2009年06月23日

交渉ごとの弱い日本人 受け継がれ続けてきた言霊信仰

日本人は、伝統的に交渉ごとに弱く、外交に常に負け続けてきた。思っていることをハッキリと口にできない民族で、損ばかりしていると言われる。

なぜ、こんなに交渉に弱いのか?

これには、日本民族に流れる『言霊信仰』が強く影響していると考えられる。

『言霊信仰』とは、言葉に力があるという信仰に他ならない。言葉には力があり、口に出したことは、その通りのことが起こるとされる。いい事を言えば、いい事が起こるし、悪いことを言えば、悪いことが起こる。だから、出来るだけ「言挙げしない」(口に出さない)。

※柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とあり、現在では神道の信者はこれを引用して「神道は言挙げせず」と言明し、理論闘争を避けることが多い。

だから、(特に古代日本人は)出来るだけ本名を明かさなかった。もし本名を明かせば、(言葉によって)呪いを掛けられてしまうからだ。よって、位の高い人間のことも、本名ではなく役職で呼ぶことが一般的だった。(現在でも、目上の人を「部長」「課長」とだけ、呼ぶことが多い。誰かの奥さんの名前も「○○さんの奥さん」と呼び、名前を呼ぶことを日本人はしない。)

※だから、『卑弥呼』も名前ではなく称号(日御子、日の巫女)であるはずである。

このように、言葉に力があるとされたのは、何ゆえか?

極限状況の中で、人類は直面する現実対象=自分たちを遥かに超えた超越存在たる自然を畏れ敬い、現実対象=自然に対して自分たちの生存(=危機からの脱出)への期待を込め、自然が応望してくれる事を切実に願った。つまり、人類は直面する過酷な現実対象=自然を凝視し続ける中で、元来は同類を対象とする共認機能を自然に対して作動させ、自然との期待・応望=共認を試みたのである。

そして遂に、感覚に映る自然(ex. 一本一本の木)の奥に、応望すべき相手=期待に応えてくれる相手=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する現実対象(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ科学認識=事実認識(何なら、事実信仰と呼んでも良い)の原点なのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=6#03

この観念機能(特に言葉)は、サルが頼りにする表情や身振りによる共認よりも、遥かに多様で容易な共認を可能にした。当然、集団内での状況の共有、課題の共有、また集団の統合を容易にした。逆に、誤った観念(言葉)では、集団の統合が崩れ、存亡の危機に陥る。
観念(の使い方)が集団の統合度を規定し、観念機能の重要性が高まっていく。

加えて、人類にとっての最先端機能は、観念機能である。
あらゆる生物は、最先端機能(先端可能性)に収束することによって統合される。最先端機能の使い方・使われ方によって、ある生物のありようは決定される。
だから、人間の場合、観念機能の使い方・使われ方によって、意識(また存在)が規定される。(例えば、「行くの嫌だな~」と思いながら寝ると寝坊するし、「行ったら楽しいだろうな~」と思いながら寝ると早起きできる。など)

実際に、言葉そのものに”力”が宿っているかどうかはともかく、人類にとっての観念機能とは人の意識や集団を司る”力”を持っているのであって、そのことを経験的に気が付いていた縄文人(原始人類)が、その力を『言霊』としたのも無理からぬことだと思う。(これは、共認機能⇒観念機能を使って、観念(言葉)の背後に「精霊を見た」とも言えるかもしれない)

観念機能(特に言葉)は、自然との調和(≒自然の摂理)を崩すくらい大きな”力”を持っている。自然との調和を重んじ、調和を崩すことを「穢れケガレ」と呼び、できるだけ避けようとした縄文人にとってみれば、この”力”を使うことを出来る限り抑制しようと考えたに違いない。それが「言挙げしない国」となった所以であろう。

出来るだけ言挙げしない、つまり口に出してはっきり言わないという姿勢では、シビアな交渉の場では必ず負ける。今でも、鋭い要求・追及を続ける欧米人に対して、言葉を濁す日本人は交渉において常に負け続けている。
現在でも交渉術・外交に弱い日本のルーツは、言挙げしない「縄文体質」にあったのだ。

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ないとう@なんで屋でした

投稿者 staff : 2009年06月23日 17:08

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コメント

>実際に、言葉そのものに”力”が宿っているかどうかはともかく

実際に言霊を駆使する現場に居合わせた経験から
申し上げれば、これはとっても恐ろしい世界です。
言葉とゆうよりも、音といいますか、響きといいますか、
知らぬが仏、嘘も方便、人間社会を平穏に
過ごすための最高の教えだと納得させられたものです。

>今でも、鋭い要求・追及を続ける欧米人に対して、言葉を濁す日本人は交渉において常に負け続けている。

面白い話しがあります。中国知識人が米国に留学し
帰国すると、舌鋒鋭くどんどん議論をけしかける
ようになり、日本を留学先にすると、まず議論を
けしかけることはなく、結論も皆にあわせるように
なるとのことです。
古代の渡来系の皆さんも、日本体質にのみこまれた
んでしょうね。その意味で、日本も相手を飲み込む
恐ろしい国といえます(笑)

投稿者 スバール : 2009年06月24日 00:05

こんにちは~^^

>だから、人間の場合、観念機能の使い方・使われ方によって、意識(また存在)が規定される。

なんとなくそんな経験あるけど、ちゃんと気づいてた縄文人ってすごいですね!!

これ、良いように使いたいです♪
(やっぱり悪いことは口に出さない縄文体質。笑)

投稿者 カナ : 2009年06月24日 02:49

言霊信仰大変面白く読ませていただきました。

はっきりと物を言わない民族=「言挙げしない国」という捉え方はあると思いますが、私は日本人の言葉に対する認識はプラス側に捉えたいです。

俳句、短歌など短い言葉で多くの情報を伝える。
まさに言葉を大切にした民族の遺産だと思います。
多くの言葉を使い口から泡を吹き出してまで議論し伝えようとする欧米人に比べ、言葉を大切にし、少ない言葉で相手に多くの事を伝えようとする日本人。そちらが大切に言葉を使っているかは明らかだと思います。

ただ、それが日本という共認域の中だけで実現してきたわけで、これからの時代、どうやって諸外国と共認していくか・・・それは確かに、ないとう@なんで屋さんの言うようにこの体質が弱点になっていることは確かです。

ただこれからの外交にとって必要なのは交渉なのか(事実)共認なのか、そこの変化も見極めていく必要があるのではないかと思いますが。

投稿者 たぬきざる : 2009年06月26日 00:30

文中の柿本人麻呂の歌ーー「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」の、‘言挙げせぬ’、は、‘~せず’、ではなく、‘~せん’、で、つまり、“「葦原の 瑞穂の国(大和朝廷)は 神代からのことばを紡ぐ国 である”、という風に解釈すべきではないでしょうか。
おそらく、神社で唱えられる祝詞の歌い出しも同じ様なもので、“これは、神のことばである”という様な意味の前置きなのだと思います。
神道の信者が「神道は言挙げせず」と云っている、ということは私は知りませんが、

この本文の主張を導くのに、人麻呂の歌を持ち出すのは、反対の意味にもなってしまうのですから、相応しくないと思います。

投稿者 五節句 : 2009年06月26日 20:23

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