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   <title>縄文と古代文明を探求しよう！</title>
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   <updated>2008-07-04T05:28:49Z</updated>
   
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   <title>持ち込まれた婚姻様式</title>
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   <published>2008-07-04T00:23:42Z</published>
   <updated>2008-07-04T05:28:49Z</updated>
   
   <summary>渡来人の持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」であるとい...</summary>
   <author>
      <name>naoto</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<span style="color:#ff3300;">渡来人の持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」である</span>という視点は、弥生時代以降を考える上で、極めて重要な視点だと思います。
さらに、前投稿では、<span style="color:#ff3300;">「大陸でほぼ確立された支配制度（税制と体制組織）と自集団の婚姻様式(遊牧・略奪由来の私有婚)がもたらされた」</span>と述べられています。
今回は、さらに突っ込んで、彼らの婚姻様式がどのようなものだったのかに触れてみたいと思います。

<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=122476">遊牧部族の父系制への転換　るいネット</a>　より

<blockquote>＞当時、狩猟部族も採取部族も母系制ですが、遊牧集団は父系制にいち早く転換したようです。この<span style="color:#ff3300;">父系制＝男原理への転換が私権性の高まりや略奪闘争開始を解明する鍵</span>ではないか、と直感的には思うのですが・・・。<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=119520">邪心集団→略奪闘争説への疑問　るいネット</a></blockquote>

<blockquote><span style="color:#ff3300;">もともと母系制であった集団が、遊牧に転じたら何故父系制に転換したのか</span>、という問題から考えたいと思います。</blockquote>

　　　　　応援よろしくお願いします :roll: 

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]]>
      <![CDATA[<blockquote>遊牧部族が父系制に転換する前は、出自が狩猟部族なら勇士婿入り婚、採取部族なら総偶婚でともに母系制、しかも同類闘争圧力が顕在化する前なので交叉婚ではなく、いわゆる族内婚の段階だった可能性が高いことになります。父系制＝嫁取り婚への転換であることから、出自は狩猟部族であり、勇士も小氏族内の勇士だった可能性が高いと思われます。</blockquote>

<blockquote>婚姻制の転換は、「遊牧は、羊を連れて小集団（小氏族）で独立して移動する生産様式である点が決定的で、バラバラな小集団（小氏族）を如何に部族として統合するかという、組織統合課題として登場したと考えられます。この課題はどの部族もかつて経験したことのない未明課題だった。

族内婚から族外婚、つまり小氏族内から小氏族間への婚姻制への転換がまずは決定されたが、問題は勇士移籍とするか、娘移籍とするかが大きな判断の分かれ目になった。ここで移動集団≒闘争集団ゆえに、息子残留→娘移籍（つまり男原理優先の父系制）へ大転換したと考えられないでしょうか。（人類の直系であるチンパンジーは父系制だったので致命的な違和感はなかった。）娘を移籍させることで、相手小氏族へ睨みをきかすことも可能になり、男原理を貫徹する。
チンギスハン（12世紀後半）の時代でも、女性の家で一定期間過ごした後（この間に婿の資格があるか審査される）、嫁にやることを許されていることや、娘は大量の持参財をもって嫁入りしていることから、出身小氏族の影響力の強さを物語っています。</blockquote>

<blockquote><span style="color:#ff3300;">遊牧部族の父系制への大転換が、女の不安や移籍先集団との距離を生み、私益存在化していく、そして部族全体が染まっていく大転換の始まりだった</span>と思われます。</blockquote>

私権意識と「父系制」の婚姻様式は、切り離せない因果関係にあるようです。

もともと「父系制」は、バラバラな小集団をどのように統合するかという組織統合課題から生み出された婚姻様式ではあるが、<span style="color:#6666ff;">「生殖＝婚姻の主導権は女にある」</span>という摂理を欠落させています。
だからこそ、摂理に生きた日本人の間に、なかなか定着しなかったのだろうと思います。
しかしこのような強い不安発の婚姻様式が、やがて制度化されていきます。
それにともなう意識の変化は、引き続き追及していきたいと思います。]]>
   </content>
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   <title>北方民族が日本に至るまで</title>
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   <published>2008-07-03T14:58:41Z</published>
   <updated>2008-07-03T15:42:57Z</updated>
   
   <summary>先日のsimasanのエントリーでは、北方民族の渡来によって日本での私権制が確立...</summary>
   <author>
      <name>yuyu</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[先日のsimasanのエントリーでは、北方民族の渡来によって日本での私権制が確立されたことを述べられていましたが、今回は日本に至るまでの遊牧民族の概略の歴史を押さえておきたいと思います。

るいネットに、よくまとまった投稿がありますので、この投稿を紹介させていただきます。


<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=96255">96255 掠奪闘争と部族大移動の概観①</a> 
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=96621">96621 掠奪闘争と部族大移動の概観②</a> 　井上宏さん
（③は、交易の部分までとなりますので、ここでは省略させていただきます）


<img alt="%E7%BE%8A%E9%81%8A%E7%89%A71011.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E7%BE%8A%E9%81%8A%E7%89%A71011.jpg" width="400" height="280" />


<span style="color:#009933;">①第一次大移動（5500年前～4000年前頃）

・イラン高原周辺の始原掠奪闘争（5500年前頃）　
　→　西方へ：アラブ～北メソポタミアのセム遊牧・掠奪部族形成
　　　　　　　（シュメールは？）
　　　　　　　→メソポタミアやエジプトで国家形成（約5000年前）</span>
　<span style="color:#ff3300;">→　東方へ：北方モンゴロイドの掠奪部族形成　
　　　　　　　→黄河流域へ、竜山文化形成？（約5000年～4000前頃）</span>　
　<span style="color:#009933;">→　北方へ：コーカサス・カスピ海周辺の草原地帯での掠奪闘争
　　　　　　　印欧語族形成へ
　
イラン高原から繋がる、遊牧民の住む中央アジアの草原地帯が掠奪闘争の伝播路となった。
イラン高原に近い農耕地帯のメソポタミア・エジプトでは国家形成が早く、同様に近接する中央アジアの大草原では、他の掠奪部族との闘争を繰り返す中で、印欧語族のような強力な掠奪部族が形成され始める。</span>


続きは、クリックの後で！！

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]]>
      <![CDATA[<span style="color:#009933;">②第二次大移動（3800年前～3000年前頃）

・コーカサス・カスピ海周辺の印欧語族の移動開始（4000年前頃）　
　→南方へ：アーリア人　→　インド侵略、ペルシャ人（3500年前頃）
　→西方へ：ケルト人、スラブ人、ギリシャ人、ゲルマン人　などが
　　　　　　ヨーロッパ侵略or移動　（4000～3500年前頃）
　→西南方へ：ヒッタイト人、ミタンニ人、カッシート人による
　　　　　　　メソポタミア・エジプト侵略（3700年前頃）</span>
<span style="color:#ff3300;">　→東方へ：トカラ人の移動
　　　　　　→遊牧民の東方移動で殷の成立（約3600年前中国西域
　　　　　　　からの遊牧民による征服王朝と考えられる）</span>

<span style="color:#009933;">掠奪部族がひしめきあうコーカサス･カスピ海の草原で勝ち残った印欧語族の諸部族が、四方八方に侵攻を開始。（より強力な部族に追われた可能性もある。）
印欧語族は強力な軍隊と馬にひかせる戦車を備え各地に進撃していった。強力な武力と、征服民を従える身分支配制度をもっており各地を征服or国家形成していった。奴隷支配が本格化し始める。</span>
 
 
<img alt="%E5%89%8D2000%E5%B9%B4%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%A7%BB%E5%8B%95india-euro.gif" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%89%8D2000%E5%B9%B4%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%A7%BB%E5%8B%95india-euro.gif" width="498" height="285" />

<a href="http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history07.html">前2000年紀の人口移動</a>
 
 
 

<span style="color:#009933;">③第三次大移動（2700年前～1400年前頃）

農耕地帯で形成された国家から締め出された掠奪部族は、遊牧を行いながら草原地帯で闘争を繰り返し力を蓄えていく。
とりわけ約2700年前頃、おそらく中央アジアのイラン系の遊牧民サカ、スキタイにおいて騎乗技術と騎射が確立し、機動力を持った遊牧軍事集団が成立。
広域の部族を武力統合することが可能となり強力な部族連合→遊牧国家の形成が可能となった。第三次の大移動とは、この機動力をもった遊牧軍事集団の侵攻に他ならない。

このような騎馬軍団と遊牧国家のシステムは、中央アジアから東西につながる草原の道を通って各地の遊牧部族に伝わり、東西で強力な遊牧国家（ｅｘスキタイや匈奴）を形成していく。
</span>
 
 
<img alt="%E5%89%8D10%E4%B8%96%E7%B4%80%E9%A0%83%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2steppe.gif" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%89%8D10%E4%B8%96%E7%B4%80%E9%A0%83%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2steppe.gif" width="497" height="345" />
 
<a href="http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history07.html">前10世紀頃のユーラシア</a>
 
 
<span style="color:#009933;">
・中央アジア～コーカサスの遊牧諸族サカ、スキタイの遊牧軍事集団成立（2700年前頃～　主にイラン系）
　　→南へ：遊牧民のキンメリア人を追い出し、アッシリアを圧迫
　　→西にて：アケメネス朝ペルシャを圧迫、スキタイ・ペルシャ戦争
　　　　　　　（ペルシャの敗退）</span>
　　<span style="color:#ff3300;">→東方へ：中国北方のモンゴロイドへ遊牧軍事システムが伝播。</span>

<span style="color:#009933;">
・中国北方のモンゴロイド諸族（匈奴、月氏、鮮卑など　2300年前頃～
　主にモンゴル系、トルコ系）の侵略闘争。</span>
　　<span style="color:#ff3300;">→南方へ：中国、朝鮮を侵略（2300年前～）　
　　　　　　　→　朝鮮を経て日本侵略（1700年前）</span>　
　　<span style="color:#009933;">→西方へ：玉突き的にフン族の西方移動（1800年前）　
　　　　　　　→　ゲルマン諸族の大移動（1600年前）
　　　　　　　→ゲルマン諸族はローマ帝国侵入し西ヨーロッパに定着
　　→西南方へ：突厥（トルコ系）の中央アジア移動（1400年前）
　　　　　　　→中央アジアの遊牧騎馬民族エフタル滅亡
　　　　　　　→その後小アジア、インドへ侵略</span>
. 
　

