2010年03月15日
王権の生産 3
こんにちは~『王権の生産』シリーズ3回目です 。
前回は、倭国が大規模内乱を収束するために、連合体を組織して、それを決定付けるために王を誕生させるという、稀な手順によって誕生したのがこの国の王であるということを示しました。
縄文の共通意識が働いた末の産物で、評価できるという立場で記述しました。
それでは次にくる課題『王権の移行』(次期王の選出)、つまり王の再生産はどのようにして行われたのでしょうか。ちょうど『国家意識』・『国家観』の成立過程に平行していた時代に焦点をあてて、3回にわけて記述したいと思います。
充分知りえていることのおさらいになるかとは思いますが、ここを押さえること無しに『天皇家』の存在意義について考えることはできません。
その後の長い歴史を知っているわたし達は、簡単に善悪をつけるとができますが、当時の意識や思考の成り立ちを考慮しながら(繰り返しますが、学習歴のない部分に思考は届きません)判断していく必用があると思っています。
それではよろしくお願いします♪
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王の再生産…卑弥呼と古墳の存在理由

(大英博物館でわたしが撮影した写真です)
前回までに、列島に最高首長である王が作り出されたいきさつについて考えてきました。
今回は、王であることの証をどのように示したかについて考察したいと思います。
一口に『王』といっても、中央集権の上に立つ絶対君主とはかけ離れた、連合体の最高首長にすぎなかった倭国王にとって、その存続のために、連合体が納得するための『正当性』を示す必要があった。後漢が衰退し始めた以上、冊封による正当性では心もとない。そこで登場したのが卑弥呼という存在であると、遠山氏は主張しています。卑弥呼とは、個人名ではなく、地位名であるとした上で、次のように述べていますので、引用してみたいと思います。
* 「太陽の霊威をその身に付着させることのできる特殊な人格・女性」というその名義から推して、政治的統合の最高首長の首長権継承に正当性と荘厳性を宗教的に付与・保証する、呪術的資質をそなえた最高首長の近親女性だったのではないかと思われる。*(遠山美都男著、大化改新より)
稲作を中心とした農耕と、海産物(塩を含む)によって生きる倭国の人々にとって、太陽光と雨に代表される自然の恵みは、天・海・山・川に宿る神を敬うことによってもたらされるという自然信仰を持っていました。この「神」は、「畏れ」とも重なり、いわゆる「日本神話」として確立・利用される以前の、素朴な概念と言えるでしょう。高級な青銅で作られた銅鐸は、祭りでのみ使用される楽器であったと言われています。この祭りは重要な儀礼であり、これを司る者は、神々の化身として、神と人を繋ぐ任を負っていました。このような立場に就く者は、首長とはまた違った意味において、尊厳を付着されていたことでしょう。
『 最高首長である王は、この霊厳を身にまとった者によってその正当性を保証されたものとする』そんな合意が連合体によって確認されたということは、充分に考えられるのではないでしょうか。
さて、卑弥呼と邪馬台国に関する所在の論争は、未だ決着がついていませんが、邪馬台国が九州にあったにせよ、畿内にあったにせよ、最終的に、その勢力基盤は畿内において確立されたと考えるのがその後の勢力の繋がりを考えると、妥当ではないかとわたしは考えます。また、当時の最高レベルの技法で作られた『三角縁神獣鏡』の大半が、畿内中心に出土されていることも、無関係ではないと考えられます。
古墳に関しても、『正当性』の保証という位置付けができるのではないでしょうか。王の正当性を保証するものが、命に限りのある『人』では、あまりにも心もとないと考えられます。
* 前方後円墳は各級の首長たちの懸案であった、首長権の継承をいかに円滑に行い、首長権の継承にいかに正当性と荘厳性を付与するか、という課題を解決するために創案された施設であった。*(遠山美都男著、大化改新より)
