/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2008年07月31日

弥生・古墳時代頃までの朝鮮の概況

こんばんは。

最近、弥生・古墳時代についてのエントリーが増えてきていますが、朝鮮から日本に渡って来た人達を知る上で、同時代までの朝鮮の歴史について、少し調べて紹介しようと思います。


■考古学上の時代

●前期旧石器時代
出土品の年代測定から、最も古い旧石器時代の発見は、約30万年前の全谷里(チョンゴンニ)遺跡といわれています。しかし、さらに遡る55万年前の石器が万水里(マンスリ)遺跡から見つかっています。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071124/acd0711242200003-n1.htm


acd0711242200003-p1.jpg

<発見された石器>

上記記事にも書かれていますが、推定年代が正しいとすると、北京原人と同時代ということになり、かなり古い時代から朝鮮半島に人類が進出していたことになります。この時代に日本が大陸と陸続きではなくなるのが、およそ50万年前だから、食料となる大型動物等を追いかけて、陸続きの日本列島にもやってきた可能性もありそうです。


●後期旧石器時代
3万5000千年前~1万年前までの期間。現代の人類に繋がる人類が登場してきた時代。この時代の遺跡は朝鮮半島でも多く存在するようです。

様々な石器が発見されているが、特に日本との関係で言うと、日本では主に北で見られる湧別技法と同じ技法で作られた細石刀が、約1万4000年前頃、朝鮮半島でも発見されています。


 
湧別技法で作られた替え刃式の石器とは

 北海道が完全な島となる以前,14000年ほど前になると,細石刃とよばれる,新しい石
器が,作られるようになります。
 細石刃とは,長さ3~4cm,幅5mmほどの,剃刀のような鋭い刃の小石器で,木の棒や
動物の骨で作った軸に1列に埋め込み,ひとつの大きな刃とするもです。
 細石刃が作られるようになると,同じ大きさの原石から沢山の細石刃を作ることができ,と
ても効率がよくなりました。
 それに,それまでの石器は,刃こぼれすると,使えなくなるが,細石刃だと,刃こぼれした
部分だけ新しいのと取りかえれるから,また使える。
 細石刃の製作は,西日本でもはじまったが,中心は北海道だった。北海道には,石器の原材
料となる黒曜石が豊富にあったからだと考えられます。
 特に湧別川流域では,高度な細石刃製作の技術が発達し,これを湧別技法という。
 湧別技法とは,まず長さ10cmの黒曜石を,木の葉や鰹節のような形にととのえる。それ
を縦の方向に2つに割り,船底型の石核を作る。それを薄く打ち割って,いくつもの細石刃を
作りだすというものです。
 
http://x.iwa.hokkyodai.ac.jp/~kamisibu/katudo/kyousitu/6/gaku/akih/ainu_j.html#05
 
 
さらには、朝鮮半島の南内陸部の谷沿いにある古礼里遺跡からは、剥片尖頭器が発見されている。同じものは日本の九州で集中して発見されていることから、朝鮮半島から渡った石器であると推定されています。
 
 
 噴火後の九州では,新たな石器として剥片尖頭器という槍状の石器が登場します。南九州でも近年数多くの遺跡からこの剥片尖頭器が出土しており,前山遺跡からも相当数出土しています。そしてこの石器は,朝鮮半島にそのルーツが求められるともいわれ「海を渡った剥片尖頭器」とも呼ばれています。

シラスの上層から出土する剥片尖頭器は,海水面が低くなり幅が狭くなったとはいえ海流が激しく荒ぶる朝鮮海峡を,旧石器人達が勇敢に丸木舟を操って行き来したあかしなのでしょうか。

http://www.jomon-no-mori.jp/no25.htm


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<前山遺跡の剥片尖頭器>

約2万5000年前、朝鮮半島から剥片尖頭器の制作技術を持った人々が、九州や本州西端にやってきて伝えたもものと考えられています。


次は、古朝鮮についてです。

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posted by yuyu : | |

2008年07月30日

縄文土器の変遷 その1

縄文時代は土器の様式により草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分されています。
当ブログでも「 縄文時代はなんで土器で区分されているの? 」で投稿されています。
 