<img alt="%E5%89%8D%EF%BC%92%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8Czmt01.png" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%89%8D%EF%BC%92%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8Czmt01.png" width="500" height="300" />
　
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%89%8D%EF%BC%92%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8Czmt01.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%89%8D%EF%BC%92%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8Czmt01.html','popup','width=965,height=528,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">前２世紀の世界（画面の拡大） </a>
<a href="http://www.wako.ac.jp/souken/touzai03/tz0310.html">http://www.wako.ac.jp/souken/touzai03/tz0310.html</a>
  
　
 <span style="color:#009933;">
とりわけ、スキタイや匈奴は強大な遊牧軍事集団を形成、それに対応して防御側のペルシャや漢も軍事力の強大化を図り、大帝国を形成していく。</span><span style="color:#ff3300;">一方、遊牧部族による侵略闘争の波は、朝鮮半島や日本などユーラシア大陸の端まで到達していく。</span>
<span style="color:#009933;">この第三次大移動が終わった1400年前ごろには、ユーラシア大陸の中央部を除いて、概ね世界の民族分布が固まってくる。
※但しユーラシア大陸中央部の草原地帯からの遊牧部族の侵略・支配は、13世紀ののモンゴルの世界征服事業、１７世紀清の成立など、近世まで波状的に続き各地で支配→混血を繰り返した。（要は、火器による武力が騎馬軍団の武力を上回るまで続いた。）</span>

　
　<img alt="%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4450px-PazyrikHorseman.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4450px-PazyrikHorseman.jpg" width="210" height="330" /> 　　　 <img alt="%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8Fkibamin_2.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8Fkibamin_2.jpg" width="210" height="330" />　
 
  

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   <title>日本の私権制は、弥生後期の北方民族の襲来によって確立された！</title>
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   <published>2008-07-02T09:00:00Z</published>
   <updated>2008-07-02T09:18:02Z</updated>
   
   <summary>これまでの流れを整理すると、  ①最初に日本に渡来したのは大陸の騒乱を逃れてきた...</summary>
   <author>
      <name>simasan</name>
      
   </author>
         <category term="弥生ー律令時代の集団統合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[これまでの流れを整理すると、

<span style="color:#009933;"> <strong>①最初に日本に渡来したのは大陸の騒乱を逃れてきた江南人である可能性が高い。
②その当時、戦闘が行なわれた形跡はない。また、江南人は稲作の技術を持っていたので、寧ろ、高い技術力を持って縄文人を指導し、融合したのではないか。
③それら南方系の渡来人の高い技術力に加え、組織力が縄文集落を拡大し、拡大した集団どうしが勢力争いをする中で、勝った方が服属関係を強めていった。</strong> </span>


しかし、ここまでは日本全国を統一するほどの巨大な勢力にはなっていない。

では、<span style="color:#ff3300;"><span style="font-size:130%;">日本の私権制は、どのようにして確立されていったのか？</span> </span>


るいネット<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=40819">「日本に私権制と私有婚をもたらした北方遊牧民」</a>に興味深い記事がありましたので引用させて頂きます。

この先読みたいっと思った方は、<span style="color:#FFAE35;"><span style="font-size:130%;">ポチッ</span></span>とお願いします！

<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a>　<a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a>  ]]>
      <![CDATA[＞<strong><span style="color:#009933;">日本人は、概ね北方系が7～8割、南方系が2～3割</span></strong>という話をなにかで読んだことがあります。詳しい根拠はよく覚えていませんが、たしかウィルスの抗体有無による分析だったと思います。

正確な割合はおいといても、北方系が7～8割ということは、<strong><span style="color:#009933;">弥生をもたらした江南人が南方系と考えられることから、弥生時代以降に大幅な人種構成の変化があったと考えられます。</span> </strong>

弥生人は、玉突き略奪闘争から逃げ落ちた人々であり、本格的な私権統合の様式は身につけておらず、そうであるが故に“分かれて100余国をなす”状態でそれ以上統合が進まなかった。邪馬台国（1800年前）も部族を巫女で束ねた部族連合で、不安定な統合状態でした。

そんな状態に決着をつけたのが、私有婚と私権制をほぼ確立させた北方遊牧民です。

<strong><span style="color:#009933;">いまから1700年前に、瀬戸内～近畿地方でいきなり巨大な古墳が現れます。これらの古墳には、服装・金銀装身具・馬具・鎧などの北方騎馬民族・朝鮮由来と見られるものが多く、征服民族が北方騎馬民族であることを示唆している。</span> </strong> （参考「騎馬民族国家」江上波夫氏　）

この北方から来た支配民は北九州から上陸し極めて短期間で、<strong><span style="color:#009933;">圧倒的な軍事力で近畿を制圧し、大和朝廷を成立させた。同時に大陸でほぼ確立された、支配制度（税制と体制組織）と自集団の婚姻様式（遊牧・掠奪由来の私有婚）をもたらした。</span></strong>

そう考えると、古墳時代が日本の私権制の確立期と考えられ、それをもたらしたのは北方遊牧民と思われます。
（「嫁入り婚」もこの時期にもたらされ、私権意識とともに次第に浸透していったのではないかと思いますが、なにか掠奪を媒介しないと庶民まで成立しにくい感じもします。）  

*******************************************************************************
以上、引用終わり



引用文中にある「日本人が北方系か、南方系か」という論争は、松本秀雄著『新説！日本人と日本語の起源』に詳しく述べられており、概ね次のような結論です。


１）Ｇｍ遺伝子の分布によって、蒙古民族は、「南方系」と「北方系」に大別される。
そして、日本民族は「北方系」である。南方型蒙古系民族との混血率は、せいぜい７～８％であって、それほど高いモノではない。

２）日本民族は、北海道から沖縄に至るまで、ことＧｍ遺伝子に関する限り、驚くほど等質である。

３）朝鮮民族も、地理的な隔たりが無い点に於いては、日本民族と同じである。
ただ、日本民族と朝鮮民族の間には、かなり高い異質性が存在する。
朝鮮民族は、基本的には日本民族と同じ北方型蒙古系民族に属するＧｍ遺伝子パターンを持ちながら、それよりはるかに強く漢民族などの影響（混血）を受けていると見られる。中国と朝鮮とのあいだの、相互移民や侵入などによって、海で隔てられた日本に比べ、北方少数民族や漢民族との混血の機会がはるかに多く、これが民族の形成に影響したと考えられる。

<img alt="%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90.jpg" width="450" height="295" />
図は<a href="http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=171">http://lucky2zacky.jugem.jp/?eid=171</a>より引用させていただきました。




これらより、日本の私権制を確立する上では北方騎馬民族の渡来が決定的であったことが容易に想像できます。

北方系民族は、有史以来、世界各地で略奪闘争を繰り返し、農耕民族を支配し、巨大な帝国を築き上げた経験を持つ人種です。つまり、<span style="font-size:130%;"><span style="color:#ff3300;">彼らの持つ強力な私有意識と制度が、超集団を統合する要であり、とりわけ、集団を安定・秩序化（権力を脅かす存在を封鎖）する為には、婚姻制の確立が重要であることを彼らは体得していた</span></span>と考えられます。

このような、強力な私権意識と支配制度を持つ民族が侵入してきたことが、国家成立へと導いた根本原因であると考えられます。農耕生産物の所有と供給はその制度の中に組み込み易かっただけで、大陸からの玉突き的略奪闘争の歴史を辿れば、農耕による私権制度の起源説は、かなり怪しいことがよく分かります。


以上、日本はどのように私権制を確立したかを整理してきましたが、<span style="font-size:130%;"><span style="color:#ff3300;">北方民族が襲来するまでの略奪の歴史や私権制確立の要となった婚姻制</span></span>について、もう引き続いて追求していきたいと思います。
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   <title>日本における私権社会への移行（渡来人第1波が作った土台）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/07/000539.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2008:/blog//1.539</id>
   
   <published>2008-07-01T13:09:39Z</published>
   <updated>2008-07-01T14:29:38Z</updated>
   
   <summary>最初に稲作技術を持った渡来人達は、技術を伝播しながら縄文人と融合していった可能性...</summary>
   <author>
      <name>tano</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅲ弥生ー律令" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<blockquote><span style="color:#6666ff;">最初に稲作技術を持った渡来人達は、技術を伝播しながら縄文人と融合していった可能性が高く、寧ろ、その後大陸北方を中心とした侵略戦争を経てやってきた渡来人の方が弥生以降の戦争に影響を強く与えた存在ではないかと思います</span>。</blockquote>

６月２０日のしまさんの記事で紹介された上記の記述、私権社会への転換は第２波の北方渡来人の侵略性に焦点が当たっていますが、少し立ち止まって考えて見ましょう。
<span style="color:#ff3300;">本当に第１波の渡来人の影響は少なかったのでしょうか？実は・・・</span>

以下は2002年9月にるいネットに投稿された北村さんの記事から紹介します。
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=39688">日本における私権時代への移行</a>

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      <![CDATA[<blockquote><span style="color:#CC6600;">日本における私権時代への移行は、渡来人の価値観と制度がターニングポイントとなっていることが既に明らかになっている。この移行期における変化の推移を具体的に抑えていきたいと思う。学界では弥生時代を作ったのは北方民族であるという説が有力なようだが、実際は２段階であった可能性が高い。
まず2300年前後に日本に稲作を持ち込んだ部族は江南人と考えられる。
江南人とは中国の長江の下流及びその南部にいた人々を指す（当時の呉・越）。そして弥生時代を領導したのは彼らではないかと考えられる。</span></blockquote>

<blockquote><span style="color:#CC6600;">以下にそのいくつかの根拠を上げる

<span style="color:#CC6600;">①日本の水稲に一番近い品種は、華中のジャポニカである。</span>

<span style="color:#CC6600;">②弥生時代に登場した高床式建築は（それに用いられている鼠返し、千木、鰹木も含め）江南地方から東南アジアにかけて見られる様式である。</span>

<span style="color:#CC6600;">③弥生に見られる墳丘墓（地面より高いところに埋める様式）は江南の呉越の土敦墓等ごく限られた地域の埋葬形式である。</span>
<span style="color:#CC6600;">つまり弥生時代は江南地方という特定地域のみに見られる文化の移入が顕著である</span></blockquote>

<img alt="%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%AB.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%AB.jpg" width="455" height="452" />
↑ジャポニカ米の分布
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↑土煌墓の分布（江南地方に集中している）
<span style="color:#696969;">吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に行われた土墓の影響を受けた可能性を示しており、この時代の人々が、日本列島に渡来したことと整合する</span>。<a href="http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://yamatai.cside.com/katudou/image/267-2.gif&imgrefurl=http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm&h=382&w=429&sz=30&hl=ja&start=11&um=1&tbnid=EtEveG02CihbtM:&tbnh=112&tbnw=126&prev=/images%3Fq%3D%25E6%25B1%259F%25E5%258D%2597%25E5%259C%25B0%25E6%2596%25B9%25E3%2580%2580%25E5%25BC%25A5%25E7%2594%259F%26um%3D1%26hl%3Dja%26lr%3D%26sa%3DG"> リンク</a>


 8) その江南地方からの渡来人とはどんな人たちだったのでしょう？

<blockquote><span style="color:#CC6600;">当時の大陸（中国）は、群雄割拠の時代である。2500年前に中国は斉・普・楚・呉・越の五国に分かれ相争っていた。その後2400年前には楚が長江全域を制覇していく。つまり当時既に呉越両国は押され気味であった可能性が高く、散発的に落ち武者が難を逃れて移住していた可能性が高い。つまり最も早ければ2500年前から既に江南人は（少数）九州その他に漂着していた可能性がある。
そして稲作の伝播ルートから考えて、南朝鮮を経由した可能性が高い。更にその後2400年前に制圧された（滅亡した）江南人は新天地を求め、次々と日本に漂着したのではないか？（この漂着は最大2100年前まで約400年に亘った可能性がある）彼らはそれぞれ日本に少数の集団として定住する（一部は縄文集落に受け入れか？）。</span></blockquote>

