2010年04月28日

幕藩体制の崩壊と開国~カネを哂うものはカネに泣く~

「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」シリーズも大詰め、14回目。今回、与えられたミッションは「幕末、何故、日本は開国へと路線転換を進めていったのか」、です。

龍馬さんも西郷どんも勝つぁんも登場しない幕末史(正直、さびしい Crying or Very Sad )。
雄藩台頭の背景、幕府瓦解の事情、そして黒船来航の真の意図から、幕末の市場経済を探っていきたいと思います。

前回担当の平安時代から下ること700年、
十二単を小袖たすきがけに着替えて、がんばりますので、応援よろしくお願いします。

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            尚古集成館:写真はこちらからお借りしました。


農業生産を経済の基礎とし、そこから年貢を取り立てることによって成り立つ幕藩体制の仕組みは、天保期(1829~)ころに本格的な行き詰まりを示した。全体としては農業・工業において商品生産が発展し、貨幣経済は深く浸透してゆく。

諸藩も領内の一揆・打ちこわしの多発や藩財政の困難など、藩政の危機に直面していた。この危機を打開し藩権力の強化をめざす藩政改革が、多くの藩で行われた。

深刻な財政難に直面した薩摩藩では、下級武士から家老に抜擢された調所広郷(ずしょひろさと)が1827年から改革に着手し、三都の商人からの500万両にのぼる借金を、無利息250年賦返済という事実上の棚上げにより処理するとともに、奄美3島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化し、さらに、幕府が清国商人との貿易のため蝦夷地から独占的に集荷していた俵物を、松前から長崎に向かう途中の船から買い上げ、これを琉球を通して清国に売るという密貿易を行なうなどして藩財政を立て直した。島津斉彬の代になると、積極的な殖産興業政策が進められ、1856年には反射炉(製鉄の溶解炉)の築造に成功し、造船所やガラス製造所などの洋式工場を建設し集成館と命名した。

さらに、島津忠義はイギリス人技師の指導で鹿児島紡績工場という日本最初の洋式紡績工場を建設するとともに、長崎のイギリス人貿易商グラバーらから洋式武器を購入し、軍事力の強化をはかった。

萩(長州)藩では、村田清風を登用し、銀8万5000貫(約140万両)の借金を37年賦返済という棚上げのような方法で整理し、一揆勢から要求された紙・蝋の専売制を改正した。さらに、下関に越荷方(こしにかた)という役所を設け、他国廻船のもたらす物産という意味の越荷を抵当に廻船業者などに資金の貸付けを行うほか、その越荷を買い取って委託販売するなどして利益をあげ藩財政の再建に成功し、洋式武器などにより軍事力の強化がはかられた。

佐賀(肥前)藩でも、藩主鍋島直正が均田制を実施し、小作地を地主からいったん没収し、一部を地主に返して他を小作人に与えるなどして本百姓体制の再建をはかった。また特産の陶磁器の専売を進めて藩財政の財源とし、日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど、藩権力の強化につとめた。高知(土佐)藩では、「おこぜ組」と呼ばれる改革派が登用され、財政緊縮による藩財政の再建が進められ、藩主山内豊信の代には大砲の鋳造や砲台築造など軍事力の強化をはかっている。

改革が比較的うまくいった薩長土肥など西南の大藩のほか、宇和島藩、福井(越前)藩などでも有能な中下級藩士を藩政の要職に抜擢し、三都の商人や領内の地主・商人と結びつき、積極的に藩営貿易などを行い藩権力を強化した。これら諸藩は、危機に直面して有能な中下級藩士を藩政に登用し、藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、さらに藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、それにより軍事力の強化をはかって藩権力を強化しようとした。これらの藩はのちに雄藩として、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる。

雄藩は一日にして成らず-。

参勤交代によって、幕府は藩、特に外様をいじめ抜いた。必然的に莫大な費用負担を課せられた外様には、「カネ」の価値は身に沁みただろう。「江戸」という大都会で、一定水準以上の暮らしを維持していくには、とにかくなにごとにも「カネ」が物言う。農産物だけで生活が成り立つ地元との落差が大きいだけに、一部の大名の認識転換は早かった。「で、どうする?」を考えたときに、緊縮財政と成長戦略の二本柱が浮上した。

貨幣価値の重要性にいち早く気づき、貨幣経済に大きく舵を切った藩が、雄藩として台頭してきた。

では、一方、幕府はどうだったのか?

