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2007年12月31日
縄文ー古代ブログの3年目の探求に向けて
こんばんは。 :D 管理人のtanoです。2007年も最後の日になりました。
縄文―古代ブログも早いもので開設してから1年と3ヶ月が経ちました。その間の記事数は既に397回、ほぼ毎日の投稿を実践してきました。非常に更新数の多いこのブログですが、その秘訣は複数名の持ち回りで記事を書いているという事なんです。
そこで今年最後の縄文―古代ブログの記事は少しその裏話(記事の製作現場)を紹介したいと思います。
この縄文と古代文明を探求しよう!というブログは当初るいネットの衛星ブログとしてるいネットへたくさん投稿している人たちを集めて結成されました。その時に25人の主幹メンバーが構成されています。
るいネットとは何?って事ですが、
旧い私権という秩序がガタガタになった現在、社会を統合する為の新しい秩序が求められています。るいネットはその為に必要な認識を求めて集まっているネット上の認識形成の場です。(詳しくはるいネットTOPページ、るいネットの趣旨をご覧下さい。)
その上でなぜ、縄文時代や古代文明を追求するのかという事になるのですが、現在の閉塞している社会がこの3000年間でできた私権社会の結果であるとしたら、その根本原因が私権社会の成立構造にあるのではないか、であるとしたら私権社会に移行する前の社会を解明する事が次の新しい社会を作るヒントになるのではないか?このような問題意識があります。
今年は応援どうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
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posted by tano : 18:51 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月30日
人はなぜ戦うのか
画像の確認
いよいよ今年もあとわずか!皆さんいかがお過ごしでしょうか?
今日は「人はなぜ戦うのか」日本考古学者・松木武彦さんの本から内容を抜粋して紹介します :D
精神学的・考古学的観点からの分析の対比等、面白い内容になっているんで是非読んで下さい :wink:
posted by dai1028 : 12:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月29日
やはり勾玉は胎児!
mrranです。
まずはこれ↓読んでください。
>厳しい自然外圧に晒されていた彼らにとって、集団の存続=種の存続が第一。出産や医療の技術もほとんど無に近い状態で、子孫を残すこと自体、大変であったと思います。だからこそ、子を想う気持ちも一段と強かったのでしょうなんで子を大切にしたか?
>生まれた子どもが元気に健全に育ってほしいという願い、産んだ女性が健全であってほしいという願い、そして子どもが生まれたことを皆で祝い、女性をねぎらう状況がうかがえます。
>未だ飢えと隣り合わせの縄文人にとって、集団規模を維持することすら大変なことだったはずで、子どもが生まれなかったり、育たなかったりすることは集団にとっての死活問題です。だから集団の維持は最上位の課題だったはずです。 縄文人、再生への祈り
縄文人の子を思う気持ちがひしひしと伝わってきますね。 :cry:
そこで勾玉。勾玉は腎臓、三日月信仰からくる三日月説、説胎児をかたどった胎児説等様々な解釈が存在しますが、私は縄文人の子を思う気持ちの強さから胎児説が有力であると考えています。 :m044:
posted by mrran : 20:09 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月28日
三内丸山は語る(2)
前回記事に続き三内丸山は語る~久慈 力氏の著書からの紹介です。
その前に当ブログでこれまで扱ってた三内丸山の記事を紹介します。
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた
巨大噴火がひき起こした円筒土器文化
三内丸山のピーク時の人口は一般に500人程度、未発掘地域も含めれば1000人とみられているが、久慈氏はこの数字を多すぎると見ている。住居跡は各年代によって建て替えられ、重層的に利用したと考えられ、極端には一時期の人口が50人に過ぎなかったと見る人もいるが、せいぜい、多く見積もっても200人から300人程度ではないかと思われる。1000人以上になると確固とした農耕社会のようなものが形成され、プレ国家のような組織がないと継続しないが三内丸山には明確な農耕もなければ当然国家と呼べる組織もない。
縄文集落では200人という規模ですら他に例がない。ましてや500人や1000人という規模は単にセンセーショナルな情報で先進性と巨大さを強調しすぎているきらいがある。
縄文時代の生活領域は単一集落で普通、数キロの範囲に及ぶ。三内丸山の生活領域はそれよりはもっと広い範囲を生活領域としていたと考えられ、概ね10キロ程度が生活圏ではなかったかと推察されている。
三内丸山全景
posted by tano : 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月27日
三内丸山は語る(1)
三内丸山は何が解明されてきたか?
