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2008年01月31日
縄文集落の規模と分業
前編に引き続き、今回は「縄文集落の規模と分業」についてレポートします。
早期2万人、前期10万人、中期26万人、後期16万人と推定されている縄文人。
彼らの集落規模と、そこでの分業を追ってみたいと思います。
今回も、参考にさせて頂いたのは縄文文化と現代です。
(一部編集、並びに参照文中の引用元は割愛させていただきました。)
posted by naoto : 09:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年01月30日
縄文集団の形成過程
縄文集団がどのように統合されていたのかを追求していく上で、集団のおかれていた状況と形成過程をおさえることは不可欠となります。
そこで今回は、2回にわけ、前編では「縄文集団の形成過程」を、後編では「縄文集落の規模と分業」をレポートしてみたいと思います。
今回、参考にさせて頂いたのは縄文文化と現代です。(一部編集、並びに参照文中の引用元は割愛させていただきました。)
応援よろしくお願いします!
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2008年01月29日
ストーンサークルは「生きるために死がある」を体現した祭り場
ストーンサークルは、 「縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?」でも紹介しましたが、約3,500~4,000年前、東北から北海道にかけて急速に広まった巨大な構造物である。

また、この時代は温暖化がピークを過ぎ、急速に寒冷化した時代であり、何故これほど大掛かりな構築物をつくる必要があったのか?
縄文の大集落、三内丸山遺跡は、ちょうどこのストーンサークルが登場する前である。このような大集落は縄文中期に姿を消し、その後は小規模な集落が増えてくる。
その原因は、気候の寒冷化による食糧の減少か?謎はまだまだ多いが、
哲学者である梅原 猛氏は以下のように述べている。
>分散した集団は祭りのときに一堂に集まり、一族の絆を確かめ合っていたようです。環状列石の祭りの舞台であり、大規模な土木工事を行なってまで築かれた、彼等の絆・心の形として示した記念物なのです。人が死んだ後、魂が死骸から抜け出てあの世へ行くが、ストーンサークルはセックスの行為を示したのではないかと思う。
これはいったいどういうことか?何故、そういうことが言えるのか?
知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします。
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posted by simasan : 23:20 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年01月28日
日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか?
つい最近まで、といっても40年くらいまえまで、人がキツネにだまされたという話は、身近でごくありふれたものだったらしい。
著者の内山節さんは、日本各地を歩き、土地の人から聞きまわり、キツネや動物にだまされた話を聞いたという。

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posted by ihiro : 18:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月27日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史②~内陸部への進出の足跡
こんにちは。
前稿では、中国西北部にいた遊牧民族の古代羌族が、中原に進出、あるいは南進した概要をお伝えしましたが、今回は、具体的にどのような足跡を残したのか、紹介していきます。
ここで再び中国の地図を紹介。

