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2007年05月31日
世界最古の土器☆★☆縄文土器がもたらしたものは
←豆粒文土器
こんばんは~ :m017: bunchanです。
naotoさんに続いて土器の発明は何をもたらしたのか、考えてみたいと思います。
ところで、世界最古の土器って縄文土器 :shock: だということを知ってました?
http://homepage2.nifty.com/singingsand//////////miwa/dokijomon.htmlより引用(画像もお借りしています)
人類文明の発祥地はエジプトとメソポタミア、インド、黄河流域の中国が四大文明発祥の地とされているが、古代人の生活において画期的発明は縄文土器だという(志村史夫著『古代日本の超技術』(1997,講談社)。いままで食べにくかったものをたべられるようにし、食物資源の範囲を広げて人類の生存圏を広げた。 また縄文土器の文化史的意義について、縄文土器の専門家:小林達雄は次のように書いている。「それまでの道具(石器や木、竹など)は、用意した素材を割ったり削ったりしてしだいに大きさを減らし、目的とする形態に仕上げる減量型であった。ところが土器は、掌にした一塊の粘土に次々と増量しつつカサ上げしていくという正反対の方向をとる増量型である。しかも石器などでは、いったん打ちかいてしまった部分は、たとえ不本意であっても、もはや修復不可能である。けれども土器は、加除修整は自由自在である。このように土器は、それまでの人類史には絶えて見ることのなかったまったく新しい造形学的性質をもつ。やがて縄文人は道具としての土器の形態を実現するだけでなく、その造形の自由さを利用して縄文人の抱く世界観を表現するキャンバスにしていった。言い換えれば、縄文土器は日常什器の一つというにとどまらず、いわば文化的な機能の重責をも果たすようになったのである。」(小林達雄著『縄文人の世界』(朝日選書,1996)
土器の出現は調理革命を起こした。煮て食べることが可能になったので、堅いものを軟らかくして、いままで食べられなかったものが食べられるし、味つけも可能となった。人類の食文化の開花であった。
世界最古の土器は縄文土器だったらしい。(2002年4月現在これは動かない事実だ。
現在までのところ世界最古の土器とされているのは、12000年前の土器が佐世保市瀬戸越町泉福寺洞窟から出土した 豆粒文土器である。
土器が可能にしたのは、水分を一つのところにためておく・火にかけることができるようになったということなんです。つまり、煮炊きできるようになったということ。
ところが縄文土器は釉薬などをかけない「素焼き」です。普通、素焼きのものは、水をしみこませて逃がしてしまうのですが、どうやって水を逃がさないようにしたのでしょう??
続きを読むまえに、ぽちっとお願いします! :m034:
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posted by bunchan : 20:16 | コメント (4) | トラックバック (0)
縄文土器の発明
土器の発明は、どのように行なわれたのでしょう?
縄文文化と東北地方を参考にさせていただきました :shock:
[2]縄文土器の発明
日本における土器の出現は、先史文化の展開の中でも、世界的に見て最も早い時期に行われたことが確実視されている。
日本列島における土器の出現は、その生活環境の変化からもたらされ、必然的に容器として確立し、生活の必需品として大きな役割を果たしていくのである。
土器の発明は、人類が最初に応用した化学変化である。
そのきっかけは推測の域をでないが、火の利用という技術を獲得した人類が、長い遊動生活から定住生活に移る過程で、湿気防止のために炉に貼った粘土が火を受けて偶然硬くなった事にヒントを得たとか、液体を入れるため粘土を塗りつけた編み籠が偶然火をうけて硬化したことに端を発するとも言われている。
小林達雄は、草創期の隆起線文土器や新潟県壬(じん)遺跡出土の円孔文(えんこうもん)土器に見られる口縁部付近の文様が、皮籠の口縁の紐かがりを表現していると説いて、縄文土器の初源が“編み籠”の模倣にはじまる可能性を指摘した。
土器の発明は縄文人に多くの恩恵をもたらした。
その最大のものは、従来は “なま”か“焼く”しかなかった食文化に、はじめて“煮る”という調理法を加えたことである。
これは、単に味覚のバラエティーを拡大したという以上に、食べることの出来る動植物の種類を飛躍的に増やし、かつその栄養摂取効率を大きく向上させた。
その結果、人々は、食料確保にかける労働力を大幅に軽減することに成功し、その余剰エネルギーを他の文化活動に投ずることが可能になったのである。
縄文文化に不可欠な、定住的要素としての竪穴住居の構築、呪的遺物としての土偶の発生などはすべて、こうした文化的活動力の向上がその前提条件として必要だった。
最初の土器の創出が、発明なのか発見なのかは断定できません。
ただ、環境の変化がもたらした食料の変化という外圧に対し、食の確保という集団の期待が強烈に働いていたということだと思います。
期待に応える為に、日々の生活上の出来事を注視し続ける。
それが、みんなの期待に応える発明に繋がるのだと教えられました。
posted by naoto : 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月29日
西アジアと日本の農耕の歴史の違い
こんにちは、simsasanです。
前回の「縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳」に続いて、今回は、日本と比べて農耕が先に発達した西アジアはどうだったのか?比較してみました。
先ず、農耕の歴史に入る前に農耕と栽培の違いは何なのか?
「るいネット縄文前期の稲栽培」(細田さん)が分かり易く説明していますので、以下引用します。
>人類が採取・狩猟という生業様式(適応様式)を開始するのと同時に、植物の栽培や動物の飼育は方法としては見出されます。採取・狩猟時代の人類は、食料獲得の方法として風土に応じて狩猟・採取・漁労・栽培のいずれかあるいは全てが併用しているのが通常です。日本では三内丸山の栗林の菅理栽培が有名ですし雑穀の栽培は各地の縄文遺跡にその痕跡が発見されています。
一方農業(や牧畜→遊牧)という様式は、主要な食料のほとんど全てを人工的な栽培(や飼育)に頼るという様式で、相当大がかりな土地や土木施設を必要とします。そのような人工的な(多大な労力を必要とする)生産様式が必要とされる背景には、人の数がその居住する周辺の自然の生産力を超えてしまうという事態があると考えられます。その理由としては、同類緊張圧力による一定地域への集住や短期的な特殊寒冷期に移動もままならなくなった部族の生き残りのため等が考えられます。
では、具体的に古代、西アジアと日本では、どのような栽培→農耕の歴史をたどってきたのでしょうか?
posted by simasan : 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月26日
『豊かな森の大国』日本列島の気候はどうやって形成されたのか??
まだ農耕・稲作の無い縄文時代において、定住による生活を可能にしたのは、豊かな森の恵みなくしては考えられなかったことでしょう。
そこで、どのように豊かな森の王国・湿暖湿潤な水の豊富な日本列島が形成されたのか調べてみました :D
:m118: 興味のある人はポチっと押して続きをどーぞ :m027:
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posted by dai1028 : 15:05 | コメント (1) | トラックバック (0)
海を渡った縄文人:ワラ算とキープの関連から
以前、このサイトの“みつこ”さんの投稿で「文字がない社会って?!」 でインカ帝国のキープが紹介されました。
私が今興味を持っている琉球や沖縄で「ワラ算」という結縄文字にも触れられていました。
写真をよく見ていただくと分りますが、非常に似ています。