このブログで何度か断片的に取り上げられてきましたが、意外と知ってるようで知ってない。
良質で最大の考古学資料である三内丸山について少し腰を落ち着けて記事を書いてみたいと思います。三内丸山研究の第一人者である久慈 力氏が各学者の三内丸山評を総括して1冊の本にしていましたので、2000年出版の本ですが、そこから抜粋して三内丸山についての現在明らかになっている基礎的情報、そこから推測されている縄文社会について何回かに分けて掲載してみます。

三内丸山の存在した年代
現在、三内丸山の存在した年代として国立歴史民族博物館の辻誠一郎助教授は2度ほど修正をしている。
5100年前~3900年前の1200年間(98年3月)
5800年前~4100年前の1700年間(99年3月)
現在まだ発掘中であり、その年代がさらに早まる可能性はあるが、2007年の現時点では99年に発表された年代が最も最新の情報である。
その頃の外圧状況を見てみよう
三内丸山分化が始まったとされる5500年前は、縄文前期の中ごろにあたり、終焉されたとされる4000年前頃は縄文中期の中頃にあたる。つまり、縄文文化の成熟期に三内丸山文化は花開き、実を結んだのである。この時期は平均気温が2度も高く、海水面が現在より5mから6mほども高い。いわゆる縄文海進の最盛期にあたるとされる。
中でも5500年前は最も気温が最も上昇し、落葉広葉樹が繁殖し、陸奥湾が内陸まで侵入してきた時期である。山の幸、海の幸に恵まれた理想的な自然条件であった。現在はJR青森駅から4キロ内陸に入った三内丸山の地もこの頃は海岸線が集落から数百メートルの位置にあり、暖流と還流が交わる魚貝の宝庫に近接していた。また陸と海の間には海水と淡水が混じるラグーン(潟湖)があり、集落のすぐそばを沖館川が流れ、八甲田山系の森林の栄養分を運んでくる。
魚貝は豊富で、さば、ぶり、まだい、こち、さけ、にしん、いわし、アジなどの他くじら、いるか、オットセイなどの海獣類も捕っていた。カニやウニもとれる。植物系の食料はミズナラ、コナラ、クリの混交林が広がり、クルミ、トチ、クリなどの木の実、ニワトコ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマグワなどの実、ヤマノイモ、クズ、ユリなどの根菜類がとれ、ヒエやクリの栽培もしていた。
イノシシ、シカなどの大型獣は少ないが、ウサギやムササビなどの小型の動物が捕れた。ガン、カモ、ハクチョウなども捕獲されている。動物性食料は豊かであったが、全体として植物性食料に依存していたと推察されているが、食糧事情は総じてかなり豊かであったことが想像できる。
posted by tano : 18:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月26日
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
前回、 「弓矢の発明前夜、日本の黒曜石が大陸に運ばれた理由!」では、黒曜石によって縄文集団の生活が劇的に変化した、ことを書きましたが、では、黒曜石が産地から何百キロも離れたところで多く見つかっているのは、何故か?多くの考古学者は当時既に交易があったと述べていますが、本当に物流のネットワークが存在したのか?
