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2011年06月27日

中国人とは何者か?~中国の私権性、商業的詐術の起源を殷人に探る1

前回、「南方モンゴロイド=倭族からみた古代中国」 として原中国人=南方モンゴロイドの拡散の歴史をみてみた。今日は、北方、南方の両モンゴロイドが融合した殷を通じて、中国人の私権性、商業性の起源に迫ってみたい。
殷が興った当時、中国北方には5大民族(夏、殷、周、羌、南)があり、お互いに激しい争い(と合従連衡)を繰り広げていた。改めて、中国古代の5大民族を整理しておこう。
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地図(前1000年~前800年頃)はこちらからお借りしました。このブログも非常によく中国を考察されています。是非、みなさんお読みください。

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● 古代中国の5大民族(夏、殷、周、羌、南)
○「夏」―― チベット系と原中原人の混血民族。黄河中流域に起こった最初の王国。禹の神話に代表される潅漑技術を携えてきた民族であり、西方から技術を取り入れた半農・半牧の民族であろう。中華民族の祖とされる黄帝はタリム盆地の南側崑崙山脈に住んでいたとされるためチベット系とみていいだろう。神話上は火をつかさどる「炎帝」も祖に掲げており、このことからは先住の焼畑農耕民と混血した結果であろうと考えられる。
○「殷」――モンゴル系と原中国人=倭人の混血民族。その馬車の遺跡と青銅器の武器、残虐性からみて、その支配階級は遊牧民族とみて間違いない。殷が都を転々としたのもこの遊牧民族故の移動性の高さに起因すると考えられる。殷ははじめ夏の下で農耕地拡大を図り、途中から対立関係に転じる。最初に、黄河の支流、しょう(さんずいに商)水を拠点としたことから、商とも呼ばれる西の夏、東の東夷に挟まれたこの地へは、北方のモンゴル高原から、黄河の北方に形成された遊牧・農耕の接触地帯である長城地帯を越えて入ってきたと考えるのが順当だろう。他方、山東省に発達した海洋系夷族の文化を吸収しており、夷族との混血がかなり進んだ民族であろうと考えられる。海洋系夷族は以前「南方モンゴロイド=倭族からみた古代中国」で取り上げた海洋系倭人。
○「羌」 ―― 羌系=チベット系。上古、夏王朝と争うが、敗退。岳神を擁する。また殷人の目の仇とされ、大量に犠牲として殺戮された
○「周」――チベット系。夏の後からやってきた武勇に優れた遊牧民族。氏姓制度あり。殷・夏に比べると合理主義的。後に羌と同盟して殷を滅ぼす。
○「南」―― 苗族。祭祀に優れ、殷にも恐れられた。なお苗族は北方出身ではあるが、殷代には殷よりも南方に既に進出しており、南人と呼ばれた。苗族は中原の先住民である仰韶人ともされ、中国灌漑農業の祖であり、また最古の潅漑イネ農耕の祖でもある。
中国は今も、チベット、モンゴルとの間で民族問題を抱え続けるが、中国の初期部族も、いずれもチベット、モンゴルと原中国人の混血民族である。
●殷人の特徴1~占術、人犠
古代中国の5大民族の中で、殷人の特徴は、チベット系ではなくモンゴル系であるということ。そして東夷人との混血民族であるという点である。その結果以下の特長がある。
○夷人に対して支配の正統性を誇示するために占術を強化し漢字を生み出した。
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写真は骨占いの遺品。先ず鑚や鑿と呼ばれる穴をあけ,火で灼き,生じた亀裂によって吉凶を占った。「卜」字はこの亀裂の象形からつくられた。 こちらからお借りしました。
殷の特徴はなんといっても占術(シャーマニズム)の発達であり、それに伴う漢字の進化である。占術(シャーマニズム)は勿論、アニミズムの発展したものであるが、アニミズムと決定的に違うのは、単なる祈りを超えて(いわば自然に対する畏敬の念を捨てて)、シャーマン自身が神となってしまうことである。例えばアニミズムとしての雨乞いはいつ降るとも分からない雨を、必死に祈るのであるが、シャーマニズム段階になると、シャーマンが太陽を打ち落として、旱魃から守ったという神話が生まれたりする。(これは日射神話といわれ、この神話の流れにヤタガラス神話などもある)また骨占いは、シャーマンが願う吉凶がでるまで何回も繰り返されたというから、シャーマンの意思は決まっており、占いは単なる手続に過ぎなかったのである。これはいわば、自然を畏れ、それを媒介してくれるシャーマンを敬っている大衆に対して、詐欺を働いているようなものであるが、支配階級側はそもそも、土着民の神に成り代わることだけが目的であり、そもそも、土着民が信じている神は自分が信じている神ではないので全く恐ろしくも何ともなかったのである。
そして、そのような先住民を支配するための詐術としての占術が嵩じて漢字がうまれていく。本当に重要な言い伝えであれば口承とするのが本来の民族の智恵であった。それが文字化されたのは詐術のためにひねり出された観念群であり、潜在思念との断層が大きすぎてすんなりとは覚えられないものだったからではにだろうか?
○羌族を敵視し犠牲とすることで戦争を正当化した
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写真は司母戊鼎の取っ手に描かれた人に噛み付く虎の図章(両方に虎、中央が噛み付かれる人)このように殷の青銅器には人々を脅す図章が多い。 こちらよりお借りしました
殷が夏と対立し、縄張り拡大に乗り出すようになると、夷族に対する支配の正当化はさらに戦争の正当化にまで進む。戦争のためには自民族正当化が必要であるが、もともと平和を求め、贈与関係で部族間対立を回避してきた夷族には、いかに羌族が異民族であるからといって彼らに向かって弓を引くことにはためらいがあったはずである。ところが殷はのちのちの人々からも恐れられるほど、羌族を徹底的に痛めつけた。
河の神に捧げるためといっては他の動物たちといっしょに捕らえた羌族を河に沈め、土の神に捧げるためといっては他の動物たちといっしょに捕らえた羌族を土に埋めた。犠牲としての人、人犠の風習である。つまり神が犠牲として人間を求めているのだから、自分が犠牲になるのがいやなら羌族を犠牲にしようという理屈で、夷族たちに戦争をしかけることを正当化していったのである。正当化のための神器も高度化し、青銅器の装飾は非常に手の込んだものになっていった。ただし縄文のような自然への畏敬の表現ではなく、異族敵視、支配正統化のための神器である。代表的神器は饕餮文青銅器である。饕餮(とうてつ)とは獣神で体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。つまり、自分たちの縄張りを荒らす羊トーテムの羌族が襲ってくるぞ、撃ち殺せ、という儀式のための道具であろう。また殷は毎晩、酒池肉林を繰り返したといわれるが、酒の力を借りて、人々の戦争の恐怖を乗り越えさせていったのであろう。これもまた壮大なる詐術である。
しかも恐るべきことに、このような神のためには異民族を殺しても構わないという発想は南方の夷族にも浸透していった。のちのち中原の人々が合理主義的に戦争をとらえるようになっても中国の周辺地では首狩の風習が残ったという。(本来平和を好むはずの日本人が戦前、天皇のための戦争に邁進していったのも同じ構造かもしれない)

