2009年09月24日

新テーマ:「日本人は闘えるのか?」①~縄文から流れる日本人の可能性と弱点

民主党鳩山内閣が動き始めましたね!

今回の民主党の圧倒的勝利は、これまでの60年にもわたる自民党の権力支配の壁を打ち崩したという意味において画期的な出来事であり、大衆的な共認闘争の勝利である、というのが本質ではないでしょうか。

そんなわけで民主党には真の意味での“民主”政治を期待するわけですが、自民党が崩落した今、残された課題は“第一権力たるマスコミ”との闘いです。加えて、諸外国からの圧力も含め、縄文以来の受け入れ体質をに残している私たちにとって、これからが正念場ですね。

そこで新しい時代の幕開けということもあり、新テーマを設定しました。
題して、 「日本人は闘えるのか?」
何回かのシリーズでお送りしたいと思います。
まず初回は、縄文人が渡来人を受け入れた時の考察から、弱点構造の位相について紹介します。


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少数の渡来人が多数の縄文人を制覇しえた理由は?② 

弥生時代を可能性収束として受け入れた、かどうかについては大いに疑問です。
というのは、そのような各集団が独立した状態であれば、その集団に対してかかる同類圧力(侵略圧力)には、あくまでもその集団単独で対応しなければならない、ということになります。具体的にはその集団単独で戦うか、服属するかの選択です。

とすれば、例えば他集団の状況(無惨な敗北)を見て、贈与以来の闘争回避の方法論=服属という判断に多くの集団が傾斜したということが類推できます。

いったん同類圧力(この場合は略奪闘争の圧力)が顕在化すれば、それを制御する力は序列の共認しかありません。具体的にいえばそれは、私権時代初期においては、先ず制覇集団(部族)と被制覇集団(部族)間の集団間の序列として登場し、それがやがて身分序列に転じていきます。

集団秩序や社会秩序の維持=統合が絶対課題だとすれば、彼我の力量を鑑みて服属を受け入れるしか選択肢がない、という状況判断も成立したことでしょう。その際にぎりぎりの妥協策として、集団の共認(婚姻制度など)は可能な限り維持し、社会的序列だけを受け入れるという判断が成立したのでしょう。


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(最初に渡来したのは騎馬民族ではありませんが、、)


略奪闘争の高まりはある意味で社会空間=同類圧力が顕在化する空間がいびつな形で開かれたことを意味すると思います。この同類圧力(私権圧力)の満ちる空間=社会に対して、とことんそれを捨象した、これが縄文人=その後の日本人の特徴だともいえます。つまり大半は、それを前向きの可能性として受け取ったとはいいがたいように思います。これが身内意識の強さや、お上意識の強さ等の、本源的だが社会空間に対して閉鎖的な日本人の体質として、現在も濃厚に残存しているといえるのではないでしょうか。

その後市場によって新しい社会空間が開かれ、現在私権圧力の衰弱によって集団の圧力が衰弱し、意識の外向基調がが顕在化してきまた。(四方勢至: 「外向収束⇒認識収束に応える『認識形成の場』」社会空間での圧力をとことん回避し、本源性を守ろうとしてきた日本人が、新たなこの期待と応望に基づく同類圧力に前向きに対応できるかどうか、今日本人はある意味で第二の正念場に立たされていると思います。


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2千数百年の時を経て日本人が第二の正念場を迎えたという意味、事実に、私たちはもっと自覚的に認識する必要がありそうですね。
縄文共同体の長き共認原理の時代、弥生以降の私権原理の社会、そして現在、私権が衰弱してようやく人類本来の共認原理の時代が到来したということです。

この新しい社会=可能性の開かれた状況において、縄文人の本源性が可能性基盤となることに疑いは無かろうかと思いますが、一方で身内意識が強く社会と距離を置く閉鎖的な日本人が果たして可能性をこじ開けられるのか、実現できるのか、、、

まずは私たち自身、日本人の特性をよく理解するところからはじめていきましょう。

投稿者 nishipa : 2009年09月24日 20:48

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コメント

>2千数百年の時を経て日本人が第二の正念場を迎えたという意味

当然ではりますが、今を呼吸する我々は、今を基準に
生きてしまいます。前述したとおり、これは当然のことです。

歴史を振り返りますと、100年前に終末思想を唱えるもの、
今こそ地球変革の時であると叫ぶもの、人類最後の
チャンスと唱える人間がいつの時代もいて、結局
普通に時代は流れていままさにこの時代です。

特別な時代はなく、普通に時代は流れるだけかと
思います。

投稿者 スバール : 2009年09月25日 22:45

こんにちわ、 nishipaさん。

こちらのブログにとってとても大切なことをご説明されているようなのですが、正直に申しまして、観念的な用語の羅列で、そのままでは理解できないのです。
スバールさんのご意見が、教養ある日本人にとって一般的なものかと思います。

この先、思想哲学的な領域はパスして、自分の興味に重なる歴史探求のご発表にだけコメントさせていただいていいのか、それでは皆様の目的に添えないからコメントはかえってご迷惑、失礼になるだろうかと、ちょっと悩んでおります。

とりあえず、ひとつだけ質問させてください。

「人類本来の共認原理」というのは、鳩山総理が云っておられる「友愛」と同じようなものでしょうか?