るいネット「黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②」では、以下のような見方が提起されています。
>結論から言えば私は「贈与」によるものであると思う。
何故なら、まずこれだけの広域かつ多方面の広がりからみて、交易である事は考えにくい。何故ならば上記の物品(原石)が採掘できる場所は限られており、かつ仮に交易であれば、一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずである。つまりこれだけの広域の広がりを説明できない。
逆に贈与であれば、潜在的な緊張関係のもとでかつ友好の意思を多方面に示す必要性が高く、広域に渡ることが説明がつきやすい。
●日本の代表的な黒曜石の産地

http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/kokuyose.htmlより引用
今回は、黒曜石の産地と広がりについて紹介し、それは贈与か交易か?を探ってみたいと思います。
この先、知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします!
posted by simasan : 20:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月25日
縄文人、再生への祈り
:D くまなです
前回の生きとし生けるものは循環している、という縄文人の世界観」で案山子さんから
「僕は縄文人やアイヌの人たちが生死を自然の摂理から学んで人は死んでもまた生まれてくると考えたのは微妙だなと思います。自然の摂理からいけば死ねば土に戻るわけで、土から生まれてくるのは植物でしかないからです。自然の摂理における生命の循環の発想とは食物連鎖であり、決して生まれ変わることではありません。」という意見を頂きました。
仏教でいう“循環”と縄文人の世界観は違うと思いますので、言葉としては循環ではなく“再生”の方がふさわしいかもしれません。それを今後、検証していきたいと思っています。
自然の摂理に対する意識のありようは、生死にどう接したかによく表れると思います。そこで、まずは縄文人の埋葬のやりかたから、縄文人の死生観に迫っていきたいと思います。
と思っていたら、さーねさんが、縄文:なんで子を大切にしたか?で、縄文における子どもの埋葬について記事をアップしてくれました。そこで、少し調べてみると、その中で語られている「胞衣(えな)」の埋蔵は、戦後まで縄文と同じように行われていたということがわかりました。※えな:胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜など
胞衣(えな)信仰は、縄文と現代を繋ぐ習俗として、縄文の精神性を掴む糸口になるのではないかと思います。
posted by kumana : 23:58 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年12月24日
交易文明トランス・エラムの商人がインダス文明を形成
古代メソポタミアで重宝された石にラピスラズリという石があります。瑠璃色のきれいな石ですが、この石を原産地のアフガニスタン北東部から、メソポタミアに運ぶ道が「ラピスラズリの道」と呼ばれています。その道は、ラピスラズリだけではなく、金・銀といった貴金属が運ばれたようです。

ラピスラズリの道 ヘラート/アフガニスタン ラピスラズリ(瑠璃)の原石
写真は(ラピスラズリ「天空の破片」より)
この道は、トランス・エラム文明と呼ばれる商人都市の交易ネットワークであり、このネットワークに連なる形でインダス文明や、海上ルート上にペルシャ湾岸の古代交易都市が開発されていったようです。
続きを読む "交易文明トランス・エラムの商人がインダス文明を形成"
posted by ihiro : 23:29 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年12月23日
アステカの農業
アステカ文明では、よく生贄や戦争がクローズアップされます。このブログでも結構取り上げていますよね。そして最近では、戦争の起源なんかも、議論されました。物の本によれば、戦争の起源を農耕の発生に求める記述も多いように感じます。農耕が始まると、農産物の蓄積ができ、富の蓄積が戦争の原因になるという感じです。聞き流してしまえばそれほど疑問を感じないんですが、ちょっと立ち止まって考えると、なんとなくしっくりこないんですよね。
食物の蓄積ができるってことは「豊か」になってきたってことですよね。豊かさが戦争の引き金なのか、はたまた足りないことが戦いのきっかけなのか・・・・
そこで、まず手始めに、アステカの農業に着目して見ようと思います。とうもろこし、サツマイモ、じゃがいも、トマト、唐辛子など代表的な食物の発祥地はなんと中南米・・・アステカの人たちは、なにをどう作り、どんな食生活をしていたのかから紐解いていくことにします。
posted by hiroshi : 22:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月21日
縄文:なんで子を大切にしたか?
