2008年10月23日

記紀でスサノオが乱暴者(悪者)扱いされているのは、なんで?

Very Happy くまなです

古事記・日本書紀が書かれた意図を考える上で、乱暴者(悪者)扱いされているスサノオの存在は重要ではないかと思われます。スサノオは地元出雲の伝承では英雄として描かれているからです。つまり、記紀では敢えて悪者に仕立てたのではないかということです。

susanoo.JPG
(スサノオを祀る総本社津島神社にあるスサノオの肖像画。リンクよりお借りしました。)

スサノオは古事記では「建速須佐之男命」あるいは「須佐乃袁尊」、
日本書紀では「素盞嗚尊」あるいは「素戔嗚尊」と表記されている。
神様の名前であるが、古事記では単に「須佐(地名)の男」、
日本書紀の「素戔嗚尊」に至っては「素:何も持っていない」、「戔:少ない」、「鳴:泣く」、とかなり貶めている。他にも、

「素」は、ソまたはスと発音し人を表す語に付けて、「平凡である。みすぼらしい」など軽蔑の意を添え、「素町人」「素浪人」など。「戔」は、音読みでは「サン」・「ザン」・「セン」で、「きずつける」、「そこなう」という意味である。「鳴」は、鳴く(泣く)こと、吠えること。またその声を云う。つまり、「きずつき、みすぼらしく、泣く人」という意味16)になる。如何に侮辱(ぶじょく)した名称かがわかる。

さらに、記紀では、母イザナミのいる根の国に行きたいと仕事もせず泣き叫ぶので高天原を追放され、お別れを言いに姉アマテラスの元を訪れたのに、乱暴を繰り返し追放されます。怠け者で粗暴な神様として描かれています。

では、実際のスサノオはどのような人物だったのでしょうか。

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■スサノオの実像

スサノオは北方系モンゴリアンで、古代の大陸や朝鮮半島での度重なる戦乱に疲れた沸流国の一族が、出雲(島根県東部宍道湖周辺)に移住した子孫で、出雲沼田の豪族・布都の子としてBC188年頃に出雲で生まれたとみられる。
 そして18歳頃に、出雲で横暴を極めていた清田(現・雲南市大東町清田)の製鉄富豪・オロチを倒し、虐められていた稲田(現・仁多郡奥出雲町稲田)の娘・櫛稲田姫を助けて娶り、須賀(現・雲南市大東町須賀)の地に館を構えた。
(中略)
スサノオは、父から受け継いだ稲作や製鉄等の先進技術を人々に指導したことから、庶民の生活安定に大きく寄与した。周辺部族や住民がスサノオの人柄や技術に期待をかけ、次々と出雲国に参加、そのうち出雲国王に推された。出雲風土記は、「須佐之男は仁慈の名君だった」と記している。
 スサノオは、出雲・隠岐を百八十六部に分け、それぞれに族長を置いて統治させ、陰暦十月には族長会議をひらいていたという。出雲国の統治に合議制を重んじたことが伺える。今流にいえば民主政治の始まりである。
 この月を出雲では神在月と呼び、出雲大社では十一日から七日間、神有祭・神在祭が行なわれる名残らしい。また出雲・隠岐以外の地では、族長(神)が不在になるので、この月を神無月と呼ぶようになったと云う。
和国の古代史」の「建国の始祖王須佐之男命」の「建国の偉業」より

では、なぜ記紀ではスサノオを乱暴者(悪者)扱いしたのでしょうか。

■旧支配層(物部)の存在を否定し、力を封鎖
それは、記紀を編纂した天武あるいは天智天皇の勢力が日本を支配する以前に日本を支配していた土着の豪族が物部氏であり、その祖がスサノオ(一族)であったからです。これは、神社伝承学により明らかにされています。
物部氏は7世紀に蘇我氏に滅ぼされますが、一族や支援豪族は全国に存在します。その勢力は簡単には制圧できるものではありません。のちの政権(とくに藤原氏)は、その力を封鎖するため物部氏を歴史から抹殺(共認支配)し、そのシンボルであるスサノオを否定的に記述したのです。

■隠蔽・改竄された物部氏

和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。
 だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。
松岡正剛の千夜千冊より

スサノオは物部氏とつながっているのか?

■スサノオの子ニギハヤヒを祖とする物部氏

スサノオは、西暦122年ごろ、出雲国沼田郷で生まれた。スサノオが20歳ごろ、出雲第一の豪族・ヤマタノオロチを討ち倒し、35歳ごろには、出雲で頭角を現す。やがて出雲を統一したスサノオは、西暦173年ごろには九州遠征を決行し、これを平定、アマテラス (『魏志倭人伝』のヒミコ)と出会い、両者はここで同盟関係となる。
 いっぽう、スサノオの第五子・ニギハヤヒは、西暦150~151年ごろの生まれで、20歳をすぎたころスサノオとともに九州に遠征し、183年ごろ、スサノオの命で大和に向かった。
 ニギハヤヒは、それまで大和を支配していたナガスネヒコをたたかわずして臣下におさめ、その妹の三炊屋媛を娶る。さらにニギハヤヒは休む間もなく、瀬戸内沿岸を次々に攻略、出雲王朝の基礎を築いたのである。
(中略)
 西暦230年ごろ、九州王朝は大和の出雲王朝に、あるひとつの提案をもち込んだ。両国を合併させようという大同団結を提唱したのである。幸い出雲王朝の相続人は、「伊須気依姫」という女子、かたや九州王朝の相続人は、ヒミコの孫で、末子の「伊波礼彦」(のちの神武天皇)、どちらも正統な相続人であった。
 ここに、両朝は合併に合意した。これが、『日本書紀』に記された神武東遷の真相であったと原田氏はいう。そして新王朝誕生と同時に、両朝は重大な取り決めを交わした。
 それは、代々の天皇は九州王朝の男子とし、その正妃は出雲王朝の女子から選ぶこと、そしてその正妃の親族が天皇を補佐し、政治の実験を握る、というものであった。
 このように、出雲・九州両朝の合併によって成立したのが大和朝廷であり、ニギハヤヒの末裔・物部氏が衰弱した七世紀、出雲王朝の実像は天皇家の手によって抹殺されてしまったと、原田氏は説くのである。」
(中略)
結局、スサノオを父に持つニギハヤヒは、大和の大王であって、大和朝廷の祖であり、その死後、神武天皇を大和に迎えた。そして、ニギハヤヒの子孫が「物部氏」であることになる。