この投稿に各時代の代表的な土器と写真がありますのでご覧下さい。
今回は各時代をもう少し詳細に見ていき、土器の変遷とその時代の生活様式にも迫って見たいと思います。
(この投稿は主に 比較文化史 というサイトから引用させて頂きました。) 

ランキングアップにご協力願います。
    :m118:     :m118:     :m118:
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posted by mukai : | |

2008年07月29日

縄文~現代:日本が誇る13,000年の精霊信仰

今晩は、さーねです :o 前回の縄文の精霊信仰~山岳信仰に引き続き、日本の精霊信仰に迫ってみたいと思います :tikara:

同じく、原初的山岳信仰の変遷を参考にしました。

800px-Chichibu_city.jpg
秩父の神奈備山”武甲山”

:m118: :m051: 応援よろしくです :m051: :m118:
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posted by sawatan : | |

2008年07月27日

インカの支配体制は?

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婚姻制度の話から支配体制は :m134: :m134: と問いかけがありました。
あれだけの広大な地域を支配したインカ。一体どのように支配したのでしょうか?
探ってみました。
さてどんな体制であったのか :m134:
その前に

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posted by dokidoki : | |

2008年07月26日

インカの婚姻様式②~庶民の婚姻様式は?

こんばんは、saahです。前回のインカの国王の婚姻様式(リンク)に続き、今日は一般庶民の結婚についてみてみたいと思います。 :m058: :m059: :m061:
とはいってもインカ帝国自体はもともとのインカ族のほかに、後にインカによって征服された他部族も多くいる為、ここでは『正当インカ族』の庶民(市民)の婚姻に絞ってみたいと思います。

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posted by saah : | |

2008年07月23日

シュメール人の宗教って?~その1

こんばんは!

古代メソポタミアにおいて、人類最古の文明を築いたとされるシュメール人

その彼らの、文明を築くほどの原動力とは何だったのでしょうか?

その原動力の一旦を垣間見るために、彼らの日常生活を調べていくうちに、宗教がかなりの影響を与えている可能性があり、そのため、彼らを取り巻く外圧と、それに対して彼らのとった行動を追いながら、“シュメール人の宗教”について調べてみることにしました。

続きは、下をポチッとして進んでください :m146:
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posted by jomon10 : | |

2008年07月22日

中国で同化したユダヤ人

ユダヤ人たちは、世界中に散らばって移動しても 数千年もそのユダヤ独自文化と宗教を守って暮らしています。ところが中国でのみ、ユダヤ人は同化してしまったそうです。

 
 その歴史を解説したサイトがありましたので、紹介します。

 
 もしかすると日本にもユダヤ人が来ていたかもしれませんが、中国と同じように同化したのかもしれないと思いました。 人間は共認動物(観念動物) で、同化できれば(または観念を塗り換えれば)いくらでも変われるということを示している事例ではないでしょうか。

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posted by norio : | |

メソポタミアの婚姻制

みなさん、こんばんは~ :m017:

メソポタミアの追求、シュメールの交易文字の誕生①~記録の必要性から文字が生まれた~に続きます :m071:

略奪闘争 :m273: の火ぶたが切られたメソポタミアを知るにあたって、その婚姻制はどんなものだったのか?は大きな注目点 :shock: です。

っと、その前に :m042: 、婚姻制は集団や集団の置かれた外圧(気候風土)に大きく左右されます。メソポタミアはどうだったのでしょうか?

