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2007年07月31日
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。
:m015: :m014: :m014: :m015: :m052: :m015: こんにちわちわわです。
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。
それは縄文時代の狩猟採集社会の精神世界です。

その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。
アイヌに残るこうした思いは縄文人から受け継がれた大切な思いです。縄文人すばらしいと思った方↓↓ぽちっと!
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posted by tiwawa : 23:35 | コメント (6) | トラックバック (1)
2007年07月30日
中国人の二重規範
古代中国ファンの皆さま、こんばんは。
中国に村落共同体は存在しなかった。の記事に対し以下のコメントがありました。
中国の個人主義を西欧のそれと区別しなければならないと思います。 中国人は一旦信頼関係を結ぶと友人を絶対に大事にします。 つまり仲間にさえなれば絶対的な協働関係が維持できるのです。 中国という集合体が4000年以上に渡って多民族の合衆国であり、拠り所となる規範や集団が自らの 家族しかないという辺りが、その特殊性を作っているのかと思います。
たしかに西欧の個人主義とは違い、信頼できる仲間は大事にしますね。しかしその一方では欲の塊で殺し合いも辞さないという側面も持ち合せてます。
その二重構造は、いったい何を背景に、どこから生まれているのでしょう?
中国4000年の歴史において連綿と連なる民衆の意識構造について、「中国人の二重性」を参考にしながら考察してみます。
↓↓多くの方に見ていただけるよう、応援よろしくです↓↓
posted by nishipa : 18:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月29日
中国文明:周王朝~封建制度の発祥と実質価値である穀物を統合様式へ
今晩は :o さーねです :tikara:
最近、まずは中国文明を一通り読んでみようと思い、通史の本を購入しました。
→「古代中国 原始・殷周・春秋戦国」(講談社学術文庫)という本です。まだまだ僕は素人ですから :wink:
冒頭。僕自身の問題意識をちょっと… :P
どうも、殷→周→春秋戦国というように、殷王朝や周王朝がクローズアップされますが、本を読み進めていくと、かなり、戦国時代の様相を呈しています。殷はたびたび周辺諸国に征伐に出向き、一方、殷王朝時代に周は存在しています。現実に、周王朝時代の周辺にも他勢力がひしめき合っています。よって、まさに :twisted: 掠奪 :twisted: の玉突き :evil: 状態=様々な支配の構造がやはりそこにはあるんじゃないかなー? :roll:
こんな、状況認識を元に、今日は、周王朝の支配構造を調べてみました。

中国奇貨行くべしHPより
:m118: いつもありがとうございます :m051: :m118:
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posted by sawatan : 14:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月28日
先史中国の掠奪闘争から王朝形成まで
中国関連、すごく投稿が増えてきてうれしい!ただ、少し全体像がわかりにくくなったので、ここで内容整理のため、中国の先史略奪闘争史をまとめてみました。
いままでの投稿を参考にまとめたものです。BC4000年頃に掠奪闘争が開始されたメソポタミア(今のイラク)方面の関連が分かるよう、初期のメソポタミアの動きも記載してみました。