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     写真はこちらからお借りしました。

日米修好通商条約の交渉に当たって、米国の全権大使ハリスと、時の老中、間部詮勝(まなべあきかつ)のやりとりの記録が残っている。

間部「われわれは日本の大名で、金銭のことなど取り扱わないのでござる。だからいずれ担当の役人 に命令を下し、調査した上、書簡をもって申し入れることにいたす」

ハリス「さきほどから伺っていると、足下は大名、大名と馬鹿の一つ覚えのように言われる。大名というのがどんなに偉い身分の人かは知りませんが、ここへでてきておられる以上、条約の趣旨くらいはご存知でしょう。それとも何ですか?知らないででてこられておるのですか?それで外国事務宰相の職を勤めておられるのですか?いやお羨ましい。結構なことでございますなあ」

間部「拙者は大名でござる。左様なことは存じませぬ」

これ、コントではない。
序列原理の上に成り立っていた武士階級、そしてその頂点に立つ幕府は、終始一貫、貨幣価値蔑視の立場を貫いている。結果として、諸外国にそこをつけこまれ、幕藩体制は崩壊するのだ。

それ以前、文政元年(1818)に始まる貨幣改鋳は、江戸時代最後の50年間における経済変動の引き金になるものであった。

幕府財政は赤字基調が続いていたので、これを打開するために、改鋳益金の獲得を目的として大規模な貨幣改鋳がおこなわれた。その結果、金銀在高は天保3年(1832)までの短期間に57%も増加、安政5年(1858)までに金銀貨在高は、さらに15%膨らみ、文政元年から40年間の金銀貨増加は80%にものぼった。

この時期の価格上昇は、二つの重要な変化を含んでいた。ひとつは、米価と一般物価の相対価格の関係において、一般物価指数よりも、米価の高騰の方が大きくなったということ。もうひとつは、インフレーションが単に価格上昇に止まったのではなく、経済の実態に対しても強い影響力を及ぼし、いわゆる「幕末の経済発展」をもたらすことになったということだ。

しかし、もっとも劇的なインフレーションは、ペリー来航に伴う開港によって始まった。大阪米価は安政5年(1858)からピークの慶応2年(1866)までに、約11倍になっている。

この価格上昇の主たる原因は、貿易、とくに輸出品の海外需要の発生と、貨幣の交換レートを決定する際に生じた問題、とくに金銀比価の国際的水準への変更にあった。

日米修好通商条約締結にあたって、外貨は「同種同量」の日本の貨幣と等価で国内通用させることが決められた。当時アメリカ国内で法貨として採用されていたメキシコ・ドル(洋銀)一枚は、含有銀量を見比べて一分銀3枚と決められた。日本側は金本位で考えて、洋銀一枚=一分銀1枚と主張したのであるが、純銀含有量を基準とするアメリカの主張に押し切られたのである。

この結果、日本から大量の金貨が流出することになった。それは日本の金銀比価がほぼ5対1と銀高であったのに対して、アメリカでは16対1、金は日本の3倍の価値をもっていた。そこで洋銀を持ち込んで一分銀に交換し、それを名目的な相場で機械的に金貨に交換して持ち出せば、日本で交換されるよりも3倍多くの銀を手にすることができたのである。

こうした事態に直面してようやく英米も、幕府に金銀比価を改定することを勧告し、幕府もこれを容れて万延元年(1860)、金貨の改鋳に踏み切った。新しく鋳造された小判は、量目で安政小判の3分の1に近く、これによって金銀比価は国際相場に近いものになった。その結果、金貨の海外流出は停止したが、国内では銀貨の価値が三分の一になってしまったため、大幅な物価上昇を招くことになったのである。それはやがて、世情不安へとつながることにもなる。

明治維新のきっかけとなった黒船来航の表向きの目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

徳川時代は、その初期段階、もっとわかりやすく言えば家康時代に、参勤交代を始めとする武家諸法度、禁中並公家諸法度、大船建造の禁等、制度や法令をガッチリ固めた。もちろん、貨幣発行権の独占と貨幣の様式の統一をはかり、金・銀・銭(銅)3種の性格の異なった貨幣からなる「三貨制度」も制定した。しかし・・・。

身分制度に守られた序列原理が、ひとびとの潜在意識まで支配して、貨幣軽視(=力こそ正統性の証、おカネは卑しいもの)から、経済制度だけは形骸化してしまった、そして、このことは、大権現様徳川家康をも見通せなかったおカネの怖さでもある、ということではないだろうか?