砂漠型(ツンドラ、ステップ、砂漠+オアシス、サバンナの4類型がある)と称される風土に進出した遊牧部族は、西アジアにコーカソイド、中央~東アジアにモンゴロイドがいます(林さんの挙げられていたアフリカは一旦おきユーラシア大陸を想定します)。遊牧は、遊牧している野生の有蹄類の群れにくっついて移動する生産様式ですが、梅棹忠夫氏によると、家畜の子どもを人質に取ることによって母親を逃げられないようにして、子どもに乳を飲ませる際に人間が搾りとるという技術と、大多数のオスを去勢することによって群れの中にとどめたまま、群れの統制を保つ技術の、二つの技術を前提として完成したとされています。農耕に匹敵する人工的な加工が施された家畜は、蓄財意識を芽生えさすに十分だったと思われます。  まして小集団(小氏族)で移動するという闘争集団ゆえに、男原理の父系集団に移行すると、嫁取りのための婚資(=相当数の家畜)を蓄財することを第一義とする私益集団と化していきます。私益集団から掠奪集団が生まれるのは時間の問題と考えられます。
上記は、るいネット『風土、生産様式、婚姻制』より頂きました。


どうも婚姻制と蓄財意識 :m262: とは関わりが深そうですね。
蓄財意識や私有意識は、日本での縄文から弥生への転換点など、他シリーズでも追求中な、歴史を追及する上で大事なポイント :m034: になっていますよね。

では、メソポタミアの婚姻制を少しずつ :m108: 解明してゆきたいと思います。
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ありがとうございます :m022:

posted by mituko : | |

2008年07月20日

ヨーロッパ製世界史 “大航海時代”の大嘘

大航海時代”という呼び方は、正確ではないと思う。実際彼らの目的や行ってきたことから考えれば、ヨーロッパによる“大掠奪時代”とか、“大侵略時代”と呼んだほうがいい。
(ただイマイチ、ネーミングのセンスがないので、どなたか適切な名称があれば、コメントなどで提案していただければ・・・・)

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posted by ihiro : | |

2008年07月19日

【古代中国】遼河文明の概要~基礎データ

こんばんは!

これまで中国第三の文明として「遼河文明」について扱ってきましたが、ここで一度基礎データとして周辺文化も含めまとめて置こうと思います。


遼河文明の遺跡図です。(こちらからお借りしました。)
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posted by nishipa : | |

2008年07月18日

弥生以降の国際的外圧と国家統一の流れ

「弥生~古墳時代の勢力争いを解明する!」tonoさん
「-騎馬民族は来なかったか?-」naotoさん

の投稿から、縄文から弥生にかけて、渡来人と日本の統一国家成立までの大きな流れは

BC2,000 第一波 中国南部の環境避難民 三苗人が稲作を広める

BC500~0 第二派 アマテラス スサノオらの中国戦乱避難民が次々とやってきて九州地方から近畿まで戦乱が拡大

AC0~300年 第三派 天皇家に繋がる北方騎馬民族が統一王朝=大和王朝を建設

さらに、6世紀以降は、戦乱の中国を統一してできた国家、隋や唐の登場により、さらに一段周囲の国家の緊張感が一気高まった ようです。

左から5・6・7世紀、中国・朝鮮の国家勢力図です。図は「人命歴史年表」より引用させて頂きました。
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この日本が統一国家建設に向けて、一つにまとまる必要性から天皇制が必要であったと考えられます。その源流が北方騎馬民族かどうかは、tonoさんの投稿にもあるように、諸説があるようですが、間違いなくこれらの外圧に対抗するために次の「憲法十七条」制定や「大化の改新」が必要だったと考えられます。

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posted by simasan : | |

2008年07月17日

-騎馬民族は来なかったか?-

前回の「私権社会への移行」シリーズからは、北方騎馬民族の系譜をひくものが天皇家の始祖であるという事実が導き出されます。
古代史学会では、江上波夫氏が「騎馬民族説(騎馬民族征服王朝説)」を提起していますが、今なお批判が続いているようです。

今回は、この「騎馬民族説」を-騎馬民族は来なかったか?-宝賀寿男氏の要約という形で紹介したいと思います。

上古の朝鮮半島南部に扶余系の「辰王」という特異な存在の王があり、この流れをひくものがわが国に侵入し、北九州さらに畿内に転じて征服王朝を建て、崇神・応神にはじまる上古の王統につながった。 こういう発想の学説が戦後出されて、古代史学界の大きな問題となってきた。 今から五十数年前、戦後の混乱が続いていた昭和二十三年(一九四八)のことであるが、江上波夫氏により提起されたいわゆる「騎馬民族説(騎馬民族征服王朝説)」は、戦後になって出された多くの新説の先駆け的な存在であった。

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posted by naoto : | |

2008年07月16日

弥生~古墳時代の勢力争いを解明する!