 :shock: 江南人は落ち武者だった！その為、少数渡来で日本にたどり着いた可能性が高い
しかし・・・

<blockquote><span style="color:#CC6600;">彼らは戦乱の最中にあった部族である。かつ水稲農耕の技術と鉄器を持ち、租税制（階級支配）を既に経験している。当初は彼らは少数で、縄文人に対しての戦闘は行わなかったと考えられる。実際史跡でも縄文人の骨から矢じりの痕が残るものはごく少数である。（しかし少ないながらも江南人同士の戦闘は存在した可能性がある。それが居徳か？）それどころか部分的には縄文集落に受け入れてもらい高い技術力をもって、世代を経て指導的立場に立ったことも考えられる。それは縄文人の受容れ体質から考えて充分にあり得る。加えて縄文末期は寒冷化の過程にあり、ピーク時に比して西日本では人口は1/4に激減。つまり食糧確保や生産力増強の必要があったのである。</span></blockquote>

 :-) 江南人は元々長江流域に生活する農耕猟労民で、母系集団を維持してきた本源性の高い民族の集合体です。稲作の開始は世界で最も古く12000年前とも言われています。4500年前から北方黄河文明の侵略を受け、先住民の三苗は山へ海へと逃げ延びたといわれています。その1波が日本に到達したのが縄文晩期～弥生時代に当たるわけです。
弥生時代に渡来してきた江南人は非略奪民とは言え、既に2000年間の略奪部族との闘いを経てきており、元々の本源性はかなり解体されていたと言えるでしょう。そして当然ながら稲作技術においては高いレベルを持っています。⇒<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=40430">参考投稿</a>

<blockquote><span style="color:#CC6600;">その後高い技術力と組織論を持つ江南集落の人口は（或いは江南人の指導者を受容れた集落）は急速に大規模化する。おそらくそのように大規模化し縄文集落に拮抗or上回る頃から本格的に侵攻を開始したのではないか？</span></blockquote>
<blockquote>

<span style="color:#CC6600;">因みに彼らの婚姻様式は（推定だが）妻問婚の様式である（ごく最近まで江南地方からインドシナ半島では妻問い婚の風習が残っていたことから）。一部は縄文集落への受容れを通じて、そして服属を通じて、縄文人と江南人の混血が進んでいく、おそらくそれが弥生人なのではないだろうか？</span></blockquote>

<blockquote><span style="color:#CC6600;">ここで、何よりも重要なことは、彼らが持ち込んだ最大のものは稲作などではなく<span style="color:#ff3300;">、「私権意識と私権制度」</span>であることである。あるいは母系制で縄文人がまだしも受容れやすい（？）、妻問い婚という婚姻制度であるとはいえ、私婚制度を持ち込んだことである。そのようにして西日本では（とりわけ九州地方）私権化した弥生人が勢力を増大させ本格的侵攻を開始する。その結果各地に部族国家が乱立する。（おそらくその過程では残存する縄文部族は山間等僻地に後退したのだろう。）</span></blockquote>

 8) 戦争の一番怖い点はは皆殺しに近い略奪を受けた本源集団が、略奪集団に転換する事です。略奪や侵略という行為が玉突き現象を起こすことです。
少なくとも何世代も戦争に巻き込まれた集団の意識は既に力の原理が全てという私権性に染まっています。弥生時代に来た江南人は農業という餌で縄文人を手なずけ、私権性を植えつけていった。北村さんが重要な事と書いているように江南人が植えつけた「私権意識」こそ最初の私権社会への導入であり、その後の決定的な方向性を与えたのです。

<blockquote><span style="color:#CC6600;">そのような時代が弥生時代（前期）なのではないだろうか？
その後弥生時代後記（1800～1700年前）に北方民族が本格的に襲来することで、広域の国家成立（大和）への道を辿っていたのではないか。</span></blockquote>

⇒北方民族はそんな土台の上に登場したのです。
]]>
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   <title>「縄文と弥生の境目」、朝鮮半島から「縄文人」が渡来した？</title>
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   <published>2008-06-26T13:52:00Z</published>
   <updated>2008-06-26T14:38:22Z</updated>
   
   <summary>○「縄文と弥生の境界」についてmukaiさんの後を受けて、「試行私考　日本人解剖...</summary>
   <author>
      <name>ryujin</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅱ縄文時代" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[○「<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:130%;">縄文と弥生の境界</span></span></span></span>」についてmukaiさんの後を受けて、「<a href="http://試行私考　日http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080421/acd0804210835008-n1.htm本人解剖」">試行私考　日本人解剖」</a>からの紹介です
<img alt="%E5%8C%97%E9%83%A8%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%8C%97%E9%83%A8%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%8F%BE.jpg" width="431" height="450" />

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      <![CDATA[【<span style="color:#ff3300;">試行私考　日本人解剖</span>】<a href="http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080421/acd0804210835008-n1.htm">第３章　ルーツ　弥生人の出現（２）</a>　
このシリーズでは、縄文と弥生の境界について本格的な追求をしており、６月２日のmukai さんの投稿を継いで紹介します。

この「<span style="color:#ff3300;">弥生人の出現（２）」</span>をまとめると以下のようになります。

１　北部九州では所謂うりざね型の顔を特徴とする渡来系弥生人の人骨は、水稲栽培が始まったとされる時期より<span style="font-size:130%;">５００年後</span>でしか見つからない。

２　北部九州での水稲栽培開始時期の遺跡から出土する人骨は縄文的特長を有している。ところがその骨は当時の朝鮮半島に特徴的な「支石墓」という墓に埋葬されている。（<span style="font-size:130%;">つまり「縄文人」が「弥生人」の墓に埋葬されている？</span>）

３　北部九州の板付、菜畑両遺跡からは、朝鮮半島で見つかるのと同じ農工具が出土していて、水稲農耕の技術は直接的には半島から伝わったことは確実視されている。

４　そこから２つの仮設が導かれる。
①水稲農耕も技術は半島から由来したものの、<span style="font-size:130%;">人の移住はなく</span>、実際に営んだのは縄文的特徴をもった在来集団だったという説
②稲作には、農耕の技術だけでなく、季節や天候の観察、祭祀（さいし）など様々な分野の文化が伴う。また、潅漑（かんがい）施設などその場所に適した水田づくりが行われ、高レベルの技術が展開されていたことが分かるといい、「<span style="font-size:130%;">伝聞や見まねだけで可能なものではなかった</span>」と言う説。

５　この２つの仮設を統合すると、まだ少数だったはずの渡来系弥生人だけでは人手が足りず、稲作は初期の段階から<span style="color:#ff3300;">縄文型の在来集団と協力しながら営まれたと考えられる</span>

６　一方北部九州の遺跡群から見つかる<span style="color:#ff3300;">弥生中期の人骨は５０００体</span>を超す。このうち縄文的特徴を持つのは１～２割で、残りは大陸的特徴の<span style="color:#ff3300;">渡来系弥生人</span>のものだった。

７　北部九州では、弥生初頭から遺跡が急増する。渡来系弥生人ではなく、縄文的特徴を持つ集団が稲作で人口を急増させたとすると、弥生中期に渡来系弥生人がこれだけの割合を占める説明がつかない

８　現代の<span style="color:#ff3300;">朝鮮半島</span>には、<span style="color:#ff3300;">縄文人と同じｍｔＤＮＡの型</span>を持つ人々がいる。縄文～弥生という古い時代から、半島に縄文人型のｍｔＤＮＡを持つ人々がいたと考えるのが自然で、彼らが渡来して「支石墓」に葬られた可能性はある

９　弥生時代初頭に、<span style="color:#ff3300;">縄文人と同じＤＮＡを持ち、同じ姿形をした半島人が渡来</span>していて、彼らが水稲農耕を持ち込んだ可能性も否定できない。

※旧来の教科書的解説では、日本に古代から住んでいた縄文人の中に、ある時期、半島から弥生人がなだれを打って押し寄せてきたと言うイメージがありましたが、この説が正しければ、約５００年間に渡って半島から、<span style="color:#ff3300;">元々縄文的遺伝子を持った人々が徐所に日本へ渡ってきて水稲栽培を行っていたことになります。</span>

★<span style="font-size:130%;">まだまだ縄文と弥生の境目にはなぞが多く、興味が尽きません。　</span>]]>
   </content>
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   <title>ヨーロッパ製世界史とは、欧米による植民地支配のための情報･思想操作</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000534.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2008:/blog//1.534</id>
   
   <published>2008-06-23T09:33:13Z</published>
   <updated>2008-06-23T10:27:44Z</updated>
   
   <summary>こんばんは、Hiroshiです。今日は、古代史から近代史まで貫いて、歴史を見る場...</summary>
   <author>
      <name>ihiro</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅸエトセトラ（その他諸々）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんばんは、Hiroshiです。今日は、古代史から近代史まで貫いて、歴史を見る場合に注意する点を一つ上げたいと思います。それは＂歴史”や＂史観”とは一種の支配観念（支配のための観念・思想）であるということです。
<a href="http://www.rui.jp/">るいネット</a>にも
＞<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=179252"> なんで日本の歴史教科書は内省的な内容になるのか？</a>

という投稿がありましたが、これは日本の教育が、欧米白人支配派による植民地教育のための道具として十分に機能しているということを示しています。

ヨーロッパ製の世界史は、西洋の世界進出とともに始まり、植民地支配を正当化するための歴史が捏造されてきた事実があります。特に得意なのはイギリスでした。今日はその歴史経過と事実を辿ってみたいと思います。
]]>
      <![CDATA[　　　　　　　<img alt="41RN-oFh1nL__SL500_AA240_.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/41RN-oFh1nL__SL500_AA240_.jpg" width="240" height="240" />


以下「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」より引用
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
P30 
<span style="color:#000080;">ヨーロッパが経済的、工業的、軍事的に格段の進歩を遂げてその勢力を他大陸へと拡大していったこともヨーロッパ人の人種差別的優越感を高めた。それとともにというか、<strong>それにつられてというか、人種差別を正当化する思想家が続々と現れた。</strong>ジョン・ロック、ディビッド・ヒューム、モンテスキュー、ルソー、マルクス、マックス・ウェーバーなど。
それぞれが同じことを言ったわけではないが、アフリカやアメリカの原住民は土地を耕さず、活用していないから、奪っていいのだとか、アフリカは文明が成立し得ない暗黒大陸だとか、アジア人は倫理を欠き信用できないとか、アジアは停滞しているとか、いろいろヨーロッパ中心主義的なことを言い始めた</span>。

<span style="color:#000080;">18、19世紀のローマン主義者、人種差別主義者は、<strong>現代ヨーロッパ文明の源流であるとされている古代ギリシャ文明が先住のヨーロッパ人と、入植したアフリカ人、セム人とが混ざり合った結果であったということに耐えられず、<span style="color:#CC6600;">アーリア神話に従って、ギリシャ文明は純粋にアーリア人という白人種が作ったものであるとし、そこからアフリカ文明や近東文明の影響を排除しようとしたのである。</span></strong></span>

