2007年05月19日
縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳
こんにちは、simasanです。
今日は、日本での農業(稲作)の起源の話です。
戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡からは水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかになっています。
さらに、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中からは、6000年前のもの最も古いプラントオパールが検出され、それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえ出てきたのです。

注:プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができるそうです。
では、何故、縄文時代は稲作が普及しなかったのでしょうか?
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最近の考古学研究の成果では,稲作の起源は,中国最古の文明が発見された長江(揚子江)流域とされています。「長江文明」を発見したのは,国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏らで、教授によれば,『今のところ,稲作の起源は,少なくとも8,600年前までは,確実に遡れる。もし,土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば,少なくとも11,000年位前までは確実に遡れます。玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡や仙人洞遺跡では14,000年前まで遡れる可能性が指摘されているという段階です。』とのことです。 「長江文明 米 稲作 起源」より」

日本では、氷河期が終わった14,000年前~15,000年前頃から地球規模で急激に温暖化が始まり、この頃から日本には,ブナやナラの落葉広葉樹の森が広がり、縄文人も定住して,狩猟・漁労生活をするようになりました。ところが,12,800年前頃に,「ヤンガ-・ドリアス」と呼ばれる「寒の戻り」があり,日本以外の他の地域(ヨーロッパや西アジア)では,食料を確保するため,農耕を開始しました(⇒この時期に「小麦」の栽培も始まったと考えられています)。
しかし,日本の場合は,この寒冷化(「ヤンガー・ドリアス」)は,農耕への移行につながりませんでした。その理由は,当時日本列島にはすでにブナやナラなど落葉広葉樹の森が広がりつつあり,食料が森や川から得られやすかったことが理由と考えられています。
るいネットで、以下のような投稿があります。 「人類はなぜ大地を耕しはじめたか? 寒冷期と農業の起源」より引用
農業を行わない狩猟採集民が食物生産に費やす時間は、成人労働者一人当たり平均三時間から四時間である。残りの時間は、遊んで楽しむことができる。
温暖期に人口を増加させた狩猟採取経済が、突然の環境悪化で重大な危機に直面したと想像できる。寒冷化による資源の減少が、人々に農業を強いたのである。
とあるように、縄文時代に農業が普及しなかったのは、敢えて、漁労・採集での豊かな生活を手放す必要はまったくなかったから。
むしろ、弥生時代に農業が普及したのは、農業で得られた私有財産(蓄財)で集団や社会を統合することしかできなくなった大量の渡来人により、縄文社会が持っていた従来の生産・社会・祭祀体系が打破され、弥生時代に入り一気に米を中心とした生産経済へ日本中が転換させられていった、と考えるのが妥当ではないかと思います。
投稿者 simasan : 2007年05月19日 18:00
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コメント
年表はわかりやすいですね。
下記の縄文農耕論のレポートによると、縄文時代も3000年前には明確に農業が始まっています。
>縄文時代に農耕がはじめられたのは、縄文晩期(約3千年前)とする考えが九州から起こった。その最初は筆者の「農耕文化の起源」(『考古学ジャーナル』№2 昭和40年)であった。大分県大野郡緒方町大字 大石遺跡 からみつかった 住居跡 群と巨大な集会所、これまで耕具とみられていた 打製 石斧(せきふ) に加えて、収穫具とみられる手持ちの 庖丁(ほうちょう)型石器 が大量にみつかったことなどからの分析によるものであった。昭和35年ころから長崎県雲仙岳周辺の縄文晩期遺跡から打製石斧や、 石庖丁 型石器とともに コメ の圧痕 土器 がみつかった。http://www.e-obs.com/heo/heodata/n381.htm
農耕を縄文時代まで遡ろうとしないのはあえて水田稲作以降を農耕と定義し弥生時代以降を文明開化とする恣意性が感じられます。
日本において農業がいつから始まったか?この問いに関しては弥生時代以降ではない。というのが正しい答えだと思います。
そしてそれはいつからかというと現在わかっているだけでも少なくても4千年前から栽培の歴史はあったという事です。
