/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2007年06月30日

中国文明のなんで?

こんにちは、etoです。

カッピカピさんが『縄文時代のなんで?』をUPしていただきましたが、更に盛り上げるために『中国文明のなんで?』をあげてみました。継続テーマも含め、古代中国ファンのみなさん、頑張って追及していきましょう!

新テーマ①
・古代の母系社会は、どんな社会を形成していた?
 その婚姻制はどうだったのか?

 新テーマでもないですが、やはりここは外せないですね。
 洞窟を出た古代中国人は、どのような生活をし、どのような婚姻制だったのでしょうか?

 これまでの関連投稿は、
 古代中国が一妻多夫制だったって本当?
 中国の母系氏族社会
 道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範
 古代中国:母系氏族共同体の特徴


継続テーマ①
・母系→父系へは、いつどのように転換した?

 るいネットでは、父系の始まりは遊牧民族であり、掠奪の玉突きと共に各地へ拡がっていった、とされています。且つ、父系転換が人類史のターニングポイントだったと。これも外せないテーマですね。
『古代中国:父系氏族社会への移行』においては生産様式が採取から農耕へと変化するのに伴い父系に転換したとありますが、どうだったのでしょう。

そこで、次のテーマに繋がります。

 これまでの関連投稿は、
 中国文明の王位継承=世襲制とは?
 中国文明:姜寨遺跡の婚姻制~男達の性への欠乏△・掠奪前夜
 古代中国における父系制への転換と宗教
 古代中国:父系氏族社会への移行


新テーマ②
・北方遊牧民族はどのように中国文明に影響を及ぼしたのか?

 父系の始まりが遊牧民族であるとすれば、彼らはいつ南方へ下りてきた(攻めてきた)のでしょうね。そして、どのような関わりがあり、何が変わっていったのでしょうか?

 これまでの関連投稿は、
 波状的に遊牧民がやってきた古代中国~殷(商)・周~
 馬が強大な軍事国家を作り出した。
 騎乗技術が遊牧民族を巨大な軍事国家へと後押しした?
 馬の家畜化により製鉄技術向上と戦争が激化した


新テーマ③
・なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?

 ちょうどるいネットでも紹介されていますが、中国人は血縁の結束力は強いが、他に対しては出し抜くことばかり考えているという。その源流はどこにあるのでしょうか? 今や中国はアメリカ以上のビジネスパートナーですが、彼らを良く知らなければうまく付き合っていくこともできませんね。
掠奪闘争の長い歴史、社会規範の変遷、思想的背景などいろいろありますね。そこで、一部関連する疑問として↓④に続きます。

 これまでの関連投稿は、
 黄河文明は恐怖の人骨文明か !?、ゾゾー・・・
 黄河文明 古代の戦争は呪力と呪力の闘い!?


新テーマ④
・中国にはなぜ多くの民族が存在し、今も現存するのか?
 いったい、どんな民族があり、どんな生活をしているの?
 母系氏族社会の共同体規範は消滅してしまったのだろうか?

 ③のテーマと関連するか分かりませんが、中国には生活様式がまるで違う少数民族が多数存在しますね、日本では考えられないことですが、今でも○○自治区なんていうのがあって、未だに国家として統合されていないんじゃないかという疑問もあります。いったいどうなっているんだろう?


新テーマ⑤
・戦国時代、一度に大量の学者が発生したのはなんで?

 これも③に関係するか分かりませんが、戦国時代には諸子百家なるものが登場しては活躍していますね。いったいなぜ同時期に多数の学者・学派が登場したのでしょう? そしてどのように思想的に統合されていったのでしょうか?


新テーマ⑥
・中国文明から縄文に、何が伝わったのか?

 縄文との関連テーマですね。

 これまでの関連投稿は、
 長江文明の担い手『苗族』が日本に渡来し、稲作文化を伝えた

あれこれと疑問発であげてみましたが、他にもあれば是非お寄せください。
また、関連投稿を載せてみましたが、これまでもるいネットでは多数の追求投稿があり、むしろそちらをまとめてみる方が、どこまで追求されていて何が残っているのかが整理されるので、必要かもしれません。これは、各テーマに挑む有志にてチャレンジして欲しいと思います(笑;)


応援ヨロシクです♪
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posted by nishipa : | |

2007年06月29日

最古の戦争犠牲者は縄文人だった

:D くまなです

前回、最古の戦争犠牲者の紹介をしました。今回は、それが縄文人だった、という話しです。

この熟年男性は、骨をみると、列島の土着の、いわゆる「縄文人」の体つきをしている。おまけに、歯には、縄文時代以来の古い因習である抜歯のあとがうかがえるという。

「縄文人の体つき」というのは、いわゆる低顔、低身長のことです。

抜歯については、縄文晩期には「叉状研歯」なるものも出現しています。これについてはbunchanの叉状研歯(しゃじょうけんし)って!?」をご覧ください。

身も心も縄文人のようにみえる男性に突きささった朝鮮系の武器。渡来人が、武器を振りかざして縄文人にせまる状況が目にうかぶようだ。事実、そういう場面もあったにちがいない。

さらに、この男性が埋葬されていた墓は…

続きのまえに、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : | |

2007年06月28日

東北地方に縄文遺跡が多いのはなんで?

