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2007年08月28日
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か②
どーも、○です :m043:
以前、ちわわさんが投稿されていた『日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。』に、気づかされたことがありまして、今回は勝手ながら続編を投稿しようと思います :m101:
さて、ちわわさんの投稿に
「その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。」
とありましたが、日本人は動植物ばかりでなく、命なき物にも魂があると考えていました。
例えば、雷 :m008: が鳴れば
「誰かの怨念だ」 :m252: (菅原道真公の話は有名ですね)
とかね。
それ以外にも、あらゆる自然災害を神(精霊)の仕業としたり、とにかく何でもかんでも「人間以外の何者か」の存在を意識していたんですね。
・・・とまぁ、これまでは読者の皆様なら誰もが
「何を今さら :m196: 」
と思われることだと思います。
でも :m049:
それだけじゃないんです・・・
続きの前にポチッとな :m032:
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posted by maru : 21:30 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年08月26日
東インド会社:インドや中国という古代的国家を収奪・解体した怪物会社
やや近代に深入りしていきます。インドや中国という古代文明的な国家が、欧米の商人勢力に安々と侵食され、植民地化されていった事実を探ってみたいと思います。
大英帝国の基礎を築いた海賊の続きです。
大英帝国は、イギリス女王お墨付きの海賊が、スペインの無敵艦隊などを追い払い、世界の海の制海権を握っていきます。
その後インドやアジア方面で、実際に交易を行っていったのは東インド会社などの商業会社でした。その今で言えば商社が、アジア方面の植民地化の端緒を開いていきます。

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posted by ihiro : 12:10 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年08月25日
縄文人の故郷、スンダランド
:D くまなです。
縄文人のふるさとと思われるスンダランドについて調べていたら、日本人の起源についての記述がありましたのでご紹介します。
まず、予備知識として…
縄文人の遥か祖先、始原人類は500~700万年前に出現し、180~150万年前にはユーラシア大陸に進出し、40~50万年前には北京原人やジャワ原人として存在しています。その頃、旧人がアフリカを出て、10万年前頃には東アジアまで到達します(図1)。ただし、それら原人や旧人は絶滅しています。縄文人につながる現生人類(新人)は15~10万年前頃にアフリカを出ます。
図1:原人・旧人の拡散

(九州大学ミュージアム「モンゴロイドの形成」よりお借りしました。人類発祥は最大700万年前に遡る可能性があります。)
図2:現生人類(新人)のスンダランドへの道のり
(サイトJOURNEY OF MANKINDよりお借りしました。なお、新人の骨は南アフリカから発見されている⇒参照日本人はるかな旅展)
図2によると、現生人類の祖先(新人)は9万年前頃に紅海を渡り(既に船を利用か)、海岸線沿いに移動し、8~7万年前頃には東南アジア(スンダランド)から東アジアに到達します。 彼らがモンゴロイドを形成します。モンゴロイドは、北方に移動する人々とスンダランドにとどまる人々に別れ、それぞれの気候・風土に合わせて適応します。北方適応した人々を新モンゴロイドと呼ぶのに対して、南方にとどまった人々を旧モンゴロイドと呼びます。
図3:スンダランド

(図はサイト米と酒と鳥と貝よりお借りしました)
スンダランド(Sundaland)とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷河期に形成した広大な沖積平野で、現在ではタイ湾から南シナ海へかけての大陸棚として海底に没している。72000年~16000年前頃の氷河期には海面が100メートル程度低く陸地で、14000年前~6000年前にわたる海面上昇により海底に没した。
スンダランドのモンゴロイドが、数万年に亘っていくつかの経路から日本列島に到達し、混血してできたのが縄文人といわれています。
続きの前に、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : 17:50 | コメント (2) | トラックバック (1)
2007年08月24日
琉球の交流の歴史~概要編
少し前、etoさんも取り上げられていましたが、本土とは違った歴史を歩んできた琉球について、なかなか面白そうなので、少しだけ紹介してみようと思います。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000234.html
琉球というと、古琉球という時代区分に当たる、琉球王国の時代に象徴されるように、中国(明)との朝貢貿易を主軸に、北は日本、朝鮮から、南はシャム・マラッカ・ルソンなど東南アジアの港史国家との中継交易を盛んにおこなっていたことが思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/jyankkoekitoriyukyu.htm
このように、地理的には、199余りの島々から構成される琉球弧とよばれる地域には、連なる島々を行き交うように、琉球王国以前からも、周辺地域との交流の歴史があったようです。