投稿者 tano : 2007年05月19日 10:35
大変参考になりました。
縄文時代や古代文明に関して非常に充実したブログですね。
今後も参考にさせて頂きます。
投稿者 deliciousicecoffee : 2007年08月08日 22:10
deliciousicecoffeeさん返信ありがとうございます。
貴方のブログも訪問させていただきましたが、多くの人の返信投稿があって盛り上がっていますね。
当ブログのメンバーもぜひ参考にさせていただきます。時々トラックバックや返信をして交流していきたいと思います。よろしくお願いします。(管理人 tano)
投稿者 tano : 2007年08月11日 15:32
弥生時代の定義自体、難しくなってきたように思う。このブログの説も基本的には、誤った考古学の認識に沿ったものであると思う。
そもそも、これまでの土器編年で割り出された2300年前という稲作の年代自体、何の根拠も無いものだ。
投稿者 himiko : 2007年08月24日 11:30
時代区分を生産様式で区分することが土台おかしいのかもしれません。himikoさんが言うように考古学的資料は常に最古のものが後から登場します。当然農業の始まりは考古学的データーに左右されます。その都度時代区分を変えていくと言うのもおかしなもの。
弥生時代とは農業が始まったからではなく、私権時代が始まったという区分の方がより明快なように思います。
※私権時代とは私有意識が芽生え、集団間で私権(自集団の利益)を争って闘争が始まったということです。
投稿者 tano : 2007年08月25日 01:35
教えていただきたいことがあります。東北の稲作の始まりは何時頃でしょうか?又、それは北上してきた民がもたらしたものか?それとも大陸からの渡来の民によってもたらされたのか?
よろしくお願いいたします。
投稿者 太陽翁 : 2008年01月11日 11:01
太陽翁さんへ
東北の稲作の始まりは今から2000年前と言われています。弥生時代の後期ですね。2400年前に北九州に伝来してから400年で津軽平野まで伝播しました。以下、るいネットの岡本氏の投稿からです。
>水田稲作が渡来人によって北部九州にもたらされて以降、わずか100年で西日本に伝播し、その200年後には関東平野、さらに100年後には津軽平野まで達するスピードの速さは驚異的である。400年で1500kmの移動とすると毎年3.75kmとなり、中国の0.15~0.2kmと比較して約20~25倍のスピードになる。遊牧を伴っていたため加速されたであろうと考えられている西アジアからヨーロッパへの農耕文化の移入にしても、その速度は毎年1kmと推定されている。(参考:中村慎一「弥生文化と中国の初期稲作文化」)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=35999
投稿者 tano : 2008年01月13日 01:54
ご回答ありがとうございました。もう少し質問させてください。文献資料では、「中国の冊府元亀に蝦夷には五穀は無し、肉を食ひて活きている。」との記述があるのですが、この記述の資料価値は高いと思っています。当然11世紀前般の編纂なので多少違和感が感じる方がおられるとは思いますが・・・・
だとすると・・・659年以前には穀物の生産は無かったのでは・・・と考えているのですが??
詳しく教えてください。!!!
投稿者 太陽翁 : 2008年01月14日 14:18
>だとすると・・・659年以前には穀物の生産は無かったのでは・・・と考えているのですが??
詳しく教えてください。!!!
3つも!!!を書いていただいていますが、私はギブアップです。誰か太陽翁さんのこの質問に答えてください!!!
お願いしまーす。
できれば中国チームでどうでしょう?
投稿者 tano : 2008年01月22日 01:21
>太陽翁さん
>tanoさん
>できれば中国チームでどうでしょう?
挑戦してみます!諸説様々あって、これっていうのが絞りずらいところですね。ちょっと調べてみますのでお待ちください^^;
投稿者 さーね : 2008年01月22日 19:01
30年ほど前に学校で教えてもらった歴史が大きく変わっていることに驚きました。渡来人が入ってきたことにより、それまでの狩猟社会が農耕社会に転換したとありますが、渡来人が来たのがなぜわかるのですが?当時は文字による記録などはないと
思うのですが?
投稿者 kanecyn : 2008年01月23日 23:48
kanecynさんへ、
渡来人に関しての文献資料はほとんど中国・高麗・百済など大陸の文献資料によるものが多いのです。また、史実の証として、考古学的証・文献学的証が必須となります。この2つの証が無ければ、史実として表記できません。古代史の難しさはここにありますが、技術的進歩によりかなり解明されてきています。しかし古代を紐解くロマンもあることも大切かとおもいます・・・・・。
tanoさんをさしおいてコメントしてしまいましたスイマセン。
投稿者 太陽爺 : 2008年01月28日 18:42
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