P254
<span style="color:#000080;">しかし、この<strong>アーリア神話</strong>は、ちょっと考えればすぐわかると思うが、あまりにうまくでき過ぎている話ではないだろうか。<strong>18世紀、19世紀はヨーロッパ諸国による他国、他民族の植民地化と支配と搾取が最高潮に達した時期であり、<span style="color:#CC6600;">ちょうどその時期に、インド=ヨーロッパ語が「発見」され、アーリア人種が出現し、さらに人種差別と植民地化と支配と搾取を正当化するような過去の「歴史」が作られているのである。</span></strong></span>

<span style="color:#000080;">前出の津田元一郎『アーリアンとは何か』によると、インド人は百年も前から<strong>「アーリアン学説虚構説」</strong>を唱えているそうで、この学説の捏造こそ、西欧の植民地支配と最も本質的にかかわっており、この学説は「西欧優越の意識化を狙った植民地洗脳学説」だそうである。少々長くなるが、津田元一朗の分を引用してみよう。</span>

<span style="color:#696969;">････アーリアンが西北インドからインドに侵入し、原住民を駆逐し、古代の輝かしいインド文化を創造したとするアーリアン学説は、インドに対して次のような諸点で格別な文化工作的意味を持っていた。
１.インド人のアーリアンもイギリス人と同様に、インドに植民地侵入をしたのであり、イギリスも同じことをしただけである。
2.ヨーロッパ人と上層インド人はもともと同一の種族であるとすることによって、上級階層をイギリス側に引き寄せることができる。
3.インドは北と南で人種が異なり、南の人々は来たの人々に駆逐された、と主張することにより、北と南との敵対意識を醸成し、分割統治に有利となる。
････(中略)･････
アーリアン学説は、このようにして、<span style="color:#CC6600;">アーリアン西北インド侵入説によって、北インドと南インド、上層階級と下層階級の間に分裂的、敵対的感情を醸成し、植民地分割統治にきわめて効果的な文化工作的意味をもった。</span></span>

<span style="color:#000080;"><strong>イギリスの植民地支配は、単に軍事力によるだけではなく、思想戦略というか、情報操作を用いることがいかに巧妙であったかがよく分かるであろう。これは、イギリスだけのことではなく、イギリスから派生したアメリカも同じであって、そのことは、アメリカの戦後日本統治を見ても、これまたよく分かるであろう。</strong>インド人をアーリア人の血が入った、いわば劣化した白人としたのは、かって南アフリカで日本人を名誉白人としたのと同じく、敵に回したくない、あわよくば味方に引き入れたい非白人の一部を他の非白人から切り離し、白人の側に取り込むための便利な策略だったのであろう。</span>
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上）

イギリスが世界に植民地を築いた18～19世紀は、イギリスという小さな島国の国家が数十倍の人口の国家を操作し、支配する必要が生じました。その必要から考え出されたのが、被支配国への分断支配であり、敵の一部を味方に取り込むための文化的・歴史的な思想操作＝情報戦略です。そのためにアーリアン学説が捏造されたのです。

改めて
＞なんで日本の歴史教科書は内省的な内容になるのか？

アメリカ・イギリスの思想操作・情報戦略が、第2次大戦に敗れた日本にも適用されました。それが東京裁判と教育統制・マスコミ支配です。この一連の情報操作により、欧米中心の世界史が正しく、日本が誤っていたという歴史教育が徹底的に行われるようになりました。
東京裁判に立ち会ったインド人のパール判事は、唯ひとり、英米主導の裁判に反論を唱え、日本無罪論を主張しました。上記の経過から英米のやり口が良く分かっていたのではないでしょうか？

欧米（特にアメリカ・イギリス）の情報戦略にピタッとはまり込んでしまっているのが、現在の日本の教育であり、マスコミです。その弊害は極めて大きい（気がつかないと全然わからないところが根が深いのですが）。その弊害については、改めて書きたいと思います。

（ｂｙ　Hiroshi）
]]>
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   <title>道教の本源性を探る～『道徳経』の教えより</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000524.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2008:/blog//1.524</id>
   
   <published>2008-06-22T08:58:07Z</published>
   <updated>2008-06-22T09:18:11Z</updated>
   
   <summary>＞④道教の根っこはどこにある？ 　・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。リ...</summary>
   <author>
      <name>nishipa</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅳ中国文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[＞④道教の根っこはどこにある？
　・母系共同体を源流とする道教の本源性を探る。<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/04/000483.html">リンク</a>

さて、今回は道教について調べてみました。

以前に、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/05/000217.html#more">『道教～母系氏族社会を源流とした共同体規範』</a>においてその本源性を紹介しましたが、今回は『老子』から<span style="color:#800080;"><strong>『道徳経』</strong></span>の紹介です。

『道徳経』とは、中国の春秋時代の思想家老子が書いたと伝えられる書。単に『老子』とも『道徳経』とも表記され、『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。道教では『道徳真経』ともいう。

中国には数千年にわたって人々の心に大きな影響を与えた書として、『易経』、『論語』、『道徳経』の３つがあります。
<strong>『易経』</strong>は夏・商・周の時代の原始宗教が残したもので、その中に古い巫史文化の形跡を見ることができます。
<strong>『論語』</strong>は儒家の祖師孔丘の教えを伝えるもので、その中には周代の父権宗法社会の礼教の特徴が見られます。
<strong>『道徳経』</strong>は周代の史官老が著した道家と道教の典籍で<span style="color:#800080;">、<u>中国の最も古い母系氏族社会の原始宗教の伝統を受け継いでいる</u></span>、と云われています。<a href="http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX0.htm">リンク</a>

母系氏族社会の伝統とはどんなものか！？、覗いてみましょう！


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      <![CDATA[『道徳経』は八十一章からなる短文で構成されています。
その中から、気になった箇所を紹介してみます。（<a href="http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html">こちら</a>の訳文をお借りしました）

<strong>●第八章</strong>
　<span style="color:#800080;">最上の善とは水のようなものである。
　水はあらゆるものに利益を与え、争わない。
　このように、水は「道」に近いものである。
　我々は住むために、地味な場所を好む。
　いろいろな考えのためには、奥深さを好む。
　友だちとの交わりには、心やさしさを好む。
　言葉には、誠実さを好む。
　政治には、良き秩序を好む。
　出来事においては、能力を好む。
　行動においては、正しい時を好む。
　このように、我々は争わないから、まちがうことはない。</span>

<strong>●第九章</strong>
　<span style="color:#800080;">なにかを手にもって自慢するなら、それをもたない方がよい。
　富裕で高い地位にあって自慢すると、不幸を招く。
　仕事が完全に成しとげられ、その任務が充分に終われば、自分の地位を去る。
　これが「自然」の道である。</span>

<strong>●第十四章</strong>
　<span style="color:#800080;">しっかりと見ないから、何も見えない。
　しっかりと聞かないから、何も聞こえない。
　しっかりとつかまないから、何もつかめない。
　遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。
　これが「道」の本質である。</span>

<strong>●第十三章</strong>
　<span style="color:#800080;">名誉と不名誉は我々を興奮させる。
　つまり、我々は苦しみを自己にもつからである。
　大きな苦しみをもつ理由はただ自己を有することによる。
　自己を有しなければ、どこに苦しみがあろうか。
　自己と世界とを同一にすれば、そのとき、自己の中に世界はある。
　自己を愛するように世界を愛するならば、そのとき、自己の中に世界はある。</span>

<strong>●第二十一章</strong>
　<span style="color:#800080;">徳に固有のものは「道」のひびきである。
　測りがたく見えにくいが、そこには本質がある。
　本質は実に純粋で、そこには生き生きとした真実がある。
　我々はそれによって万物の始まりを見る。
　万物の始まりはこれによってわかるのだ。</span>

<strong>●第二十三章</strong>
　<span style="color:#800080;">「道」を学ぶ者は「道」と同一になる。
　人が徳に達すると、その徳と同一になる。
　人が徳と同一になると、徳もまたおのずから人と同一になる。
　人が失うものと同一になると、失うものもまたおのずから人と同一になる。
　この同一性を信じなければ、これは起こらないだろう。</span>

<strong>●第四十六章</strong>
　<span style="color:#800080;">天下が「道」によって治められるとき、馬は畑を耕すのに使われる。
　天下が「道」によって治められないとき、馬や武器は辺境のそばにまで増殖する。
　欲望の罪より大きい　罪はない。
　満足するのを知らないほど大きな災いはない。
　征服することよりも大きな誤りはない。
　だから、足りたと思うことで満足できれば、いつでも充分なのである。</span>

<strong>●第四十九章</strong>
　<span style="color:#800080;">賢人には定まった心はない。
　だが、人々の心をその心とする。</span>


いかがでしょうか？
作られたのが春秋時代だから、支配者に対する戒めや国家統治における方法などに関する記述が多いのですが、『道』（万物の理か？）に同化して『徳』を積むことの重要性を繰り返し説いています。道教はたしかに、万物の法則や共認原理を原点にしているようですね！

  （by eto）




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   <title>中国の焼物の歴史（日本の縄文時代と同時期編）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000533.html" />
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   <published>2008-06-21T13:15:45Z</published>
   <updated>2008-06-21T13:43:49Z</updated>
   
   <summary>　日本の縄文時代は、年代でいうと今から約16,500年前から約3,000年前（紀...</summary>
   <author>
      <name>norio</name>
      
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         <category term="Ⅳ中国文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[　日本の縄文時代は、年代でいうと今から約16,500年前から約3,000年前（紀元前10世紀）の約13500年間続き、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代です。その永い期間に日本は特別進化したわけではなく、逆に永い間に日本人の潜在思念を作り上げてきたということが言えると思います。縄文土器も同じく、その間特別に進化したわけではありません。 

　縄文時代と同じ時代、方や中国は黄河文明、長江文明、から殷、周と王朝支配まで時代が変わっていきます。そして中国の焼物は、日本の縄文土器とは違い、次々と進歩しました。窯と釉を発明し、施釉陶器を生み、さらに精製・選別した白色粘土による磁器を発明しました。この磁器が世界の磁器の牽引役となったのです。日本をはじめ、南北朝鮮・ベトナム・タイ・カンボジアなど、古代から中世にかけて、いずれも中国陶磁をその母体に持っています。また近世にいたっては、ヨーロッパの磁器の源となりました。人気の高いウエッジ・ウッドやロイヤルコペンハーゲン、マイセンなど、みな中国磁器を母体としています。


　<span style="color:#CC6600;"><span style="color:#FFFF00;"><span style="color:#FFAE35;"><span style="color:#009933;">中国の焼物の歴史（日本の縄文時代と同時期編）</span></span></span></span>を紹介します。

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よろしくお願いします。
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      <![CDATA[　
  中国の新石器時代の彩色土器を中国では<span style="color:#6666ff;">彩陶</span>と言います。中国の陜西省、甘粛省、青海省の仰韶文化、馬家窯文化、辛店文化などの大部分の標準となる土器は、殆どをスエーデンのアンダーソン博士が発見したので、アンダーソン土器とも言います。時代は今から６０００年前から３０００年前にかけてのものです。これらの彩色土器は実用品ではなく、古代の鑑賞用、芸術品であったようです。だから６０００年とか５０００年の時代を隔ててもなお、鑑賞に堪える美しい物が多いのです。中国の焼き物は色の技術に特化していくという特徴があります。鑑賞用として幻想的な価値に重きを置いていくという背景があったのではないでしょうか。

