2009年01月28日

「毛人」とは何者なの?

前回は、古代の関東史をダイジェストでレポートしましたが、今回は関東を探る上でのキーワードとなる「毛人」を扱ってみたいと思います。


KNブログを引用させて頂きました

利根川、太日川、毛野川の流域一帯は一体となった文化圏を形成しており、これを毛野国といいました。 「毛野国」は「毛の国」であり、もともとは「毛人国」で、この名を名づけたのは3世紀に進出してきた大和王権で、その名の由来は「毛人の住む国」です。 糸静線より東の東北日本の住民のことを大和王権の人間は「蝦夷(えみし)」と呼んだわけですが、「えみし」を「蝦夷」という漢字で表記するようになったのは7世紀以降のことであり、それ以前は「毛人」と書いて「えみし」と読んでいました。 そもそも大和王権の人間が最初に東北日本の住民と接触したのがおそらく3世紀のことであったので、この時に彼らを「えみし」と呼び、それに「毛人」という漢字をあてるようになったのでしょう。

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しかし「毛人」にしても「蝦夷」にしても、その漢字そのものには「えみし」という発音に繋がる読み方は見受けられません。 完全に「当て字」というやつです。 これはどうしてなのかというと、おそらく「えみし」が和語ではないからなのでしょう。つまり西南日本の倭国の言葉ではなく、東北日本の土着民自身の言葉であったのでしょう。 アイヌ人はこの東北日本の土着民と同系統の民族に起源を持つ民族ですが、そのアイヌ人の一派である樺太アイヌ人の言葉で「人」を意味する言葉は「encu」であり「えみし」に音が似ていますので、おそらく「えみし」とは東北日本の土着語で彼ら自身の自称であり「人間」という意味の言葉だったのでしょう。 このように、この「えみし」という言葉は大和王権の人間にとっては外来語であったので、おそらく大和王権の人々はそれに律儀に正確な漢字の同じ音をあてていく必要を感じなかったのではないかと思います。
つまり、和語であればシナ人や朝鮮人にも元来の発音を維持したまま発音させることが重要であり、そうしなければ和語のオリジナルの発音はシナ語の発音に置き換えられて廃れていってしまうのです。 だから漢字で表記する際に音が変わらないように気を遣ったのです。 しかし和語でないのならばそんな気遣いをする必要などありません。 それよりも意味が通じたほうがいいわけです。 和語ならばその音自体に倭人にとっては重要な意味、すなわち言霊が込められているわけで、その音を変えられるわけにはいかなかったのですが、和語でない「えみし」の音そのものは倭人にとっては何の意味も無いものであるし、そもそも意味自体が理解できないものです。 ならばいっそ東北日本の土着民そのものの特徴を表現する漢字の文字をあててしまったほうがよほど意味が通じやすくなります。 そういうわけで「毛人」や「蝦夷」という文字があてられたのでしょう。
「毛人」というのは単純に「毛の多い人」という意味でしょう。 これが「体毛が濃い人」という意味なのか「髪の毛が長い人」という意味なのかよく分かりません。 確かにアイヌ人は体毛が濃いので、古代における純粋の蝦夷も体毛が濃かったのかもしれません。 あるいは髪の毛を伸ばして結ばない風習であったのかもしれません。 あるいは「毛人=毛の多い人」が「髭が長い人」という意味であったとするならば、「蝦夷」の「蝦」は「えび(海老)」のことで、海老は髭が長く伸びており、「夷」が野蛮人という意味であるので「蝦夷」は「海老のように髭が長い野蛮人」という意味となり、「毛人」と「蝦夷」の意味が合致します。
このように「毛人」とは大和王権から見て糸静線より東の東北日本に住む蝦夷のことであり、「毛人国」とは「蝦夷の住む国」であり、それが「毛の国」となり「毛野国」となったのです。 つまり、利根川、太日川、毛野川の中流域の関東平野の北端部の地域共同体には蝦夷が多く住んでいるというふうに3世紀の大和王権は認識していたということになります。 蝦夷とは東北日本の土着の縄文人に出雲系氏族が混血したものであったわけですから、この関東平野の北端部の利根川、太日川、毛野川の中流域は関東地方で最も早く、かつ継続的に出雲系氏族による開拓が行われた地であり、ここにはまさしく蝦夷が非常に数多く居住していたことになり、まさに「蝦夷の住む国」=「毛野国」と呼ぶのに相応しい地ということになります。
この毛野国は大雑把に分けると、白根山、錫ヶ岳、皇海山、足尾山地などの南北に連なる山々の西の利根川水系のエリアと、東の毛野川水系のエリアに分かれることになり、これらを合わせた毛野国の全般には大和王権の勢力の進出は3世紀から7世紀前半まで徐々に進められていきました。 これが非常にゆっくりであったのは、大和王権がまだ関東への進出にはあまり熱心ではなかったということと、毛野国では土着の出雲系氏族の勢力が強く、協調的にゆっくりとした進出とならざるを得なかったのであり、またそうしたゆっくりとした進出で大和王権として全く困ることも無かったからです。 こうした緩やかな進出を行っていった大和王権系の氏族がミマキイリヒコ大王の長男であったトヨキイリヒコを始祖とする毛野氏だといわれています。
毛野氏は吉備氏や筑紫氏と並んで古代の大豪族であったとされていますが、これらは大和王権内の半独立国のような大地方勢力を束ねる氏族ばかりであり、毛野氏もそういう姿が実態であり、毛野氏を代表として推戴する毛野国は大和王権に対してかなり独立性が高い地方勢力であったと思われます。 毛野氏は皇族系の氏族ということになっていますが、元来はそうであったのかもしれませんが、毛野国の土着の出雲系氏族の連合の上に乗るような形が実態であり、かなり現地勢力と協調的かつ妥協的で、現地氏族と密接に一体化した存在であったと思われます。
しかし7世紀後半になって東アジアの国際情勢の変化を受けて大和王権が朝鮮半島重視政策を改めて東向き政策に転じ、従来、大和王権(倭国)によって「ひのもと(日本)」と呼ばれてきた蝦夷居住エリアである関東や東北への本格的な進出を志向するようになり、国号も「日本(ひのもと)」と改めました。 それに伴って関東地方についても毛野氏を通じた間接的な統治のやり方をやめて中央集権制による直接統治を志向するようになると大和王権、いや新生「日本」による関東進出は本格化するようになり、毛野国にもきめ細かな進出や開発を行っていくようになったのです。