縄文人は子供が亡くなった時 :cry: 大人とは別に、住居の近くなどに埋甕したそうです :confused:

逆位底部穿孔埋甕(うめかん)
住居の入口に逆さに埋められていた埋甕。不思議な文様がほどこされ、底には植木鉢のような穴が開けられている。内部から人骨は発見されなかったが、ミニチュア土器や土製円盤が発見されたものもあることから、赤ん坊の遺体を入れたという仮説が有力である。⇒出典
子を大事にした縄文人の想いが伝わってくる…子供への虐待や子育て放棄が横行する現代社会にとって、学ぶべき認識だと感じました。ぜひ読んでみてください :m051: :o
byさーね
posted by sawatan : 19:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年12月20日
「奥深き縄文ワールド」第3弾
縄文ワールド第3弾です
今回も縄文アートの奥深さを堪能下さい

「動物土偶①」
posted by ryujin : 23:45 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年12月18日
山菜と日本人
こんばんは~ :m017: みつこ :D です。
さて、早速ですが、、、みなさん :m001:
これ :m118: なんだかわかりますか~?

はい、そのとおり、”つくし”です :nihi:
今日は日本の野菜の元祖?! :m146: 山菜 :m147: について調べてみましたので、報告しまーす!
ところでみなさん、山菜っていくつ名前を挙げられますか?
みつこは、つくし、ぜんまい、みつば、ふきのとう、、、これくらいしか知りませんでした :m081:
山菜っていろーんな種類があるんですよ!今だって里山には生えてたりします :m072:
さて、クイズ。次の写真の山菜はなんでしょう~???

答えは、ポチっと応援の後で :m103:
ありがとうございます :m022:
posted by mituko : 23:27 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年12月16日
中国文明:戦国時代への起点=西周王朝の衰退過程
以前、etoさんが投稿された「中国文明のなんで?」の疑問。
”戦国時代、一度に大量の学者(諸子百家)が発生したのはなんで?”
恐らく、戦国時代に突入したことが、彼らに活躍する場を与えたという直感があるのですが、
では、戦国時代に突入したのはなんで?
調べてみると、どうも西周王朝の衰退にその起点がありそうです。「古代中国 貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫」の中で、こう述べられています。
「この新しい動きは春秋時代にわたって徐々に進行し、時代を転換させるのであり…」
byさーね :o

西周王朝時代の中国地図…実は、これだけ国があるんですよね。
しかも、戦国時代には実は200も国があった :shock:
続きを読む "中国文明:戦国時代への起点=西周王朝の衰退過程"
posted by sawatan : 13:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月15日
中国への仏教の普及
シルクロードから中国に伝わったものに「仏教」があります。
今回は、中国への仏教の普及を調べてみました。
yokoyamaさんのホームページ 世界史ノート 六朝時代の文化から、紹介(引用一部省略)します。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/53-china13.html
:roll: 中国にはいつごろ「仏教」が普及したのだろう?
魏・晋・南北朝時代に、中国において仏教が社会一般に普及しました。仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされてきましたが、最近は「紀元前2年に長安の前漢の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節がやってきて、仏陀の教えについて語った。」という記録から、年表等にも前2年と書かれています。いずれにしても紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよさそうです。
しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われたか、シルク・ロードを通ってやってきた西域の人々に信仰されていたにすぎなかったはずです。
後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦乱が続くどうしようもない状況のなかで人々は否応なしに死について考え、救いを求めました。こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まっていきました。
posted by norio : 21:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月13日
礼文島の民は三内丸山から流れてきた!?
縄文時代に市場取引はなかった。これは正しいと思う。
しかし一方で三内丸山にあるように多くの物資の移動は行われてた。
また、3500年前の礼文島では船舶遺跡と呼ばれるようにヒスイや琥珀など多くの各地の名産が集まっており、逆に貝のアクセサリーをアスファルトと交換にサハリンを越えて大陸へと運んでいた。
それらの物資の移動を一言で交換市場と対比させて贈与と呼んでいいものだろうか?