(古代で遊ぼさんよりお借りしました)
>青海から甘粛にかけての地域に、馬家窯文化と呼ばれる新石器時代(4000-5300年前)の遺跡が発掘されている。これらの主は古代羌族と考えていいだろう。
>青銅器時代(3000-4000年前)になると、斉家文化(甘粛から青海にかけて)やカユエ文化(青海湖東の湟中県)、寺ワ文化(甘粛)、上孫家寨類型(青海大通県)、辛店文化(甘粛)、諾木洪文化(青海都蘭県)などが次々と登場するが、どれもやはり古代羌族と考えられる。土器表面の紋様を見るかぎり、高度な文明をもっていたことがうかがえるが、中原の漢族の影響や交流も同時に感じられるのである。
>チベット高原の東部、チャムドでは、カロ(Kha rub)遺跡(4000-5300年前)という謎めいた大規模遺跡が発掘されている。古代羌族はこんなにも早くチベット高原にたどりついていたのだろうか。出土物からは西域やカシミールとの交易も考えられ、古代はわれわれの想像よりはるかに交流が活発に行なわれていたのかもしれない。
>中国の学者は、古代羌族の南下のもっとも早い例は、4、5千年前の雲南・四川にまたがる大敦子および礼州遺跡ではないかと見ている。
近年注目を浴びている四川盆地の「超古代文明」、三星堆遺跡の主は古代羌族と血縁関係にあると思われるが、より具体的にはテイ族の一種、巴人ではなかろうか。テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。(以上、「送魂路」さんより引用)
どうやら、古代羌族は5000年前(BC3000年)くらいに黄河上流や長江上流へと進出し、遊牧から農耕へと転換し、定住化しては高度な文化を築いたものと思われます。
また、BC3000年頃においては、下の図に見るように、各地の文化間の交流があったようなのです。
(中国的こころさんよりお借りしました)
>B.C.3000年代は、黄河中・下流域の龍山文化のほかに、黄河上流域の斉家文化、長江中流域の屈家嶺・石家河文化、長江下流域の良渚文化が並存し、それぞれ自立的な発展をたどりながら、地域間の交流が活発になって、地域をこえた共通性が現れるようになりました。
>山東・湖北で産する豆形土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わりました。
良渚文化で産する玉琮・玉璧も山西龍山文化に伝わり、さらに陝西龍山文化・斉家文化に達しました。
>山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっています。
一方、西北部から河南・山東地域には鬲形土器や羊の飼育、卜骨の風習が伝わっています。
>これらを見るに、相互に生産物や風習が交流されていたことがわかります。それは隣接する地域の間を少しずつ伝わっていき、しかも各種ある生産物のなかから一部だけが選択的に受容されていったものであり、各地の生活方式を一変させるようなものではありませんでした。つまり生産物を輸出する側に主体があったわけではなく、あくまでも受容する側に主体があったのであり、強い強制力はそこに発生したとは考えにくいのです。
(以上、「中国的こころ」さんより引用。)
この“交流”とは一体なんなのでしょうか?
古代羌族が黄河上流につくった斉家文化には下流の山西龍山文化の影響が見て取れるし、長江上流につくった三星堆遺跡からは下流の良渚文化の影響が見て取れる。 “交流”というからにはその逆があって然りなのですが、しかし逆方向は無いのです。
これは何を意味するのでしょう?
仮説ですが、中国西北部の高地にいた古代羌族は黄河上流へ、長江上流へと進出し、さらに下流へと進出していくなかで、下流の高度な文化を手に入れては持ち帰った。このようなことが何度も何度も行なわれては上流に定住するようになり、一方の下流域においては遊牧民から守るために環濠集落を構築していった、のではないかと思われます。
良渚文化、山東龍山文化、石家河文化、山西龍山文化などの下流域の文化はB.C.3000年代末のほぼ同時期に崩壊しています。それは洪水なのでしょうか?それとも、、、遊牧民の仕業なのでしょうか?
そしてその後、中原においては夏王朝と想定される二里頭文化が生まれるわけです。
、、、良渚文化などが一斉に滅んだのは何故でしょうか?
、、、そして、二里頭文化(夏王朝)の主は誰だったのでしょうか?
また疑問がでてきました、引き続き追求していきます。(by eto)
posted by nishipa : 18:05 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年01月26日
ナイル川とアスワンハイダム
突然ですがみなさん、ナイル川ってご存知ですよね :roll: :m052:
ナイル川といえばエジプト文明 :m005:
当時ピラミッドの建設に従事した人々は、実は奴隷ではなかったという説が最近有力なようで、ピラミッドは、ナイル川氾濫で農作業ができない期間の公共事業だったそうです。
その証拠にピラミッドで働く人たちの出勤簿が見つかっていて、中には欠勤理由が「家庭的な事情 :m002: 」や「二日酔い :m107: :m080: 」なんてのもあるそうな。
とても奴隷とは思えないですね :wink:

ところで、このナイル川の氾濫ですが、実はなくてはならないものだったようです :m007:
毎年決まった時期に氾濫が起きて上流から肥沃な黒土をもたらし、肥料を全く使わずに農業を営む事ができたのです。まさに氾濫は「天からの恵み :m034: 」「ナイルの賜物 :m034: 」と考えられていたのです :m023:
しかし、近代に入って首都カイロが飛躍的な発展を遂げ、人口が集中したことによって、安定的な農業用水と電力が必要になり、1902年アスワンハイダムが建設されます :m039:
これによって、ナイル川の氾濫はなくなるのですが・・・・ダム建設が仇となり自然のサイクルが壊れていくのです :m049: :m049:
posted by pingu : 23:25 | コメント (1) | トラックバック (0)
アステカの信仰と国家(集団)統合様式の関係
現代の社会は政治も経済も市場もすべてが国際情勢に影響されるグローバル社会です。しかし、考えてみれば、そのほとんどの主導権は西欧文明の価値観に支配されてきたと言えます。一方、市場縮小や環境問題などに代表されるように、この西欧の文明支配はいたるところで、ほころびを生じ、そろそろ限界が見えてきました。
これからは、現代の統合様式に変わる新しい社会統合の可能性を模索する時代と言えそうです。
そもそも、社会の統合様式は何によって決まってくるのでしょう?
現在では、まだまだ謎の多いメソアメリカの古代文明の中には、西洋・東洋と違う何かがありそうです。
今回は、その中でも、人々の意識と密接な関係がある信仰にスポットを当てて見たいと思います。
「ピラミッドの風景写真」より
posted by hiroshi : 21:51 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年01月25日
アステカの統合は掠奪支配ではなく、部族の連合による秩序化だった。
14世紀にメキシコ盆地に文明を築き、1521年にスペインに滅ぼされたアステカ帝国は、血と生贄を好む好戦的なメシーカ族が圧倒的な軍事力で周辺諸国を支配した帝国だったように言われていますが、本当はどうだったでしょうか?

http://www.kufs.ac.jp/kufs_new/chalchuapa/terms.htm
京都外国語大学 エル・サルバドル総合学術調査プロジェクト 用語集より
PHOTO:「テレリアノ・レメンシス絵文書」にみる毛皮を着て弓矢をもつチチメカ人に攻撃される綿の服を着た文明人
アステカ帝国ができていったのは、メソポタミヤ文明の抗争のように、繰り返す掠奪闘争によってもともとの部族社会が完全に崩壊し、殺戮と支配が繰り返されるような状況だったのでしょうか?
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posted by nandeya : 22:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月24日
縄文土器・模様の意味は!?

様々な模様が象徴的で有名な縄文土器。 縄紋土器の縄の模様で一般的に知られているのが単純に縄を撚っただけ、節が一つの「単節縄文」と言います。「複節」、「複々節」さらに、縄の真ん中を縛り、転がすと羽のような模様になる「羽状縄文」。また、棒状のものに巻きつけて転がして模様をつけたものがあるそうです。
余談ですが、縄にも右巻きと左巻きがあって、作った人の癖と言うか、古代の人が右利きか左利きどちらが多かったか分かるかもしれないですね。
模様をつける縄にも様々ありますが、模様の意味には色々な説があるようです。興味深いので少し調べてみましたので事例を挙げたいと思います !
posted by dai1028 : 21:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月21日
中国文明:遊牧民族「古代羌族」の歴史①~略奪の始まりは羌族か?
さーねさんの前作では、人間扱いされなかった「羌」や「南」の“異民族”のことが紹介されましたね。
この「羌」とは一体何者なのか? 調べてみました。
>羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。(「送魂路」さんより引用)
>古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。
>羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。
南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。(「レアメモリー」さんより引用です)・・・漢水とは長江の支流のことで陝西省の南部を指します。
>チベット高原の東端、四川省西部の山岳地帯は、かつて幾つもの古代民族が移動と興亡を繰り返した地域である。数千年前、中国西北部の古代民族「羌」の一部は故地を追われ、新たな土地をもとめてここを南下したという。現在、この一帯に居住するチャン族やギャロン、白馬、ナムイなどのチベット族および雲南のプミ族は、この古代「羌」の末裔と目される人々である。(松岡正子氏の論文より引用です)
ここで中国の地図を載せておきます。
青海湖辺りに西羌族、天水辺りに南羌族がいたわけですね。

(古代で遊ぼさんよりお借りしました。)
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posted by nishipa : 18:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月20日
匈奴が広大な遊牧騎馬帝国を冒頓単于の1代で築けたのは何故か?
中国の統一はBC4000年~始皇帝のBC200年の登場までに多くの戦乱を経て実現されました。それに対して遊牧騎馬民族は、BC4000年辺りから遊牧部族が部族連合を形成しつつ広がり、BC1000年当りに遊牧騎馬民族となり、始皇帝の死後に以下のような秦より広大な地域を匈奴の冒頓単于が1代で統一しました。何故、冒頓単于の1代で統一出来たのか?を考えることで遊牧騎馬民族と中国の関係を考えてみました。鍵は「万里の長城」にありそうです。