投稿者 タツ : 2009年09月26日 14:11

タツさん こんばんわ。
少々混乱させたようで説明をさせてください。

ブログ「縄文と古代文明を探求しよう」はるいネットというサイト運営をしているメンバーの中から選抜20名少々で特に歴史を探求するグループとして創設されました。(その後に歴史好きの参加希望者の方が会員として加わり現在は45名になっています)

るいネットには歴史のカテゴリーがたくさんあり、そこでは平成元年から現在にいたるまで多くの歴史追求投稿がなされてきました。nishipaさんが今回記事にされたのは、るいネットで議論されていた投稿の中から今回のテーマに合うものをセレクトして記事としてまとめて紹介されたものです。

このブログの主旨である「現代社会の問題点を歴史を学ぶ中で解明していこう」という点では、個々の歴史史実の追求に加えてそれを読み解く仮説や人類史を貫通する歴史認識の方法が重要になります。るいネットの投稿を積極的に活用していく目的はそこから多くの切り口や発想が取り出せるのではないかと思っているからです。

その意味で、同類圧力、私権圧力、共認原理など「るいネット」で使われている概念言語が登場してきます。るいネットの会議室で長く議論してきた方にとっては共通言語に近いこれらの言葉も初めて目にする方にとっては意味がわからない、という事になります。その点では確かにそこの説明もある程度、併せて紹介していくことが必要になりますね。

運営側もそこの配慮が必要かと思い、今回のタツさんのコメントは貴重なアドバイスとしていただいておきます。
ちなみにるいネットに掲載されている新概念の定義集がありますのでそちらも参考にしてみて下さい。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=400&t=0


その上で、タツさんの質問
>「人類本来の共認原理」というのは、鳩山総理が云っておられる「友愛」と同じようなものでしょうか?

これについてはぜひnishipaさんに答えていただきたいと思います。よろしく!

あっ、それからタツさんのコメントでの参加、大歓迎です。
全然迷惑でありませんのでこれからもご鞭撻よろしくお願いします。

投稿者 tano : 2009年09月27日 00:04

スバールさん、タツさん、コメントありがとうございます。
いきなりで、ちょっと分かりづらかったですね。

鳩山さんの“友愛”がどのようなものか詳しくないのですが、「友愛とは、すべての人が互いに人の役に立ち、必要とされることで、社会につながっているきずな。居場所を見つけられる世の中だ」 と総理自身が説明されているようです。文字通り受け取れば素晴らしい社会ですね、まさに共認充足の世界です。ただ、“友愛”というような響きのいい言葉だけではなく、もう少し構造的に歴史を振り返ってみます。以下長くなりますがお付き合いください。

共認とは、単純に言えば共に認め合うことですが、元々はサル時代に形成された適応機能のことで、相手の不全(期待)と自分の不全(期待)を同一視する共感回路を原点としています。相手と同化することによって充足(安心感等)を得ることができる、これを共認機能と呼んでいます。
サル・人類は、本能のうえに共認機能を獲得し、さらに観念機能を獲得し、適応してきたわけです。

始原人類が洞窟の中で暮らしていた時代に同化してみると、
まだ弓矢等の武器も無い弱い人類は洞窟の中で隠れ住むようにしか生きていけなかった。外に出れば獰猛な動物たちに襲われる。食べ物は殆ど手に入らず、なかには人骨の髄をすすってまでも種を存続させようとした形跡もあり、極限的な過酷な状況のなかで必死で生きていた。まだ言葉も無かった時代、相手(みんな)の表情を手探りに、相手(みんな)の不全や期待に同化して、共に共感し、安心感や充足感を得て、それを唯一の生きる活力源とするしか無かったことでしょう。まさに、共認充足を唯一最大の活力源とした集団(社会)だったわけですね。

人類社会とは、このような共認機能を土台にして、様々な外圧に対し、課題や役割や規範を共認することによって統合された社会(=共認社会)であると言えます。
始原から縄文時代の長い間は、過酷な生存圧力に対して、共認によって統合された社会=共同体社会でした。
ところが渡来人がやって来た弥生以降は、その同類闘争圧力に対して、力のあるものが勝つという力の序列原理(私権序列を共認すること)により社会は統合され、以降現代まで続いてきました。

しかし、現在においてはもはや私権も衰弱し、序列原理も有効に働かなくなりました。現にアメリカ覇権は地に堕ち、自民党の権力支配も終わり、共認原理の時代に転換しつつあります。共認形成機関であるマスコミが大きな権力を握っているのがその証左といえます。このように力の序列原理が無効になったということは、残された人類本来の共認(原理)によって社会を再統合するしかない=逆に言えば可能性が開かれたということです。

これまでの私権序列原理といっても弥生以降2千数百年の歴史しかなく、人類500万年の歴史から見れば、実に人類史の99.9%は共認によって統合された社会であったわけで、現代は人類史500万年における大転換の時代であると認識しています。これが“第二の正念場”という理由ですね。