大和地方を中心に、各地に作られた前方後円墳は、規模にこそ差があるものの、連合体に所属しているという証として、単なる首長の墓という以上の大きな意味があったのでしょう。そして、共通のシンボルとしての施設に、権力継承のための儀礼を執り行う場所という付加価値を与えたことで、王の再生産もまた、比較的スムーズに行えるようになったと考えられます。また、このような『正当性』を示さなければならなかったという事実が、王とはいえ、他を圧倒するような力の格差を持つまでには至っていなかったと考えられることに、わたしは注目したいと思います。
『 絶対的ではなく、相対的に力を持つ者に『正当性』を示すという条件を負わせることで、王として擁立する。そうまでしても、大規模で慢性的な戦争(内乱)を回避したかった。そしてまず形から入って、徐々に基盤と支配構造を確立していく。』
これが可能であったのは、大陸と海で隔てられた島国というラッキーな地理的条件があったからとはいえ、このような道筋を立て、実行可能なものに確立するだけの思考を当時の支配者層が持っていた、という事実に驚かされます。縄文の流れを汲む思考パターンが生き続けていると見ることができるでしょう。
社会を構成する意識の中に、『個』と『場』という対極の倫理観があります。現代の日本人は、出入り可能な『場』の構造の中にいるとされています。『場』の内部においては、場全体の平衡状態の維持に努めようとする力が働きます。
この時代においては、まだここまでの意識構造が確立される程の社会であるとは思えませんし、縄文の流れを汲むとはいえ、私権文化を輸入した後の社会、内乱を経験した後の社会であることを考慮しなければなりません。ですが、連合体を一つの『場』という概念で考えるとき、その意識構造の萌芽を感じざるを得ません。
この点については、各級の首長に率いられた一般庶民の意識にも到達していたと考えられます。情報の伝達は、上から下への一方通行であり、自らの考えでそこ以外からの情報、知識の習得に動くだけの手段は、持ち合わせていなかったはずです。またその必用性すら感じていなかった、ということです。
これから先は、唯一ではなくても特定された一族の内部で、王権の移行、つまり王の再生産が行われるようになったのでしょう。
次回は王の再生産…複数存在した王位継承権保持者として、次の段階の王位の移行について考えてみたいと思います。
投稿者 milktea : 2010年03月15日 10:16 Tweet
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コメント
王権の移行、その多くは基本的に相続を目指したのでしょうか・・・・。
それでも新たな相続権をめぐり争いが発生する歴史からしても、王"権"とは手中にしたいものだったのでしょうね。
今後の展開も楽しみです。
投稿者 鯉太郎 : 2010年03月16日 22:35
milkteaさん
今回の記事は力作ですね。
様々な当時の状況に同化されて考察しており、考えさせられる点や視点の発見がありました。
>一口に『王』といっても、中央集権の上に立つ絶対君主とはかけ離れた、連合体の最高首長にすぎなかった倭国王にとって、その存続のために、連合体が納得するための『正当性』を示す必要があった。
卑弥呼や連合の王、古墳をこの延長で読み解く史観には頷きます。
その上で卑弥呼という役職は渡来人が現地人を支配する上で、女性崇拝を基にした縄文人文化を取り込む上でたどり着いた方法論であった。
従って邪馬台国でなくても卑弥呼(という役職)は存在し、政治を司る男の王と集団の共認を担う女の王の並列状態が弥生からヤマト王権の過渡期には登場した。
>社会を構成する意識の中に、『個』と『場』という対極の倫理観があります。現代の日本人は、出入り可能な『場』の構造の中にいるとされています。『場』の内部においては、場全体の平衡状態の維持に努めようとする力が働きます。
この部分の理解に少しの解説をいただきたいと思います。
おそらく古代王権が連合という形をとってきた背景に平衡状態の維持という圧力は働いていたと思います。とすれば、何ゆえにそうなったのか?出入り可能な場とそうでない場の違いとは何か?ちょっと禅問答のようになりますが、可能であればお答えください。
なにやらかなり難しい展開になっているようでついて行くのに目いっぱいですが、次回が楽しみです。
