2007年06月09日

縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった。

以前、「縄文時代の集団規模」と言う投稿で「集団の規模や生活」が一定明らかになりました。
今回は「他集団との交流」がどうであったか?
を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。

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  円筒土器の分布          黒曜石の分布

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 ヒスイの分布         アスファルトの分布

■ムラ間の交流は?
縄文前期:縄文時代に入って、縄文人が定住ムラをつくり、そこを根拠地にしてゆく。 やがて、

①周辺の食料の取得地を掌握し、
②それを伝達するために地名が生じ、
③縄文語を話して、周辺のムラと交流し始めるのである。

 例えば、7~8000年頃前から津軽海峡の海上往来が始まる(橋口尚武編『海を渡った縄文人』小学館、1999年、98頁)。
そして、青森三内集落は、津軽海峡をはさんだ函館側のムラと同じ文化圏を形成し、縄文人は産物をもって舟で行き来して、各地の特産物と交換していた。

地域共同体富を得るための交換ではなく、各地の自然恩恵の補完的交換であったのである。その地域のみにめぐまれた特産物に感謝し喜び、それを他の地域の特産物と交換できることに感謝し喜んだのであろう。それは自然、神に感謝することであって、利益を得ようとか、富を蓄積しようという動機はいささかもおきなかったのである。

 生産地、集積地から物が流通してゆき、各村との「親疎」「縁度」、各村の交換物の内容・水準などで、良質のもの、好まれるものが優先的に届けられたようだ。
例えば、縄文前期・中期の八丈島倉輪遺跡では、オオツタノハ貝を加工し、持ち出した恩恵として、関西系、北陸系、信州系、東海系、東北系土器、硬玉製の玉、蛇紋岩製の抉状耳飾、「の」字状垂飾、琥珀製勾玉などが豊富に持ち込まれていた(小林編前掲書、80頁)。

物の交流で、各村間のネットワークは一層緊密に築き上げられていったようだ。ある地域のムラがこうした互恵的関係を築くのみならず、やがて祭祀、土器、道具、装身具などを共有してゆけば、非常に濃密な連携をもった地域共同体のようなものが形成されたであろう。
こういう地域共同体の一つとして、縄文後期末から晩期の関東地方の「栃木県寺野東遺跡出土の耳飾」同一圏として、栃木県後藤遺跡、同板倉遺跡、同中田新田遺跡、群馬県藤岡市谷地遺跡、茨城県井沼遺跡、同雅楽谷遺跡、同真福寺遺跡、同小山台遺跡、千葉県我孫子市下ヶ戸宮遺跡、金堀台遺跡の一群がある(橋口編前掲書、184頁)。

この場合、ある拠点村が宗族首長的存在であって、それが一族を周辺に散在させたムラが大きくなったという場合もあったであろう。そうでないとしても、ムラムラは極めて敬虔な精神的関係をもっていたであろう。

■同一文化圏の形成  こうして物質的交流が行われるとともに、「思想的交流も行われ、信仰体系もますます組織化される傾向」(鈴木義昌『縄文時代』新河出書房、昭和40年、349頁)を示した。

 こういう多彩な加工食品は、集落間の分業が行われていたことと、加工食品が集落間で交易されていたことを物語っている。石器の材料としての黒耀石やサヌカイトの産地は限られているが、全国各地から出土しているし、各地で出土する土器も、遠隔地で製作されたものが出土するなど、縄文時代を狩猟採集を基盤とする単純な自給自足の封鎖経済と片付けることは、最早できないであろう。

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以上が抜粋・要約です。
ここから分ったことは、縄文時代には人間の知恵や力が及ぶ領域が限られており、その分、自然界の万物に対する畏敬の念が強かったと思われます。このため、自然界に存在する万物に「カミ」の存在を認める「精霊信仰」が当時の人びとの精神の根底にあったのです。その地域のみにめぐまれた特産物に感謝し喜び、それを他の地域の特産物と交換できることに感謝し喜んだと考えられます。物の交流で、各ムラ間のネットワークは一層緊密に築き上げられていったようです。
こうして物質的交流が行われるとともに、思想的交流も行われ、同一文化圏が形成されていったのではないかと考えます。
 交換物については、次回投稿します。