このような共認社会の到来を迎えて、縄文気質(=共同体の本源的な共認体質)を色濃く残すわれわれ日本人には大きな可能性が期待されるわけですが、果たして本当に闘えるのか(といっても戦争するわけではなく、私権序列原理VS共認原理の闘いということですが)、併せ持つ弱点も踏まえて追求してみようというのが今回のテーマです。

~いったい、人類はどこで道を誤ったのか? 人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られている。~・・・当ブログの趣旨であります。

大変長くなってしまいましたが、歴史認識も含め一緒に追求していただければ心強いです♪

投稿者 nishipa : 2009年09月28日 15:33

傍観者として気づいたことを書かせていただきます。

サルの時代に獲得した超能力を復活させて、人間をサルの子孫と認めないキリスト教文明の猛威に抵抗し、稲作中心歴史観を押し付けた弥生国家の行き詰まりを打破しようというようなことかと受け取らせていただきました。

わたくしの受け取り方で間違っていなければ、皆様の活動が、「自分はサルとは違う→自分はサルに近い者たちを支配してよい」という思想の人々を活気づけはしないだろうかと危惧いたします。
(柳田國男の山人研究は、その思想の人々の罠にはまったのであろうと、わたくし高塚タツは考察中でございます。)

むかしの政治家のなかには、「日本民族の潜在能力」なんてことを、それが何であるか「わからない」ことが素晴らしいことであると日の丸の扇子を振って、国民を近づけない人がいました。
経験則のみから「潜在能力」を操るシステムは、祝祭空間における芸能であって、法治国家がそれを行なうのは、人類に対する罪です。ですから、祝祭装置の分析的解体が進行している期間は、「潜在能力」を担保に貸した金を回収できなくても、人間をサルに落としめることは許されないのでありましょう。

投稿者 タツ : 2009年09月28日 18:41

なかなかこのブログにしては活発な意見のやりとりがあってよいと思います。ただ、この課題をここでやりとりするのはちょっと場が違うようにも思いますので、続きはぜひるいネットに投稿という形でいかがでしょうか?

ただ、一言だけ添えておきます。
>サルの時代に獲得した超能力を復活させて・・・
⇒サル時代に獲得した共認機能は超能力ではありませんし、ごく日常的に私たちが使っている能力です。共認機能を延長させて獲得できたのが言語機能であったり、相手の気持ちを察したり考えたりする普通の人間に備わっている機能です。
この機能を使って何をするか、そこが分かれ目で、これまでの人類史は文明史以降では決してよい方向ばかりには使われてきませんでした。

>わたくしの受け取り方で間違っていなければ、皆様の活動が、「自分はサルとは違う→自分はサルに近い者たちを支配してよい」という思想の人々を活気づけはしないだろうかと危惧いたします。

その心配は全くないと思います。(すいません、理由までは付け加えませんが)
ただ、潜在思念や言葉にならない人々の奥にある共通のものを何らか言語化する過程が必要だと思っています。その意味では言葉を選び、常に思索をされているタツさんと同じ地平です。

投稿者 tano : 2009年09月28日 19:15

>これまでの私権序列原理といっても弥生以降2千数百年の歴史しかなく、人類500万年の歴史から見れば、実に人類史の99.9%は共認によって統合された社会であったわけで、現代は人類史500万年における大転換の時代であると認識しています。

nishipaさん

個人的にこのスケールを語れません。想像するだけで
眩暈を起こしそうです。
私はのんびり自分史(これすら困難)を振り返って
いきます(笑)

がんばってください。

投稿者 スバール : 2009年09月29日 23:18

お忙しいところお邪魔いたします。高塚タツでございます。

別のところで縄文由来のエネルギーを搾取するマニュアルの存在を察しまして…。
tanoさんがきっぱり否定なさったから、こちらのブログでは、わたくしが心配する必要はないのでしょう。
サルの超能力とは、巨大観音の掌の上の孫悟空のことです。ご不快にさせてしまったなら、申しわけありません。

皆様のユーモアセンスに惹かれて出没させていただきましたが、実現論の文体には入ってゆけないので、るいネットは遠慮することにしました。

さて、そもそものnishipaさんのご発表にある

>縄文人が渡来人を受け入れた時の考察から、弱点構造の位相について<

というのは、なかなかな切り口。
日本社会では、支配層が外来者意識を持ちたがる傾向がありましょう。征服されたがる民族なのか、内側から芽吹くパワーを摘み取ってしまう仕組みの成り立ちを、『万葉集』の外側から読み取ることのできれば、500万年とはいかなくても、千数百年のあいだ放置してきた問題にようやく立ち向かえるかもしれません。

投稿者 タツ : 2009年10月01日 21:23

眩暈を起こしそうです。>(スバールさん)

スバールさん、私もこの事実(認識)を知ったとき、眩暈を覚えるほどの知的興奮を感じましたよ。
こんな経験にはそうそう出会えるものではありませんね。
「自分史」に引き篭もってしまうのは勿体無くありませんか。

投稿者 ryujin : 2009年10月01日 23:10

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