« 2007年09月 | メイン | 2007年11月 »
2007年10月31日
縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?
三内丸山遺跡などでも有名だが、ストーンサークルと呼ばれる遺構は、北海道から東北地方に集中している。
図・写真は「大湯ストーンサークル館」より引用

これらの遺跡は約3,500~4,000年前にできたと言われているが、何故、この時期に現れ、しかも、北方にしか発達しなかったのか?
また、当ブログでもnaotoさんが「縄文人にとってお墓とは何だったのか?」でも述べていますが、
>彼らが望んだのは、集団の永続的な安定と繁栄。成員の死に際しても、個人の死→埋葬という行為を超えて、集団の共同行為として墓制をとったのではないでしょうか?
と言うように、何故、この時期に集団統合力を強める必要があったのか?
考えれば考えれ程、ますます疑問が湧いてくるばかりです。
続きを読む "縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?"
posted by simasan : 20:19 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年10月30日
マヤ・アステカの生贄は、なんで? パート2
前回の記事で、マヤの生贄はメキシコのトルテカ族によってもたらされたものらしいという事がわかってきましたが、そもそも一体なぜ生贄なのか?ここに迫ってみたいと思います。 :roll:

マヤ・アステカの生贄の特徴は、
1.血液を放出する事(王族の放血儀礼:王は性器、王妃は舌を傷つけて同時に血を流す)
2.心臓を抉り出す事(生贄:生きたまま心臓を抉り出し、神殿の階段の上から血の飛び出る心臓を転して落とす)
このように、血液を重視した彼らの精神世界が垣間見れる「神話」をたどってみる事にします。
posted by nandeya : 23:10 | コメント (2) | トラックバック (0)
著書『縄文「ムラ」の考古学』からの新たな視点
こんばんわ :D
縄文担当のtanoです。
このブログも最近マヤ、中国に押されて日本(縄文)の影が薄くなってきています。 :-(
ということで、私のグループではしばらく縄文時代を分野毎に追求していくことにしました。 :tikara:
今日はその第1弾です。

最近読んでいる本で縄文「ムラ」の考古学という著書があります。川崎 保氏という長野県立歴史館専門主事学芸員の方が執筆・編集されています。⇒一部をネットで見れます
この本は長野県の縄文遺跡を長く調査してきた川崎氏がご自身の研究成果としてまとめられただけでなく、縄文時代のムラを長野県の遺跡を下敷きにして道具、居住、交流、男女の役割等の観点で再現しようとする壮大な試みです。
この書の優れている点は考古学的データーだけでなく考古学に長年触れてきた著者の直感や仮説が各所に展開されている点です。今日は考古学資料の転載まではできませんが、著者の捉えた縄文時代のムラのありようについて連続シリーズでいくつか紹介してみたいと思います。(著者の川崎氏には大変申し訳ないのですが、紙面の都合で一部私の文章でまとめなおしている部分があります)
「縄文ムラの誕生」
定住とはなんだろうか?竪穴式住居跡があってもそこに連続して住んでいたという根拠がなくてはならない。住居の中に石や炉があったとしても定住化への発展的段階である可能性も残る。やはり定住的という以上は住居跡群に明確な特徴が必要になる。直線的や環状配置など明確な意図をもって人間集団が構成されていることを定住的と呼べなくもない。しかし最も目安となるのが「モニュメント」や「ランドスケープ」を持ってムラが形成されている場合である。
続きを読む "著書『縄文「ムラ」の考古学』からの新たな視点"
posted by tano : 22:52 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年10月29日
マヤに統一国家が存在しなかった理由~逆の理由から検証してみる
前回(リンク)マヤにおいて2000年もの間統一国家が発生しなかった原因と思われる説を5つあげました。 :m042:
今日はその続きです。
前回の原因の中でも特に、地理説、私権性が弱い、外圧が弱かった等の理由の重なったものあたりが有力な気がします。 :tikara:
そこで、今日は一転統一国家が出来上がる要因は何か、逆の過程を考えながら、統一国家が出来たメソポタミアと、中南米では何が違ったのかを比較検証してみたいと思います。 :m002:
続きを読む "マヤに統一国家が存在しなかった理由~逆の理由から検証してみる"
posted by saah : 12:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月28日