メソポタミアと中国をむすぶ中央アジアの草原ルート
posted by ihiro : 23:30 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月27日
ブナ林ってすごい!
こんばんは、bunchanです :m072:
今日は、mitukoさんのブナ林とマタギ、pinguさんの縄文時代は木の文化、tanoさんの日本人の基層には西の文化がある!、simasanさんの森が育んだ日本の漁労に続いて、木と林つながりで「ブナ林と古代史」 さんより、縄文人にとってブナ林がどんな恵みを与えていたのかを要約・引用で紹介しま~す。
まず・・・ブナの一生 :m146: :m147: :m207: :m207: です
ブナは落葉高木で、安定した土壌に群生する。一般に樹高20~25m、胸高直径1m前後、樹齢250年くらいであるが、なかには樹高30m、胸高直径1.5m、樹齢300年を越すものもある。樹皮は滑らかで灰色、よく地比類、コケ類が着生し斑紋をつくる。葉は卵形で、側脈が7~11対、葉脈は波状で鈍鋸葉、花は雄雌同体で、ごく地味である。
ブナの花は4~5月にかけて、林床の花が終わる頃に咲き、二つの花をつけた上向きの雌花が一個と、黄色の葯をつけた毛玉のような雄花が数個ぶら下がる。この雌花は受粉すると、やがて殻斗に包まれた実に成長する。
ブナの結実は、樹齢が約50~70年ごろから始まるといわれている。実は、生り年と少ない年があり周期性をもつ。これは隔年結果現象といい、およそ4~8年ごとに豊作の年が来て、その間は平作と凶作の年が交互に来る。
夏に緑色だった殻斗も、やがて秋になると茶褐色になり、中の二個の三角錘の実は熟し、殻斗が割れて実がはじけ、林内に飛散する。
この実は、晩霜、異常低温、或いは虫食いなどによって一夜にして駄目になることもある。又、夏に雨が多く降るとよく実り、少ないと空の実(しいな)が多くできるといわれる。
落下した実は殆どは、動物に食べられたり、腐ってしまうが、生き残ったわずかなものが、やがて、カギ形の幼根を出して固定し、冬を越す。そして雪に耐え、うまく冬越しをした実だけが翌春かわいい双葉をだす。
しかし、この芽生えの多くも、やはり動物に食べられたり、陽光の届かない所では枯れてしまうものが多い。こうして運良く生き残ったものだけが稚樹となり、その年が翌年に成葉をつけ、わずかな光の中で少しずつ大きくなっていくのである。
やがて、低木、亜高木の状態で待機していたブナは、周囲のブナが寿命で枯死したり、台風、雷などで倒れ、陽光を遮るものがなくなると、急速に伸びて隙間を埋め、最後には森を支配してしまう。
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長い風雪に耐えたブナの老齢木は、やがて倒木となり、朽ち果てることで林地を肥やし、自ら次の世代が育つ環境を残していく。こうして一見何の動きもないようなブナの森も、緩慢ではあるが、確実に世代交代を行い、全体として安定した状態を維持し続けているのである。こうした極相状態の森は、ブナが成長する分だけ他で枯れており、動的には成長量がゼロとなって安定する。
ブナは、冷温帯の厳しい自然環境のもとで、人間の一生に例えると、凡そ親子四代以上に当たる長い長い歳月を生き手いることになる。現在、老齢の大径木となっているものは丁度江戸時代中期に芽生えたものであろうか。
人間の親子4代以上の長い一生!! 育つのにも時間がかかるということですね~
ところで・・・食物が豊富だったと言われるブナ林ですが、具体的にはどんなふうに豊富だったのでしょうか。
posted by bunchan : 23:59 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月26日
アイヌ民族の海獣猟
前回は、アイヌの婚姻様式を紹介しましたが、今回は彼らの主要な生産基盤のひとつであった海獣猟を紹介したいと思います。 古代オホーツクと氷民文化《参照》
○海獣とは
海獣という呼称は、海を主な生活の場とする哺乳類の寄せ集めで、イルカ・クジラ類や、ジュゴンなどの海牛類、アシカやアザラシ、ラッコなどの血縁的にはまったく異なるグループをまとめて呼んだものである。
この中でも、ここでは、流氷が押し寄せるオホーツク海沿岸と特に関わりが深い、アシカやアザラシの仲間をとりあげてみたい。
○北海道の鰭脚類-アシカの仲間
北海道近海には、アシカの仲間(アシカ科)が三種生息している。

体の大きい順に、トド・ニホンアシカ・キタオットセイである。
このうちニホンアシカは、かつては北海道から九州までの日本各地の沿岸で見られたが、一九七五年の日本海の竹島での目撃情報が最後となっており、既に絶滅した可能性が高い。
先史時代から人間に利用されていたらしく、北海道礼文島の浜中二遺跡からは、縄文人によって捕獲されたと考えられる大量のニホンアシカの骨が見つかっている。
posted by naoto : 13:17 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月25日
森が育んだ日本の漁撈
つい先日起こった、新潟中越沖地震は、その直前に近くで起こった輪島沖・中越地震に続き、またかと思いましたね :x
日本は太古から地震や台風などの災害が人々の生活を脅かしてきましたが、このように災害が多い日本の地理や地形だからこそ、世界に類をみないほど日本は豊かな資源に恵まれた国である、ということが縄文を勉強する中からだんだん分かってきました。

