2011年11月29日
弥生時代の解明1 ~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?
『シリーズ「日本人はいつモノを考え始めるのか」~プロローグ』を受けて、さっそく「弥生時代の解明」に入ります。
意外と知られていないのが弥生人とは何かです。 ここでは江南人+縄文人=弥生人という認識をもって以後の弥生時代の史実を見ていきます。つまり、弥生時代には朝鮮半島の支配者は中心に登場していないという史観です。(プロローグより)
「江南人」とは、倭人のことを指します。「倭」とは、従来は日本の古称であるとされてきましたが、元々は中国・江南地方の人々のことを指していたのです。黥面(げいめん、顔の入れ墨)・文身(身体の入れ墨)や断髪といった習俗をもった倭族の人々の一部が日本へ移住したことから、日本は「倭国」と呼ばれるようになったのです。

独龍族の女性の黥面(こちらからお借りしました。)
倭人とは、どのような人々か?
「倭人」「倭国」という名称の起こりは、日本人・日本国に限られたものではなかった。黄河流域に発祥した漢族が優越感から、長江流域を原住地として各地に移動分布した民族を総括して命名した卑称であった。(中略)われわれは中国大陸を1つとして見がちであるが、実は北と南では大差がある。淮河(わいが)を境にして、北の黄河流域が寒冷・乾燥地帯であるのに対し、南の長江流域は温暖・湿潤地帯で、環境・風土が対蹠的(たいせきてき)に大きく異なっている。
そのことは生産様式をはじめ、社会機構や習俗に大きく影響を及ぼした。例えば黄河流域では耐寒・耐旱(たいかん)性の粟の畑作が営まれ、住まいも地炉形式の竪穴式住居となった。それに対し長江流域では暖かく水も豊かなため水稲農耕となり、増水も考えて炊事の火を高床面に設ける高床式住居が考案された。
(鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈』)
このように「倭人」とは、元は稲作漁労を生産様式とする長江文明の担い手でした。
※彼らの文化がどのようなものなのか、詳しくはこちら。
本ブログ『著書分析より明らかにする日本支配の始まり2~長江の倭族が日本にたどりつくまで~』
では、長江流域にいた彼らが、なぜ日本へやってきたのでしょうか?
倭人の日本移住は3段階
渡来系弥生人の日本列島への移動のあり方については、以前数十万人に及ぶ大規模な移住があったかのような説があったが、現在では少数の集団が何回にも分かれて細々と九州へたどり着いてきたことが推定されている。(崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』)
その移住には、大きく3段階あったと考えられます。以下その3段階を順番に押さえていきます。
第1段階:4000~3000年前頃、畑作牧畜民の南下で押し出された倭族
安田喜憲氏の『龍の文明・太陽の文明』には、次のように書かれています。
四千年前頃、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が大きな力を持って南下し、ついに長江流域に生活していた苗(ミャオ)族など、三苗(さんびょう)とよばれる太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ三千年前以降の気候の寒冷化は龍族の南下に拍車をかけた。かくして、太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、稲作と太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。
これに対し、崎谷満氏は、苗族が日本に渡って来た可能性は低い、と指摘しています。その理由として、①苗族のホームグラウンドは黄河流域で、南下した後に長江文明(水稲農耕文化)を受容した民族であること、②苗族にはY遺伝子分析でO3c系統の高い集積が認められるが日本にはO3cはほとんど確認されないこと、逆に渡来系弥生人と推定されるO2b系統は苗族に確認されないこと、を挙げています。(『DNAでたどる日本人10万年の旅』)
同様に鳥越憲三郎氏も、古くは「黄河流域の土着民」である苗族を、倭族には含めず、むしろ苗族は長江中流域から倭族を追い払った存在、と見なしています。(『古代中国と倭族』)
これらを総合して考えると、畑作牧畜民の南下に押され、苗族は山岳地帯へ、同時に(すでに中流域を追われ下流域へ移動しつつあった)倭族の土着民は長江下流域へ追いやられた、と考えられます。そのようにして玉突き的に倭族の一部が下流域をも追われ、海洋を経て日本へ逃げのび、彼ら倭人が日本に稲作を伝えたのです。
そして彼らはまたその後に建国された呉・越の祖先であり、倭人が海洋系であると言われる所以なのです。