<琉球弧の島々>
簡単に、時代を遡る形で、その痕跡の歴史を振り返ってみたいと思います。
ぽちっとしてください。
posted by yuyu : 01:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月23日
旧石器時代に使われた磨製!?石斧
こんばんは :m017: bunchanです :m034: 今日は石器のお話です。 :m146:
旧石器時代には打製石器 http://db.gakken.co.jp/jiten/ta/303850.htm
新石器時代には磨製石器 http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/219320.htm
石器を磨くようになったのは単純に新石器時代からなんだ~ :m030: と理解していました。そして旧石器時代と新石器時代の分かれ目は12000年前です。http://ao.jpn.org/kuroshio/widechrno.htm
と こ ろ が です・・・
1968~70年頃から東京・武蔵野台地を中心に、旧石器時代遺跡の大規模発掘が頻発し、1973年(昭和48)栗原遺跡で刃部を研磨した立派な磨製の斧形石器が発掘された。出土層準は立川ローム第X層中であった。同じ頃、千葉・三里塚55地点遺跡でも同層準から磨製例が出土し注目された。この厚く堆積した関東ローム層準から、確かな年代的裏付けをもって発見された「磨製石器(斧)」の登場で、旧石器時代に磨製石器が存在する事実は疑う余地がなくなってしまったのである。
日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3~4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。

旧石器時代の磨製石斧(小田静夫)より参照・引用させていただきました。
なぜ石斧は磨かれたのでしょうか? :roll:
posted by bunchan : 23:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月22日
3万年も前に神津島と伊豆半島で交易があったってホント?
こんばんわ。黒曜石のtanoです。
黒曜石は生産地が限られており、貴重な贈与品として古来から集団間を行き来してきました。
その最古の記録が3万年以上前に伊豆諸島にあります :shock:
。「黒潮圏の考古学」さんに掲載されていました。伊豆諸島の中に黒曜石の有名な産地として神津島があります。
>神津島産黒曜石の交易:約3万2千年前頃、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡から、約180Km南の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。本州島(伊豆半島)と神津島の間には海深200m、幅30Km以上の海が横たわっており、この島の黒曜石を入手するには渡航具(筏、丸木舟)を使用した海上航行が必要であった。
エッ、まさか3万年前に既に黒曜石が流通していたの? :confused: 神津島の黒曜石は交易なのか贈与なのか?
はたまた単なる採掘なのか?3万年前に遡って検証してみたいと思います。 :D

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posted by tano : 21:55 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年08月21日
縄文の土笛
縄文というと「まつり」のイメージが強いのですが、縄文人はどのように楽器を使っていたのでしょうか?
私の縄文音楽雑記より
《抜粋》
土笛は、土器鼓、土鈴とともに「縄文の三種の神器」だそうですが、どんなに優れた笛だとしても、しょせん土笛は土笛。
素朴で温かみがある音色だとしても、演奏すれば、こもった音の単調な調べが繰り返されるだけだろうと想像していました。

