2007年09月04日

もう一つの日本列島史

北海道においては、縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化の流れをたどったと理解していたのですが、それだけではないと分ってきました。

もう一つの日本列島史より

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本州では、弥生文化が全国に広がり、縄文時代が終わりを告げました。
一方、北海道では、本州の古墳時代の終わり頃、突如として「オホーツク文化」が姿を現し、忽然と姿を消していきます。
「オホーツク文化」って何?と思われた方は、ぽちっとお願いします。
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北海道における考古学の時代区分は、本州以南とは別に考えなければならないという議論があるが、それを的確に表現したのは藤本強(一九八八)である。
氏は、私たちがイメージする日本の原風景は日本列島が固有にもっていたものではなく、大陸から渡来した稲作農耕文化の受け入れによって展開したものであることを指摘している。
すなわち弥生文化である。それが本州・九州・四国に広がり、今日の日本文化の根幹を形成したのであるという。
その文化を「中の文化」という言葉で表現している。

そして、沖縄県を中心とする南島にみられる「南の文化」はまた別の歩みをし、北海道を中心とする「北の文化」もまた独自の歴史を刻んできたのである。

およそ二千年ほど前の稲作農耕文化の受け入れによって、日本列島には三つの列島史が展開することになるのである。
この三者の文化の中間地域には「ボカシの地帯」が当然のことながら存在したことも指摘されている。

ではここで、「北の文化」地帯におけるもう一つの日本文化の歩みを眺めておくことにする。

長い旧石器時代と縄文時代が終わり、「中の文化」地帯は弥生時代に入り、稲作農耕文化を急速に展開させたが、北海道の地は寒冷地であるが故に稲作は上陸できなかった。
そして縄文時代と同様の狩猟・漁労・採集の経済段階が続くことになるのである。
それを「続(ぞく)縄文文化」の時代と呼んでいる。
本州以南では縄文時代が終わった後は鉄器時代に入ったのに対し、「北の文化」地帯は石器の使用が続いたとされている。
土器に縄文を施すという縄文時代からの伝統もこの続縄文土器まで残っていることが指摘されている。この続縄文文化は鉄器と石器を併用する文化(鉄石併用文化)であり、石器組成も変化をみせ、生業方法の変化や生活形態の変容があることから、やはり続縄文文化として独立させるほうがよいと考える。
年代的にはおよそ二千二百年前から七世紀頃までとしてよいであろう。
そのスタートは「中の文化」地帯の弥生時代の始まり頃と同じと考えてよいのであるが、そのことが「北の文化」地帯の独自の歩みを物語っているのでもある。

この続縄文文化に続くのは「擦文(さつもん)文化」と呼ばれるものである。
本州の古墳時代から奈良・平安時代の土師器文化の影響を受けて、続縄文文化が発展変容したものであるが、「北の文化」地帯特有の展開をみせた文化である。
八世紀頃から始まり十二~十三世紀頃まで続いたが、その広がりはいわゆる蝦夷地とほぼ重なり、南樺太・北海道・南千島(国後島・択捉島)そして東北地方北部に分布している。
その文化を残した人たちはアイヌの直接の祖先と考えられており、ここにも「北の文化」地帯のもう一つの日本列島史の存在を確認することができるわけである。

その頃、樺太あるいはアムール河下流域に原郷土をもつ別の文化が六世紀頃に北海道に上陸し、新たな展開をみせて北海道オホーツク海沿岸部に定着する。これが「オホーツク文化」であり、十世紀頃までまったく異なる文化の花を咲かせるのである。
その後、このオホーツク文化は擦文文化の中に一部は吸収される形で「トビニタイ文化」を形成し、やがて消えていくのであるが、擦文文化の後は、考古学上の「アイヌ文化」の時代に代わっていく。
「中の文化」地帯の「中世」から「近世」にほぼ相当する頃であるが、十四~十八世紀段階を「原アイヌ文化」と呼び、十九世紀以降を「新アイヌ文化」と称している。

