2010年04月17日
宗教ってなに?~3.不安発の古代宗教と感謝・同化の精霊信仰
こんにちわちわわです

前回はカッピカピさんが、精霊信仰と守護神信仰の違いを丁寧に解説していただき、カッピカピさんを思わず信仰してしまいそうになりました。
今回は、その続きで、精霊信仰の本質が感謝と同化にあることを、現在も精霊信仰を続ける部族の言葉を読み解きながら見てみたいと思います。
カッピカピさんにこれからも鋭い追及を期待している方↓↓ぽちっと!
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まずは、るいネットの投稿をご紹介します。
「存在不安」は、私権時代の全ての宗教・全ての局面に存在すると私は考えています。キリスト教においても、仏教においても、人々が求めるのは「救済」です。神の御座に祈るのは、魂の救済であり心の安楽であるのは洋の東西を問わず変わりません。これこそ、私権社会の宗教が「存在不安」を抱えている証ではないでしょうか。その背景にあるのは、自我を基盤に宿した私権社会故の 過剰競争・自我摩擦・搾取等の不条理からの逃避、そして「死」への恐怖と言えるのではないでしょうか。
対照的に、 ケチュア等、ネイティブ・カルチャーに見られる、精霊信仰の発展した「純粋形態としての宗教」において捧げられる祈りは「感謝」と「同一化」です。 いくつか、彼らの言葉を紹介します。
われわれにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。 自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。 われわれインディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な存在として見ているからでもない。われわれが自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。われわれは自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力がわれわれの生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。 (北米 ケチュア族)
我々の言葉で、「生きる」ことは「呼吸」と同じです。宇宙の全ては呼吸しています。ですから、命を授かった時点から地球のサイクルに入り、宇宙の全てと呼吸を共有しているのです。生命を授かったことに責任を持ち、自らを啓蒙しながら自分の道を歩まねばなりません。それこそが地球を通過している本来の意味なのです。私たちの伝説の中では、命が絶たれたあと、我々は宇宙全体の命を支えている全宇宙的なパワーの一部となるのです。 一個の生が個人的体験を超えて、全宇宙的に広がっていくのです。それは一つの「希望」です。「死」に恐れを感じる必要はないのです。
人間は鳥のように静かに飛び去っていくことができる。地球を通りすぎるだけなのに、なにか記念碑を残してゆくような人は、 それだけ自分に自信がないのです。
なにかを成すために人間は存在していると西欧の人は考えるが、なにも成さないためにいてもいいじゃないか。 人間は宇宙の一部であり、その宇宙そのものが素晴らしい記念碑であり、創造物なのですから。 (以上、南米 クレナック族)
朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。 どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それは、おまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。 (北米 ジョーニー族)
このような、彼らの言葉の中に、「存在不安」の影は微塵も感じられません。自らと、全ては同一であることを知り、そこに存在することに、ただただ感謝を捧げるのみ。
現世からの救済を願う、存在不安を抱えた私権社会宗教(キリスト教等)と、万物と同化し、その存在に感謝を捧げるネイティブ・カルチャーの精霊信仰では 雲泥の差があります。 我々は、彼らから多くのことを学ばなけれ
ばならないと感じます。
原始共同体の精霊信仰の根本は感謝と肯定視にあります。それは現実課題を直視し、そのために対称と同化し、可能性収束したのでしょう。さまざまな法則を見出し、さらには祈りによって何とか克服しようとしたのだと思います。そこには、当然自我は介在しません。上の事例にもあるように、生も死も自然なものとして受容れていたのです。
現代に通じる肥大社会の宗教は、その成り立ちも、意義も全く異なります。
守護神信仰においては、支配者の権力と集団自我の正当化を図って略奪と侵略を繰り返し、やがて、支配される民の間には、どうしようもない現実から逃避し、非現実世界に心の安定を求める宗教が広まっていきます。
私権社会の宗教の出所は上記の投稿の通り「存在不安」なのです。
次回からはこの宗教の成り立ちについて突っ込んで見て生きたいと思います。
投稿者 tiwawa : 2010年04月17日 23:55
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トラックバック時刻: 2010年04月24日 13:06
コメント
>私権社会の宗教の出所は上記の投稿の通り「存在不安」なのです。
なぜ私権社会になると存在不安になるのでしょうか?
またなぜ原始共同体には存在不安はないのでしょうか?
ちょっとこの2つが疑問になりました。
存在不安の根っ子には「人は一人では生きる事ができない」というようなものがあるように思います。
ということは、共同体を失うことで人に存在不安が生じ、「救い」を与える宗教が必要になったという事でしょうか。
存在不安を消すためには「神の救い」ではなく「共同体」であるという事を教える宗教が一つもなかったのは不思議な事ですね。
投稿者 脱宗教家@ : 2010年04月19日 23:38
脱宗教家@さんコメントありがとうございます。
私権社会は私権を獲得することが第一課題です。他人を騙してでも人よりも多く私権を獲得した者が勝者になります。いつ騙されるかわからないから警戒心も生まれます。そして自我が正当化されます。自我とは他人から与えられない評価幻想です。
おれはそんなんじゃない!という思いが他者否定に向かいます。これは現代のおじさん世代の考え方ですが、こんな考え方だと存在不安になってしまいます。
古代の身分制度の奴隷や下層民は、私権獲得の可能性がないことを追共認するのが私権社会の姿です。私権追求を認めているのに私権が得られないのは存在不安そのものです。
それでも、共同体が残っていれば、共認充足は得られますが、共同体が破壊されていくと、共認充足が得られなくなって、
存在不安は拡大します。
原始共同体には、自我を正当化する私権意識は存在せず、集団内の仲間との共認充足が羅針盤となっています。集団内では役割があり、みんなの評価も得られます。よって、存在不安に陥ることなど、決してなかったはずです。
投稿者 ちわわ : 2010年04月20日 22:38
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