2008年09月06日
恐るべき弥生人の技術力
みなさん、かつて奈良盆地は湖だったというのをご存知でしょうか?
弥生人は、湖さえも農地にしてしまう恐るべき技術力を備えていたようです。
今回はそのすごさを紹介してみたいと思います。
縄文~弥生時代の奈良湖推定図を参照させて頂きました。

黒い家マークは縄文集落、白は弥生集落 黄色の円マークは古墳類、逆Uマークは銅鐸出土地。標高から、青は古墳時代でも池であったと思われる部分です。
(その真ん中に「島の山」という古墳があります)
濃い青は飛鳥時代あたりでも湖であったと思われる部分です。大和川への出口部分の1kmほどの河底が現在よりわずかに高かったとすれば、周辺から流れ込む小河川の水は奈良盆地に貯まって湖(水色部分)となります。
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奈良盆地の傾斜は緩いので、大和川の出口部分の河床がわずかに削られて奈良湖の水位が下がると広い葦原あるいは沖積平野が出現したはずです。 縄文集落は水色部分にはなく、弥生集落は水色部分にあります。 縄文に葦原(湿地)を利用する文化は見えませんから、縄文時代ではここが湖か湿地であった可能性を示しています。
弥生となって水田など農耕が盛んになったとき、緩傾斜の葦原は肥沃な土砂堆積の地域であり絶好の農耕地帯となります。 弥生遺跡が水色部分に登場するのは、ここが農耕地となったことを示すものでしょう。 当然ながら湖ではなくなっているわけで、大和川出口の河底が低くなったということでしょう。 縄文末期の寒冷化に伴う異常気象による大洪水で生駒山地の南端(大和川)に洪水流が頻繁に流れて河床が削られ、奈良湖の水位が下がっていった可能性がありそうです。
自然水流だけで河床が下がっていったのでしょうか。 石神井川の場合は東に流路を変更すべき理由(あるいはその結果)がみあたりませんが、奈良盆地では奈良湖を消滅させることで広大な農耕地を得るメリットがあり、弥生遺跡が登場しています。1年に5cmづつでも河床を掘り下げてゆけばよい、特段の技術がなくてもできると思うのです。
奈良湖の消滅には弥生人の手が加えられている可能性もありそうです。
下図は縄文時代の奈良湖。
大和川となる流路は断層のひび割れに奈良湖の水が流れ込んで開削されてできたものと思われます。

河床を掘り下げるという発想そのものが、既に特段の技術だと思います。
巨大な古墳の建造を含め、渡来人は、凄まじい技術を日本に持ち込んだのではないでしょうか?
投稿者 naoto : 2008年09月06日 22:21 Tweet
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コメント
中国では、古くから環濠や版築(土の壁)をつくる技術があります。また、治水も彼らにとっては常に課題でした。
恐らく、渡来人は充分やり遂げたと思いますよー
投稿者 さーね : 2008年09月07日 00:34
さーねさん、コメントありがとうございます。
縄文人の「精霊信仰」と土器の発明も凄いと思いましたが、渡来人の技術力もすごいですね。
現実の課題に直面した素人が、本当に必要なものを発明していくのだと思いました。
投稿者 なおと : 2008年09月09日 23:10
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