪令の影響が見られるそうです。
『史記』、孝文帝紀には次のように書かれています。
『今日では、世の中の人々は生を喜び死を憎み、過剰な葬儀を営まんが為に仕事も出来ず、しかも喪に服する期間が長い為に皆痩せ細って今にも死にそうである。このような現状を自分はとても受け入れる事が出来ない。しかも余は不徳で人民の生活を助ける事も出来なかった。今、自分が死んだ後、三年にも及ぶ長い期間このようなことをさせる訳にはいかない。天下の君主になって二十余年になるが、その間天地の祖霊と皆々のお陰で戦争さえなかった。さぁ、天下の官吏民衆に告げよ。この令が届いたなら、会葬すること三日で喪服を脱ぎ、娘は嫁にも出してやれ。神と先祖を祀り、酒を飲み、肉を食する事も許し、会葬に臨む者は裸足でなくてもよい。喪服の帯は三寸を超えてはならない。車・兵器は布で覆わず、宮殿の中で泣くのは朝夕二回、各々十五回声を出せばよい。棺を墓に納めたなら、大功の喪服の者は十五日、小功の者は十四日、麻の喪服の者は七日間で喪服を脱げ。この令にないことはこれに準じて行なえばよい。天下に布告して私の気持ちを知らせよ。山河の自然はそのままにし、後宮の女官は一人残らず家に帰してやるがいい。』
薄葬令では、墓の大きさ・造営期間・そのための人員等が細かく規定され、また殉死の禁止も定められています。
例えば、皇族以上に対しては墓の内は長さ約2.7メートル、幅1.5メートル。
外域は縦横とも15メートル、高さ8.5メートル。
工夫1000名、工事期間は7日。
葬礼の垂れ帛は白布。一般庶民は
死者は一日も留めることなく土中に埋葬すること。
垂れ帛は粗い布。
また、葬り場所は決められた場所のみとし、方々にみだりに埋葬してはならない。
宝物を納めたり、哀悼の為に髪を切るなどしてはいけない。等の規定があった。
以上参考、「お墓の歴史」
皇族以外の一般庶民にもこんなおふれがだされるとは・・・当時の墓事情ってどうだったのでしょうか。
続きにいくまえにぽちっと・・・おねがいします :m023:
posted by bunchan : 23:10 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年04月25日
縄文人にとってお墓とは何だったのか?
旧石器時代には見ることのなかったお墓。
縄文人にとって、お墓とは何だったのでしょう?
「大湯環状列石」 より
《引用開始》
集団墓としてかなり明瞭な性格を示す環状土離に対し、大湯環状列石はその性格をめぐって論争を引き起こしたことはよく知られているところである。
この配石遺構をめぐる論議の一つは、その機能が共同墓地であるか、或いは“まつり”にかかわる施設であるかという点に集約される。
この調査では約100基の組石の中から任意の14基についてその下部が調査され、その多くから幅1×0.7m、深さ約0.7mほどの比較的小さな小判型をした土坑が検出されたが、それらの土坑からは、人骨や埋葬用の副葬品は発見されなかった。
周辺からの出土した土器から、縄文時代後期につくられた可能性が高くなったが、墓である確証は得られず、それが積極的に墓地説を推進する上でブレーキになったのである。
posted by naoto : 18:00 | コメント (2) | トラックバック (1)
2007年04月24日
屈葬とベンガラについて~その2
前回は、屈葬とベンガラの意味について、胎児の姿勢をまねて再生を願ったとする説を中心にした紹介でしたが、では、実際にどこからベンガラが使用された遺跡が見つかっているのかについて、少し調べてみた内容と、別の説を補足として、エントリーしておきます。

<屈葬:縄文文化の超自然観より>
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/area/ne_asia/Jomon/index
実はあまり全国的には発掘事例は多くはないようなのですが、日本では、北海道から東北部にかけて、また縄文後期から晩期にかけて、ベンガラがまかれた遺跡が発掘されているようです。
その内、代表的なベンガラがまかれた遺跡は、北海道の恵庭市カリンバ跡(縄文時代後期後半(約3500年前))のようです。
posted by yuyu : 23:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月23日
彩文土器の色々 ホント色々ですよ
:shock: 縄文土器の話ではなくメソポタミアの土器の話です。 :shock:
皆さんもご存知のように彩文土器ですが、有名なウバイド土器を始まりとして、世界各地に広がっています。広まった原因は侵略と交易によるものでしょうが、どこまで広がったと言うと
>地中海のミノス文化からミケーネ文明、エジプト、メソポタミア、インダス各文明、ルーマニアやハンガリーなどドナウ川流域、ドニエプル川やトルキスタンなどに分布。日本では弥生式土器のなかにこの形式が残っている。<と南風博物館にありました。
最後は日本の弥生式土器にも繫がっているとのこと。ちょっと驚き。 :roll:
そこで今日は写真で変遷を紹介したいと思います.