posted by naoto : 21:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月19日
縄文ー古代通信NO5(19年8月号)
みなさん、こんばんは。Hiroshi :roll:です。
8月に入って、やたら暑い :m005: 日々が続きましたが、みなさんお元気でしょうか?ボクは、くそ暑さからアイスクリーム :m248: やら冷たい飲み物の誘惑に負けて、パクパク摂っていたら、おなかをこわしてしまいました :cry: 。
posted by ihiro : 12:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年08月18日
雑誌ソトコト 9月号p107-9
4-5月に南アフリカのクラシーズ河口洞窟にいってきた写真と記事を、現在発売中の雑誌ソトコト 9月号に掲載してもらいました。
写真もたくさん使ってもらいましたので、どうかご一読ください。
得丸公明
posted by tokumaru : 08:07 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年08月17日
インカの国家統合(武力・信仰・性)
これまでの記事で、インカのミイラと精神世界、国家統合がおぼろげにわかってきました。
インカ部族が諸部族を統合する際に、武力による統合ばかりでなく信仰を統合したという事ですが、実はもう一点気になりはじめた事があります。
インカは諸部族集団の統合の要である性関係にまで立ち入っていた点です。
posted by nandeya : 21:09 | コメント (2) | トラックバック (0)
縄文時代“塩”はどこからどうやって採取してたのか?
いやー、ここ数日ホントに暑いですね~。北海道では建物の(防災機器)熱感知器が数百件も誤作動したそうですね。また15日には群馬県の館林で40℃を超えたとか・・・。全国では毎日数百件も熱中症で病院に運び込まれている患者がいるそうです!みなさんも熱中症にはくれぐれも気をつけてください。

ちなみに・・・、熱中症対策としては“失った水と塩分を取り戻す”ことが重要ですよ。
汗は体から熱を奪い、体温が上昇しすぎるのを防いでくれます。しかし、失われた水分を補わないと脱水状態になり、体温調節能力や運動能力が低下してしまいます。暑いときにはこまめに水分を補給しましょうね。また、汗からは水と同時に塩分も失われてしまいます。塩分が不足すると熱疲労からの回復が遅れますから水分と同時に塩分の補給が必要ですよ!覚えておいてくださいね!!
と、前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入りましょうか・・・。
続きを読む "縄文時代“塩”はどこからどうやって採取してたのか?"
posted by mrran : 17:53 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月16日
大英帝国の基礎を築いた海賊
ちょっと唐突かもしれませんが、今回はいきなり15~16世紀のイギリスにやってきてしまいました。
イギリスは、7つの海を支配したと言われましたが、当初は海賊を利用して世界の海に乗り出し、そしてスペイン無敵艦隊を撃滅して制海権を握っていきました。
・・・・“ヨーロッパの基層:ヴァイキング=海賊が支配層を形成した”の続編です。以前中途になっていた市場の主役と形成史を扱いつつ、折を見て中国の記事も書きたいと思います。