以下はるいネットで扱われている市場と贈与の定義である
【市場】交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。
実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。
【贈与】共認原理に基づく友好の証
・他集団との接触によって生じた緊張圧力を相互の贈与によって回避。
・双方とも私有意識・自集団第一の意識は存在せず、友好の証として各々の集団が最も貴重と考える品を交換条件なしに贈与し合う。
礼文島の広域交易を贈与と呼ぶべきなのか市場の萌芽なのか・・・それとも・・・。
今日は縄文時代中期以降に頻繁に移動した物資の流れ=交流とはいったいなんだったのか?について徹底追求してみます。
posted by tano : 22:27 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年12月11日
森の民にとっての精霊
漁撈・採取を生業としてきた縄文人ですが、彼らの活力源でもあった「精霊」とは、どのようなものだったのでしょう?
今回は、ボルネオの先住民を通じて、縄文人の精霊観に迫ってみたいと思います。
森をめぐる直観【参照】
同じボルネオ島の先住民でありながら、焼畑稲作民カリスと狩猟採集民プナンの森に対する態度は、ずいぶんとちがう。
カリス人は、夜と森をひどく畏れている。夜と森には、精霊が跋扈するからである。精霊は、人を、人の魂を魅惑したり、誘拐したり、攻撃することを方向づけられた存在として知られている。魂が精霊との関係の諸相に入ると、人は病気になったり、死んだりするとされる。夜、一人で歩くことができるのは、精霊と戦うことができる「バリアン」と呼ばれるシャーマンくらいのものだと、カリスはよくいう。森のなかを歩いて隣村にいくときには、カリスは、数人で連れ立って歩いてゆくことが多い。森のなかで会った人が無言であることを心配する。無言の人物は、精霊の仮姿であり、出会った人(たち)は、近い将来、厄災をこうむるはずだ。森のなかでは、精霊が跋扈しているので、食べ物を食べないし、食べ物に関わる語彙は、別の言葉に置き換えなければならないとされる。食べ物や飲み物に対する決まった作法を怠ると、魂が精霊に捕らえられて、病気や死に至ると考えられているからである。そのように、カリスの人びとに深く浸透する精霊感覚。その延長線上に、彼らは、人間と自然の関係を、人間と精霊・神の関係へと置き換えて捉えているように思われる。彼らは、自然からの純粋な恵贈(米、森林産物、獲物・・・)を、神や精霊からの贈り物へと置き換えて、観念しようとする。それは、例えば、開墾、火入れ、収穫などの焼畑の作業を開始する前に必ず催される、精霊を呼び出して食べ物と飲み物を捧げる見返りに収穫をもたらすように祈願する儀礼において、顕著に見られる。祖霊や地縛霊などの精霊こそが、収穫と安寧をもたらす存在として観念されるのである。
マオリ人は、「ハウ」という概念を持つことで知られる。それは、「人にだけ憑くのではなく、動物、土地、森、そして村の家にさえ、憑いている。だから森のハウ、生命力、ないし生産性は、それ独特の祭式によって、きわめて慎重に保護されなければならない」とされる。それは、マオリ人が生み出した、自然の恵みの根本原理とでもいうべきものである。モースが、『贈与論』のなかで、マオリ人にとって、贈り物には、贈り手の「ハウ」が憑いていて、つねに、その贈り手に帰りたがると説明していることはよく知られている。ところが、「ハウ」の本来の意味とは、「ハウ」が、マオリ人がつくり出した「概念」であり、そのような概念としての「ハウ」が、人間に与えてくれる贈与というものを想定して、人間が、儀礼などを行って、返礼をするということなのである。