当ブログの記事でbunchanが「東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化」
で
>堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
森が育んだ豊かな縄文文化の様子を紹介しています。これまで木の実などの森の植物性の食料の豊かさは盛んに言われてきましたが、海の食料は貝塚に代表されるように貝類しか注目されてきまんでした。しかし、既に縄文時代から日本は世界一の漁撈生産が行なわれてきた ことが最近知られるようになってきてます。(単位容積当たりの魚類の生息量では、瀬戸内海は地中海のなんと25倍らしい)
posted by simasan : 20:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月24日
日本人の基層には西の文化がある!
こんばんわ。tanoです。久しぶりに投稿します。
今日はこの間からここに度々登場している照葉樹林文化についてです。
縄文時代といえば三内丸山遺跡や東北、中部地方に多くの人口が分布したことからナラ林の落葉樹文化が中心と論じられていますが、弥生以降の農耕文明を作り出し、現在の日本人の基層になったのは縄文時代に培った照葉樹林文化の中にあると言われています。
「縄文文化と日本人」という本の中で佐々木高明氏が詳しく書いています。
この本の中では容易にサケ等の海洋資源やクリ、トチなど容易にそのまま食べられる食料が手に入るナラ林文化とかなり工夫をしなければ食料として得られない照葉樹文化の2つが同時並行的に縄文時代に存在していたことが書かれています。

その書籍の中から今回は照葉樹林文化の特徴と発展、その後の日本に至る流れを紹介したいと思います。私がとても感銘を受けた部分です。
posted by tano : 20:44 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月22日
縄文時代は「木の文化」
縄文時代といえばもちろん :m034: 土器 :m034: というイメージですが・・・
縄文時代は :m221: 木 :m221: の文化でもあったのです。
縄文人は森と共に(自然と一体になって)暮らした人々。当たり前といえば当たり前ですね :D
そのあたりは7/11にbunchanさんも書いてくれています。アリガトー :m023:

応援クリックお願いします :m118: :m118: :m118: そして続きへ~ :m083: :m003:
posted by pingu : 16:40 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月21日
インカにおいてミイラの意味・役割を探る-2(王様のミイラ)
今回はインカにおいてミイラの意味・役割を探る-2として「王様のミイラ」について追求してみたいと思います。 :D
そもそもインカ帝国におけるミイラは、庶民の場合も同様ですが、その人の生前と同じ扱いをミイラも受けるというのが一般的なようです。
生前と同じ衣服も身にまとい、食事をさせられ、性生活までさせられた!ようです。 :shock:
そのあたりを少し詳しく見ながら、何のためにそうしたのか、そしてそれが王のミイラにとってどんな意味があったのかを考えてみたいと思います。
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posted by saah : 16:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月20日
インカにおいてミイラの意味・役割を探る -1(庶民のミイラ)
:m235:
600年前のミイラ
有名なエジプトのミイラは一部の王様たちのミイラですが、インカのミイラの特徴は、それがもっと幅広く多様に行われていた事です。普通に埋葬してもミイラになる乾燥した風土のようで、様々な発掘例がありました。
歴史的にもインカ以前からミイラが重要だったようです。
まずはその特徴を事例から探ります。
その前に
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posted by dokidoki : 22:27 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月19日
死者を身近に祀るのは古来の慣わしか? -インカのミイラ-
こんにちは。 :D
7月1日から数回のシリーズで放映されているNHKスペシャル「失われた文明インカ・マヤ」の第1回でインカのミイラが紹介されていました。みなさんご覧になりましたか?

