2010年07月26日

学者による集落論第1回 【縄文の集団に学ぶ~その6】

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【縄文の集団に学ぶ】シリーズも第6回目となります。

第3回から前回の5回目までは、「縄文集落」はどのように構成されていたのかについて、お伝えしてきました。
前回は「外婚制度の取り入れ」、集団規模が拡大した時にどのように集団を分化・統合したのかについて、集団内の婚姻規範によって統合したと言う内容をお届けしました。

今回は、縄文時代の集落や家族構成が、学者の世界ではどのように解釈され定説となっているのか、についてお送りしたいと思います。
縄文集落研究の2大論説、和島誠一の集落論と水野正好の集落論についての投稿です。

るいネットの投稿 「縄文集落論の変遷(1)」の引用です。

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縄文集落論はやや行き詰まりを見せつつも、日夜、遺跡・遺品の出土が重ねられる中で、新たな発展への胎動が感じられます。したがって最先端の情報が確かに重要ですが、目新しさばかりに囚われると混沌とした議論になりかねません。そこで、いわゆる「専門家」の間では、どんな切り口で縄文集落論が語られてきたのか、第一歩から概観しておきます。「素人」の視点からそれらを洗い直し、批判・再構成することが必要で、その際の参考になれば、と思います。

●和島誠一の集落論
   
縄文時代集落論第一世代を代表する研究者であり、黎明期の原始・古代集落研究のパイオニアでもあるのが和島誠一です。縄文時代における母系的な氏族共同体の解明を中心的な課題に据えることになった1948年の『原始聚落の構成』では、中央広場を伴う定型的集落の存在、それと一体となった共同規制の問題、前期以降顕著となる集落規模の拡大と労働力=人口の増大、協業や分業の一定の進展に伴う生産力の発展と定住性の高まり、住居形態・規模の変化と大形住居の性格、女性土偶や埋葬様式のあり方等々、きわめて多岐にわたっており、今日の集落研究の基本的なテーマの大半が登場しています。

和島誠一の縄文家族論は、かれの母系的な氏族共同体論と一体のものとして提出されています。彼は縄文期を、集団婚、つまり多夫多妻婚ともいうべき原初的な婚姻形態に支配された「古い無階級の氏族社会」として位置づけ、同居制を基調とする個別的な家族形態は、まだ成立をみていなかったと主張しています。さらに「父の認知が不確実になるので母系制が本来」であるこうした氏族的な構成のその後の行方を、後続する弥生・古墳・奈良時代を通観しながら追求しようとしたのです。

●水野正好の集落論

和島に対し、祭祀・宗教構造と一体となった集落の内的構成の解明を課題の中核に据えるのが水野正好です。全体的に「民族学的・人類学的な色彩」が強いといわれる一方、「労働編成との関係で集団関係を論じる視点が弱い」という批判が、従来からなされているようです。

“二棟一家族論”および“三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論”の出発点となった1963年の最初の論文、『縄文式文化期における集落構造と宗教構造』では、茅野市与助尾根遺跡の28軒の住居群からなる中期後半期集落の解析にもとづく集落―大群―小群という集落構造の復元と、広場および葬送・石柱・石棒・土偶の各祭式の解析にもとづく宗教構造の把握に焦点が当てられています。生産活動に関係するものとしては、わずかに「狩猟神」や「穀神」、「消費単位」といった言葉が各祭式や大群との関連で使用されていただけにすぎないことも、上の批判が当てはまる一例でしょう。

水野集落論に特徴的な祭祀論的アプローチは、和島集落論においては希薄なものとなっています。祭祀論を重要な核とした水野の分析作業は個性的であり、東日本を中心とするそれまでの縄文時代集落研究には決してみられない発想の柔軟性と融通性とを備えていました。

ところで、和島集落論と水野集落論、この新・旧二つの世代を代表する集落研究を一層際立たせていたのが二人の特徴的な家族―婚姻観です。次回はそれを紹介します。


  
  

現在まで縄文集落論の基礎と言われてきた和島論、水野論とも、現在は批判を受けているようです。
和島論を観念先行で事実に合わないと批判している佐々木藤雄氏は、集団婚は実在しなかったと言う説を説いています。
また同氏は、水野論に対しても、発掘調査分析の誤り(異なる年代の遺構を同時期の遺構としたため水野論そのものが成立しない)から、水野論そのものを否定しています。

