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2011年12月07日

「支配者から見た属国意識」~3.支配者層はなぜ庶民に配慮したのか?

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質素な城と言われた江戸城の四谷門の様子
写真はこちらからお借りしました。
    
  
TPP問題や原発問題の対応など、日本の統合者の限界をいやと言うほど見せつけられるに従い、「日本人はいつものを考え始めるのか」を検証することが非常に重要であると感じています。
  
  
この問題意識に基づき、「支配者から見た属国意識」シリーズをこれまで2回お届けしてきました。
1.朝鮮系支配者は日本に来てなぜ変化したのか?
2.朝鮮系支配者が来る前夜の状況
  
  
さて、今回はシリーズ3回目として、
「支配者層はなぜ庶民へ配慮したか」=「支配層が下へ配慮」を追求していきたいと思います。
「支配者層の下への配慮」とは、聞き慣れない言葉かと思いますが、日本における支配者層の意識を理解する上で非常に重要な意味を持っているのです。
世界の文明史では、支配者層が大衆を一方的に強制支配することが常識であり、支配者層が長きに渡り大衆に配慮することはありません。
だからこそ大衆は救い欠乏から「あの世」を対象とした宗教に向かわざるを得ず、宗教は非常に大きな力と収束力を歴史的に、そして現在も有しています。
  
  
一方日本では、支配者層が大衆に配慮するという、世界では考えられないことが当然のごとく昔から行なわれてきました。この史実を通じて、日本における支配者層の意識の有り様を明らかにしていきたいと思います。
  
  
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それでは早速、日本の歴史の中で、支配者層が大衆に配慮した事例を時代に沿って見てみましょう。
■飛鳥時代 【十七条憲法】
聖徳太子が定めた(と言われている)、「和を以て貴しと為す」で有名な官僚の心得。
和を大切にし人と争うことのないようにしなさい、と説いています。
人々を統治する官僚は自分勝手に行動するのではなく、人の上に立つものとしての道徳的訓戒に基づいて行動すべき、というものです。上に従順、下には横暴という属国官僚意識とは全く異なる価値観です。支配者が日本に到来してわずか300年もしないうちにこのような精神状態になっていったのです。  
「聖徳太子謎紀行」
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写真はこちらからお借りしました。
  
■飛鳥時代 【慶雲の改革】
唐律令を参考に作られた日本の律令の不備を修正するための改革ですが、同時に、飢饉における農民の負担軽減を行なうために、備蓄米を制度化し支給を行ないました
ウィキペディア「慶雲の改革」からの引用です。

いっぽう、うち続く飢饉から農民の負担の軽減を図るべく、税制や貧窮対策を施している。すなわち、畿内における調の人別徴収方式から戸別徴収への変更、庸の半減措置、義倉米(飢饉の際に貧民に支給するためにあらかじめ米穀を徴収・備蓄しておく制度)徴収法の緩和などの諸政策である。

  
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写真はこちらからお借りしました。 
■室町時代 【土一揆】
惣村という村落共同体において、大衆が自治権や不動産所有権を領主に要求しています。惣村には一定程度自治が認められており、決して領主から一方的な搾取を強いられていた訳ではありません。
これはまさに、村落共同体を侵さなかった事例です。
ウィキペディア「土一揆」からの引用です。

室町中期ごろ、商品経済の発達や農業生産の向上、惣結合の強化などに伴う社会情勢の変化により、まず当時の先進地域だった畿内において、民衆が連帯組織=一揆を形成して、支配者(幕府や守護など)へ政治的な要求を行うようになった。これを土一揆という。この頃には、惣村の形成に見られるように、百姓らの自治・連帯意識が非常に高まっており、そうした流れの中で、百姓や地侍、馬借らが広域的に連合する土一揆が発生したと考えられている。

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写真はこちらからお借りしました。
  
■戦国時代 【農繁期は戦を避けていた】
戦国時代の初めまでは、戦をする時期は農繁期を避け、農民への負担を考えて配慮していました。
YAHOO知恵袋からの引用です。