マヤ・メキシコの「生贄」は、なんで?パート1

(チチェン・イツァー 出典:ラテンアメリカ博物館)
こんにちは :nihi:
生贄にはまりつつあるbunbunです :m252:
いままで、マヤの生贄について見てきました。生贄文化未経験の私としましては、なんで生贄? :shock: ・・・という疑問が常にあるのですが・・・改めて生贄が行われたのはなんで?を追いつつ更にはまって生きたいと思います。
はまりつつある方は(そうでない方も)是非、ポチットお願いします :m149: :m146: :m146: :m146:
続きを読む "マヤ・メキシコの「生贄」は、なんで?パート1"
posted by bunbun : 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月27日
縄文:東北の華やかさの裏には「豪雪」という外圧があった
”日本列島の冬は、太平洋側の晴天とからっ風、日本海側の豪雪 :m009: に特色づけられる「トンネルを抜けるとそこは雪国」という風景が出現したのは、どうもこの一万年前の頃であるらしい”(環境考古学事始 安田喜憲著 洋泉社より)
今晩は、さーねです :o 今回は「 :m009: 雪 :m009: 」。どうも、日本で豪雪地帯が出現したのは一万年前。ちょうど、縄文草創期にあたります :confused:
自然現象の中では、今も「雪」は結構な外圧。(東京ではすぐ電車が止まっちゃったりしますね :x )
一方、東北の縄文文化はこのブログでも取り上げられているように、時折すごいっ :m051: :shock: と思わせるものがたくさんありますね。そんな文化の背景である外圧を前回に引続き、環境考古学的視点で迫ってみようと思います :D

:m009: 雪の三内丸山 :m009:
:m118: 当時の人々の意識に迫ろう :m051: :P :m118:
![]()
続きを読む "縄文:東北の華やかさの裏には「豪雪」という外圧があった"
posted by sawatan : 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月25日
太古から希少価値の金
世界で始めて貴金属として扱われ、装飾品に使われてきた金。最古の歴史にあるものでは、古代シュメール人が紀元前6000年頃、すでに金装飾を用いていました。歴史上最も有名だと思われるものは、ツタンカーメンの墓 でしょうが、これは紀元前1300年代に作られたものとされています。
古代エジプトでは昔 から「金は高価で尊いものである」として珍重し、金は神が王に遣わしたものだとして、一般市民が金のかけらを持つことさえ禁じました。国民はたとえわずかでも、全てファラオに差し出すものと決められていたのです。
インカ帝国を支えていたのが、金の採掘ですが、スペインに滅ぼされてしまいました。 スペインは金を奪いつくして去っていき、その莫大過ぎる量(一説に5トンとも)が一気にヨーロッパに流通したおかげで、インフレを引き起こし、スペインの国力を弱めることになってしまいました。
基本的に、金というのはいつでも不足していて、希少性の高い金属です。なにしろ、金の埋蔵量は極端に少なく、1トンの金鉱石から3グラムも取れれば上出来という世界です。そこで、中世ヨーロッパでは他の金属から金を生み出す研究が盛んに行われました。これが有名な錬金術というものです。
残念ながら、金を作り出す事はできませんでしたが、錬金術から生まれたさまざまな技術が、現在の科学の始まりとなっています。
posted by tiwawa : 23:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
縄文の宗教

「自然人は、どこでもアニミズム、つまり超自然的存在、霊的存在への信仰をもっている。」と、言われているように、彼等の一切の行為は、経済的行為にせよ、政治的行為にせよ、芸術的行為にせよ、呪術・宗教的行為との混融を示し、宗教は未開人の生活の根幹をなすとされている。
では、縄文の宗教観はどういったものだったのでしょうか??「縄文文化と現代」に詳しく紹介されていますので、抜粋します :D
posted by dai1028 : 20:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月21日
中国の特有の人間関係 「幇」
>・なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?・・・・・ちょうどるいネットでも紹介されていますが、中国人は血縁の結束力は強いが、他に対しては出し抜くことばかり考えているという。その源流はどこにあるのでしょうか?中国文明のなんで?
