2009年10月28日
日本の官僚制の歴史(1)~なぜ科挙は導入しなかったのか?
こんばんわ。tanoです。このシリーズもいよいよ中盤にさしかかってきました。
今回は前回の「科挙の歴史」を受けて日本での官僚制について見ていきたいと思います。
第1回で指定のあったテーマの幹
10/28 官僚制の日本史1~日本は何を取り入れ、何を取り入れなかったのか?
日本はさかんに仏教を輸入し、律令制度を導入したものの、科挙は取り入れなかった。その背景に何があったかを考えてみたい。
日本の律令制や仏教の導入は百済、隋、唐に倣ったものであるが科挙は取り入れていない。なぜ取り入れなかったのか?それを見ていくうえで律令制を取り入れる背景を見ていきたい。
律令制と仏教の導入は歴史的には同義であり時代もパラレルである為ここでは一旦律令制に限ってまとめておきます。
日本の律令制は6世紀後半から始まり8世紀初頭の大宝律令までおおよそ100年間の間に蘇我氏―天智―天武―持統天皇(実質は藤原不比等)によって形にされてきた。
それまでの氏姓制度や部民制によって成りたっていた地方と中央が合い並ぶ豪族連合にとってかわって中央政府による統一国家の形成に舵をとったものだった。
主な制度とその成果についてはおおよそ以下のようになる。
①蘇我氏による冠位十二階による官職の制定で既存の氏姓制度は解体、「田令」による徴税の為の戸籍令によって、日本での官僚制の基礎が作られた。
②大化の改新後に公地公民制、租庸調の制度、班田制、戸籍、計帳の制定、国・郡・里といった行政範囲の分割とそれを管理する行政機関の設立と次々と律令制の原型がつくられる。
③一旦、白村江の敗北で律令制の浸透は歩を緩めるが、天皇として実権を確立した天武の代にそれらは制度として国内に実施され、不比等による大宝律令、養老律令によって明文化され完成した。
以上、詳しくはるいネット「古代官僚制の歴史1~4」を参照ください。
日本の古代官僚制の歴史(1)~大王(おおきみ)によって成された初期国家制度
日本の古代官僚制の歴史(2)~蘇我氏が官僚制の基礎を築いた
日本の古代官僚制の歴史(3)~天智、天武から藤原によって完成された律令
日本の古代官僚制の歴史(4)~奈良時代の官僚制度
中国と日本の律令制の最大の違いは科挙の導入がなかった事と天皇制である。
さまざまなアプローチがあると思うが、この2つを考える事が、日本の官僚の歴史を見ていく上で必須であると思われる。
順番に追求していきたい。
①科挙の導入がなかったのはなぜか?
(基本回答)
⇒律令制や仏教の導入の当初の目的が、中国に対する対等外交の手段であったから。
(補足説明)
これは7世紀に律令制の導入がなぜ行われたのか?に遡る。
一番大きな理由は対外圧力の上昇である。589年にそれまでの分散して戦乱関係にあった国をまとめて統一国家隋が建国されると周辺国に対して侵略圧力が加わる。朝鮮半島の戦乱は熾烈を極め、百済、新羅、高句麗が隋―唐の圧力を受けて国家存亡の危機に突入する。その圧力は遠く海を隔てている日本にあっても強烈に加わった。倭国はすでに百済と同盟国として連携しており、百済滅亡を目の当たりにし、さらに白村江の敗北を経験、当時最も遅れていた倭国はこの時、急速に国力をつける必要性を持つ。
わずか100年足らずで、何もなかった日本に仏教建築が立ち並び、中国とほぼ同じ律令制が始められたのも唐の外圧に対して一刻も早く日本という国家をアピールする必要性があったからである。
仏教導入が国家仏教であり、教義ではなく巨大建築や仏像から入ったのも体外的なアピールが必要だった所以と説明できる。また律令制においてもそれまでの下地がまったくない状態からあっという間に公地公民制や班田制、租庸調の制度といったものが実施されている。すさまじい外圧とそれに対する危機感、焦りのようなものが後押ししていた。
それらの制度を速やかに定着させる為に用いたのが地方豪族の協力体制だったと思われる。冠位十二階、二十六階、八色の姓など中央、地方の豪族の地位を時々に変化させながら朝廷への帰属を誘導し、早く言えば地方豪族をうまく利用するしか国家存亡の危機に立ち向かえなかった。またこの間においても国内の勢力争いがおき支配者が移り変わるが、律令制の定着、仏教の拡大という国家戦略に対しては直前の為政者の成果を共有し、さらにそれに塗り重ねている。それは藤原不比等とて同じで、地方豪族の既得権や利益を保証しなければ国としてまとめることは不可能であったと思われる。
ここで中国での科挙導入の根拠を前回のないとうさんの記事から引用しておきたい。
>結局のところ科挙は、設立時には「既得権益を持った旧貴族階級を追い出すため」、王朝交代期には「(武力による王朝交代に伴って)官僚機構を確立するため」に作られ存続した。
日本においては旧貴族階級を追い出す必要がなかった、というかそれをしていては中央集権国家「日本」の形が作れなかったという点である。一方、日本は半島の敗北部族の集まりである。聖徳太子が「和を以って尊し」と言った様に部族間が勝ち抜き戦によって淘汰される過程をそれまで踏んでいない。追い出さなかった理由は国内での激しい武力闘争の歴史がなかったこと、その後の政治体制においてつい最近まで談合や連合といった持ちあいの形がとられていたこと、両者から頷ける。つまり弱小国日本は共存の力学はあっても排除の力学がなかったのである。
②天皇制はなぜ日本にできたのか?