その前に
posted by dokidoki : 10:54 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月22日
農業と文明と環境の関係
農業は産業革命と並んで文明発展の転換点となったといわれていますが、「人類は何故農業を始めたのか」、またその「農業が生んだ古代文明はその農業の失敗によって滅んだ」という視点から「ユーラシア1万年の農業史から人類の未来を考える 」取り組みをしている人を紹介しよう。
posted by ryujin : 21:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
十字軍って実は侵略軍だったって・・・ホント!?
突然ですがみなさん、十字軍 :m220: って知ってますよね :m052:
私の記憶では、十字軍といえば「少年十字軍」が印象に残ってます。
聖地を奪還するために、平均年齢12歳の少年少女が命を顧みず集結した :m051: な~んてとってもウツクシ~イ :m034: 物語だと思っていたのですが・・・・
トンデモナイ :shock: :m051:
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posted by pingu : 19:38 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年04月20日
文字の不思議
文字の起源っていつごろか知ってますか? :-)
世界最古の文字は、古代メソポタミアのシュメールの絵文字と言われているそうです。
メソポタミアの楔形文字も最初は象形文字(絵文字)が出発点だったと言うのが、現在では定説らしいです。 :roll:
古代の文字が実際にどんな文字だったのか覗いてみませんか? :D
By ヒロシ
posted by hiroshi : 21:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月19日
法典石碑を建てたハンムラビ王の状況に同化してみる。
メソポタミヤ社会を知る上で欠かせないのが「ハンムラビ法典」です。 (今回も南風博物館さんから引用させていただきます。) ハンムラビ法典は、野蛮な復讐の法として有名ですが、実際はそうではなく当時の社会を秩序化するために考え出された新しい政策だったようです。
ちょっと、ハンムラビ王の状況に同化してみてみましょう!!
>
注:写真が法典の原文とされている石碑です。高さは2.2m(実際見た人は「思ったより大きかった!」という人が多い)で頂部にレリーフ、下部は楔形文字がびっしりと彫られています。レリーフは当然、ハムラビ王(左側の立っている人)で、神様(右側の座っている人)から杖と輪を授かっています。
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posted by nandeya : 22:03 | コメント (5) | トラックバック (0)
縄文人にとって病気は致命傷だった!!
今晩はさーねです :P
最近、ちょっと前までインフルエンザ 8) が流行ってましたね :m002:
このような伝染病(これが社会的問題になる疫病と呼ばれます)実は縄文にもあったと言われています。しかも、後期・晩期の人口激減は、寒冷化と共に疫病説も唱えられています。
>4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。社会実情データ図録より
縄文人の人口激減は諸説あるようですが、今日は、縄文人にとって病気はどのくらいの外圧だったか :m050: 調べてみました :m051: :cry:

:m043: :m118: いつも応援ありがとうございます :m118: :m044:
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posted by sawatan : 21:44 | コメント (8) | トラックバック (0)
2007年04月18日
古代イスラエル王国建国まで
こんちゃ!ベジーです :m026:
ユダヤ民族を追いながら、古代のイスラエルが出来るまでを調べてみました。
ユダヤ民族は、もともと遊牧部族セム族の一派で、彼らはレバント地域(今のパレスチナ・レバノン地域)で、安定的な縄張りを確保できなかった民族でした。
また、彼らは縄張り確保できなかった故に、民族内の殺し合いにまで至った民族でもあります。
しかし、いくら民族内の殺し合いをして人口を減らしても、縄張りが確保できるはずもなく、ユダヤ民族は、レバント地方からエジプトに移り住みます。
続きはポチッと押してからヨロシク!↓
posted by jomon10 : 23:08 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年04月17日
イスラエルに起源を探る。
こんにちわちわわです。
今でも火種が絶えないパレスチナ問題。
主役はイスラエル=ユダヤ人です。
紀元前11世紀、古代イスラエル誕生から、第一次大戦後1948年に独立宣言するまで
アッシリア、新バビロニア、ペルシャ王国、マケドニア王国、プトレマイオス朝、セレウコス朝、ローマ帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国、十字軍、マルムーク朝、オスマン帝国、英国に支配され続けてきました。
何故こんなに血みどろの戦いをしつづけ、現在もその火種がおさまらないのか?