(『ブナ林と古代史』より)
水田稲作農耕の長江中・下流域からの直接伝播の可能性を指摘したのは、イネの遺伝子に詳しい農学者佐藤洋一郎である。佐藤が、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した、2,200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという。(中略)したがって、日本のb遺伝子をもつイネの品種は、直接中国から渡来した品種に違いないというのである。 (『日本人の源流を探して』)
第2段階:紀元前473年頃、呉の滅亡で呉人が朝鮮半島や日本へ
第1段階(4000年前~3000年前)に長江下流域に移動した倭族は、さまざまな小国を建国していました。そして春秋戦国時代には中国全土の戦争圧力の高まりに呼応する形で呉と越がそれぞれ建国され、彼ら倭族の小国はその支配下に置かれます。しかしその支配体制は緩く、部族連合のような形態であったと推定できます。
『史記』などをみると、長江下流域以南に「百越」のいたことが記されている。「百」とはたくさんの意であるが、その於越(浙江)、閩越(福建)、揚越(江西)、南越(広東)、駱越(安南)などの「越」は、上古音で「ヲ」wo、それは同じく上古音の「倭」woに通じ、類音異字にすぎない。つまり越の国をはじめとして、多くの倭族が居住していた。(中略)呉の国は『史記』呉太伯家が記すように、周公の長子の太伯が継承問題で身の危険を感じ、この地にのがれて倭族と同じに断髪・文身(入墨)し、後に建国したものである。そのとき太伯に帰服して国を築いたという千余家は、いうまでもなく土着の倭族たちであった。
(鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』)
呉の国は、倭族の部族長たちに支えられて建国されます。しかしその呉は、隣国の越と争いを繰り返し、紀元前473年に滅ぼされてしまいます。その際、越の北上によって土地を失った呉人が、王族に率いられて朝鮮半島へ移住(亡命)したようです。
春秋末期に、王族(姫姓)に率いられた呉人が大挙移住しました。呉人(倭人、汗人)は朝鮮半島の西部から南部に色濃く展開していたようです。 (『弥生の興亡』)
彼らは南方の越に討たれたので、南へ逃れることはできなかった。さりとて西には非倭族である強国の楚がおり、北には朝鮮半島の北部まで領有する同じく非倭族の燕がいて、しかも平壌近くまで要塞を築いていた。そこで朝鮮半島の中・南部へしか亡命することができなかった。もちろん朝鮮半島には先住民として北方民族の濊(わい)族・貊(ばく)族がいたが、彼らを制しながら半島中央部で最初に辰国を建てた。その後に三韓、すなわち馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)に分立する。そしていつしか彼らは韓族と称されるようになる。
(鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈』)
この朝鮮半島への亡命時に、一部が何らかの理由(おそらく呉の中でも主流から外れた一派)で海洋経由で日本の北九州に渡った(亡命した)と考えられます。そして彼らは朝鮮半島に積極的に移住した一派に比べれば小数で弱い(優しい)集団だったと思われます。
特筆すべきは、呉は倭人の中でも最も北に居住しており、故に寒冷地でも育つ稲(温帯ジャポニカ)を品種改良で発見しており、比較的高緯度の日本においても、彼らの持ち込んだ稲は短期間に本州全域へ広まることが可能だったのです。
![]()
呉人と越人の移動(『古代群像』より)
第3段階:紀元前100年頃、朝鮮半島に強制移住させられた倭人の一部が日本へ
呉を破った越は、それからほどなくして(紀元前334年)、楚に滅ぼされ、越や周辺にいた越人はその後、秦そして漢の支配を受けます。中でも漢の「武帝による無謀な侵攻で多くの国が滅亡し、多数の倭族が僻地に避難し、あるいは亡命」(鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈』)したようです。
彼らの亡命先は、主にミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアなど南方のインドシナ半島で、現代でもこの地は越と呼ばれ、倭族が広く居住しています。稲作に適さない北方の寒冷地は、稲作民である彼らの移住先として適さなかったのです。では、なぜ越人が朝鮮半島へ移住したのでしょう? それは、漢の武帝に領土拡大、辺境地の管理の任から強制移住させられたからです(紀元前109年)。
※参考:『邪馬台国プログ』、『弥生の興亡』