(インカ滅亡後にインカの末裔が伝承により描いた図 出典:NHKスペシャル)
私達の生活習慣では、まったく縁遠いミイラ :m252: ですが、インカではかなり生活に密着していたようです :shock: :m002:
そして、多数のミイラがあるばかりでなく、王様のミイラは特別な役割を課せられて崇拝されていたようです。 :shock: :shock: :shock:
これを見ていた友人から
「インカのミイラって、仏像とかキリスト像みたいなものだったのでは?」
という話がありました。つまり具体的な拝む対象だったということです。
そこで気が付いたのですが、これは逆ではないか?と。
今回もぽちっとお願いします :m149: :m149: :m146:
ありがとです :nihi:
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posted by bunbun : 21:07 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月18日
ブナ林とマタギ
こんばんは~ :m017: みつこ :D です。
またちょっぴり縄文に戻ります :m108:
東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化
縄文文化とブナ林 :m019: って切っても切り離せないようですね。
今日は、そんなブナ林に生きた、マタギたちの信仰について紹介します。
主に『ブナ林と古代史』さんからいただきました。
:m221: マタギって何?
マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう。中でも秋田県の仙北や阿仁地方には、マタギの村が多かった。彼らは、クマ狩りなどの集団猟を得意とし、晩秋から早春にかけて山に入り、拠点となる場所に設けた簡単な狩り小屋に泊まり込んで、クマ、カモシカなどの大型獣を捕った。

:m221: マタギとブナ林の関わりって?
ブナ林を構成しているのはブナ、ナラ、クリ、ミズナラなどである。これらの実がクマの主要な食物となっている。他にもヤマブドウやアケビなどがある。晩秋とか春先には落葉を掻き分けて地上にこぼれたブナの実をあさる。これをホリバミ(掘食)という。初秋のころは樹上で枝をへし折ってナラの実を食む。これをオリバミ(折食)という、クマのついた木は丁度棚をかいたようなありさまになっている(これを熊棚という)このようにクマの生息はブナ林の恵みに負っている。
なるほど、ブナ林 :m019: があったからこそ、マタギ :m223: が登場しえたのですね。
マタギの信仰から人々の自然への思いを読み取ってみたいです :m022:
応援おねがいします :m092:
ありがとうございます :m001:
posted by mituko : 20:49 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月17日
中国先史年表~母系から父系へ~
前回に引き続き、生産様式の変化が、母系→父系への変化を引き起こしたという説を補足する意味で、同じく「図説中国文明史1先史文明への胎動」でまとめてある先史年表を紹介します。
○生産様式の変化
BC10,000~6000:
華北、長江中流域、華南などで定住生活を始め、農耕、家畜の飼育、土器の製作が始まる。BC 6000~5000:
黄河、長江流域が二大農耕区となり、農耕は焼畑から鋤耕に移行。黄河中下流域では雑穀農耕が発達し、長江流域では稲作農耕が代表的。BC5000~3000:
長江流域では、稲作農耕が発達。石器、土器、骨器、木器の製作は高水準に達する。水田耕作に適した多様な農具が開発される。
ここでは、黄河流域と長江流域での生産様式の違いに注目。
道具が発達したのは、稲作中心の長江流域。日本の稲作文化との繋がりも気になります。
○集団の変遷
BC6000~4000:
・血縁紐帯による同一氏族が暮らす集落が出現し母系氏族共同体が形成される。
・氏族メンバーの地位は平等。
・原始宗教、アニミズムの始まり。龍への崇拝は、抽象的な神霊崇拝への移行を示し、専業的なシャーマンが出現する。BC4000~3000:
・母系氏族社会は後期に移行し、父系氏族社会への過渡期となる。
・黄河流域と長江流域で防御性の高い城壁が形成される。
・東北の紅山文化では宗教が発達し、女神廟、祭壇が出現し、玉器製作センターを形成。
・長江流域の良渚文化では農耕が発達し、南方の玉器製作センターを形成。祭壇と貴族墓地が出現し、神権と軍事統率権を集約した部族連盟の首長の出現か?
ここでは、生産性が上がるに伴い、城壁が高くなり、母系から父系へ移行していったという関連性に注目したい。生産性の高さが、周辺部族間の交流を促し、そこから争いへと移行したのだろうか?
BC3500~2000: ・私有制を伴う父系氏族社会が到来。民主制の平等社会はしだいに排除。 ・黄河流域と長江流域は、相次いで首長制の「古国」へと移行。城寨が林立し、略奪性の高い戦争が発生。伝説の五帝はこの時期の首長とみられる。BC2500~2000:
・黄河流域と長江流域では、父系氏族共同体が瓦解し、各古国は若干の政治集団を形成する。夏族、殷族、周族と夷、蛮などの文化が交錯し、軍事的な衝突も発生。
・BC2100に夏族の首長である禹は治水に成功し、夏族の勢力が強大化して黄河中流域の大部分を統治し、部族連盟の首長となる。BC2070に禹はその地位を子の啓に譲り、中国史上最初の王朝 :m261: である夏を建立し、先史社会は終了する。
さて、母系の始まりから、王朝の成立までを追いかけてみましたが、黄河流域、長江流域のどちらが母系か父系かと言う視点は、存在しない様です。いずれも、母系集団を母体に生産性の向上に伴い、集団が拡大していき、戦争の拡がりと歩調を合わせる様に、父系へと移行している様にも見えます。
まだまだ、掘り下げていきますよ~。
応援よろしくお願いします。
posted by maeyan : 22:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月16日
中国専制国家体制 ~「法」を媒介とした厳格な百姓支配システム~
中国の社会は、共同体的な土壌をかなり早期に失ってしまったらしい。どうしてそうなったのか?
前回 「中国に村落共同体は存在しなかった」の続きです。