ワラ算(日本) キープ(インカ)
調べていくとこの時代、単に紙とペンがなかっただけで、器用な日本人の祖先にとっては、ワラや縄はもっとも身近な記録媒体だったのかもしれない。
「ワラ算」も、太平洋をわたった縄文人により南米にもたらされ、それをもとに独自にキープとして発展を遂げたのではないか?
と言う疑問が沸いてきます。 このキープとワラ算の関連を調べてみました。
気になりますよね、、
続きはランキングの応援をポチっと押してからお読み下さい。
:m118: :m118: :m118:
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posted by mukai : 07:30 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月25日
縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?
今晩は、さーねです :m193:
黒潮圏の考古学というサイトを今勉強しているのですが、その中でも八丈島の先史時代で、すごい不思議だなと思うことがあります。
6,000年前にピ-クを迎えた縄文海進時に、縄文人が漁撈活動地域を内陸や沿岸部から近海に拡大し、海洋航海技術を熟達させ外洋を舞台にした縄文集団(海の縄文人)が誕生した。彼らは外洋航海民としての素養を備え、最初は北部伊豆諸島を中心に渡島活動を行っていた。やがて近畿・東海と中部・関東の二地域から、黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島へ渡航した集団が登場する。黒潮圏の考古学:八丈島の先史時代の倉輪遺跡より
なぜ、海を渡ろうとしたのか :m050: 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで :m050:

彼らが置かれた状況や意識、行動様式を推察してみたいと思います :m193: :tikara:
:m118: 歴史は面白い :m051: 応援お願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年05月24日
縄文の海洋技術:『縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ』
縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした(mukaiさん 2007年01月27日)
の投稿に引き続いて【縄文の海洋技術】について調べてみました。
以下、縄文人の航海ルートについて分かりやすくまとめてあるサイトを見つけたので紹介します。
その前に :m118: これお願いしますね :m030:
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posted by mrran : 21:41 | コメント (5) | トラックバック (0)
2007年05月23日
遊牧民族の統合例
こんにちは。○です。
以前の記事でも取り扱われていましたが、今回は遊牧民族についての記事を・・・。
遊牧部族はその機動性から、戦争において卓越した戦力を保有していました :tikara:
当然、歩兵中心の敵を蹴散らすのは造作も無い事です。
中国は宋の時代に、17名の騎馬兵に対し2000の歩兵で敗退する、というようなことまであったようですから、その戦力差はかなりのものだったようです。
そんな圧倒的な戦力をもった遊牧部族ですが実は大きな弱点があったのでした・・・ :m002:
posted by maru : 21:38 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月22日
道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範
こんばんはetoです。
前に「中国と日本の死生観の違いって?」において道教に少し触れましたが、今回はその起源について紹介します。

ご存知、なんで屋カードですね。
“女は慈愛にあふれた素晴らしい存在”、、、いい言葉ですね。
実はこれ、道教の教えと関係しているんですね、
ホント?と思われた方は、ポチっと押しながら次を読んでね。
posted by nishipa : 18:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月21日
世界文明 vs 縄文・・・・そして反転がはじまる!?
この↓図版をみて、驚いた。1万年が一目瞭然!注目です。

※この図は佐原真氏の作成らしい、秀逸です。図は「国民の歴史」より
スキャンしたので、傾いて粗っぽい画像ですみません。
続きを読む "世界文明 vs 縄文・・・・そして反転がはじまる!?"
posted by ihiro : 18:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
縄文土器の文様が中期に多様化したのは...
縄文土器の話が盛り上がっていますね。
私も、みなさんが、紹介されている「縄文心象」のHPを手がかりに考えて、見たいと思います。
まずは、問題提起の一文の紹介から。
いったい縄文時代前期と中期の境の時間帯で何が起こったというのだろうか。そして何故縄文文様は突如として複雑になったのだろうか?
考古学に詳しい人間であれば誰でも知っているこの事実。しかしこの謎は未だに誰にも確定的に解明されてはいないのだ。
(「縄文心象のHP」-謎-縄文時代中期の大きな変化より引用)
http://www.joumon.jp/kaidoku/kaidoku1/kaidoku1.htm
中期の複雑化は、縄文土器ファンの間では、有名な話。しかし、その謎は、未だ解明されていなかったとは...
確かに、中期に土器の種類が増え、文様も複雑になっているようです。





