2011年04月29日

「中国とは何者か」~農業大国の背景を探る

「中国とは何者なのか?」このテーマをいくつかの視点から検証していくことになります。
今回はまず中国の食の中心、農業という視点から見てみたいと思います。

中国は一般に農業国家と言われています。現在も8億人の農民人口抱え、米については世界の3割を生産し、米以外についても野菜、小麦など輸入もしていますが、多くの農産物を輸出しており、現在ではまだ13億の人口を自給するだけの農業生産力を有しています。⇒⇒資料現在、土壌汚染問題や砂漠化、洪水で農地が減少しており、また小作農による低効率から、その生産性は他の農業国家と比べて圧倒的に小さいですが、1950年代以降の農業政策の奏功から農業大国としての地位を築いているかのように見えます。

さて、中国は果たして最初から農業国家だったのでしょうか?
実は中国を作り上げたのも、中華思想を創出したのも、農民ではなくそれを支配する側の支配層であり、彼らはいずれの時代もその出自は遊牧民でした。一見農業国として見えるのは、農民をコントロールする手法を中央集権体制として形成していたからであり、それは彼らが遊牧民の手法を用いて飼育動物と同じ方法(例えば宦官、纏足)で人民や官僚を支配してきたからです。

中国の農業とはどのような中で生まれ、今日まで至っているのか?いくつかの「ブログの記事」や、「るいネットの記事」の一節を紹介しながら考えてみたいと思います。

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m281 まずはとっかかりとして中国の本質を提起した岡田史観を紹介しておきます。
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その本質は農業ではなく商業とする説で、遊牧民が起こした国家である殷、周の成り立ち、その後の戦乱の歴史から見ても、同様に農民、農村を軸に発展してきた日本とは大きな違いが生じています。
中国とは都市(=市場)を栄える為に農村が下支えした文化であり都市と農民は最初から別物であったようです。

「中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組み込まれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生み出した言語なのである。」 「夏朝が、黄河中流の渓谷に沿った、洛陽盆地に中心をおいて、東方、東南方、南方にのびる内陸の水路を伝わってひろがる商業都市網を支配する、東アジアの最初の広域政治組織になった」 市場を原型にした城郭都市は、首都から内陸水路に沿って各地に建設される。これら地方都市は古くは「邑」と呼ばれ、後に「県」(懸と同音で、首都に直結するの意)と呼ばれる。ここには首都から派遣された軍隊が駐留して交易活動を保護し、県城の県衙(役所)では、首都の儀式と同時刻に朝礼が行われた。 「いうならば、中国の本質は、皇帝を頂点とする一大商業組織であり、その経営下の商業都市群の営業する範囲が、すなわち「中国」だったのである。」 こうした地方都市と地方都市の中間の地帯は、夷狄の住地であったが、城郭都市の商業網の網の目が密になるにつれて、ますます多くの夷狄が城郭都市の名簿に登録して中国人となり、前221年の秦の始皇帝の中国統一までには、華北、華中の平野部では、夷狄はことごとく中国化して姿を消し、山地の者のみが取り残された。」
参考~るいネット投稿

m281 都市民と農民は現在でも大きな違いが生じています。
まずは収入の面。都市と農村で年収は3倍から12倍も差があり、この格差は世界で一番大きいとされています。

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プラカードをぶら下げ、都市部で仕事を探す出稼ぎ労働者(China Photos/Getty Images)
大紀元より

2009年の都市部住民の平均年収は1万7千175元(22万3千円)であるのに対し、農村部住民の平均年収は5千153元(日本円6万7千円)。 2008年の3・32対1、2007年の3・31対1を上回り、格差は拡大傾向にあるという。さらに、福利厚生、教育、医療、失業保険など非貨幣的要素も考慮すれば、1980年代半ば頃2倍だった差は4~6倍まで拡大していると言われ、その差は世界一。1人あたりのGDPが最も多い上海市と最も少ない貴州省では、その差が12倍を超えているという指摘もある。
大紀元の記事より

m281 中国では都市民と農民は国籍が違うほどの差があります。

>中国では戸籍の移動が禁じられていて、農村戸籍から都市戸籍への移動は厳しく制限されている農村戸籍の人間は、一生農村戸籍のままというのが原則である。 そして、これには、共産党政府にとって多大のメッリトがあった、それは、この政策によって、農村戸籍の農民を貧しい状態に放置し、期間を限定して、都市部に送り込んで「出稼ぎ労働者」にできるからである。だから、常に、安価で多量の労働者を供給する社会システムがセットされていることになる。

中国には事実上、国内に「沿海国」と「農村国」の2国があって、住民はそれぞれ別のパスポートを持っているようなものである。そう言っても過言でないくらい中国の戸籍制度は厳格に運用され、国民生活を規制してきた。
近年の中国経済の発展は、ある意味で農村の犠牲の上に成り立ってきたものだ。いわば都市が農村を広大な植民地として、そこから利益を吸い上げる構造である。これが中国の農村と都市の格差を構造化してきた基本的なスキームであったと言っていい。

>~ブログ「なぜ中国人は会社を辞めるのか」
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m281 毛沢東の政権になってできた戸籍制度であるが、それが施行される下敷きは中国の歴史に刻まれている。中国は農村をコントロールする中で国家を維持してきた。