投稿者 tano : 2010年03月16日 23:00
鯉太郎 さん
コメントありがとうございます。
前回示したとおり、倭国において王は、必要に迫られて作り上げられた存在でした。ですから誰かが継がなくては、内乱へ逆戻りです。そしてこの時点での王の権力は、その他の首長とは飛びぬけて差があるというものでも無かったのが実情です。かなりの力量が求められます。ですから、のどから手がですほど相続したい代物であったかどうかは、人にもよるかと思いますが、正直微妙ではなかったかとも思えます。所有するもの以上に、重い義務を負っていたと考えられるからです。
投稿者 milktea : 2010年03月17日 07:47
tanoさん
コメントありがとうございます。
力作とは恐れいります♪
> 卑弥呼という役職は渡来人が現地人を支配する上で、女性崇拝を基にした縄文人文化を取り込む上でたどり着いた方法論であった。
従って邪馬台国でなくても卑弥呼(という役職)は存在し、政治を司る男の王と集団の共認を担う女の王の並列状態が弥生からヤマト王権の過渡期には登場した。
そういう事なんだと思います。ちなみに壱与も卑弥呼という役職についていた人と、理解できるわけです。
「場」について少し説明したいと思います。
わたしの書き方が悪かったかもしれませんが、出入り可能な集団を「場」と表現するわけです。場の内においては、妥協以前の一体感が成立していて、言語化しがたい感情的統合によって、あらゆることが曖昧に一様になっている状態と、捉えてください。「おまかせする」態度も必要です。反対に個の倫理に従う時は、個人の責任とか契約が重視されるわけです。「場」の倫理感は、母性原理がやはりベースにあるはずです。
>古代王権が連合という形をとってきた背景に平衡状態の維持という圧力は働いていたと思います。
これがなければ内乱へ、逆戻りするわけです。その時点での各首長が率いる権力構造が維持できるのであれば、一番でなくてもいいから、納得できる「落としどころ」で決着をつけようということです。そのかわり、王には「ちゃんと統率しろ」と要求していたはずです。
うまく説明できたかな~
ちょっと心配ですが…ヾ(´―` )
投稿者 milktea : 2010年03月17日 08:43
milkteaさん、こんばんは。いろいろとヒントをいただきました。長くなったので、掲示板の方にいれました。よろしければお読み下さい。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=228740
投稿者 怒るでしかし~ : 2010年03月23日 01:30
怒るでしかし~さん
コメント読ませていただきました。
ありがとうございます。
本名で書かれていたので、先にるいネットを見た時、わかりませんでしたよ~
一人でやってる(←言い訳 笑)し、ツメが甘いんですよね、わたし…
いろいろ参考になりました。ありがとうございます♪
投稿者 milktea : 2010年03月29日 07:38
怒るでしかし~さんよりいただいたコメントに多少お答えできるかどうか…
>日本の特殊性は、そのようなシャーマニズムとしての天皇を近代になっても社会統合の象徴として見続けている、しかも、その社会統合の象徴の実態は、実は、縄文以来の母系統合イメージに成りすました渡来民の王だという事実を、直視していない、という点にあると思います。
渡来民は婚姻などを通じて日本人と同化していき、(秦氏など直接朝鮮民族として残った豪族は一部だと考えています)それゆえ、わたしは同化した渡来民はやはり日本人だという前提でいます。
シャーマニズムの要素を持った天皇の実態について、国家観の成立時期に焦点をおき、4、5回で示してみました。
そして、存続した天皇は現在社会統合の象徴であることについて、「その必用がある」という方向で、最終回の「天皇の存在意義」に繋げていきたいと思っています。
うまく書けるかな~って不安もあるのですが、そこはそことして、またよろしくご意見お願いします♪
投稿者 milktea : 2010年03月29日 20:43
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