こんにちは、Hiroshiです。
中国人の身内での結束力と、身内や親しい人以外に対しての割り切り、非情さ。その性質を巡って中国人に対する評価が、大きく分かれているように思います。
それを解く鍵・キーワードは、「幇」(“パン”または“ほう”)という言葉にあるようです。
★中国社会の構成は極く簡単にまとめると、
縦軸(血縁のつながり)として父系集団としての「宗族」があり。
横軸として仲間や連帯の契りを結んだ「幇」がある。
宗族についてはとりあえず、 「中国社会の基本構造:宗族と祖先崇拝・儒教」を参照してほしい。ここでは、主に「幇」について調べてみたい。
みなさん「幇」ってご存知でしょうか?僕なんかどうも青幇・紅幇なんかの秘密結社?とかを思い出してしまうのですが、どうも中国人至るところ「幇」ありという感じらしい。
たとえば、世界中に進出している華僑。華僑より>
華僑は「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織を作り、相互扶助を行う。
「幇(パン)」には次の2種類ある。・郷幇(きょうばん)……籍貫(しゃくかん)(=出身地)に基づく地縁的集団。会館(同業・同郷・同族者らが集会用に異郷に建てた施設)、義塚または義山(共同墓地)、学校、病院などを建て、相互扶助を行う。 主な郷幇は、福建幇、潮州幇、客家幇、広東幇など。
・業幇(ぎょうばん)……同業者で作る職業的連帯集団。仕事上の便宜を与え合う。
・・・地域生活や仕事の共同組織としてかなり生活に根をおろしている様子がうかがえます。
posted by ihiro : 15:39 | コメント (7) | トラックバック (0)
2007年10月20日
中国文明:中国という国の本質は?
今晩は、さーねです :o 以前、おざわさんが記事をアップされていた中国の夏王朝はあったのか?その投稿に、tanoさんがコメントされていた一文です。
それにしてもこれまで中国は周から始まったといい続けられてきたのはなぜでしょう?単に遺跡が発掘されなかっただけでしょうか?中華思想にとって周以前の歴史事実は不要である。伝説にしてしまえ。そんな国家側の意図があったようにも思います。
夏王朝が伝説にされたり、商王朝が極めて卑劣残虐な王朝と伝えられるのは僕は事実を歪曲して伝える中国の体質があるように思うのですが考えすぎでしょうか?
このブログで中国文明の勉強を始めて感じることですが、歴史事実をなかなか見極められないのが僕の実感です :confused:
今日は、東アジア考古学の研究者である京都大学 岡村秀典氏の著書「夏王朝 中国文明の原像」より、氏の問題意識を紹介し、中国の本質とは?その一助になればと思います :o
この本、ブログでも結構評判良いようです :m027: :D
:m118: みんなで事実を追求するために :m051: 応援を :m118:
![]()
posted by sawatan : 22:18 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年10月16日
単位集団って何?
縄文時代は、共同体社会だといわれます。
そこでの集団と社会の関係は、どのようになっていたのでしょう?
今回は、集団のあり方を、鷲田豊明氏の「環境と社会経済システム」リンクを参照して明らかにしたいと思います。
《引用開始》
日本考古学は,これら原始社会全体をとおして,さまざまな規模の集団が相対的に小規模で画一性のみられる単位集団によって構成される傾向のあることを明らかにした。
それはおよそ20人から30人,あるいはそれを大きくはずれない程度の構成人員からなる集団である。
したがってそれは,両親と子供あるいはその近親者からなるまとまりとして家族を想定すれば,数家族からなる集団といってもよいだろう。
集落という,住居の空間的集住が認められる場合,もしそれが小集落であるならば一つの単位集団からなり,より大きな集落の場合はこのような単位集団が複数集まることによって構成される傾向が存在するのである。
このような単位集団の確実性は,より新しい時代ほど高まるようだ。
そして,原始社会において,この単位集団を認識することは,集団構造を把握するうえで特別な意義をもっている。
もっと大きな集団もあったのでは?