百姓等が弁当を持って小高い丘に集まり、合戦を見物していたなんて記述も残っていますから、犠牲になるケースは少なかった様ですね。
戦国時代の戦いは領地の奪い合いが主でしたから、仮に敵地の領民であっても下手に手を出すと、後に自分の領地になった際に支配が困難になりましたから、よほどの事が無い限りは手を出さなかった様です。
また武士だけで戦う事は出来ず、足軽と云った戦闘員が必要でしたし、攻め入る側だと小荷駄と呼ばれる兵糧等を運ぶ人達が必要でしたが、これらの人は農業が主体でしたから、合戦自体も農閑期に集中していました。 ですから収穫も終わっていた事も多く、自分住む所が戦場になりそうだと感じた場合には、近くの山などに避難する事も多かった様です。
(年間を通して戦いが頻繁になるのは、織田信長が兵農分離を行い、戦闘専門の軍団制を採ってからです)

  
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写真はこちらからお借りしました。
  
■戦国時代 【分国法】
戦国大名は、領国内の武士や民衆を規制するために「分国法」を定めます。
これは分国、つまり領国内でのみ通用する法律規範であり、その中に大衆への配慮を見ることができます。
一例として、「今川仮名目録」を見てみます。
NHK高校講座「城と合戦と大衆と」からの引用です・

続いてポイント(3)「民衆への政策」です。
戦国大名は領国の民衆に対して、支配者たることを認めさせるために、さまざまな施策を行ないました。
たとえば、北条早雲が伊豆に攻め入ったとき、伊豆一帯には流行り病がまんえんしていました。そこで、早雲は、すぐさま薬を取り寄せ、病人に飲ませたといいます。
また、このころの年貢は、一般的に「五公五民」、つまり収穫の半分を収めなければならなりませんでした。
早雲は、それを「四公六民」=つまり6割は百姓のものにしてもいいと改め、さらに、この決まりを破って取り立てようとする地頭がいたら訴えるようにと農民に呼びかけてもいます。こうした政策は、後には「目安箱」と呼ばれる民衆から投書で意見をきく仕組みの設置につながっていきました。
また北条氏の政策を伝え聞いた他国の農民たちが、「自分たちの国も、北条氏の国になればいいのに」と言ったとも伝えられています。

  
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写真はこちらからお借りしました。
   
■江戸時代 【目安箱】
1721年、徳川吉宗が設置した、大衆が要望や不満を直訴できる仕組みです。
    
ウィキペディア「目安箱」からの引用です。
  

目安とは訴状のことであり、政治・経済から日常の問題まで、町人や百姓などの要望や不満を人々に直訴させた。幕臣の投書は当初許可されていたが間もなく禁止され、投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。箱は鍵が掛けられた状態で江戸城辰ノ口の評定所前(現在の東京駅北口付近)に毎月2日、11日、21日の月3回設置され、回収された投書は将軍自ら検分した。
(中略)
これにより、町医者の小川笙船が江戸の貧民の窮状を訴えて施療院を建てさせる進言をし、吉宗が大岡忠相に検討させて小石川養生所の設置が実現した他、町火消が整備され、幕府が行っていた新田開発では、開発可能地の意見も参考にされた。吉宗が紀州藩主時代に和歌山城一の橋御門前に設置した訴訟箱が目安箱に繋がったと言われる。

  
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写真はこちらからお借りしました。  
約1600年前、朝鮮半島から渡ってきた人々は、朝鮮半島での度重なる戦乱経験により、日本を支配し統治するには力による強制支配が当然必要との認識でやってきたと思われます。
ところが日本では、共同作業である稲作には最も適した「村落共同体」がしっかりと存在し、首長が共同体を束ね、大衆と首長の間には共認関係、信頼関係が成立していました
  
渡来人は、大衆は首長に収束しており、首長を取り込めば大衆は反抗しないこと、すなわち力の行使という多大な労力を要せずに集団全体を支配できる事に気がついたのだと思います。つまり、村落共同体を残すことが大衆の反抗を抑え効率的に支配できる手法であり、同時に効果的に搾取する手法であると気がついたのです。
  