投稿者 staff : 2011年06月27日 List  

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コメント

>注目すべきポイントその2は、伊勢すなわち三重県でのスサノオの神社の数です。伊勢といえば、アマテラスを祭る伊勢神宮がある土地ですから、当然アマテラスを祭る神社の方が多いと思われがちですが、結果は逆になっています。
これ重要ですよね。私も先日、三重で正月の注連縄作りをしてそこに「スサノヲ」信仰が根付いていることや獅子舞信仰が根付いていることに気が付きました。
伊勢神宮は、ますます不思議な神社です。

投稿者 yama3nande : 2012年1月11日 00:37

満州から朝鮮を経由して南下した扶余族であれば、満州系と言うべき。
なぜ朝鮮系を連呼するのか。
朝鮮系を連呼する意図は?

投稿者 応援 : 2012年1月11日 11:42

確かに、扶余系でもいいきがするが、結局、今の朝鮮が扶余系かどうかにもよるんでしょうね。

投稿者 yama3nande : 2012年1月11日 13:25

Y染色体ハプログループの件はどう説明するのですか?
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/Y染色体ハプログループ

投稿者 匿名 : 2012年1月11日 17:20

元々朝鮮南部は倭人の国だからね・・・
大和言葉は、開音節。朝鮮語は、閉音節。
支配層が朝鮮系に変ったと言うのは朝鮮人が言いたがる。
倭人の一部が江南由来と言うのは徐々に認識されつつあるが、
古代日本人に置き換わったと言うのは全くの間違い!
可哀そうだが朝鮮人にそんな力が有った歴史は無い!

投稿者 yamato : 2012年1月12日 16:32

天皇システムって天皇制てことですかね。
朝鮮系や中国系といい、正確な表現ができていないような感があります。
せっかく面白い推理だと思ったのにさすがにポチッと応援はできない内容ですね。

投稿者 匿名 : 2012年1月12日 23:49


キモイ。

投稿者 匿名 : 2012年1月13日 20:18

伊勢神宮を朝鮮系などと嘘を書くのはやめてください。不快です。

投稿者 ya : 2012年1月19日 20:56

**********大和民族大移動***********
書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんがった泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の起源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳の鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
③地名人名の起源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説を よくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
続きは その②を読んでください
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツ は典型例でしょう
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置きざりで、自ら大和民族大移動して来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんの妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石綿説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』が眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』で ネット検索。

投稿者 むらかみからむ : 2012年1月23日 23:53

天皇は祭祀を司るシャーマンでは、そう考えると江南に繋がります。
長江文明に源流がある以上急に朝鮮半島の支配者とかおかしすぎ
人口も遥かに多い倭国を支配できない。へンテコな理論。
未開の人間を支配するんじゃないよ。馬鹿げている。

投稿者 縄文人 : 2012年1月25日 23:17

天皇は祭祀を司るシャーマンでは、そう考えると江南に繋がります。
長江文明に源流がある以上急に朝鮮半島の支配者とかおかしすぎ
人口も遥かに多い倭国を支配できない。へンテコな理論。
未開の人間を支配するんじゃないよ。馬鹿げている。

投稿者 縄文人 : 2012年1月25日 23:18

 古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。
 私の解釈だとこうだ。こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。

投稿者 須賀の語部 : 2012年3月29日 19:22

勝手に朝鮮系とか嘘つくなよ。
そもそも神社のような高床式は半島には倭の支配地域だった特定の南部地域からしか出ていないだろ。
しかも朝鮮にある神社の起源(捏造)は子供の悪戯みたいな石ころ重ねたのだろ。半島に無いものがなんで日本伝わるんだよ。何でも日本の物盗もうとするから昔から嘘つきチョンとか呼ばれちゃうんだよ。

投稿者 匿名 : 2012年7月20日 02:13

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