2010年04月21日

鎖国が生み出した江戸の自給自足経済、自然循環型社会

外交的理由から始まった鎖国ですが、鎖国することで、日本の経済は大きく変わっていきます。

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↑江戸一目屏風 津山藩御抱絵師・鍬形蕙斎(くわがたけいさい)が文化6年(1809)に首都江戸の全景を詳細に描いた景観図。鳥瞰(ちょうかん)技法や西洋画風表現を駆使しながら、19世紀初頭の江戸の繁栄を描いた肉筆画として、世界的にも著名な作品。

※今回の記事は「文明としての江戸システム」講談社日本の歴史19鬼頭宏著を参考に作成しました。

● 貿易の制約により主要物産の輸入代替化が進み、国内産業育成が促進された。

日本では古くから養蚕が営まれ、生糸が生産されてきたものの、良質な生糸はやはり中国からの輸入に頼っていた。しかし、鎖国によって、生糸及び織物製品の国産化が進む。まず、京都の着物需要を背景に近畿圏で養蚕が進み、京都自身、明から織機や技術者を招聘して織物工業の先進都市として成長していく。そして、全国の地方市場が成熟していくと、生糸生産地や織物工業も各地に広がっていったが、次第に品質による淘汰が進み、①陸奥・出羽、②上州・武蔵・信濃(北部)・飛騨、③甲斐・信濃(南部))・飛騨、の3地域に産地が収斂していく。

他にも、綿関係の産業は畿内・瀬戸内海へ、砂糖は九州・四国、煙草は鹿児島・津・水戸、材木は広島・名古屋・秋田、炭は熊本・秋田といった具合に、気候条件や原材料コスト、労働コストによって各地域ごとに特産品が出来ていく。

●商品経済の拡大と藩による専売化

このような全国規模での商品経済の発展により、非農業分野の規模は農業分野に肩を並べるようになっていく。例えば、天保期(1830~1844)の長州藩では、農業生産高6万4千貫に対して、非農業部門の生産高は5万8千貫であった。元来、秀吉の貨幣規制、石高制(年貢を銭ではなく米で納める)を引き継いだ幕藩体制ではあったが、このように非農業分野の規模が大きくなると、矛盾が出てきた。主要産業と位置づけられていた農業分野の課税率に対して、非農業分野の課税率は低かったのだ。それ故に、各藩は自藩の特産品を藩財政を支えるものとして専売化していく。こうして、藩は農本主義を基本としながらも、商品経済経営にも進出することで、他領との生き残りをかけた競争関係の中に置かれていく。


●江戸市場は欧州の戦争・侵略型経済とは異なる平和経済を作り出した。

このように、江戸時代後半には、米作以上に、商品作物の生産に農村の重心は移行して行った。この点は、その後、産業革命へと発展していった欧州との共通的な変化である。しかしながら、ここでは同時期の欧州との違いもある。

ひとつは、先に見た参勤交替の仕組みによって、藩の富が、江戸(及び道中の宿場町)に落とされることにより、最終的には幕府に藩の財が回収されるため、倒幕を企てる藩が長く登場しなかったという点だ。西洋が戦争と略奪を契機に経済成長を遂げていったのに対して、江戸はあくまでも平和経済として発展していった。江戸における芸能、武道や教育の成熟は町人レベルにまでの拾い裾野を誇っており、インフラも充実していた。江戸は規模においても質においても同時期の西洋都市を完全に凌駕していた。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=167389 
日本人の勤勉性と対象性(4)【世界平和の実現モデル】

またこのように独自の進化を遂げてきたから開国後も西洋の侵略を受けなくて済んだともいえる。戦争と侵略という西洋基準のグローバル経済とは違うベクトルで進化してきた日本の国内市場は独自性が強く=今流に言えば「ガラパゴス化」が進んでいたため、西洋に侵食されにくくなっていたという面もあるのだ。

● 江戸市場が実現した人口抑制型の持続的経済成長

もうひとつの江戸市場の特殊性は人工増加が起きなかったことだ。日本は、緩やかな経済成長を実現したものの、それが産業革命につながるような急速なものにならなかったのは、この人口が抑制的に推移したことによる影響が大きいのではないだろうか。