弥生~古墳時代ってどこまで知っていますか?
まずは簡単な中学生向きの年表を見てください。

「がんばれ凡人サイト」さんから借用しました。
日本史の年表

皆さんも大体こんな感じで弥生時代~飛鳥時代を習っていたと思います。
覚えることは大和朝廷の発足と大化の改新くらい、後は中国から来た律令制度。
奈良時代以降は人名がたくさん出てきて複雑になりますが、弥生から飛鳥時代の教科書の記述は至ってシンプルだったと記憶しています。しかし、この800年間をわずか数行の史実で終わらせるにはあまりにもいい加減ではないですか!その結果未だに弥生時代って何?古墳時代って何?大和朝廷はどこにあったの?など自国の国の始まりにも関わらず大半はわからないことだらけです。
つまり、大化の改新以前は詳しく知らせたくない何らかの意図が介在しているのではないでしょうか?
大化の改新以前は日本書記が書く神話の世界が未だに正しいとされています。
しかし事実は・・・・。統一国家が出来上がるまでの権力争いの歴史なのです。
権力を巡って日本に深く侵入した渡来人の戦乱史なのです。
天皇制を基本的に否定できない日本の教科書にはそれはかけない。なぜなら、人神である天皇が日本という列島を作ったという事になっているからです。従って国家形成の事実は大雑把にしておこうという意識が当局には働くのです。

今回はそれに果敢に挑戦してみたい :tikara: と思います。
まずは難解な列島制覇の系統図を見てください。古代であそぼ!さんから借用しました。
ファイルをダウンロード

今日はこの年表を元に弥生時代の渡来人の流れを一気に勉強していきたいと思います。
内容は、この時代の渡来人の流れを非常に丁寧に書いたHP「古代で遊ぼ」さんより抜粋させていただきました。少し長いのですが頑張って読んでみて下さい。段落の最後にまとめを太字で入れておきます。時間のない人はそこだけを読んでいただいてもOKです。

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posted by tano : | |

2008年07月13日

文字の誕生① ~記録の必要性から文字が生まれた~

 こんばんは、カッピカピです。
 
 文字の起源については、このブログでも何回か取り上げておりましたが、今回改めて、文字の起源について、シリーズ形式にてまとめてみようと思います。

 それでは、第一回目『記録の必要性から文字が生まれた』をどうぞ~。

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posted by hi-ro : | |

2008年07月12日

縄文土器に挑戦!No.2

今年の初めに 縄文土器に挑戦!No.1 で投稿したように土器を作ってみようと思ってからずいぶん
時間がたってしまいました。
色々調べていくと自然の全くないこの東京という場所では結構困難なことがわかってきました。

肝心な土が無いのです。土器を焼く時の重要な問題として 粘土の質と焼成温度 があります。
粘土ならおおよそどんなものでも使用できるようですが、その土にあった焼成温度を見つけるのが
難しく、探し出すのに試し焼きの繰り返しが必要なようです。

    P1060263.JPG
 【手前(右)が白山の土、奥(左)が半々で信楽土+白山土】

この間、横浜市緑区の白山高校の近くの建設現場に行ったときに偶然に粘土が見つかり、持ち帰り
ました。そして陶芸教室の先生に相談してみると、先生も自宅近所の土を焼いたりして見たそうです
が、溶けてしまったり、ひび割れたりしてなかなか旨く焼けなかったようです。
色々試して焼成温度を決めていくしかないようです。

白山の土を教室の窯で“試し焼き”して貰えることになり、写真のように仕上がりました。
先生も驚いていましたが、一回でこんなに綺麗に仕上がるのはごく希なことのようです。
試し焼きが成功した事をこのブログの仲間に話しているとみんなで作ってみよう。
どうせなら力強い火炎土器を作りたい、とみんなの意見が一致しました。

