2009年10月19日
「日本人は闘えるのか?」④~不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰
「日本人は闘えるのか?」③~次代の実現基盤(「老舗企業大国」日本)
続いて「日本人は闘えるのか?」シリーズ第4弾です。
前回の老舗企業にも日本人の特性がうかがい知れる部分が多くありましたね
>老舗企業は、市場が利益第一志向へと変遷していく中でも、それだけに収束するのではなく、社会的な役割=期待も常に掴み、あくなき追求心と心遣いをもって応えてきたのではないかと感じます。<
では、社会が「私権第一」「個人第一」に染まる中、こういった社会的役割=期待に向かっていく企業を数多く産み出した日本人の精神構造はどこで創りだされたのでしょうか??
そのヒントに、常に対象を直視する思考・縄文時代の『精霊信仰』があるのではと思います。
縄文社会は無文字文化であることから、当時語られてた言葉そのものを・・・というのは難しいですが、縄文同様に『精霊信仰』を行なっていたケチュア等、ネイティブ・カルチャーについての投稿をるいネットhttp://www.jinruisi.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=4829より紹介したいと思います。

「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。その背景にあるのは、自我を基盤に宿した私権社会故の 過剰競争・自我摩擦・搾取等の不条理からの逃避、そして「死」への恐怖と言えるのではないでしょうか。
対照的に、 ケチュア等、ネイティブ・カルチャーに見られる、精霊信仰の発展した「純粋形態としての宗教」において捧げられる祈りは「感謝」と「同一化」です。 いくつか、彼らの言葉を紹介します。
われわれにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。 自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。 われわれインディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な存在として見ているからでもない。われわれが自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。われわれは自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力がわれわれの生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。
(北米 ケチュア族)
我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。宇宙の全ては呼吸しています。ですから、命を授かった時点から地球のサイクルに入り、宇宙の全てと呼吸を共有しているのです。生命を授かったことに責任を持ち、自らを啓蒙しながら自分の道を歩まねばなりません。それこそが地球を通過している本来の意味なのです。私たちの伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。 一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。「死」に恐れを感じる必要はないのです。人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、 それだけ自分に自信がないのです。
なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。 人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。
(南米 クレナック族)
朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。 どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。
(北米 ジョーニー族)
このような、彼らの言葉の中に、「存在不安」の影は微塵も感じられません。自らと、全ては同一であることを知り、そこに存在することに、ただただ感謝を捧げるのみ。現世からの救済を願う、存在不安を抱えた私権社会宗教(キリスト教等)と、万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰では 雲泥の差があります。 我々は、彼らから多くのことを学ばなければならないと感じます。
現実を対象化し、受け入れ期待し応えていくことこそが『精霊信仰』です。
縄文社会で培われた万物との同化を試みる精神構造が脈々と受け継がれる日本人だからこそ、否定と自我に立脚した近代思想の蔓延る時代においても対象を見失わない強さを持つことができたのではないでしょうか。
投稿者 dai1028 : 2009年10月19日 18:05 Tweet
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コメント
>不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰
このタイトルいいですね。
古代宗教が不安発ならば、精霊信仰は充足発といったところでしょうか。
縄文に限らず原始人類はみな精霊信仰から始まっていますが、跡形もなく消え去った民族と、現代まで心底に脈々と受け継がれている民族との差は何なんでしょうね。
日本においては略奪闘争の始まる時期がかなり遅かった(もっともさしたる戦争も無かった)わけですが、それ以上に、庶民における共同体の暮らしを長く長く続け守ってきたからなのでしょうね。
投稿者 nishipa : 2009年10月21日 12:35
否定発に対して、全てを肯定して受け入れている。ここが現代人の意識とはかなり違うところだと感じました。
どんな外圧に対しても不安がなくなれば、それを受け入れ突破できる。そんな強さが日本人にはあるというところでしょうか。
投稿者 さーね : 2009年10月22日 21:00
うまく言えないのですが、
一神教は『唯一神 対 個人』の関係が強く、個人間の関係が弱い。
それに対して
精霊信仰には“唯一”とか“個”のような概念が存在せず、取り巻く全てが一体のものであると言うような感じ。
集団の結束力と言う観点からは明らかに精霊信仰に分があると思う。
投稿者 R : 2009年10月22日 22:04
nishipaさん、さーねさん、Rさん、
コメントありがとうございます。
>古代宗教が不安発ならば、精霊信仰は充足発といったところでしょうか。<nishipaさん
本当にそうですね。正に厳しい現実も含めて受け入れる精霊信仰だからこそ、その先の本当の充足に到達出来たのではと思います。
>どんな外圧に対しても不安がなくなれば、それを受け入れ突破できる。そんな強さが日本人にはあるというところでしょうか。<さーねさん
縄文時代・先人から脈々と受け継ぐ万物への同化と応合の姿勢があれば、どんな大きな課題であれ突破する力を日本人は持っているように思います。
縄文の思考を勉強する過程で、先人から学ぶことは本当にたくさんあるなと感じています。
>集団の結束力と言う観点からは明らかに精霊信仰に分があると思う。<Rさん
そうですね。それこそが共認を最大の活力源・圧力源とする人間にとって最高の力を発揮する可能性となるのではと思います。
投稿者 dai : 2009年10月22日 22:36
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