この違いが生まれた背景には地域内の分業が従来農業集団と商品生産集団に分化せず、農家が兼業的に商品生産に従事したことが大きい。男女間分業や農閑期の季節労働のような形態をとって、食糧生産を手放さなかった。それは大家族であったため、婚姻はあくまでも跡継ぎとなる長男に限定されていたため、商品市場の可能性が開かれても、我も我もと結婚に走るということにはならなかった。よく経済活動は下部構造、政治は上部構造、といわれるが、経済のさらにその下に「婚姻・性愛行動」があることを忘れてはならない。

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↑江戸の人口グラフ「東京都統計局」より。
http://www.metrosa.org/topix/jinko-ed.htm

●鎖国故に進化した自然の摂理に沿った循環型経済

そして、この平和経済であり人口抑制型の持続的経済成長を実現する上で、日本は徹底して限られた自然を最大限利用し、しかも自然循環を破壊しないように最大限の工夫を凝らしてきた。都市の糞尿を農地へ返すリサイクル業が成立していたし、重要なカリ肥料である「灰」を町を回って買い集める「灰買い」という商売も成立していた。灰の文化は世界中にあるが、灰を商品として商人に売っていたのは、日本以外どこにもないそうだ。また、最終的に海に流れ込んだ都市排水は魚たちのよい栄養となり、近海漁業が発達した。そこで得られた小魚は天日干しされて魚粕となり、農地に貴重な肥料として還元されていた。このように、「もったいない精神」が徹底されていたことで、他国の資源を略奪するようなこともなく、自給自足で大都市を維持することが可能だったのだ。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=161981 
下肥だけじゃない!!魚が土地を豊かにする?!

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↑江戸の資源循環システム図(環境白書より)

●まとめ:

江戸時代には鎖国という限られた国土条件の中で、持続的経済成長を実現してきたという、これからの経済システムのモデルとなる可能性が秘められています。

まとめるなら

① 自国による他国への資源侵略も、他国からの資産侵略も許さない管理外交
② 自然の摂理に沿った資源循環システムの構築
③ (生存に必要不可欠な)農業経済価値と(豊かさを享受するための)商品経済価値のバランスをとった徴税・専売システム=国内管理市場の構築
④ 競争原理を担保しつつも、各集団が自集団第1に陥らない社会統合システムの構築=集団自主管理と超集団統合の構築

の4点です。

この江戸システムの教えをどのように活かしていけるかが、私たちに課せられた課題なのです。しかし、そのためには超えるべき壁があります。それは「鎖国から開国へ」と舵をとるしかなかった日本の歴史の総括です。次回は何故、日本は開国へと路線転換を進めていったのかを考えてみます。

投稿者 staff : 2010年04月21日 23:42  

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コメント

>江戸時代には鎖国という限られた国土条件の中で、持続的経済成長を実現してきたという、これからの経済システムのモデルとなる可能性が秘められています。

本当にそう思います。
この”限られた国土条件”という部分がポイントだと思います。限られているから採り過ぎない。限られているから大事に使う。限られているから再利用する。

この限られた資源を大切に使うという発想は日本の場合、時代をとおして貫徹されているのです。さらにその思考方法は遡れば縄文時代の採取生産の意識と同じです。採取生産は採り過ぎることを自主規制します。自然という循環の中でどこまで採って、どこまで残すか、これは長い年月を経てに採取民である縄文人の頭の中に刻み込まれていたと思います。

江戸時代の経済システムが再利用(リサイクル)に貫かれているのは衆知のことですが、あらためて江戸がなぜ社会のシステムとして完成できたのか、優れた制度や政治ではなく、これには日本人のDNAに刻み込まれている循環に基ずく自然観が幕府から末端農民まで一貫していたからなのではないかと思います。

「限られたものを使うにはどうする?」
これからの時代はこの意識がキーワードになると思います。それにはモノに対する感謝と反省が自然と湧き起こる心の有り様も必要です。
すでに現代の日本人には少ししか残っていませんが、大量消費、大量生産を抑制する力を内省力として経済をコントールしていくことが求められていると思います。「もったいない」というフレーズが数年前に流行ったのもその潮流でしょう。

投稿者 tano : 2010年04月22日 13:30

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