こんばんは bunchanです。

カッピカピさんがいろんなテーマをひろってくれましたが、その中で、新テーマ④  東北地方に遺跡が多いのはなんで?
を考えてみたいと思います。

まず、縄文時代の遺跡が多かったのは・・・
ウィキペディアで縄文遺跡一覧で遺跡数を数えてみました。 

北海道 ・・・6
東北地方・・・35
関東地方・・・37
中部地方・・・20
北陸地方・・・10
近畿地方・・・16
中国地方・・・11
四国地方・・・9
九州・沖縄地方・・・21

けっこう中部や関東も多い・・・遺跡数でいくと、中部・関東・東北あたりが多いようです。
人口のほうはどうなっているかというと・・・

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画像は授業で使えるQUIZ日本史さんよりお借りしました。

日本列島の中部より東や北のほうが遺跡数、人口密度が高いですね~!
なぜなんでしょう :m052:

クリックしてから続きをどうぞ :m030:
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posted by bunchan : | |

2007年06月27日

縄文時代の言語の変遷と土器文様との関係

simasanです  「縄文と古代文明」ブログへの投稿、久しぶりですが、

今日は、カッピカピさんが提案している 「新テーマ」 について考えてみました。 :P

新テーマ③縄文時代の言語体系ってどうなってたの?を調べていくうちに、実は
新テーマ⑤中期以降の縄文土器の模様が複雑になったのはなんで?

と繋がっているのではないか?と思うようになり、両方考えてみました。

知りたいっと、思った方はポチッとお願いします!
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posted by simasan : | |

2007年06月24日

縄文時代:女性の役割~育てる能力を生かした!-栽培

今晩はさーねです :D

最近、思うことですが、縄文時代の出土品や遺跡は日本全土で星の数ほどあると思います。遺跡の形や出土品はその時代の縄文人の行動を解明する上で大事な物差しとなり、様々な解明がなされていますが、何かその時代を解明する上で足りないなーと感じることがあります。それは、やはり縄文集団の統合軸,男女の役割等の人間の意識構造です。その意識構造を学ぶことで初めて、現代社会に生きる歴史を学ぶということになるのだと思います。 :wink:

そんな問題意識をもって、今日は、女性の役割に焦点を当てたいと思います。とても、面白い論文報告を見つけました。
国際縄文学協会紀要 第1号 2004 国際縄文学協会「熊本県上南部遺跡の土偶」

もちろん、女性は「子育てが役割!男には絶対真似ができない役割ですね!この「育てる」という能力は女性にとって、やはり大事な能力であり、子育てに限らず、集団生活において様々な「役割」へ生かされていたと考えられるのです。

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この土偶…なぜか常に核となる遺跡から出土するそうです… :wink:

考古学を超えて、一緒に追求しましょう! :tikara:
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posted by sawatan : | |

2007年06月23日

中南米の歴史 古代人の移動の謎

 インカ帝国を始めとする中南米の歴史はまだまだ解らないことだらけです。 :roll:
しかし、考古学的な検証によれば、約12000年前には、現在のペルー、エクアドルの海岸線地帯に古代文化が栄えたことが分かっています。狩猟、採集、漁猟などを中心とした文明は、やがて農業中心の生活に移り変わり、8000年以上繁栄したとされています。

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しかし、1世紀ごろまでに、かつて栄えた文明の種族の多くが、アンデスの高山地方に移り住むようになります。これはなんででしょうか?