と思った方は、ポチット押してお先にどうぞ :roll:
posted by naoto : 22:10 | コメント (0) | トラックバック (1)
2007年10月15日
マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか?その2
こんにちわ :D
今回は
マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか?」シリーズ第2段を投稿したいと思います :nihi:

(出典:ブログ el viaje del mundo)
しかし、さすがに「謎の文明」と言われるだけあって、統一王朝が出現しなかった理由も正直定かではありません :m002: 。
今回は、定かではないなりにも、今まで言われてきた説をまとめつつ考えられる説をあげていきたいと思います :shock:
今回もポチットお願いします :m149: :m149: :m149: :m146:
続きを読む "マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか?その2"
posted by bunbun : 10:00 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年10月12日
『日本人』と『大麻』の関係
今日は『日本人』と『大麻』の関係について紹介します。

【↑これが大麻の葉です】
『大麻』と言えば現在の日本では「大麻取締法」なんてものもあって、(免許がな限り)所持することも栽培することもできず、もし所持及び栽培していることが見つかれば、殺人罪に匹敵するような重い罰を与えられるので、ある意味非常に危険な物質(植物)と思っている方も多くいらっしゃるのでないでしょうか? :m252:
でもです。日本において<strong>『大麻』はかなり古くから人々の日常生活に密接に関わっている非常に重要な植物だったんですよ! :shock:
“かなり古く”っていつからって?
それは縄文時代からなんです!
今日はそのあたりがわかり易くまとめてくれるサイトがありましたのでご紹介します。(当ブログでは部分的な紹介に留めますので、より興味のある方は是非 【麻も実食品】を訪れてください。
posted by mrran : 19:02 | コメント (5) | トラックバック (0)
2007年10月11日
旧石器&縄文:世界最古の土器出現の謎~環境考古学の視点
今晩は、さーねです :o 今日は環境考古学の視点から、土器出現の謎に迫りたいと思います。この環境考古学は、当時の自然外圧状況を把握し、出土物含めて、当時の人々の生活様式を解明しようとするものです。自然外圧を把握するという点では、なかなか優れた学問ではないか…ということで、最近このような本を読んでおります :m061:

土器の必要性は、このブログでも投稿されていますが、その必要に迫られた状況=自然外圧は実は明確になっていません。今日はそこを環境考古学を通して鮮明にできたらと思います :tikara: :P
数十万年にわたって石器のみの文化の中にあった人々が、突然、粘土をこね、焼成して土器をつくりはじめる。それは人類の文化史の中では、極めて画期的な出来事であった。
確かに、そうなんですよね。これは、画期的であったはず :m051: :P
:m118: :m118: いつもの通り、応援よろしくお願いします :m118: :m118:
![]()
続きを読む "旧石器&縄文:世界最古の土器出現の謎~環境考古学の視点"
posted by sawatan : 21:22 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年10月10日
胡椒をめぐる争い(=大航海時代の始まり)
10/9のみつこさんの記事で胡椒がヨーロッパでと~っても :m034: 貴重品 :m034: だったことがわかりましたね :m001:
では、今日はその「胡椒」をめぐる覇権争い :m240: について調べてみたいと思います。
たかが胡椒 :roll: されど胡椒 :shock:
すさまじい覇権争いが繰り広げられてます :m109:

posted by pingu : 15:41 | コメント (1) | トラックバック (1)
2007年10月09日
胡椒が高価だったのは。。。
こんばんは~ :m017: 、みつこ :D です。
突然ですが、今日は大航海時代の胡椒について。
当時のヨーロッパでは、
「胡椒一粒 :m095: は黄金一粒 :m261: 」と言われたくらい、胡椒はとーっても高価だったんです。
なんと :shock: !!喜望峰を見つけたバスコ・ダ・ガマが持ち帰った胡椒は、仕入れ値の60倍で売れたそうです。
すっごーい :love:
一般的には肉 :m177: の保存、ニオイ消しに使うため必要だった、、、って説明を聞くのですが、でもでも、果たしてそれだけなのでしょうか?