イスラエルに迫ってみます。
posted by tiwawa : 22:53 | コメント (3) | トラックバック (0)
屈葬とベンガラについて
縄文の死の話盛り上がってますね。
特に、naotoさんも紹介されている「屈葬」について、興味わきましたので、調べて見ました。
まずは、るいネットの過去の投稿の中から、調べてみると、屈葬についての紹介がありました。
屈葬の理由は諸説ありますが、いくつかあげると、
1・掘らなければならない墓穴が小さくてすむためという省エネ説
2・胎児の姿勢をまねて再生を願ったとする説
3・休息の姿勢であるという説
4・死霊を恐れた事が原因とする説
(20128 屈葬の意味 三ヶ本万州夫氏 )
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=20128
4つも説があったんですね。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/publish_db/books/dm2000/japanese/02/02-05.html
<屈葬状態の縄文人骨格ー東京大学総合研究博物館>
で、さらにるいネット内過去投稿を調べてみると
縄文時代の屈葬において、田野さんも紹介されているように、遺体の頭から胸部にかけてベンガラを散布する風習があります。人のなきがらに赤い顔料を振りかける風習は、旧石器時代以来、世界の各地で行われているとのこと。 先史時代の人びとは赤い色に何か特別の呪術的な力が秘められていると信じていたのかもしれません。
記事内の「血液の代わり」というのがひっかかったのですが、次のような仮説がありました。「太陽が生まれるとき、死ぬとき、それぞれ「赤」に包まれるからこそ再生されると考えていた。朝焼けと夕焼けの「赤」と、出産時の出血と埋葬のベンガラの「赤」は同じ役割を持っていて、向こうの世界に生まれ変わるための橋、あるいは向こうの世界を開く扉なのである。だから屈葬という、まるで母胎内にいる胎児の形で埋葬するのである」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=20332
(20332 屈葬とベンガラ 三ヶ本万州夫氏)
屈葬とベンガラすごく関係がありそうです。

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/008.html
<ベンガラぬりの「つぼ」二戸市 雨滝(あまたき)遺跡>
posted by yuyu : 00:16 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年04月14日
ラーメン文様の秘密!?
皆さん、なにげに食べているラーメン。その器の定番、あの四角い渦巻き模様って何を示しているかご存知ですか?あれはラーメンの模様ではありませんでした。

中国で雷をかたどった伝統の文様で、雷光を四角い渦で表わしている。雷は、渦巻く黒雲から生じるため、それを表現しているらしいです。

写真「古代王朝殷」より
↑ この写真は獣紋面と言われるもので、中央に獣の顔、左右に雷紋が広がっています。ラーメンの器にちょっと似ていますね。
posted by ihiro : 21:37 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月13日
貧乏人は猫を食え(by江戸北町奉行)
:D くまなです
前回は、飢饉に際しての美談と悲惨な食人のようすを紹介しました。
江戸時代の飢饉の状況をデータで押さえておきましょう。
グラフ:江戸時代の飢饉と人口推移

(中島陽一郎「飢餓日本史」のデータから作成)
人口の拡大基調を飢饉が押さえ込んでいるようすがわかります。
飢饉というと‘一揆’を思い浮かべます。
天明飢饉の時、飢饉に迫られた若い元気な人たちは、団結して徒党を組み、各村の穀物ある家々の前に多数集合し、金持ちを脅して押し借りを行ない、承知しない時は腕ずくで米をうばいとった。暴徒中の過激派は、衆を頼んで城下町までおし寄せ、鬨の声をあげて町に暴れこみ、各米問屋はもちろん、金持ち連中の米倉まで打ちこわした。
このときはどこも同じような有様で、うまく目的をとげた暴徒は、これに味をしめて昼夜とも騒動はたえず、ますます騒ぎは大きくなるばかりだった。
一揆に至る背景には、飢餓という現実がありますが、一方で、統合階級(いわゆる‘お上’)による収奪や危機放置もそれに拍車をかけています。
その状況を見てみましょう。
その前に、 :m118: ポチッと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : 23:59 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年04月12日
縄文人にとって死は恐怖ではなく悲しみだった。
最近このブログでは死のお話が花盛りですね! :-)
今回は死生観について追及してみたいと思います。
死は誰だって怖い。古代の人は死の恐怖をどうやって克服していたのでしょう?