と言うことで、「縄文土器に挑戦!」を進めていきたいと思います。
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続きをお読みください。
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posted by mukai : | |

2008年07月11日

太陽に仕えた『選ばれし処女たち』:インカの婚姻様式は?そこには私権の芽はあったのか

こんにちは、saahです。
インカには『私権』があったのか。
今日はこの問題をインカの婚姻様式から探ってみたいと思います。
婚姻と言っても一般には王侯貴族たち支配層と、一般庶民とでは往々にしてその形態が異なる場合が多いですね。インカ帝国においてはどうだったのでしょうか。

また、インカには太陽に仕えた『選ばれし処女たち』と呼ばれた女性がいましたが、彼女たちはどのような存在だったのでしょうか。???

今回は2回に分けてそれぞれの婚姻形態と、婚姻そのものが持つ意味がどのように位置づけられていたのかをみてみたいと思います。

posted by saah : | |

2008年07月10日

縄文の精霊信仰~山岳信仰

今日は、縄文人の精霊信仰を探求してみようと思います。
なんで、自然を対象化したか?
原初的山岳信仰の変遷より、抜粋して探求していきましょう :tikara:

P61800171.jpg
岩石信仰は現代でも残っている

byさーね

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posted by sawatan : | |

マヤ文明と伊勢神宮に共通するものづくりと生命文明について

マヤ文明を知る為にネット探索をしていました。その時に、日本の弥生時代とマヤ文明はその繁栄した時代が一致し、且つ生活感他が近いとするお話がありましたので投稿します。以下の10項目にまとめられています。 :roll:

1.聖なる数
2.共通した時代背景
3.太陽への崇拝
4.山への崇拝
5.鳥への崇拝
6.聖樹
7.蛇への崇拝
8.水の循環
9.魚食の文化
10.ものづくりと生命文明

出典は安田喜憲(東京財団主任研究員/国際日本文化研究センター教授)シンポジウム(伊勢)での講演(抜粋)(2007年6月9日開催)からになります。

尚、このときのテーマは「マヤ文明と伊勢神宮に共通するものづくりと生命文明」です。

★参考に、「1.聖なる数」の項目を引用します。

 マヤ文明には聖なる数というものがあります。マヤ文明の人々が最も大事にした数字は「20」です。言うまでもなく伊勢神宮の式年遷宮は20年ごとにお宮を遷しますね。なぜ20なのか。なぜマヤの人々は20を大事にしたか。それは20が人間やあらゆるものの原点だからです。みなさん自分の指を数えてください。足の指10本、手の指10本ありますね。この指の数、これが人間の原点です。20年というのが人生の節目ですね。そしてだいたい20年というのが物事の区切りです。

私は1980年に環境考古学という分野を自分で確立しました。1980年に環境考古学という分野を確立した当時は、他にこのようなことを研究している人はひとりもいませんでした。しかしそれから20年経った2000年ごろから、環境考古学という本がたくさん出始めた。20年前には誰もやってなかったことが、20年経つとだいたい世の中に広まってくるのです。

マヤの人々が最も大事にした数字は20、そして式年遷宮も20年に一度。つまり、そのマヤ文明と伊勢神宮の共通性のその1は、20という聖なる数を大事にしたということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり

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posted by sakashun : | |

2008年07月08日

シュメールの交易

こんにちわちわわです。

ご無沙汰しておりましたが、シュメールの交易について、ちょいと展開したいと思います。

シュメールにある資源は肥沃な泥、チグリス・ユーフラテス河の水、太陽、そして瀝青と呼ばれる天然のコールタールしかありません。

彼らは泥でレンガを作り、瀝青で固めて建造物をつくり、都市をつくりました。
そして資源を持たない彼らは早くから交易にたよらざるを得ませんでした。雨の降らないメソポタミア南部を陣取ったのも、ペルシャ湾に面し、交通の便が良かったからではないでしょうか。

