2009年07月10日
毛人の国の考察 ー 3
暫らく間を空けていましたが、毛人の国 ~ 毛野国 ~ 古代東国 についての考察を又エントリーさせて頂きます。
左、掲示板にて、“東国の統合豪族・尾張氏 ー ー ” http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=209936という記事を読ませて頂いたのですが、若干、そちらの説を牽制する部分を含めるものです。
以前、当ブログでのコメント欄にて、「比較文化史」http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/index.html というサイトを紹介頂きました。
その 魏志倭人伝の読み方 という項で、‘魏志倭人伝’ の全文を読むことが出来ます。
それを、改めてみてみると、そこには、卑弥呼の時代 (三世紀) の、日本の国々の名前が、三十個、載っているのです。
- - - 「邪馬台国 論争」 では、殆ど ‘邪馬台国’ の探求のみになっていますが、他の、この三十の国々の名前は、果たして、三世紀の日本を考察するのに、役に立つことはないのでしょうか。
その 「比較文化史」 の、その、三十のうちの二十一の名前が載っている部分を次に引用致します。
次に斯馬国あり、次に己百支国あり、次に伊邪国あり、次に都(郡)支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。
(同上 43p)
これら21ヶ国の比定地については、現在のところわからない。地名から類推する方法が必ずしも有効とは思えないが、他に手だてがあるともいえない。暇な人はやってもいいが、時間の無駄になるだけだろう。答えの有無を判断すれば、ないが回答である。
この21ケ国を (現在の) 何処かの地に比定することは無理であると、言い切っていますが、それでも、全く参考にならない ということも無い と思うのです。
例えば、斯馬 は、シマ (志摩) と、読めないでしょうか、己百支 は、オワリ (尾張) と読めないでしょうか、そして、鬼奴 はケヌ (毛野) と読めないでしょうか、
・ ・ ・ ・ 邪馬台が、時が経ち魏の国ではなく日本の国でも記録がされる様になって 倭、大倭、大和という風に表記は変わっても、ヤマト という音は残った様に、ここにある21個の国の音は、やはり、後世にも残っていったものがあるのだと思えます。
たとえ、シマ や、オワリ や、ケヌ が、その様に読むことが当たっているとしても、それがそのまま、現在の伊勢や三河の尾張や東国の毛野の地域、そのままを云うものであるとは、云えないことですが、三世紀の日本列島には、卑弥呼 (女王) の支配 (境界) の及ぶ、そういう音を持った国が存在した、という解釈を持つことは、間違ってはいない と思います。
そして、それらの国は皆、力関係に於いては均衡していた様な印象で書かれてあるとも思います。
つまり、何が云いたいか というと、邪馬台国が存在した三世紀には、ケヌ という国が既に存在し、大和朝廷が発展を遂げて アオニヨシ奈良が都となって繁栄していた時に、そこはトリガナクアヅマという鄙の地であったかもしれないけれども、けして、その属国であったり、被支配国であったことは、無かったのではないか と思うのです。
私は、尾張氏が、東国の統治に介入していたようなことは、無いのではないか と、思います。
投稿者 五節句 : 2009年07月10日 16:11 Tweet
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.kodai-bunmei.net/cgi/mt-tb.cgi/862
コメント
五節句さん
毛人の国の考察、面白く読ませてもらっています。
三世紀の日本の状況は五節句さんが言うように独立した地方が群雄割拠の状態にあったのだと思います。それも戦乱状態ではなく微妙な緊張状態で領域を定めて共存していたのだと思います。古墳の造営もその延長にあったのだと考えています。
尾張が東国に入ったのが4世紀後半、古墳時代が始まって1世紀が経過しています。本当に濃尾平野の前方後方墳が東へ広がっていったのか、そこは古墳年代の設定も含めて改めて調査して以降と思っています。
その上で東国の統合状態が大和朝廷の時代にどうであったのか、仮説を組み立てていきたいと思います。
突っ込みコメントありがとうございました。
投稿者 tano : 2009年07月11日 21:56
tano さん、ご丁寧なコメント恐縮です。
・ ・ ・ 尾張氏が古墳時代が始まって一世紀も経つと、東国に進出しているという、それは、大和朝廷の成員としての任を背負って、という意味になるのでしょうか、それとも、尾張氏単独の勢力拡大を図っての動き、ということでしょうか。
さきたま古墳群の築造はほぼ五世紀から始まった、と現在までの調査により判定がされているようですから、そうすると、その古墳群を造った集団は、既に、尾張氏による指導や統制を受けていたことになります。
ー ー ー う~ん、正直、東国への尾張氏の進出というのは、私には寝耳に水の説でした。
朝鮮半島からの移住者の移植、というお話にもなっているようですが、引き続きその考察への注目をさせて頂くつもりです。
投稿者 五節句 : 2009年07月13日 22:03
こんにちは。古墳情報を少しばかり。
5世紀-さきたま古墳群-前方後円墳
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/historic-site/tomb-site.html
4世紀中頃~後半-塩古墳群-方墳・前方後方墳
http://kofunnomori.web.fc2.com/saitama/kounan/sio.htm
3世紀末~4世紀初頭-権現山古墳群-前方後方墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4_(%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%BF%E9%87%8E%E5%B8%82)
埼玉は武蔵国、武蔵国一ノ宮は氷川神社、武蔵国には氷川神社がいっぱい、氷川神社の祭神はスサノオ、スサノオは出雲。
前方後方墳を伝えたのは出雲とも考えられますね。
東国、面白いです!
投稿者 Anonymous : 2009年07月16日 21:46
コメントしてください |