2007年07月11日
東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化
こんばんは
bunchanです。
縄文時代のなんで?を、http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.htmlにひきつづいてもう少し調べてみたいと思います
縄文時代の人口は東日本に多く、その理由は東日本に分布したナラ林を中心とする植生のおかげといえます。

ナラ林(上)とブナ林(下)
趣味千山よりお借りしました。
明るい光が差す林という感じですね
もののけ姫を読み解く からの引用を紹介します。
●東北日本の源流たるナラ林文化一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二~十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。
これってnaotoさんが紹介されているアイヌ民族の婚姻様式 のような文化だったのですね~
では、照葉樹林とはどんな地帯なのでしょう~?
ぽちっ
と押して続きを読んでください

照葉樹林
http://www.agr.miyazaki-u.ac.jp/~svs2004/
植生学会第9回大会より画像をお借りしました。

中からみた照葉樹林
http://www.yakushima-guide.com/syouyoujyurinn.html
屋久島ガイド協会より画像をお借りしました
東日本のナラ林とちがって、うっそうとした森ですね
ふたたびもののけ姫を読み解く からの引用の紹介です。
●西南日本の源流たる照葉樹林文化 かつて日本の南半分はうっそうとした暗い原生林が覆っていた。それは、年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類等であった。これらの常緑広葉樹林を総称して「照葉樹林」という。 太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓(現ブータン)を起点として中国南西部を経て日本に至るまで、ベルト状に分布していた。照葉樹林帯の各地周辺では、よく似た食文化、農業、風習、宗教、伝説が今に伝えられている。同根の文化圏が時空と場所を越えて発生していたのである。たとえば、ヤムイモやタロイモ、アワ・ヒエ・イネなどのモチ種、そしてナットウなど、数多くのネバネバした食品を好む性質、茶やシソの栽培、麹から作る酒、養蚕、漆器文化などである。これらは元来、照葉樹林帯独自の文化であり、これより北にも南にも存在しなかった。 海路も陸路もおぼつかない太古の昔、民族も国家も違い、交流も薄かった筈の地帯に見られる驚くべき共通点―、これを「照葉樹林文化」と名付けて体系化し、提唱したのが栽培植物学者の中尾佐助氏である。中尾氏は、地道なフィールド・ワーク(現地調査)を重ねて、人間の食文化・農耕と原生植物の分布を関連づけ、その世界的な体系化を試みたのである。その結果、人類文明の傾向は原生植物に起因しているという驚異的な結論を導き出したのである。氏は自説の体系を「種から胃袋まで」と記している。 照葉樹林は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強い。つまり、いくら樹を切っても自然の状態にもどせば砂漠化せず、やがて常緑の森林にもどってしまうのだ。昼なお暗い神秘の森のほとりに住んだ人々が、そこに神々の世界を見い出した所以もここにある。
深~い豊かな森。
食糧確保のために稲作という形で自然に働きかける生産様式を獲得しつつも、その側に広がる深い森には畏敬の念を持って暮らしていたのではないかなあと想像しています。
投稿者 bunchan : 2007年07月11日 23:55
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コメント
>お絵かき爺さん
コメントがそちらのブログに直接できなかったのでこちらにさせていただきますね。
なるほど、関東地方は照葉樹林圏であるにもかかわらず人工密度が高いですね! 恥ずかしながら、
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.html
では、てっきり関東地方もナラ林に入ってるんだとおおざっぱに考えていました。
とっても勉強になります!ありがとうございます☆
この地方はどちらかというと漁労に頼っていたということなのかな・・・とも思いましたが、
5月8日のエントリーの小山修三氏の記録を拝見して、次のようなことを考えました。
「照葉樹の方がずっと生産高が高かった」という結果が得られた場所は万博の日本庭園ということなので、あそこは整備された場所なので、それぞれの木にとってベストの状態だとそれだけの収量が維持できる、ということが読み取れます。
でも奥深い照葉樹林は万博に植えられているような状態に比べてうっそうとした、若い木や小さい木には日光が当たらない過酷な所なのでそれほど収量があがらないのでは?という気がします。
もしかしたら関東地方の照葉樹林帯はそれほど奥深くなく、小山氏の言実験条件に近い状態だったかもしれません。(ホントに勝手な仮説なんですけど)
縄文海進でかなり海の部分が入り込んでいたという記述をよくみかけますが、関東地方の海岸線はどんな感じだったんだろう??これも重ねてみたら、照葉樹林帯の部分はどんな感じになるんだろう?とふと思いました。
思いつきレベルで恐縮です。
投稿者 bunchan : 2008年05月29日 22:14
こんにちは、TBに乗ってやってきました。ナラ林=縄文文化説は、ひろく一般に受け入れられていますね。私の関東は照葉樹林圏中の特別地域の第一の仮説は貝塚説でした。
しかしそれは必ずしも充分説得的ではない。何しろ、ナラ林帯のすべての地域よりもまだ上なのですから。どこかおかしいところがあると思います。
あと藤尾慎一郎先生の研究のHPを紹介していますが、その中の表は、ちょっと分かりにくいですが、中国、近畿圏の遺跡ではナラ林、照葉樹林の両方の堅果類が出土しています。照葉樹林圏の堅果類の方が、処理しやすいと言うことですから小山さんの実験に加えてさらにもう一度考える必要があるのではないでしょうか。藤尾先生は断定的ではありませんが。最近といっても数年前のようですが、鹿児島県で、三内丸遺跡より古い草創期の大規模集落、上野原遺跡が発掘されましたね。
投稿者 お絵かき爺 : 2008年05月30日 11:02
見つけていただいて嬉しいです☆
ついでにもうひと言。
>何ごとも一つの原理で説明できたら明快である。
だが明らかな問題点があれば説明なしではすまされない。<
と、今日のお絵かき爺さんのエントリで書いていらっしゃいましたが、本当にそうですね。
実験室のような世界では一つの原理はこうということを証明することはできますが、現実の世界ではいろんな原理がどのような圧力下でどんなバランスで働くのかということが明らかにならないと事実は見えてこないですね。
ブログの更新、楽しみにしています☆
投稿者 bunchan : 2008年05月30日 19:11
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