上記を考えていて宗教家の木村隆徳氏の面白い論文に出会ったので紹介してみます。(追記に本編を掲載します)
私たちが肉親や親しい人が死んだ時どう思うだろう?哀しいと同時に寂しく感じる感情は誰しも同じであろう。何故悲しく、寂しく感じるかというと死者が共同体から別れるからである。実はこの感情、縄文人の死生観に繋がっているのではないだろうか。
縄文人は共同体の中で暮らしていて、自分と他者が一体となっている。
集団の喜びを自分の喜びと感じ、集団の悲しさを自分の感情に投影させる。縄文人は自らの死を共同体との別れと感じ、周りの感情を慮り悲しいと思ったのではないだろうか?自分の死を悲しいと感じる感性はどのようになっているのだろう?
続きを読む "縄文人にとって死は恐怖ではなく悲しみだった。"
posted by tano : 18:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月11日
死者を再起させない縄文人
枌(へぎ)洞穴遺跡は、大分県下毛郡本耶馬渓町大字今行にあり、通称枌洞穴といわれています。
枌洞穴の調査は、昭和49年から57年(1974~82)の間、8次の調査を本耶馬渓町教育委員会において実施されました。
洞穴内の堆積層は自然状態を保ち、6層の生活遺構の層位(生活層の重なり)をなしていたようです。
以下、死者を再起させない縄文人より引用させて頂きます。
>枌洞穴の調査で、もっとも重要であったことは、層ごとに時代の変化を追求することができたことであるが、その興味深いことが埋葬の問題であった。
一般的にみて縄文時代の人は死者を「 屈葬(くっそう) 」して穴に埋める。この屈葬という方法は、手や足を強く折りまげて縛り、再起をさせない方法と考えられているが、なぜだろうか。
縄文時代の人は、悪霊にとりつかれて死ぬと考えていたのかも知れない。
とすれば死者の再起防止には「屈葬」が一番よい。
枌洞穴では64体の人骨がみつかり、そのうちの大部分が埋葬遺構をもっていた。
posted by naoto : 18:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月10日
縄文人は死者を恐れたってホント!?

画像出典: IPA「教育用画像素材集サイト」三内丸山遺跡(縄文時代) ⇒ お墓(子供の墓) ⇒ 子供の墓
【子供の墓】 子供の墓は大人の墓に比べて、その量は圧倒的に多い。子供の墓に埋葬されたのは主に乳児だと考えられる。また、埋葬時の儀礼であったのか、土器の中に、握りこぶし大の丸い石が1~2個含まれているものもある。(写真提供:青森県教育庁文化課)
本日は縄文人は死者に対してどんな風に思っていたのかについてです :m030:
お墓の歴史より
遺跡発掘調査等によると、古代の集落では死者の埋葬地=墓地は集落の一部、あるいはその隣接地が当てられていた事がわかってきた。当初は集落の中央付近に埋葬され、時と共に周辺へと移っていったものと考えられている。
ふむふむ
遺体は埋葬の際に手足を折り曲げて、しゃがんだ姿勢で埋葬する『屈葬』が殆どで、時には胸部から腹部にかけて大きな石を乗せた『抱石葬』で葬られていることもある。遺体を丸く小さく埋葬する事は、小さな穴を掘るための人々の智慧だったのであろう。また、石を抱く形は人が休んでいる時の姿勢、母の胎内にいた時の胎児の姿勢、或いは死者を恐れ死者の霊を恐れた古代の人々が、死者を拘束するためにとった形だとも言われている。古代の人々がいかに死者を恐れていたかという事は、遺体を強く縛り付けたり石を抱かせる等の他に、埋葬した後平らな石を足元から首の辺りまで敷き詰めていたという例、歩き出さないように足の骨だけを拭き取ったという例からも覗うことができる。
んん~、墓地を集落の一部として捉えていたってことは、恐れていたというのとはちょっとちがうのでは・・・?