自然からの純粋贈与、自然との交渉を「ハウ」という概念を用いて捉えようとするマオリ人のやり方に照らせば、カリス人は、自然からの純粋贈与、自然との交渉を、人間と精霊との交渉へと置き換えた上で、それを操作しようとしているのだと見ることができるのではないだろうか。そこでは、精霊や神こそが、特大の価値を与えられることになる。
他方で、プナン社会には、上のカリス社会とは、たいへん異なる森への態度が観察される。プナン人は、森を、精霊が跋扈する場として、畏れの対象として知覚するということは、ほとんどない。彼らは、今日に至るまで、狩猟や採集など、森に重度に依存しており、森は恐怖の対象ではなく、むしろ、熱帯の灼熱から離れて、生きるための糧と清涼を提供してくれる、生の場として意識されている。さらに、プナン人は、カリス人のように、人間と自然の関係を、人間と精霊・神との関係を通して理解しようとするようなことはない。精霊や神こそが、人間に恵を与えてくれるというふうには、考えない。かといって、マオリ社会のような、自然の恵の根本原理のようなものを幻想して、それに対して、返礼を行ったり、あるいは、感謝の気持ちを表わしたりするようなこともない。わたしは、プナン人たちが、いったい自然からの恵に対して、どのような意識をもっているのかについて、いろいろと調べてきたが、プナンには、自然の恵に対する明白な意識がないということが、彼らの自然観の大きな特長であるというようなことしか、これまでのところ分からない。森に対して、自然に対して、動物に対して、感謝や祈りを唱えるということは、わたしが知る限り、プナン社会では行われていない。
カリスの人々の精霊は、観念操作のたまものであり、言葉は悪いが、「霊感商法」につながるような感覚があります。
一方の、プナン人の精霊=自然観は、極めて朴訥です。
彼らは、どのように、感謝や祈りを表すのでしょう?
知りたいと思った方は、応援よろしくお願いします :roll:
posted by naoto : 21:18 | コメント (2) | トラックバック (0)
人類にとって戦いとは
戦争の起源がホットなテーマになっていますね。私もちょいと読んだ本を紹介します。
人類にとって戦いとは
1.戦いの進化と国家の生成
編者 福井勝義・春成秀爾 出版:東洋書林
この本が興味深いのは、国立歴史民族博物館が監修して、学際的な探求の成果を本にした点です。つまり、執筆者は、霊長類学、形質人類学、考古学、歴史学、文化人類学の領域にまたがっているのです。二人の編者は前書きで、「これほど学際的な視点から『人類にとって戦いとは』にアプローチした試みは、日本は無論、世界的にも私は知らない。」と自負しています。確かに、観念の世界の探求としてでなく、様々な視点からの事実を持ち寄り、そこから真実を探求しようとする試みは、可能性を感じるものでもあります。
で、結局何が書いてあるのってことですが・・・、皆さんもいろいろと論じているように、戦争が人類の本性のようなものなのか?それとも人類の歴史の中では、農耕などが発達してきたごく最近のできごとなのかという素朴な問題意識を学際的に探求しようというものです。
私としては、「戦争の起源」という議論が、いまだに答えの見つからない難しい問題なんだということ自体が、新鮮でもあります。確かに、自分でもそんなことを本気で考えたことはなかったですね。
まず、読むに当たって、この本では戦争の定義を「異なる政治統合を持つ集団間における組織的武力衝突」といったんは捉えていますが、それを考古学が対称にする遺跡など「もの」から検証していくのはきわめて困難であるとも言っている。様々な分野の事実と知見を集めてどこまで解明できるのでしょうか?