西尾幹二氏が注目している研究家、渡辺信一郎氏は、上部構造の中核をなす国家それ自体の解明と分析が決定的に疎かにされてきたことに疑問を抱き研究を進めてきたという。
超巨大国家中国の本質に迫るためには、その視点は不可欠というか、必要条件だと思う。
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posted by ihiro : 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月15日
中国に村落共同体は存在しなかった。 ~共同体を知らない個別二者関係が積層した社会~
中国は、血縁関係が非常に強く、そのネットワークによる助け合いもすごいという話をよく聞く。そう聞くと、ぼくなんかは30年くらい前までの日本の姿をイメージしていたのだけど、一方で、中国人はかなり個人主義的で利己的だという話もよく聞きいており、イメージのギャップを埋めることができずにいた。

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posted by ihiro : 20:35 | コメント (2) | トラックバック (0)
中国文明:殷の婚姻制~統合の根底には必ず婚姻制が深く関わっている
今晩は :m028: 相変わらず、殷を攻めるさーねです :P
今日は、殷の婚姻制を通して、いかに婚姻制が社会統合に関わっているか?を伝えられたらと思います :m051: しかし、この当たりの資料はネットにはほとんどなく :-( 、るいネットや知られざる人類婚姻史と共同体社会を参考に考えてみたいと思います :wink: 以下が、まず殷の婚姻制の説です :m118:
>殷王朝は十の宗族からなる主要な2つのグループにわかれており、交叉イトコ婚を繰り返しながら、父系のオジからオイへと交互に王権を継承したと推定している。(「中国の考古学」同成社より抜粋)