江戸時代の可能性と限界が見えたところで、次の担当者にはまとめをお願いします。
(* ̄ ̄ ̄ ̄∀ ̄ ̄ ̄ ̄*)ノょろしく

うらら

参考図書:山川出版社「詳説日本史研究」
      水上宏明「金貸しの日本史」
      鬼頭宏「文明としての江戸システム」

投稿者 urara : 2010年04月28日 20:33  

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コメント

うららさ~ん


『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり――薩摩藩 隠された金脈――』(大江修造著 アスキー新書 2010年)なんちゅう本を読んどったところです。

米軍基地は虫歯かもね。


“神”の道具であったカネが、“欲望”に支配されるようになったプロセスを考察中であります。

投稿者 タツ : 2010年04月29日 20:34

>明治維新のきっかけとなった黒船来航の表向きの目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

私も黒船襲来の本質は、上記のような日本からの冨の収奪だと考えています。その後の近代化と市場化の流れを見れば歴然としていますね。

騙しと脅しの市場の原理を使って、本源気質の色濃く残る日本より、収奪せしめようとする行為であることは推測できます。

この手法を使って全世界の後進国から収奪を繰り返し、冨の集積を行ったのが欧米の貴族階級です。

そういう意味で江戸時代は、非常に安定した社会だと思われます。

投稿者 kon : 2010年05月01日 23:55

タツさん

いつもながら記事の内容に沿ったコメントありがとうございます。

思うのですが、「武士は高潔な存在」、それにくらべて、「カネとは卑しいもの」という固定観念が根本問題なんではないでしょうか?

だって、時代は変わっているわけで、豊かになり=余裕ができて、人口も増えて、(国内)交易も活発になって、いろんなことを知りたいという欲求も出てくる(国学や蘭学、儒学へのアプローチ)。

で、そういう社会活動の中ではカネも必要品なんだと思います。高潔・下劣という価値観念抜きで、必要か否かと視点だけでみると必要だったと。

だとしたら、その必要品をうまくコントロールする術を国家≒幕府自らが真正面から取組んで確立していけば、幕藩体制は緩やかに時代に沿って変化していけたかもな~、とか思います。


投稿者 うらら : 2010年05月03日 11:25

konさん

コメントありがとうございます。

「鎖国」ってスゴイ思い切ったシステムですよね。

家康が遠い欧米の状況をどこまで意識していたのかはわかりませんが、少なくとも、近くの朝鮮半島にすら近づかず、まして組みしようともしなかった。ひたすら閉じた。このあたりは、「泣くまで待とう」の家康ならではの賢明な防衛策だと思います。なので江戸時代は安定した。

とはいえ、すでに開国して150年、市場経済の雄となり、貿易も金融も盛んな現在、鎖国時代に戻ろう!というのはあまりにも非現実的です。

結局、自由経済の美名を捨てて、国家がどこまで関与するのか、が問われるのではないか、と思います。

投稿者 うらら : 2010年05月03日 11:34

「武士は食わねど高楊枝」この言葉の持つ本質がわかりました。(^^)

ただ、お金=悪とか商売は騙しという価値観はすでに中世にできていたようで、その意味では商人VS武士の間でのお金を巡る騙し合い、すれ違いの根はかなり深いように思います。

その商人ですら、稼いでも稼いでも徳政令などで御破算にされる。江戸の商人や町人が進んで消費体質になった背景にはそんなお金の儚さもあったようで・・・。

いずれにしても国家はそのバランスを見ながら右へ、左へと舵取りをしていたようですね。その意味で徳川のとった金融政策は現在のようにお金持ちの為だけの政策ではなかったようです。その1点をとっても優れた政治だったのでしょう。

投稿者 tano : 2010年05月07日 00:11

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