読んでみたいと思う方はポチッとお願いします。
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posted by sakashun : 17:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月19日
中国文明:意識の源流を探る~「人間」ではなかった人々
最近、中国ネタの記事を読んでいて、ふと感じたこと。やはり、この国の人々の意識は何か違和感を感じざるを得ない :confused: 一体、どこに源流があるのだろうか :m050:
今までは、どうも支配する側の意識を追求しすぎていたと感じた。今日は、支配する側だけでなく、農民などの庶人の意識などにも視点を置こうと思います :wink:
じゃぁ、どの時代か…やはり殷ではないかと考え、史実を改めて追ってみると…

これほどの扱いを受けると人間の意識はどうなるのだろうか?恐ろしさを感じた :m196:
byさーね
:m118: 応援よろしくお願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : 22:38 | コメント (4) | トラックバック (0)
2008年01月16日
縄文人の死生観~埋葬のしかたの意味~
:D くまなです
自然の摂理に対する意識のありようは、生死にどう接したかによく表れると思います。そこで、縄文人の埋葬のやりかたから、縄文人の死生観に迫ってみたいと思います。
縄文人の埋葬の特徴は、屈葬、ベンガラ、乳幼児甕埋葬、抱石葬です。
すべてを一貫して説明できるのは、再生への願い です。
(再生とは「誰かがよみがえるのではなく、誰かの魂が戻ってくるのでもなく、充足や活力が再生され(続ける)こと」です。前回の記事を参照してください。)
縄文の埋葬についてスッキリしたいと思った方↓ポチっと応援お願いします。
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posted by kumana : 21:31 | コメント (3) | トラックバック (0)
2008年01月15日
良渚遺跡跡発掘で中国の王朝史は遡るのか?
こんばんわ。tanoです。 :-)
以下、2月号のニュートンに書かれていた記事の紹介です。中国ではかなりセンセーショナルな考古学ニュースのようで、中国探求グループが多いこのブログでもぜひ紹介しておきたいニュースです。下記の記事を読んで、当ブログの中国ファンの皆様ぜひ、この記事を元に良渚遺跡は果たして中国最古の王朝なのか意見を伺いたいと思います。

>長江文明の良渚遺跡群で待望の城壁跡が発見された。
2007年12月3日、中国浙江省(チョーチアン省)杭州の良渚遺跡群で4300年以上前の巨大な城壁跡が発見されたと、中国共産党機関紙「人民日報」が伝えた。城壁内部の面積は約290㎡におよび、同国内で発見された最大級の新石器時代の集落跡と見られている。今回の発見により、同遺跡群は中国最古の国家である可能性が出てきた。
posted by tano : 22:42 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年01月13日
日本人の起源は北東アジアと判明!?
ゲノム解析で明かされる人類史の謎
ー人類史の起源は北東アジアと判明ー
これまで日本人の起源は旧人(縄文人)系と、北東アジアからの渡来人系との混血からなるという二重構造説が有力でしたが、最新のゲノム解析によると日本人の3集団はいずれも北東アジアに起源を持つということが判明したそうです。

クリックお願いします
posted by ryujin : 21:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月11日
縄文~弥生~現代の骨格変化:肉体破壊への道
考古の世界では、よく人骨が出土しますね。僕自身の実感ですが、この人骨を初めとする出土品というものから、どのようなことが得られるのか :m052: 考古素人の自分にとっては、なかなかその辺が構造化できていません :m196:
そんな迷いの中で、たまたま人骨に関する面白い説があったので、今日はそれを紹介してみたいと思います。
現代にも警笛を鳴らす、面白い説であると思います :m049:

日本人の骨格は、2回劇的に変化している :m049:
:m118: 応援よろしくお願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : 20:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年01月10日
縄文土器に挑戦!No.1
前投稿の『土器の起源を探る』はなかなか興味深い内容でした。
縄文時代の象徴でもある『縄文土器』は様々な形をしていてとても魅力がありますね。
穀物を貯蔵する器、煮炊きに使う器、食物を盛り付ける器、水やお酒を飲むための器など生活に必要なものとして作られた器から、どうやって作ったのか、何に使うのか理解しがたい器まで多種多様です。縄目をつけた文様と装飾性の強さにもドキッとさせるものがあります。
この魅力に取り付かれた私としては縄文土器を実際に作ってみたいと言う思いが沸いてきました。縄文人の暮らしや食生活を支えた土器づくりを通じて、昔の人たちの知恵や文化が理解できるようになれば様々な「縄文の疑問」の答えに近づけるのではないだろうか。
と言うことで「火焔土器」に挑戦してみたいと思います。
皆さんも応援して下さい。 :m097: :m097:
ブログランキングUPにも協力して頂き、続きをお読み下さい。
:m118: :m118: :m118:
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posted by mukai : 22:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2008年01月09日
土器の起源を探る
縄文時代を勉強していく中で、土器の起源について興味がわいてきたので、少し調べて見ました。
土器の起源については、新たに古いものが発見されるたびに、更新されていく状況にあるようですが、現在、世界最古の土器と言われているのは、中国で発掘されたもののようだ。
>中国における土器の起源については、暦年代2万~1万8000年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼりうるものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは暦年代1万8000~1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm

<玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器>
>一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。
さらに、日本国内に目を移すと、先の青森県大平山元遺跡(16500年前)の他、福井洞窟(吉井町)の隆線文土器や佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡(12000~13000年前)の豆粒文土器が発見されている。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/054.html
このように、南方の中国と北方のシベリアから土器が発見されていることと、日本国内においても、九州や青森といった南と北から土器が発見されており、土器の使用初期段階とは言え、結構広範囲にわたって分布していることが分かる。
寒い気候でもあった北方からも土器が発見されているが、まだ氷河期終盤の時代でもあり、寒い時代に使用された土器は、一体どのような使い方をされていたのだろうか。
応援の方もよろしくです↓
posted by yuyu : 23:51 | コメント (1) | トラックバック (1)
2008年01月08日
洞窟から遊動、そして定住へ
漁撈採集民族だった縄文人。
彼らは、洞窟をでたあと、どのようにして定住化を図ったのでしょう?
弓矢の発明により防衛力が飛躍的に増加したとはいえ、洞窟を出るというのは、危険を伴う大きな決断が必要だったのではないでしょうか?
今回は、この問題を追及してみたいと思います。
中心点としての、動かない北極星の発見は、生活そのものに劇的な変化をもたらすことになる。
旧石器時代の行動様式は、遊動と移動の繰り返しだった。
ところが、北極星の発見は、運動と静止を再発見させることになる。
世界はぐるぐる回りながら北極星に向かっていく。そのように理解されたようだ。
世界がそのように機能し、つくられていると理解すれば、人間もそのように行動しなければならない。
遊動と移動では、運動に偏る。
静止がなければ、ならない。
続きはポチッと押してから :roll:
posted by naoto : 21:24 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年01月07日
漢民族の正当化観念“中華思想”の歴史
こんばんは、etoです。今年もよろしくお願いします。
以前、「中国文明のなんで?」にて、“なぜ中国人は自己中=個人主義が強いのか?”というテーマをあげ、いくつかの書込みをいただきましたが、今回は“中華思想”について勉強しましたので紹介します。
●中華思想を平たく云うと?
「中華思想」の「中華」ですが、これは「中」と「華」からなっており、「中」は「世界の中心」を意味し、「華」は「夏」-支那史上初の世襲王朝「夏王朝」を表し-転じて「支那」自体を意味しています。つまり、「中華」とは、世界の中心である夏(華=支那)と言った意味なのです。
「中華思想」では、支那の周辺諸国は「野蛮な異民族」とされ、その地理的(方位的)所在に合わせて、東夷(とうい-朝鮮・日本)・西戎(せいじゅう-チベット・中央アジア)・南蛮(なんばん-東南アジア・インド)・北狄(ほくてき-満州・モンゴル)に分類されています。(以上、リンクより引用しました。)
●どのように中華思想が形成されたのか?
中華思想は春秋時代に形づくられたとされる。そして、その形成には漢民族の形成と周の文化が大きく関連している。
●では、漢民族はどのように形成された?
紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。すなわち、漢民族とは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「夷」「戎」「蛮」「狄」の子孫であり、夏・殷・周もこれら夷狄によって作られた国である。
そして中華思想は、周王朝の実態が弱まり、権威が薄くなった春秋時代に生じたが、その時代は漢民族が前から引き続き、さまざまの民族の血を取り入れて構成されつつある時代でもあった。ところが、政治的に周王朝の実態、権威がなくなっても文化的まとまりをもってきた漢民族は、周王朝の存在を否定するものではなく、たとえ形だけになっても周王朝の権威を尊重していた。
●周の権威がなくなった後も、周を尊ぶのは何故か?それが、周の文化の中心である徳や礼のためであると考えられる。そして、中華思想では特に「礼」が大きく関係している。
●周の社会システムにおける「礼」の役割とは?
周王朝の最大の特色は、周室と諸侯、諸侯と群臣とが周室を中心にした巨大な分節社会(封建制)を形成していることであり、しかもこの社会は、同血族社会ではなく、異性の者が分封されていたこと。さらにこの社会は、周王―諸侯―氏(卿・大夫)……と下部に至るに順って、即ち、周室を本とし、その分派が末端に及ぶに順って、その所有する財産(例えば領土面積・人民数など)が次第に逓減する所に在る。
周において、国の秩序を守るために政治の力や刑罰によって規制するのではなく、「礼」を重んじることで、人民のほうから近づいて来ると考えられていることがわかる。周時代における「礼」は、分節社会(封建制)の秩序を構成するために重要な役割をしていた。
●儒教における「礼」とは?
春秋時代、周の文化を再現することを理想とした人物がいた。それが孔子である。
『孟子』滕文公上に、(吾夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ずる者を聞かざるなり。)とある。ここには明らかに華・夷の差別が存在している。華・夷の別の出現、これが、中華思想が周を経て、春秋時代に形成されたと考える理由である。
周の時代、「礼」は社会構造の秩序を構成するものであった。それが、儒家の中では華・夷を区別する基準になっているのである。しかも、ここで重要なことは、華・夷の差別が種族的なものや血族的なものではないことである。すなわち、夷も華の「礼」を身につければ、華の仲間入りができるのである。
中華思想の特質について、地理的・文化的な要素から自国を世界の中心とする考え方は、中国以外の国(バビロニア・インドなど)にも存在していた。しかし中国には、他国とは明らかに違う要素が存在していた。それが、道徳的政治思想・王道政治という要素であり、この考え方は、他の国には見られないものである。
●中華思想とは?
中華思想は漢民族の形成と大きく関わっていた。つまり、中華思想は漢民族の持つ思想であると言っていいだろう。その漢民族を世界の中心とし、他の周辺民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と分けて蔑視することが中華思想である。そして、中華思想における差別は地理的なものではなく、文化的なもの(礼)である。
中華思想の一面である保守排外の傾向は、「我々は世界の中心である」とする中華の自負心・自尊心が傷つけられた時に現れる。そして逆に、国家の自負心・自尊心が傷つけられる事がない時、開放博愛へと傾く。中華思想の保守排外の傾向が強いとき、自国と「夷・戎・蛮・狄」の差別は強烈になる。そして、開放博愛の傾向が強い時、夷狄との婚姻・盟約が行われる。簡単に言えば、自分が危険だと思ったならば自分を守り、自分が安全だと思ったならば仲良くする。こう考えると、中華思想はなんとも単純なもののように見えてくる。
漢民族が形成され、日常生活において礼の考えが重視され習慣となる。その漢民族の習慣は周辺の国とは違うものであった。自分と他者との文化の違いを見ただけならば、周辺の国と友好関係を保つことができたのかもしれない。しかし、周辺の国が中華を圧迫する。その時、自己を守る必要が生じた。そこで、自らの文化を自らが尊いとする事で、周辺国家との格差を作った。そこで生まれたのが、「夷・戎・蛮・狄」の存在だった。ここに中華思想の二面性の完成を見る。
昔の人が、自分の住む地域を「中心」と考えるのは自然であろう。中華思想は、簡単に言えば自己防衛の手段だ。攻められるから闘い、平和であれば闘うことは無い。ごく単純なのだ。
(以上、「清朝の中の中華思想」より引用しました。)
★簡単にいえば中華思想とは、自民族(漢民族)を第一とする正当化観念であり、周時代の支配体制における成功体験を母胎に、「礼」という序列規範を中心観念として春秋時代に形成されたもの、と云えるのでしょうか。
さて、気になったのは、>夏・殷・周も夷狄によって作られた国である<という点で、王朝成立以前の古代中国において、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸民族がどのようにせめぎ合っていたのでしょうか。次回は、中でも西戎(羌族)の歴史について調べてみたいと思います。 (by eto)
posted by nishipa : 19:12 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月06日
中国文明:戦国時代への起点③=【番外編】敵をつくる観念
戦国時代の外圧を調べている中で、興味深いネタを見つけました :shock:
古代中国では、自国以外の周りの国あるいは部族を蔑称で呼んでいた… :m049:
こんな図解がありました :m118:

「夷」ウィキペディアより
確かに、この蔑称は中国の歴史書にも度々出てきます。
ちょっとした気付きでしたが、投稿してみたいと思います。
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posted by sawatan : 14:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
中国文明:戦国時代への起点②=春秋:遊牧部族による侵略の圧力
前回、中国文明:戦国時代への起点=西周王朝の衰退過程にて、周王朝の衰退過程を国の内部から分析しました。では、この時代の外圧は :m050:
「周室東遷の背後の北方民族の圧迫」古代中国 貝塚茂樹・伊藤道治著 講談社学術文庫より
春秋時代に、遊牧部族の侵入 :twisted: が本格的に始まったようです :m051:
byさーね

歴代王が苦戦した屈強 :tikara: の匈奴 :twisted:
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posted by sawatan : 13:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月05日
184年黄巾の乱後、中国人口の9割が死滅し、華北の人種が入れ替わった
黄巾の乱は後漢の終わりごろ184年、道教の流れを汲む太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。

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posted by ihiro : 22:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年01月04日
世界の農耕のはじまり。
三内円山遺跡で栗の栽培の跡とか見つかっていますが、世界の農業がどこでどんなぬうに始まったのでしょうか。農業は重労働を強いられる割に安定収穫は補償されておらず、カロリーも飛躍的に高いわけでもありません。
アフリカ南部に住むサン(ブッシュマン)という狩猟採集民は、栄養価のひじょうに高い(コメの5倍のカロリーの)モンゴンゴの木の実が主食であり、その他数十種の植物を食べる。食料を手に入れるための労働は短時間ですむ。女性の採集は毎日1~3時間、男性は1週間狩りをすれば2~3週間はなにもしない。集団内の4割の人は食料調達の仕事をしていないが、食料は全員に分けられる。それでも必要な栄養量はゆうに上回り、栄養不足はみられない。
働いていない時間は余暇であり、娯楽を楽しみながら暮らしている。あるサンは、「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物を植えたりしなければいかんのかね」と語ったという。

1万年ほど前、氷期が終わり気候が温暖になると、人口が急増して400万人に達したといわれています。現在からすれば圧倒的に少ないですが、狩猟・採集で支えられる人口の上限だったのかもしれません。
posted by tiwawa : 21:31 | コメント (4) | トラックバック (0)
2008年01月03日
「奥深き縄文ワールド」アンコール版
今週は「奥深き縄文ワールド」のアンコール版です
縄文アートの不思議さが一層深まります。出典はこちらのサイトです

人面獣(いわき遠野出土)
posted by ryujin : 02:10 | コメント (3) | トラックバック (0)
2008年01月01日
縄文暦14000年!? 縄文ー古代ブログへの期待
新年あけましておめでとうございます!
今年は西暦2008年。“縄文暦”というのがあるとするとおおよそ1万4000年くらいでしょうか?日本は欧米や中華文明に比べても断トツで長い歴史を紡いできたとも言えます。

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posted by ihiro : 07:37 | コメント (0) | トラックバック (0)