だって、保存するためなら、古くからヨーロッパで栽培されている『にんにく』 :m146: でいいじゃん!!わざわざ高価な胡椒でなくったっていいじゃん!!
うーん、なんでだろう?
なので、ちょいと調べてみました。 :m174:
そうやなー。そのために、命かけてまで大海原 :m180: :m008: に出かけてゆくかー :m096: :m050:
そう思ってくれた方、応援してから続きを読んでくださーい :m072: お願いします♪
ありがとうございます :m022:
posted by mituko : 22:52 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年10月08日
東アジアの基層にある二重構造 ~中華と辺境の民族~
東アジアには2種類の基層文明があるように思う。
遊牧・掠奪闘争の流れを汲む黄河文明と、原始文明の流れを汲む長江文明の二つ。それぞれ、牧畜・畑作文明と稲作文明とも言われる。
黄河文明は、西北に広がる中央ユーラシアの草原地帯を通して、西アジアに連なる文明であり、メソポタミアやヨーロッパに近い性質を持っている。それに対して、長江文明は、中国の南方に連なる東南アジアの稲作地帯に連なり、海上を通して日本に通じていた。
![]()
中国まるごと百科事典よりお借りしました
続きを読む "東アジアの基層にある二重構造 ~中華と辺境の民族~"
posted by ihiro : 20:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月07日
中国戦国:斉の首都 臨淄①~市場の起点:遊楽用の離宮の様子
臨淄の人口は、約五,六十万人をかぞえていたわけで、これは、古代においては驚くべき巨大都市である。この臨淄の市民には富裕なものが多く、町は市場を中心にして娯楽、演芸が盛んで、音楽・闘鶏・ドッグレース・博打・蹴球・曲芸その他あらゆる種類の娯楽が盛行していた。大道には車がぎっしり詰まって停滞しており、街路は遊行の人々が互いに肩と肩とが触れ合うばかりであった。そして、このような臨淄のにぎわいに匹敵するような都市が何ヶ所かあったというから、戦国時代の中国における都市の繁栄は驚くべきものである。(古代中国 講談社学術文庫より)
今晩は、さーねです :o 今日は中国:戦国時代の都市:斉(セイ)を通じて、さらに市場の様子に迫りたいと思います。日本は縄文晩期~弥生前期にさしかかったところ…そういう意味で、筆者同様僕自身も驚きでした :shock:

斉の首都 臨淄:実は河と海に近い…海上交易品も市場に流通したかも :m052:
今日も応援よろしくお願いします :m051: :m118: :m118:
![]()
続きを読む "中国戦国:斉の首都 臨淄①~市場の起点:遊楽用の離宮の様子"
posted by sawatan : 14:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月06日
長江文明が日本に伝えたもの
こんばんは、中国文明からetoです。
以前の投稿で、 「長江文明の担い手『苗族』が日本に渡来し、稲作文化を伝えた」と紹介しましたが、
稲作以外にも長江文明に起源をもつものが多くあるようです。
いったい何が伝わったのか、どのような共通点があるのか、紹介します。
● 『ブナ林と古代史』では、稲作と鳥と太陽信仰と山岳信仰が長江からやってきたと述べています。
・太陽信仰と鳥信仰は日本の神話でも見られる。
皇室の祖神である天照大神は日の神、即ち太陽神そのものであった。
神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る路を先導したのが天から下された「八咫(やたがらす)」という大烏であった。更に伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」は日の出を告げる神の使いとして大切にされている。
・苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主な蛋白源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行なわれている。
●次に、 (リンク)では、神社信仰の起源を中心に、日本文化の基層はアジア南方の照葉樹林文化にあると述べています。
・神社に特有とされる高床式建物、千木・鰹木は、広くアジアに目を向けると揚子江流域の江南地方およびタイ、ミャンマーなどの東南アジア山岳部に住む少数民族社会にその原型と考えられるものが現存する。
雲南省は苗族村の高床式建物です。
・鳥居と形態の似たものは雲南省や東南アジア北部の山岳地帯の少数民族の集落などに見られ、左右二本の柱の上に木を横に渡し注連縄が飾られるという。ただ、これらの地域では鳥居は「社(やしろ)の門」ではなく「共同体の門(ロコーン)」である点が日本の鳥居と異なる。
・いれずみと断髪、歌垣、アニミズム、山岳信仰、赤米と穀霊信仰、そして農具や木・竹・わらの道具、下駄、草履などの日本人になじみのあるものも共通して見られる。
・ワラビ、クズの根、カシ、トチなどの堅果を水に晒してあく抜きする技法、養蚕から絹を加工する技法、ウルシの樹液から漆器をつくる技法、柑橘類の栽培と利用、麹を用いた酒の醸造などが挙げられる。
・納豆の製造もこの地域が起源であって、粘つく納豆は日本独特だが、京都に伝承される大徳寺納豆、愛知県豊橋市に伝承される浜納豆などの乾燥納豆は雲南地方にも見られる。
・焼畑の開始期に行われる儀礼的狩猟や、その収獲期に行われる八月十五夜の祭り、そして鵜飼いの風習など文化人類学、民俗学的観点から興味深い習俗、儀礼もこの地帯に広くみられる。
・以上述べたことをまとめると、少なくとも神社信仰の基層は中国江南地方を中心にアジア南方に広がる照葉樹林文化の一要素であって、古い時代に稲作などとともに複合文化として日本列島に渡来したと考えるのが自然であることがわかるだろう。
※こうして見ると、随分と色んなものが伝わっていることが分かります。
調べると、もっとありそうですね。鵜飼いや納豆もとは、、、!
アジア南方の照葉樹林文化が長江文明を担った民によって伝来されたのでしょう。
このように風習や習俗が伝承されたとなると、気になるのは、その思想的背景も一緒に伝わったのではないか、という点。つまり同じ長江流域の母系共同社会で生まれた道教(民俗信仰)ですね。
この点はまた次の機会に追求していきたいと思います。
posted by nishipa : 22:46 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年10月05日
縄文時代研究史(2)
◆昭和20、30年代~14C年代測定法の登場による縄文移行期の決着へ
昭和21年、相沢忠洋による岩宿遺跡の発見や、昭和25年の神奈川県夏島貝塚の発掘などは、静岡県登呂遺跡と並んで、戦後の考古学研究に大きな促進剤となった。
昭和31年に、新潟県本ノ木遺跡の発掘で、尖頭器(石槍)と一緒に縄文土器が見つかったことにより、石器時代から縄文土器への移行が問題となった。山内清男は「両者は同時期のもの。これまで知られなかった縄文文化だ」と主張、芹沢長介は「両者は共存しない。旧石器時代の遺跡に土器が混入しただけだ」だと対立。
35年には、福井洞窟で細石刃が発見され、土器と石器の共存説が有力になったが、30年代後半には、さらに古い「隆起線文土器」の存在が明らかにされている。
これと並行して、縄文土器の型式学的研究が山内を補強する方向で積極的に深められ、隆起線文→瓜形文→押圧縄文→撚糸文へという「土器の序列」がとりあえず明らかになった。
詳しくは当ブログの「縄文土器体系化の祖、山内先生のお話」を参照下さい!