 <img alt="001tsubo.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/001tsubo.jpg" width="178" height="200" />
彩陶罐 (さいとうかん)
新石器時代（馬家窯文化）・前3100～前2800年頃
甘粛省永靖県三坪出土





<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;">黒陶（灰陶）</span></span>
 
中国が素焼きの赤い土器（紅陶）から、還元焔焼成窯・ろくろ成形へとステップアップしたのは、紀元前2200年です。５世紀に築窯技術の入った日本とは実に2600年以上の差があります。黒陶はその名のとおり、水中で沈殿させ精製した黒色粘土を、1000度を超える温度で還元焼成することで表面が黒色化しています。またロクロで非常に薄く成形し、表面が光沢を持つまで研磨されるのが特徴です。卵の殻ように薄く卵殻黒陶とも呼ばれる一群もあります。
 
 




<span style="color:#ff3300;">白陶 </span>

黒陶とほぼ同じかやや後出して出現しました。カオリナイトを含む白色粘土を水中で沈殿させ精製し（水簸）、1200度前後の温度で還元焔焼成しました。ロクロ巻き上げ技法からロクロ成形へとステップアップしながら、黒陶とは違う道を歩み始めます。それは使用した白色粘土がカオリナイトを含んでいたからです。ここに磁器の始まりを予兆させる陶器が登場しました。 




<span style="color:#ff3300;">灰釉陶 </span>

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を使用した陶器が発生します。その上薬（釉）が、灰・カオリナイト（カオリナイトを含む白色化粧粘土）・石灰などを調合した灰釉です。表面は灰色から灰緑色を呈する焼物です。日本ではまだ縄文文化の解体も始まってはいない時期にあたります。


 
<span style="color:#ff3300;">灰陶 </span>

紀元前2000年前後に発生した灰陶は、紀元前700年ごろ再び流行を見せます。青銅器の代替品、死者への副葬品としての需要増加が原因です。その中から派手に彩色された灰陶である加彩灰陶が出現します。始皇帝陵墓の兵馬灰陶が1970年代に発表され、世界中の人の度肝を抜きました。この灰陶の中で、低温焼成（800から900度程度）の適した上薬が発明されました。それが鉛釉であり、鉛釉陶の出現です。 




<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;">青瓷</span></span>　　（日本の縄文以降になります）

青瓷は、古代中国の陶工たちの叡知と技術によって生まれた偉大な業績の一つです。長い歴史をかけ、土や石を変化させることによって碧玉よりなお美しい器形を作り上げることに成功しました。青磁は幽玄蒼古な東洋独特の焼物で、青瓷ほど世界を驚かし、東西に大きな影響を与えたものはないでしょう。春秋戦国時代（BC 6～5C) になると殷の時代に開発された灰釉を淵源として、原始青瓷が誕生しました。青磁が本格的に焼造されはじめるのは、後漢時代〔１世紀以後〕に入ってからのことです。三国時代になると、青瓷の焼造技術は円熟さを増し、胎土は細かくなり、釉は光沢を帯び、青翠色の美しい釉調をもつようになります。とりわけ中国江南地方の浙江省にある〔越州窯〕で焼かれた〔古越磁〕は、卓抜したフォルムの美しさを呈しています。

<img alt="009cup.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/009cup.jpg" width="200" height="187" />
金杯 (きんぱい)
隋時代・6～7世紀
陝西省西安氏李静訓墓出土


中国陶磁器は宋の時代が画期といわれ、この時代中国は、商品経済の発達による需要の拡大に活気づいてきます。　陶磁器は当時、庶民がささやかな贅沢気分を味わえる手近な品でした。
このころ全国の窯業地では、色や形の工夫、技術革新が目ざましく行われ、王族、貴族、官僚たちの奢侈品、海外輸出用など特別な需要をもった窯も現れ、中国陶磁器は多彩な歴史を歩み始めるのです。




　<strong>日本の縄文土器は焼き方（色）の進化はあまりありませんが<span style="color:#6666ff;"><span style="color:#6666ff;">、「造形の豊かさ」</span></span>は世界一だと私は思います。</strong>また縄文土器の形の豊かさは自然を崇拝から来たもので、そしてあくまで日用品であったのではないかと考えます。
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   <title>農耕生産は私権闘争には直結しない</title>
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   <published>2008-06-20T12:06:14Z</published>
   <updated>2008-06-20T12:26:10Z</updated>
   
   <summary>naotoさんからバトンタッチで、今回は 「農耕が戦争の引き金になるのか？」 を...</summary>
   <author>
      <name>simasan</name>
      
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         <category term="弥生ー律令時代の戦争" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[naotoさんからバトンタッチで、今回は<strong><span style="font-size:130%;"> <span style="color:#6666ff;">「農耕が戦争の引き金になるのか？」 </span></span></strong>を扱いたいと思います。

２つ前の当ブログの投稿で、くまなさんが<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000531.html#more">「教科書の弥生時代」</a>でも言われているとおり、

<strong><span style="color:#ff3300;">人間は余剰生産物ができると、それらの貯蔵を巡って所有関係が発生し、たくさん所有した人は別の品物と交換していろいろなものを手に入れたくなる。そこで、土地を巡って争いが始まる</span></strong>、というのが教科書を始め、歴史書に書かれている大筋の戦争の起源の話ですが、比較的豊かな暮らしができていた縄文人が、余剰生産物ができると戦争を起こしてまで、さらに豊かな生活を求めるのでしょうか？

<img alt="01.gif" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/01.gif" width="300" height="211" />
図は<a href="http://www.saga-s.co.jp/yoshi_vol3.html">http://www.saga-s.co.jp/yoshi_vol3.html</a>より引用


疑問あり！と思った方は<span style="color:#FFAE35;"><span style="font-size:130%;">ポチッ</span></span>とお願いします。

<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a>　 <a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> 　


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      <![CDATA[以下、<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=39351">「農耕生産は私権闘争には直結しない」</a>より引用、なるほどと思いましたので紹介させて頂きます。 


> ①稲作が私権闘争→私権社会を生んだのか、それとも②性闘争が私権闘争→私権社会を生んだのか

「農耕闘争起源説」３パターンは、次のように要約できると思います。

<strong><span style="color:#009933;">１．農耕による余剰生産を巡って自然発生的に私権闘争が発生した。
２．農耕による人口増大→食料不足が私権闘争を発生させた。
３．農耕に内在する自然支配・改変の思想が私権闘争を発生させた。</span> </strong>

<blockquote>サルの時代から縄張り闘争は存在しますから、食を巡って争いが起きる可能性はあり得ます。しかし、食の本能は欠乏を充足すれば終いで「余剰」を求めることはありません。豊かな食料が闘争を生むならば、南方の採取部族が最も好戦的でなければならず、１の余剰説は現代の私権観念から逆追いで発想されたに過ぎないと思います。</blockquote>

<blockquote>２については、食料不足から同類闘争という事態が起こった可能性はあり得ます。しかし、江戸時代の農村共同体の「間引き」や農民一揆を考えても分かるように、このような生存確保のための行動は基本的に「集団課題」であり、それだけでは私権闘争～私権社会には直結しません。</blockquote>

<blockquote>３についても、私は環境問題が深刻化した現代の価値観がやや混在しているように思います。確かに、農耕という生産様式で人間は初めて大々的に自然に手を加えたわけですが、農耕技術自体は道具や言語の発明と同じ適応のための知恵であって、そこに特別な思想性はなかったと思います。現代のような深刻な自然破壊に至らしめた要因は、このような「技術」そのものとは別にあるのだと思います。</blockquote>

<strong><span style="color:#ff3300;">私権社会へ繋がる「私権闘争」の決定的な条件は、個人間闘争であること、つまり「集団」から「個」への意識の解体です。</span> </strong>生産様式や技術がその背景になった可能性はありますが、突き詰めれば「個人が個人を所有対象or敵と見做す本質的動因は何か？」という問題ではないでしょうか。  

以上、引用終わり。


 <a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000530.html#more">「渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである」</a>でも述べられているとおり、最初に稲作技術を持った渡来人達は、技術を伝播しながら縄文人と融合していった可能性が高く、寧ろ、その後大陸北方を中心とした侵略戦争を経てやってきた渡来人の方が弥生以降の戦争に影響を強く与えた存在ではないかと思います。

<strong><span style="color:#ff3300;">一度掠奪闘争が起こると、あっという間に武力支配の集団の下に個人がバラバラに組み込まれ、それらの戦争が続くと人々は警戒心と自我の塊となって、個人が個人を絶対的な力で所有しなければ秩序は維持できないという社会が生まれる。</span> </strong>これらの支配思想が日本に広まっていったのが弥生後期で、そこから戦争の幕が切って落とされたと考えられます。
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   <title>【渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである】</title>
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   <published>2008-06-19T00:00:30Z</published>
   <updated>2008-06-19T19:32:12Z</updated>
   
   <summary>弥生時代というと、渡来人が稲作技術を持ち込み、あっというまに日本を席巻し、本源的...</summary>
   <author>
      <name>naoto</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅲ弥生ー律令" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[弥生時代というと、渡来人が稲作技術を持ち込み、あっというまに日本を席巻し、本源的な縄文文化を破壊し戦争→私権社会を築いたという認識のもと、否定的にとらえていたのですが、これは固定観念にすぎないのかもしれません。
この気づきを与えてくれた投稿が、るいネットにあったので、紹介したいと思います。

渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである。<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=25063">るいネット：田野さん</a>

<blockquote>弥生時代は多くの渡来人が稲作の技術をもって訪れ、たちまちに縄文文化を凌駕した。鉄器やガラス細工といった工芸が定着し、土器も縄文時代よりうすくて赤みをおび、模様がなく形も整った土器が使われるようになった。又、環濠集落に代表されるように、集落外周を堀で固め、戦闘、防衛が有ったことを伺わせ弥生集落の特徴的なことの第一義として挙げられている。これらは考古学的資料の少ない時代（根拠が薄い）に作り上げられた教科書的に言われている弥生時代への固定観の一つにすぎないことが、最近の縄文－弥生論争で明らかになりつつある。</blockquote>

　　　　　　　　応援よろしくお願いします :roll: 
　　　　　　　　　<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a> <a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> ]]>
      <![CDATA[<blockquote>一つずつ疑ってみたい。
まず大量の渡来人があったという件。
これは縄文晩期の寒冷化と中国の統一に起因するところが多い。
渡来した民は前漢が朝鮮を侵略したのとは違い、基本的には逃げ延びた民である。おそらく航海技術をもっていた漁民たちが中心だったろう。一方急激な寒冷化で、食料を求めて南下した民には農民もいただろう。稲作という技術をすでに持っていたが、南へ生活の地を求めてなんとか辿り着いたというところではないか。

彼らは単発で訪れ縄文人と対峙するが、侵略の意思がないことは迎える縄文人も理解したのではないだろうか。数字的には大量の渡来人はあったのかもしれない。しかし、稲作の技術をもって友好的に訪れた弥生人は縄文人と融合することで、かろうじて自らの生活の場を確保できたのだろう。</blockquote>