「人間」を表す「えみし」という言葉。
もともとは、集団としての協働性や自立性、自然の一員としての想いが込められた言葉だったのでしょう。
この崇高な言葉に、「毛人」「蝦夷」というような漢字を当てる西の大和王権の人たちの精神性を疑ってしまいます。
関東・関西・・・何かと合わない感覚は、結構根が深いものなのかもしれません。

投稿者 naoto : 2009年01月28日 12:00

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コメント

関東・関西・・・何かと合わない感覚は、結構根が深い ~ ~ 同感致します。

‘毛人’ の ‘毛’ という文字は、現在も土地の名称に用いられています。
上毛野国(上野国、現在の群馬県)、下毛野国(下野国、現在の栃木県)ー ー ー カミツケノクニ、シモツケノクニ、です。

‘ケ’、と云う呼び方にどの位の古さがあるのかを知りませんが、万葉集では、‘モ’ と云う時に ‘毛’ の文字を用いています。

五世紀頃の東国と高句麗との関連についての一連の記事を、こちらのブログで読ませて頂いて、群馬県や栃木県、埼玉県には、高句麗の文化の移植が見られることを知りました。

‘モ’ と発音する時に連想される国があると思います。
「蒙古」 です。

大和朝廷の背景にも大陸文化の存在があったとして、東国を ‘毛’ の国、と云って区別しようとしたことと、中国がモンゴルに登場した強国を ‘モウコ’ と呼んだこととは、ひょっとして同じ言語感覚なのではないでしょうか。

投稿者 五節句 : 2009年04月18日 13:00

五節句さん、コメントありがとうございます。
現在は、引き続き、武士の起源を追及している最中です。
武士の起源は「俘囚」であるという説があります。
俘囚とは、奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた大量の「帰服蝦夷」を指します。
当時、国は、これら俘囚を強制的に全国各地に再配置(内国移配)し、税を免除し生計費(俘囚料)を与えて扶養し、地方の受領の傭兵的な武力として、群盗海賊鎮圧に当たらせていたようです。
非農業定住民特有の「野性」や、卓越した「乗馬」と「騎射」の技術を、彼らはどこで獲得したのか?
これを追求していくと、遊牧→騎馬民族という形で蒙古とも繋がるかもしれませんね。

投稿者 なおと : 2009年04月21日 21:36

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