殷王朝 第30代 帝辛(蔑称:紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い :m052: )殷王朝 第30代 帝辛(蔑称:紂王(ちゅうおう)→こう言えばわかる人も多い?)~ただし、これマンガです :nihi:
殷代を記した古典「封神演義」は実はマンガになってるんですね~ :shock:かなーり脚色されてますが… この紂王の事例は最後の方で引用したいと思います :nihi:
:m118: :m118: みんなで追究しよう!!古代文明♪ :m118: :m118:
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posted by sawatan : 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月14日
中国における母系→父系転換を追求するにあたり
こんばんは、etoです。
先に『中国文明のなんで?』において、古代の母系社会と、父系への転換について挙げました。
このテーマを追求するにあたり、人類の婚姻史を専門に追求する姉妹サイト:「知られざる人類婚姻史と共同体社会」より、中国関連の投稿を調べてみましたので、参考として紹介します。
■まずは、母系社会の様子について
>古来日本でも行われていた通 い婚を続け、子供たちは生まれた家に残り、女性は家を切り盛りし、男性は自分の姉妹の子供を「家の子」として育てます。中国政府の圧力にも屈せず続いてきた母系社会と通い婚。血の繋がった家族が互いに協力しあい、争いや嫉妬を生まない、静かで豊かな社会がそこにはあります。
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 1
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 2
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 3
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 4
・「摩梭人走婚」(モソ人の妻問い婚) 5
>現在のハニ族は父系社会ですが、信仰での女性の役割の大きさは、かつての母系社会の痕跡でしょうか。いずれにしても、ハニ族は自然に対する同化・感謝の気持ちを強くもっているは確かなようです。
>モンゴルでも国家成立以前は、『遊牧ながらも母系の色彩が強かった』
>しかし、その婚姻様式も強制的な漢化の圧力が高くなるに従って、その様相の変化や若者の戸惑いが表面化していく事に・・・。それは意外にも「自殺」という選択をしている事に私は驚いてしまいました。
モソ族、ナシ族、ハニ族などの投稿から、母系社会の様子が窺い知れます。
いち早く父系に転換したモンゴルにも母系が残っていたんですね。
さて、次はその父系転換です。
続きの前に、
多くの人に見てもらえるよう、クリック願います。
![]()
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posted by nishipa : 22:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月13日
アイヌについて
先日naotoさんが、アイヌの婚姻形式について投稿されていますが、そもそもアイヌってどんな人たちなのと、素朴な疑問が起こったので、少し調べてみました。
> アイヌとは、「人間」を意味します。アイヌ民族は、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで、祈り、さまざまな儀礼を行いました。
それらの神々には、火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、舟、鍋といった物神、さらに家を守る神、山の神、湖の神などがあります。そういった神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶのです。
http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html
(アイヌ文化入門)

アイヌって、アイヌの人々のことの総称程度の認識だったのですが、「人間」そのものを意味しているとは知りませんでした。
一方で、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなしたいたということですが、自分たち恩恵をもたらしてくれるもの等を敬いの対象=神として認識していたということをだと思います。
これは、自然の恵みに感謝の念を抱くという、日本人が潜在的に持ち合わせているであろう感覚に近いようにも感じます。
しかし、一方で
>これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
(ウィキペディア)
アイヌの大地に、進出してきた当時の日本人に対して、自分たちを神々と対の言葉である人間という意味の「アイヌ」であると呼ぶように求めたんですね。アイヌの人々にとって、領土や交易の拡大を目的とし、この大地の神々との関係を重視しない日本人は、この大地に根ざした自分たちとは違った人種の人たちであるという風に映っていたのでしょう。
実際、アイヌの地にやってきた日本人(和人)は、だまし討ち等を行うことで戦いに勝つ、明治以降の和風化を強制する政策等、結構ひどいことをやっていたようです。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/hito/rekishi/rekishi.html
(アイヌの人達とともに)
アイヌの人たちの自然観について、以前このブログでtanoさんもご紹介されていた萱野茂さん言葉に、言い表されていると思いますので、紹介させていただきます。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2006/11/000046.html
>したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これらの自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川もみんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してくれる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていました。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確立していたのです。
「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊 より引用
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Ainu.htm

(萱野茂さん)
アイヌの人たちの、自然に対する想いが、伝わってくるようです。
この自然観に、何かしら感動を覚える人も多いのではないでしょうか。
このことは、私たちの中にも、アイヌの人たちに通ずる自然観を潜在的に持ち合わせているからだと思います。
あらためて気づかされる、大切にしていきたい感覚です。
posted by yuyu : 23:46 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月11日
東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化
こんばんは :m027: bunchanです。
縄文時代のなんで?を、http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.htmlにひきつづいてもう少し調べてみたいと思います :P
縄文時代の人口は東日本に多く、その理由は東日本に分布したナラ林を中心とする植生のおかげといえます。