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posted by hiroshi : 16:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月09日
アーサー・フェリルの『戦争の起源』
戦争の話題が続いていますね、私もちょっと調べてみました。
最古の集団的暴力の痕跡は、 1万4000年~1万6000年前のアフリカ・ヌビア地方、ナイル川上流のジェベル・サバハ墓地で見つかった58体中24体の人骨の殺傷痕および凶器としての石器に認められ、これが戦争の起源の一つの定説となっているようです。このジェベル・サバハ墓地の遺跡が戦争起源の定説となったのは、アーサー・フェリルの『戦争の起源』によるようです。
以下、『戦争の起源』より引用して、その根拠について要点を紹介します。
●戦争の定義「組織化された戦争」の最良の定義は、一語で足りる。すなわち陣形がそれである。
兵士たちは陣形を組んで戦場に送り出されるとき、そして指揮官のいない勇士たちの一団としてではなく、司令官ないし指揮官のもとに一体となって行動するとき、「原始的な」戦争から「本当の」、すなわち「組織化された」戦争への境界線を、すでに超えているのである。
原始的な戦争は、待ち伏せ攻撃、宿怨に根ざす争い、偶発的な小戦闘からなる。
●武器技術の発達
武器と戦争には明らかに密接な相互関係がある。
前一万二〇〇〇年から八〇〇〇年にかけての亜旧石器時代および前期新石器時代には、武器技術に革命が起こった。圧倒的に強力な四つの新しい武器が出現したのである。これらの武器は(旧石器時代の槍とならんで)、紀元一〇〇〇年以降に至るまで、最も有力な武器として戦争の帰趨を左右した。すなわち、弓、投石器、短刀および鎚矛がそれである。こうした革命的な新しい武器技術の発達にともなって軍事上の戦術が考え出されるにおよんで、歴史的な尺度から見て初めて本当の意味での戦争が発生したのである。
●戦略と戦術
戦争の歴史のうえではるかに重要なのは、新石器時代のはじめまでに、戦略と戦術が応用されるようになり、計画に従って軍隊が編成されていた証拠があることだ。
新石器時代の遺跡から証明できる限りで最も確実に言えるのは、縦隊、横隊の展開がすでに行なわれていたことである。
以下の絵を、この根拠として説明しています。

なるほど、縦隊や横隊などの陣形を組んだ組織的戦闘であること、高度な武器技術があること、が条件のようですが、
★アフリカの戦争の起源を証明するのに、スペインの絵を持ち出すのはなんで?
★スペインの絵はいつの時代のものかハッキリ書かれていないが、なんで?
★スペインの絵のひとつ(上)は狩に行くときの絵のように思えるが、これが兵士である根拠は?
★もうひとつの絵(下)も著者自身が書いているように、側面攻撃の陣形というより、自然の成りゆきでそうなったようにしか見えない。
あれこれと疑問が沸いてきますが、続いて本題のジェベル・サバハ墓地の遺跡の記述を見てみましょう。
posted by nishipa : 11:58 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年12月08日
戦争の起源、現代人はどう考えているか?
戦争と文明は、いわばセットであるかのような深い関係にあります。
そこで、戦争の起源についてみていこうと思うのですが、
まずは、
「戦争の起源は一般にはどのように考えられているのか?」
ジョン・キーガン氏(イギリス)の『戦争と人間の歴史』における考えを紹介します。
(たぶんこの説あたりが現在の主流の説では?)

60年前、アメリカの原子爆弾を使った広島攻撃
posted by nandeya : 20:31 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年12月06日
「奥深き縄文ワールド」第2弾
さて「縄文ワールド」第2弾です。
今回も縄文アートを堪能してください

今にも動き出しそうなユーモラスな土偶です(「後期」青森」近野遺跡)
先に進む前にクリックを願います
posted by ryujin : 21:04 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年12月05日
マリタ遺跡より極寒地での古代人の暮らしを垣間見る
こんばんは。
前回のエントリー以降、縄文人はじめ、古代人の人々の暮らしやその生活技術等に興味があって、ちょくちょくネット上を探索しているのですが、今回は縄文人のルーツと言われている、シベリアの旧石器人について、その暮らし等を紹介していきたいと思います。
以前、このブログでも、SimasanさんやHiroshiさんのエントリーによって、紹介されていますが、シベリアの旧石器人を参考にする上で、必ず紹介されるのが、マリタ遺跡です。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000242.html
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/11/000386.html#more