この先を考える前に、ポチッポチッとお願いします。
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posted by hiroshi : | |

2007年06月22日

縄文時代のなんで

こんにちは、カッピカピです。

 いつも、このブログを読んでくれているみなさん、ありがとうございます。みなんさんの応援のおかげで、ここ最近は人気ブログランキング一位をキープし続けてることが出来ています。今後もみなさんの期待に応えるべく、そして、ランキング一位にふさわしいブログにしていくために、改めて、縄文時代についての追求テーマを設定してみたいと思います。

 
 その新たなテーマは・・・・・
 
 その前に、ポチッ↓とよろしくお願いします。

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posted by hi-ro : | |

2007年06月21日

古代アンデス文明のなぞ

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黄緑に見える部分がインカ文明の版図

古代アンデス文明のなぞ

古代アンデス文明は今から約12,000年前、現在のペルー、エクアドルの海岸地帯に古代文化が栄えそしてスペイン人に滅ぼされたインカ文明まで続いた。
因みにインカ文明は15世紀中~16世紀中で南北が約4000km 面積が114万km2(日本の約3倍)人口が1000万人(東京都の人口に匹敵する)そして一人の国王によって統合されていた。

続きは、下をおしてから
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posted by ryou : | |

2007年06月19日

支配された民衆が求めた道教

前投稿にて、父系転換に伴い、国家による民衆支配のために宗教が必要とされたことを紹介しましたが、では一方の支配されていた民衆の側はどうだったのでしょう?

●腐敗する国家と、疲弊する民衆
>東漢の終わり頃、自然の力よりさらに強大な社会的な力によって抑圧・搾取され苦しめられた民衆は、耐え難い苦難から逃れるために宗教を強く求めた。

>東漢の順帝以後、政治は腐敗し、宦官や外戚が権力をもてあそび、気風に節操はなくなっていた。桓霊の時代には、士族の名士や太学生が朝廷の政治を批評して宦官を糾弾し、党錮の獄[特定の党派の人々を弾圧したこと]が起こり、知識人を惨殺し、世論を弾圧した。朝廷は民衆の支持を失い、国家は大本から揺れ動いた。官僚は横暴になり田地を併合したので農民は土地を失った。日増しに難民は増え、災害が続き、経済は崩壊した。中国の家長制の農業社会の中でも、朝廷が冤罪事件を起こし、しばしば知識人を惨殺した。社会には厖大な難民の階層が出現し、盗賊や流賊が暴れ回り、さまざまな教派や秘密結社が競り合い伝播した。こうしたことは、往々にして国家が滅亡する前兆である。当時、「漢の世は衰えた」というのは一般的な認識で、人々は平和で豊かな新しい時代が訪れることを願っていた。

>漢末に社会不安が増すと、国家に従属していた儒教は人々の心をつなぎとめておけなくなり、この機運に応じて必然的に道教が生まれた。道教は儒教に代わって世を救い、帝王を助けて太平の世をつくるためのものだった。道教は、儒家の倫理教条の影響を受けて仙人に成るための必要条件を作成した。これは道教が儒教に取って代わったのではなく、宗法封建の秩序を守るために儒教を助けていたということである。道教は封建皇帝のための「第2の儒教」として機能したのである。


●なぜ道教が求められたのか?
>儒家の礼教は専制制度を論証し社会教化する行為規範であり、仏教は人々を脅し誘惑し麻痺させて奴隷を安心させる精神的な麻薬だった。

>三大世界宗教が霊魂の解脱を追及し、来世の利益を重視する。三大世界宗教は死後に天国という楽園で生活することを考え、冷淡な態度で社会の現実生活に対処する。

>道教は原始社会で自然発生した自然宗教と階級社会で作られた倫理宗教の結合体である。避けようのない死や災厄は、最初は自然の力によってもたらされたが、その後は封建社会の国家機関による社会の力によってもたらされた。だから、道教の神仙は死や災厄を克服し、逍遥自在であるが、それは自然を超えた力を神格化しているだけでなく社会を超えた力も神格化しているのである。道士は、自然の力や社会の力を超越し、理想の現世利益を獲得するために修練するのである。

>原始社会の歴史は階級社会の歴史より長い。母系氏族の原始宗教は、長い歴史の中で、女性崇拝の習慣風俗と思想という伝統を作り出し、それは長い年月を経ても伝統文化の中に残っていった。伝統は社会や民族の中で最も保守的な力であり、一朝一夕に形成されるものではない。しかし、いったん民族や社会の伝統となった文化要素(宗教信仰、思想観念、社会風俗、政治経験、生活習慣など)は、伝統の惰性のために、無理に放棄したり一刀両断に断ち切ったりすることはできない。母系氏族社会の原始宗教が伝統という染料を中国文化という大きな瓶の中に入れてしまった以上、その後いくら父権家長制という宗法礼教の男尊女卑の伝統が優勢になっても、やはり古代から蓄積してきた文化の中に女性崇拝の痕跡を見ることができるのである。現存している伝統文化は必然的に祖先の情報を含んでいるので、道家や道教文化の中に古代の母系氏族の原始宗教の痕跡が見られるとしても不思議ではない。