この強制移住させられた越人の一部が、漢の支配を嫌って朝鮮半島から日本へ渡ります。すでに当時、日本には数百年前に移住した呉人が縄文人と混血して定住しており、北九州から瀬戸内海、畿内に広がっていました。その情報を得ていた越人は、彼らとの棲み分けを図って、山陰(出雲)を拠点としました。さらに日本海沿岸に広がり、「越」を地名にもつ北陸地域(福井~新潟)に定着していきます。
※参考:「AD50情勢図」
春秋戦国時代の戦争を体験した越の人々は(先に日本に渡った呉人に比べると)私権性が強く、その分呉人と比べると階級意識が発達していました。(次回以降の記事で詳述します。)出雲で神話を起点にした弥生王国が作られ、おそらくは弥生時代中期には、先行した呉人の居住地までその影響力を与えていたと思われます。さらに、後に渡来してきたアマテラス系朝鮮支配者と一戦を交えたと思われます(鳥取県の青谷上寺地遺跡の109人の死体跡)。
とは言え弥生時代前半期には、ほとんど戦争らしい跡はなく、海洋を命からがら逃げてきた彼らは呉人同様に、受け入れ体質の縄文人と共生する道を選んだのです。そして呉と越から来た倭人が、約1000年の間に縄文人と交わり、“弥生”という縄文の漁労採集文化を引き継いだ形で、農耕採集文化を日本に浸透させていきました。
まとめ
上記の様子から、日本に移住した倭人が、なぜ縄文人に受け入れられ、混血が進んだのか(その結果、弥生人が生まれたのか)、その理由も見えてきます。
①南方気質を備えた稲作漁労民である倭人は、縄文人と相性の良い温厚な民族であった。②日本への移住は、すべての段階において少数派であった。つまり日本に来たのは、いわば「はみ出し者」であって、決して主力ではなかった。
だからこそ、倭人(江南人)は「平和裏に縄文人と混血し弥生の社会を形成し」「縄文人の集団性、本源性は損なわれる事なく温存された」のです
投稿者 yaga : 2011年11月29日 22:39 Tweet
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コメント
明快な歴史認識でよく解りました。
これがほんとの日本の歴史だと思います。日本人の遠慮深いやさしいDNAはここからきているのですね。
独りよがりで我儘な朝鮮人とはやはりちがいますね。
和服のことも呉服と呼ぶのわかるようなきがします。
小・中・高校の歴史教科書もほんとの歴史を教えて欲しいですね
投稿者 おおさわ : 2012年01月26日 14:01
おおさわさん、コメントありがとうございます。
>小・中・高校の歴史教科書もほんとの歴史を教えて欲しいですね
まさにそうですね。
教科書はその意味では恐ろしい洗脳物です。教科書に書かれてある史実は嘘ではないと思いますが、史実の中の都合の悪い部分は教えていない。
それによって歪められていると思います。
投稿者 tano : 2012年01月27日 16:38
ちょうどGyao 無料配信の2008年 中国歴史ドラマ
春秋戦国時代の 「春秋淹城」最終話を観たばかりで、
偶然このサイトにたどり着きました。
紀元前400年ごろ、呉・越・楚の3国に囲まれた、
太湖のほとりの淹城の物語です。
作中中盤(20話ぐらい)に、孔子や老子、孫武が
登場し、歴史上の名言を語る場面あり。
最終回では
淹城の王の娘が、互いに膠着した3国
呉王の扶差、越王の匂践、楚王を一堂に招き
「和議」を結ぶことに成功したところで終わります。
作品の出来も良く、せりふも重厚、
時代考証もかなり正確で、なかなかの名作です。
見ていて懐かしさを感じていたのは、
彼らの領土の農民のなかに、「倭人」がいたのかもしれない、とこのサイトで知りました。
この映画では、チビで刺青した民は出ませんでしたが。
1973年湖南省で発掘された馬王堆古墳の中から、
「老子道徳書」が発掘され、
太湖のほとりに2500年を経て、世界最古の城として
三城三河の淹城遺跡が現存しています。
そうか、彼らはその後日本に流れてきたのか。
実におもしろい体験でした。
今後ともよろしく。
TV番組はこちら
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00012/v12050/v1000000000000002062/
投稿者 urakaze : 2012年02月12日 04:04
urakazeさん、コメントありがとうございます。
>彼らの領土の農民のなかに、「倭人」がいたのかもしれない、とこのサイトで知りました。
記事にも書きましたが、長江流域は、人も風土も、日本人に親しみやすいものがありそうですね。
今後ともよろしくお願いします。
投稿者 yaga : 2012年02月17日 20:08
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