>王朝が更迭する初期において、農村社会を迅速かつ有効的にコントロールするために、国家の行政権力は農村の基層社会まで浸透し、国家権力がすべてを統治する形をとっており、秦の「郷里制」は典型的な例である。国家が平常事態に入るにつれて、農村の自治組織の機能が強化され、国家は行政権を上まで撤収し、農村社会に対して間接管理を行い、農村の自治権が強化されるようになった。たとえば宋から明清までの「保甲制」はそれにあたる。農村社会はこの二種類の権力の相互作用の下で統治を実現するのである。
村民自治と農村政治

m281 しかしそれらがうまく稼動していたのは最大でも400年です。その都度行き過ぎた締め付けから農民が反乱し、その勢いは国家を破壊する力になっていったのです。

>農民反乱、これこそ中国を繰り返し発展の原初に引き戻した破壊の元凶だったとする。 まずは、その苛烈な破壊力である。中国の農民反乱は、単に旧王朝の腐敗を取り除くだけでなく、その体制下にあった社会的経済的発展を根こそぎ破壊し、戦乱や飢餓で住民を大量死滅に導くのである。 多くの歴史資料から、農民反乱と王朝交替期にどれほどの人的犠牲があったか衝撃的数字を示す。 秦から漢への王朝交代時の8年間に中国の人口は2000万から1000万に半減した。大飢饉もあり、『漢書』は「人と人が食いあい、死ぬ者が半数」と伝える。 後漢最盛時に5000万人まで回復した人口は、後漢末の動乱後には700万余にまで激減した。実に7分の1である。 隋代には再び人口5000万、戸数900万戸に回復したが、唐初には200万戸余に激減する。唐最盛期に人口は5000万に復活したが、唐末の大動乱と五代十国の戦乱を経て北宋創建時に登録戸籍は300万戸になっていた。 明末から清初への移行時20年間でも、総人口は5166万(1626年)から1403万(1655年)に減っている。

後漢末の5000万から700万の人口激減など「一つの民族の滅亡」といってもよいくらいだ。『三国志』によれば「江淮(揚子江と淮河にはさまれた地域)一帯は空っぽになり、人々は互いに食いあうというありさまだった」という。

るいネット投稿から
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m281 中国には欧州のような商品奴隷はいなかったと言われています。春秋戦国時代とて争ったのはクニ同士の軍人です。しかし最大の奴隷が支配下に置かれた農民であり、最終的には農民層そのものが国家の奴隷的位置に落ち込んでいった。これが中国の農民の悲哀であり、現在も続く農業国家としての中国の実態はないでしょうか。

>まず成長著しい中国の強みは器用で豊富な労働力と政治的な安定である。中国の戸籍は都市と農村で峻別され、8 億人の農村住民の低賃金労働によって世界の工場の地位を確立した。かつてヨーロッパ諸国がアジアの植民地やアフリカ人労働力を利用して経済を発展させていったように、アメリカがアフリカから奴隷を移入して安価な労働力を持ったように、中国は自国の農村をいわば都市部の国内植民地としているのだ。
大前研一氏コラム

しかし、現在徐々にこの関係が崩れてきています。
近年、雲南省、広州省など農業戸籍を廃止する地域が続出しており、農民の私有を認める生産請負制は既に1977年から移行しています。しかしこれは歴史的に見れば繰り返し訪れる反転期の始まりです。

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これまでが中国の農村の実態と歴史の一部です。
さて上記の内容を少しまとめてみたいと思います。

m282 中国の本質は市場である。
m282 国家とは市場を取りまとめる主体であった。
m282 中国の農業は都市の市場の為にある。
m282 農民を管理する為に国家は時々に制度を敷いてきた。
m282 引き締め政策は秦の時代の郷里制から中華人民共和国の戸籍制までその本質は農民の中央支配である。
m282 安定してくれば、間接管理に移行し、自治権を与える。その自治権がエスカレートして反乱になる。
m282 その繰り返しが農民の反乱であり、その度に国家は転覆した。
m284 農民の支配を常に失敗してきた歴史が中国の歴史なのではないか。

なぜ失敗したのでしょう?最後に少し考えてみました。

中国の農業は歴史を追うごとに華北から華中、華南へとその重心は移動してきました。
華北は麦作だが、華南は稲作です。稲作は麦作と比べて高い技術力が求められ、自治としての水利共同体を必要とします。稲作の民を華北の麦作と同様に単純労働の民としてコントロールしようとした事が過ちだったのかもしれません。締め付ければ耕作が落ち込み、自治を認めれば農民の意欲が高まり耕作が上がる。そのさじ加減に悩んだのが時々の王朝だったのではないでしょうか?

つまり、遊牧上がりの麦作の住人が南の稲作の民を理解できず、力で支配しようとしたのが中国の農業史の悲劇を作り出した元凶なのではないかと考えます。

投稿者 tano : 2011年04月29日 00:30  

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コメント

>中国は自国の農村をいわば都市部の国内植民地としているのだ
>国家とは市場を取りまとめる主体であった。

中国というのは、でかい国を序列規範で統合しているのかと思いましたが、どうもそればかりではなくて、“市場”を早くからそのシステムの中に組み込んでいるということですね。

確かに朝貢制も貿易と紙一重だし、早くから貨幣経済は発達しているし、農民からの徴税も貨幣で始めている。

・・・その市場を動かしている連中と国家の関係が詳しく知りたくなりましたね。


投稿者 Hiroshi : 2011年05月07日 21:09

hiroshiさんありがとうございます。

>・・・その市場を動かしている連中と国家の関係が詳しく知りたくなりましたね。

確かに・・。現在それを調べていますが、なかなか中国は難しい。まだ答えが見つかっていません。市場を動かした連中が遊牧系であることはわかっているのですが、殷の起源がどこまで遊牧系なのかを現在調べているところです。

また近日中に記事UPします。

投稿者 tano : 2011年05月15日 12:00

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