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2010年02月04日

新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます

久しぶりの‘怒るでしかし~’です。検察の暴走、メディアの偏向と、最近は怒る度数も上昇しっぱなしですが、ここは、怒りのエネルギーを探求のエネルギーに替えて、次代を切り開いていかなくてはいけません。「「贈与」に何を学ぶべきか!」など、面白いシリーズが多いので、今回は、これに負けないようにがんばっていきたいと思います。テーマは「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」です。
金融資本権力が国家権力を超えて暴走する西洋発の近代市場の行き詰まりから、それにかわる市場経済システムの模索が必要とされています。日本はヨーロッパと同じように市場経済を発達させ、しかも似ているようで異なる特徴と歴史を持ちます。とりわけ金貸し規制が中々実現しない現状にあって、江戸以来の伝統を持つ国家主導型の日本市場の可能性は追求に値します
本シリーズではなんで屋劇場で追求されている欧州市場の特殊性に関わる認識を踏まえつつ、また「「贈与」に何を学ぶべきか!」シリーズの成果も取り入れて日本市場の歴史を古代から遡って探って行きます。
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写真は宿場町の浮世絵 http://www.asahi-net.or.jp/~dk3s-tkmt/nakasendou.html よりお借りしました。

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●近代市場を生み出した西洋社会の特殊性とは
09年末のなんで屋劇場で議論されたように、世界中に古代市場は形成されたが、それらは近代市場へと拡大していくことはなかった。例えば、ペルシャ・イスラム社会は広域にわたる古代市場ネットワークを中央ユーラシアにつくりだした。しかし、このネットワークは近代市場につながっていない。むしろこのイスラムの富を十字軍によって収奪したヨーロッパこそが、その後の持続的な成長・拡大を果たして、近代市場を作り出していった。
この近代市場は「西洋社会の特殊性」なくして実現しなかったものである。
西洋社会の特殊性は、国家権力を上回って金融権力が暗躍し続けたことである。普通、国家は徴税力=国家財源の限界を超えてまで、戦争を続けることはない。また国家は金融権力が強大化しないように、関税をかけたりする。イスラムは利子の禁止を厳格に実施した。しかし、西洋では、金融権力(金貸し)が貴族や諸侯に金を貸し与えて戦争をけしかけ、戦争を煽った。そして貴族や諸侯自身が十字軍遠征をきっかけに投機的行動を強め、敗者は金貸しの軍門に下り、勝者は金貸し=貴族となっていく。この金融権力の暴走こそが、西洋発の戦争を世界中に広げ、世界中を私権追求一色に染め上げていったのである。
この「国家権力<金融権力」が実現した背景には国家権力を上回る宗教権力としてのキリスト教会の存在が大きい。国家を超えたキリスト教会があればこそ、十字軍遠征は正当化され、拡大し続けたのである。キリスト教が広まったその背後には、西洋社会の精神風土がある。西洋社会は氏族共同体を解体する程の戦乱を通じて正邪の価値判断を喪失している。それ故に「信じるものは救われる」というような極度な思い込みによって統合されている。思い込みが強い、ということは、裏を返せば、騙しと裏切りが繰り返される社会であって、実際は、「騙せば官軍」という価値観が定着している、ということでもある。
この「正邪の価値判断を喪失」しているが故の「騙せば官軍」の世界観、これこそが西洋において私権闘争が無限増殖し、古代市場に止まることなく、近代市場が作り上げられていった理由である。
● 近代市場を生み出した西洋社会と日本社会、その相似性は?
他方、幕末期に西洋の市場開放圧力を受けた日本はその後、近代化を推進、西洋国家以外では、例外的に近代化に成功した。そこには「帝国の亜周辺故に、中央集権制が弱く、中世的封建制が確立しやすく、そのことが商業権力が暗躍しやすい土壌をもたらした」という共通性を見出すことが出来る。
実際、古代ヨーロッパも都市国家の力が強く、ローマ帝国もその本質は都市国家連合であったし、富裕市民の力が強く、官僚制は限定的であった。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2009/11/000952.html
同様に古代日本の律令制=公地・公民制はほとんど実現せず、官僚制(科挙)も取り入れていない。そして、豪族や寺社仏閣は荘園を基盤に政治力を行使し、天皇は象徴でしかなかった。
それ故に、西洋も日本も下克上と戦乱の中世を経て、近世へと突入していく。そして、この下克上と戦乱の中世の影の主役こそ、商人であることも、西洋と日本の共通項である。十字軍を背景にベネチアが商業都市として栄えたように、日本では商都「堺港」が自治都市として強大な力を持っていた。
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写真はベネチア、サンマルコ広場
古代中央集権体制の脆弱さ故の中世の動乱と、それ故の商業権力の暗躍。ここに洋の東西を越えた歴史の相似性がある。
● 日本市場の特殊性と可能性
しかし、同じような動乱の中世を経た後の、日本と西洋は全く違う道を歩む。西洋が世界の覇権戦争へと打って出て、世界中から富を収奪していったのに対して、日本は鎖国へと舵を切った。しかも、この鎖国体制の中で生活水準が低下したり、市場が縮小したということはなく、むしろ緩やかに成長を続けていった。江戸の人口は19世紀世界最大なのである。(パリ50万人,ロンドン85万人、江戸130万)近江商人の三方よしという発想は、あくまでも相手との信認関係を経済活動の基本とする思想であり、その点で、騙しとそれゆえの契約を基本とする西洋社会とは異質である。
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写真は近江商人。同じくhttp://www.asahi-net.or.jp/~dk3s-tkmt/nakasendou.html よりお借りしました。
パックス・トクガワーナ=徳川の平和は、戦争なしの市場経済を実現したといういう点で、西洋型市場経済の行き詰まりの突破口を考えるヒントを私たちに与えてくれるのではないだろうか。そして、この江戸社会の可能性も掘り下げていくと、縄文的精神風土や縄文時代に形成された贈与ネットワークがその土台になっているといえそうである。
まずは次回、日本の古代物流網の広がりと、その起源に迫るところから、シリーズを始めて行きたい。
最後に、本シリーズの追求課題をピックアップしておく。
1) 古代にすでに広範囲に実現されていた日本市場。その歴史と広がりは何に起因するのか?
2) 日本においては律令制度・公地公民制はうまく行かなかった。徴税制度が不完備な中、日本の古代市場発達の鍵を握ったものは何だったのか?
3) 中国の外圧を受けて、遣隋使・遣唐使を通じ、様々な先進文化を取り込んだ日本は、何故、平安期以降、中国との交易を止めたのか?
4) 貴族支配・荘園制度にかわって、武士社会が誕生し、戦乱の時代を経て、徳川幕藩体制下270年にわたる平安な時代がもたらされた。この武士社会と江戸システムを支えたものは何か?
5) 戦国時代は他方で、商業権力が台頭していく時代でもあった。堺をはじめとする商業=自治都市を担った日本の金貸したちは何者だったのか?
6) 参勤交替とは、通商システムでもあり、地方武家の反乱を防ぐ仕組みでもあった。参勤交替はどのようにして編み出されたのか?
7) マスコミが取り上げる幕末ブームでは語られない、明治維新の背後に暗躍する国際金融資本の影。幕末・明治維新の志士たちは、彼らの手先だったのか?憂国の士だったのか?
8) 江戸が実現した自然の摂理を踏まえた「持続的な成長経済」は世界経済の救世主たりうるか?