さらに原アイヌ文化の段階は、擦文土器に替わり内耳土器や内耳鉄鍋を使用した内耳土器時代ともいえる前期(十四~十五世紀頃)、チャシの使用が盛んになったチャシ時代である中期(十六世紀前後)・後期(十七~十八世紀)の段階があったことを想定している。
このように、縄文文化の終焉後、続縄文、擦文・オホーツク文化そしてその後のアイヌ文化と、「中の文化」地帯とは異なる独自の「北の文化」の変遷があり、もう一つの日本文化の歴史があるのである。

今回は、大きな時代の流れを押さえなおしてみましたが、融合民族である日本人を考える上では、「北の文化」「中の文化」「南の文化」という分類軸は有用だと思いました。

それにしても「中の文化」の弥生以降の時代区分名称は、いかにも人工的で「力」のにおいがぷんぷんしていると感じるのは私だけでしょうか?


投稿者 naoto : 2007年09月04日 20:29  

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コメント

自分のいる位置を中心にした見方しかできない傾向が強い、現代人には、「オホーツク文化」の観点は、結構考えさせられ、面白かった。特に北を下にした地図は興味深かった。

投稿者 hishiyuta : 2007年09月05日 12:47

アイヌと和人の関係、アイヌと中国、山丹交易といわれるサハリン・アムール川を介しての交易ルートに関して興味を持ちました。

調べてみるとアイヌの人たちの北の交易はそこで止まらずに、カムチャッカを介してもっと北の方にものびているらしいということが、最近わかってきたようです。さらに、この交易の中心には中国の毛皮需要があるようです。元朝以降の満州族の伝統で官衣官服が毛皮です。

投稿者 タカ : 2007年09月05日 13:08

今までの学校教育では「中の文化」しか習ってこず、その視点からしか考えてこなかった経緯がありますが、視点を変えて歴史を見直すと面白いですね。外との繋がりが少ないと思われている日本の歴史も、北では中国から北アメリカも含めて繋がっていたことが想像され、世界がひろがります。

投稿者 abuabu : 2007年09月05日 13:13

 オホーツク海周辺に展開したオホーツク文化。その共通点として、クマを崇めることがあげられる。網走に残る「オロチョンの火祭り」の名は、大陸のオロチョン族との直接の接点は無いという事だが、本当に接点は無いのだろうか。、「八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)」伝説との関係も登場しているようである。古代を探索するのは本当に面白い。

投稿者 unclefootballer : 2007年09月05日 13:40

擦文時代は初めて知りました。

なんで「擦文」なのか?名称の由来を調べてみたところ、縄文時代同様に土器の模様からきてるみたいです。

ちなみに、土器の表面には刷毛目(土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたもの)が付けられてたみたいです。

投稿者 hitman15 : 2007年09月05日 13:48

すごくたくさんの感想コメントを同時にいただきありがとうございます。
何かこの投稿で勉強会でもなされたのでしょうか?
もしそうであれば少しその状況を教えていただければたいへん嬉しいです。投稿者のnaotoさんもさっそくレスをお願いしますね。(管理人)

投稿者 tano : 2007年09月06日 02:12

みなさん、たくさんのコメント、ありがとうございます。

>hishiyuta、abuabuさん
私たちは、あまりに、教科書の地図や歴史に慣れすぎているようです。それが、固定化されて、物の見方にも影響を及ぼしているように感じます。自在な思考を心がけたいと思います。

>タカ、unclefootballerさん
情報ありがとうございます。
大陸との関係については、もっと追求したいところです。
熊祭りについても、その内のひとつと考えています。

>hitman15さん
擦った文様があるから、「擦文」
味のあるネーミングです。

古代の追及は、まだまだ続きます。
これからも、応援よろしくお願いしますね。


投稿者 naoto : 2007年09月08日 21:56

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