/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2007年09月30日

マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか

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マヤ低地とテオティワカンの交流:
ティカル-2 からお借りしました
http://www.tuins.ac.jp/~satoh/n_w_a2002/n_w_a2002_5-2.htm

:roll: :roll: マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか? :roll: :roll:

通常どこの地域でも、戦乱に明け暮れた後、統一王朝が成立し、その王朝が倒れると、又戦乱に明け暮れるといった事が繰り返される。ではマヤではどうだったのか?この不思議については多くのマヤ研究者も正確には答えを見つけ出してはいません。

そこでこれからご一緒に探ってみませんか?その前に  
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posted by dokidoki : | |

2007年09月29日

生贄文化から見える世界観

こんにちは! :P
saahさんの生贄シリーズ、第一弾「マヤの生贄~何のために行われたのか?」に続く第二弾・・・
をお送りしたいと思います。 :m270:

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チャックモール写真解説 「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」http://allabout.co.jp/contents/secondlife_tag_c/worldheritage/CU20061206A/index4/より
(エル・カスティーヨ内部にあるチャック・モール像と、奥がジャガーの玉座。戦士の神殿にもチャック・モール像があり、像のお腹部分にある鉢に生け贄の心臓が奉げられた)


皆さんは、「生贄」というとどの文明を創造しますか? :roll:
マヤ、アステカ、インカ文明・・・このあたりが思い描かれたのではないでしょうか :-)
確かに、いずれもが「生贄の文化」をもった社会としてクローズアップされており、「なんか、中南米って野蛮な文化があったんだねー」などと考えがち?ですが、ちょっと待ってください!
世界の歴史を紐解くと、いろんな場所で生贄の文化は息づいていたのです。勿論日本でも・・・。

今回は「世界の生贄文化」に目を向けて、その意味に迫ってみたいと思います。


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posted by bunbun : | |

2007年09月28日

縄文草創期の現実~洞窟に隠れ住むしかなかった

今晩は、さーねです。縄文に関する投稿記事もかなりの数がなされ、縄文人の生活様式が徐々に解明されていく感じがしています :o 一方、縄文時代の先駆けである草創期に関しては、データや出土物も少なく、当時の人々の生活にまだ肉迫できていないなと感じるところです :-(

その中で一つ疑問をもちました。草創期の初期は、洞窟生活をしていた=定住の始まりというところです。形態としては定住だと思うのですが…果たしてそんなに簡単に定住にできたのか :m050:

洞窟生活に至った草創期の縄文人がどんな状況であったか?そこを鮮明にしたいと思います :m051:

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縄文草創期が発見されるきっかけとなった小瀬ヶ沢洞穴
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posted by sawatan : | |

2007年09月27日

エジプト発~貴重品として世界に広まった“ネコ”

こんばんは :-)
さーねさんの鹿に続いて、ネコの話題です :m172:

現在の家畜(~ペット)といえば、なんといっても犬や猫ですが、古代はどうだったのでしょう?
羊や犬に牛や豚などはすぐに思い浮かびますが、ではは???
なんか大して役に立ちそうにないし、食べてもまずそうだし、、、

でも、縄文にはネコの土偶?があるらしい。
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 山梨県御坂町上黒駒出土 縄文時代(中期)

うーん、これってネコに見えますか??
縄文時代から猫っていたのかな~?
ということで、ネコのルーツを探ってみました :-)


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posted by nishipa : | |

2007年09月26日

アステカ、インカの悲劇は数千年も前から決まっていた?

こんばんは。ベジです。

カッピカピさんが火器についての記事を書いてくださってますが、この火器に関連してアステカ、インカの滅亡について興味深いことがわかりました。

それは・・・

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posted by jomon10 : | |

2007年09月25日

ビザンツ帝国が千年の長きに渡ったのは火器のおかげ?