ナラ林(上)とブナ林(下)
趣味千山よりお借りしました。
明るい光が差す林という感じですね :m146:
もののけ姫を読み解く からの引用を紹介します。
●東北日本の源流たるナラ林文化一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二~十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。
これってnaotoさんが紹介されているアイヌ民族の婚姻様式 のような文化だったのですね~ :o
では、照葉樹林とはどんな地帯なのでしょう~?
ぽちっ :m208: と押して続きを読んでください
続きを読む "東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化"
posted by bunchan : 23:55 | コメント (3) | トラックバック (0)
縄文ー古代ブログの新カテゴリーについて
こんばんわ! tanoです。
縄文ー古代ブログもここ最近はやや煮詰まり気味です。
何を追求していったらいいの?などという声なき声も聞こえてきます。
何でもいいから面白い記事を投稿してほしいというのもやや乱暴。
そこでいっちょ、カテゴリーを見直そう!という事になりました。
従来のカテゴリーはまずは縄文の事を知ろう!弥生の事を追求しよう、世界の古代文明の基礎知識を入れていこう。という段階からスタートしました。
一定投稿数が集まってきましたので次の段階へと移行します。
今回(これで最後にしますが)のカテゴリー分けのポイントは以下の3つです。
①読者が読みたい記事に早くたどり着ける。
②追求すべきテーマが浮き彫りになってくる。(投稿の意欲が湧いてくる)
③投稿した記事が資料としてストックされ後で検索しやすい。
という事で発表です!以下のように分類してみました。
(しかし、縄文ブログの管理人って分類が好きですね(^^:)などと言わないで下さい)
posted by tano : 20:27 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月10日
アイヌ民族の婚姻様式
縄文時代の人々は、どのような婚姻様式をとっていたのでしょうか?
縄文人気質を探求する上で、最も重要な要因のひとつだと思うのですが、これだ!という文献に出くわしたことがありません :m111:
そこで、今日は、続縄文時代から繋がるアイヌ民族の婚姻様式を紹介し、冒頭の問題を探求するきっかけを作りたいと思います :shock:
アイヌ文化入門より
>結婚
本人がまだ幼いときに、親同士の約束や、あるいは仲に立った人によっていいなずけにしておき、年頃になって本人たちに伝え、結婚させます。
また、本人同士の意思による結婚もありました。
また、ある地方では、娘が年頃になると、家の南壁にトゥンプといわれる小室を設けて娘を住まわせ、遊びにくる男性のなかから相手を選んだりしました。