非常に大きく捉えると、和島氏、水野氏、塚田氏、佐々木氏と、学者の説は年代が新しくなるに従って、集団の構成が母系血縁集団から一夫一婦制のような小家族単位であったという説に移っているようです。
博物館の展示を見ても、縄文集落は核家族的な小集団を基本に構成されているかのように=上記学者たちの説に従っているようで、一般の方々の理解もそのようになっているものと思われます。

現在は諸説が入り乱れ、何が真実なのか、学者の説からは見えなくなっているように感じます。
集団の分化・統合を解明するには、当時の外圧状況において、集団の最基底部にある男女規範、婚姻制がどうなっていたのかを仮説を元に組み立てていく事が不可欠ではないかと思います。

次回は、和島論についてもう少し詳細に見ていきます。

投稿者 sinkawa : 2010年07月26日 12:53

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コメント

縄文時代の居住構成は概ね1家屋5人~6人程度だったと記憶していますが、その根拠は一夫一婦制が基本ではなく、居住面積の規模が規定的な要素だと思います。
例えば1家屋に成人女性が2人、男性が3人、子供が2人などと言うケースもあり、一対婚を証明する形態はないのではないかと思います。

>博物館の展示を見ても、縄文集落は核家族的な小集団を基本に構成されているかのように=上記学者たちの説に従っているようで、一般の方々の理解もそのようになっているものと思われます。

これは、一対婚は人類の基本形態であるいう主張をしたい側の作為だと思います。一対婚は日本ではむしろ遅く、核家族に至ってはつい最近の事です。
やはり、20人から30人の大きな集落で暮らしていた縄文集落はそれ自体が大きな家族であり、人類の太古の洞窟時代の集団を延長させた本源集団の形態を継続させていたものだと思います。

>集団の分化・統合を解明するには、当時の外圧状況において、集団の最基底部にある男女規範、婚姻制がどうなっていたのかを仮説を元に組み立てていく事が不可欠ではないかと思います。

ぜひそのような試みを期待しています。

投稿者 tano : 2010年07月27日 02:14

縄文時代の家族形態を推定する作業は難しいですね。
遺跡などの証拠から類推する方法はちょっと偏った推定になると思います。
むしろ生物史としての観点から集団のありかたを想像するほうが整合性が高いとおもいます。

縄文研究の学会の議論は高尚すぎて?素人には少しとっつきにくいですね。

投稿者 匿名 : 2010年07月29日 19:16

だんだんと一対婚へと論が傾斜してきたのには、やはり違和感がありますね。

当時の状況を考えると、食糧確保という第一課題も、一対の家族よりは、集団的に実践した方がはるかに有利でしょう。

集落の形態も、闘争課題第一の集団をいかに統合するか。という視点が重要な気がします。

投稿者 さーね : 2010年07月29日 19:18

>現在は諸説が入り乱れ、何が真実なのか、学者の説からは見えなくなっているように感じます。<

 様々な学説を見ていると、先人の研究を活かそうというより自分の学説を際立たせる為に他の説否定するといった雰囲気を感じました。。。
 

投稿者 Anonymous : 2010年07月29日 19:30

和島氏も水野氏も家族をやたら難しいものとして議論されています。改めて家族って何だろう?
やはり家族を肯定してよいものやら否定すべきなのか混濁しているのではないかと思うのです。それでも彼らの論じていた時代には厳然と家族は力を持って存在していました。

家族について、このブログで答えを出しておいた方がすっきりしそうですね。或いは人類にとって家族とはどのような時代に何の目的で登場したのか?そこを探れば答えが出てきそうです。

私なりの答えは家族とはやはり私権時代特有の社会や集団という枠組みから切り離された私的小集団だと思うのです。
そして目的は私有意識を高める為に家族という幻想を作り出してそこで多くの私権規範が作られたのではないでしょうか?

翻って家族は必要か否か?
もうすぐお盆休みが来ますが、水入らずで一家団欒、その時の意識ってもうひたすら弛緩して遊ぶ事に終始しますよね。
私権時代の最終的な目的が解脱だとしたら、家族もまたその為に必要なものだったのかもしれません。

でもいつの時代も必要なのは助け合ったり、期待しあったりする仲間や集団です。家庭崩壊や家族への離反が進む中、現代人は家族以外にその場を求め始めているのではないでしょうか?

故郷は遠くにありて思うもの・・・。
昔の人はうまく言ったものですね。

投稿者 tano : 2010年08月05日 20:56

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