こんばんは、カッピカピです。 

 さて、ギリシア史といえば一般に思い浮かぶのは、アテネなどの古代都市国家だと思います。しかし忘れてはならないのが、ギリシア史上古代マケドニア帝国に次ぐ国家規模に達し、千年の長きを誇ったビザンツ帝国です。ビザンツ帝国こそギリシア史の最も偉大なる時代であると、カッピカピは密かに思っています。

 そこで、ビザンツ帝国が1000年に渡って存続することが出来たある秘密兵器についてまとめてみようと思います。

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posted by hi-ro : | |

2007年09月24日

考古学の危うさ~「水野集落論」より

るいネット「縄文集落論の変遷(1)」でも扱われていますが、縄文時代の集落論の代表的研究者である水野正好氏は、祭祀・宗教の観点から縄文集落の解明を行いましたが、これは考古学会でかなり認められた学説のようです。

ちなみに、水野集落論とは
1・縄文時代、単婚的な「小家族」がすでに登場し、二軒の住居を一単位として成立していた。
2・小家族の上位に、埋葬・消費・政治の基本単位である六軒=三小群から構成される「家族」が存在していたことを指摘。
3・三小家族―六軒の住居を包摂する「家族」=「大群」は、東西の計二群存在し、両群が一体となって「部族」=「集落」構成していた。
4・集落そのものに基盤を置く「広場祭式」、集落~大群間に基盤を置く「葬送祭式」、大群~小群間に基盤を置く「石柱・石棒・土偶祭式」の三類に分類。
 

のように、全体として集落構造と宗教構造とを一体的に復元し、縄文集落の解明を試みたもの です。

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写真はhttp://heritagetravelers.blog79.fc2.com/blog-entry-76.htmlより引用


ところが、他の考古学者からは、これは捏造ではないか? との反論も出ています。“考古学ってどんな研究や、どのようにして学説を立てているのか?”を知る上で面白い記事なので紹介します。

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posted by simasan : | |

中国文明:戦国時代のロックフェラー?~呂不韋

今晩は。さーねです :D
先日、みつこさんが書かれた中国における紙幣の発展なかなか面白い記事でした :m034:

さらに引続き戦国時代に焦点を当て、その当時の社会状況を掴んでいきたいと思います。

今日は、戦国時代に暗躍し、商人として千金の富を築き、始皇帝の宰相にまで登りつめた呂不韋(リョフイ)について紹介します :m051:
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呂不韋…想像図… :nihi:

中国歴史奇貨居くべしを参考にさせて頂きました :wink:
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posted by sawatan : | |

2007年09月23日

西欧の対外侵略の原型 「北の十字軍」                       ~掠奪殺人正当化の論理がキリスト教によって与えられた~

近代における西欧の膨張と世界の植民地化。その先触れとなったのが、十字軍だ。十字軍は、キリスト教の聖地奪還のというお題目の背後で、殺戮・略奪が横行した。

十字軍はある意味、キリスト教徒による失地回復という論理(大儀名文)があった。東方エルサレムの奪還や西方のスペインの領土回復。
しかし、「北の十字軍」ではさらに都合よく論理を飛躍させて、侵略を開始していった。

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posted by ihiro : | |

2007年09月22日

長江文明の城壁の意味

城壁は何の為に生まれたの :roll: ? の問いかけに、外敵から身を守る為 :m039: と答える人は多いと思うのですが、長江文明の城壁は略奪対策よりも、稲作農耕とより密接に関連していた様です。

西アジアでは、6000年前頃に略奪闘争が勃発し、5500年前頃にメソポタミア周辺の遺跡で城壁跡が見つかっています。(るいネット「5500年前ごろ、城壁が出現」より)
この略奪闘争が中国まで玉突きで広がっていったと仮定すると、中国で城塞が登場するのはその後になるはずなのですが、長江流域では6300年前の城頭山遺跡で城塞跡が発見 :shock: されています。

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城頭山遺跡想像図(安田喜憲 作成)