この辺の状況は、渡来人の出自（２）<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=24964">るいネット：橋口さん</a>の投稿が参考になります。

<blockquote>弥生時代に関係する中国大陸の民族移動の様子について、安田喜憲著「龍の文明・太陽の文明」の中に以下のような記述があります。

＞四千年前頃、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が大きな力を持って南下し、ついに長江流域に生活していた苗（ミャオ）族など、三苗（さんびょう）とよばれる太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ三千年前以降の気候の寒冷化は龍族の南下に拍車をかけた。かくして、太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、稲作と太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。

安田氏は北方の畑作・牧畜民によって南方へ追いやられた稲作・漁労民が東シナ海に逃れ、対馬暖流を北上して九州南部（隼人）へ、さらに九州北部を経由し出雲へ、最後は富山の越の国へ至る「南方渡来説」の立場のようです。そして、朝鮮半島から北方の畑作・牧畜民が日本列島に渡来するのは弥生時代後期から邪馬台国の時代と区分されています。

渡来人の第一波は南方からであり、弥生時代の基礎を創った。その後、第二派が弥生時代の後半に北方より押し寄せ古墳時代の基礎を創ったと考えると弥生時代が判りやすくなるのではないでしょうか。つまり、縄文を最基底にした三層構造の塗り重ね度合いが地域差として現れているのではないでしょうか。</blockquote>

再び、田野さんの投稿に戻ります。
<blockquote>文化が異なる複数の民族がそう簡単に共存できるのか？という疑問は確かに残る。その素養が弥生人の側より縄文人の側にすでにあったことを認めなければならない。1万年にわたる縄文時代は三内丸山での中国文化の浸透に見られるよう渡来人の受け入れの歴史でもあった。
異文化と接触することでそのいい所を吸収するという価値観は縄文時代から育まれていたと見る事はできるのではないか。</blockquote>

第一波は命からがら逃げ延びてきた人々です。彼らがいきなり日本を征服するほどの力を持っていたとは考えられません。何とか受け入れてもらう中で、役に立つ技術を提供しながら、融合していくしかなかったのではないでしょうか？
●そう考えると、弥生時代からひきおこされる戦争というのは、どのような経緯で始まったのでしょうか？第二波の連中？それとも侵略意思を持った第三派？
●同時に、農耕が戦争の引き金になるのかも追求していきたいと思います。
今回は、上記２つの問題を提起して、次につなぎたいと思います。
それでは、次の方、よろしくお願いしま～す :shock: 

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   <title>教科書の弥生時代</title>
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   <published>2008-06-18T06:00:00Z</published>
   <updated>2008-06-30T18:33:50Z</updated>
   
   <summary> :D くまなです 弥生時代とは何か？ 学校の教科書でどのように記述されているの...</summary>
   <author>
      <name>kumana</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅲ弥生ー律令" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[ :D くまなです

弥生時代とは何か？

学校の教科書でどのように記述されているのかを紹介します。
そのことで、世間で定説となっている弥生時代に対する認識がわかります。
日本の歴史について初めて学ぶのは小学校６年生の社会です。

<img alt="kyoukasho004.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/kyoukasho004.jpg" width="356" height="260" />
今回、内容を紹介するのは、小学６年生の社会の教科書３冊（東京書籍、教育出版、大阪書籍）です。平成16年に検定をうけ、平成17年から使われています。

ところで、このブログの記事「<a href="http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/01/000090.html">小６教科書から縄文時代が消えた！</a>」でカッピカピさんが紹介されているように、今の小学生の教科書に縄文以前は登場しません(一部を除く)。ゆとり教育以来、そのような状態が約20年続き、ようやく平成23年に縄文以前が教科書に復活します。参照「<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/09/000325.html">小学社会に「縄文」</a>」

現在の小学6年生の学習指導要領では「農耕の始まり，古墳について調べ，大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際，神話・伝承を調べ，国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。」となっています。（平成23年度から実施される新しい指導要領では上記の冒頭に「狩猟・採集や」が入ります。）

それでは、弥生時代の記述です。

その前に、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a><a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank">
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      <![CDATA[３つの教科書における「弥生時代」の記述を総合し要約すると、

①大陸から移り住んだ人によって米作りが伝えられ、稲作が始まった。
②米作りが、リーダーや祭りを通じて集団のまとまりを強めていった。
③米は栄養があり、蓄えられるので、くらしが安定し、人口が増加した。
④技術や蓄え(富)の量によって身分の差が広がっていった。
⑤土地や用水、倉庫の食料や種もみをめぐってむらどうしの争いが起きた。
⑥争いが起きたときは、首長が戦いの指揮をした。
⑦首長の中には、ほかのむらを従えるものも出現した。
⑧地域の支配者(豪族)は周りのむら(豪族)を従え国をつくり、王となった。

上記の中で問題と思われるポイントは、

■一つ目は、弥生時代を築いたのは渡来人だけか？ということです。
教科書の記述では、弥生時代の日本は、<span style="color:#ff3300;">渡来人によって渡来系の文化に一変し、日本の歴史・文化の起源が渡来人によって築かれたかのような印象</span>を与えます。それ以前の縄文文化は無視され、縄文人がどうなったのかの記述もありません。(一部の教科書では発展学習として記述はありますが、重要な中身はありません。)

縄文人は、自然に対する畏敬の念をもち、集団・個人の争いを封鎖し続けました。そのような気質や精神文化は弥生時代以降も残り、現代にも受け継がれているのです。そのことが無視されているのは、子ども達に誤った認識を与え、次代に向けての可能性探索を阻害しかねません。


■二つ目は、縄文時代には見られなかった集団同士の争いは何が原因で生じたのかということです。
<img alt="kyoukasho007.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/kyoukasho007.jpg" width="408" height="305" />
（大阪書籍「小学社会6年上」より）

その部分の教科書の記述は、
<blockquote><strong>米作りが広がると、土地や水、たくわえた米などをめぐって、むらどうしの争いがおこるようになりました。</strong>争いに勝ったむらのかしらは、ほかのむらも支配する豪族への成長しました。さらに、まわりの豪族をしたがえて、むらよりも大きなくにをつくる王があらわれました。</blockquote>（大阪書籍）
<blockquote>弥生時代には、<strong>倉庫の食料や種もみ、田や用水、鉄の道具などをめぐって、むらとむらとの間で争いがおこりました。</strong>また、人々は、くらしのことや豊作を神にいのりました。
　やがて強い力を持ってむらを支配する豪族の中から、周りのむらの豪族たちをしたがえてくにをつくり、王とよばれる人があらわれました。</blockquote>（東京書籍）
<blockquote>米づくりがさかんになると、それまでより安定して食料が得られるようになり、むらの人口が増えました。また、農作業を共同で行うことも多くなりました。こうして、むらの中に、人々をまとめる首長が現れました。首長は、米づくりを指導したり、豊作をいのる祭りを行ったりしました。また、<strong>土地や水をめぐってほかのむらと争いが起きた時には、人々をまとめて戦いの指揮をした</strong>と考えられています。人々の間にも、技術やたくわえ(富)の量によって、しだいに身分の差が広がっていきました。
　やがて、首長の中には、ほかのむらを従えるほどの力をもつ者も現れました。こうして生まれた地域の支配者は、それぞれ小さなくにをつくり、王とよばれるようになりました。</blockquote>（教育出版）

どの記述も、<span style="color:#ff3300;">稲作が始まると、いずれ争い(殺し合い)が起こる</span>ことになっています。

このブログの読者の方はご存知の通り、縄文時代にも集団同士が縄張りをもち、相互に接触がありましたが、争いの痕跡はありません。贈与によって緊張を緩和していました。
縄文中期には温暖化により人口が増加し、後期には寒冷化により人口が激減しますが、どちらにおいても争いは生じていません。縄張りの接触に際しても、集団の危機に際しても、他集団との争いを起こさなかったのです。

集団どうしの縄張り接触がすぐさま争い(殺し合い)に転じるというような認識は、人間や集団は生来そういうものだという認識を子ども達に植え付けてしまいます。子どもたちに、戦争は無くせないと思わせてしまうのではないでしょうか。日本において、弥生以来解放してしまった個人・集団の自我を、次代に向けてどう制御していくかといった課題に向けての探索も阻害してしまいます。


■三つ目は、記述の全体を通じた弥生観です。
<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;">弥生人は皆が争いを起こし、支配と従属の関係が連鎖して国の統合へとつながっていくような印象</span></span>を与えています。我々が農村集落にイメージする精神風土とのギャップを感じざるを得ません。渡来人や弥生人を一元的に扱ってしまっているところに問題があるのではないでしょうか。


■最後に、感想です。
この記事を書きながら感じたのは、教科書は現代社会を正当化しようとする意図があるのではないか、あるいは、何のために学習させるかという戦略や意図が全く無く書かれているのではないか、ということです。

みなさんは、どのように感じますか？]]>
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   <title>弥生時代の概観</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000529.html" />
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   <published>2008-06-17T14:58:54Z</published>
   <updated>2008-06-22T02:28:10Z</updated>
   
   <summary>こんばんは。 少し前になりますがｔａｎｏさんからの「弥生を丸裸にせよ!」というエ...</summary>
   <author>
      <name>yuyu</name>
      
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         <category term="Ⅲ弥生ー律令" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[こんばんは。

少し前になりますがｔａｎｏさんからの<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/05/000512.html">「弥生を丸裸にせよ!」</a>というエントリーを受けて、今後しばらくは、るいネットに投稿された多くの弥生に関する投稿文を使い、弥生シリーズとして追求していきます。そこで最初である今回は、弥生時代の歴史のおさらいを行なっておきたいと思います。

弥生時代前後の日本及び中国大陸・朝鮮半島の様子については、このブログ内でも、kumanaさんの力作である

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2006/11/000049.html">「日本の私権国家への道すじ」</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2006/12/000064.html">「日本の私権国家への道すじ（２）」</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/01/000091.html">「日本の私権国家への道すじ（３）」</a>

に詳しく追求紹介されていますのでそちらもあわせて参照願います。


今回は、るいネットに、弥生時代の歴史を紹介した投稿がありますので、この投稿を紹介します。


<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=25754">「弥生の侵略闘争」 </a>（岡本氏の投稿より）


<span style="color:#009933;">＞私は弥生時代は総じて戦争前夜だと思うのです。条件がそろいながらも回避する工夫をしていた。（中略）戦争の引き金を引いたのは弥生末期に登場した騎馬民族の系統を引く渡来人の略奪行為が皮切りではないかと考えています。（田野氏25427）

　弥生時代の戦争については、考古学的事実以外にも、中野さんが投稿されておられるように「魏志倭人伝」等で伺い知ることができ、遅くとも弥生中期後半には侵略闘争が激化しています（戦争前夜ではありません）。年代を追って記すと以下のようになります。</span>


具体的な歴史内容をご覧になられる前にポチッと応援をお願います。


<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a> 　　<a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> 