参考ウバイド終末期にシュメールによる交易ネットワークが構築される
uru.jpg
都市ウルクで発掘された建造物を見ると巨大な石造建築モザイク壁などの神殿があり、さらに遺跡分布調査の結果によると、周辺の集落が減少し、人口が都市に集中したことを示しています。ウルクは既に100ヘクタールの広さにも及んでいました。

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posted by tiwawa : | |

2008年07月06日

教科書の弥生時代-2(中学編)

:D くまな です。

前回の教科書の弥生時代は、学校で初めて日本の歴史について学ぶ小学校6年生の教科書でした。今回は、中学校編です。

中学校の教科書で、弥生時代はどのように扱われているでしょうか。
参照した教科書は帝国書院(H18.1)、教育出版(H19.1)、大阪書籍(H18.2)の3点です。
( )内は発行年月。いずれも平成17年3月検定済。

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内容に入る前に、まず教科書づくりの指針となる指導要領を見てみます。
参照した教科書の指針となっている平成10年に改訂され平成14年に施行された現行の指導要領はどうなっているでしょうか。また、平成20年に公布され、平成24年に施行される新指導要領ではどう変わっているでしょうか?
比較しやすいように、同一項目は青文字にしています。

■現行指導要領

古代までの日本

ア 人類が出現し,やがて世界の古代文明が生まれたこと,また,日本列島で狩猟・採集を行っていた人々の生活が農耕の広まりとともに変化していったことを理解させる。

イ 国家が形成されていく過程のあらましを,東アジアとのかかわり,古墳の広まり,大和朝廷による統一を通して理解させる。その際,当時の人々の信仰,大陸から移住してきた人々の我が国の社会に果たした役割に気付かせる。

ウ 大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ,その後,天皇・貴族の政治が展開されたことを,聖徳太子の政治と大化の改新,律令国家の確立,摂関政治を通して理解させる。

エ 国際的な要素をもった文化が栄え,後に文化の国風化が進んだことを理解させる。

■新指導要領

古代までの日本

ア 世界の古代文明や宗教のおこり,日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰,大和朝廷による統一東アジアとのかかわりなどを通して,世界の各地で文明が築かれ,東アジアの文明の影響を受けながら我が国で国家が形成されていったことを理解させる。

イ 律令(りつりょう)国家の確立に至るまでの過程,摂関政治などを通して,大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ,その後,天皇や貴族の政治が展開したことを理解させる。

ウ 仏教の伝来とその影響,仮名文字の成立などを通して,国際的な要素をもった文化が栄え,後に文化の国風化が進んだことを理解させる。

授業時数が多くなっているにもかかわらず、「古代までの日本」についての項目や具体的な記述内容も減少しています。

「人類の出現」や「狩猟・採集を行っていた人々の生活」の記述がなくなり、代わって追加されるのが、
①世界の文明に関して「宗教のおこり」
②弥生時代については、農耕の広まりとともに変化した「人々の信仰」
③律令国家への過程での「仏教の伝来とその影響」「仮名文字の成立」

古代の日本においては総じて、縄文以前は減少し、宗教について手厚く学習する傾向になっています。

では、内容に入りましょう。
中学校の教科書で弥生時代はどのように扱われているでしょうか。

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posted by kumana : | |

2008年07月05日

世の中で一番悪いことをするのは“正義の味方”

 最近巷では、地球温暖化問題が欧州やマスコミを中心に喧伝されている。CO2削減しなければ地球が危ない、それを推し進めることは良い事だという世界世論作りが進められていている。

 そして日本の政治家、福田首相をはじめ、石原某とか、なんとかそれにあやかろうとしている輩も出始めているし、役所や企業も右倣えして、CO2削減を制度化してたりして、なんとか遅れまいとしている。彼らは、冷静に考えれば、CO2が温暖化の原因じゃないのではないか?矛盾する事実が沢山あるのではないか?・・・・・という反論にはまったく耳をかさず考えようともしない。それはすでにもう彼らは“正義の味方”になっている証拠だ。

posted by ihiro : | |

2008年07月04日

持ち込まれた婚姻様式

渡来人の持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」であるという視点は、弥生時代以降を考える上で、極めて重要な視点だと思います。
さらに、前投稿では、「大陸でほぼ確立された支配制度(税制と体制組織)と自集団の婚姻様式(遊牧・略奪由来の私有婚)がもたらされた」と述べられています。
今回は、さらに突っ込んで、彼らの婚姻様式がどのようなものだったのかに触れてみたいと思います。