つまり、日本を最初に支配したのがスサノオとその子ニギハヤヒであり、その基盤のもとに反映したのが物部氏であるということです。

日本書紀には、大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたことや、大王家は物部氏の力を借りて大和に政権を確立できたことなどを記している。万系一世を外に示したい天皇家にとって、自分達より前に別系統の「王」がいては困るわけで、そのあってはならない存在が「物部氏」であり、その象徴がスサノオだったわけです。
物部氏ゆかりの神社は全国に分布しています。その勢力が全国に渡っていたことがうかがい知れます。物部氏ゆかりの神社と地図参照

古代日本においてそれだけの勢力をもった物部氏とは何者なのでしょうか?

これは次回にしましょう。

投稿者 kumana : 2008年10月23日 23:34  

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コメント

>日本を最初に支配したのがスサノオとその子ニギハヤヒであり、その基盤のもとに反映したのが物部氏であるということです。

へ~、そうだったんですねー☆
こんなに全国に物部氏の勢力が広がっていたとはっ(^^)

次回を楽しみにしています。

投稿者 しずか : 2008年10月28日 21:16

スサノオがアマテラスに天叢雲剣を渡したのは、出雲が大和へ鉄器を供給したという、考古学的な見地と対応するのではと思います。しかし出雲神にはスサノオとオオクニヌシという2人の大物の神様がいるのかというのは、弥生後期の出雲の状況を見ればわかります。島根県安来市を中心とする東部出雲王朝(スサノオ)と島根県出雲市を中心とする西部出雲王朝(オオクニヌシ)があったのです。東部出雲王朝は早期に発達し、長きに渡って繁栄しヤマトへの鉄器供給を行った。西部出雲王朝は東部の分家として発達したが、東部よりも発展しやがて、北陸あたりまでの日本海沿岸に渡る大国家を作りました。それで大国主といわれます。しかし、それより少し遅れて大和が発展し、西部王朝は短命に終わり、これが国譲りに対応します。一方、大和から見ても東部王朝は本宗家だったので、スサノオとアマテラスは兄弟と言う設定になっていますが、この事情のため滅ぼさなかったと考えられ、この子孫が蘇我氏のような大豪族になって行くと思われます。

投稿者 たたら : 2009年09月10日 19:46

 安来はしってます。「ゲゲゲの女房」の舞台になったところで鋼(ハガネ)の有名な産地ですよね。

投稿者 オリハルコン : 2011年02月20日 08:39

 島根県にありますよね特殊鋼の産地でYSSヤスキハガネが有名ですね。

投稿者 発明王 : 2011年03月18日 00:27

説集に東比田小学校長辻勝太郎氏の報告という文面を発見しました。ヒントかも。
「能義郡(現;安来市)日田村黒田、金屋子神社は金山彦、金山姫を祭る。古来金神様と呼び、其神体は金気の
元素神として崇敬し、土砂の原料がかんなよりたたらに移され、まさこかね、あかこかねが溶解
して銑・ケラ(金へんに母)の状態を経過するは、全くこの神の霊妙力によるとせられ、出雲はもとより日本
国内の鉄山業者から古来信仰されている。」

投稿者 熱田 : 2011年04月04日 20:03

はじめましてみうらと申します。

私のブログに紹介させていただきました。
とってもキョウミ深く読ませていただきました。
スサノオの出自の書き込みにはびっくりさせられました。
どのようにしてお調べになられたのか教えてほしいと思いました。
これからもよろしくお願いします。

   えいきち

投稿者 みうら えいきち : 2011年04月07日 12:15

 そういえば日立金属さんも金屋子神社を祀っていますね。それで素晴らしい鋼鉄製品が出来るのでしょうね。

投稿者 安来のじじ : 2011年04月08日 23:13

 鳥取県の白兎海岸での白ウサギの話のあと、オオクニヌシの神は、八十神にいじめられたあたりが鳥取県日野郡あたりで、その後根之堅洲国のスサノオ神からも試練を受ける。このあたりは島根県安来市あたりになろうかと思います。そうやって島根県松江市にある黄泉平坂を通って、出雲大社のある島根県出雲市へと向かいます。こうやって、オオクニヌシの神の移動に合わせて観光するのも一興だと思います。

投稿者 神話旅行ルートの提案隊 : 2011年12月11日 21:25

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