2008年12月05日

蘇我氏は何をやったのか?

こんばんは。

日本の古代史で最大の悪者 m252 とされているのは、何氏か?と聞かれたら、なんと答えます?
日本史を学んだ人なら、大概は「蘇我氏」と答えるでしょう。

では、一般的に、朝廷に弓を引くとんでもない悪役となっている蘇我氏ですが、彼らは一体何をやったのでしょうか?
結構、「蘇我は悪い奴」というのは皆さん知っているのですが、なんで悪者なのか?を語れる人は少ないと思います?

そこで、今回は日本書紀に記述がある範囲で、蘇我氏が歴史に登場してから、どんなことをやっていたのか?記紀に記述のある範囲で調べてみました。

見えてきたのは、実は彼ら(蘇我氏)こそが、日本の律令制度を作り上げた(日本に改革をもたらした)一族であったということです。


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彼らの歴史は、蔵の管理からはじまり、渡来人を適材適所に配置することで、頭角を現し、蘇我馬子になって、大臣になります。

そして、蘇我馬子は聖徳太子と共に、大陸の先進的な知識・技術を積極的に取り入れ、「冠位12階」「17条憲法」を定め、律令制度の基礎を築きます。

一般的には、大化の改新で中大兄皇子、中臣鎌足らにより、日本の律令制度が始まるようなことが言われていますが、実は律令制度を推し進めたのは、改革の邪魔をしたとされる蘇我氏(馬子)だったのです。 Shocked

その馬子の業績を中大兄皇子、中臣鎌足らが奪ってしまったのが真相だったのではないでしょうか。

以下に、蘇我氏を主要人別に何をしたのか?をまとめてみました。

○蘇我満致<蘇我石川宿禰の孫>

・「古語拾遺」に雄略天皇の時代に武内宿禰の孫にあたる蘇我満智宿禰が秦氏や漢氏を使って内蔵、大蔵等の管理をした。との記述あり。これが検校三蔵の基と言われている。

 
○蘇我韓子<蘇我満致の子>

・記紀の記事に465年(雄略9年)に征新羅将軍の一人として紀小弓、大伴談等とともに朝鮮に派遣されたが、紀大磐と仲違いして、殺されたとある。

 
○蘇我高麗(馬背)<蘇我韓子の子>

・蔵の管理を受け継ぎ、渡来人をまとめながら、地方経営を円滑にし、朝廷の財政担当としての地位を確立する。


◎蘇我稲目<蘇我馬背の子>

・536年、宣化天皇の大臣となる。
・欽明天皇に娘、藍塩媛、小姉君を嫁がせ、石寸名を用明天皇に嫁がせた。
・552年、欽明朝の時、百済の聖明王が仏教を日本に伝えた(538年説もある)。欽明天皇は、稲目にこれを試すことを命じた。以後蘇我氏は、崇仏派の中心となる。
・皇室領である屯倉の整備に力を入れることによって天皇の信頼をえた。