(岩手県立博物館HPより)
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/031.html
では、なぜ縄文中期に土器の種類が増え、文様も複雑になっていったのか、少し考えて見たいと思います。
posted by yuyu : 02:10 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月20日
中国文明【殷】:十干(⇒十二支)は王の称号だった!?
今晩は、さーねです :P
やはり中国古代王朝の成立に迫るには、殷の甲骨文字に迫る必要があるのではないか :m052: 最近調べる中で、皆さんもよくご存知の十二支の元である十干が、甲骨文字発祥であることを知りました :m027:
なんで十干をつくり出したのか :m050: 一般に、十干は以下のように説明されます。
十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列。天干(てんかん)とも言う。…古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支と合わせて干支(「かんし」または「えと」)といい、暦の表示などに用いられる。 ウィキペディア

説明の通り、暦にも使われる干支という意味で、僕らにもなじみの深いものです。その起源である十干=甲骨文字にこめられた秘密に迫りたいと思います :m051: :D
今日はこんなサイトを参考にさせて頂きました。改めて歴史の奥深さを感じます :m051:
「十干・十二支」の成り立ちと 3300年前の甲骨文を読んでみましょう
:m118: :m118: 十干⇒十二支の意味するところは :m050: ぜひクリックしてから :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月19日
縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳
こんにちは、simasanです。
今日は、日本での農業(稲作)の起源の話です。
戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡からは水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかになっています。
さらに、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中からは、6000年前のもの最も古いプラントオパールが検出され、それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえ出てきたのです。

注:プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができるそうです。
では、何故、縄文時代は稲作が普及しなかったのでしょうか?
知りたいっと思った方は、ポチっと お願いします!
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posted by simasan : 18:00 | コメント (12) | トラックバック (0)
2007年05月17日
巨大噴火がひき起こした円筒土器文化
火焔土器が話題になっているようですね。
私には、あれは、とてつもなく大きな炎=火山噴火あるいは火砕流による大火災を表しているように見えてしかたありません。
そこで、縄文時代の火山噴火を調べてみました。
「変転する大地が生み出す新しい文化」 リンク より引用させて頂きました :m208:
《引用開始》
三内丸山からの大量の土器発掘で明らかになった円筒土器文化は、縄文前期の中頃、突然現れ、東北地方北部から北海道南西部に広がった。津軽海峡による分断もものともしない広がりである。
円筒土器に先行してその地域に存在したのは、表館(おもてだて)式や早稲田6類、大木1式など、それぞれ互いに関連性をもちながらもまとまりのない土器群であり、どれも円筒土器へ直結するような形跡は認められていない。
円筒土器の不可解な出現は、長い間問題にされずにきたが、三内丸山遺跡の発見も一つのきっかけとなり、円筒土器と大木式土器が並存する岩手県を中心に、これまでに集積された考古学の資料が見直された。
その結果、最初の円筒土器である円筒下層a式土器が大木2a式土器の直後に現れること、二つの土器型式の間に十和田火山の巨大噴火による火山灰(十和田中せりテフラ)が挟まっていることが確かめられた(下図)。