石を抱かせる埋葬の仕方をしていた理由として、「生き返らないようにしていた」
ということのようですが、「恐れる」ってなんか現代人ぽくて違和感おおありなんですよね~。
死者を恐れていたのだったら住んでいる場所と墓地は別々にしますよね、フツー。
むむー :roll: と調べ物をしていたらるいネット になるほど~ :m051: という投稿が・・・
続きはこれを↓ぽちっと押してから読んでくださいね~ :m023:
posted by bunchan : 22:34 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月09日
縄文ー古代通信 NO1(19年4月号)
今月から縄文ー古代通信を始めます。 :D
毎月のコラムの流れを掴むのと今、最もホットな話題をお届けします。
また、みなさんの投稿の中でちょっと面白そうとか、もっと調べてみたいナーというものも紹介してみたいと思います。初回は管理人のtanoにてご案内します。
2月~4月で展開されているテーマの紹介
■馬のお話
■文字・言語のお話
■弥生時代の身分制度とはいかなるものか?
■遊牧と飢餓の歴史
それ以外にも小ネタとして面白い記事があります。
女性はなぜ装飾品が好きなの?
中国針灸の歴史
神様にも人気、不人気があった。
それにしてもなぜ女性は電化製品には興味がなく、バッグや洋服や靴や装飾品が好きなんでしょうね? :lol: (妻にいつも貢いでいる私の実感です)
さてそれではホットな話題アーカイブです。お時間のある方は連続して読んで下さい。
posted by tano : 18:17 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月07日
飢饉に際して、座して死を待つか、家族を食べるか
:D くまなです。
これまで遊牧民が、飢饉に際してどう行動するかを紹介しました。
では、日本人は飢饉に際してどう行動したのでしょうか?
こんな美談が残っています。
ときは享保17年(1732年)、ウンカが中国・四国地方と、九州一帯に大量発生し、大飢饉を引き起こした、享保の飢饉。『徳川実紀』によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」(日本災害史)と伝えています。
美談の主人公は :m118: 作兵衛

この飢饉による驚嘆な食糧欠乏のなかで、愛媛の伊予国松山藩筒井村の百姓・作兵衛は、麦の種を一斗貯えていた。しかし彼は、毎日の食物が尽きてからも、この麦の種を食べようとはしなかった。そのため、まず作兵衛の父と長男とが餓死し、作兵衛自身もまさに餓死しようとしていた。人々はみな、作兵衛がこの麦種を食べて、‘餓死’の危機を免れるよう、口をそえて作兵衛にすすめた。しかし作兵衛は、このみなのすすめを聞きいれないで言うには、
「穀物の種子をまいて収穫を得て、税として納めるのは農民の務めです。収穫した作物を国に納めるから国の人々は生活ができるのです。だから穀物の種子は、自分の命以上に貴重なものなのです。
農民は国の基本で、種子は農業の基本です。今もしも、私がこの種麦(たねむぎ)を食べて数日の命をつないだとしても、来年の種麦をどこから得ることができるでしょう。
たとえ私が飢えで死んだとしても、この種麦によって何万という命を救うことになれば、もとより私の願うところです」といって、麦袋を枕としたまま餓死した。
だがこのため、一郡の人々は、後にこの麦の‘種’を畑に蒔くことができて、生命を完うすることができた。
(中島陽一郎「飢餓日本史」、伝えたいふるさとの100話「穀物の種は命より大切」より)
いかにも日本人らしいお話しですね。
ただ飢饉は、そんな美談だけでは語れません。
飢えて食べ物がなくなれば、場合によっては、家族を食べます。
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posted by kumana : 23:44 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月06日
日本語はもっとも自然に近い発音を持つ言語
日本語がなぜ難しいのか?なぜ日本人は漢字をカナに変えて理解しようとしたのか・・・。