posted by simasan : 21:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
縄文時代研究史(1)
◆江戸時代までの縄文研究~神話的解釈から事実解明への転換期
奈良時代の『常陸風土記』には、大串貝塚が巨人に食された、とか、『続日本後紀』(839年)には「出羽国田川郡の西浜に石鏃が天から降ったがこれは神戦のためであろうから、それを鎮めるために当時の東北地方の重鎮、大物忌神社の神階正五位下を従四位下に特進させた」という記述があったり、研究と言うより、神話に近い話が多かったのである。
江戸時代になると、津軽藩は青森県亀ヶ岡式土器の出土を記し、菅江真澄は東北の亀ヶ岡、三内土器を区別して記述。また、田邨省三は、石器と土器との関連、集落地の立地などに言及。
既にこの時代、三内丸山に遺跡があることや、、縄文文化が東北地方にあったことは知られていたのである。
posted by simasan : 21:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月04日
ミトコンドリアDNAからみた日本人の成立《紹介》
今回は、予告通りDNAからアイヌにせまってみたいと思います。
少し長くなりますが、宝来聰さんの論文を紹介します。
「ミトコンドリアDNAからみた日本人の成立」
宝来聰(国立遺伝学研究所)
<琉球大学医学部公開講座講演要旨、1997年3月> リンク
《引用・抜粋》
【緒言】
現在の日本列島に住むわれわれ日本人は、いつ何処からやってきたのか。
われわれ日本人はどのようにして形成されたのであろうか。
日本人の起源をめぐる研究とその論争には長い歴史があり、いくつかの仮説が提唱されたが、現在では大きく3つの仮説に分類できる。
すなわち、混血説・転換説J置換説である。
本研究では、東アジアの5人類集団のミトコンドリアDNAの塩基配列の決定と分析により、これらの仮説を検証した。
【方法】
日本の三集団(本土日本人62人、アイヌ51人、沖縄の人々50人)と韓国人64人、中国人66人のサンプルを得、ミトコンドリアDNAのなかでもさらに超可変部位として知られているDループ領域の482塩基の配列を決定した。
東アジアからサンプリングした合計293人の塩基配列の分析が可能となったのである。
早く結果を見たいと思った方はポチっとお願いします :roll:
続きを読む "ミトコンドリアDNAからみた日本人の成立《紹介》"
posted by naoto : 12:35 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年10月03日
学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(後半)
千田先生の論文の続きです。縄文社会の自然との関わりを現代と比較して書いています。
>「こうした脈絡で、自然の中で生活していた縄文社会が注目されるのである。確かにドイツ歴史学派やアダム・スミスなどは、こういう歴史の起点を「未開状態」とした。例えば、スミスは、「分業がなく、交換がまれにしかおこなわれず、各人がすべてのものを自分で調達するという、社会の未開状態」とみた。だが、決してこの時代は未開などではなく、見事な自然調和文化が花開いていたのである。欲望が社会の掟、文化によって規制され、日常生活に必要なものが生産され、交換されていたのであった。
もちろん、自然の中で生きるということは、自然環境に生活を大きく影響されることである。
>縄文社会は絶えず食糧危機に直面し、不安に満ち満ちた社会であった。生易しい自然調和などではなかった。自然と調和するとは、人間が自らも自然の一部として、厳しい自然の法則に敬意をはらうということなのである。それは、数十万年の後に、ようやく人類が手にした「脅威ある自然との折り合いのついた」生活であった。
>そして、こうした自然の脅威にさらされている点では、縄文時代も現代も同じである。よく現代日本社会には「安全神話」が崩壊したか否かなどが議論されるが、宇宙的・地球的視野からみれば、我々は依然として自然の厳しい脅威にさらされているのである。貧富差緩和と治安強化で「安心」は維持されても、自然の脅威を克服できる社会はとうてい実現維持などできないのである。
縄文時代を自然と折り合いが付いた(完成された)文化であると著者は語っています。さらに自然を克服できる社会は未来永劫できない。人間の傲慢であると。
現代にあっても自然の脅威は決して減っていません。現代人でも大きな地震や台風の時にさらされる感覚です。大きく見れば温暖化であってもその原因の一部を人類が作ったか否かすら判っておらず、自然の脅威の一つに変わりはないのです。
続きを読む "学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(後半)"