一方首長側としては、高度な武器や馬を乗りこなす圧倒的な力の差を見せ付けられ、争うのは難しいと捉えるのと同時に、殺戮や制度の一方的押付で支配しようとするのではなく、共同体の存続を考慮している支配者層を見て、共同体の存続さえできれば支配者層に従うことはやむを得ない、と判断したのだと思います。
  
約1600年前の渡来支配者層は、元々属国意識を強固に塗り重ね私権統合してきた人々であり、上には従順、下には横暴に接することを当然としてきた、力の原理で動く人々です。
しかし、縄文体質を色濃く残した土着の人々に接する中で、より効果的な支配手法の発見だけでなく、土着の共同体社会=人類本来の共認統合、共認充足を軸とした集団統合を目の当たりにすることで、支配者層の心底にも変化(よりよい集団統合に向けた可能性収束)が生じていたのではないかと考えます(集団統合の強さは収穫量の多さや地域の安定=支配者層の利益に直結していたと思われます)。  
つまり、日本で村落共同体と縄文体質の人々に接する中で、支配者層の属国意識は大きく変化していったのだと考えられます。
大衆の村落共同体を壊さないようにすること、大衆が収束する首長と大衆の関係を壊さないよう配慮することが、自分たちの安定と統治には不可欠であると思い至ったのではないでしょうか。
  
このように、支配者層と大衆の関係を捉え直してみると、歴史的な出来事の中に、支配者層が大衆に配慮して、共同体を壊さないように意図していたことが見えてきます。これは、縄文体質を残した日本民族だからこそ生じた、他国に類を見ない現象だと思います。
  
さて次回は、縄文体質に影響を受け変化した支配者層が社会全体を統合するために作り出した「天皇主義」についてお送りする予定です。
  
お楽しみに。

投稿者 sinkawa : 2011年12月07日 List  

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コメント

日本の考古学がなぜ評価されないかというと
こういった想像とか、感情論とか多すぎる
縄文人の分類自体はでたらめです、縄文人は平和的?なおでたらめな推論にすぎない。
縄文土器は捏造か、どうか追及する余地がある。
日本の戦後は豊かにつれて自分の独立な歴史を探る動きが出て、いろいろ捏造した。

投稿者 匿名 : 2012年8月30日 02:45

コメントは自分の考えを一方的に書く場所ではないし意見や感想でないものやあいさつなし、は削除されても仕方がないと。
興味深く拝見させていただきました。
特に 日本の第四期火山分布と
火山と人への恩恵は、自然に対する感謝と
畏怖の念にも通じる素朴な自然崇拝の心かも。
昨今漸く認識されはじめた マントル沈み込み地域の
埋蔵資源も同様の恩恵でしょうか。

投稿者 nemnem : 2012年8月30日 11:33

nemnemさんコメントと反撃文ありがとうございます。
縄文ブログには時々このようなイデオロギー的なコメントをいただきますので気にはしておりません。削除までは至らないかとしておいておきます。
>特に 日本の第四期火山分布と
火山と人への恩恵は、自然に対する感謝と
畏怖の念にも通じる素朴な自然崇拝の心かも。
昭和の初期に書かれた寺田寅彦氏の文章に以下の名文があります。
「このように吾らの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもって吾々を保育する「母なる大地」であると同時にまた刑罰を鞭をふるって吾々をとかく遊情に流されやすい心を引き締める「厳父」としての役割を勤めるのである。厳父の厳と慈愛の慈との配合宜しきを得た国柄にのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるであろう」
今後ともこのシリーズを継続する励みにしていきます。

投稿者 tano : 2012年9月2日 14:49

「このように吾らの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもって吾々を保育する「母なる大地」であると同時にまた刑罰を鞭をふるって吾々をとかく遊情に流されやすい心を引き締める「厳父」としての役割を勤めるのである。厳父の厳と慈愛の慈との配合宜しきを得た国柄にのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるであろう」
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なんだ、ぱくりの名文か?いつくかの名著の中によくでる一節ではないか?
これでも縄文人思想か?縄文人は本当に真実であれば、南太平洋諸島の男のように怠け者ばかり、なんだ厳父だ。
慈母厳父思想自身は儒教のものです。

投稿者 匿名 : 2012年9月5日 02:41

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