★ここに歴史を学ぶ意味がある。
儒教は父権家長制を支える序列規範に過ぎず、仏教は現実を麻痺させる麻薬に過ぎなかった。
それに対し道教は、父系制に転換するはるか以前より民衆の生活の中で自然発生した原始宗教であり、民衆のDNAに刻印された本源的な規範を色濃く残すものであったからであり、だからこそ民衆は道教に可能性を求めたのだろう。

現在の日本の置かれた状況も漢末と同じようなものだ。否、日本ばかりでなく人類的な危機を迎えた状況ではもっと深刻だろう。
今こそ歴史を学び、はるか太古の先人に学び、生かし伝えていく必要があります。


長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
もいちど、応援よろしくです。
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posted by nishipa : | |

2007年06月18日

古代中国における父系制への転換と宗教

こんばんはetoです。

前回の投稿では、道教が古代中国の母系氏族社会を源流とした自然宗教であることを紹介しました。リンク

今回は、母系から父系に転換し、国家の成立とともに宗教がどのように関わっていったのか、前回同様に仙学研究舎さんより紹介しながらまとめてみました。

少し長くなりますが、お付き合いを。

●道教の定義とは?
>道教は中国の古代の母系氏族社会で自然発生した原始宗教である。
その変化の過程で、巫術禁忌、鬼神祭祀、民俗信仰、神話伝説やさまざまな方技術数を取り入れ、道家黄老の学を旗印と理論的な柱とし、儒家・墨家・陰陽家・神仙家・医家などの諸学派の修練理論・倫理観念・宗教信仰なども取り入れた。
人々を救い、長生し仙人に成り、さらに道と一つになることを総合的な目標に掲げ、神学・方術なども含む雑多な宗教体系である。それは漢の時代に特定の歴史的条件のもとで絶えず仏教の宗教形態を取り入れ、次第に発展し中国の伝統的民衆文化の特色を備えた宗教となった。

様々な要素を取り入れて統合しているわけですが、それ故に道教はまるで得体の知れない物であると言われています。

要するに、
・道教の源流が母系氏族社会で自然発生した原始宗教であること
・漢の時代に黄老の学が神学化・方術化したこと
・中国の儒家・道家・仏教およびそのほかのさまざまな文化要素を取り入れたこと
・その目標は人々を救い、長生し仙人になり、道と合し神に通ずること

●母系から父系への転換
>仰韶文化の時代がちょうど母系氏族社会の最盛期に当たる。当時は洪水の多い時期だった。
それぞれの部族が治水事業を行っていく中で次第に文明が発達し、父権が重んじられるようになった。

>禹の時に洪水は克服され、夏王朝がはじまる。これ以後、中国は次第に父権家長制の階級社会へ移行し、原始宗教は次々と変革されていった。

>殷、周の時代には、父権の原始宗教の代名詞ともいえる宗法礼教が確立され、ついに男尊女卑の新しい伝統によって統治されるようになった。これが儒家の文化の始まりである。周代には世卿世禄制度が施行され、学問は官のものとなり、官と師が一つになった。

>春秋戦国時代になると、封建地主経済が周代の宗法領主経済に取って代わり、世卿世禄制度は衰えた。階級関係(君、卿、大夫、士、庶民、奴隷)も変化し、貴族と庶民の間に介していた「士」の階層が急速に拡大した。また伝統文化の担い手も、もとの封建的な身分から解放された。士の階層は自由に流動できる四民(士・農・工・商)の首位となり、社会的な理想・文化素養・社会的責任感をはっきり認識していた。厳密に言うと、中国の古代の知識階級はここに至って出現したのである。

>しかし、母系氏族の原始宗教の伝統は民間に隠れたり外の部族へ流入し、途絶えることはなかった。中国が儒家の父権家長制によって統治されるようになってからも、道教では女仙を賛美し女性成仙が語られた。道教の中には、原始宗教の女性崇拝が残されているのである。

つまり、
・父系転換→父権家長制の階級社会→儒家の台頭
・しかし道教は民衆のなかで途絶えることはなかった

●父系転換により、なぜ原始宗教が変革されたのか?
>秦・漢の時代、中国は一つの封建帝国に統一されていた。皇帝は家長制の独裁政権を強化するために、鬼神迷信を利用して民衆の思想をコントロールする必要があった。中国社会の低層の農民・漁民・きこりなどの労働者は文字が読めないような状態だったので、彼らに《論語》、《礼記》、《孝経》などの儒家の著作を見せても理解できなかった。彼らが謀叛を手助けしないようにするためには、宗教によって教化するしかなかった。