投稿者 staff : 2010年02月04日 List  

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コメント

こんにちは
集団のあり方が理論的に書かれていてわかりやすく思いました。
ただ、わたしの認識不足なのか、ひとつ質問させていいですか?
 縄文のいつの時代からあったのかよくわからないのですが、抜歯の風習があったのが知られています。結婚のときに抜くのですが、他の集団から結婚のためにやってきた人間は、属した集団の人間と区別するため、抜歯の仕方が違うんです。縄文の抜歯は常に2種類で、そこで区別しているんです。そして、それによってわかるのは、他集団からやってきた人間は、圧倒的に女性が多いという事実です。もちろん男性の場合もありますが、数が少ない。これって生活形態が、いわゆる父系だった(もしくは双系)根拠にされいますが、どうなんでしょうか?この抜歯別に埋葬も区別されています。
生活形態は父系で、思考は母性原理が働いていたようにも感じるのですが…
どちらにしても定住が安定してきた頃には、間引きが原因と思われる人口の男女比、男が多くて女が少ないという事態からも脱却しているので、定住が作り出した集団の維持は、最優先課題だったのでしょう。そこに知恵を絞っていた縄文の人々の思考能力には本当に驚嘆させられます。

投稿者 milktea : 2010年4月16日 20:33

縄文時代の父系への転換はmilkteaさんから問い合わせがあり、どのようにお答えしようかと少し苦労しています。
縄文時代は総じて母系であったことはさまざまな文献でも言われていますし、さらに日本のその後の父系の定着を見てもかなり遅れて武士社会から登場したように弥生以降もかなり長い間母系社会は残存しています。
また、縄文以前の人類史を紐解いても、単系であり、双系であった事は明らかで、基本的に集団が小さく、大家族で生きていた縄文時代及びそれ以前の時代は圧倒的に親族間で婚姻が繰り返されていました。日本でつい最近まで近親婚に全く違和感がなかったのもその影響です。
しかし、抜歯の事例を見ると確かに女が移動している可能性があります。父系と呼ぶべきなのか、どうかこれだけでは難しいところです。集団が寒冷化の影響で小規模にばらけていく過程で自給自足を捨てて、小集団のネットワーク化で生き延びていったのかもしれません。女を移動させたのはそのネットワークの架け橋にしたからではないでしょうか?
それが遊牧民のように父系社会の形態をとっていたかどうかはわかりません。確かに抜歯が始まったのは縄文時代晩期の寒冷化から人口が減少している時代で、その時代に集団の形態を変えながら何とか生き延びようとした中に父系的な強い集団というものが必要だった可能性があります。
もう少し考えさせてください。
参考に以前縄文ブログで抜歯の記事がありましたので転載しておきます。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/12/000668.html

投稿者 tano : 2010年4月19日 23:55

>縄文の抜歯は常に2種類で、そこで区別しているんです。そして、それによってわかるのは、他集団からやってきた人間は、圧倒的に女性が多いという事実です。もちろん男性の場合もありますが、数が少ない。これって生活形態が、いわゆる父系だった(もしくは双系)根拠にされいますが、どうなんでしょうか?
もう一つ考えてみました。
この時代の抜歯に傾向とは他集団である事いうことをマイナスではなくプラスとして取り込んでいたのではないでしょうか?
つまり、他集団からお嫁さんが来て歓待した。あるいは他集団との連合の証として元の集団の抜歯儀礼を残した、そう考えるとどうでしょうか?
縄文時代には集団間で殺し合いをしたり侵略したりした痕跡がありません。その後の日本人の歴史からしても同族同士を殺しあうような価値観はこの時代に育っていません。この場合、他集団とは警戒、否定すべき対象ではなく、繋がり連携する対象だったのではないでしょうか?
贈与とは最も大切なものを送りあう慣習です。贈与物がその集団でもっとも大切な女性になったと考えるとありえる話ではないかと思っています。
この場合の女性とは友好大使のようなものだったのではないでしょうか?

投稿者 tano : 2010年4月20日 01:01

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