今回は、主に、この遺跡を通じてシベリアでの古代人の生活ぶりを紹介させていただきます。
まず、マリタ遺跡は、何時ごろ、がどんなところにあったのか。
>今からおよそ2万5000年前、現在より平均気温が7~8度も低かった最終氷期に、人類は、シベリアに通年使用する「定住」的なムラを築き始めました。シベリアの古都イルクーツク市の北西80kmに世界的に有名なマリタ遺跡があります。2万3000年前のマンモスハンターの遺跡です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/2/2-06.html
2万5000年前なんでんすね。シベリアというだけで寒そうですが、現在よりも平均気温が7~8度も低かったので、相当寒かったのではないかと思います。
ちなみに現在の、現在のイルクーツクの気温は、
>夏期の平均気温は15~20度程度。冬期は-25度前後と大陸性の気候。冬の積雪はそれほど多くはないが、夏は雨も多い。冬は-30度を下回る日も多いので防寒には注意が必要。
http://www.pref.niigata.jp/seisaku/kokusai/yuko/ru_iru/index.html
確かに冬は極寒といってもよさそうですが、実は、シベリアといっても、夏場は、私たちが想像しているよりは、暖かかったようです。
>「大陸性の気候のシベリアは、冬はものすごい寒さですが、夏は実に暖かいのです。今でも内陸の盆地では+40度近くまで気温が上がることがよくあります。氷河期もそれは同じでした。夏は気温が上がり、緑の草木に覆われました。動物の成長に適した豊かな環境だったのです」 実際、氷河期のシベリアには、こうした豊かな環境を示す「オープン・ウッドランド」と呼ばれる地域が、幅広い帯びのように東西に連なっていた。「開けた森」。疎林の間に草原が広がるアフリカのサバンナのような場所だったと考えられている。(「北限の古代史―1」「原人のフロンティア・極寒の地へ進出」)http://kodaisi.gozaru.jp/kitanokodaisiB/kitanokodaisi/manmosunoato/manmosu.html
とはいえ、冬場は、とてつもなく、寒いところに暮らしていたことにはかわりありません。
では、その冬の寒さをしのぐ為に、どのような工夫をしていたのか。
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posted by yuyu : 20:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月04日
銀がヨーロッパの世界制覇をもたらした
――現在の進んだヨーロッパと遅れたアジア・アフリカという近・現代世界史の構造ができあがったのいつ頃のことだろう。
この疑問を解く鍵に『銀』の存在は欠くことは出来ない。

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posted by hi-ro : 22:48 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月03日
西アジアにおける戦争の起源と拡大 ~ 『都市誕生の考古学』より~
くまなさんが世界の戦争の起源を詳しく調べていましたが、
世界の戦争起源(戦争の考古学より)
その中でも、最も古そうで遺跡も多い西アジア地域について、さらに調べてみました。『都市誕生の考古学』では特に以下の考古学的証拠から、戦争の跡を探っています。
①-守りの村=防禦集落(高地集落、環濠集落、防壁、壕、防禦柵など)
②-武器
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posted by ihiro : 12:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月02日
中国:戦争の起源~環濠集落・囲壁集落の意味
先日のくまなさんの記事世界の戦争起源(戦争の考古学より)はなかなか興味深い記事だと思います。歴史上、戦争が起きることによって、社会構造は大きく変化を見せるからです。文字通り、中国は古くから戦いの歴史があり、その起源がどのようなものであったか?を探ることは、中国という国の本質に迫ることにもなると思います :wink:
今日は、中国の戦争の起源に関して、よく議論の対象となる、環濠集落と囲壁集落の意味に関する説を紹介したいと思います :o

:m118: 本当の戦争の起源は?皆で追求しませんか? :m118:
posted by sawatan : 14:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月01日
日本にある縄文博物館
縄文時代を調べているうちに、縄文時代をテーマとしている博物館にいきたくなりました。 :roll:
そこで日本にある主な縄文の博物館を調べました。
:love: 各博物館のホームページを見ているだけでわくわくしてきますよ。 :love:
posted by norio : 20:56 | コメント (1) | トラックバック (0)