>漢代の皇帝は、このような政治的な必要性からまず周代の伝統だった宗法礼教を復興することに力を注いだ。続いて神をでっちあげ、儒家を宗教化していった。御前会議を開いて儒家の宗教化をあおりたて、《白虎通》を国家の教科書として欽定し、「三綱五常」を神聖化した。また、孔子を教主として奉じ廟を建てて祭った。「忠孝」を官吏を選抜する尺度とし、全国で家長制を推し進めた。

>秦の始皇帝や漢の武帝は封禅を行い仙道を求めて古い宗教の精神を復活させ、漢代の政治・学術は宗教という濃い霧に覆われた。東漢の時代には讖緯神学が儒家の正統派となり、儒家と伝統的な宗法礼教との結び付きはどんどん緊密になった。古代の宗教の亡霊は完全に儒教に取り付いたのである。

つまり、
・封建帝国を統一し、人民を統治していく為には宗教が必要であった
・父権家長制を強化するために儒家を宗教化した


まだまだ続きますよ。
ひと息いれて、応援よろしくです。
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posted by nishipa : | |

2007年06月17日

古代中国:父系氏族社会への移行

前回の「古代中国:母系氏族共同体の特徴」に続き、父系社会の始まりについて紹介します。
(「図説中国文明史1先史文明への胎動」より)

約4000年前になると、黄河流域と長江流域の氏族集落は相次いで父系氏族社会へと移行します。最初それは父系の血族集団で、かつ生産体系でもありました。集団は、生産力の増加にしたがい、いくつかの父系親族の共同体に分かれます。父系制への移行は、核家族と私有財産の出現とあいまって、私有制の社会へと変化していきました。

詳しくは、ぽちっとしてからどうぞ。
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この写真は、陝西龍山文化の遺跡で、玉人の髪飾りという装飾品です。
集落の首長か、崇高な地位にある神職シャーマンの姿だと推測されている様です。

posted by maeyan : | |

中国文明:『宦官』が物語るもの~個人まで貫通した権力意識

今晩は、さーねです :o
今日は、中国の『宦官』の歴史を調べてみました :tikara:

宦官とは…

中国で、貴族や宮廷の後宮に仕える去勢 :shock: された男子。元来は宮刑に処せられた者を用いたが、王侯の側近となるため、去勢を志願する者もでた。西アジア、ローマ、ギリシアなどにもみられる。

諏訪春雄通信37

去勢…日本には、宦官制度は存在しなかったし、僕にもなぜそこまでするのか :m050: 想像がつきません :-( :m004: :m002:

『宦官』制度に至ったのはなぜか :m050:
可能な限り、その当時の事実構造に迫ってみたいと思います :m051: :tikara:

今日参考にさせていただいたサイトは、学習院大学教授の諏訪春雄先生のサイトです :o :m117:
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中国の宦官

:m118: :m118: :D 毎回、応援ありがとうございます :m051: :D :m118: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年06月16日

先史時代の精霊信仰  ~シベリアのマリタ遺跡と縄文~

シベリアのマリタ遺跡は2万3千年前に、マンモスを追ってくらしていた、当時の人たちが暮らしていた遺跡で、その後ここから日本やアメリカ大陸へも渡ったと考えられています。
この遺跡からも地母神像のような、女性の像が発見されています。

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「日本人はるかな旅展」より 右は同遺跡の住居(マンモスの骨でできた住居)
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posted by ihiro : | |

2007年06月14日

イヌとヒトは1万年以上続くなが~~~い お付き合い!

ニュースです。 :D

【縄文時代から「人間と犬」仲良し…乳児と子犬の合葬を確認】

愛知県田原市の吉胡(よしご)貝塚(縄文時代後期~晩期)で、乳児と子犬が一緒に埋葬されていたことが同市教委の調査でわかった。こうした合葬は全国初のケースで、縄文時代の人間と犬との深いかかわりをうかがわせる事例という。

吉胡貝塚は大正時代から発掘が行われ、2001年度から昨年度まで実施した今回の調査では新たに乳児を含む12体の人骨を発掘した。そのうち墓穴とみられる直径50~60センチの穴から乳児の頭骨や手足、あばら骨の一部が見つかり、頭骨から約20センチ離れたところに子犬の下あご(長さ3センチ)の骨があった。乳児の性別は不明で身長50センチほど。生後間もなく死亡し、犬と合葬されたらしい。 

田名部雄一・岐阜大名誉教授は「縄文時代は犬が唯一の家畜で、猟を手伝ったり、外敵を警戒したりしていたと考えられる。乳児と合葬されていたことは、それだけ犬が大事にされていた証拠」と話している。 (2007年6月6日読売新聞より)