噴火によって広域におよんだ山林火災が、周囲の生態系を壊滅状態に追いやり人間社会に甚大な影響を与えたことは間違いない。一次生産者である植物に依存する動物社会にとってもその存続を脅かす大事件だったろう。いわば東北北部の広大な地域の生態系の構成員であるさまざまな生物の様相が災害で変化し、それが人間の暮らしに影響を与えていく状況が読み取れる興味深い事例である。
posted by naoto : 23:09 | コメント (0) | トラックバック (0)
土器の文様は共認を表現したのではないか?
縄文土器と言えばその豊富な文様に注目されます。
しかし、その文様の意味は学術的にはいまだ明らかになっていないそうです。
縄文心象のHPを見ていく中で、ふと気が付くものがありました。これだけの土器の複雑な文様は何の為にあったのでしょうか?無文字文化であった縄文人は文様で何かを伝えたかったという事はほぼ間違いないでしょう。
しかし、縄文人の文様は誰が誰に何を伝えたのでしょうか?
縄文時代の文様の意味を考える中で、文様自体が持つ普遍的な必然性についても触れてみたいと思います。
posted by tano : 18:20 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月16日
縄文土器に見る雌雄和合の模様
こんばんは :wink: bunchanです。今日は縄文土器の文様から、縄文人の世界観を垣間見てみたいと思います。「縄文心象」よりの引用を紹介します。
雄と雌の和合
地球上の原子がプラスとマイナスで安定しているように、彼らは世界のすべてが雄と雌の霊魂が和合してできていると固く信じていた。この和合を示す『交合文(和合文)』は、対で構成されていることが特徴である。 『交合文』は雄を意味する三角・菱形・十字・矢印と、雌を意味する渦巻・円・二重円から各々1つないし1つ以上が対(ペア)になってつくられる。それらは一見ただの装飾文様のようだが、それは彼らの心の世界『雌雄和合』そのものなのだ。
←←←
そういわれるとそんな気が・・・♂♀記号にもにてますよねっ :m049:
んん~でも♂が三角・菱形・十字・矢印で♀が渦巻・円・二重円なのはどこからきてるの?? :roll:
気になる人はぽちっと押してもらって、続きをどうぞ :m026: :m027: :m028: :m029: :m030:
posted by bunchan : 21:00 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年05月15日
燃え上がる?火焔土器の意味
:D くまなです
Hiroshiさんの投稿を受けて、縄文土器の中でも、ダイナミックでエネルギッシュな、通称「火焔土器」について紹介したいと思います。とくにその文様の意味について、ネット上で、さまざまな説が展開されているので、それを紹介してみます。
火焔土器

みなさんも、この魅力的な形態や文様が何を表すのか、製作者の意識に同化してみましょう。
posted by kumana : 22:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月13日
火炎土器の国から
Hiroshiです。今日は縄文番外編。
連休の間、火炎土器の国、越後の中越地方・魚沼へ行ってきました。・・・と言っても実家のある生まれ故郷ですが。この地方は、長い冬の間、深い雪に閉ざされますが、4月になると雪が解け、山々に一斉に緑が吹き出し、野山に草花が咲き乱れます。あちこちでカエルが合唱しています。
山々には雪がまだ残って、白い山々と新緑がすごい鮮やかな季節です。そういえば、風景の写真とってくるの忘れてしまいました。残念。花の写真があったので添えときます。
裏山で撮ったカタクリ なんの花かな??
posted by ihiro : 17:06 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年05月11日
人骨が示す過酷な生活
こんにちは、etoです。
tokumaruさんがクラシーズ洞窟を紹介していただきましたね。感激です!
はるか太古の人類がどのような生活をしていたのか、興味は尽きないですね。
そんなわけで今回は、日本で発見された人骨の紹介です。
下の写真、何だか分かりますか? こちらからお借りしました。