◎蘇我馬子<蘇我稲目の子>

・稲目死後、572年に欽明天皇が崩御し、敏達天皇が即位し、馬子を大臣にした。
・物部守屋の妹を妻とする。
・娘、法提郎媛を舒明天皇の妃とする。
・渡来人を庇護し、先進的な知識・技術を積極的に取り入れる。
・574年、敏達天皇より、吉備国に派遣され、白猪屯倉を拡張、田部を増やす。
・585年、敏達天皇より、仏法破却を命じられる。疫病がはやったことにより、排仏派の物部守屋、中臣勝海らが、仏法破却を敏達天皇に勧め、蘇我VS物部の対立激化。
・582年、飛鳥寺建立発願。法興寺は飛鳥仏教の中心地。後に「飛鳥寺」となった。
・585年、敏達天皇崩御。用明天皇(蘇我氏系)即位し、馬子は、元通り大臣になる。
・586年、穴穂部皇子が三輪君逆を殺そうとしているのを諫めるが、皇子は守屋に斬殺を命じる。
・587年、用明天皇が病のため、仏教に帰依せんことを群臣にはかるが、守屋は反対。馬子は詔に従うことを主張。
      炊屋姫尊(推古天皇)を奉じ、佐伯連丹経手らに、守屋側についた穴穂部皇子を殺させる。併せて、物部守屋を滅ぼす。妻の縁で 守屋の領地を引き継いだ。この時、厩戸皇子も馬子側についた。
・聖徳太子と共に、寺塔建立を広める。
・587年、崇峻天皇(蘇我氏系)即位。馬子大臣になる。
・592年、崇峻天皇と対立し、崇峻天皇に炊屋姫尊(推古天皇)ともども殺されると思い、東漢直駒に崇峻天皇を暗殺させる。
      後、東漢直駒を殺す。
・594年、推古天皇は、馬子に聖徳太子と「三宝の興降」を命じる。
・605年、聖徳太子と共に、「冠位12階」「17条憲法」を定める。
・620年、聖徳太子と共に、「天皇記」「国記」「本記」作成。
・623年、新羅が任那を併合したことに対して、推古天皇、新羅征伐について、馬子に相談する。
・626年、推古天皇に最後まで仕え、没す。その2年後推古天皇崩御。


◎蘇我蝦夷(毛人)<蘇我馬子の子>

・610年、25才の時、大夫として新羅使引見の際大伴連咋らとともに登上する。
・628年、推古の皇位継承にからみ、聖徳太子の子、山背大兄皇子を推す叔父「境部臣摩理勢」を殺し、田村皇子(後の舒明天皇)を擁立する。この時、叔父の境部臣との本家争い、田村皇子、山背皇子のどちらにするか。これを処理して名実共に大臣となった。
・634年、豊浦寺建立。
・642年、皇極天皇即位。蝦夷元通り大臣になる。
      葛城の高官に祖廟を建て、八侑(やつら)の舞を行う。
・643年、病を患い、密に入鹿に紫冠を授けて大臣にした。入鹿が「山背大兄皇子」を殺した時、蝦夷はこれを聞き怒った。
・644年、甘檮岡に邸宅を建てる。
・645年、「天皇記」「国記」珍宝に火を放ち自殺する。


◎蘇我入鹿(鞍作)<蘇我蝦夷の子>

・643年、山背大兄皇子を廃し、古人大兄皇子(舒明天皇長子)を次期天皇に立てようと謀り、ついに山背大兄王を殺す。
・645年、中大兄皇子、中臣鎌足らにより宮中で殺害される。

投稿者 jomon10 : 2008年12月05日 23:55

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コメント

 歴史上悪者とされている人物は多くいますが、もしかすると別の陰謀からでっち上げられたケースも多いのでは?という気もします。興味深いところです。

投稿者 dai : 2008年12月11日 22:13

良く擁護して下さった実は蘇我氏とは蔑称である。元来邇波氏であり、山代王朝の邇波彦(彦座王、丹波道主)が、扶余王族の入国を許可して三王朝の一員ヤムトェ国を滅ぼした。其の子矢田彦(出雲王朝開祖)の子彦佐須伎の子彌母里別の子荒脛巾(出雲閉朝)の時代に百済王家より扶余王家に入り婿に来た倭名倭武大王に統一王朝を任せて以来大臣の地位を世襲してきた。其の子依網、其の子葛城垂見、其の子馬背、其の子馬子、其の子鞍作毛人(蘇我蝦夷・入鹿)・・此処で滅亡した訳では無い。次男田禰子の子神カムイ虫麿は、後の賀茂氏。三男は宗形鳥麻呂であり綿麻呂(吉備真備。吉備とは百済王族系天皇族に敗れた敗者の押し込まれた地域であり其の象徴としての蔑称である)である。我が一族は時代毎に分断されて来たのだ。公式記録とは此の様なものである。
*厳重使用禁止とさせて戴く。

投稿者 邇波言壱 : 2009年10月06日 12:33

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