この記事、驚きなのは縄文時代に人と犬が共に暮らしていたという事ではなく、犬と人間の合葬事例が見つかったのがこれが一例目であるという事です。縄文人は犬と共存していたという記録はたくさん聞きます。しかし埋葬は一例、なぜか・・・。これは後で

今では多くの犬がペットして飼われています。犬を見るとかわいいーだけではなく、何か近しい、懐かしい特別な感情を抱きますね。さて、犬と人間の歴史はいつからかご存知ですか。 8)
%E7%B8%84%E6%96%87%E7%8A%AC.jpg←縄文犬のイメージ写真

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posted by tano : | |

2007年06月13日

日本最古の武器

:D くまなです

前回の日本における戦争の起源の続きです。

前回、戦争の証拠の1つとして「武器(人をあやめるための専用につくられた道具と、それから身を守るるための防具)」の存在があることを紹介しました。

■日本における最古の武器はどこにあるのか?

いま確認できる列島最古の武器は、「最古の水田」として有名な佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2500~2400年前)から出ている。

ホルンフェルスとよばれる目の細かい堆積岩を磨き出して作った短剣と矢じりだ。

これらの武器は、朝鮮半島の南部で使われていたものと同じで、朝鮮系の磨製石剣・磨製石鏃とよばれている。

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菜畑遺跡から出土した短剣


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同時代の韓国の代表的な磨製石剣

おそらく、かれらが故郷の朝鮮半島からもってきたのだろう。人を傷つけるための武器は、稲作の文化といっしょに朝鮮半島から伝わってくることによって、はじめて日本列島に現れたのだ。
(「人はなぜ戦うのか」松木武彦より)

戦争の証拠。次は「武器によって殺されたり、傷つけられたりした人の遺骸」です。

その前に :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : | |

2007年06月12日

国を統一して譲ったヒーロー、大国主命とは?

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こんばんは!bunchanです。 

「古事記の世界」 さんを参考に、古事記の中では、「国をつくって国を譲った男」として描かれている「大国主命オオクニヌシノミコト」について紹介してみたいと思います。(「古事記の世界」 さんより、要約・引用させてもらっています)

1.兄弟から追われる

大国主命はスサノオ七世孫として誕生しました。
大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)これが若かりし頃の大国主神の名前でしたが、稲羽に八上比売ヤカミヒメという大変ミメ麗しい媛がいました。
大穴牟遅神の兄弟達は皆、我こそは八上比売を妻に!という思いを胸の内に秘め、揃って稲羽へ出掛けることに。大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行ったのですが・・・。(途中、因幡の白兎を助ける)
八上比売ヤカミヒメが「あなた方の言うことは聞きません。大穴牟遅神と結婚致します」といったばかりに、大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)は兄弟から何度も殺害計画をたてえられ、生き返らされたり逃げたりの連続でした。最後には須佐之男命(スサノオノミコト)のいる根之堅州国ネノカタスクニへ行くことに。


・・・・続く
ぽちっと押して続きをお楽しみください :m030:

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posted by bunchan : | |

2007年06月11日

縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた、稲作もそのころ伝わったと考えられる?

◎日本で稲作が開始されたのは従来言われていた2000年前ごろから遡り3000年前ごろではな
いかというのが最近の説です。
 3000年前にすでに稲作の始まっていた朝鮮半島と縄文人の交流があった。


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posted by ryujin : | |

2007年06月10日

縄文の文化圏:交換物の分布から「文化圏」が見えてくる

以前「縄文時代の集団規模」と「縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった」と言う投稿で「集団の規模や生活、他集団との交流」が一定明らかになりました。

今回は交流の際の「交換物」の資料を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
■交換物と文化圏:交換産物とは、野うさぎなど小型動物の毛皮、漆工芸品、樹皮・繊維製品があるが、今の時代に残っているものは少ない。

またアスファルト、黒曜石、ヒスイ、コハク(八幡一郎『先史時代の交易』1938年)などは比較的残りやすい。

縄文人は陸路・海路(丸木船)これらを持参して、東北、伊豆諸島、沖縄など遠隔地とも交流していた。
(小林達夫「縄文人の世界観」『縄文人の世界』34頁以下)。

多彩な加工食品は、集落間の分業が行われていたことと、加工食品が集落間で交易されていたことを物語っている。石器の材料としての黒耀石やサヌカイトの産地は限られているが、全国各地から出土しているし、各地で出土する土器も、遠隔地で製作されたものが出土するなど、縄文時代を狩猟採集を基盤とする単純な自給自足の封鎖経済と片付けることはできない。

後段で詳細に見ていきたい。

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posted by mukai : | |

2007年06月09日

縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった。

以前、「縄文時代の集団規模」と言う投稿で「集団の規模や生活」が一定明らかになりました。
今回は「他集団との交流」がどうであったか?
を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。

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posted by mukai : | |

2007年06月08日

鬼界カルデラの大噴火により、琉球発のネットワークが始まった?