フランシス・ドレーク(1543頃-1596)
posted by ihiro : 21:24 | コメント (0) | トラックバック (1)
弥生時代の戦争は、近隣の集団どうしが戦った
:D くまなです
前回の投稿弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がったの続きです。
戦争による遺物(刺さった武器とその産地)から、各地で戦ったのは、同じ地域の集団同士であることがわかります。そこからは、一部の集団が侵略したのではなく、戦争の圧力が玉突き的に各地に広がっていったということを示します。
九州北部の場合、遺骸に突き刺さった武器は、ほとんどが磨製石剣・石戈(か)、または青銅の短剣などの金属製武器だ。磨製の石剣や石戈は、材質から形から、まずまちがいなく九州北部産といえる。青銅の短剣は、中国・四国や近畿にもあるが、圧倒的に普及率が高いのは、やはり九州北部だ。首を切るときに使ったと思われる鉄の刀も、この時期には、おそらくこの地方にしかないものだろう。九州北部の戦死者・戦傷者は、九州北部の人間の手によるものと結論できる。他の地方はどうだろうか。岡山市清水谷遺跡の木棺に眠る人物に射ち込まれたらしい二十本の打製石鏃は、柳の葉の形になかごがついたタイプで、香川・金山産のサヌカイト製であることから、岡山平野で作られたものとわかる。射ち込んだのは、おなじ岡山平野の人間だろう。
大阪府四條畷市の雁屋遺跡の木棺から出た十二本の打製石鏃も、この地方によくあるタイプで、二上山のサヌカイトでできている。奈良市に四分遺跡の女性に刺さった打製石鏃もそうだ。さらに、京都市の東土川遺跡の遺骸に刺さっていたと思われる七~八本の磨製石剣は、指した相手の出どころを、さらに細かくしぼりこめる資料だろう。磨製石剣を多く使うのは、近畿でも京都盆地あたりにほぼ限られるからだ。東土川の交戦相手は、おなじ京都盆地にいた可能性が高い。
このように見てくると、弥生時代の第二期抗争は、おなじ地域内、ことによっては同じ平野や盆地のなかの、ごく近いところに集落を営んだ集団どうしの争いだったと考えられる。同じ知己の中の利害を争う、近隣どうしの戦闘だったのだ。
では、戦争に際して縄文人はどうしたのでしょうか?
続きのまえに :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : 11:00 | コメント (10) | トラックバック (0)
2007年08月15日
現代における縄文人、弥生人のDNA分布
こんにちは!ベジ紀です :m026:
今回は縄文人、弥生人と同じDNAをもつ人々が現在はどのあたりに多く住んでいるのか?がちょっと気になりましたので調べてみました。
現在はまだ、縄文人と弥生人を合わせて100体あまりのDNAしか解析されていませんが、その現状の結果を知ることができましたので、お伝えします。
続きはポチッと押してからヨロシク!↓
posted by jomon10 : 10:27 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年08月14日
インカにおけるミイラの役割-ミイラシリーズのまとめ-
こんにちわ :D
今回はインカのミイラシリーズについて、そのまとめをしてみたいと思います :nihi:
インカのミイラシリーズ1.2.3と探索してきましたが、これらは一つの精神世界として繋がるようです :roll:
今回も、ポチットお願いします :m146: :m146: :m148:
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posted by bunbun : 18:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
なんで歴史を解明するの?⇒今まさに求められているから!
こんにちは、さーねです :o :m030: 盆休み真っ最中 :D の日本…このブログも歴史事実がどんどん積み重なり、皆さんの記事をとても楽しく読んでます :P
その中でも、つい先日simasanさんの東北の縄文文化から学ぶが、とても印象に残りました :m096:
>そこから我々が学ぶべきものはたくさんある、ということが分かってきました!
この意識。とても大事です :confused:
ところが、世の中に情報として流れる歴史は、趣味的なもの(EX.三国志,戦国武将)や学者の論説,発掘情報等、何かコアなモノ、あるいは役に立たないモノとして捉えてしまい、その難しさやわかりにくさから、一般の人々にはややとっつきにくいという実感があります。(僕も、ブログに初めて投稿する時はとても苦労しました :-( )
今年も既に後半を過ぎ、今一度、歴史を解明するということは一体何に繋がるんだろう? :D 歴史に興味のない方にも、大事な認識として興味をもってもらえればと思い、この記事をアップしようと思いました :m051: :P

今日の参考図書は実現論
みんなで創ろう :m051:
実現のための歴史認識を :m051: :P
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posted by sawatan : 13:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月13日
縄文時代に栽培!?
前回の記事で、 縄文時代は「木の文化」 を書きましたが、それにHiroshiさんがコメントしてくださいました。アリガトー :blush:
木といえば、縄文人は大規模な栗林を栽培していたらしいですね。他にもいろいろ栽培していたらしいですよね。 どなたかか記事にしてくれるかな~。
縄文人が栽培 :shock: :m049:
栗とか猪とか魚や貝などなど食べてて、けっこうグルメだったのは以前記事で書きましたが・・・・・栽培ですか :m050:
早速調べてみますっ :m071:

posted by pingu : 13:15 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月11日
インカのミイラNo3 ミイラになった生贄
1995年、アンデス山脈にあるアンパト山は標高6310mの山です。その氷が溶け、氷の中から一人の少女のミイラが姿を現しました。それがこのフワニータ。 インカ帝国にはカパコチャという、子供をいけにえにする習慣があり、彼女は山の神に捧げられたのです。

posted by hiroshi : 19:35 | コメント (2) | トラックバック (0)
東北の縄文文化から学ぶ
このところ当ブログでは、 【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?や、東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化など、東北地方を基盤に発展した都や、豊かな森と食糧資源に支えられた縄文時代の東北地方がクローズアップされていますね!
tanoさんが日本人の基層には西の文化がある!で触れていますが、弥生以降の稲作文化が浸透するまでは、実は、縄文文化は東北地方を中心に発展したのではないかと思うほど、そこから我々が学ぶべきものはたくさんある、ということが分かってきました!
東北地方の縄文文化について、かなり詳しく紹介しているサイトがありました。以下、 「研究調査報告書「縄文文化と東北地方」―東北の基礎文化を求めて」より引用です。
>東北地方の人々の心の中に現在も息づく自然との共生、生活文化習慣などは、気づく気づかないに関わらず、独自のものとして歴史の中でゆっくりと形成され、今日も人々の心の中に潤いを与えている、地域性の最たるものであると言えよう。そして、それを形成したのは、現在の経済システムを形作ってきた稲作農耕文化とは異なる狩猟採集を生業とした縄文時代という歴史なのである。そして、現在のシステムが綻びを見せ、新たな社会システムが模索されはじめている今日、このような歴史を持つ東北地方は、新たな価値観による・新たな社会の旗手となる可能性を秘めていると言えよう。
posted by simasan : 18:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月10日
弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がった
:D くまなです
先の投稿では日本初の戦争犠牲者について紹介しました。(カテゴリーは「弥生―律令時代の戦争」です)
2500~2400年前に九州北部で勃発したと考えられる日本における戦争は、それから100年ほどがたつと西日本各地に広がっていきます。
戦争の広がりは、環濠集落、武器、戦死者・戦傷者の状況からわかります。概要を表にまとめてみました。
最初の戦争は九州北部に始まります。当時(2500~2400年前)、中国では春秋戦国時代の真っ只中であり、そこでの敗者や難民が大量に渡来し、人口の過密=縄張り侵犯から、戦争が勃発したのではないかと考えられます。
戦争圧力の第二波は2300~2100年前で、これは秦が中国を統一し、朝鮮半島に侵攻した時期です。ここでも朝鮮半島の戦争敗者や難民が渡来したことでしょう。武器の主流は石器や青銅器ですが、大陸では鉄器が普及する時期で、日本においても鉄器が見られるようになります。
そして戦争は、北部九州から周辺へと広がっていきます。
続きのまえに、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : 20:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月09日
縄文人の性意識を探る(青森の民俗行事を通じて)
今回は、アイヌ民族にも受け継がれたであろう性意識を、青森の民族行事を通じて探ってみたいと思います。
縄文の世界・生活と文化より
《引用開始》
かつて、青森の集落のはずれの小高い丘に木製の大小の根精様を祭る祠があった。
また本家筋の家の祭壇に、蛯子、大黒と並んで根精様の小さな祠があった。
それらは、今はない。
縄文遺跡の祭祀的跡と思われる場所から男性の性器と思われる石棒が出土した。
石皿、くぼみ石等の陰石も出土した。
縄文時代の人々は、性をどのように捉えたのだろう。
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posted by naoto : 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月08日
縄文時代の図鑑?

縄文時代の遺跡から見つかったこれは何? 画像は「こまきのいせきものがたり」http://www.komakino.jp/index.htmlからお借りしました。
こんばんは :m030: bunchanです :m034:
今日は縄文時代の遺跡からの出土品の中からみつかった土製品をとりあげてみたいと思います。
「こまきのいせきものがたり」より「縄文時代のきのこについて」工 藤 伸 一 (日本菌学会会員)からの要約・引用をご紹介します。
東北地方および北海道の縄文時代の遺跡からの出土品の中に、円盤形の裏面につまみ状の突起が付いいるものが発見されています。
さてこれは一体何でしょう?
:m281: スタンプ説
:m282: 表面が平滑なことから縄文クッキーを平面に仕上げるための用具説、
:m283: 柄の部分はつまみで傘の部分は蓋!土器の蓋説、
:m281: 土器を作成するに当たって土器の内側を滑らかに仕上げるための用具説
などなど、さまざまな説があり、用途については考古学的には一致していません。
「きのこ形土製品」と言われるものの出土例は報告書等によると、1999年現在、青森県で13遺跡58点、秋田県で10遺跡60点、岩手県で19遺跡51点、山形県で1遺跡2点、福島県で13遺跡24点、北海道で4遺跡4点で、合計60遺跡から199点が出土していますが、その形態は様々です。(中略) これらの「きのこ形土製品」を注意深く観察しますと、ある特定の「種」を意識して模倣したと考えられるものと、単に「きのこ」の一般的な形状を模倣しただけと考えられるものの二つのタイプがあることがわかります。前者は、そのつくりがとても丁寧であり、ひだや管孔の表現はないものの形状も極めてリアルです。また、後者は、そのつくりが一般に粗雑であり、「きのこ」であろうと推定できる程度です。この後者の存在が、今まで「きのこ形土製品」を「スタンプ」や「土器の蓋」などと混同させてきた原因と思われます。これら両者の時代背景は不詳であり、また、両者がすべて明確に区分できるものではありませんが、典型的な両者を区分して比較研究することは、これらの用途および変遷などを探るうえで重要なことと考えられます。
でも・・・きのこを形どった土製品は何に使われていたのでしょう??
ぽちっ :m023: と押して、続きにいってみましょう~ :m149: ・・・ :m149:・・・ :m149:
posted by bunchan : 23:27 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月07日
戦った縄文人
縄文人はなす術も無く弥生人に駆逐された。
この縄文ー古代ブログでもそう認識している人は少なくないだろう。我々は戦争という技術を持って、人を支配する事を当然の社会摂理とする弥生人と戦争を知らず、友好的でおだやかな縄文人という構図を知らぬ間にイメージしている。
しかしそうだろうか?
実は縄文人が弥生人と明確に戦争をした史実がある。戦争というより抗戦という形で・・・。
北九州や中国地方に縄文時代から弥生時代にかけて1000年に渡って波状的に上陸した中国や朝鮮の渡来人は縄文人と融合し農業社会を構築し人口は増大した。弥生時代に入り農耕社会は九州、西日本からあっという間に関東地方まで広がっていった。大和朝廷が成立した後は日本は一部の地域を除いて統一されていた。
その一部の地域は最後まで抵抗した。それが現在の東北地方の蝦夷(エミシ)である。
大和朝廷の征服軍の攻撃をしのぎ38年間に渡って闘ったのがエミシだった。
今日はその蝦夷討伐に抵抗した縄文人の戦いを振り返ってみたい。
最近ご無沙汰していました。夏休みに向けて頑張って投稿しますので応援よろしくお願いします。
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posted by tano : 21:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月05日
古代文字
◎日本ではいつごろから文字が使われるようになったのでしょうか。
また、現代に繋がる「かな遣い」はいつごろから使われだしたのでしょうか
日頃何気なく使っている漢字とかなまじりの日本語は、いつごろから使われだしたのかまだはっきりしない様です。

「神代文字(アヒル文字)の一種」
posted by ryujin : 20:59 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月02日
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
今晩は :m030: さーねです :D
今日は、縄文のなんでの縄文時代の都が1500年も続いたって本当?を解き明かしてみたいと思います :m051: :tikara:
その代表が三内丸山遺跡ですが、まずは、るいネットのマスコミが歴史的事実も歪めている・・・三内丸山遺跡の実態・・・を読んでみました :roll:
確かに、何かおかしい… :roll:
このお題は、歴史を学ぶという点でとても示唆に富んでいます :m049: :P
なかなか面白いお題です :m051: :P
頑張ってみましたっ :m051: :tikara:

大きい・長い・多い~三内丸山遺跡…
今、僕達に必要なのは事実と自然の摂理 :m051: :P
一緒に追究しましょう :m118: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 21:29 | コメント (4) | トラックバック (0)