遊牧部族の父系制への転換 るいネット より

>当時、狩猟部族も採取部族も母系制ですが、遊牧集団は父系制にいち早く転換したようです。この父系制=男原理への転換が私権性の高まりや略奪闘争開始を解明する鍵ではないか、と直感的には思うのですが・・・。邪心集団→略奪闘争説への疑問 るいネット
もともと母系制であった集団が、遊牧に転じたら何故父系制に転換したのか、という問題から考えたいと思います。

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posted by naoto : | |

2008年07月03日

北方民族が日本に至るまで

先日のsimasanのエントリーでは、北方民族の渡来によって日本での私権制が確立されたことを述べられていましたが、今回は日本に至るまでの遊牧民族の概略の歴史を押さえておきたいと思います。

るいネットに、よくまとまった投稿がありますので、この投稿を紹介させていただきます。


96255 掠奪闘争と部族大移動の概観①
96621 掠奪闘争と部族大移動の概観②  井上宏さん
(③は、交易の部分までとなりますので、ここでは省略させていただきます)


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①第一次大移動(5500年前~4000年前頃)

・イラン高原周辺の始原掠奪闘争(5500年前頃) 
 → 西方へ:アラブ~北メソポタミアのセム遊牧・掠奪部族形成
       (シュメールは?)
       →メソポタミアやエジプトで国家形成(約5000年前)
 → 東方へ:北方モンゴロイドの掠奪部族形成 
       →黄河流域へ、竜山文化形成?(約5000年~4000前頃)
 
 → 北方へ:コーカサス・カスピ海周辺の草原地帯での掠奪闘争
       印欧語族形成へ
 
イラン高原から繋がる、遊牧民の住む中央アジアの草原地帯が掠奪闘争の伝播路となった。
イラン高原に近い農耕地帯のメソポタミア・エジプトでは国家形成が早く、同様に近接する中央アジアの大草原では、他の掠奪部族との闘争を繰り返す中で、印欧語族のような強力な掠奪部族が形成され始める。


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posted by yuyu : | |

2008年07月02日

日本の私権制は、弥生後期の北方民族の襲来によって確立された!

これまでの流れを整理すると、

①最初に日本に渡来したのは大陸の騒乱を逃れてきた江南人である可能性が高い。
②その当時、戦闘が行なわれた形跡はない。また、江南人は稲作の技術を持っていたので、寧ろ、高い技術力を持って縄文人を指導し、融合したのではないか。
③それら南方系の渡来人の高い技術力に加え、組織力が縄文集落を拡大し、拡大した集団どうしが勢力争いをする中で、勝った方が服属関係を強めていった。


しかし、ここまでは日本全国を統一するほどの巨大な勢力にはなっていない。

では、日本の私権制は、どのようにして確立されていったのか?


るいネット「日本に私権制と私有婚をもたらした北方遊牧民」に興味深い記事がありましたので引用させて頂きます。

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posted by simasan : | |

2008年07月01日

日本における私権社会への移行(渡来人第1波が作った土台)

最初に稲作技術を持った渡来人達は、技術を伝播しながら縄文人と融合していった可能性が高く、寧ろ、その後大陸北方を中心とした侵略戦争を経てやってきた渡来人の方が弥生以降の戦争に影響を強く与えた存在ではないかと思います

6月20日のしまさんの記事で紹介された上記の記述、私権社会への転換は第2波の北方渡来人の侵略性に焦点が当たっていますが、少し立ち止まって考えて見ましょう。
本当に第1波の渡来人の影響は少なかったのでしょうか?実は・・・

以下は2002年9月にるいネットに投稿された北村さんの記事から紹介します。
日本における私権時代への移行

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posted by tano : | |