こんばんは、etoです。
前回は、スンダランドから北上した港川人の人骨を紹介しました。リンク
琉球に住み着いた人々は、主に漁労生活を営んでいましたが、本土との交流はまだありませんでした。
が、約6000年前頃には鹿児島の前期縄文が沖縄本島へと南下しています。この頃からスンダランド由来の琉球文化が本土の文化と交わっていくわけですが、今回はそのあたりを考えてみました。


下の図は、鹿児島の南にある薩摩硫黄島です。
clip_image002.jpgclip_image005.jpg


実はこの島、縄文早期後半の約6300年前、海底火山「鬼界カルデラ」の噴火によって出来た火山島なんですね。
爆発規模は、雲仙普賢岳の凡そ100倍、火砕流の規模は雲仙普賢岳の1回の火砕流噴火の数10万倍に相当するほど驚異的で、過去一万年の日本火山史のなかで最大の噴火だったようです。
上空3万mの成層圏にまで達した大量の火山灰は、遠く東北地方にまで飛散したほどで、南九州一帯は、60cm以上の厚さで埋め尽くされた、とのことです。スゴイですね!!

さて、この大噴火が琉球圏の人々の生活にどう影響したのでしょう?

「琉球弧の考古学」さん
>南九州の初期縄文社会は、巨大噴火によって壊滅的な打撃を被ってしまった。その後この地を逃れた南九州の縄文人は列島各地に拡散して行った。特に「海人集団」は丸木舟や筏舟で対馬暖流を北上し日本海を通り北海道へ、さらに黒潮本流に乗って太平洋沿岸地域から伊豆諸島の八丈島にまで移住した集団も確認されている。

「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」
>この火山災害を免れた南九州縄文早期人の一部は、陸路を九州中・北部に避難していった。一方、海人集団のなかには対馬海流を利用して海路丸木舟で西九州沿岸や日本海方面に移住した人びと、黒潮本流に乗って四国、紀伊半島の太平洋沿岸地域やさらに遠く伊豆諸島にまで到達した人びともいた。こうした南九州縄文人の航海の軌跡は、栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧が、高知県木屋ケ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域の遺跡、東京都八丈島などの遺跡で発見されていることで証明される。

沖縄から八丈島まで、こちらも想像を絶する大航海です!

想像を絶するほどの大噴火により大打撃を受けた島人たちは、命からがら可能性を求めて、北へ、東へ脱出を試みたのでしょう。その際に南方固有の磨製石斧が列島各地に伝わったわけですね。さらには、舟の技術、あるいは豊富な貝類で作った首飾りなども伝わっていったのかもしれません。その後、弥生時代にかけて貴重な装飾品を求める「貝の道」へと交易ルートが続いています。リンク

このようにして、琉球発の縄文ネットワークが始まったのではないか?と思った次第です。

以下に、黒潮圏の「海上の道」を紹介します。リンク
oda9.jpg


ありがとうございました、応援よろしくです。
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posted by nishipa : | |

2007年06月07日

縄文人は黒潮をどうやって横断したのか?

>なぜ、海を渡ろうとしたのか 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで?縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?

さーねさんも疑問に思っているように、黒潮の流れに逆らってどーやって本土から八丈島に行けたか気になりますね。それについて仮説を立てているサイトがありましたので今日はそれを紹介します。ちょっと面白いです。

:m118: これ宜しくお願いいたします :wink:

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posted by mrran : | |

2007年06月04日

中国文明:姜寨遺跡の婚姻制~男達の性への欠乏△・掠奪前夜

今晩は^^さーねです :o

>中でも母系から父系への転換は興味深いテーマです(縄文ー古代通信 NO3(19年6月号)

中国文明の国家や市場の話は結構ネットでも資料があるのですが、この辺の情報は、実はなかなかネットでは資料がなく、そろそろ本で勉強しようと思っていたところです :-( ただ、国家の形成と同時にやはり各集団はどのような営みだったか?⇒集団はどのように統合されていたか?