posted by tano : 23:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(前半)
縄文時代の研究家に千田稔氏という著名な学者がいます。今回はその方の論文を取り上げて「今、なぜ縄文が取り上げられてきているのか」そして「どうする?日本!」に迫ってみたいと思います。
物質文明の現代に異を唱え、縄文時代にその答えを見出そうとする研究スタンスには我々が立ち上げて勉強している縄文―古代ブログに相通じるものがあり、共感を覚えます。著者の研究から私たちが追求しているテーマとの共通点と相違点を抽出してみました。
著者の論文「縄文文化と現代」の中から著者の論説の中心となる部分をピックアップしながら感想を入れていきます。
>自然破壊の深刻化するなか、我々はどういう時代に生きているのか、何をなすべきか、これを知ることは国民的な課題にもなっていると言ってよい。これには、前近代社会を「学問」的にとらえることが必要となろう。そのためには、具体的には、もはやマルクス経済学とか近代経済学ではなく、「新しい経済学」に依拠して、近現代と先史時代の比較検討を経済に限らず総体的に学問的に行うこと、これが重要になってくるのである。
・・・なるほど、書き出しがいいですね。
続きを読む "学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(前半)"
posted by tano : 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月02日
沖縄の本源性の理由を探る~古琉球前夜の概況から
こんにちは。最近は、ちょくちょく、琉球の歴史のHPを見たりしていますが、「ニライカナイ」という言葉によく出くわします。確かに以前から、沖縄ソングの題名等にもなっていたりして、耳にのこってはいたのですが、あらためて意味を調べてみました。
万物の源・ニライカナイ
ニライカナイとは、神の住む海上はるかな遠い国であり、そこはあらゆる富、豊穣、生命の根源があるとされている。そして沖縄の伝統的村落には、ニライカナイから1年に1度神が訪れてきて、人々に祝福を与えて再び帰っていくという信仰があり、現在でも、その神々の来訪を演じる儀礼が、あちらこちらの祭りの中に残っている。
沖縄の穀物起源神話のなかのひとつに、次のようなものがある。
「海上はるか遠いニライカナイから、沖縄南部の東方海上に浮かぶ久高島に、麦、粟など五穀の種子が入った瓶が流れついた。しかし、その中には稲の種子は入っていなかったので、アマミキヨが天に祈り、鷲にニライカナイから稲の種子をとってくるように命じると、鷲は長い期間かかって3つの稲穂を口にくわえてきた。アマミキヨはそれをウキンジュ・ハインジュ(受け水・走り水)というところに播いた」
http://www.wonder-okinawa.jp/022/study/022_j46.html
理想郷のことを意味しているたんですね。
で、紹介されているように、沖縄の穀物起源神話の中に出てくる、「アマミキヨ」という神様が、ニライカナイからやってきて沖縄に穀物を伝えたという言い伝えがあるようだ。

<「アマミキヨ」が降り立った岬との伝説が残るハビャーン岬>
http://namoma.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_e8d8.html
では、この「アマミキヨ」という神様がやってきて、稲作を伝えたのは、一体いつの時代なんでしょうか。
↓続きはポチットの後で。よろしくです!!
続きを読む "沖縄の本源性の理由を探る~古琉球前夜の概況から"
posted by yuyu : 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月01日
改めて「縄文ブログ」の探求テーマを挙げてみました
○「今年の「縄文ー古代ブログ」を振り返って」、を参考に、現在までの「縄文ブログ」でまだ探求しきれていない、あるいはまだまだ疑問が多い項目を挙げて見ました。
1 集団や集落の統合の体制・様式は?
婚姻様式は?
家族形態は?(一単位の集団規模はどのくらい?)
祭りはどんなことをしていた?
文字はほんとに無かった?
2 他集団との関係は?
略奪や戦争が既にあったのか?
奴婢・奴隷の存在は?
黒曜石やヒスイの行き来は贈与か交換か?
3 生産手段は?
稲作はいつごろから?どんな方法で?
栽培生産はどこまで行われていた?
鯨などの大きな獲物はどうやって捕獲した?
4 生活は?
食料・食事はどんなものを採取していた?
装身具は何のため?
「石棒」は何のために使った?
犬や牛や猫を飼っていた?
posted by ryujin : 20:34 | コメント (0) | トラックバック (0)