長江流域では、1万年以上前から稲作農耕が始まっており、6500年前ぐらいまでは、ヒプシサーマルという高温な時期で、気温は現在より2~3度高かったのが、6300年前頃に気候が一変し、突然乾燥化しはじめます。この環境変化に対し、長江流域の人々はどうしたのでしょうか?(以下、「古代日本のルーツ 長江文明の謎」(安田喜憲著)から引用)

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posted by maeyan : | |

2007年09月20日

小学社会に「縄文」

標題の記事は9月12日の産経新聞のコラムにかかれてありました。
何の事かわからない人の為にまずは、記憶に新しい年初の縄文ー古代ブログのカッピカピさんの記事を紹介します。

さて、去る2006年12月22日の読売新聞に 『小6教科書 縄文以前記述なし』 という見出しの記事が掲載されていたのを皆さん御存知だったでしょうか? (中略) 現行の学習指導要領によると、日本の歴史は、小学6年生の社会科で初めて教えることになっていますが、現在の教科書には旧石器時代や縄文時代についての記述がほとんどないそうです。 教科書から縄文時代以前の記述が消えたのは、1989年の学習指導要領改訂がキッカケでした。俗にいう、ゆとりカリキュラムと呼ばれる学習指導要領です。この改正で、小6の歴史学習の最初の部分が、 「農耕の始まり、古墳について調べ、大和朝廷による国土統一の様子が分かること。」 と規定されました。このことから、小6の歴史では、農耕の始まりを指す「弥生時代」から教えればよいことになり、それに先立つ縄文時代以前の出来事は教えなくてもよいことになってしまったのです

それがなんと・・・・ゆとり教育の見直しがなされる中で縄文時代の記述が復活したのです。 :shock:
さてその内容は・・・ 8) 知りたい人はポチッと押して進んでください。

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posted by tano : | |

2007年09月19日

縄文人とアイヌ人

前回、オホーツク文化についてふれました。
あまりに、大陸との近似性が強く、「アイヌ人と縄文人は、全く別の民族でないのか?」
という疑問にぶつかってしまいました。
そこで、もう一度、気候変動と人々の移動、さらには、DNA分析といった側面から、この疑問に迫ってみたいと思います。

     DNA分析による日本人形成より

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【BC20000年頃】
ほぼ日本全土がユーラシアンです。図の黄色。
旧石器人はモンゴロイドではなく、コーカソイドの祖先と同じと推定。骨の発見を期待するところです。

【BC8000頃】
BC10000頃からフィリピン~台湾~西南諸島経由で次々に渡来した南方海洋系の人々(オーシャノイド)がユーラシアンと混合北上しながら温暖適応の縄文文化(縄文人)を形成していったと推定。図の赤です。
山岳部では旧石器のまま新文化を受け入れなかった人々もいます(八ヶ岳など)。
沿岸部では南方系文化、山岳では北方系文化が濃い状況になっていたと推定。

【BC4000】
温暖化ピークの時代です。
本土のすべてが縄文化し、北海道も縄文化がはじまる
礼文島と苫小牧を季節移動していた漁労系縄文人の痕跡が発見されています。
青森の三内丸山では南海系の魚を食べており、黒潮が十勝沖まで北上していた可能性があります。
(鮭の骨の出土は少ない)

北海道内陸部では寒冷気候で旧文化がそのまま残ったと思われます。石狩平野や十勝平野でも、縄文化の度合いは東北よりずっと小さかったと思われます。

いよいよアイヌとの接点が見えてきます。
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posted by naoto : | |

2007年09月18日

縄文ー古代通信NO6(19年9月号―1周年記念号)

みなさん、当ブログは1周年を迎えました~☆ パチ パチ パチ パチ

当ブログが現在のようなかたちになったのが18年の9月です。
第一声は9月7日付けのtanoさんの投稿「略称「縄文・古代ブログ」の当面の課題について」と「縄文ブログがリニューアルしました!」です。