そのヒントを見つけました。耳鼻科医師の角田忠信『日本人の脳』の中に書かれています。
>日本人は音の処理を、西欧人を始め、他の民族とは全く異なる音声処理を行っている。 虫の声・せせらぎ・潮騒(しおざい)・雨音などを、ほとんどの民族が右脳で雑音として処理するものを、日本人は左脳でそれぞれの音や声として処理しているというのだ。 日本語に多い「擬態語・擬音語」は、自然の音や、音を持たない動作などを独特の音として表現するものだが、それは「日本語がもっとも自然に近い発音を持つ言語だからだ」右脳は感性を左脳は理性を支配すると言われている。そして人は、言葉の中で、必要に応じて右脳と左脳を使い分けているのだという。角田が謂う日本人とそれ以外の民族との差異はかくも大きい。
我々の先祖は、古来よりの言語を継続して使い続けてきた。この事実は、逆に弥生の民がいつしか縄文の民に吸収され同化していったことを示している。そして時代に即応して変化を続けながらも、今に至っても他国とは全く異質な、自然に同化した言語を使い続けていることがはっきりしてきた。
角田氏の衝撃的な分析はストンと納得がいく。なぜ縄文人が弥生文化に支配されなかったのかの重要なヒントにもなる。以下、中村忠之先生の縄文ブログで扱っていた全文を紹介します。
posted by tano : 08:15 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月05日
飢饉に見舞われた遊牧民の例
:D くまなです。
前回は、神だのみも、王への支援要請も叶わなかった遊牧民が決死航→死にもの狂いの戦い、あるいは都市定住、離散→夜盗化へと踏み出すことを紹介しました。今回は、そのような部族の実例を紹介します。
ところで、アラビア半島はそもそも乾燥している地域です。
旱魃っていったいどのぐらいの頻度で起こっていたのでしょうか?
参考になるデータがあります。
表 近世以降のアラビア半島の主な旱魃と飢饉

(出典:丸井英二編「飢餓」-堀内勝「牧畜民の飢餓観」より)
近世以降では、10~20年に一度は旱魃→飢饉に見舞われていたようです。
人生のうち何度も飢饉→餓死の恐怖に見舞われるわけですから、過酷な外圧状況だといっていいでしょう。
さらに、その状況では、一帯の部族が決死航を開始するわけですから、自然外圧だけでなく、部族同士の同類圧力も凄まじいはずです。まさに死にもの狂いの戦いです。
その具体事例を見てみましょう。
posted by kumana : 22:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
メソポタミアの美術から類推できること
美術の変遷はそのときの時代状況を類推する助けになります。今日は、メソポタミアの美術を手がかりに、時代状況を探ってみます。素材はまたまたお世話になっている「南風博物館」より引用させていただいています。続きをはこちら :D Byヒロシ
posted by hiroshi : 21:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年04月04日
遊牧民は飢饉で決死航、一部は夜盗化あるいは都市定住
:D くまなです。
前回は、アラブの遊牧民が、旱魃→飢饉に際して、神だのみがダメな場合、王への支援要請をすることを紹介しました。
それもダメならどうしたのでしょうか。
舞台は、↓アラビア半島です。

旱魃があまりに激しかったり、長期間に及ぶと、ただでさえ可住地ではない砂漠の遊牧民は、移動を開始する。この移動はいつもの定まった移動とは異なる。なぜなら、自部族の領域には家畜はもちろんのこと、部族員を救える牧草、水場がなくなってしまったからであり、自部族領を超えて旱魃から免れた地域、大河の流域に移動せねばならないからである。
このことは遠方の部族を頼るにしても己の部族とは無縁であったり、敵対部族の領土に身を投ずることになるし、またその領土を通過することになる。
そのさいの危険性は襲撃の対象にもなり、死にものぐるいの戦さになることは避けられず死と隣り合わせになる。この危険性も敢えて犯さなければならないせっぱつまった状況なのである。
切羽詰っているとはいえ大きくて強い部族はいいが、弱小部族はどうする :m052:
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posted by kumana : 22:23 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月03日
軍と官僚制の陥穽
帝国が拡大すれば、その支柱たる軍隊の規模も大きくなる。それを維持するには徴税のための官僚機構をつくらなければならないが、役人を雇うにも金がかかる。これらの費用を捻出するために税を重くすれば、人々は当然反感を抱く。それをおさえこむには、さらに軍事力を強化しなければならない。マウリヤ朝は、このような「軍と官僚制の陥穽」に落ちてしまったのである。
こんばんは、カッピカピです。上記引用文は、「地球人の歴史」というHPの『9.帝国統治』の中にある、「軍と官僚制の陥穽」という章から抜粋したものです。
これを読み、歴史上の帝国が、その歴史に長短はあったとしても、最後には滅んでいった理由が分かった気がしました。そして、るいネットでも良く書かれている、「市場が国家を飲み込む」という現象もこの文を読んで分かったような気がしました。
posted by hi-ro : 22:18 | コメント (1) | トラックバック (0)
遊牧民は飢饉に際して、その巧みな言葉で、王に支援を要請する
:D くまなです。
前回は、アラブの遊牧民が、旱魃→飢饉に際して供犠(生け贄)、みそぎ、断食などを行い、神だのみをすることを紹介しました。では、神だのみが一向に効果をあげず、さらに旱魃が飢饉を進行させると彼らはどうするのか?
旱魃というとこんなイメージでしょうか

さすがにプライドの高い遊牧民も、救援を仰ぐことになる。血縁ある諸部族、妻・女性を通じての姻族、また友好部族。友好な手づるを利用して牧地の確保、畜牧の分散、水場や食料の分与の以来に奔走する。助け合いの精神が行き届いている砂漠の世界なので、依頼された部族も出来るだけのことはした。
しかし近隣部族だと状況は似ていることも多く、遠隔地にある部族や大河流域を自領に確保する部族のほうが頼り甲斐があった。さらに有効な救援は王都や主要な町に、窮状を訴える使節を派遣し、援助をあおぐことであった。
その言葉巧みなやりとりを紹介します。
(これは旱魃に襲われたキラーブ族のアブー・シャードというベドウィンが、ウマイヤ朝カリフ・ヒシャーム(在位724~743年)に代表を送って助けを求めたときの記録に残るやりとりです。)
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posted by kumana : 17:30 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月02日
アラブ遊牧民の生贄
:D くまなです。
前回の記事に対するコメント
>殷の殉葬や卑弥呼の事例は、両方ともその時代の支配者=神へ、人を生贄としたのでしょう。(さーねさん)
そこで、生贄について…
生贄は、供犠ともいい神に生きた動物や人間を捧げる行為で、歴史的にも諸民族に見られます。卑弥呼の墓に見られる奴婢の殉葬が生贄だとすると、遊牧系の殷(商)にも見られる習俗であることから遊牧系の宗教観→生贄に対する思想を紐解く必要がありそうです。
彼らの生贄は一般に人間ではなく、ヒツジです。

(写真はLa Tribune del Artより)
元々どうであったかは分かりません。人間の生贄ということでいうなら、マヤ文明やインカ文明(南方系→環太平洋系?)なども紐解く必要がありますが、卑弥呼以前や縄文には見られない習俗なので、北方系(中央・西アジア→モンゴル→朝鮮)伝来の習俗とします。
そこで、その源流であろうアラブの遊牧民の生贄に対する考え方について紹介します。以下は50年ほど前のアラブの遊牧民に関する記述です。
彼らは今日でも旱魃や伝染病などのような公害に際して同様な儀式を行い、人々を悩まし、脅かす悪霊から救うものだと説明している。例えば部族民がコレラの猛威に苦しんでいると、部族長がテントの中央に立ち、つぎのように叫ぶのである、
posted by kumana : 21:00 | コメント (2) | トラックバック (0)