]]>
      <![CDATA[<span style="color:#009933;">2600年前：日本最古の水田跡遺跡。縄文人が朝鮮半島から技術を持ち帰った。
　朝鮮半島の水田稲作は3000年前には南端まで到達しており、縄文土器や九州産の黒曜石が出土することから、縄文人も海を渡って交流していたと考えられている。縄文社会は4000年前の人口ピークから、3000年前には東日本を中心に半減したとされており、新たな何かを求めて朝鮮に渡った可能性は十分にある。</span>
　
　
<img alt="%E8%8F%9C%E7%95%91%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%9Ematura27.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E8%8F%9C%E7%95%91%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%9Ematura27.jpg" width="480" height="250" />
　
<img alt="%E8%8F%9C%E7%95%91%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%BE%A9%E5%85%83%E9%81%BA%E8%B7%A1newnabatake_01.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E8%8F%9C%E7%95%91%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%BE%A9%E5%85%83%E9%81%BA%E8%B7%A1newnabatake_01.jpg" width="480" height="250" />
　
　　　　　　　　　＜日本最古水田跡遺跡である菜畑遺跡＞
　　　　　　<a href="http://inoues.net/ruins/matura.html">http://inoues.net/ruins/matura.html</a>
　
　
<span style="color:#009933;">2500ないし2400年前：渡来人によって水田稲作が北部九州にもたらされる。
　当時の中国大陸は春秋時代、（恐らく江南から呉や越の越人が）戦乱を逃れて朝鮮へ入植、日本へも断続的に漂着。遼東の北方遊牧民も朝鮮へ南下、一部は押し出されて日本へ漂着。九州を中心に渡来人同士の同類闘争の緊張圧力は極度に高まる。</span>



<img alt="%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88hatasakubokutikuminnnonannka_tyousenn.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E4%BC%9D%E6%9D%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88hatasakubokutikuminnnonannka_tyousenn.jpg" width="580" height="420" />

　　　　　　　　　　　＜稲作の伝来ルート図＞


<img alt="%E6%B0%B4%E7%94%B0%E8%B7%A1tottaimonkinosuidenninasaku.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E6%B0%B4%E7%94%B0%E8%B7%A1tottaimonkinosuidenninasaku.jpg" width="580" height="420" />
　
水田址が認められる遺跡は殆どが西北九州に集中。
　
　　　　　　　　　　　＜稲作関連遺跡図＞

　　　<a href="http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03.html">http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03.html</a>
　
　
　
<span style="color:#009933;">2000年前：「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国をなす。」
　一つの国は概ね1000人程度か。この頃から楽浪郡（漢が侵略支配した西北朝鮮の地方行政組織）に定期的に使者を送り朝貢貿易を行っている。2000年前の帆船の発明で航海技術は飛躍的に進歩している。</span>
　
　
<img alt="%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1%E4%BD%8D%E7%BD%AEtaihoumap.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1%E4%BD%8D%E7%BD%AEtaihoumap.jpg" width="1000" height="700" />
　
　　　　　　　　　　　＜楽浪郡想定位置＞
　　　<a href="http://inoues.net/study/rakuroh4.html?">http://inoues.net/study/rakuroh4.html?</a>
　
　
　
<span style="color:#009933;">1950年前：後漢の皇帝から「倭の奴の国王」の金印を受ける。</span>
　
<span style="color:#009933;">1900年前：倭の国王が奴隷160人を後漢に送る。
　この頃には元百余国が28ヶ国にまで統合されている。
　
1900～1800年前：倭国大乱。
　
1760年前：卑弥呼が魏の皇帝より「親魏倭王」の称号を受ける。
　邪馬台国は28万？の大部族連合。この頃南朝鮮では馬韓、弁韓、辰韓の3つの大部族連合が相争っており、いずれか（最弱の弁韓？）が活路を日本に求めて正規軍で渡来。これが最後の北方部族の侵略となり、一気に大部族連合を統合、大和政権を確立。
　
1700年前：大和政権が西日本を統合。
　突如巨大な古墳が近畿・瀬戸内を中心に出現する。
　
1630年前：倭国、朝鮮に出兵、半島南部を勢力下に置く。
　
　このように、最初江南人、次に北方部族も朝鮮半島から押し出されるように、そして最後侵略意図をもった正規軍と、何波にも渡って渡来人が押し寄せており、2000年前には「分かれて百余国をなす」ところまで、渡来人同士の侵略闘争は激化しています。奴隷の朝貢にまで至っています。但しこれは西日本の状況で、東日本は全く様相が異なります。
　
　日本の状況のみならず、当時の中国大陸、特に朝鮮半島の状況からも、渡来人の出自を正確に押さえ直す課題があると思います。</span>
　
　
弥生時代の大きな歴史的な流れは、以上のようになっています。
　
改めて、大陸や朝鮮半島との関係が蜜にあった時代であることが窺えます。
　
]]>
   </content>
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   <title>ヒト＆縄文：難産という出産障害</title>
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   <published>2008-06-12T12:50:00Z</published>
   <updated>2008-06-12T12:54:29Z</updated>
   
   <summary>最近、るいネットやなんでや劇場で熱い :m116: 生物史（参考投稿） :m19...</summary>
   <author>
      <name>sawatan</name>
      
   </author>
         <category term="縄文人の外圧" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[最近、<a href="http://www.rui.jp/">るいネット</a>や<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=600&c=200">なんでや劇場</a>で熱い :m116: <strong><span style="color:#ff3300;">生物史</span></strong>（<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=100&t=1200">参考投稿</a>） :m193: 
改めて、<u>我々の細胞が形成している機能や免疫細胞等…生物～人類まで、いかに進化を積み重ねてきたか :m052: とても面白い :m051: </u>今日は、そんな生物史にちょっとヒントをえて、視点を変えてみました。
今までは、縄文人を取り巻く自然圧力などを対象に外圧状況を探ってきましたが、<u>縄文人自身はどんな状態だったのか？</u><span style="color:#ff3300;"><strong>古病理学</strong></span>を視点に探ってみたいと思います :m044: 

byさーね :o 

<img alt="%E9%AA%A8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E9%AA%A8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA.jpg" width="151" height="227" />
<span style="color:#009933;">参考図書「骨から見た日本人～古病理学が語る歴史　鈴木隆雄　著」</span> :m061: 
 :m259: <span style="color:#FFAE35;"><strong>応援よろしくです</strong></span> :m259: 
<a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a> 
<a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a> ]]>
      <![CDATA[<blockquote>ハイリスクな縄文期の出産

<strong>ヒトは、もっとも自然であるべき出産分娩について、難産という出産障害をもつ唯一の哺乳類である。</strong>これは四足性の姿勢からほぼ９０度上体を起こした直立姿勢となったために、骨盤はそれまでの下肢骨の支持の役目のみならず、重い内臓の受け皿となった。そのために、子宮および産道は全内臓の重みを受け複雑に屈曲する隘路となったからである。さらに、胎児の側も頭部が他の動物にくらべ非常に大きくなったため、スムーズに産道を通過することが困難となり、一層の難産の条件が重なったといえる。…（中略）…</blockquote>
<blockquote>マジカルな意味をこめた埋葬

…（中略）…この高砂貝塚の縄文人母児は、児頭骨盤不均衡や回旋異常をはじめとし、横位や子宮破裂、さらに産道損傷や子宮内反症などによる出血やショックなどの<strong>分娩時の重大な障害によって両方が死亡したケースと考えられ、</strong>その埋葬の特殊性もふくめ、縄文時代での出産にかんするハイリスクを知る意味でも貴重な症例と考えられている。</blockquote>
<blockquote>後天的障害

これまで我が国の古人骨のなかで明らかに<strong>麻痺性の変化</strong>、すなわち<strong>骨の異常な萎縮による機能不全の例が幾例も見出されている。</strong>最初に報告のあったのは栃木県大谷寺洞穴出土の縄文時代前期に属する成人女性の下肢骨の左右非対称例である。
この女性の左大腿骨はほぼ正常な柱状の形態を示すのにたいし、右大腿骨は前後にいちじるしく扁平で、特に後面の粗線と呼ばれる筋肉の付着するための隆起が、隆起とならず単なる帯状の痕跡となっていた。　…（中略）…　　<strong>幼児に罹患した脊髄性小児麻痺</strong>を疑った。
…（中略）…
なお本例は頭蓋底を環状にとりまく破損があり、おそらく食人を目的として、<strong>脳の新鮮な時期に強い鈍力によって破壊し、脳を取り出した例でもあると推定されている。</strong></blockquote>
<blockquote>古代エジプトでのポリオ

脊髄性小児麻痺あるいは急性灰白髄炎は、通称ポリオと呼ばれる。…（中略）…しかし、このポリオの歴史は古い。すでに<strong>紀元前１５００年のエジプト第１８王朝のころの僧ルーマはその右脚が完全に麻痺し、高度に萎縮した様子の描かれた石碑と碑文</strong>が残されている。　　…（中略）…</blockquote>
<img alt="%EF%BD%B4%EF%BD%BC%EF%BE%9E%EF%BE%8C%EF%BE%9F%EF%BE%84%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%AA.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%EF%BD%B4%EF%BD%BC%EF%BE%9E%EF%BE%8C%EF%BE%9F%EF%BE%84%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%AA.jpg" width="217" height="313" /><img alt="%E5%85%A5%E6%B1%9F%EF%BC%99%E5%8F%B7.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E5%85%A5%E6%B1%9F%EF%BC%99%E5%8F%B7.jpg" width="151" height="227" />
<blockquote>華奢な骨

…（中略）…縄文時代後期に属する個体で「入江９号」とラベルされた成人骨格は、その異常な所見から、調査にあたった峰山巌・山口敏によりすでに<strong>「……この女性は、思春期をむかえた頃病魔におかされ、四肢骨の発達が遅滞しただけでなく、退化現象をおこし、少なくとも数年間は寝たままの状態で過ごしたものと思われる……」</strong></blockquote>
<blockquote>周囲の手厚い保護

このように四肢の麻痺という、日常生活にいちじるしい障害があり、成人にたっするまでの長いあいだ、寝たきりを余儀なくされたこの例は、縄文時代にあっても周囲の手厚い保護と介助を必要とした身体障害者をすでに当時の人びとが受け入れていたことを立証している。</blockquote>
そもそもヒト（縄文人）は、

<strong>難産という出産障害をもつ唯一の哺乳類→これは、ヒト自身の外圧</strong>
｜
↓
<strong>様々な障害</strong>
∥
∨
<strong>それを共同生活で受け入れる</strong>
ことが出来ていた。

一方、現代社会は逆だ。障害者は隔離され、閉じ込められている感じだ。出産の技術が上がったとはいえ、本来の共同意識さえなくなりつつある現代。改めて、縄文人の意識に立ち返るべきではないでしょうか :m050: ]]>
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   <title>仮説：マヤ社会の成立と滅亡</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000528.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2008:/blog//1.528</id>
   
   <published>2008-06-12T12:28:05Z</published>
   <updated>2008-06-14T10:22:49Z</updated>
   
   <summary>マヤ社会は私権闘争の結果築かれたものなのか？ 現段階の仮答えは、否です。 マヤ文...</summary>
   <author>
      <name>nandeya</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅷマヤ・アステカ・インカ文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<span style="background:#FFE3E3">マヤ社会は私権闘争の結果築かれたものなのか？</span>