沖縄は港川で発見された港川人(1万8000年前の旧石器時代)の脛(スネ)のレントゲン写真です。
横に何本か線が入っているのが分かりますか? その線がハリス線と呼ばれるものです。
で、ハリス線とは何かというと、
栄養失調や病気などで一定期間成長が止まると、骨の両端に化骨作用が起きて、ハリス線と呼ばれる横線が現れるようで、縄文人の人骨にも多く見られるようです。
あと港川人の人骨は、咀嚼筋が発達し歯が著しく磨り減っていることから、硬い粗末な食物を食べていたことが推察されています。
沖縄といえば、暖かくて、食べ物も豊富に獲れそうなイメージがありますが、1万8000年前ではまだ氷河期ですから、相当に厳しい環境だったのでしょうね。
歯が磨り減るほどの硬い食物って、、、木の根っ子とか、それこそ人骨をも砕いて髄をしゃぶっていたかもしれませんね。
港川からは全部で9人分が発見されていますが、男性壮年が9人、女性壮年が2人です。
子どもは発見されていないんですね。なんでだろう?
人骨の分析からは、ワジャク人と類似していることから、スンダランドより移動してきた可能性が強いようです。スンダランドから移動せざるを得なかったのでしょうが、たどり着いた沖縄もまた、過酷な状況だったのでしょう。
彼らがどのような生活をして、どのように縄文文化と融合していったのか、沖縄圏を中心に少し調べていこうと思います。
posted by nishipa : 14:48 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月09日
パレスチナ問題の根本原因は旧約聖書の中にある!?
こんばんは、カッピカピです。
以前、べジーが古代イスラエル王国建国までの道のりと分裂までを書いてくれました。
その後、約2千年の時を経て、ユダヤ人は中東のパレスチナにイスラエルを建国しました。
このことで、たくさんの問題が発生していることは皆さんも少なからずニュースや新聞などで知っていると思います。詳しくは→ちわわさんの記事
元々、パレスチナに住んでいたアラブ人を追い出す形でイスラエルを建国したユダヤ人に対して、アラブ人が反発するのは当たり前と言えば当たり前の話です。
だたここで不思議なのが、「パレスチナの地に強引に割り込んできたユダヤ人・ユダヤ教を、他の宗教・各国が正面切って反対できなかったこと」なんです。
調べてみると・・・・続きはポチッと押してからどうぞ!
続きを読む "パレスチナ問題の根本原因は旧約聖書の中にある!?"
posted by hi-ro : 14:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月08日
現在のイスラエル建国とパレスチナ問題
こんにちわちわわです。
現在のイスラエルがどうやってできたのか、古代文明とはかけ離れますが、とりあえず。

①第一次世界大戦において、トルコの統治下にあったアラブ人たちに対してトルコへの武装蜂起を呼びかけ、その対価として、1915年この地域の独立を認めた。(マクマホン協定)
②他方、膨大な戦費を必要としていたイギリスは、ユダヤ人国家の建設を支持する書簡をだし、ロスチャイルド家からの資金援助を得ることに成功した。(バルフォア宣言)。
③しかしイギリスは同じ連合国であったフランス、ロシアとの間でも大戦後の中東地域の分割を協議しており、本来の狙いはこの地域の直接支配であった(サイクス=ピコ協定)。
これはイギリスの「三枚舌外交」
と言われています。。
アラブ人には独立を認め、ユダヤ人には建国を認め、連合国には領土分割を協議するとった八方美人の態度です。後にロシアのレーニンによって全て暴かれました。
イギリスとんでもない!と思った方↓↓ぽちっと!
次はアメリカの企みが・・・
posted by tiwawa : 23:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
人類が生まれた(ハダカ化した)洞窟 南アフリカ・クラシーズ河口洞窟(第3号)
写真は、南アフリカ共和国東ケープ州にあるクラシーズ河口洞窟(第3号)の内部写真です。ここの洞窟は、テーブルマウンテン砂岩層が海水侵食によってできたものです。
人類は、今から6万年前から13万年前のあたりの氷河期に、この洞窟の中で、寒さと飢えに闘いながら環境適応して、ハダカになったのではないかと思っています。ハダカになって抱き合うことで、体温の損耗を防ぎ、生き延びたのではないかという、人類ハダカ化おしくら饅頭仮説です。
世界の人類はみんな10万年か20万年前は、南アフリカに共通の先祖をもつ、親戚なのです。争ったり、差別したり、奪い合うことは、愚かなことです。
自然を破壊し改変することによってしか生きていくことのできない、文明の座敷犬である人類の悲しさを理解して、できるだけこれ以上自然を破壊しない文明のあり方を模索していきたいものです。