(基本回答)
⇒中央集権国家を短期間に作り上げる為に創造された観念。国内的にはばらばらの地方豪族とその下の大衆の共認を一気に作り上げる為に権力だけでなく権威が必要であった。
また、対外的には唐との対等外交を行う為に中国の皇帝と同等かそれ以上の呼称の存在が必要だった。
(補足説明)
すべての土地と民は天皇の所有物であるとした公地公民制を施行するには、すでに大衆の間に成立していた祖霊信仰に上重ねした存在を創造するしかなかった。ここでも武力ではなく共認形成によって物事を動かす日本人の発想が生かされている。架空であれ、こじつけであれ、皆がそれを信じることで実態になる。支配の為に宗教を利用するという点では他国と同じであるが、他の宗教が現実否定の上に存在することに対して、天皇制は祖霊を肯定し、その上に乗っかる事で存在した点で違いがある。
しかし、天皇制は天皇自身が作り出したというより時々の為政者が利用したという方が正確かもしれない。律令制形成過程の初期は蘇我氏が、最後は藤原不比等が天皇制を利用した。天皇の下という名目で徴税、懲役を大衆に課していった。その意味では天皇制は初期は国家統合の為、以降は為政者の政治手法の為に使われていった。しかしこの天皇制により、為政者が変わってもその下の豪族や官僚は変わることなく続く事ができ、為政者が変わる事で総入れ替えがしなければならない科挙試験などの必然も発生しなかったと言える。
以上、見てきたように日本は中国という強力な外圧の元、国力を整え、対抗すべき手法として律令制、官僚制、さらにそれらを執行する為の天皇制が確立していった。
しかし奈良時代に完成した律令制はわずか50年でその制度が崩れていく。租庸調・雑徭といった人頭税は度重なる班田からの逃亡により9世紀初頭には荘園制度に代わっていき、土地税に変化していく。また、調である懲役制度も平安時代には自然消滅する。殺生を忌み嫌う貴族文化の形成により朝廷から武力が排除されたと言われるが、何より唐の外圧が下がり戦争圧力が低下した帰結でもある。
大唐国は8世紀の新羅との戦乱で疲弊し、9世紀前半には内部混乱と北方辺境部族への対応の為、日本侵略の機運が一気に失われる。その外圧がゆるめば、律令制を維持していく必要性まで失われたのは、律令制が中国の外圧への対抗であることの証左である。しかしこの時代の外圧低下があったからこそ、中国的なもの(律令制・仏教・言語)を日本流に租借、改編し、定着させることが可能になった。こうして一旦は丸呑みした律令制を平安時代300年かけて昇華させていった。

武士の登場や荘園制度の確立とはその中で生まれた日本独自の動きである。
朝廷が武力を放棄し、ひたすら朝廷内の権力争いに終始していた頃、既得権益が守られていた地方の豪族諸氏は力を蓄え、拡大し、生産力とそれを守る武力を自前で用意して自立していく。坂東武士や伊豆の北条氏、東国の阿部氏はこのような時代に登場した。
また、朝廷内からはみ出た下級貴族が地方の武士を統合して新たな勢力を作り出していく。
これが平氏、源氏であり、10世紀から始まった地方独立の動きは12世紀末には鎌倉幕府として朝廷と合い並ぶ存在に成長する。しかしこれは日本で天皇制がしかれた時の政教分離、実質と形式の2面性、武力と神事の相対の実現体とも言えるのではないか。
武士が作った政治集団「幕府」は朝廷という完全な官僚機構と連続しながら、その後江戸時代まで存続する。日本に同時に存在した2つの政治体制、その一角を担った幕府とはどのような機関だったのか?官僚なのかそうではないのか?
その辺りも含めて次回の日本の官僚制の歴史(第2部)で追求してお届けしたいと思います。
長文へのおつきあいありがとうございました。
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『官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る』シリーズ
・新テーマ「官僚制の歴史~官僚制と試験制の弊害とその突破口を探る」
・官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史1
・官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史2
・春秋戦国時代、何故、中国では邑(共同体)が解体されていったのか?
・中国史にみる官僚の誕生~武力統合の必要から官僚の肥大化へ
・科挙の歴史 ~科挙にはどのような意義があったのか~
投稿者 tano : 2009年10月28日 23:49
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