1周年ということもあり、当初の課題設定に対して、この1年の追求はどうだったか見てみる必要があると思います。そこで、この9月号を1周年記念号として、そのあたりにも触れながらまとめたいと思います。

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posted by kumana : | |

2007年09月16日

縄文時間ってなに?

simasanさんの投稿 環太平洋圏の海流・気流は縄文人をどこに導いたか? に「九州と東北はおそらくは1年以内、縄文時間ならば事実上のゼロ時間で接続されるわけです」とありました。この縄文時間って何でしょう? 時間がゆっくり動いていることだと思うのだけれど・・・
そこで調べてみました。

(ブログランキングに協力願います。)
  :m118:    :m118:    :m118:
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posted by mukai : | |

2007年09月15日

縄文:鹿を狩る縄文人の意識とは?

今晩は、さーねです :o 今まで食料といえば、堅果類や穀物などが注目されてきましたが、今日のるいネットサロンで、動物にも注目してみよう!ということになり、今日は鹿を調べてみました :D

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写真はエゾシカ :m051: すごい角…こんなのを捕まえるって… :shock:

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posted by sawatan : | |

2007年09月14日

マヤの生贄~何のために行われたのか?

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「戦士の神殿。」ここで敵の捕虜の胸を裂き、心臓を太陽の神に捧げた。
(「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」よりお借りしました)

文明では「生贄(の儀式)」が「政」の中で非常に重要な位置を占めていたと言われています。インカでも、山の神に捧げられた少女のミイラなどが発見されていますが、マヤでは奴隷を生贄にしたという事例も多くインカとは少し違うような感じます。

現代人の感覚で生贄を理解するのは難しいかもしれません。残酷といってしまえばそれまでですが、そこは一歩踏みとどまって、マヤ人に少しでも同化し「生贄」という行為からマヤ文明の一端を読み解けたらと思います。

今回は、マヤ文明の生贄とはどういうものだったのかを探ります。 :tikara:

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posted by saah : | |

2007年09月13日

マヤ文明って何?

アメリカには、15世紀にヨーロッパの貿易商人や侵略者がやってくるまで、ユーラシア大陸の文明とは別に進化した文明があります。
南米のインカだけでなく、中央アメリカにも広い地域を統合しピラミッドなどの遺跡を残したマヤ・アステカといった文明があり、これらは古代文明社会全体を俯瞰するためには注目すべき文明だと思います。
そこでインカに続いて「マヤ」を見ていきたいと思います。 :shock:

というのは、アメリカの古代文明といっても地域と時代によってかなり違う様相を呈しており、それぞれの文明を掴む必要があるからです。例えば南米では、ナスカやワリといった地域の文明が興った後に14世紀にインカが南米東地域の全域を中央集権的に統合しますが、一方、中央アメリカのマヤやアステカはそうではありません。

 「マヤ」は、ジャングルに2000年間にわたって栄えた都市国家文明として有名ですが、一体どういう社会だったのでしょうか?  
なぜ、2000年間栄え、統一国家とならずに衰退したのでしょうか?
(都市国家と一言でいってもメソポタミヤのシュメールもあれば、日本の縄文や弥生、古墳時代もあります。)

 また、マヤには戦争や死を掛けたスポーツ関する多くの記録があるし、(アステカほどではないにせよ)生贄もかなり行われていました。戦いや死に対する意識はどのようなものだったのでしょうか?

いろんななんで?が出てきますが、
まずはマヤってどんなところ? :confused:

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↑NHKさんから借用

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posted by nandeya : | |

2007年09月11日

中国における紙幣の発展

こんばんは~ :m017:  みつこ :D です。
さーねさんの「中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!」を興味深く読ませてもらいました。

なんと :shock: 、紙幣を世界で始めて発行したのは中国だそうです。宋時代に四川地方で流通した“交子”というものです。
その発達してきた過程を詳しく述べたもの :m062: があったので、長くなりますが、紹介したいと思います。

応援おねがいしま~す :m092:
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ありがとうございます :m101:

posted by mituko : | |

2007年09月10日

イギリス東インド会社②:儲けを求めて、貿易→徴税権(征服)→アヘンの三角貿易へ

イギリス東インド会社は、産業革命と前後してインド征服と中国へのアヘン売り込みとやりたい放題始めます。東インド会社の成功を見たイギリスの他の商業資本も、東インド会社の独占貿易を崩して進出しはじめます。

東インド会社:インドや中国という古代的国家を収奪・解体した怪物会社 の続きです。

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ロンドンにあった東インド会社

posted by ihiro : | |

2007年09月09日

中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!

今晩は。さーねです :o 先月のなんでや劇場にて、市場論が扱われました :D (詳しくは、Trend Reviewの8/11なんでや劇場「ブログ『晴耕雨読』の市場論に学ぶ」の論点を見てください。)

最近は、BRICsと言われるように、中国も投資対象国=経済成長著しい新興国として注目されています :wink:

今日は、このブログらしく :m051: 古代中国の市場を遡り、戦国時代の市場の状況について、アップしたいと思います :tikara:

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戦国の中国~まさに国乱れる…

:m118: 古代文明も現代に繋がる認識がある :m051: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年09月08日

竪穴式住居

:m013: 竪穴式住居 :m013: ってどんなもの :m052: :m052:

縄文時代から平安時代初期までの住まいであった、「竪穴式住居」はどんなものかを調べました。いろんな効果、工夫があることがわかります。

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「千葉市の貝塚」というブログで紹介されていましたのでまとめました。

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1.<竪穴式住居のかたち> 深さ数十cm~1m、直径 5~20㎡の円形の穴を掘り、円錐形の屋根を作った家です。縄文人は円形の住居が好きだったようです。5000~10000年前には、方形の住居がありましたが、4000~5000年前にはほとんどが円形になりました。3000年前には方形の住居がまた作られました。


2.<保温機能>穴が深いほど、土の温度は一定(17~18℃)になります。北海道の竪穴式住居には、2mの深さのものがあります(北海道南茅部町大船C遺跡、函館空港遺跡など)。深さ2mのものだったら、竪穴式という言葉がはっきり当てはまると思います。竪穴式住居は貯蔵庫としていい機能を持っています。”竪穴式住居”に深さ1mの穴を掘り、土器を埋めれば、食料を地表から2mの深さの恒温倉庫に保存できます (今から40年前、冷蔵庫が普及する前、台所の床下の穴に、梅酒や醤油や食料品の一部を保存していました;今は床下貯蔵庫という、単なる収納スペースを確保しているものはあります)。
深さ1mの地面は、それなりの恒温状態です。深さ1mの地面は、冬はぬくもりがあり、夏は涼しさがあります。竪穴式住居は、縄文人が自然の冷暖房を利用するために、地面を掘り下げたのではないでしょうか


3.<家の排気システム>がどうかによって、その家が過ごしやすいか否かが変わります。遺跡に復元されている家を見ると、屋根の構造がこんな簡単でよいかと考えさせられます。初期の竪穴式住居には炉跡はありませんでした。縄文人は、毎日バーベキューをしていました。しかし、約5000年前には炉を住居の中に入れ、煮炊きをするようになりました。炉を家の中に入れると、室温だけでなく、排煙の問題があります。縄文人は、排気システム、涼暖房システムを考えたはずです。
隙間風が入るため、排煙効率は良く、排煙に問題はなかった、煙による薫蒸があり、屋根のカヤは腐りにくくなっていたなどの話もあります。縄文時代の住居は中二階方式で、中二階に寝たと言う説がありますが、中二階はどう考えても夏暑く、冬寒い所です。物置や煙による防虫効果しか期待できないので、貯蔵庫だったかもしれません。


4.<防水機能>竪穴式住居は、屋根や壁が地面に接する場所に盛土をしています。雨水が家に流れ込むことを防いでいます。竪穴式住居の入り口は盛土部分を一段か二段上がり、穴部分の階段を数段下がる構造になっています。


5.<出入り口>一般的に、竪穴式住居の出入り口は南向きが多いと思っていました。しかし、加曾利貝塚の住居跡の出入り口は、様々な方向を向いています。出入り口が南にあると、冬に陽光が差し込み、暖かになります。夏はひさしがあれば、太陽の高度が高いため、灼熱が直接差し込むことはありません。南向きは合理的なのですが、実際は、集落の中の”道”に向って出入り口を作っていたと考えられます。みんなとの交流を優先したということですね。ツマ付き住居であれば、排煙や夏場の温度上昇の問題を解決できます。北海道栄浜遺跡で発見された家形石製品のように、入母屋風の上屋を示す例もあります。



posted by norio : | |

2007年09月07日

環太平洋圏の海流・気流は縄文人をどこに導いたか?

mukaiさんの縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした 縄文の海洋技術:『縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ』でも言われていますが、既に1万年前から6000千年前に、縄文人は太平洋を航海していたのではないかと多くの考古学者が述べているようです。

中には、インディアンの祖先やポリネシア人の祖先は縄文人ではないかと言われる人もいますが、そんなことがあり得るのでしょうか? :shock:

実際、ノルウェーの人類学者、ヘイエル・ダール博士は、筏船で、ペルーのカヤオ港から南太平洋のツアモツ島まで4,300マイル(8千km弱)の横断を試み、102日間でたどり着いたそうです。その他にも、tanoさんが
黒潮に乗って でも紹介しているように、この環太平洋を流れる海流の作用はコマを流す実験でも実証されているようです。

果たして、インディアンやポリネシア人の祖先が縄文人かどうか分かりませんが、少なくともエンジンも海図も持たない古代人が、遥か何千キロも先の大陸や島々に舟を運ぶのに、地球の海流や大気の流れはどのように影響するのでしょうか? 

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posted by simasan : | |

2007年09月06日

新旧モンゴロイドの混血による縄文人の形成

:D くまなです

前回の「縄文人の故郷、スンダランド」の続きです。前回は2万年前までの状況を紹介しました。

約2万年前は氷期のピークで、今よりも平均気温で7~8℃低かったと考えられています。その後1.3万年間で温暖化し、約1.2万年前(縄文時代の始まる頃)には現在と同等の気温まで上昇しました。この気温の上昇に伴って、氷期に形成された(主に極地方の)陸上の氷や雪が融解したのと、海水の膨張により、海水面が100mほど上昇したと考えられています。

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(当ブログ内のRさんの記事縄文時代の海水面、気候変動グラフを参考に、「海のほしと私たち」よりお借りしました)

スンダランドは赤道直下(北緯15度~南緯10度)にあります。現在は熱帯雨林気候ですが、氷期には温帯だったと考えられます。氷期において赤道直下の地域は温暖湿潤な気候であり、その行き止まりの半島部分に多くの人類が行き着いたと考えられます。

その上、海や川からの豊富な食糧、片面が海という防衛のしやすさ、侵食等により隠れ住む洞窟の多さが考えられ、しばらくすると人口も増加し、多くの人類が縄張りを接するように暮らしていたと考えられます。

そのような状況下で、気候が温暖化し、海水面が徐々に上昇し始めます。海岸沿いに住む人々は、住みか(洞窟)が失われ、縄張りが減少していきます。

内陸に進出しようとしても他集団がいます。一部には合流した集団もいましたが、大半は海側を島伝いに新天地を求めて出て行ったと考えられます。その第一波は、すでに5万年前、南東端の沿岸地方に住んでいた人々が、東に漕ぎ出し、島伝いに現在のオーストラリアに到達しています。

温暖化がすすみ、現在のフィリピンやマレー半島に囲まれた大陸棚地域も水没しはじめると、その地域の人類は同様に海側に新天地を求めて漕ぎ出していきます。その場合に、ちょうど黒潮の海流に乗ることができます。ただし、当時は大海原に漕ぎ出したわけではなく、漁業の技術も近海や河川でのものでしたので、あくまで島伝いに新天地を探索したと思われます。

現在でも、フィリピン近海から台湾、沖縄、日本をつなぐ海域は浅く、現在よりも島(陸地)も多かったのではないかと考えられます。
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海面の上昇に伴って、同様にして海に出て行く人々が増えますが、皆同じような航路を取るため、途中の島々にはすでに先行して流れ着いた人々がおり、安住の地を得られず、さらに次の地を目指して漕ぎ出します。そのように、時代が進むにつれ、黒潮に沿って北へ北へと進んでいきます。

温暖化は1.2万年前まで続きますが、1.8万年前には上記のようにして沖縄に到達した集団がいました。それが港川人です。(湊川人の骨格はインドネシアのワジャク人に似ている日本人はるかな旅展

そして1.2万年前には日本本土に到達しています(志風頭遺跡、栫ノ原遺跡など日本人はるかな旅展)。

スンダランドを出た旧モンゴロイドは、2万年前から、海面が再上昇する7000年前までの1.3万年の間に日本に到達します。船での移動なので人数は限定的ですが、波状的に多くの人々が渡来したと考えられます。

彼らは、温暖化と共に北上していったことから、環境の変化とともに、それまで培った生活技術(生産様式等)が可能な土地へと移動していったと言ってもいいでしょう。漁労技術や広葉樹林からの木の実を煮炊きする土器、小動物を捕獲する弓矢を持ち、その後の日本で人口を増やしていったと考えられます。

一方、北からのルート(新モンゴロイド)はどうなったのでしょうか。

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posted by kumana : | |

2007年09月05日

火山活動から日本列島の成り立ちをみる~続編

さて、前稿に続き火山の歴史です。
火山のHPを回って検索してみました。

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posted by tano : | |

火山活動から日本列島の成り立ちを見る。

:shock: : こんばんわ。tanoです。
前回、3万年も前に神津島と伊豆半島で交易があったってホント?を投稿した際にmさんから>では火山活動のデータなどを探索してみる価値はありますね!というコメント(課題)をいただきました。 :-)
そこで今回は標題のテーマでひとつ投稿してみたいと思います。 :tikara:

日本には火山が200あります。活火山はその内100ほど、(活火山とは1万年以内に火山活動があったという定義になっています)実に多くの火山を持つ日本列島はその形成の歴史は火山と共にあるとも言えます。まずは日本列島の形成過程と火山活動の歴史を追いかけてみます。
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posted by tano : | |

2007年09月04日

もう一つの日本列島史

北海道においては、縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化の流れをたどったと理解していたのですが、それだけではないと分ってきました。

もう一つの日本列島史より

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本州では、弥生文化が全国に広がり、縄文時代が終わりを告げました。
一方、北海道では、本州の古墳時代の終わり頃、突如として「オホーツク文化」が姿を現し、忽然と姿を消していきます。
「オホーツク文化」って何?と思われた方は、ぽちっとお願いします。
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posted by naoto : | |

2007年09月02日

ユダヤ5000年の教え:“お金”のことわざより

こんばんは、Hiroshiです。

今日は、お金のことわざについて。それも、世界の富を動かすユダヤの人々のお金に関することわざについて調べてみました。彼らのお金への意識が見えてきます。

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posted by ihiro : | |

2007年09月01日

教科書では教えてくれない中国年表

るいNETWORK掲示版の「黄河文明と長江文明」の有用な投稿を、頭を整理する為に1枚の年表にまとめて見ました。各々時代の投稿内容が、実に良く連関していることが分かってきました。

中国の歴史を知りたい方は是非、見てください!!!みたい方はポチッと押してね!

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posted by sakashun : | |