投稿者 mukai : 2007年06月09日 16:45

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コメント

mukaiさんの紹介いただいた千田 稔氏の縄文文化と現代という論文の巻頭に以下の書き出しがありました。この縄文ー古代ブログの主旨とも繋がりますので紹介しておきたいと思います。

>自然破壊の深刻化するなか、我々はどういう時代に生きているのか、何をなすべきか、これを知ることは国民的な課題にもなっているといいてよい。これには、前近代社会を「学問」的にとらえることが必要となろう。そのためには、具体的には、もはやマルクス経済学とか近代経済学ではなく、「新しい経済学」に依拠して、近現代と先史時代の比較検討を経済に限らず総体的に学問的に行うこと、これが重要になってくるのである。
だが、この国民的課題に答えられる学殖豊かで狭い専門領域に安住しない「学者」が日本に果たして何人いるであろうか。経済学方法論に怠慢であるばかりでなく、ただ目先の「経済的事象」をとりあげて、これが「経済史」と低水準仲間内で安住するのがほとんどであろう。だが、この程度なら誰でもできるのである。だが、これではとても世界に飛躍する研究などできないのである。


さて、氏の論文はこの魅力的な書き出しで始まるわけであるが、読み進むうちに非常に的確である事がよくわかる。

>深刻な現代危機 今日、経済成長第一主義の影響として地球環境の深刻な破壊に直面している。こうした中で自然環境との共生が真剣に模索され始めてきている。しかし、これもまた随分身勝手な発想である。欲望にまみれて自然を破壊してきた先進国の人間が、これでは今後生きていけそうもないから、自己保身をはかろうという側面が濃厚なのである。

>人間は自然、宇宙から生まれはぐくまれてきたのであるから、そもそも「自然と人間の共生」などという発想からして、先進国人間エゴの残滓が濃厚ではないか。なぜ自然を破壊してきたのか、その理由の根源的考察と根源的反省なくして、人間の未来は絶望的なのである。この根源的考察・反省なくして、「未来可能性」などと称するのは笑止千万なのである。自然、宇宙は人間の母である。厳しい自然、宇宙を畏敬し、謝意を表明こそすれ、人間が自然と「共生」しようなどというのは、自然を破壊してきたことへの反省というより、「人間が生き残るため」に生み出した発想という側面が濃厚なのである。

>こうした脈絡で、自然の中で生活していた縄文社会が注目されるのである。確かにドイツ歴史学派やアダム・スミスなどは、こういう歴史の起点を「未開状態」とした。例えば、スミスは、「分業がなく、交換がまれにしかおこなわれず、各人がすべてのものを自分で調達するという、社会の未開状態」(水田洋訳『国富論』上、河出書房、232頁)とみた。だが、決してこの時代は未開などではなく、見事な自然調和文化が花開いていたのである。欲望が社会の掟、文化によって規制され、日常生活に必要なものが生産され、交換されていたのであった。

>そして、こうした自然の脅威にさらされている点では、縄文時代も現代も同じである。よく現代日本社会には「安全神話」が崩壊したか否かなどが議論されるが、宇宙的・地球的視野からみれば、我々は依然として自然の厳しい脅威にさらされているのである。貧富差緩和と治安強化で「安心」は維持されても、自然の脅威を克服できる社会はとうてい実現維持などできないのである。

>縄文時代が氷河期終焉による温暖化で現出したとすれば、現代の地球が工業化による自然環境破壊の影響としての地球温暖化で衰滅危機に直面しているとすれば、何という皮肉であろうか。人間とは、地球生物史上、自らの「自滅」の歴史を「進歩」「発展」と称する最も愚かな生物なのである。愚かな生物種人間が、この地球にもたらした危機的現状を知るには、縄文時代以降の歴史を学ぶことは不可欠なのである。

後はリンクへ飛んで読んでいってください。
http://www.jommon.net/index.html

投稿者 tano : 2007年06月10日 15:55

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