2009年10月25日

縄文から流れる日本人の本源性の中身とは?-4

こんにちわちわわです。
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現在の生産と消費が分断された核家族には、課題もなければ、話題もない。教育の機能も著しく低下するばかりではなく、子育て不安に駆られて子供も産めないといった集団としてもはや崩壊状態に陥りつつあります。

しかし、縄文体質を色濃く残した日本では、つい最近までみんなで子育てするといった風習も残っていたようです。
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共同体では、子供はみんなで育てる。

大家族制度で知られる飛騨白川郷からの江馬三枝子氏の考察もおもしろいです。

飛騨白川郷の大家族の家々では、一軒の家の縁側に、エズコ、エズメなどと呼ばれる藁でつくった入れ物が六つも七つも並べてあり、その容器に赤んぼうたちを入れて、母親たちは田畑に出かけた。赤んぼのほうは母親の帰りを待っている。

仕事を終えて家に帰ってきた母親は、まず泣いている赤んぼに乳を飲ませる。それは誰の子でも差し支えない。その赤んぼ満腹して泣きやみ、まだ乳が出る場合には自分の子に飲ませる。だが、前の子に充分飲ませるために、自分の子が飲み足りないことがある。すると次にやってきた母親に自分の子供を渡して、乳を飲ませてくれと頼み、また働きに出かけていく、といったふうであった。

この話は真の共同生活を確保するためには、女たちの育児の共同性にまで及ばないとならぬことを示唆している。子供が生まれた場合、母と子の強固な紐帯が生まれて、他者との連帯を脅かすようになる。白川郷の場合、それがたくみに抑止されている。
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上記の事例は、生産集団である共同体を基盤とし、その共同体を維持するための規範に基づく行動が残存していたといえます。共同体を構築し、維持するには生産・闘争過程だけを共同にするだけでは不十分で、子を育てるといった生殖過程も包括しなければいけないことをあらわしています。また、誰の子というこだわりなく育てていくことで女性の自我も自然と抑制される、または自我が萌芽しないといったほうがいいかもしれません。

意識が個人に分割された現代でのお互いの助け合いといった母親たちの動機に比べると、集団に立脚している分、女性の強さを感じます。

引用以上

健全な子育てのためには、さらに、女の充足のためには、安心して子育てできる環境が不可欠となりますが、現在の家庭がその機能を持ち得ない以上、家庭に変わる場が必要になります。そのためには、生産と生殖を包摂した本源集団の再生が不可欠であり、家庭に期待できないのであれば、企業がその役割を担っていくしかないでしょう。農業の期待が高まっているのは、単なる食糧生産という産業に止まらない集団再生の課題があることをみんな潜在的に気が付いているからではないでしょうか。

投稿者 tiwawa : 2009年10月25日 19:25

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コメント

ちわわさん、こんにちわ~。

わたくしは子育ての経験がないので、偉そうな意見を云ってはいけないのでしょうが、核家族をモデルにした予算づくりでは、計算と実感が離れていくばかりだと思います。
たとえば、子育て給付金の2万6千円なんて、生活に困らないけれどセレブではなかった家庭までを幼稚園のお受験に駆り立て隣近所で競争する結果になりはしないかと心配です。

だから、白川郷の大家族のあり方は、さまざまなヒントを与えてくれる貴重な財産であると、ご発表の主旨に関心して読ませていただきました。

ただ、「白川郷=縄文」なのでしょうか? 平家の落ち武者だから隠れているという話もありました。大家族で住むのは、福建省の客家の例もあります。
平清盛の日宋交易のときに形成された漢方薬流通のネットワークが、縄文の母系社会に寄生して、「闇」になっているなんて、ありえないかしら?

柳田國男「毛坊主考」を読んで、そんなことを考えました。
坂口安吾「飛騨・高山の抹殺」も、おもしろそうですよ。

投稿者 タツ : 2009年10月26日 10:31

>この話は真の共同生活を確保するためには、女たちの育児の共同性にまで及ばないとならぬことを示唆している。子供が生まれた場合、母と子の強固な紐帯が生まれて、他者との連帯を脅かすようになる。白川郷の場合、それがたくみに抑止されている。

この部分が一番よくできていると思いました。
子供と母親との紐帯は本能です。共同体の成員は時にそれが集団で生きていく為の障害になることを知り尽くしていた。
だから、そうならない仕組みを工夫して実践していたのでしょう。共同体として存続していくという事はいろんなところに抑止の為の弁があり、それをみんなで守っていくとうことなのだと思います。

この時代まで残ったのは、厳しい自然外圧があった白川郷だから可能だったのかもしれません。今、改めて共同体を構築していく上で考えなければならないのは、抑止の為の装置であるかもしれません。しかし、同時にそれで得られる喜びや充足のようなものもセットで必要になってくると思います。

白川郷で母乳を代わる代わるに飲ませる母親たちのやさしい気持ちの中にそれがあるようにも思います。

投稿者 tano : 2009年10月26日 22:30

>農業の期待が高まっているのは、単なる食糧生産という産業に止まらない集団再生の課題があることをみんな潜在的に気が付いているからではないでしょうか。

企業の農業参入、注目されてますよね。
でも、農業だけではやっていくことはできていないのが現状で、ワタミグループなんかは、居酒屋という「稼ぎ頭」がいるから農業もできている。

今後、それぞれの企業が農業を担うようになっていけば、
企業内で自給自足ができるようになり、やがて国内の食糧自給率も回復することができそうですね。

自分の家でとれた野菜がおいしいように、自分たちの会社で作った野菜なら喜んで食べると思います。

投稿者 さっちょん : 2009年10月27日 01:36

私の友達でみんなで子育てをしたいと、サークルを作ったりあちこちに出かけて輪を広げていこうとしていた人がいました。
でも結局うまくいかなかったようです。
その原因は、

>現在の家庭がその機能を持ち得ない以上、家庭に変わる場が必要になります。そのためには、生産と生殖を包摂した本源集団の再生が不可欠であり

だったんですね!
生産と生殖を包摂してこそ本源性は復活できるんだ^^
なるほどでした♪

投稿者 ぴんぐー : 2009年10月27日 21:53

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