おや!これって夜這いの風習ではないの?と思った方は、ポチッとどうぞ :roll:
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posted by naoto : 21:07 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月09日
縄文ー古代通信NO4(19年7月号)
この縄文ー古代ブログも開設して10ヶ月が経ちました。参加者も増えて投稿者だけで25人、会員全体を含めると現在39名を数えます。
参加者をハンドルネームだけで紹介してみます。
さーねさん。/etoさん。/くまなさん。/ぶんちゃん。
しまさん。/ひろしさん。/カッピカピさん。/ryouさん。
まえやん。/竜神さん。/ムカイさん。/ナオトさん。/マルさん。
ムーランさん。/ゆーゆーさん。/大28さん。/とくまるさん。
みつこさん。/ピングーさん。/ドキドキさん。/縄文10さん。
サカシュンさん。/サーハさん。/タカアツさん。/ノリオさん。
そして私tano。
多い方で既に10投稿以上していただいています。
さーねさん、etoさん、私と一緒に管理人をしているクマナさん、ひろしさんが上位投稿者です。
とくまるさんはこの5月に入会されています。6月にも2名参加されています。また新しいハンドルネームで参加くださいね。
こうやって縄文や世界古代史で繋がる環が広がってきています。
読んでいるだけの方でもどんどん会員登録下さい。別に何か特別なものがあるわけではありませんが、素人の歴史好きが集まって古代史から現代の問題を学び取ろうという主旨に賛同されれば歓迎ですよ。
今日はちょっと営業トークになりましたが、今月もどんどん新たなテーマにチャレンジしてきましょう。 :tikara:
今月のテーマは
「インカ・アステカの謎に迫る!」
「中国文明のなんで」
「縄文時代のなんで」と一旦設定しました。
縄文時代のなんでは既に答えが出されてきていますのでカッピカピさんさらになんで?を出してみてください :wink:
by tano
posted by tano : 12:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年07月08日
大事な式典に雨が降ったらどう言いますか?
鬱陶しい梅雨が続きますね。
私はこの間、仕事の関係で起工式を行いました。
100人くらい集まって建設の最初に安全を祈願する式典です。
その日も雨・・・残念と思っていたところ、挨拶の席で司会の方が天候についてサラッと語りました。
「このよき日に神様から恵みの雨をいただきました。」
普通なら、
「雨降って地固まる」というのがこういう場合の言葉なんですが、クリスチャンの司会の方は実にうまく天気を言い表わされました。
それを聞いて、そぼ降る雨は気持ちよく、天から恵みをいただいているような気持ちになりました。
恵みの雨・・・鬱陶しい雨
少しの違いなんですが、言葉って大事ですね。
きっと縄文の人の梅雨時期の空を見上げて天からの恵みだ!と嬉々としていたんでしょう。
そう思うと鬱陶しさもちょっとさわやかな気分になってきませんか! :D
最近どんどん読者が増えてありがたいです。さらに応援お願いします!
by tano
posted by tano : 00:09 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月07日
【仮説】縄文:ふさわしい時代区分は?
こんばんは、さーねです :D
今日は、カッピカピさんが先日投稿された縄文時代のなんでの新テーマ①縄文時代を土器で時代区分するのはなんで?でカッピカピさんが言われている時代区分新基準に挑戦したいと思います :tikara:
僕自身も、去年縄文の時代区分を投稿しました。多くの歴史が権力支配の興亡によって、時代が区分されているのに対して、土器による時代区分はある意味新鮮でした :o
カッピカピさんの記事を読んで、るいネットの縄文・弥生論争への視点を改めて読んでみました :m027:
現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている… …つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。 私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合される…
このような、歴史構造そのものに対する認識転換が必要という気がします。極端に言えば、土器による区分は年代判断をするためのものであり、その時代の生活の様子や外圧状況を想起させるものではないと思います :confused:
まずは、集団のあり方や外圧状況に視点をおくような時代区分を設定してみたらどうでしょうか?素人的発想の【仮説】ですが、皆さんと一緒にテーマ付けをしていけたらなと思います :m194: :m051:
今日は、阿蘇ネットワーククラブ(日本超古代文明年表)を参考にさせて頂きました :m061:

このような、生活が想像できるような歴史を :m051:
:m118: :m118: みんなが認める歴史事実をつくろう :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 21:28 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年07月01日
中国文明:森に囲まれた殷墟~霊的儀礼としての狩猟
今晩は、さーねです :D
殷については、このブログで色々調べられてきましたが、その支配の構造や祭祀の状況などがクローズアップされてきました。今日は、殷時代の生活をより鮮明にする上で、当時の気候・自然環境と狩猟について紹介したいと思います :m051:
参考にさせて頂いたサイトは、原宗子のホームページのちょっと覗こう!!古代中国の環境です :m051: :o 学生向けの講義用レポートのようで、量はありますが面白いです :-)

:m118: なんと、古代、殷墟の周りは森だった :m051: :shock: :m118:
今日、見渡す限りの麦畑やトウモロコシ畑が広がる殷墟周辺、つまり、自然の森林など稀有な場所に、100年の間、2,3日おきに狩猟ができ、収穫がある(卜辞には、鹿やイノシシ、水牛に近い動物などが、数十頭~数頭捕獲できたという記録が残る)ようなしんりんが広がっていたという状況である。
原宗子のホームページより
中国文明はまだまだ未解明 :m049: :m118:
一緒に追究しませんか :m051: :m118:
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posted by sawatan : 13:00 | コメント (4) | トラックバック (0)