posted by tokumaru : 01:57 | コメント (7) | トラックバック (0)
2007年05月06日
文字がない社会って?!
こんばんは~ :m017: 、みつこ :D です。
今日はゴールデンウィーク最後の日でしたが、あいにくの雨 :m007: でしたね。
みんさんはいかがお過ごしになられましたか?
さて、今日は、ずーっと私の宿題 :m108: だった(tanoさん、期待してくれてありがとうございます!)、無文字社会について。
>支配や徴税の為に文字が生まれたというのは本当でしょうか? by tanoさん
なかなかに深い問題です。
これについては、もっと正確に語る必要があるようで、
確かに文字がもつ不変性、個別参照性(記録を参照する者が個別であるということ。翻せば口承などでは個別参照性はないということ)、遠隔伝達性は、市場や国家の成立及び拡大に、大いに寄与したということは言えそうですが、レヴィ=ストロースが言ったように「文字の使用と大規模な政治組織の出現とは一致する」とまでは言い切れない、みたいなんです。
というのも、南米インカ帝国も、アフリカのガーナ帝国やマリ帝国も、いずれも無文字社会であったけど、広域支配を成していたし、2~300年続いた帝国だからです。
じゃぁ、無文字社会ってどういう風だったの?
気になりますよね 8)
続きはポチっと押してから :m030:
ありがとうございます :m001:
posted by mituko : 23:15 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年05月05日
まとめ・・・・お墓の変遷
お墓の歴史のHPを最近我がチーム縄文で扱っています。この際ですから、縄文時代から古墳時代までのお墓の歴史を大つかみで追いかけてみたいと思います。
縄文時代~古墳時代にかけてお墓は大きく以下のように変遷していきます。
posted by tano : 12:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月04日
縄文時代の集落規模
以前、「縄文人の集団規模と共認の関係」で縄文時代の集落が小規模のままで30人以上になることはなかった。とあったが青森の三内丸山では500人から1000人とも言われています。
縄文時代の集団の規模や生活、他集団との交流等もっと知りたくてサイト探索してみました。
少し長くなりますが「縄文文化と現代:縄文村」からの抜粋、要約です。
クリックしてから続きをお読みください。
:m118: :m118: :m118:
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posted by mukai : 12:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月03日
ユダヤ教とキリスト教とイスラム教
前回、十字軍について書きましたが(こちら)、調べる中で実はもう一つ驚いたことがあるんです。
ひょっとして常識 :m196: :m186: かもしないけど、私はそーとー驚きました :m051:
ゼヒ、読んでください :m023: :m023:
posted by pingu : 21:11 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年05月02日
日本における戦争の起源~戦争の考古学的証拠~
:D くまなです
今回は、日本における戦争(同類闘争=集団間闘争)の起源について数回にわたって紹介したいと思います。
ポイントとしては、いつ、どこで、誰が、なぜ始めたのか。
渡来人が始めたとしたら、縄文人はどうしたのか。
戦争はどのように広がっていったのか。
縄文人が戦争をしなかったとしたら、それはなぜか。
などです。
文字も記録も乏しい時代ですから、何をもって「戦争の証拠」とするかという問題もあります。
証拠の例としては、
●武器

●環濠集落

●首の無い遺骸

などがあります。
(いずれも、吉野ヶ里遺跡で発掘されたものですので、吉野ヶ里では戦争があったといえるでしょう。)
そこで、本題に入る前に、考古学でいう「戦いの証拠」とは何なのかをご紹介します。
その前に、 :m118: ポチッと応援よろしくお願いします。
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続きを読む "日本における戦争の起源~戦争の考古学的証拠~"
posted by kumana : 22:30 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月01日
縄文ー古代通信 NO2(19年5月号)
縄文ー古代通信の2回目です。最近のホットな話題、できるだけ流れを掴みやすくお伝えしようと思いま~す。また、こんなことも知りたい、調べてみたいということも紹介しようと思います。毎月、管理人のtanoさんと、わたくしHiroshiにて交互にお届けする予定です。ヨロシク~。 :D
4月(前回NO1 以降)で展開されているテーマの紹介です
■縄文~古代のお墓のお話
■文字・言語のお話
■古代メソポタミア~ユダヤ・イスラエルのお話
■中国のお話
■コネタ関係
posted by ihiro : 17:29 | コメント (4) | トラックバック (0)