現段階の仮答えは、否です。

マヤ文字をひもときながら最新の仮説を提起します。  by tamura
<img alt="CA7QMGPC.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/CA7QMGPC.jpg" width="400" height="263" />
]]>
      <![CDATA[このテーマは、ブログ記事<span style="color:#ff3300;">５／１７「マヤの統合軸は私権による統合だったのか？」</span>から、いくつかの事実が出てきていますのでここで整理したいと思います。

●国家間の戦争は、勝者の優位性が共認されて決着がついた
→<span style="color:#ff3300;">５／３０「マヤの国家間闘争」</span>
●分家による拡大とその限界（謀反）
→<span style="color:#ff3300;">６／１「マヤ文明、国内のお家騒動」</span>
●マヤ王族は父系長子相続が基本
→<span style="color:#ff3300;">６／３「マヤの婚姻制度」</span>

このようにマヤには戦争や父系制といった旧大陸の私権社会文明と同様の現象が見られるのですが、掠奪のように集団や集団の共認を根こそぎ破壊するような現象は見られません。　
むしろ、戦争であってもその共認内容を勝者と敗者の双方が受け入れて石碑に記録して大切に後世に伝えようとしています。

単位集団の規模をはるかに超えたマヤ社会統合には、序列関係と、婚姻による同盟関係が使われていますが、通常狭い範囲でしか通用しないこれらの関係を、マヤでは「文字」を使う事によって固定し、長期間かつ広範囲にわたって適用して活力と秩序を維持するように努めていたのだと思われます。

この視点でマヤ社会の発生から滅亡までの仮説をスケッチしてみます。

<span style="background:#C8FFFF">１．自然外圧の低下→人口増によって集団間の同類緊張圧力が高まった。</span>
１万年以上前にアメリカ大陸に渡った人類は旧大陸同様に既に獲物を狩る武器をもっており、あっという間に南米の先端までその活動範囲を広げている。当然、食料を得やすい地域では人口が増加し、集団同士は近接して緊張状態だったに違いない。　また気候変動によって獲物となる動物がいなくなった地域も発生したと考えられる。

<span style="background:#C8FFFF">２．農業生産力と武力に優れた部族（父系）の登場⇒周辺部族の統合</span>
マヤ地域では長い期間をかけてトウモロコシの品種改良が行われ、主食となっていった。
また、マヤ国家の統合の原型として、一部の王族（後に階級化）と、大半の農民という２層構造がある。（記録は残っていないが農民は氏族内婚だったと思われる）

さらに、マヤ諸国の王族は全て父系長子相続を基本とし、トウモロコシの祭祀を重視している事から、（日本の天皇家と同様に）農業生産力と武力に優れた部族が現れて、小競り合いを続ける周辺部族を統合していったと考えられる。
（この部族がマヤで現れたのかそれとも他の地域から到来したのかはわからないが、後の史実から考えるとメキシコ地方から来た可能性もある。）

<span style="background:#C8FFFF">３．王族の分家→諸国（諸センター）の群立</span>　
マヤ王族の相続は、子・兄弟・（稀に妻や娘）に対して行われ、概ねその順番が決まっている。また、一夫多妻（集中婚の名残か？）であった事から、相続に値する者が複数いた事になる。　階層的な統合様式を持たない王族は分派によって拡散して支配地域をマヤ地域全域に広げていったと考えられる。これは、マヤ諸国が王族共通の文字を持ち、ほぼ共通の祭祀を行っていた事、２つの国が同じ王家の紋章を使っていた事例がある事から十分考えられることである。


<span style="background:#C8FFFF">４．国家間の覇権闘争→小競り合い首従関係と、婚姻による同盟関係による秩序化</span>
マヤでは、西暦４００年ごろから諸国が興隆し、諸国間の戦いが行われるようになる。
戦いの多くは、相手国の王や王族を捕らえて辱める事で勝敗が決したらしく、負けた国（王族）は急激に活動を低下させるか、または、勝った国（王族）と首従関係を構築している。娘を他国の王族に嫁がせることで同盟関係を築く事もよく見られる。
これらの事例から、絶えざる覇権闘争を序列関係と婚姻によって秩序化して安定を図ろうとしていた事がわかる。

<span style="background:#C8FFFF">５．文字による統合（秩序）の維持とその限界</span>
首従関係と婚姻による同盟関係は何世代も続くものではない。そこでマヤ人は石碑に膨大なマヤ文字を刻む事を発明した。　マヤ文字は長い年月にわたる勝敗の記録が執拗に刻みつけられており、序列秩序を固定化する試みだったと思われる。
しかし、こうした秩序化への努力にもかかわらず何度も戦争が行われ続け、末期のコパンとキリグアの例に見られる「従者の反乱（謀反）」のような事件もある。
反乱を起こしたキリグアは、マヤ史上最大の巨大石碑を多量に刻んでいる。


<span style="background:#C8FFFF">１～５を通して言えるのは、</span>
単位集団を超えたマヤ社会は、序列関係と、婚姻による同盟関係で秩序化されていた。
［序列関係：サル社会の活力と秩序の基本原理］
［婚姻による共認関係の強化：人類の集団原理］
これらは通常狭い範囲でしか機能しないが、マヤではこれらを「文字」を使う事によって固定し、長期間かつ広範囲にわたって適用し、活力と秩序を維持するように努めていたという事がわかる。
（→滅亡：しかし、それだけでは、集団を超えた社会統合秩序に永続性を持たせる事はできなかった）
<img alt="%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95.bmp" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%83%9E%E3%83%A4%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95.bmp" width="320" height="240" />

・・・・一体、何を話しているのでしょうか？・・・・・

]]>
   </content>
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   <title>シュメール人ってどんな人たち？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2008/06/000526.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2008:/blog//1.526</id>
   
   <published>2008-06-11T07:18:54Z</published>
   <updated>2008-06-11T07:45:05Z</updated>
   
   <summary>メソポタミアを調べていると、いつも出てくるシュメール人 :m003:  彼らが一...</summary>
   <author>
      <name>jomon10</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅴメソポタミア文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[メソポタミアを調べていると、いつも出てくるシュメール人 :m003: 

彼らが一体どういった人々なのか？
彼らについて、分かっている限りの情報を集めてみました :m026: 

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      <![CDATA[<span style="font-size:115%;"><strong>○シュメールとは？</strong></span>

　まず「シュメール」というは、アッカド人により用いられた呼び名で、自分達は「キエンギ」と呼んでいたらしい。シュメール語では「葦の土地の主」という意味。
　今で言うと、日本人とジャパニーズといった違いのようなもの。
　また、アッカド人というのはセム系の民族で、今のアラブ人やユダヤ人につながっていく人々。シュメール人はそれとは別系統だったと考えられている。

　風貌は、目が大きく :shock: 、色は黒。髪も黒く、男性は髭を伸ばしていたとのこと。


<span style="font-size:115%;"><strong>○都市は？</strong></span>

　シュメール人はさまざまな都市国家に居住し、それぞれジッグラトと呼ばれる丘の上に神殿を建てて、その周囲に集住していた。
　主だった大きな都市は、エリドゥ、キシュ、ウルク、ウルなど。
　王たちは、軍隊や商業を支配し、都市を統治した。


<span style="font-size:115%;"><strong>○生活は？</strong></span>

　シュメール人は、大麦、ヒヨコマメ、ヒラマメ、雑穀、ナツメヤシ、タマネギ、ニンニク、レタス、ニラ、辛子を栽培し、牛、羊、山羊、豚を飼育した。
　また、主要な役畜として雄牛を、主要な輸送用動物としてロバを使っていた。
　彼らは農業を行い、その農業は灌漑にかなり依存し、灌漑は、羽根つるべ、運河、水路、堤防、堰、貯蔵庫を使って行われた。政府は人々に運河で働くことを求めたが、富裕な者は免除されることができた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○芸術</strong></span>

　シュメールの陶工は、陶器を杉油の油絵で飾り立てた。
　陶工は、陶器を焼くために必要な火を起こすために弓ドリルを用いた。
　石細工や宝石細工には、象牙・金・銀・方鉛鉱が使われた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○政治</strong></span>

　シュメールでは、女性は他の文明よりも高い地位（神官等）を獲得していたが、政治は主として男性により支配されていた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○交易</strong></span>

　舟やラクダ等を利用し、主にインドやアフリカ等と交易をしていたらしく、石材、銀、銅、木材を運んできた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○医術</strong></span>

　白内障での水晶体の混濁部分を除去すれば直るということや、その手術方法も知っていた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○軍事</strong></span>

　城壁で、シュメールの都市を防御した。
　シュメール人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成され、そのうち軽装歩兵は、戦斧、短剣、槍を運搬した。正規の歩兵は、さらに銅製の兜、フェルト製の外套、革製のキルトなどを着用した。

　さらに戦車を発明したが、彼らの初期の戦車は、後世の設計の物に比べて、戦闘時においてあまり有効に機能しなかった。搭乗員は戦斧や槍を運び、戦車はおもに輸送手段として使われたとされている。


<span style="font-size:115%;"><strong>○宗教</strong></span>

　シュメール人は、それまで人々の伝承でしかなかった「神話」を体系だてていった。
　主には、地母神であるナンム、愛の女神であるイナンナまたはイシュタル、風神であるエンリル、雷神であるマルドゥークなどを崇拝した。

　シュメール人が崇拝するディンギル（神々）は、それそれ異なる都市からの関連を持っており、神々の信仰的重要性は、関連する諸都市の政治的権力に伴って、しばしば増大したり減少したりした。

　また、宇宙はスズ製のドームに囲まれた平らな円盤から構成されると信じていた。
　さらにシュメール人にとっての「来世」は、悲惨な生活で永遠に過ごすためのひどい地獄へ落ちることだと信じられていた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○技術</strong></span>

　シュメール人の技術には、のこぎり、革、のみ、ハンマー、留め金、刃、釘、留針、宝石の指輪、鍬、斧、ナイフ、槍、矢、剣、短剣、水袋、バッグ、馬具、ボート、甲冑、矢筒、さや、ブーツ、サンダル、もりなどがあった。
　また、建物は平らまたは凸の日干しれんがから成っていた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○法律</strong></span>

　労働者、失業者を保護する法律などがある。
　裁判もあり、陪審員制度もあった。


<span style="font-size:115%;"><strong>○暦</strong></span>

　太陰暦を使用。世界最古の暦とされている。


<span style="font-size:130%;"><strong>○天文学</strong></span>

　日食、月食のタイミングを始め、様々な惑星の事細かな動きまで詳細に予想出来たとされ、さらに、2万5920年かかって地球の地軸が円を描くという歳差運動の周期すら知っていたとも言われる。


<span style="font-size:115%;"><strong>○数学</strong></span>

　60進法を用いていた。


<span style="font-size:115%;"><strong>○文字</strong></span>

　初めは象形文字を使っていたようだが、後に楔形文字を使用した。言葉としては膠着語と言われている。


以上が、シュメール文明の大雑把な概要です。

彼らについては、まだまだ謎だらけ。
分かっていることが少なすぎて、どうこからきて、どうやってこれの技術等を作り上げたのか？
追求すべきところは山済みです :m003: 
この先もどんどん追及していきます :tikara: ]]>
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