やはり、婚姻制 :m021: の変遷がキーポイントになってくると思われます :D

今日は、姜寨(きょうさい)遺跡から見られる婚姻制の一事例を皆さんに紹介したいと思います :m051: :tikara:

ko_0513.jpg
防御のための環濠を掘る様子

今日参考にさせていただいたのは、
レアメモリーの古代・黄河文明研究
るいネットより
漁労・採取系民族における婚姻制の変遷
仰韶文化中期における父系氏族統合の背景分析

みんなにぜひ見てほしい!応援を! :D
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posted by sawatan : | |

2007年06月03日

先史文明:地母神信仰って? ~地中海マルタ島の神殿より~

縄文と同じ遺伝子を感じる先史文明、その鍵となるのは地母神と言われるものではないかと思う。この地母神像は世界各地から発掘され、判明しているだけで3万年前ぐらいから連綿と続き、2000~3000年前、古代(私権)文明の成立とともに忽然と姿を消していくからです。

よく○○ビーナス像という地母神像を見たことがあるかとおもいますが、あれです。縄文も長野県から縄文ヴィーナスが出土している。

          031103_8.jpg
          マルタ島のビィーナス像(BC3600年~2500年ころ?)

地母神って何?どんな信仰だった?
それを考える上でも、遺跡の状態がよく残っている地中海のマルタ島の神殿から紹介したいと思います。

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posted by ihiro : | |

2007年06月02日

古代中国:母系氏族共同体の特徴

前回から、更に遡ってみました。古代中国では、原始的な群居と血縁家族の社会から、約8000~6000年前に母系氏族社会 :m102: に移行しています。この母系氏族共同体とは、どんな社会だったのでしょうか?
(「図説中国文明史1先史文明への胎動」より)

xian894.jpg
写真は、「邪馬台国大研究ホームページ / 遙かなる西安」から拝借した、半波遺跡の集落復元模型です。この頃の環濠は、獣よけの機能が中心だった様です。

縄文時代と同時期の中国が、どんなだったかを比較してみるのも、おもしろいですね。
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posted by maeyan : | |

ブログ「日本史探求」を応援します。

先日、人気ブログランキングの歴史ブログを見ていたところ、面白いブログを見つけました。
「日本史探求」というブログです。

プロフィールに書かれていた主旨の紹介文です。
この国のかたちを知るには古より伝わる先人たちの功績を知ること。そして文化を知ること。我が国の歩みを誇り思えてこそ真の「愛国心」が芽生える。~日本史探求

ついでに当ブログの紹介文も併せて掲載します。
>いったい、人類はどこで道を誤ったのか?人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られている。~縄文と古代文明を探求しよう

このブログは弥生時代から近代までの日本史のエピソードを著者の見識も交えて紹介しておられます。当ブログが古墳時代以前を扱っていますので「日本史探求」に飛べば縄文から江戸時代までの日本の歴史は俯瞰できる事になります。勝手ですが姉妹ブログとして提携させていただければと思っています。(ちょっとリンクの張り方を忘れたので後日当ブログのリンクへ貼らせていただきます)3年前から始めておられるので2歳お兄さんにあたります。 :wink:

カテゴリーも時代区分に分けられていて見やすいです。
最近、当ブログでも話題になった渡来人と稲作についても紹介されています。

>縄文時代は「原始共産主義」と呼ばれるほど共同生活の中で共助共援の営みを送っていた。三内丸山の集落跡から考えられるように、数百年も争うことなくそこに置かれた施設、そして実った作物を共有していたことも発掘の結果分かってきている。
こうして縄文時代には共助共援により数百人単位で安定した生活を送っていた原始日本人(縄文人)であるが、なぜ身分の差が生まれ争うようになったのか?今回はこの疑問について検証していこうと思う。続く リンク

※この記事には私めがコメントさせていただきました。 8)
日本史探求さんはまだランキングが40位台ですのでみんなで訪問してランキングを上げていきましょう。

さぁ、6月です。さらに熱く縄文ー古代を探求していきます!TANOより

クリックだけはお願い!
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posted by tano : | |

2007年06月01日

縄文ー古代通信 NO3(19年6月号)

縄文ー古代通信の3回目です。

5月は、縄文関連が多かったですね。縄文時代の土器や海洋技術が多くの方々に取り上げられました。中国文明も毎月コンスタントに追求が続いています。メソポタミアは一気にイスラエルやパレスチナ問題へと広がりました。また、始原人類や世界の文明以前へテーマの広がりが期待されるものも出てきました。それぞれのテーマで、深まりと広がりを見せていますね。

5月(以降)で展開されているテーマの紹介です

■始原人類(洞窟生活、過酷な生活)
■縄文時代の時代観、土器、海洋技術、気候と生産(採集・栽培)、集落、お墓(死生観)
■弥生時代の戦争
■中国文明
■中東(イスラエル、パレスチナ問題)
■その他、遊牧民族の集団・社会統合や無文字社会

今後のテーマの広がりを俯瞰してみます。

その前に、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : | |