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   <title>縄文と古代文明を探求しよう！</title>
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   <updated>2012-02-07T13:20:45Z</updated>
   
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   <title>庶民が作りだしたお上意識３～天皇の大衆化を担った商人たち～</title>
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   <published>2012-02-07T03:51:21Z</published>
   <updated>2012-02-07T13:20:45Z</updated>
   
   <summary> 歴代の天皇（画像はこちらから） 前回の記事で天皇制の庶民に対する歴史的位置と浸透度合いを探ってきました。 その記事の最後に、「江戸時代に天皇の大衆化は起きたのか？」という疑問が投げかけられています。今回の記事はそれを受けて、この江戸に起きた転換点とその要因を探っていきたいと思います。 まずこの転換点は江戸時代のちょうど真ん中あたり、１７世紀半ばから始まる元禄時代にありそうです。この元禄時代とは江戸の豊かさを背景にまさに日本の諸子百家の時代であり、朱子学や陽明学、その流れで国学が立ち上がります。また一方で大衆文化である浄瑠璃や歌舞伎、狂言といった芸能も起き、江戸は一大商業都市に成長していきます。 天皇の大衆化とはこの日本の思想開花の時期に起きるのです。それではなぜ天皇がこの時代に大衆化したのか、またその大衆化とはどのようなものであったのかを明らかにしていきたいと思います。 天皇の大衆化のヒントは商人にあると見ています。さらにその商人とは京都の町人から発した町人文化にありました。今からその仮説を時代を追って組み立てていきたいと思います。 いつも応援ありがとうございます :m023:         ...</summary>
   <author>
      <name>mituko</name>
      
   </author>
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/all_king.jpg"><img alt="all_king.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/all_king-thumb.jpg" width="130" height="175" /></a>
<span style="font-size:70%;">歴代の天皇（画像は<a href="http://www4.ocn.ne.jp/~ohyama/king_all2.html">こちら</a>から）</span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001370.html">前回の記事</a>で天皇制の庶民に対する歴史的位置と浸透度合いを探ってきました。
その記事の最後に、「江戸時代に天皇の大衆化は起きたのか？」という疑問が投げかけられています。今回の記事はそれを受けて、この江戸に起きた転換点とその要因を探っていきたいと思います。

<span style="color:#6666ff;">まずこの転換点は江戸時代のちょうど真ん中あたり、１７世紀半ばから始まる元禄時代にありそうです。この元禄時代とは江戸の豊かさを背景にまさに日本の諸子百家の時代であり、朱子学や陽明学、その流れで国学が立ち上がります。また一方で大衆文化である浄瑠璃や歌舞伎、狂言といった芸能も起き、江戸は一大商業都市に成長していきます。</span>

<span style="color:#ff3300;">天皇の大衆化とはこの日本の思想開花の時期に起きるのです。</span>それではなぜ天皇がこの時代に大衆化したのか、またその大衆化とはどのようなものであったのかを明らかにしていきたいと思います。

<span style="color:#ff3300;">天皇の大衆化のヒントは商人にあると見ています。</span>さらにその商人とは京都の町人から発した町人文化にありました。今からその仮説を時代を追って組み立てていきたいと思います。

いつも応援ありがとうございます :m023: 
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]]>
      <![CDATA[ :m282: <span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:130%;">天皇や公家を支えた京都の町人の台頭</span></strong></span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/pic_02.jpg"><img alt="pic_02.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/pic_02-thumb.jpg" width="270" height="180" /></a>
<span style="font-size:70%;">江戸初期：見世物や物売りで賑わう京の鴨川（画像は<a href="http://www.kyoto-yuka.com/history/index.html">こちら</a>から）</span>

まず、平安時代後期に遡ります。
日本は大和朝廷以来続いてきた正統天皇制が武士の登場によって揺らいで行きます。後白河天皇の平家との戦乱は現在のＮＨＫ大河ドラマでも描かれていますが、その後、承久の乱により、天皇家は事実上、武家に敗北します。鎌倉と京都という２つの中心をその後の日本は抱える事になりますが、実質上京都の公家の地位はどんどん低下していきます。室町で一旦回復しますが、彼ら公家を支えたのは京都町人でした。<span style="color:#6666ff;"><u>室町時代の京都は日本最初の商人都市を形成します。消費者は公家であり、公家に使える神仏僧侶やその下で様々な公家の為の道具を作る工人達です。商人は彼らに金を流通したり、物資を日本中からかき集める交易商として成長していきました。京都の近郊で成長した近江商人もその典型です。</u></span>このように公家と商人は一蓮托生、商人なしでは公家は武士に勝てず、商人も公家の威光を使って方々で商売を拡げていきました。
この天皇家と京都町人の関係は室町に出来、その後江戸においても度々、京都の力を江戸に示す事になります。


 :m282: <span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:130%;">京都・大坂の豪商が担った元禄文化（市場社会の幕開け）</span></strong></span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/250px-Emperor_Go-Mizunoo3.jpg"><img alt="250px-Emperor_Go-Mizunoo3.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/250px-Emperor_Go-Mizunoo3-thumb.jpg" width="180" height="180" /></a>
<span style="font-size:70%;">紫衣事件の際には幕府への抗議の意思を込めて譲位を行った後水尾天皇（画像は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87">こちら</a>から</span>）

さて、時代は江戸に移ります。江戸時代は再び京都から関東に中心が移動します。徳川は幕府を江戸に持ち込んだだけでなく、早晩朝廷を打ち倒す思想をもっていました。３代目家光までは朝廷―幕府は非常に緊張状態にありました。
徳川の為政に危機感を感じた朝廷は天皇の威光を高め天皇制を再確立しようとしたのではないでしょうか。<span style="color:#6666ff;">実際「禁中並公家諸法度」によって権限を奪われた朝廷は、幕府から許された「学問」と「芸能」にしか道が残されておらず、そこに収束していくしかありませんでした。</span>

それもあって、<span style="color:#ff3300;">江戸時代はまず京都・大坂といった上方を中心に元禄文化(町人文化)が広がります。</span>元禄文化とは１７世紀半ばから１８世紀はじめ、幕藩体制が安定し町人の台頭がめざましくなってきた時代に生まれた文化で、鎖国時代を反映して外国の影響の少ない、日本独自の文化が生み出されました。元禄文化の主な担い手は、京都・大坂などの上方の豪商で、豪華な桃山文化や江戸初期の寛永文化の伝統をうけつぎました。


 :m282: <span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:130%;">文化の中の天皇</span></strong></span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/syozou.jpg"><img alt="syozou.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/syozou-thumb.jpg" width="150" height="180" /></a>　<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/untitled.bmp"><img alt="untitled.bmp" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/untitled-thumb.bmp" width="150" height="180" /></a>
<span style="font-size:70%;"><a href="http://www.norinagakinenkan.com/norinaga.html">本居宣長</a>　　　　　　　　　　　　　<a href="http://www5f.biglobe.ne.jp/~yoshi3/jyoururi.htm">近松門左衛門の浄瑠璃</a></span>

元禄文化の中で天皇の大衆化に繋がる事例を２つ挙げます。
<span style="color:#6666ff;">一つ目は国学の始まりです。国学により天皇の学術的体系化が成されました。</span>特に本居宣長(1730～1801)は、儒教(中華思想)を批判し、縄文以来の日本の八百万の神に至る精神文化を明らかにし、それが天皇家に繋がると主張しました。縄文精神が学問的に注目されたとも言えますが、<span style="color:#ff3300;"><u>裏返せば万世一系の天皇制を正当化するための新しい歴史史観を生み出したとも言えます。</u></span>
<span style="color:#6666ff;">二つ目は近松門左衛門(1653～1725)です。</span>彼は塩の商人で、塩を介在して皇室に繋がり、天皇家を常に身近に見てきました。江戸で彼が戯曲に度々天皇を登場させ、時にそれを喜劇の対象としたのは、天皇を卑下して軽視したのではなく、逆に天皇の存在を大衆に広げていく契機になりました。<span style="color:#ff3300;"><u>喜劇という分かりやすい形で庶民の中に天皇の存在を知らしめ、それによって幕府と天皇という構図を人々に示す事になります。</u></span>このように江戸時代の天皇の力の低下ゆえに商人を用いた天皇主義の再構築が成されていったのが江戸中期であり、以後の現代まで至る天皇の大衆化に繋がる転換期だったのだと思われます。

<span style="color:#ff3300;">このように元禄時代とは江戸からはるか離れた京都で町人を中心に新しい認識が登場した時代でした。言い換えれば<strong>日本での市場社会への幕開け</strong>です。そこにそれまで京の文化の中心であり情報源でもある朝廷が濃厚に係っているのです。</span>

では、当の幕府はこの時代、天皇の存在をどのように見ていたのかについても触れていきたいと思います。江戸幕府形成時には朝廷討伐も企てた幕府ですが、数代でその意識が弱まります。
むしろ、京都の商人をまとめる公家の存在は市場拡大を目指す幕府にとって都合がよく、目先の権威より実質的な支配秩序の維持を選択したのです。天皇を残し重宝する事で秩序が形成され、その中心にある商人もコントロールできると踏んだ幕府は途中で方向転換します。つまり、朝廷―幕府―商人の利害がこの時代に一致するのです。


 :m282: <span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:130%;">天皇の大衆化と市場拡大</span></strong></span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/fujin_raijin.jpg"><img alt="fujin_raijin.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/fujin_raijin-thumb.jpg" width="150" height="120" /></a>　<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/57.jpg"><img alt="57.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/57-thumb.jpg" width="100" height="120" /></a>　<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/02-02.jpg"><img alt="02-02.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/02-02-thumb.jpg" width="150" height="120" /></a>
<span style="font-size:70%;"><a href="http://catalog.crossover-designs.com/illust/kabe.mati/fujin.raijin.html">【寛永】風神雷神図屏風</a>　　　　　　<a href="http://www.boston-nippon.jp/highlight/06.html">【元禄】元禄小袖</a>　　　　<a href="http://www.1101.com/edo/2006-03-10.html">【化政】寺子屋</a></span>

さらに元禄文化の後に１８世紀末には江戸で化政文化が発生します。このころの江戸は上方と並ぶ全国経済の中心地に発展し、多数の都市民を対象とする町人文化が最盛期を迎えます。
このように幕府と朝廷に後押しされ、寛永文化を始点として、元禄文化および化政文化を経て、国学や芸能を通じ、天皇の存在が江戸の町人や大衆に広がっていきました。それが、日本史上初めての天皇の大衆化に繋がる契機になった可能性があるのです。以後は、<span style="color:#ff3300;"><u>商人を通じて、文人の全国的な交流、出版・教育の普及、寺社参詣の流行など中央の文化は各地方に伝えられ、文化の内容も多種多様なものとなっていきます。具体的には、華やかな宮中への憧れを誘った雛祭りが庶民にまで浸透したり、お伊勢参りが広がったり、さらに町人文化が地方に拡大して寺子屋を中心に大衆の中に文化・教養が浸透します。このようにして市場拡大の基盤が出来上がっていったのです。</u></span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E7%84%A1%E9%A1%8C.bmp"><img alt="%E7%84%A1%E9%A1%8C.bmp" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E7%84%A1%E9%A1%8C-thumb.bmp" width="500" height="100" /></a>

<span style="color:#6666ff;">そんな中、江戸末期に起きた尊皇攘夷思想の背後には、庶民上がりの下級武士をベースに再び京都の町人を使って裏で糸を引く<u>海外の金貸し</u>の暗躍がありました。</span>土佐の名士、武市半平太は京都の公家や国学の影響を受け、土佐の片田舎で尊皇攘夷論を立ち上げます。彼は後に幕府勢力に消されますが、同様の勢力は日本中に「天皇」を旗印にして拡がっていきました。


 :m282: <span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:130%;">まとめ</span></strong></span>
つまり天皇を使った思想や運動は少なからず市場を開く意図と連関しており、それは歴史を紐解けば、<span style="color:#6666ff;"><u>天皇自身が最初からその配下に自由に動ける供御人（天皇の使う物を用意する直属民）を有して、彼らが商人として発展していった事と少なからず関係しているのではないか</u></span>と推察します。

このように、<span style="color:#ff3300;"><strong>天皇とは商人と切り離せない、だから天皇の大衆化とは市場の大衆化によって推し進められていった</strong></span>と仮説を提起した次第です。江戸と明治の境界は維新とし、黒船の到来から文明開化と教科書的には表現されていますが、実はこの元禄の時代から明治に繋がる市場大衆化に向かう社会変動は胎動していたのだと思われます。


第３部「庶民が作り出したお上意識」はこれで終了します。第４部はいよいよ明治時代に入っていきます。お楽しみに～ :m101:  :m023: 

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   <title>庶民が作り出したお上意識２～浸透しなかった天皇制</title>
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   <published>2012-01-31T11:18:12Z</published>
   <updated>2012-01-31T13:48:10Z</updated>
   
   <summary>（天武天皇・矢田山金剛寺所蔵） 現代では、私達の誰もが「天皇制」「天皇」の存在を知っています。憲法でも、天皇は日本国民の「象徴」であるとされ、多くの人はそのことに対してそれほどは違和感を感じていないでしょう。 しかし、突き詰めて天皇の何が「象徴」で、どのような系譜を辿ってきたのかを考えることはせず、むしろそれを考える事は天皇に対する冒涜でありタブーであるとされています。また明治以降、津田左右吉など何人かの歴史学者がそれに異を唱え、史実との整合性を見直そうとしましたが、忽ち当時の国粋主義者に取り押さえられ、学問としても取り上げられる機会はありませんでした。 したがって現在では、庶民にとっての天皇とは、その存在そのものが当然であり、日常でもあるのです。最近ではマスコミの後押しもあり、皇室の行事は忽ち国民的行事として取り上げられ、少し前ですが雅子さまのご成婚が新聞紙面を覆ったことをご記憶の方は多いでしょう。国家体制が不安定になり、秩序収束、民族収束が加速化している現代、天皇制はむしろ為政者に利用され、また大衆も無意識に望んでいる兆候すらあります。 しかしこの天皇の大衆化、誰もが信じ、誰もが否定しない天皇史観は、天皇の始まりとされる大和朝廷の頃から脈々と流れていたのでしょうか？ この答えは後に回します。読者の皆さんも、本文に入る前に少し考えてみてください。 今回の記事はそれを明らかにする目的で、まずは天皇制と古代信仰の関係を見ていきます。 続きに進まれる前に、クリックをお願いします:m092:    ありがとうございます:D ...</summary>
   <author>
      <name>yaga</name>
      
   </author>
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<img alt="%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%EF%BC%88%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%B1%B1%E9%87%91%E5%89%9B%E5%AF%BA%E8%94%B5%EF%BC%89.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%EF%BC%88%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%B1%B1%E9%87%91%E5%89%9B%E5%AF%BA%E8%94%B5%EF%BC%89.jpg" width="191" height="168" /><span style="font-size:80%;">（天武天皇・矢田山金剛寺所蔵）</span>

現代では、私達の誰もが「天皇制」「天皇」の存在を知っています。憲法でも、天皇は日本国民の「象徴」であるとされ、多くの人はそのことに対してそれほどは違和感を感じていないでしょう。

しかし、突き詰めて天皇の何が「象徴」で、どのような系譜を辿ってきたのかを考えることはせず、むしろそれを考える事は天皇に対する冒涜でありタブーであるとされています。また明治以降、津田左右吉など何人かの歴史学者がそれに異を唱え、史実との整合性を見直そうとしましたが、忽ち当時の国粋主義者に取り押さえられ、学問としても取り上げられる機会はありませんでした。

したがって現在では、庶民にとっての天皇とは、その存在そのものが当然であり、日常でもあるのです。最近ではマスコミの後押しもあり、皇室の行事は忽ち国民的行事として取り上げられ、少し前ですが雅子さまのご成婚が新聞紙面を覆ったことをご記憶の方は多いでしょう。国家体制が不安定になり、秩序収束、民族収束が加速化している現代、天皇制はむしろ為政者に利用され、また大衆も無意識に望んでいる兆候すらあります。

しかしこの<span style="color:#6666ff;"><strong>天皇の大衆化、誰もが信じ、誰もが否定しない天皇史観は、天皇の始まりとされる大和朝廷の頃から脈々と流れていたのでしょうか？</strong></span>
この答えは後に回します。読者の皆さんも、本文に入る前に少し考えてみてください。

今回の記事はそれを明らかにする目的で、まずは<strong>天皇制と古代信仰の関係</strong>を見ていきます。

続きに進まれる前に、クリックをお願いします:m092: 
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ありがとうございます:D ]]>
      <![CDATA[ :m282: <span style="font-size:120%;"><strong><span style="color:#000080;">天皇と古代信仰の関係は？</span></strong></span>

<strong>①精霊信仰</strong>（縄文時代～）
<span style="color:#6666ff;"><strong>～縄文人は精霊信仰によって１万年間、集団を統合していた</strong></span>

森を生活拠点とし「木の実を主食とする採集生産を基本的生活様式としていた」縄文人は、あらゆる自然物をカミとして崇め敬い、大切にしました。

<blockquote>精霊崇拝をとる古代人は、自然の働きはすべてカミとかタマとかモノとかいわれる、目に見えないが尊いものの力によって起こされると解釈した。そのカミなどと呼ばれたものが精霊にあたる。（中略）古代人の信仰であり、科学思想でもある根本的価値観が「精霊崇拝」である。<span style="font-size:80%;">（武光2009）</span></blockquote>

<span style="font-size:90%;">※参考：<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/10/001332.html">『縄文人を作った採集の民 Ｄ２』</a></span>

<strong>②祖霊信仰</strong>（弥生時代・紀元前1千年頃～　←江南人）
<span style="color:#6666ff;"><strong>～精霊信仰と祖霊信仰を合体した弥生式祖霊信仰が登場。万物に宿る精霊が人に移行した</strong></span>

弥生時代になると、大陸から流入した江南人が（稲作とともに）持ち込んだ祖霊信仰が、精霊信仰と融合しました。

<blockquote>弥生人は、新たな祖霊信仰と、縄文以来の精霊崇拝とをふまえた祭祀を行なっていた。（中略）これは、土地をひらいて田畑をつくった先祖たちに感謝する気もちによって生じたものであった。弥生人にとって、農業を考え出して農地をひらき、自分たちの生活の基礎をつくってくれた先祖は、神にも等しい存在であった。（中略）人間の霊魂とその他の霊魂とが集まったものが、神としてまつりの対象とされた。そして祖先たちの霊魂が、その霊魂の集団を指導する立場にあると考えた。<span style="font-size:80%;">（武光2009）</span></blockquote>

<strong>③首長霊信仰</strong>（弥生時代中期・紀元前100年頃～　←呉人・越人）
<span style="color:#6666ff;"><strong>～祖霊信仰を束ねたのが首長霊信仰</strong></span>

倭人の国であった中国江南の呉・越から渡来した人々は、（祖霊信仰を発展させた）首長霊信仰をもたらし、（古墳とともに）神社の原型となる祭祀場がつくられていきます。首長とは、稲作による集団規模の拡大に伴って、集団を統合するための課題が高度化し、村々を束ねるクニ（小国）を統治するため、登場した役割です。

<blockquote>祭祀の場における首長の地位が高まっていくなかで、首長自体を神格化する発想がつくられた。「まつりによって神々の心を動かす首長は、大きな霊力をもった人間で、かれの霊魂は死後に精霊たちの指導者となるであろう」というのである。この考えにもとづいて、首長霊をまつる古墳がつくられた。<span style="font-size:80%;">（武光2009）</span></blockquote>

<span style="font-size:90%;">※参考：<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/11/001349.html">『弥生時代の解明１　～倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか？』</a> </span>

<strong>④天皇制</strong>（３世紀半ば～　←天孫族）
<span style="color:#6666ff;"><strong>～神話によって支配を正当化した天皇制（否定するのではなく取り込んだ）</strong></span>

朝鮮半島からやってきた騎馬民族の天孫族は、首長霊信仰を取り込んだ神話をつくり、徴税拠点としての神社ネットワークを広めて全国支配を図りました。

<blockquote>大和朝廷ができる段階になると、<strong>大王の祖先神が最も尊い神で、一地域を治める豪族の祖先神はそれに次ぐ神</strong>とされた。（中略）皇室の祖先にあたる大王家が指導する集団が持つ神話が、まずあった。そして、それに他の共同体の神話がとりこまれ、さらに大王家の神話群が渡来系の知識人の手で体系づけられていったのである。<span style="font-size:80%;">（武光2009）</span></blockquote>

大和朝廷は、天皇家の祖先神に連なる神々を「天津神（あまつかみ）」、各地方を治める豪族の祖先神（先住の神々）を「国津神（くにつかみ）」として、その序列関係を神話によって体系づけ浸透を図りました。国津神から天津神への“国譲りの神話”は、その代表です。

<blockquote><strong>弥生人たちが信じていた神「スサノオ」を、カミサマではあるが、乱暴もので人間の世界に追い出された「駄目な」カミサマと描いている</strong>ところが味噌かと感じられます。スサノオをまるごと否定したり無視したりせず、<strong>その上に、より偉いカミサマがいるのだという話になっている</strong>。

（<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001364.html"><span style="font-size:80%;">『弥生時代の解明４～神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立』</span></a>）</blockquote>

ここで注目すべきは、<span style="color:#ff3300;"><strong>大和朝廷は日本の古代信仰を否定することなく、むしろ自らの神話の中に取り込んだ</strong></span>、という点です。

<img alt="%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%A1%E3%81%8E%E7%A7%8B%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%EF%BC%89.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%A1%E3%81%8E%E7%A7%8B%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%EF%BC%89.jpg" width="135" height="189" /><span style="font-size:80%;">（<a href="http://japanfestival.web.fc2.com/13-doll/doll/doll-01/doll-01.html#amaterasu">天照大神</a>）</span>

さて、以上見てきたように天皇制にいたる信仰の流れは、<strong><span style="color:#6666ff;">精霊信仰⇒祖霊信仰⇒首長霊信仰⇒天皇信仰、と以前の信仰を下敷きにして、否定せずに塗り重ねられている</span></strong>ことがわかります。それは支配者の意思もありましたが、何よりこれだけ続いているというのは、支配される側の<span style="color:#6666ff;"><strong>縄文人が受け入れ体質であり、渡来した民を一旦肯定的に見ていたから</strong></span>だとも言えます。
この流れで見ていけばもちろん天皇制も受け入れられ、時の弥生人たちが自然と天皇を崇拝したのではないかと思えるのですが、ところが・・・です。


 :m282: <span style="font-size:120%;"><strong><span style="color:#000080;">ほとんど浸透しなかった天皇制</span></strong></span>

天皇制の起源は、実質的には天智天皇、史実では天武天皇から始まっています。

時の日本の状態とは大国、唐にまさに飲み込まれようとしていました。それまでの神道は否定され、仏教が登場。政治体制はそれまでの連合型から帝国型、日本初の中央集権型が敷かれました。７０１年、大宝律令の時代です。中身ではなくまずは外側としての国体で唐と対抗しようとしました。<span style="color:#6666ff;"><strong>戦争ではなく国家体制で威嚇</strong></span>しました。<span style="color:#6666ff;"><strong>その代表が天皇</strong></span>だったのです。天皇制はその時代に正式に国家体制として君臨し、当時中国しかなかった天皇制を日本にも同様に存在するとしたのです。もちろん唐がそれを認めるわけもなく、日本の一方的な遠吠えでしたが、それでもこの時代天皇という体制を取る事で、国家体制を整備したのは事実でした。

そして中国の天皇が皇帝の上に居て、政治も神事も共に担っているのに対して、日本の天皇は神事のみを担うというように定めました。<span style="color:#ff3300;"><strong>日本は国家体制の最初から神事と政治は別物だった</strong></span>のです。

<strong>なぜ、このように政治から天皇を切り離したのか？</strong>
これには２つの理由がありました。

<strong>①序列決着に用いられた権威</strong>
ひとつは為政者の対立を避ける為です。大和朝廷にはさまざまな朝鮮系の王族が集合していました。百済、新羅、高句麗・・・そのままでは互いに日本国内で衝突が起き、国を作る前に空中分解してしまいます。時の為政者はそれを「和を以って尊し」とし、その決着の方法として政治から離脱した超越的な天皇の権威を用いたのです。

もちろん奈良時代には天皇の権威を受ける為の血なまぐさい闘いはありましたが、それでも表立っての戦乱になるような肉弾戦は止揚されました。このように天皇制とは、まずは<span style="color:#6666ff;"><strong>支配者の為の支配者の制度</strong></span>なのです。

<strong>②大衆支配の意図</strong>
もう一つは、大衆の支配の為です。象徴である天皇が支配の為、などと言うと一瞬「？」と思われるかもしれませんが、そこは為政者が巧みに物語を作り上げ、大衆の土着信仰の頂点に天皇が在る事を神話で示しました。いわゆる国譲りや国生みの神話です。

日本書紀や古事記の天皇の始まりが渡来人が来るはるか前、縄文時代にまで遡って捏造されたのは有名な話ですし、そこまでして、太古の昔から天皇に至る系譜があり、日本の神々は全て天照（天皇）の子孫であるとしたのは、“渡来”という事実、“支配”という意図を隠し、最初から支配者が日本に居り、“支配”ではなく“守っている”として、大衆を抑えようとしたのです。云わば、<span style="color:#6666ff;"><strong>少数民が大勢を支配する際に用いる反乱、反逆を防ぐ方法論</strong></span>です。その為には、天皇は政治のさらに上（あるいは別の処）に位置しておく必要があったのです。

<strong>◆お上意識の延長線上にある天皇</strong>
しかしそのような作り話が、どれほど当時の大衆に響いたでしょうか？　確かによくできた話として聞くことはしたかもしれませんが、<strong>「自分達の守護神が天皇からつながっている」と本気で考えた庶民は、そう多くなかった</strong>と思われます。その証拠に、<span style="color:#6666ff;"><strong>わずか５０年も建てば、天皇を加えた律令制を中心とする各種の定め事は無効に</strong></span>なっていきます。

つまり、大衆はお上の政策に不満はあったものの、<span style="color:#ff3300;"><strong>「自分達の生活（共同体）を守ることさえ出来ればよい」と、（お上捨象と同様に）天皇の存在を無視した</strong></span>のではないでしょうか。<strong>天皇の捨象とは、お上捨象の延長線上にあった</strong>と思われます。

さらに天皇制が大衆に浸透しなかった理由は、その後の<strong>神社の有り様</strong>にあります。

<strong>◆「徴税機関」であった神社が「利益集団」に変質</strong>
唐の圧力が強かった時代に、全国に構築された“徴税機関”としての神社ネットワークですが、その外圧が弱まってくると朝廷の統制が効かなくなり、貴族などの私有地を広げて「荘園」を運営していきます。（朝廷への納税を免除された）<span style="color:#6666ff;"><strong>荘園が拡大すればするほど、徴税拠点としての神社の役割は薄れました</strong></span>。それどころか、<span style="color:#6666ff;"><strong>有力な神社は貴族や寺とともに、自らの荘園を作り拡大</strong></span>したのです（<span style="font-size:90%;">参考：<a href="http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/syouen.htm">『知識の泉』</a> </span>）。本来、天皇制を広げ、朝廷の広報機関になるはずだった神社もわずか３世紀もしない内に別の機関になっていったのです。

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%9B%B3%E3%83%BB%E6%9C%AC%E6%A0%BC%E7%9A%84%E8%8D%98%E5%9C%92%E3%81%8C%E5%87%BA%E7%8F%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A74.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%9B%B3%E3%83%BB%E6%9C%AC%E6%A0%BC%E7%9A%84%E8%8D%98%E5%9C%92%E3%81%8C%E5%87%BA%E7%8F%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A74.html','popup','width=732,height=485,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%9B%B3%E3%83%BB%E6%9C%AC%E6%A0%BC%E7%9A%84%E8%8D%98%E5%9C%92%E3%81%8C%E5%87%BA%E7%8F%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7-thumb.gif" width="439" height="291" alt="" /></a>
<span style="font-size:90%;">（<a href="http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/syouen/#zu-honkaku">「図・本格的荘園が出現するまで」</a>）</span>

このようにして朝廷の力が衰退し（11世紀以降、不輸不入権により荘園は朝廷から完全に独立）、平安末期の承久の乱に至っては実質上の天皇の実権が失われ、天皇の存在もいよいよ庶民の信仰意識から消えていったのだと思われます。


 :m282: <span style="font-size:120%;"><span style="color:#000080;"><strong>まとめ　～庶民にとっての天皇制とは？</strong></span></span>

冒頭に提起した疑問に立ち返りましょう。

<blockquote><span style="color:#6666ff;"><strong>天皇の大衆化、誰もが信じ、誰もが否定しない天皇史観は、天皇の始まりとされる大和朝廷の頃から脈々と流れていたのでしょうか？</strong></span></blockquote>

（これまでの記述で示したように）答えは<strong>ＮＯ</strong>であると考えます。

<span style="color:#ff3300;"><strong>庶民の生活基盤である共同体が磐石な時代は、その共同体を守ることが第一であって、天皇への関心は最初からほとんどなかった、さらに荘園の広がった中世以降は、その認識さえ薄れてしまった（ほとんど消えてしまった）</strong></span>と考えられます。

逆に言えば、<strong><span style="color:#6666ff;">市場社会に突入し、共同体を超えた超集団の統合（国家や地域の統合）が必要となる近代（明治）以降に、大衆の秩序収束の需要を受けて天皇の地位が浮上していった</span></strong>のではないでしょうか。その転換点は、おそらく明治より以前の、<strong>江戸時代</strong>のどこかにあるのではないでしょうか？

そこで次回、「江戸時代に天皇の大衆化は起きたのか？」というテーマで追求したいと思います。どうぞお楽しみに♪

<span style="font-size:80%;">:m162: 参考文献
武光誠『一冊でつかむ天皇と古代信仰』2009年、平凡社新書。
武光誠『天皇の日本史』2007年、平凡社新書。
吉田孝『歴史のなかの天皇』2006年、岩波新書。
稲田智宏他『すぐわかる日本の神々』2005年、東京美術。</span>]]>
   </content>
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   <title>シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか？」９～遊牧民からみた中国史</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001367.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2012:/blog//1.1367</id>
   
   <published>2012-01-21T16:36:29Z</published>
   <updated>2012-01-24T10:18:53Z</updated>
   
   <summary>今回の中国シリーズではこれまでの８回の記事で古代から漢代までの中国史を見てきました。 １．国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史 ２．中国の市場国家の起源とは？ ３．道教から中国の可能性を探る ４．中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で？ ５．中国の自然外圧は豊か？厳しい？ ６．春秋戦国時代～秦・漢時代の支配・戦争の歴史 ７．鉄によってもたらされた中国の市場 ８．諸子百家とはなんだったのか？ ここまでの段階でも既に明らかなように中国とは遊牧民が作った商業国家であり、官僚国家である事が明らかになってきます。同じ遊牧民が作った西洋や中東が武力と宗教で支配の系譜が続いたのに対して中国の場合、武力は用いますが、ここまでの中国史は集団と集団の縄張り争い、覇権闘争の中から国家が誕生してきた事が伺えます。 群雄割拠の中、武力で制覇した秦であっても、制覇した後はひたすら防衛の為の施設＝万里の長城を築き、北の遊牧民に備えました。 中国とはいろんな見方ができると思いますが、今回の記事では、一旦遊牧民から見た中国という視点で古代から中世、そして近世まで俯瞰してみたいと思います。 なるほど、中国！と思った人、ポチッとお願いします。        ...</summary>
   <author>
      <name>tano</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[今回の中国シリーズではこれまでの８回の記事で古代から漢代までの中国史を見てきました。
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/10/001327.html">１．国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/10/001334.html">２．中国の市場国家の起源とは？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/11/001342.html">３．道教から中国の可能性を探る</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001347.html">４．中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001348.html">５．中国の自然外圧は豊か？厳しい？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001352.html">６．春秋戦国時代～秦・漢時代の支配・戦争の歴史</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001359.html">７．鉄によってもたらされた中国の市場</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001365.html">８．諸子百家とはなんだったのか？</a>

ここまでの段階でも既に明らかなように中国とは<span style="color:#ff3300;">遊牧民が作った商業国家</span>であり、<span style="color:#ff3300;">官僚国家</span>である事が明らかになってきます。同じ遊牧民が作った西洋や中東が武力と宗教で支配の系譜が続いたのに対して中国の場合、武力は用いますが、ここまでの中国史は集<span style="color:#ff3300;">団と集団の縄張り争い、覇権闘争の中から国家が誕生</span>してきた事が伺えます。
群雄割拠の中、武力で制覇した秦であっても、<span style="color:#ff3300;">制覇した後はひたすら防衛の為の施設</span>＝万里の長城を築き、北の遊牧民に備えました。
中国とはいろんな見方ができると思いますが、今回の記事では、一旦<strong><span style="color:#ff3300;">遊牧民から見た中国</span></strong>という視点で古代から中世、そして近世まで俯瞰してみたいと思います。

なるほど、中国！と思った人、ポチッとお願いします。
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]]>
      <![CDATA[ :m259: <span style="color:#009933;">中央アジアの遊牧民集団とは何か？</span>という部分を最初に扱いたいと思います。

　 遊牧は農耕、牧畜の延長として約８千年前頃に西のイラン高原と東のモンゴル高原でほぼ同時に始まります。ヤギや羊の家畜を連れ立って家族単位で動き、牧草地を求めて１年間を通して転々と移動、定住という形態を取らないのが遊牧民です。
やがて遊牧民も集団化し、近接する遊牧民の間で情報交換や縄張りの調整がなされます。急激な乾燥化や寒冷化に見舞われた中東はその後、<u>食糧の取り合いから略奪闘争</u>に発展しますが、モンゴル高原は比較的豊かで広い草原が在った為、遊<u>牧民集団は互いに連携を取り、連合という組織形態</u>を作っていきます。
<span style="color:#ff3300;">西の遊牧民が自然外圧が厳しくあっという間に皆殺しの玉突きから戦争集団に転化していったのに対して東の遊牧集団は長い遊牧民の歴史を経て戦争を抑止する組織論を編み出し、支配―服属の関係で統合する手法を取っていました。</span>
従ってモンゴル系の遊牧民の組織論とは<span style="color:#ff3300;">血縁を紐帯としながら、横に繋がる超集団を統合する共同体の延長</span>とも言えるのです。

書籍では以下のように書かれています。<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=137144">匈奴に見るモンゴル遊牧民の本源性</a>
<blockquote>＞<u>紀元前三世紀末</u>に冒頓単于（ぼくとつぜんう）が匈奴の騎馬民族国家を建設し、四隣に向かって積極的に軍事活動を起こしてから飛躍的に発展した。
彼らの社会構成は厳密な意味での氏<u>族や部族単位で服属させたわけではない</u>。血縁の近い十人の騎馬兵を最小単位とし、百、千、万の十進法単位のピラミッド体系で統合する、<u>きわめてシステマティックな社会統合組織である。</u>もちろん、この背後に騎兵たちの家族がいる。それらの統合者として諸種族の長を据え、様々な民族の連合体となったことで広大なモンゴル高原を支配・統合できたと考えられる。
<u>これらは匈奴以後に現れた突厥やモンゴル帝国などにも引き継がれる特徴である</u>。
彼らは略奪や殺戮も行ってきたが、<u>示威行為や話し合いなどで服属させ、可能な限り戦争を避けてきた</u>。～※参考文献「騎馬民族国家」江上波夫、「遊牧民から見た世界史」杉山正明　</blockquote>
<span style="color:#ff3300;">これがこれから示す遊牧民の基本的組織論なのです。</span>

さて、本題に戻ります。
中国の遊牧民支配の段階として大きく<span style="color:#009933;">４つの段階</span>に分けてみました。これらの段階の変化にはいくつかの要素がありますが、<u>中国を取り巻く周辺遊牧民の状態</u>がそれを規定しているようです。

 :m282: <span style="color:#009933;"><strong>第1段階：周辺遊牧民がまだ国家という形態になっていない段階</strong></span>
<span style="color:#ff3300;">周辺遊牧部族が中原に進出して交易と農耕の中心地を押さえる事で国家を形成した</span>　<span style="color:#ff3300;">夏、殷、周、春秋戦国</span>
～遊牧民と農耕民は圧倒的な人数差があり、農耕民の文化や思想を守る形でその上に遊牧民集団が形成されます。従って遊牧支配氏族は血縁で結ばれた選民集団でした。
<u>それぞれの遊牧民が農民と手を結び虫食い状に華北に集結したのが春秋時代であり、やがて武力による勝ち抜き戦が行なわれたのが戦国時代です。</u>しかしこの時代の戦争は農地の奪い合い、開発民の取り合いであり、農民が戦争に巻き込まれることは少なかったようです。従って漢代には中国は5000万人の人口を抱える事になります。

:m282: <span style="color:#009933;"><strong>第２段階：周辺遊牧民に武力国家が形成され拡大していった段階</strong></span>

<span style="color:#ff3300;">周辺遊牧民へ対抗する為に国家が形成、継続された。
秦、前漢</span>
～紀元前5世紀からモンゴル高原を中心に<u>匈奴</u>という組織が成長します。匈奴とは定まった氏族ではなく、トルコ、モンゴルから中国北部に渡る組織だった遊牧民の総称を指します。中国側が付けた名前で、<u>周代から戦国時代にかけての1000年間にモンゴル高原の遊牧民の組織化が進み</u>、また中国との遠隔交易によって鉄や銅を入手し武力を高めていった事を示しています。

この匈奴の組織論は後のモンゴル帝国に受け継がれ、<u>遊牧連合国家のモデル</u>となります。
つまり、周～春秋戦国時代に華北の豊かさが飛躍的に向上しましたが、同様にその周辺遊牧氏族もその時期に経済的恩恵を受け、成長していました。
中国を横断する万里の長城は匈奴がいかに強く、脅威であったかを物語る物証ですが、<u>匈奴は逆にこの時代、それまでの華北との経済的交渉が途絶え、西側へ勢力を拡大せざるを得なくなります</u>。4世紀には匈奴の一派であるフン族がボルガ川に進出、インドでは初代王朝のグプタ朝を同じく一派であるフーナ族が滅ぼしてインドに進出しました。
2世紀には匈奴帝国として国家的形態を取り、上記のようには西へ勢力を拡大、一部は<u>中国に圧力をかけるという形で中央アジアの勢力が拡大し、ひとつにまとまっていきます</u>。匈奴はこのように武力に特化した遊牧民として紀元前後を境に1000年間影響力を維持しますが、やがて内部分裂が起き、西（南）匈奴と東（北）匈奴に分かれます。<u>しかしこの分裂が以後の中国をさらに遊牧国家に変えるきっかけとなりました</u>。

 :m282: <span style="color:#009933;"><span style="color:#009933;"><strong>第３段階：中央遊牧民国家が中国に侵略する時代</strong></span></span>
<span style="color:#ff3300;">漢族が遊牧民国家と手を結び、やがて遊牧国家が中国化する時代
後漢、北魏、北朝、隋、唐</span>
<img alt="444px-1096894293955.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/444px-1096894293955.jpg" width="333" height="225" />

～この時代は後漢から始まりますが、それまでは中国の国家の秦に代表されるように周辺遊牧民を防ぎ、防御するという形で国家運営してきましたが、国力の弱体化と歩を併せて<u>中国側から最大の敵である匈奴に歩み寄り同盟を結ぶという転換が起きます</u>。後漢の皇帝は分裂後の南匈奴と手を結びます。しかし、その後中国に入り込んできた匈奴の一派に国内を蝕まれることになります。
中国史上最大の農民反乱である<u>黄巾の乱</u>です。この反乱の首謀者に匈奴がいたかどうかはわりませんが、<u>農民を横のつながり（幇）という組織で結びつけ国家権力に反旗を翻すこの手法は中央アジアの遊牧民の組織論と極めて似ています</u>。

そしてその反乱で人口が1/10に激減した華北に<u>北匈奴を組み込んだ鮮卑族が深く進出します</u>。鮮卑族はかつては匈奴の一派でしたが、分裂と同時に北匈奴を率いる中心氏族となります。
後漢が滅亡後、五胡十六国の時代に入り再び長い戦国時代に突入しますが、この時代を経て<u>隋、唐を作り出したのがこの鮮卑族でした</u>。鮮卑族はさらにこの時代に中国を足がかりに朝鮮半島、さらには日本まで進出し、その勢力を伸ばします。<u>以後の東アジアの歴史は鮮卑族が作り上げた組織論によって継続されていきます。</u>

彼らの取った手法がいわゆる騎馬民族の支配手法で、<u>その土地の文化や風土を最大限残してその上に支配者として君臨するという方法です</u>。
五胡十六国の時代に東晋を押さえた鮮卑族はその手法をさらに特化させ改革を断行しました。孝文帝（471～499在位）は都を華北の山西省の平城から華南の洛陽に移したのを初め、胡服ならびに朝廷における鮮卑語の使用を禁止、漢字で2文字以上がふつうの姓を漢人風に一字に改めるなど大胆な改革を行い鮮卑の漢人化を推し進めました。
<u><strong>つまり支配した国に支配者自身が帰化するのです。</strong></u>そして一旦帰化してその頂点に立って以降は、鮮卑族のスタイルを土着民族に押し付け拡げていきます。このように鮮卑族と漢族が合体したと言われる隋、唐も基本は鮮卑族の支配国家なのです。

従って隋・唐はそれまでの中国史にない<u>華美で侵略性の強い国家</u>となっていきます。
実際、唐は中国で始めて西を侵略した国であり成功はしませんでしたが、常に周辺国を武力と朝貢で支配服属関係においておく外交政策を取り続けた。しかしこの唐も中央アジアで力をつけた最大勢力突厥によって国内での内紛を引き起こされ、弱体化していきます。

 :m282: <span style="color:#009933;"><strong>第４段階：中央アジアの覇者モンゴルの影響を受けた時代</strong></span>
<span style="color:#ff3300;">今日の多民族国家、商業国家の基礎が出来上がる
元、明、清、中華民国、中華人民共和国</span>

～唐の滅亡の後、中国は再び分裂の時代を迎えますが、実はこの時期が最も遊牧民の影響が少なかった時代でした。<u>南に拠点を持った宋はその中で中国史上初めて庶民や民間人に脚光が当たった時代でした。</u>この時代は中央アジアでは帝国が次々と交代していった時代です。
匈奴の消滅の後、<u>柔然が４世紀から５５２年</u>まで帝国を続け、その後<u>突厥が200年間モンゴル高原を支配</u>します。<u>745年からはウイグル帝国</u>が起き、<u>9世紀から10世紀には東の端にある契丹</u>が制覇します。
その都度時の王朝である唐との関係を築き、契丹は唐を攻め立て、<u>遼帝国</u>を作り華北の一部に割譲を受けます。この遼を引き継いだのが女真族の金であり、<u>その同盟諸国のチンギスハーンがモンゴル高原で力を付け始めていきます。</u>

それまでの中国の遊牧民支配は<u>常に母体である中国国土が優位でしたがこの時代初めてモンゴルによって中国は被支配という立場に入ります。</u><strong><u>それまでの確固たる中華思想が解体しはじめた時代です。</u></strong>
中国とは世界で最も優秀な漢民族による皇帝の為の国家であり、国民は皇帝の所有物であるといった秦代からの中華思想、徳化政策はこの時代を境に緩んでいきます。

もちろん現在でも中華思想は残り、一党独裁の支配者による国民所有の意識は残存していますが、<u>それはそれまでの時代の残存物</u>に過ぎないのではないでしょうか。
中国の国境はフビライハーンによって治められたチベット高原まで拡大し、それが現在の中国の国境を形作りました。<u>従って中国とは、漢民族ではない多民族国家としてその後、継続されます。</u>何より元の支配によって変わったのが<u><strong>商業国家中国</strong></u>です。現在でも貨幣単位が元で示されているように、元の時代にユーラシア大陸広域の通貨が統一され、商業網が拡大しました。

↓ネットに「中央アジアと中国の国境の動き」を動画で示したサイトがありました。
面白いのでクリックしてみてください。今回の記事とも連動する遊牧民の動きが見て取れます。
<a href="http://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf">動画</a>

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このように時々の遊牧民の影響を常に受け、匈奴、鮮卑、モンゴルと中央アジアの支配者の力学で変化していったのが大国中国です。
しかし、常に前代の王朝のシステムを継承し、それを先鋭化させていくという方法は　<span style="color:#ff3300;">いかにもどの時代を取っても支配者は同郷である中央アジアの遊牧民</span>であることを示しています。その意味で<span style="color:#ff3300;">徹頭徹尾遊牧民による支配国家が中国という国家の実態なのでしょう。</span>また別の視点でみれば時代を経るに連れ、<span style="color:#ff3300;">周辺の遊牧民国家と同化し国境や違いがなくなっていった</span>のが中国なのではないかと私は見ています。

遊牧民の国、<span style="color:#ff3300;">中国という視点は、商業、政治だけでなく人脈構築や底辺に横たわる集団の有り様</span>にまで浮き彫りにさせていきます。
今回は遊牧民の支配という視点で中国の歴史を見てきました。次回は、被支配者である庶民の側から見た中世の中国史を見ていきたいと思います。今回の記事にも登場している幇（ばん）の謎に迫ります。ご期待下さい。

参考文献　「日本人の為の歴史学」　岡田英弘著
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/20120122014902551_00011.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/20120122014902551_00011.html','popup','width=3508,height=2480,scrollbars=no,resizable=toolbar=directories=location=menubar=status=left,top); return false">参考地図　「最新世界地図説　タペストリー」　帝国書院</a>
↑クリックで中国の各段階の遊牧民国家国境がわかります。]]>
   </content>
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   <title>第３部　「庶民が作り出したお上意識」～お上意識の醸成過程</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001366.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2012:/blog//1.1366</id>
   
   <published>2012-01-18T16:14:20Z</published>
   <updated>2012-01-18T16:56:38Z</updated>
   
   <summary>シリーズ「日本人はいつものを考えはじめるのか？」もいよいよ第３部に入ります。 これまでのシリーズ投稿を並べてみます。 第1部「弥生時代の解明シリーズ」 １倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか？ ２倭人は、どのように縄文人と融合していったか？  ３弥生時代は階層化していたのか？ ４神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立 第2部「支配者からみた属国意識」 １朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか？ ２朝鮮支配者が来る前夜の状況 ３支配者層はなぜ庶民に配慮したのか？ ４支配者が作り出した天皇主義１ 　支配者が作り出した天皇主義２ 　支配者が作り出した天皇主義3 ５武士とは日本の支配史にとって何か この1部、2部で日本の縄文社会から弥生時代、さらにその後の大和朝廷以降の朝鮮系支配者による日本の支配者の側からの歴史史観を扱ってきました。 第２部では属国意識で凝り固まった朝鮮系支配者が日本に渡来して以降、すでに各地に根を広げていた弥生人集団をそのまま温存する形でその上に乗っかって支配した状況を扱いました。さらに日本に来た横暴な朝鮮系支配者が大衆に配慮するという政治手法を取る事になります。支配者も日本に渡来し、縄文体質に触れ、変化して行ったのです。 リンクよりお借りしました。 さて、今回の第３部ではこの支配者の意識を受けて、庶民はどのように上を見ていたのか？従ってきたのか、それを追求していきたいと思います。 いつも応援ありがとうございます。        ...</summary>
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      <name>tano</name>
      
   </author>
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[シリーズ「日本人はいつものを考えはじめるのか？」もいよいよ第３部に入ります。
これまでのシリーズ投稿を並べてみます。

<strong>第1部「弥生時代の解明シリーズ」</strong>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/11/001349.html">１倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001351.html">２倭人は、どのように縄文人と融合していったか？</a> 
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001358.html">３弥生時代は階層化していたのか？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001364.html">４神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立</a>

<strong>第2部「支配者からみた属国意識」</strong>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/11/001345.html">１朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001346.html">２朝鮮支配者が来る前夜の状況</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001350.html">３支配者層はなぜ庶民に配慮したのか？</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001355.html">４支配者が作り出した天皇主義１</a>
　<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001356.html">支配者が作り出した天皇主義２</a>
　<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001357.html">支配者が作り出した天皇主義3</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001354.html">５武士とは日本の支配史にとって何か</a>

この1部、2部で日本の縄文社会から弥生時代、さらにその後の大和朝廷以降の朝鮮系支配者による日本の支配者の側からの歴史史観を扱ってきました。

第２部では属国意識で凝り固まった朝鮮系支配者が日本に渡来して以降、すでに各地に根を広げていた弥生人集団をそのまま温存する形でその上に乗っかって支配した状況を扱いました。さらに日本に来た横暴な朝鮮系支配者が大衆に配慮するという政治手法を取る事になります。<span style="color:#ff3300;">支配者も日本に渡来し、縄文体質に触れ、変化して行ったのです。</span>

<img alt="imagesCADDWUKZ.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/imagesCADDWUKZ.jpg" width="261" height="193" />
<a href="http://ameblo.jp/tsukasaview/entry-10292048595.html">リンク</a>よりお借りしました。

さて、今回の第３部ではこの支配者の意識を受けて、庶民はどのように上を見ていたのか？従ってきたのか、それを追求していきたいと思います。

いつも応援ありがとうございます。
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]]>
      <![CDATA[支配者が下へ配慮するというのが日本固有の特徴であるとすれば、それを促したのが全く無抵抗で受け入れた庶民の側の<span style="color:#ff3300;">受け入れ体質</span>でした。しかしこの受け入れ体質にはプラスとマイナスの側面があります。プラス側は縄文人が海外から来る様々な人、物を<span style="color:#ff3300;">無条件で受け入れる歓待意識</span>です。そこには警戒心が少なく、渡来してくるものを常に新しいもの、吸収すべき対象として積極的に受け入れました。これは縄文時代1万年間かけて作り上げた大陸の東の果、全てのものが終着する島国ゆえの産物です。しかし、今回扱う <span style="color:#ff3300;">お上意識</span>はこの縄文体質故の受け入れ体質から生み出された歪んだ意識＝マイナスの意識なのです。

お上意識は現在でも残っており、２つの特徴があります。
一つは社会統合課題を政治家や官僚にまかせる、或いは口を出さないといった <span style="color:#ff3300;">お任せ意識</span>です。もう一つは、お上＝役人や政治家の存在を軽視したり無視する <span style="color:#ff3300;">お上捨象の意識</span>です。
諸外国でも政治や官僚が庶民を支配し、庶民は従うしかないという形はありますが、それは独裁政権か奴隷社会のいずれかを指します。日本のような民主主義の国でこれほど大衆が政治に無関心あるいは無抵抗な国はかなり珍しく、その本質には日本国形成時に形成されたお上意識があるのでしょうか。<strong>この意識に支配されている以上、今後も変わる事はできないし、迫り来る危機に国民として適応できないという問題が浮上します。</strong>

さて、このお上意識を解明する為にまずはお上が登場する<span style="color:#ff3300;">大和時代</span>にタイムスリップしてみたいと思います。

 :m281:<span style="color:#6666ff;">お上の到来～水と油の関係で始まる庶民とお上</span>
４～５世紀に日本に渡来した朝鮮系騎馬民族は大量の武力と大陸の進んだ鉄技術、騎馬技術を擁して土着民であった弥生人を征圧します。しかし武力を用いたのはせいぜい脅しや見せしめ程度で、実際にはほとんど<span style="color:#ff3300;">戦いなしで弥生人を従える</span>事ができました。

この朝鮮系渡来民は弥生時代に日本列島に渡来した江南系の中国人とは根本的に異なっていました。江南系渡来民は土着縄文人に融合して彼らの精霊信仰を祖霊信仰に変えながら共同体を温存させます。首長として集団を統合しますが、支配―被支配の関係ではなく、神事によって緩やかに統合されていました。また、氏族の集団同士の関係も古墳を作り「連合」という形で争いは止揚されていたのです。彼らの中には異国の地であたらな集団を作るという意識はあっても土着の民を武力で支配するという意識はほとんどありませんでした。

ところが朝鮮半島で既に戦争、略奪を経験し、その中で、ある時代まで勝ち抜いてきた騎馬民族は<span style="color:#ff3300;">発想が全く違っていました。</span>
元々遊牧騎馬民族出身の彼らは動物の去勢の原理を利用して大衆を支配する手法を身につけています。さらに列強中国に挟まれて戦乱を生き抜く中で下（大衆）には横暴、上（中国）には従順という歪んだ属国意識を形成していました。
そのような支配者が日本に渡来したのです。当然それまで戦争をほとんど知らない弥生人はあっという間にその配下に落ちます。その時の弥生人の意識は<span style="color:#ff3300;">武力をちらつかされ、やむなく従ったという状態</span>だったでしょう。このやむなくの意味は<span style="color:#ff3300;">共同体を守る為に首長が取った選択でした。</span>もちろん別の選択肢として踏み留まって戦うという選択肢もありました。しかし彼らが選んだのは前者でした。
このように後に「お上」となった勢力は圧倒的な力の差をもった武力集団で当時の弥生人にとっては<span style="color:#ff3300;">明確な敵でした。</span>当然大衆とお上は<span style="color:#ff3300;">水と油の関係</span>で全く交わる部分はなかったと思われます。

この水と油の敵意識から庶民は時の支配者を「お上」と呼び、決して相容れない関係を作り出しました。しかし敵意識があるにも関わらず<span style="color:#ff3300;">戦いから避けたのは確かで、お上意識とは逃避でもあったのです。</span>

さて、この水と油の関係はその後どのようになっていくのでしょうか？
<span style="color:#6666ff;">３つの段階</span>に分けてこの関係の変化を見ていきたいと思います。

 :m281: <span style="color:#6666ff;">第一段階　：奈良時代～平安時代中期⇒お上意識の生成過程</span>
<strong>お上が始めた律令制はわずか50年しか続かなかった。
なかなか根付かなかったお上の政策～政策を変えざるを得なかったお上と、無視することで抵抗し続けた庶民。</strong>　

<blockquote>朝鮮系渡来民の支配集団＝朝廷は白村江の敗北によっていよいよ唐からの支配圧力を現実のものとして受け始めます。そこから数十年は防衛施設の建設、朝廷組織の集約を図り、やがて奈良時代初頭に大宝律令の発布と併せていよいよ中国型の律令制度を導入します。朝廷組織に加え、戸籍制度、徴税システム、土地制度など中国を真似た制度が日本に大量に登場します。特に大衆を支配するための租庸調の制度は大宝律令と同時に発布され、また地方の国造は郡司となり、それを中央から統括する国司が配備されます。

<u>しかし、この中国式中央集権体制はわずか50年足らずで完全に崩壊、土地制度は全く根付かず、朝廷の繰り出す政策はどんどん破られ、平安時代後期には全く異なる税制、統合体制に変化していきます。</u>
<span style="color:#ff3300;">723年三世一身法⇒743年墾田永年私財法⇒765年加墾禁止令⇒9世紀　荘園開発</span>
へと土地の所有、開墾に関する法令が変遷していきます。特に課役が厳しいと庶民は土地を捨てて逃亡したり、戸籍を偽って（僧や女）懲役を免れたりして抵抗しました。

本国中国であればさながら死罪に値するこの大衆の背任行為を朝廷は抑え込むことができず、追認し制度を変えざるを得なかったというあたりが実に<u>支配者と大衆の関係を象徴しています。</u>つまりこの時代の大衆と朝廷の関係は兵力であり生産主体の大衆がむしろ上にあったという事を示しています。<u>したがってこの時代の共同体は多くは旧来のまま温存された</u>と思われます。</blockquote>

 :m281: <span style="color:#6666ff;">第二段階　平安時代末期～鎌倉時代⇒武士が登場するもお上意識は残存</span>
<strong>お上と庶民が互いに利用し始めた時代、さらに武士がお上の手先として利用され、武士はお上を重用した。お上は下に配慮、庶民はお上を無視が定着。</strong>

<blockquote>大衆とお上の関係は徴税が緩かったり、大衆の納得の枠の中であれば許容されますが、それを上回ったり、一方的な搾取になると申し立てや反乱が起き、朝廷は何らかの手を打たざるを得ないという関係にありました。
お上を軽視する体質が定着し、お上の決めた法制が庶民に浸透しないというジレンマにこの時代もあったと思われます。しかしながら、庶民<u>からすればお上の存在が明確に意識された時代でもあり、自らの存在（共同体）を脅かす行為に出れば強烈に反発した</u>のもこの時代でした。

鎌倉時代に武士誕生を迎えますが、平安末期には唐の圧力がほとんど無くなったことを契機に中央（お上）は武力を完全に放棄し、贅を尽くした朝廷生活に埋没します。有事の際には地方から兵力を召集するという形態を取るようになって地方の武力が増大、併せて海賊、盗賊がその隙間を縫って暗躍するようになります。戦乱が各地で起こるようになり、村落自治はそれぞれで自衛軍を備える必要から用心棒としての武士を抱える事になります。これが後の武士登場のきっかけとなっていきます。

鎌倉時代に入ると武士という階級が認められ、<u>武士は朝廷（＝天皇）から任命を受けて</u>地方の統轄を行なうようになります。しかしこの武士の登場は逆<u>にお上の力を高める事</u>にもなっていきます。庶民の側から発生した武士は<u>心根ではお上を無視しながら、己の地位を向上させる為にお上の威光を利用していきました。</u><u>捨象しながら利用する。この時代のお上も武士から見て同じ構造にありました</u>。</blockquote>

 :m281: <span style="color:#6666ff;">第三段階　室町～江戸時代⇒惣村の始まりによって地方自治が形成。</span>
<strong>自治組織は村の事は考えるがそれを統合するお上の課題（＝社会）は捨象⇒社会捨象</strong>

<blockquote>14世紀から15世紀にかけて<u>惣村</u>という村落形態が畿内を中心に登場します。ちょうど武士が登場して300年経過した時代です。この惣村が現在の村落共同体の原型になっており、地方自治の前段にもなっています。惣村では入会地を設け、肥料や用水を共同管理、荘園領主からの収奪に対する減免要求、国人の非法に対する抵抗、戦乱、略奪に対する自衛などの目的がありました。寄り合いや祭祀行事を定例化し、惣村内での規範として惣掟を作ります。国や領主に対する目付け機関となるだけでなく、いざとなれば土一揆となって武力行使する主体でもありました。
この時代のお上とは領主であったり、地域を仕切る武家だったのでしょう。

荘園制度で一旦崩れた村落共同体の絆が再生されていく課程です。土一揆などで一見庶民も武力対決したように見えますが、<u>ほとんどは厳しい徴税を受けながら、共同体内での充足を作り出し、耐え凌いだ時代でした</u>。社会課題を担う<u>お上はその共認の外</u>にあり、庶民にとっては<u>逆らえないが存在は認めたくない＝無視</u>という位置にあったと思われます。この惣村の形成とは村意識の形成過程でもあり、<u>お上意識が社会捨象に昇華した</u>時代であったとも言えます。</blockquote>

<img alt="128.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/128.jpg" width="200" height="200" />　<img alt="ba394468c7df99bc8f892d7ced2de7ea.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/ba394468c7df99bc8f892d7ced2de7ea.jpg" width="260" height="200" />
お上と<a href="http://yaplog.jp/yasu-chin/archive/130">庶民</a>よりお借りしました。　

この３つの時代を経て見て来ましたが、<span style="color:#ff3300;">いずれもお上捨象の姿勢は一貫しています</span>。
一揆や反乱が時代の中で何度か発生しますが、中国の農民の反乱に比べればはるかに小さく、総じて従順にお上に従っていたと言えます。また、一揆をおこしたり訴状をお上に上げる際に庶民の意識は共同体の存続が危ぶまれた時に限られています。
一方でお上の方は徴税を厳しくしたり緩めたりしますが、あくまで共同体が維持できる範囲の中でその強弱は決まっていました。即ち、<span style="color:#ff3300;">庶民もお上も秩序維持で課題が一致していた</span>と言えます。
庶民側から見れば共同体さえ維持できればお上の為政には口を挟まない（おまかせ）
お上の側からすれば、共同体さえ守っておけば多少の厳しい徴税は可能。
<span style="color:#ff3300;">結果、集団を超えた課題は全てお上が取り仕切り、庶民はその為の税を納めるという関係に時代を経て終始していきます。</span>
 :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165:  :m165: 
しかし、このお上主義とは結果的には共同体の秩序維持の為に形成された意識と言え、裏返せばお上に逆らえば共同体を壊されるという恐怖と隣りあわせだった事を示しています。
結果的にお上を無視し（口を出さない）ながらもお上に服属すると言う矛盾した関係が形成されるのです。<span style="color:#ff3300;">しかしここまではお上の共同体への配慮と大衆側のお上への期待が噛み合っていた時代、</span>住み分けが成されていた時代でした。

言い換えれば、<span style="color:#ff3300;">庶民はお上に甘えて社会の事は一切お上に任せるという社会捨象の体質</span>が作られていった過程でした。

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しかし、明治以降の市場社会に入ると一変します。市場社会に入りその主役である金貸したちは秩序崩壊をその成長の源泉としてきました。以後の歴史はお上からの大衆配慮が消えていった時代です。また敗戦以後の都市化により共同体は崩壊、今や庶民にとってお上とは敵ではあっても捨象できない存在になっているはずです。
<span style="color:#ff3300;"><strong>現在、お上（官僚）が暴走し、社会課題がこれだけ登場しながらも、誰も社会の事を正面から考える事をしないとしたら、このお上意識とは闘いから逃避する意識であり、手に負えない社会を考える事を放棄＝捨象した意識ではないでしょうか？</strong></span>

お上意識の形成過程を図式化してみます
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E3%81%8A%E4%B8%8A%E6%84%8F%E8%AD%98%E5%9B%B3%E8%A7%A3.xls_1022.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E3%81%8A%E4%B8%8A%E6%84%8F%E8%AD%98%E5%9B%B3%E8%A7%A3.xls_1022.html','popup','width=874,height=620,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="%E3%81%8A%E4%B8%8A%E6%84%8F%E8%AD%98%E5%9B%B3%E8%A7%A3.xls_52.5.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E3%81%8A%E4%B8%8A%E6%84%8F%E8%AD%98%E5%9B%B3%E8%A7%A3.xls_52.5.jpg" width="450" height="300" />
</a>

しかし現在また、若者を中心に新たな潮流が起きています。<span style="color:#ff3300;">お上に任せるのではなく自らが考える、社会を変えていく意識が登場してきています。</span>事例は悪いですが、橋元知事や維新の会が若者に受けが良いのも彼らの意識の代弁者と捉えたのでしょう。また、この成人式で若者たちの意識の中で社会を変えたいという塊が登場しています。お上意識からの離脱です。この可能性の追求についてはまた後の章で扱っていきたいと思います。
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   <title>シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか？」 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ８～諸子百家とはなんだったのか</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001365.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2012:/blog//1.1365</id>
   
   <published>2012-01-16T14:45:00Z</published>
   <updated>2012-01-24T16:03:36Z</updated>
   
   <summary> 　   諸子百家とは、いまから約2600年前からの300年間、中国の春秋戦国時代に現れた多くの思想家（遊説家）たちのことを指します。   なぜ、中国でこの時代、多くの思想家が登場したのか。それはその後の中国にどのように影響したのか。それを明らかにします。まずは、諸子百家の思想がどのようなものだったのか、概要を押さえます。 　   そもそも諸子の思想の内容は？   時代は春秋戦国、群雄割拠。富国強兵のためには、いかにして人民の生産力を高め、納税・労役・兵役をさせるかが必要になります。そのために、人民をどう治めるかという発想に基づく政治学説が発達しました。 　  どれほど多くの思想が登場したのか。今から約1900年前、後漢時代の『漢書』芸文志(げいもんし)の「諸子略」には189家、4324篇の書が記されています。中でも代表的なものは儒家、法家、墨家、道家、名家、陰陽家、縦横家、農家、兵家です。   ①儒家（孔子2500年前・孟子2300年前・荀子2250年前） 孔子は西周時代初期の政治思想である「礼」の復活をめざした。天命思想を起原とし、従来の貴族政治の形式を尊重しながらも、法制の整備に反対した。家族や親族の間の道徳秩序（孝・悌）を基礎として仁の世界を実現することをめざし、徳をもって民衆をみちびく徳治主義を主張した。孟子は、人の本性は善（性善説）であり、徳をもって天下を治める王道政治を強調した。後の荀子になると、人の本性は欲望に弱いもの（性悪説）であり、その是正に礼が必要であると説いた。礼は国家の諸制度までをも含み、法治主義への道をひらいた。   ②法家（商鞅2350年前・韓非2250年前） 商鞅は、儒家の徳治を法治に置きかえて、信賞必罰を政治の基本的手段とすることを主張した（法治主義）。法の有効な行使によって業績をあげる必要と、空理空論を克服し実効をあげる理論を強調した。秦に仕え、什伍制(隣保同責)、分異の法(分家移住)を実施した。のちの韓非は、儒家の荀子に学び、商鞅の法思想を継承した。   ③墨家（墨子2400年前） 孔子の仁、家族道徳や礼の形式は、差別愛として非難し、人間相互の広い愛と助け合い（兼愛）を説いた。相互扶助(交利)・国家間の非戦(非攻)を説き、その思想の基盤の上に勤倹節用・薄葬などの具体的政策を展開した。儒家と激しく論争し、強力な教団を形成した。   ④道家（老子2450年前、荘子2300年前） 老子は儒家の徳を低次元のものとして否定し、無為自然・小国寡民(自給自足の農村)こそ真の道であると説き、自然と人間の調和や「無為にして化す」平和非戦の政治道徳を強調した。後世、神仙説、陰陽五行説と結合し、道教を生んだ。荘子は老子の「道」に基づき、個人的解脱を重視し、自我を去って万物の絶対性に従うことを説いた。   ⑤名家（恵施2380年前、公孫竜2300年前） 論理学、名(概念)と実(実体)の関係を研究。非戦から認知主義を主張するが詭弁に陥った。公孫竜の名言（迷言）に「白馬は馬にあらず」がある。   ⑥陰陽家（鄒衍すうえん2250年前） 万物は陰と陽に分類されるという陰陽思想を説いた。陰陽説は、自然と社会の現象を陰陽二元の相反と相互依存によると説いた。その影響を受けて宇宙生成を、木・火・土・金・水の５要素の消長によって説いたのが五行説。   ⑦その他 「戦わずして勝つ」ことを最上の策としながらも、戦略戦術を説く兵家（孫子・呉子）、外交政策に特化し、強国秦に対して、東方6国の連合同盟(合従策)や秦と各国の同盟(連衡策)を唱えた縦横家（蘇秦、張儀）、君民並耕による一種の無政府主義を説く農家（許行）、各派の思想を参酌し、総合化しようとして雑家、故事や民間の風俗をまとめた小説家。   このような多種多様な思想家たちがなぜ登場したのでしょうか。 　 　 応援クリックお願いします。 :lol:      ...</summary>
   <author>
      <name>kumana</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅴ中国文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<img alt="shoshi%20kao.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/shoshi%20kao.jpg" width="437" height="310" />
　  
諸子百家とは、いまから約2600年前からの300年間、中国の春秋戦国時代に現れた多くの思想家（遊説家）たちのことを指します。
 
なぜ、中国でこの時代、多くの思想家が登場したのか。それはその後の中国にどのように影響したのか。それを明らかにします。まずは、諸子百家の思想がどのようなものだったのか、概要を押さえます。
　
 
<span style="font-size:130%;"><strong><span style="color:#000080;">そもそも諸子の思想の内容は？</span></strong></span>
 
時代は春秋戦国、群雄割拠。富国強兵のためには、いかにして人民の生産力を高め、納税・労役・兵役をさせるかが必要になります。そのために、人民をどう治めるかという発想に基づく政治学説が発達しました。
　 
どれほど多くの思想が登場したのか。今から約1900年前、後漢時代の『漢書』芸文志(げいもんし)の「諸子略」には189家、4324篇の書が記されています。中でも代表的なものは儒家、法家、墨家、道家、名家、陰陽家、縦横家、農家、兵家です。
 
<strong>①儒家（孔子2500年前・孟子2300年前・荀子2250年前）</strong>
孔子は西周時代初期の政治思想である「礼」の復活をめざした。天命思想を起原とし、従来の貴族政治の形式を尊重しながらも、法制の整備に反対した。家族や親族の間の道徳秩序（孝・悌）を基礎として仁の世界を実現することをめざし、徳をもって民衆をみちびく徳治主義を主張した。孟子は、人の本性は善（性善説）であり、徳をもって天下を治める王道政治を強調した。後の荀子になると、人の本性は欲望に弱いもの（性悪説）であり、その是正に礼が必要であると説いた。礼は国家の諸制度までをも含み、法治主義への道をひらいた。
 
<strong>②法家（商鞅2350年前・韓非2250年前）</strong>
商鞅は、儒家の徳治を法治に置きかえて、信賞必罰を政治の基本的手段とすることを主張した（法治主義）。法の有効な行使によって業績をあげる必要と、空理空論を克服し実効をあげる理論を強調した。秦に仕え、什伍制(隣保同責)、分異の法(分家移住)を実施した。のちの韓非は、儒家の荀子に学び、商鞅の法思想を継承した。
 
<strong>③墨家（墨子2400年前）</strong>
孔子の仁、家族道徳や礼の形式は、差別愛として非難し、人間相互の広い愛と助け合い（兼愛）を説いた。相互扶助(交利)・国家間の非戦(非攻)を説き、その思想の基盤の上に勤倹節用・薄葬などの具体的政策を展開した。儒家と激しく論争し、強力な教団を形成した。
 
<strong>④道家（老子2450年前、荘子2300年前）</strong>
老子は儒家の徳を低次元のものとして否定し、無為自然・小国寡民(自給自足の農村)こそ真の道であると説き、自然と人間の調和や「無為にして化す」平和非戦の政治道徳を強調した。後世、神仙説、陰陽五行説と結合し、道教を生んだ。荘子は老子の「道」に基づき、個人的解脱を重視し、自我を去って万物の絶対性に従うことを説いた。
 
<strong>⑤名家（恵施2380年前、公孫竜2300年前）</strong>
論理学、名(概念)と実(実体)の関係を研究。非戦から認知主義を主張するが詭弁に陥った。公孫竜の名言（迷言）に「白馬は馬にあらず」がある。
 
<strong>⑥陰陽家（鄒衍すうえん2250年前）</strong>
万物は陰と陽に分類されるという陰陽思想を説いた。陰陽説は、自然と社会の現象を陰陽二元の相反と相互依存によると説いた。その影響を受けて宇宙生成を、木・火・土・金・水の５要素の消長によって説いたのが五行説。
 
<strong>⑦その他</strong>
「戦わずして勝つ」ことを最上の策としながらも、戦略戦術を説く兵家（孫子・呉子）、外交政策に特化し、強国秦に対して、東方6国の連合同盟(合従策)や秦と各国の同盟(連衡策)を唱えた縦横家（蘇秦、張儀）、君民並耕による一種の無政府主義を説く農家（許行）、各派の思想を参酌し、総合化しようとして雑家、故事や民間の風俗をまとめた小説家。
 
このような多種多様な思想家たちがなぜ登場したのでしょうか。
　
　
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      <![CDATA[<span style="font-size:130%;"><strong><span style="color:#000080;">多くの思想が登場した社会背景はなにか</span></strong></span>
　
当時の社会状況や思想の内容・登場時期を照らし合わせてみます。当時の国家（諸侯国）の期待＝<span style="color:#ff3300;"><strong>国家需要</strong></span>に応えるために、儒教を本流としながら、これに対抗（よく言えば新たな可能性探索）するため各思想家が登場しているのがわかります。
　
<img alt="shoshisougou2.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/shoshisougou2.jpg" width="396" height="559" />
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/shoshisougoupup.pdf">図を拡大して見る（PDFファイルをダウンロード）</a>

　
周代末期、周王朝の行き詰まりという現実の中、<strong>儒教</strong>は周代の思想や学問を基盤とし、その思想の復興・再生を目指します。当時の保守派です。
　
一方、周代の思想ではうまくいかなかったこと、かつ、戦争(同類闘争)圧力の拡大という現実に対して、新たな社会思想の探索の結果として、まずは戦争という現実を直視し、戦術論に徹した<strong>兵家</strong>や戦争を否定し、儒家を徹底的に批判した<strong>墨家</strong>が登場します。
　
更に、戦国時代、緊張圧力の高まりに対応し、外交戦術を追求した<strong>縦横家</strong>、農民層の疲弊状況に呼応した、<strong>道家</strong>や<strong>農家</strong>が登場します。中でも法家は、儒家の性善的立場の限界から性悪説を徹底し、<strong>法治主義</strong>を打ち出し、秦の中国統一を通じて戦国時代を制します。
　
　　　
また、思想家たちが登場した直接の目的は、官僚として登用されることでした。したがって、各国が諸子百家といわれる人々を養うだけの<strong>経済力</strong>を有していたことが不可欠の条件でした。
　
塩の交易などで当時最も豊かだった斉の国では70人余りの思想家を貴族待遇とし、それを聞きつけた何千人もの思想家を受け入れ、中世ヨーロッパの起源大学のような組織「<span style="color:#ff3300;">稷下学宮</span>」を持っていました。これは、中世ヨーロッパにおける金貸し＝パトロンの下で近代思想が生まれた状況に類似しています。ギリシャ哲学、仏教(釈迦)、ユダヤ教(預言者)は一部の支配層だけが追求しており、少し様相が異なります。
　
　
<span style="color:#000080;"><span style="font-size:130%;"><strong>諸子百家の思想は、具体的にどのように活かされたのか</strong></span></span>　
　
法家の代表的思想家、商鞅の政策は、当時の農村集落の組織を一変させ、彼が仕えた秦を統一王朝に導いたという意味で、重要です。また、内容を見ると、儒教の「性善説」とは正反対の「性悪説」に基づく、容赦の無い法治主義が如実に表れています。
　
<strong>●第一次変法（約2370年前）</strong>
<blockquote>○戸籍を設け、民衆を五戸（伍）、または十戸（什）で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。 
○一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。 
○戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。 
○男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をしたり怠けたりして貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。 
○特権階級といえども、戦功のない者はその身分を剥奪する。 
○法令を社会規範の要点とする。</blockquote> 
　
<strong>●第二次変法（約2360年前）</strong>
<blockquote>○父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。 
○全国の集落を県に分け、それぞれに令（長官）、丞（補佐）を置き、中央集権化を徹底する。 
○井田(せいでん)＝納税用耕作地を廃し田地の区画整理を行う。 
○度量衡の統一。</blockquote>　
上記の政策の徹底により、共同体的集団は名実ともに悉く解体されたことが窺い知れます。
　
　
<span style="color:#000080;"><span style="font-size:130%;"><strong>諸子百家は只者ではない</strong></span></span>
　
法家の商鞅にまつわるエピソードから、諸子百家たちの卓越した弁舌・論理性の一端に触れてみましょう。以下の問題に即答できれば、あなたも諸子百家レベルです。
　

商鞅は魏の国に仕えた。魏の宰相(官僚ﾄｯﾌﾟ)が死去する際に、魏の王に自らの後継の宰相として商鞅を推挙した。しかし王はこれを受け入れなかった。宰相はこれを見て商鞅に忠告する。「商鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私は（王に）お前（＝商鞅）を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方が良い。」と云った。

<u>Ｑ：商鞅はどうしたでしょう<span style="color:#ff3300;"><strong>？</strong></span> :confused: </u>答えは記事の末尾にあります。（が :m042: すぐ見ない :m049: ）
　
　
<span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:130%;">この時代の中国に多くの思想家が登場したのはなぜか</span></strong></span>
　
諸子百家登場前夜、周王朝は強権的な政治は行わず、徳によって人民を治める徳治主義を貫きました。地方の諸侯は邑という共同体を基盤とし、人民や諸侯の自主性を重んじた封建体制で統治されていました。それが約300年間続き、諸侯は力を付けていきます。
　
そして2800年前、周王朝は崩壊します。諸侯は力を蓄えており、どの国も覇者になる可能性があります。支配するか、支配されるか、群雄割拠の時代に突入します。現にこの時代、覇者は数十年ごとに入れ替わります。
　
周りは全て敵、戦々恐々とする状況の中、各国は富国強兵に邁進します。それを既定するのは軍勢を養う生産力、つまり農民(大衆)の活力です。また、戦国時代になると、戦争は長期戦となり、兵力増強のため農民までも駆り出されるようになります。こうなると益々、大衆(農民)レベルまでの活力創出や統制が必要です。
　
西洋であれば、農民は奴隷扱いであり、力で押さえつければよかったのですが、中国では違います。自然外圧がそれほど厳しくなかったため、支配民族は皆殺し的な戦争には至らず、元々の氏族集団を温存したまま農耕民を支配しました。支配部族が本源性を有していたため、支配の仕方も、被支配民の本源集団を温存し、その自主性を活かしながら統治する服属支配が旨でした。
　
したがって、武力を背景にしながらも、私権確保の可能性は誰にも開かれていました。非現実世界を説く宗教は必要とされなかったのです。国が戦争に勝利することは自らの農地拡大に直結するように、国家の目的、そのための思想は、末端まで統合される政治思想と直結するものでした。
　
支配層から大衆までをも一貫する<span style="color:color;"><strong><span style="color:#ff3300;">私権確保</span></strong></span>の目標。これを実現するための<span style="color:color;"><strong><span style="color:#ff3300;">統合思想</span></strong></span>への期待。それを実践する<strong><span style="color:color;"><span style="color:#ff3300;">官僚</span></span></strong>という役割への収束。そして、多くの官僚を登用しうる各国の<span style="color:color;"><strong><span style="color:#ff3300;">経済力</span></strong></span>。中国において諸子百家を登場させた、帝国王朝成立前夜の状況です。
　
群雄割拠の戦乱期、各国が富国強兵を推進し、覇者となり各国を支配するため求められた高度な思想や制度的方法論。そのような各国の現実的な<span style="color:color;"><strong>統合期待</strong></span>（政治的要請）に応えるため登場したのが諸子百家です。
　
　
<span style="color:#000080;"><span style="font-size:130%;"><strong>その後の歴史にどのように影響したのか</strong></span></span>
　
春秋戦国の世は、<strong><span style="color:color;">法治主義</span></strong>を取り入れた秦が制し、始皇帝が中央集権国家をつくります。しかし、徳治主義に基づく封建体制が色濃く残存する諸侯に反発を買い、浸透せず、長続きしませんでした。
　
秦滅亡後、漢は周代の思想に回帰し、儒教を<span style="color:color;"><strong>国教化</strong></span>します。儒教は、祖霊信仰を基盤とし、血縁的なつながりとその序列の遵守を規範とします。政治的には、これを<strong><span style="color:color;">王朝支配の正当化</span></strong>や<strong><span style="color:color;">官僚組織の統合規範</span></strong>に転化して用います。つまり、諸侯支配と官僚体制に都合がいい思想としてできているのです。
　
中国は現実思考が強く、宗教が発達しませんでした。したがって、身分上位者は一部の支配王朝(貴族)と官僚です。また、西欧と違い、周囲に常に脅威があり、遊んで暮らせる貴族はいません。中国は有史以来<strong><span style="color:color;">軍事国家</span></strong>だといってよいでしょう。上から下まで、官僚です。それは現代においても変わらないのではないでしょうか。
　
漢代からおよそ1900年間、その官僚体制を思想面から支えたのが儒教です。また、1500年もの間、都市住民を中心とする大衆の官僚収束を受け止めたのが科挙制度です。
そして、農村部において家族を重視する志向性、苗字を同じくする人々の結束(宗族)などは、儒教社会の伝統です。
　
　
 :m146: 　 :m146: 　 :m146: 
　
　
　
※問題の答えです。
商鞅は次のように云い、逃亡しませんでした。
「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、王が私を殺せというあなたの言葉を採用するはずがない。」商鞅の考えどおり、王は宰相がもうろくしてこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに商鞅を登用も誅殺もしなかった。

…当時は、何かあれば即命を奪われる時代。そんな時代の思想家であり、私権闘争の渦中に飛び込んでいくわけであるから、一つ一つの判断や言葉が命懸けであったのです。
そんな商鞅も、自らの政策で恨みを買い、殺害されてしまいます。
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   <title>弥生時代の解明４～神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001364.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2012:/blog//1.1364</id>
   
   <published>2012-01-09T08:22:03Z</published>
   <updated>2012-01-11T11:54:34Z</updated>
   
   <summary>シリーズ前回投稿では、弥生時代の墳墓をみることで、「弥生時代は階層化していなかった」との結論が得られました。さて、今回は、集団統合の祭祀の場として重要な「神社」を扱います。神社というと、正月にお参りするし、（また、歴史的には天皇家と関係が深そうで）多くの日本人は、日本古来のものと思いがちですが、実は起源は大陸にあります。参照るいネット そして、今回のテーマに繋がりますが、大陸由来である神社にも2系統の神社があり、中国(江南)系の神社と朝鮮系の神社があります。 出雲大社（上）と伊勢神宮（下）上段の大きな注連縄があるのが中国（江南）系、そして下段の注連縄の無いほうが朝鮮系の神社です。中国(江南)系の神社には大きな注連縄があり、それは、蛇が絡み合いながら性交する様子を象徴しているといわれ、より原始的な神社信仰を象徴しています。（実際、神社信仰の「原型」は、江南地方起源とされています。） 前回投稿まで、中国･江南人が日本列島に渡来、大きな争いも無く、縄文人と緩やかに融合し弥生人が形成されていく過程がレポートされました。その後、現天皇家につながる朝鮮系渡来人がやって来て支配体制を確立することになるのですが、今回のエントリーは「中国系神社」「朝鮮系神社」の分布や歴史をみることで、朝鮮系部族による支配体制への移行過程に迫ろうと思います。 ポちっと応援お願いします。   ...</summary>
   <author>
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         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[シリーズ<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001358.html">前回投稿</a>では、弥生時代の墳墓をみることで、「弥生時代は階層化していなかった」との結論が得られました。さて、今回は、集団統合の祭祀の場として重要な「神社」を扱います。<br><br>神社というと、正月にお参りするし、（また、歴史的には天皇家と関係が深そうで）多くの日本人は、日本古来のものと思いがちですが、実は起源は大陸にあります。参照<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=183580">るいネット</a>

そして、今回のテーマに繋がりますが、大陸由来である神社にも2系統の神社があり、中国(江南)系の神社と朝鮮系の神社があります。

<img alt="DSC00768%5B1%5D.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/DSC00768%5B1%5D.jpg" width="250" height="200" /><img alt="1024-768%5B1%5D.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/1024-768%5B1%5D.jpg" width="250" height="200" /><br><br>出雲大社（上）と伊勢神宮（下）<br><br>上段の大きな注連縄があるのが中国（江南）系、そして下段の注連縄の無いほうが朝鮮系の神社です。中国(江南)系の神社には大きな注連縄があり、それは、蛇が絡み合いながら性交する様子を象徴しているといわれ、より原始的な神社信仰を象徴しています。（実際、神社信仰の「原型」は、江南地方起源とされています。）

前回投稿まで、中国･江南人が日本列島に渡来、大きな争いも無く、縄文人と緩やかに融合し弥生人が形成されていく過程がレポートされました。その後、現天皇家につながる朝鮮系渡来人がやって来て支配体制を確立することになるのですが、今回のエントリーは「中国系神社」「朝鮮系神社」の分布や歴史をみることで、朝鮮系部族による支配体制への移行過程に迫ろうと思います。

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      <![CDATA[ :m282: <strong><span style="font-size:130%;"><span style="color:#000080;">出雲の国譲り</span></span></strong>

では、神社分析に入りますが、その前に、江南系弥生人の時代から、朝鮮系支配への移行の歴史はどのように考えられているか見てみます。（それを押さえた上で、後段で神社分析と突合せ、検証します。）

古事記や日本書紀を分析することにより、およそ以下のような、出雲系（江南系）から天孫系（朝鮮系）への転換があったと考えられています。古事記、日本書紀で「国譲り」とされている所です。（もちろん実際は、譲ったのではなく、武力を背景に譲らせたことは明らかと思われます。）　以下は<a href="http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai11.html">出雲の国譲りとは</a>より引用。

<blockquote>このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。<span style="color:#ff3300;">列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。</span>

これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。</blockquote>
<span style="color:#ff3300;">もともと出雲を中心に江南系･出雲族（おそらく江南から朝鮮南部を経由してやって来た越人）が列島に広がっていた。そこへ、朝鮮系・天孫族（恐らく満州から朝鮮を経由して南下した扶余族）が入り日本を支配するにいたった、</span>そのように考えられています。

 :m282: <strong><span style="font-size:130%;"><span style="color:#000080;">中国系神社と、朝鮮系神社の分布、展開の歴史</span></span></strong>

では、いよいよ、日本における江南系神社、朝鮮系神社の分布とつき合わせ検証してみます。<a href="http://oyashima.way-nifty.com/blog/2007/06/post-a75b.html">「八雲ブログ」</a>に、記紀分析と神社分布を検証しており、そこから引用します。
結論から言えば、神社の分布は上記、「江南･出雲系→朝鮮・天孫系への転換」の仮説を裏付けるものになっています。

<blockquote>現時点での全国の<strong>神社の主祭神</strong>がどうなっているのかを調べてみました。「平成祭データ CD-ROM」は現在の神社の本社・末社の主祭神、配神、合祀などを検索できますが、今回は全体の傾向を見るということで、本社に祀られている神を主・配・合祀も含めた数でカウントしています。

合計ではアマテラス（天孫･朝鮮系）が１１６９２社に対して、スサノオ（出雲･江南系）は９３１５社ということで、アマテラスが多いのですが、圧倒的に多いという訳ではありません。
さらに地域別で見てみると、<span style="color:#ff3300;">アマテラスは東日本地区で強く、東北開拓が進んだ頃にはアマテラスが主祭神として扱われていたことが伺われます。</span>ただ、関東地区ではスサノオが多く、武蔵國の開発には、出雲地区からの移民が多く携わったということが文献上にも見られるのですが、数の上からも伺えます。

注目すべきポイントその２は、伊勢すなわち三重県でのスサノオの神社の数です。伊勢といえば、アマテラスを祭る伊勢神宮がある土地ですから、当然アマテラスを祭る神社の方が多いと思われがちですが、結果は逆になっています。つまり、<span style="color:#ff3300;">伊勢、三重県でもアマテラスを祭る神社である伊勢神宮ができる以前にスサノオが多く祀られていた</span>と考えるほうが自然です。

さらに注目すべきポイントその３は、<span style="color:#ff3300;">琵琶湖から西の地域でのスサノオを祭る地域の多さです。</span>大和國と言われる地域である近畿地方において、アマテラスの神社よりもスサノオの神社が多く見受けられます。
歴史的にも、スサノオとアマテラスでは、スサノオ系の人たちが古くから近畿すなわち大和の土地を治めていたと言われており、アマテラス系の人たちが近畿を治めたのは後年になります。

<strong>日本書記・古事記が書かれた頃にはアマテラス系の人々が大和の地を治める時代になっており、それ以後はアマテラスを祀る神社が多く立てられたと推測されます。にもかかわらず、これだけスサノオを祀る神社が多いということは、日本書記・古事記に書かれた歴史とは異なり、日本はかつてスサノオすなわち出雲の人たちが日本という国を作り上げて行ったのではないかと考えられます。</strong></blockquote>
以上見てきたように神社の分布は、記紀分析から導かれる中国系（出雲系）→朝鮮系（天孫系）の転換に完全に符合していることが分かります。私たちの日常の中にある「神社」からも裏付けられるということで、古代の大転換がすごくリアリティーをもって感じられてきす。

 :m282: <strong><span style="font-size:130%;"><span style="color:#000080;">朝鮮系神社＝天皇システム、すなわち徴税制度の確立</span></span></strong>

さて、このように、出雲系（江南系）から天孫系（朝鮮系）への転換により神社も朝鮮系のそれへと塗り変えられていきますが、それは<span style="color:#ff3300;">神社の性質を根本的に変質させるものでした。</span>

もとより、江南系→出雲系の民族は支配体制をもっておらず、集団統合は集団間を結びつける<span style="color:#ff3300;">祖霊信仰＝祭祀統合</span>によって行っていました。そして、それを司る空間として神社が用いられました。

そして、天孫系･朝鮮系の転換に伴う神社の転換の本質は、<span style="color:#ff3300;">祭祀統合の場でありながらも、序列を示す関係となり、大衆から徴税する為の地方拠点へと変質したという点です。</span>
（なお、神社はもともと露天に鳥居があるだけの施設でしたが、おそらくこの頃、神社造りの「家屋」が生み出され、蔵→徴税拠点にも用いられるようになったと思われます。）

<blockquote>神道祭祀をつかさどる神祇官は、豊年祈願の祭りのほか、祈年祭や収穫を祝う新嘗祭を行うにあたって、<strong>まず全国の神社の神官を中央に集め、神に捧げ物（幣帛：へいはく）をした。その後、この捧げ物（幣帛）を地方の神官に配る。</strong>天皇が稲穂などの幣帛を、穀物の実りをつかさどる神に捧げるからこそ、神の加護を得られ、これを種籾として農耕に励むことで、豊作が約束される、というのである。<span style="color:#ff3300;">言葉を換えると、捧げ物をしなければ豊作も約束されないわけだ。<br></span><a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=227009">るいネット「神社ネットワークから徴税制度へ」</a>より引用</blockquote>
<blockquote>中央から地方へと広がる神社ネットワーク、あるいは徴税システムが整備され、中央のみならず地方諸国（の倉）にも、一定の生産物が蓄積されていく。<span style="color:#ff3300;">神社や諸国の倉に貯蔵された生産物＝米は、「貸し出される」ようになった。これが『出挙』と呼ばれるものである。</span>

最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この蔵の初穂は、次の年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、農民は蔵から借りた種籾に、若干の神へのお礼の利稲（りとう：利息の稲）をつけて蔵に戻す。<br><a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=227010">るいネット「徴税制度によって市場の基盤が出来上がる」</a>より引用</blockquote>
当初の利稲は実際に農民からのお礼であったかもしれない。しかし、神社システムネットワークが整備され、そこから生まれた『出挙』は、やがて、律令時代には利息は50％にもなることもあったよう。高利貸しなみの租税です。ここに至っては根本的に変質したと言わざるを得ません。

 :m282: <strong><span style="font-size:130%;"><span style="color:#000080;">支配を正当化するための神話 </span></span></strong>

このように神社は、本来の機能に付加させた徴税機関となりますが、<strong>この転換はどのように成し遂げていったのでしょう。また、弥生人たちは朝鮮系による支配をどのように受け入れたのでしょうか。</strong>
<span style="color:#ff3300;">そこで必要とされたのが、つまり、「国譲りの神話」ということでしょう。</span>先にもおおよその構成を書きましたが、もう少し具体的にストーリを<a href="http://www.ten-f.com/susanoo-kuniyuzuri.html">「スサノオと国譲り神話について」</a>より紹介します。

<blockquote>所謂<strong>「国譲り神話」</strong>の中身、筋書きに関する事柄です。極々大雑把に「神話」を纏めると、まず、<strong>もともとカミサマの世界に住んでいたスサノオ</strong>は、そこで、大変、乱暴な振るまいをしたので、<strong>神々が相談の上人間の世界（舞台は出雲）に追いやられた。</strong>

スサノオは毎年高志(こし)からやって来て人々を困らせているヤマタノオロチを退治し自分の娘にオオクニヌシという婿を迎えて(彼にオオクニヌシに成れ、と言って)<strong>国の運営をまかせた（国を譲った）</strong>オオクニヌシはスサノオの六世の孫であると言う前段（一度目の国譲り、スサノオからオオクニヌシへ）があり、続いて、肝心のアマテラスとオオクニヌシの「国譲り」に場面が移ります。

その理由は、誰が考えても唐突に思えるのですが、スサノオの姉であるアマテラスは、スサノオから国の運営を任され「出雲」に居るオオクニヌシに使者を送り、この国は、もともと私の子孫が治めるべきものである、だから、貴方は速やかに国を明渡すべきである。との要求を突きつけ、再三に亙って使者を送り続け、<strong>最終的には「武力」でオオクニヌシ（正確には、彼の子供たち）を屈服させ、その支配権を獲得するのです。</strong></blockquote>
弥生人たちが信じていた神「スサノオ」を、<strong>カミサマではあるが、乱暴もので人間の世界に追い出された「駄目な」カミサマと描いているところ</strong>が味噌かと感じられます。スサノオをまるごと否定したり無視したりせず、<strong>その上に、より偉いカミサマがいるのだという話</strong>になっている。実際、弥生人が信仰していた「スサノオ」の神社はそのままでもあり、その上にさらに偉い（？）神さま＝天皇がいるのだという話で納得させられていったのでしょう。<br><br>補足すると、このように（自らの信仰を押し付けるのでなく）先住の民族の信仰をそのままに、それを利用する形で潜りこむように君臨するのは、天皇家につらなる騎馬民族の典型的な統治手法で、受入れ体質の縄文人や弥生人は簡単に取り込まれていきました。

 :m282: <strong><span style="font-size:130%;"><span style="color:#000080;">まとめに</span></span></strong>

さて、天孫族＝朝鮮系支配民族は、ここまで見てきたように、（弥生人の風習を利用しつつ）徴税のための支配体制、徴税ネットワークを構築しました。
ここで、本シリーズの最終的な問題意識、「日本人はお上意識や属国意識からいつ目覚めるか」という点に立ち戻ると、重要なポイントが含まれているように思います。

<span style="color:#ff3300;">天孫族は支配しましたが、あくまで弥生人の信仰、スサノオ信仰、スサノオを祭る神社を残したまま行われました。</span>つまり徹底的に力づくで支配することはありませんでした。（天孫族のほうが圧倒的な武力を持っていたはずですがこうなったのは、迎えた縄文人、弥生人が従順で、素直、受け入れ体質であったからとしか考えらません。）
このように、<span style="color:#ff3300;">縄文人、弥生人の共同体や信仰をそのまま残しつつ支配したことが、その後の、日本人に特有の「お上意識」や「天皇主義」に繋がっていったのではないか</span>と思われます。この点は継続追求テーマとなります。]]>
   </content>
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   <title>現代人と天皇制について</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2012/01/001363.html" />
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   <published>2012-01-04T10:30:00Z</published>
   <updated>2012-01-05T05:16:06Z</updated>
   
   <summary>ここからお借りしました あけましておめでとうございます。 昨年は、3.11東日本大震災、福島原発事故、ﾄﾞﾙ危機、ﾕｰﾛ危機、ｱﾗﾌﾞの春、TPP加盟問題、深刻な雇用問題等、多くのことがありました。流れとしては混迷を深めてゆく感じですし、今年も見守らなければならない課題が山積です。 :roll:  さて、皆さんは初詣に出かけられましたか？そして何をお祈りされましたか？ 家内安全？合格祈願？厄除け？  唐突な問いでしたが、この山積の課題を棚上げにして（＝お上にまかせて）祈ることが出来るのはなぜでしょうか。それは10/30なんでや劇場４　民の「お上捨象」とお上の「民の生活第一」という日本人の特異な体質にある民の「お上捨象（＝お上まかせ）」があるからでしょう。新年なので、初詣を切り口にして「現代人と天皇制（お上）の関係」を見てみますね。 いつものように応援をお願いします。     応援、ありがとうございます！！ :D ...</summary>
   <author>
      <name>sakashun</name>
      
   </author>
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<img alt="camera4-65%5B1%5D.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/camera4-65%5B1%5D.jpg" width="425" height="294" /><a href="http://www.geocities.jp/camera_navi/fuji/">ここからお借りしました</a>

あけましておめでとうございます。
昨年は、3.11東日本大震災、福島原発事故、ﾄﾞﾙ危機、ﾕｰﾛ危機、ｱﾗﾌﾞの春、TPP加盟問題、深刻な雇用問題等、多くのことがありました。流れとしては混迷を深めてゆく感じですし、今年も見守らなければならない課題が山積です。 :roll: 

さて、皆さんは初詣に出かけられましたか？そして何をお祈りされましたか？
家内安全？合格祈願？厄除け？ 

唐突な問いでしたが、この山積の課題を棚上げにして（＝お上にまかせて）祈ることが出来るのはなぜでしょうか。それは<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=258302">10/30なんでや劇場４　民の「お上捨象」とお上の「民の生活第一」という日本人の特異な体質</a>にある民の<span style="color:#ff3300;">「お上捨象（＝お上まかせ）」</span>があるからでしょう。新年なので、初詣を切り口にして「現代人と天皇制（お上）の関係」を見てみますね。
いつものように応援をお願いします。

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応援、ありがとうございます！！ :D 

]]>
      <![CDATA[<strong>○みんなが初詣に行く神社とは？</strong>から見てゆきます。
<img alt="%E5%88%9D%E8%A9%A3%EF%BC%91.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%88%9D%E8%A9%A3%EF%BC%91.jpg" width="425" height="316" /><a href="</a>http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://tcvb.or.jp/global/event/shogatsu1.jpg&imgrefurl=http://tcvb.or.jp/ja/event/shogatsu.html&usg=__rW67rWZDfvv78emzbYAOt5DsF24=&h=387&w=580&sz=127&hl=ja&start=30&zoom=1&tbnid=Y7Q_z16sAy4A-M:&tbnh=89&tbnw=134&ei=vjH4TrrnN-2emQWxkf2uAg&prev=/search%3Fq%3D%25E6%2598%258E%25E6%25B2%25BB%25E7%25A5%259E%25E5%25AE%25AE%25E3%2580%2580%25E5%2588%259D%25E8%25A9%25A3%26start%3D21%26hl%3Dja%26sa%3DN%26gbv%3D2%26tbm%3Disch&itbs=1">ここからお借りしました</a>

神社の本宗：伊勢神宮の神主のﾄｯﾌﾟが天皇なのです。
<a href="http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035009545?fr=chie-websearch-1&k=34vV7tyQnZaZkZqGzpWui5CPlsuRqIbT46SZoJWWlZHh1IutlpmQj5bL6ZCei6OWlZDU6c7h54ajlVsODEoYJ49TCBJaDvBX%2FA9NJ%2FmGlZXY0tGFroufnpSZo6SZkI%2BWyt%2Fezc2VrouQj5bRkaiGmqqri5qF5cyRqIablaCL14Wui6Cel56jpKKjl6mj4t3Q39jY5Z%2BTqJ%2Bmo5iapqmj4dLg39TS4JqnpZujmKefn6ee3OLg39PHlpWR4oajlaWcoJermp%2BfmKKVoIvi0t%2FO3ZCei6WWlZDVlqORoYbm">知恵袋より</a>以下引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・･･･・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
　本宗の伊勢神宮では祭主と言う役職（神宮神官のトップに当たります）で現天皇陛下の姉上が（中略）担っています。
天皇が神主さんの超ボスキャラと言う由縁は、天皇制はその稲作文化に基づいた制度で、天皇は古来より稲作をする人たちの棟梁で時代と共に形式化、祭詞化され現在まで続き、だから今でも新嘗祭や神嘗祭をやっているわけです（米に敬意を示す祀り）

　稲作の伝承については神話の時代にまでさかのぼり天照大御神が高天原でとれた稲を「日本人が食べて生きていくべきもの」として降臨する際ニニギノミコトに持たせて以来、私達日本人は稲つくりを生業とし、米を主食としてきた事になりますが、その天照大御神が天皇家の祖先である事は御承知の通りです（神話レベルの話ですが・・・）
伊勢神宮の祭神が天照大御神であることから神道の本宗と言う訳です。
・・・・・・・・・･････････・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
　
　天皇は、国家安泰（集団の維持）や、お米に敬意を示す（＝五穀豊穣を祈願する）などの精霊信仰的な新嘗祭や神嘗祭等を通じて、国民の代表として皇室の祖先である天照大神をはじめ、歴代の皇霊、八百万（やおよろず）の神々に祈り続けています。
<a href="http://hiton.seesaa.net/article/12766253.html">（天皇陛下の宮中祭祀　一覧表）</a>
参照

<img alt="%E6%96%B0%E5%98%97%E7%A5%AD.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E6%96%B0%E5%98%97%E7%A5%AD.jpg" width="425" height="224" />新嘗祭

天皇の宮中祭祀の例
・2月17日 ：「祈年祭」→三殿で行われる五穀豊穣祈願の祭典
・10月17日：「神嘗祭」→賢所に新穀をお供えになる神恩感謝の祭典。この朝、天皇は神嘉殿　　
　　　　　　　　で伊勢神宮を遥拝される
・11月23日：「新嘗祭」→　天皇が神嘉殿で新穀を皇祖はじめ神々に供えられ、神恩に感謝
　　　　　　　　された後、天皇自らもお召し上がりになる最も重要な祭典　天皇自らがつくられた
　　　　　　　　新穀もお供えになる。

今上天皇は昭和天皇にならい、厳格に心を込めて祭祀を執り行われているとのことです。

　この、自分はさておいて、国民のために一心に祈る姿は自分第一とする現代人が忘れていた姿です。だから、災害時に票集めのために短時間だけ訪れる議員等とは違って、その（充足）存在の大きさは桁が違うのでしょう。
<u>天皇の「お上の下への配慮」は、祭祀（=祈り）を通じて1500年間も続き、そして今も続いていることになります。これは世界に類を見ないことです。</u>

<strong>○現代人の意識をNHKの2009年のアンケートから見てみましょう。</strong>
<a href="http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2009/11/12213247/">■NHKが天皇・天皇制について世論調査（2009年）</a>から引用
「象徴としての役割を果たしている」との回答が85%を占めた。「意義のある公務」としては、「外国訪問など国際親善」32%、「障害者や高齢者、災害の被災者の激励」20%が上げられたが、このあたりは、結局、現状追認的なところ。注目すべきは、「天皇に政治的権限を与えるべき」という回答が6%しかなかったこと。圧倒的に「現在と同じく象徴でよい」82%だが、「廃止すべき」が8%というのは予想以上の数字?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり

<img alt="%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E6%85%B0%E5%95%8F2.jpeg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E6%85%B0%E5%95%8F2.jpeg" width="293" height="172" /><a href="http://blog.livedoor.jp/setsuko32/archives/51754096.html">ここからお借りしました</a>

　2009年のｱﾝｹｰﾄから、象徴の中身は、「外国訪問など国際親善」、「障害者や高齢者、災害の被災者の激励」等の世界や日本の国民の安全を見守り、祈ることで安心感を与える活動ではないではないでしょうか？
　又、政治的権限を与えるべきではない。「廃止すべき」が8%とは、民が共認充足が得られるならば支配者の間接統治を受け入れる。としたこれまでの流れの延長のようで、現代人も天皇制を潜在的に必要としているようです。

○次に天皇制度を見てみます。
<a href="http://rootakashi.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-4db7.html">■天皇制は我々のこころが支える優れた政治安定化装置</a>から引用します。

 　わが国で天皇制が実際に確立したのは、6世紀乃至７世紀ころだとされる。それ以後、現在まで天皇制は綿々と継続してきたが、この間、実際に親政が行われたことはごく希であった。わが国のほとんどの歴史において、天皇は観念的、精神的、超越的な権威であり、実際に執権を行う権力者が別に併存した。そして実権者は、常に天皇の権威を有効に活用してきた。権力を獲得し、掌握し、執行するための、エネルギー最小化を図ったのである。古代の藤原氏、中世以降の平清盛、源頼朝、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康などにはじまるすべての政権は、天皇あるいは上皇の権威を、巧みを活用した。賞味期限が切れた実権の交代のときも、天皇の権威を利用することで、その間発生する新旧権力者間の軋轢、抗争は最小化され、巻き添えを食う一般民衆の流血も、結果として抑制されたのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・･･････・・・・・・・・・・・・・・・・
引用終わり
　安定装置としての天皇制も、1500年間続いています。終戦時も、戦勝国と敗戦国との間を繋ぐ形で働いています。

以上から、現代人は、天皇（制）に「国民の安全・安寧を祈る等の役割（祭祀権）」と、政治安定装置を求め、お上（天皇）は祭祀を通じてそれに答えて来ています。実は、上（天皇）と下（民）の意識は集団を安定維持する流れで1本につながっていたのです。

　戦後の日本人は、個人第一の価値観である民主主義や個人主義を謳歌しているように見えますが、実はその心底は「集団の安定第一」は変わっていなかったのです。そして、この1500年以上（実は縄文時代から）の集団第一の歴史が、3.11東日本大震災で世界に発信した他に類を見ない「絆（共同性）の強さ」を生み出したのでしょう。

当ﾌﾞﾛｸﾞ<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/04/001234.html">「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか！」 第２回海外から見た日本人の共同性</a>参照

<img alt="0b2a5a6c0b6b01e3c6671fb96dfc5c79%5B1%5D.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/0b2a5a6c0b6b01e3c6671fb96dfc5c79%5B1%5D.jpg" width="418" height="284" /><a href="http://blog.goo.ne.jp/hamachidori777/e/4fd54b3575ef3053573b439d142d5030">ここからお借りしました</a>



<strong>○初詣から「現代人と天皇制」を見てきました。</strong>
　上（天皇）と下（民）は、集団の安定（充足）や、五穀豊穣等を精霊信仰や祖霊信仰等を通じて祈り、又、争いを避けるために「政治安定装置」の天皇制を1500年以上も活用してきた変わらない関係が見えて来ました。

　しかし、変わらない中で1点の大きな変化があります。それは私権時代が終焉し、天皇（制度）の裏で執権を握ってきた支配者（特権階級：政治家・官僚・学者・マスコミ）が収束先（答え）を見失い、金貸しの道具（＝売国奴）となって暴走し、「民への配慮」を忘れたことです。
　一方で、国民は特権階級には政治は任せられない。と思いつつも、いったい誰が山積みの課題を突破してくれるのか？で、留まっています。しかし、私権が終焉した今、古い私権観念しか持たない実質的な支配者には答えが出せません。よって、現代人はこれまでの「お上任せ」の意識を転換し、自らが答えを出す・考える当事者に転換する必要性が出てきたのです。

<u>改めて年の初めに「日本人の共同性」と、「お上任せの意識の転換」の必要性を是非、みんなで考えてみましょう！！</u>]]>
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   <title>ブータンと日本を繋ぐものとは？</title>
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   <published>2012-01-02T00:00:00Z</published>
   <updated>2012-01-04T17:17:57Z</updated>
   
   <summary> （ヒマラヤの日の出） あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。 今年、縄文ブログの照準はいよいよ「日本人って何？」「これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくか？」という民族論、未来論に移行していきます。 今日は、アジアの小国ブータンをとりあげます。 昨年11月、ブータン王国のジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王の来日は、大きな話題となりました。 ブータンはヒマラヤ山脈の南側に位置する人口約７０万人、国土は九州とほぼ同じ面積の仏教国です。本来の国名は「ドゥック・ユル」＝「雷竜の国」と呼ばれ、国旗にも白い雲竜の姿が描かれています。  （アサヒコム） 日本人がなぜブータンに惹かれるのか？　そこには日本とブータンをつなぐ大きな共通項が潜んでいるのです。今日は、その秘密に迫ります:D  応援のクリックをお願いします :m092:    いつもありがとうございます:m036:...</summary>
   <author>
      <name>yaga</name>
      
   </author>
         <category term="ⅩⅠエトセトラ（その他諸々）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<img alt="%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%87%BA.gif" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%87%BA.gif" width="300" height="210" />
<span style="font-size:70%;">（<a href="http://sekaitown.blog.so-net.ne.jp/2009-04-05-6">ヒマラヤの日の出</a>）</span>

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

今年、縄文ブログの照準はいよいよ「日本人って何？」「これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくか？」という民族論、未来論に移行していきます。

今日は、アジアの小国<strong>ブータン</strong>をとりあげます。
昨年11月、ブータン王国のジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王の来日は、大きな話題となりました。

<blockquote>ブータンはヒマラヤ山脈の南側に位置する人口約７０万人、国土は九州とほぼ同じ面積の仏教国です。本来の国名は「ドゥック・ユル」＝「雷竜の国」と呼ばれ、国旗にも白い雲竜の姿が描かれています。 

<span style="font-size:70%;">（<a href="http://www.asahi.com/health/arugamama/TKY201112180112.html">アサヒコム</a>）</span></blockquote>

<span style="color:#6666ff;">日本人がなぜブータンに惹かれるのか？</span>　そこには日本とブータンをつなぐ大きな共通項が潜んでいるのです。今日は、その秘密に迫ります:D 

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いつもありがとうございます:m036:]]>
      <![CDATA[ブータン国王の人柄や顔立ちの良さもさることながら、彼の日本人に向けたスピーチが素晴らしく、それは私達自身が忘れかけていた（あるいは失いかけていた）日本人の可能性を気付かせてくれるようなものでした。

<blockquote>ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。（中略）

このグローバル化した世界において、<u>日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。</u>世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。（中略）

皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような<u>卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。</u>すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。<u>このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。</u>そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、<u>日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。</u>（中略）

両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。

<span style="font-size:70%;">（<a href="http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-entry-747.html">「私的憂国の書」</a>より引用）</span></blockquote>

一般的に言われるような<span style="color:#ff3300;">日本の経済的優位性よりも、日本人の持つ民族的特性（いわば縄文体質）に焦点が当たり、それが絶賛されている</span>点が特徴的です。
<span style="color:#6666ff;">なぜ彼らは、このように（日本人さえ気づけないような）日本人の本質に迫ることが出来るのでしょうか？</span>
その理由は、ブータン人が<span style="color:#ff3300;">チベット系民族</span>であることと関係しているようです。

Ｙ遺伝子分析による系統を見ると、<span style="color:#ff3300;">チベットには、日本でも主流とされる（縄文人と同じ）「Ｄ」系統の人々が多く存在している</span>のです。<span style="color:#6666ff;">世界でもＤ系統が多く残っている地域は、日本とブータンを含むチベット、それにモンゴルの一部地域といった、きわめて限られた地域です。他の地域では、一度Ｄ系統の人々が住み着いたとしても、その後の遊牧民などの進出によって、森林を生活の場とする温和なＤ系統の人々は駆逐されてしまったのです。</span>
<span style="font-size:90%;">※Ｄ系統の移動や日本への流入過程は、本ブログ記事<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/10/001332.html">『「日本人の起源」を識る～３．縄文人を作った採集の民 Ｄ２』</a> をご参照下さい。</span>

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%EF%BC%A4%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AE%E6%8B%A1%E6%95%A3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%881.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%EF%BC%A4%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AE%E6%8B%A1%E6%95%A3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%881.html','popup','width=551,height=394,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%EF%BC%A4%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E3%81%AE%E6%8B%A1%E6%95%A3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88-thumb" width="275" height="197" alt="" /></a>
<span style="font-size:70%;">（<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/10/001332.html ">Ｄ系統の拡散ルート</a>）</span>

日本でＤ系統が生き残ったのは四方を海に囲まれていたからですが、<span style="color:#6666ff;">チベットの場合には高山地帯で外部からの侵入が困難であったからだと考えられます。中でもブータンは、高いヒマラヤ山脈のおかげで、北方からの遊牧民の侵入を免れたのです。</span>

このような民族・地域特性が、日本とブータンに共通する本源性を育み、今日でもなお、互いの心を引き寄せているのです。


:m282:<span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:110%;">「国民総幸福量」の発想は、なぜ生まれたのか？</span></strong></span>

国民総幸福量（GNH）とは、1972年に、ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクが提唱した「国民全体の幸福度」を示す“尺度”です。国民総生産 (GNP)が金銭的・物質的豊かさを目指すのに対して、<span style="color:#6666ff;">精神的な豊かさ</span>、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたものです。現在、ブータン政府は国民総幸福量の増加を政策の中心としています。

政府が具体的な政策を実施し、その成果を客観的に判断するための基準にするのが主な用途で、1990年代からの急速な国際化に伴って、ブータンで当たり前であった価値観を改めてシステム化する必要があったといいます。2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、<span style="color:#6666ff;">「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答</span>しました。
（以上は、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B7%8F%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E9%87%8F">ウィキペディア「国民総幸福量」</a>を参照しました。）

<span style="color:#6666ff;">経済的な発展を目指す世界の趨勢とは真逆の、このような発想（理念）で国が統合されている背景にも、Ｄ系統の血を受け継ぐブータン国民の民族性があるのでしょう。</span>

:m282:<span style="color:#000080;"><strong><span style="font-size:110%;">私たち日本人は、ブータンに何を学び、次代に何を残していくべきなのか？</span></strong></span>

２０１１年奇しくも震災の年にブータンの国王が訪れ、日本国民に勇気溢れるメッセージを残してくれた事は偶然ではないと思います。ここで改めてブータン国王からいただいた貴重なメッセージの中心部分を伝えておきたいと思います。

<span style="color:#ff3300;"><blockquote>このグローバル化した世界において、<u>日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。</u></blockquote>

<blockquote>最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような<u>卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。</u>すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。<u>このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。</u></blockquote>

<blockquote>さらに注目に値すべきは、<u>日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。</u></blockquote></span>

ブータン国王はさまざまな国際社会での外交や挨拶の教育は受けて来られ、社交辞令もあるでしょうが、この国王の言葉を私たちは謙虚にこれまでの日本人が築いてきた事実であり可能性であると素直に受け止めるべきだと思います。なぜブータン国王がここまで日本人の事を知っており、特徴をより鮮明にメッセージにできたかまでは定かではありませんが、おそらくはブータン国自体が日本の事、歴史をよく調べ、学び手本にしてきたのだと思われます。日本とブータンの国交は１９７０年代からわずか４０年足らずではありますが、ブータンにおける農業発展において技術面、経済面両面で支えてきた歴史があります。（参考：<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=258847">るいネット①</a>、<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=258848">るいネット②</a>）
そしてこれはＯＤＡの活動の一環として発展途上国に支援を続けてきた日本の国際関係の歴史をも、物語っています。ブータンだけでなく東南アジアの小国は同様に、日本に対して友好的な位置をもっています。

<span style="color:#ff3300;"><strong>今回この記事で最も伝えたかったのは、ブータンが私たち日本人の祖先である縄文人と古い兄弟であるという事、さらにその兄弟が弱っている今の日本に親身になって励ましと道筋を示してくれた事です。</strong></span><span style="color:#6666ff;">日本は時として「奇跡の国」といわれる事がありますが、その奇跡の国の中にいる国民（私たち自身）は決してその資質を特別なものとは思っていません。しかし、国王が言うように数年、数十年では決して失われないこの日本人の縄文的資質、その共同性を次代への可能性へと繋げる事が必要な事だと思います。従って今までと変わる事無く、またより日本人としての特性を再生すべく次代へ自信をもって歩んでいけばよいのでしょう。</span>

国王の示した道を決して小国の若きリーダーの社交の言葉として軽んじてはならないと思います。感謝の意を持ってこの国王の言葉を年初のブログの記事として選ばせていただきました。]]>
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   <title>「東北と縄文～2011年が伝えたかった事」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001361.html" />
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   <published>2011-12-29T16:00:04Z</published>
   <updated>2011-12-29T16:05:54Z</updated>
   
   <summary>今年も後残すところ2日、大変な年でしたが２０１１年は多くの人の記憶に、そして未来の世界の歴史書にも永遠に刻まれる１年になると思います。そしてその中心に日本があり、東北があることは間違いないでしょう。あまりに多くの事があった今年、金正日の死去でさえ霞むほどの国際的にも多くの災害、政変、経済不況に見舞われた年でした。 縄文ブログでは年初に日本人の可能性というシリーズで始まりました。また、今年１年通じて改めて縄文時代からの日本列島史とその周辺を取り巻く中国、朝鮮の歴史を見ていきその可能性の基盤を探り続けてきました。現在、日本の特性である天皇制に追求のメスを入れるべく会員の方々の追求は続いています。縄文ブログの来年の照準はいよいよ日本人って何？これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくかという民族論、未来論に移行していきたいと思います。 今回年末年始シリーズとして縄文―日本―天皇をテーマに３本の記事を選びました。 初回は縄文時代の中心地であり、今年の震災の当事者となった東北を扱ってみたいと思います。東北についてはこの縄文ブログでもこれまでいくつかの記事で扱ってきました。しかし、正面から東北って何？東北の持つ可能性や次代の日本における東北の位置づけを追求した論考はありませんでした。今回短期の１回シリーズになりますが、改めて東北を日本の縄文文化の原点、日本人の精神的本拠地ととらえその特性、可能性に言及していきたいと思います。 縄文人の原風景に欠かせないブナ リンクよりお借りしました。 記事に入る前に今年の東北震災の地域すべての方々及び現在でも寒さに耐え避難所の生活をされている方々に、お見舞いと深い感謝の念を捧げたいと思います。         ...</summary>
   <author>
      <name>tano</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅱ縄文時代" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[今年も後残すところ2日、大変な年でしたが２０１１年は多くの人の記憶に、そして未来の世界の歴史書にも永遠に刻まれる１年になると思います。<span style="color:#ff3300;">そしてその中心に日本があり、東北があることは</span>間違いないでしょう。あまりに多くの事があった今年、金正日の死去でさえ霞むほどの国際的にも多くの災害、政変、経済不況に見舞われた年でした。

縄文ブログでは年初に日本人の可能性というシリーズで始まりました。また、今年１年通じて改めて縄文時代からの日本列島史とその周辺を取り巻く中国、朝鮮の歴史を見ていきその可能性の基盤を探り続けてきました。現在、日本の特性である天皇制に追求のメスを入れるべく会員の方々の追求は続いています。縄文ブログの来年の照準はいよいよ<span style="color:#ff3300;">日本人って何？これから我々はどう生きていくべきか、生かされていくかという</span>民族論、未来論に移行していきたいと思います。

今回年末年始シリーズとして<span style="color:#ff3300;">縄文―日本―天皇</span>をテーマに３本の記事を選びました。
初回は縄文時代の中心地であり、今年の震災の当事者となった<strong>東北</strong>を扱ってみたいと思います。東北についてはこの縄文ブログでもこれまでいくつかの記事で扱ってきました。しかし、正面から東北って何？東北の持つ可能性や次代の日本における東北の位置づけを追求した論考はありませんでした。今回短期の１回シリーズになりますが、改めて東北を日本の縄文文化の原点、日本人の精神的本拠地ととらえその特性、可能性に言及していきたいと思います。

<img alt="GM13.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/GM13.jpg" width="280" height="200" /><span style="font-size:70%;">
縄文人の原風景に欠かせないブナ</span>
<a href="http://www.museum.iwate-u.ac.jp/botanical_g/buna.html">リンク</a>よりお借りしました。

記事に入る前に今年の東北震災の地域すべての方々及び現在でも寒さに耐え避難所の生活をされている方々に、お見舞いと深い感謝の念を捧げたいと思います。
 <a href="http://blog.with2.net/link.php?538666" target="_blank"><img height="15" alt="Blog Ranking" hspace="3" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/banner_04.gif" width="80" vspace="10" /></a>  
 <a href="http://history.blogmura.com/" target="_blank"><img height="15" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" hspace="3" src="http://history.blogmura.com/img/history80_15.gif" width="80" vspace="10" /></a>  
]]>
      <![CDATA[さて、<strong>東北の定義、場所</strong>、まずはそこから入りたいと思います。

現在では東北6県（青森、岩手、秋田、山形、宮城、福島）を指しますが、東北とは大和朝廷が呼んだ<span style="color:#ff3300;">蝦夷</span>(北海道も含めて)と言われる地域、人と重なります。
日本は弥生時代の稲の伝播を経て弥生文化が本州全域、四国、九州の過半に広がり、列島は縄文文化に江南人の文化が重なった稲作ハイブリッド文化によって塗り替えられていきます。東北にもその時期に稲作が到来しますが、弥生時代中期に青森に稲作が認められて以降、<u>実はその後紀元後6世紀まで稲作が途絶えてしまいます。</u>
東北が朝廷から<u>蝦夷と呼ばれたこと、稲作が途絶えた事</u>、これが東北とは何か？を考える糸口となります。

 :m283: <span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;">蝦夷とは何か？</span></span>
「蝦夷の地と古代国家」熊谷公男著～山川出版社から紹介します。
<blockquote>エミシは「蝦夷」と表記されることが一般的であったが、この用字には古代国家の蝦夷観念の側面が示されている。「蝦夷」の「夷」は華夷思想で中国の東方の化外の民とされる「東夷」の「夷」に由来することから「蝦夷」観念は日本的な華夷思想によって生み出されたことになる。次に「蝦」はエビのことであるが、中国ではエビが長いひげの象徴として用いられた事から蝦夷と呼ばれた人々が長髪、あるいは多髭であることを示そうとしたらしい。
またエミシは「毛人」とも呼ばれ毛深い人々であった事を示そうとしたことに相違ない。古代王朝が主張・喧伝した蝦夷観念とは「野生獣心」の性質で「多毛」の外観を備えた異俗、異相の民という内容をもつものであった。もちろんこのような蝦夷観念は華夷思想の影響のもとに構成された支配イデオロギーであって、多くの誇張や虚構を含むものであったから、これを事実と混同するようなあやまちをおかしてはならない。
しかしもう一方で「<u>蝦夷」と呼ばれた人々の多くが、実際に倭人と異なる文化を保有していたことも否定できない事実である</u>。</blockquote>

この記述にもあるように古代７世紀の時点で<u>明らかに弥生文化、その後の古墳文化を受け入れなかった北方の地</u>があるのです。以下は著書にまとめられていた蝦夷の範囲です。
<Table align="left"><tr><td>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/tano001.html" onclick="window.open('http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/tano001.html','popup','width=550,height=939,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="tano001.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/tano001.jpg" width="220" height="370" /></a>
～著書より抜粋</td></tr></table>


文献著書や蝦夷と内地を区切った柵の後から類推して蝦夷の地は２つの境界線を設定する事ができます。南限は「国造本紀」に記された範囲で<span style="color:#ff3300;">新潟平野―米沢盆地―仙台平野を結ぶライン。</span>
また平安初期にいわゆる蝦夷討伐として征夷大将軍の役職が生まれた時代の境界線はそこからかなり北へ上がり<span style="color:#ff3300;">秋田県と山形の県境と宮城県仙台を結ぶライン</span>となります。蝦夷の範囲はこのように時代によって多少変動していったのですが、山形でも古墳が見られる事から概ね<span style="color:#ff3300;">秋田、青森、岩手、宮城がその中心地</span>と呼んでよいと思われます。また<span style="color:#ff3300;">広域的には山形、福島、新潟を含む7県</span>が蝦夷の地に相当する事になります。

 :m283: <span style="color:#6666ff;">そこでこの蝦夷という地の文化なり人の特徴について見ていきたいと思います。</span>
最初に断っておきたいのは蝦夷というまとまりは<span style="color:#ff3300;">大和王権が自分たちの都合で呼んだだけ</span>でそのような文化的集合や集団としてのまとまりがあったわけではありません。
当然、地域によって少しずつ異なり、その土地の特性に併せて生活が営まれ当然その中で文化的形成はなされています。<span style="color:#ff3300;">言わば大陸の支配文化の影響を受けていない縄文文化の生き残りが蝦夷の総称だと考えるとわかりやすいと思います。</span>
生業は狩猟、漁労、採集が中心で6世紀段階でも農耕はあまり営まれていません。また、縄文晩期と弥生時代後期に寒冷期を経験しており、北方民族が南下してアイヌ同様に大陸北方の文化的影響をこの時代に受けていきます。<span style="color:#ff3300;">しかし一方で仙台平野を中心に関東、東海との交易はすでに3世紀から4世紀にかけ、かなり密接に行なわれており、須恵器を中心とした土器の生産、物流を行なうネットワークの結節点が東北にあった事も最近の発掘事例でわかってきています。</span>さらに既に8世紀には鉄の生産も福島県金沢地域周辺で行なわれており、土器→鉄生産を基盤とした<span style="color:#ff3300;">職人集団が東北の一角に登場していた</span>ことを伺わせます。

蝦夷文化と敢えて呼ぶなら、縄文的生業（採集、狩猟、漁労）をベースにしながら南方からの文化を受け入れ土器、鉄器、玉器などの手工芸文化を特化させ、最後に7世紀以降品種改良された稲作を取り入れ一大農耕地帯に転換していった、その総称を呼んでよいのではないかと思います。
しかし、<span style="color:#ff3300;">この地は倭人がなだれ込んできたわけではなく、土着の人が倭人との交流の中で必要な物を柔軟に取り込んでいったのです</span>。その意味ではこの時代の呼称が続縄文時代と言われるように<span style="color:#ff3300;">決して縄文的文化体系は失っておらず</span>、伝統的な狩猟や墓制、言語、信仰形態といった本質部分は少なくとも平安時代まで、その精神的基盤は現在まで失う事無く残されてきました。

 :m283: <span style="color:#6666ff;">次に蝦夷の社会構造を見ていきたいと思います。</span>
再び著書の中から紹介します。
<blockquote>蝦夷と倭人ではその社会構造も大きく異なっていた。倭人社会は古墳時代以降、政治的統合が急速に進み、国家形成の道を歩むが、<u>蝦夷社会は社会全体を統合するような権力が未発達で、個々の蝦夷集団の自立性が相対的に強かった。</u>
蝦夷社会の基礎単位は律令制下の郷程度の規模の「村」でそれらが<u>相互に独立性を保ちながらもネットワークを形成してゆるやかに結びつき、ヒト、モノの交流や情報伝達が行なわれていたと</u>考えられる。緊急時にはこのネットワークを介して共同した軍事行動をとることも可能であった。<u>蝦夷は文化も社会構造も倭人とは異なる存在だったのである</u>。尚、このような文化構造は東北北部の蝦夷を念頭にしており、蝦夷の南限に近い現在の宮城・山形県域などの東北中部や新潟県の蝦夷は基本的に倭人と同様であったとみてよい。</blockquote>

蝦夷の社会構造は縄文時代からほとんど変化していない事を伺わせます。縄文時代の我が国は村単位での集団が広域にネットワークで繋がっていたとされています。<span style="color:#ff3300;">支配という明確な縦の軸がない変わりに、このネットワークという横の繋がりが強力な社会的インフラの基盤だった事は押さえておきたい内容です。</span>

 :m283: <span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;">蝦夷支配の歴史</span></span>
平安時代に蝦夷征圧で朝廷軍から東北へ数万の兵が送り込まれ、ゲリラ戦で抵抗し戦争は長期化しますが、アテルイというリーダーが最後には取り押さられ、数十年にわたる持久戦に終止符を打ち朝廷がついに東北地方を併合します。
ただ、本編はそこのディテールを押さえる事が目的でないので詳細は割愛します。興味のある方は過去の記事を参照下さい。⇒<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/08/000287.html">戦った縄文人</a>
いずれにしても東北はこの時代に力ずくで倭人文化に組み込まれました。しかし、京都から見れば辺境の地です。鉄の産地としての旨味はありましたが、それ以外は統治が及ばない遠隔地、やがて再び自主独立の地として東北地方はその縄文的体質を温存させて江戸時代まで推移する事になります。上記同様、文化は中央から吸収するが精神は残っていきます。これが東北の特質であり、故に縄文的価値観は今も色濃く残っているのです。


 :m283: <span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;">東北に残った縄文の精神とは？</span></span>
これらの歴史を経て現在でも東北には<span style="color:#ff3300;">共同性、自然への畏怖の精神、災害への備え、自給、自治の体制</span>が残っています。東北はこれらをどのように残してきたかをいくつかの具体的事象から見ていきたいと思います。

 :m284: <strong><span style="color:#6666ff;">鬼の文化</span></strong>
東北には今でもなまはげ、ねぶた等、鬼を主役にした祭りが残っています。
この鬼の文化が東北を代表していますが、この鬼は何を指すか？何を意味するか？これについて考えてみます。鬼の文化は日本の他の地域でも見られます。例えば岡山の桃太郎は有名で同様に西日本でも鬼を祭りや伝説に登場させています。しかし一般に<span style="color:#ff3300;">西日本の鬼が邪悪の象徴として表現されるのに対して東北の鬼には別の要素が加わっています。</span>例えばアテルイに代表される鬼は戦士の象徴です。また泣いた赤鬼に代表されるようにヒトになりたがる鬼を物語りにしたりもします。なまはげは毎年大晦日に各家庭に訪れ、子供は恐怖を覚え泣き叫びます。これら多くの役割を東北の鬼はもっているようです。
鬼は一般に大和朝廷の時代に縄文人を指して毛人や蝦夷と呼んでいたように縄文人を差別する意味で伝説にされてきました。鬼は倭人にとっては忌み嫌うものだったのです。しかし、東北地方に今でも濃厚に鬼が残っているとしたら、それは別の意味の鬼だと思うのです。これは私の感覚ですが、<span style="color:#ff3300;">東北の人は恵みと災害を与える超越する自然というものに対して畏怖の感情を持っており、それを鬼に投射させたのではないでしょうか？</span>自然災害を度々経験し、自然の力を目の当たりにしてきた東北の人々はいろんな形で<span style="color:#ff3300;">自然への畏怖と尊厳を伝えていく為に鬼という存在を残していったのではないでしょうか？</span>
<img alt="imagesCA2ER0TW.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/imagesCA2ER0TW.jpg" width="200" height="158" />　<img alt="PHOT0000000000035358_500_0.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/PHOT0000000000035358_500_0.jpg" width="200" height="158" />
<a href="http://mewton.blogspot.com/2008/12/blog-post_09.html">なまはげ</a>、<a href="http://www.kabegami.com/shashin-bu/C00201/show/id/PHOT0000000000035358/">ねぶた祭り</a>よりお借りしました。

 :m284: <span style="color:#6666ff;">東北に生まれた共同体企業「わらび座」～新しいものと古いものを融合</span>
東北は新しいものと古いものを融合させる事を伝統的に行なってきました。
日本の文化は弥生時代以降はほぼ西から入ってきます。九州や畿内のようにいきなり大陸から人、物が到来してあっという間に取り込まれるという事から地理的に隔離されています。従って東北の人は受け入れるのも変化するのも一定の期間を使いながら租借する事ができました。
秋田に<span style="color:#ff3300;">わらび座という演劇集団</span>があります。１９５１年に創業し、劇団四季などと同等の規模を持つ彼らの企業運営はまさにこの東北という土地の特性に根ざした模索しながらの５０年でした。
<blockquote>それは、芸術家集団にありがちな“唯我独尊”路線でもなく、かといって欧米文化べったりの華美な大衆路線でもなく、日本芸能の実践を秋田県仙北市という地域に根ざして活動するという、どちらかと言うと地味な存在だった。
＞劇団は創立した頃と現在では、まったく違う姿になっている。構成員の350人は、60％が地元出身だ。よく第3セクターではないかと聞かれるが、バリバリのエンターテインメント企業だと思ってもらって良い。ユニークなことは、劇団の公演をコアに、農業体験、ブルーベリー摘み取り体験、わらじ作り教室、木工・陶芸・オカリナ教室、健康体操教室、民舞教室などを同時並行で展開している</blockquote>
<blockquote>90年半ばから、わらび座は、 特に人間同士のつながりと共生のテーマを打ち出した。共生とは、開かれたシステムにおいて、様々な異質的なものの積極的な共存を意味することである。また、この共生の考えは、価値観の強要や社会の同質化を方向づけるのではなく、異質的存在を認め合う上で新しい結合関係を目指すことを意味する。共生の主題は今後のわらび座の活動に多様な可能性を生み出す。</blockquote>
<a href="http://www.kigyonw.net/blog/2011/08/001122.html">企業が「地域密着」で成功するには？</a>
<a href="http://www.kigyonw.net/blog/2011/11/001193.html">100％共同出資の企業だからこそ、本気で伝えられるものがある！</a>

⇒今でこそ斬新な発想と柔軟な運営と評価されるこのわらび座も紆余曲折の歴史があったようです。しかしそれらの社会的外圧に真っ向から対面し、<span style="color:#ff3300;">新しい価値（＝共生）を作り続けたこの企業</span>は今や東北文化を発信する中心集団となっています。
<img alt="%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81~1.JPG" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81~1.JPG" width="400" height="200" />

 :m285: <span style="color:#6666ff;">日本の台所としての東北</span>
東北の<span style="color:#ff3300;">食糧自給率は１０７％</span>で稲は全国の２７％を収穫します。日本全体が４０％を切ろうとしている現在、この数字は非常に大きな可能性を感じます。また、黒潮による豊かな猟場を有しており漁獲量も全国で最大で関東の倍、近畿の３倍を有しております。さらに林業も豊かで、鉱物資源も鉄だけでなく金、銀も含めて日本最大の鉱物ラインを有しています。
<a href="http://www.biodic.go.jp/biodiversity/shiraberu/policy/kyosei/23-1/files/3-4.pdf#search='東北 漁業 自給'">自然の恵みからみた東北及び日本の現状</a>

今回の震災でこれらの何割かは収穫ができなくなりましたが、<span style="color:#ff3300;">それでも日本最大の資源立地である事は変わりません</span>。これら東北が有する土地の潜在力は東北への辺境史観からほとんど今日まで強調されてきていませんでしたが、今回の震災を経てその一部を失った事でようやく多くの日本人に知らされることになりました。

以上、東北の持つ可能性や縄文的資質について少しだけ触れさせていただきました。
紙面の関係でこれ以上多くを書く事はできませんが同様のこれまで私たちが意識してこなかった東北の可能性事象はたくさんあるように思います。

 :m283: <span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;"><span style="color:#6666ff;">日本人は東北から何を学ぶべきか？</span></span></span>
昨年の震災の災禍はまだ続いています。現在形の中、私たち東北から離れたところに居るものが学ぶといってもそれ自体本気さがどこまであるのか疑わしいものです。
しかし、今回の震災で私たち日本人は多くの事を学ばなければならないと思います。
また、学ぶ機会を与えられたのだと思います。

<span style="color:#ff3300;">東北は先述したように日本人の精神的原点である１万年に渡る縄文資質を最も色濃く残せてきた地域です。</span>私達の中にもその資質は当然組み込まれているのですが、市場化、欧米化によって失われつつある日本人の資質を今一度、東北の地から学び取らなければなりません。東北人はあまり多くを語りません。ましてや震災に遇われた方々は、日々の暮らしを生きていくので精一杯です。２０１２年は復興元年になります。彼らはきっと力強く復興していくと思われますが、<span style="color:#ff3300;">私たちはそれを注視し、理解し発信していく事が役割だと思います。</span>

そして彼らが得た教訓やこれまで東北で培ってきた災害や自然という対象への視線を受けとり、自然の摂理に則った国つくり地域作りを見直していかなければならないと思います。
なにやら最後はどこかの市政の言葉のようになりましたが、<span style="color:#ff3300;">全ての日本人の本能を直撃した今回の震災は間違いなく何かの変化のきっかけになると思います。それを最も実践先行していくのが東北であり、私たちは同じ日本人として彼らに導かれていく事になるのではないでしょうか？</span>
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
<span style="color:#6666ff;">・避難所でおじいさんが「これからどうなるんだろう」と漏らしたとき、横に居た高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元に戻します」って背中をさすっていた。
・たくさんの物を失ったり、流されたりしたが、今こそ力を合わせて立ち上がるべきだと思う。人は力を合わせれば何でもできると思う。(岩手県山田町・中学2年生)</span>

こういう子供たちが東北を支え、日本を支えていく。震災という経験を経て日本はきっと強く変わっていくと期待したい。
]]>
   </content>
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   <title>「支配者から見た属国意識」～５、武士とは日本の支配史にとって何か</title>
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   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2011:/blog//1.1354</id>
   
   <published>2011-12-28T01:12:43Z</published>
   <updated>2011-12-28T01:17:44Z</updated>
   
   <summary>師走の候。 今年も残すところあとわずかとなりました。みなさん、どんな一年だったでしょうか。 東日本の震災を切っ掛けに、人々の意識が大きく揺れ動いた年だったと思います。 また、原発問題やＴＰＰ問題等、政治や経済においても激動の一年でした。 秋から始まったこの「支配者から見た属国意識」のシリーズも、こうした激動の時代にあって、『果たして日本人は考え始めるのか』というテーマで日本の支配者の流れとその意識の変遷、そして大衆の心の有り様を探ってきました。 第５回目の今回は、中世の「武士」の支配に注目してみたいと思います。 この時代もまた、支配者層が貴族から武士へと移る激動の時代でした。 平治物語絵巻　写真はこちらからお借りしました...</summary>
   <author>
      <name>yama33</name>
      
   </author>
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[師走の候。
今年も残すところあとわずかとなりました。みなさん、どんな一年だったでしょうか。

東日本の震災を切っ掛けに、人々の意識が大きく揺れ動いた年だったと思います。
また、原発問題やＴＰＰ問題等、政治や経済においても激動の一年でした。

秋から始まったこの「支配者から見た属国意識」のシリーズも、こうした激動の時代にあって、『果たして日本人は考え始めるのか』というテーマで日本の支配者の流れとその意識の変遷、そして大衆の心の有り様を探ってきました。

第５回目の今回は、中世の「武士」の支配に注目してみたいと思います。
この時代もまた、支配者層が貴族から武士へと移る激動の時代でした。
<img alt="%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB.jpg" width="340" height="183" />
<span style="font-size:70%;">平治物語絵巻　写真は<a href="http://www.e-t.ed.jp/edotori390333/">こちら</a>からお借りしました</span>]]>
      <![CDATA[来年の大河ドラマの主人公でお馴染みの平清盛以来、江戸幕府の大政奉還まで実に７００年近く、武士は日本の実質的な支配者でした。
以前<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001350.html">当ブログ</a>で紹介した、戦国時代の分国法も江戸時代の目安箱も、武家政権の施策です。その中身は、単なる「武人」としての豪放さや猛々しさとはかけ離れた、より民の生活実態に目を向けた、現実的できめ細やかな物でした。

<span style="color:#FFAE35;">文字通り「武力」をその権力基盤とするはずの武士が、なぜ、力による圧政ではなく、公家の時代以上に民への配慮を意識する存在だったのでしょうか。
そこには、日本独特の「武士」と言う存在の成り立ちと、そこで培われた精神性、さらに「お上意識」「お墨付き」等に代表される、日本独自の支配構造の伝統をも受け継いだ、非常に独自性の強い物がありました。</span>

まず、武士とは何か。その起源は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB">ウィキペディア</a>によると・・・

<blockquote>武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。
①古典的な、開発領主に求める説（在地領主論） 
②近年流行の、職能に由来するという説（職能論） 
③律令制下での国衙軍制に起源を求める説（国衙軍制論） 

<span style="color:#6666ff;"><span style="color:#6666ff;">①在地領主論 </span></span>
武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。明治時代の歴史学者・三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された。
（中略）
三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」ことを見出し、日本は近代化できると主張した。武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために「武装した大農園主」とする。

この学説は広く受け容れられ、戦後も学界の主流を占めることとなった。唯物史観の影響を受け、武士は古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者として石母田正らによって位置づけられた。

<span style="color:#6666ff;">②職能論</span> 
しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。
そこで、佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。</blockquote>

以上、引用終わり
日本の武士の起源は、上述のように幾つか考えられますが、おそらくそのどれか一つではなく、むしろ2層構造であったことが考えられます。
すなわち、

<span style="background:#FFE3E3">①土着の農民から発達し、自らの利権を守るために武器を取った、「武装した大農園主」</span>


<span style="background:#FFE3E3"><span style="background:#FFE3E3">②皇族・貴族を起源とし（源氏も平氏も、遡れば天皇家の血縁）、朝廷や院などの伝統的な権力との結びつきが強い「武家貴族」</span></span>
です。
この両者が密接に関わる事で、日本の「中世」は形成されてゆきます。

その知識を元に、もう少し詳しく説明した記事を紹介します。

<a href="http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/syouen/busi%26syoen.html">「武士から貴族の時代へ」</a>さんからの抜粋です。
子供向けに、非常に分かりやすく説明しています！

<blockquote><span style="color:#FFAE35;"><span style="color:#FFAE35;"><strong>農民が自分たちを守るために武士になりました </strong></span></span>

立場の弱い農民は朝廷からはけんされた国司や国司の代理，また，それらの役人と手を組んだ武装した農民（つまりこの時代の武士のこと）から，自分たちの土地や財産を守るために，刀をにぎりよろいを着て武装（ぶそう＝武器を持って戦いにそなえること）しました．これが武士の始まりです．なかでもその地方で有力な農民が多くの農民を支配して武士のグループを作り，自らは指導者になりました，この指導者のことを「棟梁」（とうりょう）といいます．そして，このグループを武士団といいます． 

武士団は荘園や国衙領（こくがりょう＝国府管理下の農地．つまり朝廷に税を納めているところ），牧（まき＝馬をかっている牧場），御厨（みくりや＝神社に形の上であげた荘園）と，あらゆる場所から生まれました． 

平安時代の中ごろからは律令（りつりょう）と言う法律（ほうりつ）はあっても名ばかりで，国司となった者の中にはその立場を利用して，余分に税を取ったり，人の土地を奪ったりする者も現れました．あまりにひどすぎるとその土地の豪族や農民に訴えられた国司もいたほどです．武士のグループは一族や仲の良い者同士で結束（けっそく）し成長していきました．数が多い方が安心だからです．つまり武士団とは互いに助け合う組織（そしき）だと考えてください．

中にはその力で，他の領地を奪う者も現れました．法律や裁判があってないような時代ですから，ますます武士団は成長していったのです．特に関東地方は開拓地だったために領地の境界がはっきりしていなかったり，都から離れていたこともあって「自分を守るのは自分とその仲間」しかいないという状況です．関東地方に多くの武士団が生まれたのもこうした理由があったからなのです．有名な秩父党とか横山党，武蔵七党とよばれているのは全てこうした武士団のことです． 

　
<span style="color:#FFAE35;"><strong>都へ帰らない国司が武士の棟梁になりました</strong> </span>

国司となって実際に領地におもむいた者を「受領」（ずりょう）といいます．都にいた時は中流の貴族や皇族でも，ひとたび地方へ行けばとても位の高い，血筋の良い人ということになります．こうした国司の中には任期が終っても都へ戻らず，国司だったときに得た自分の領地に残る者もでてきました．こうした人の中に天皇の一族であった「平氏」や「源氏」がいたのです．
自分達を守るためには，互いに手を結ぶことが一番です．しかし，同じくらいの身分だとどうしてもリーダーを選ぶのが大変で，互いにいがみ合ったりすることになります．「ドングリの背比べ」ですね・・自分達のリーダーは自分達より身分が高くなくてはならない理由がここにあります．それで，豪族達は地方にいのこった「平氏」や「源氏」を自分達のリーダーに選んだのです． 

これらのリーダーを武家の棟梁（ぶけのとうりょう）といいます．頼朝の祖先もこうした武家の棟梁でした．やがて頼朝もこうした武士団の支持を得て，関東武士団の棟梁となったのです． </blockquote>
　
以上、引用終わり。
中世以降、日本の支配を担った「武士」も、その多くは土着の農民を起源としています。
当然彼らは共同体をその基盤とし、縄文体質を色濃く残していました。
地方にあって民と苦楽寝食を共にし、一緒に田畑を開墾してきた武士。
その精神は、<span style="color:#ff3300;">中央の貴族が「民への配慮」を観念的な統治手法として扱っていたのに対し、より切実で生々しく、故に現実的に民の事を考える様に変わっていったと思われます。</span>
まさに、支配者による「民への配慮」がもう一歩進んだ段階です。

一方、単に力の拮抗する武力集団が割拠するだけでは、戦が絶えず、民にとってはたまった物ではありません。
日本に於ける武家支配のもう一つの特徴は、こうした際限ない武力闘争を調停し秩序を維持する手段として、「源氏」や「平氏」といった、<span style="color:#ff3300;"><span style="color:#ff3300;">血統の確かな「武家貴族」をそのトップに戴くという方法をとった事</span></span>です。
この発想は、古代に豪族達が天皇という“貴種”を頂点に据えて安定を図った構造と酷似しています。
時代が下っても武家の支配者は、どんなに武力で圧倒していても「関白」や「征夷大将軍」という朝廷からの“お墨付き”によって統治の正当性を確立しようとしました。

ここには、飛鳥時代以降塗重ねられてきた、「お上意識」を巧みに取り込み秩序と安定を維持する支配思想を見て取ることが出来ます。
武家時代でも、支配層も大衆も、この伝統的な統治構造を踏襲し受け容れることで、闘争を抑止し安定した生活を実現していたと考えられます。

<span style="color:#6666ff;"><span style="color:#6666ff;">一般的に、公家政権→武家政権は支配構造が全く変わったように捉えがちです。
確かに、農民出身の武士階級が支配者になることで、「民への配慮」が一歩進んだことは間違い有りません。
しかし、古代からの日本の支配者層の意識を俯瞰してみると、その根底にある、共同体基盤を活用することで安定を図る手法、そして支配者層の「民への配慮」と大衆の「お上意識」という意識構造が両輪となった統治構造は一貫していた事が分かります。
政権の主人公が変わってもこの構造はずっと引き継がれており、もちろん現代にもつながる物があると考えられます。
しかしながら現在の政治・経済の状況を見れば、果たして今の支配者層に「民への配慮」の意識が有るのか、極めて疑問です。
むしろ大衆の「お上意識」だけが色濃く残存し、結果として支配者層の無圧力と暴走を許してしまっているのではないでしょうか。
その意味でも、この日本古来の統治手法の事実とその限界・問題点を改めて皆で認識し、これからの社会を考えて行く必要があると考えています。</span></span>


以上
最後まで読んでくれて有り難うございます！
本シリーズ、年明けは私たち現代人と、天皇制の関係について検証してみたいと思います。
それでは良いお年を！
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   <title>「日本と中国は次代で共働できるのか？７」～鉄によってもたらされた中国の市場～</title>
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   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2011:/blog//1.1359</id>
   
   <published>2011-12-25T06:56:15Z</published>
   <updated>2011-12-27T12:12:54Z</updated>
   
   <summary>  シリーズ「日本と中国は次代で共働できるのか？」の第７回目は、シリーズ第２回につづく市場編です。 8)  　前回の記事で、夏・殷の時代に交換がはじまっていたことを書きました。特に殷の遺跡では、さまざまな異国の産物（青銅器、子安貝、軟玉、象牙など）が発見されており、殷の交換対象の広さを伺うことができます。また、青銅器については､王朝の絶大な権力を象徴するかのように大量に出土しており、殷人たちが、青銅器を農工具として使ったのではなく、もっぱら祭祀・武器・装飾用として利用していたことが分かります。つまり、殷人たちは、交換で得た青銅器等の装飾品を王朝の権威を誇示するための統合の道具として利用していたのです。 　 　また、殷墟の墓地群から出土した青銅製の祭器・武器・装飾品のおびただしい数から、国家をあげてその原料である銅の輸入に取り組んでいたことがわかります。そして、それを可能にしたのが殷王朝に雇われた移動や情報収集に特化した交換集団だったのです。殷の交換は遠方まで出かけその土地の珍品、貴重品をかき集める方法で、おそらく交易や市場という段階ではなく、その前段階だったと思われます。 　その殷代の交換集団は多くの物流ネットワークを持っており、彼らが周代で市場の原型を作っていきます。どのような変化をとげたのか、今回はその辺りから書いていきたいと思います。 :tikara:  　続きへいく前に、応援クリックお願いします。 :lol:      （カッピカピ）...</summary>
   <author>
      <name>hi-ro</name>
      
   </author>
         <category term="Ⅴ中国文明" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[  シリーズ「日本と中国は次代で共働できるのか？」の第７回目は、シリーズ第２回につづく市場編です。 8) 

　<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/10/001334.html">前回の記事</a>で、<span style="color:#ff3300;">夏・殷の時代に交換がはじまっていた</span>ことを書きました。特に殷の遺跡では、さまざまな異国の産物（青銅器、子安貝、軟玉、象牙など）が発見されており、殷の交換対象の広さを伺うことができます。また、青銅器については､王朝の絶大な権力を象徴するかのように大量に出土しており、殷人たちが、青銅器を農工具として使ったのではなく、もっぱら祭祀・武器・装飾用として利用していたことが分かります。つまり、<span style="color:#ff3300;">殷人たちは、交換で得た青銅器等の装飾品を王朝の権威を誇示するための統合の道具として利用していたのです。</span>

<img alt="%E6%AE%B7%E3%80%80%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A81.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E6%AE%B7%E3%80%80%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A81.jpg" width="86" height="112" />　<img alt="%E6%AE%B7%E3%80%80%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A82.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E6%AE%B7%E3%80%80%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A82.jpg" width="120" height="120" />


　また、殷墟の墓地群から出土した青銅製の祭器・武器・装飾品のおびただしい数から、<span style="color:#ff3300;">国家をあげてその原料である銅の輸入に取り組んでいたことがわかります。そして、それを可能にしたのが殷王朝に雇われた移動や情報収集に特化した交換集団だったのです。</span><span style="color:#009933;">殷の交換は遠方まで出かけその土地の珍品、貴重品をかき集める方法で、おそらく交易や市場という段階ではなく、その前段階だったと思われます。</span>

　その殷代の交換集団は多くの物流ネットワークを持っており、彼らが周代で市場の原型を作っていきます。どのような変化をとげたのか、今回はその辺りから書いていきたいと思います。 :tikara: 

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（カッピカピ）]]>
      <![CDATA[<span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;">①王の権威付け為の交換の担い手から解き放たれた殷（商）人たちの行方は？</span></span>

　殷を倒した周は、一系の血族組織を中心とした国家づくりを目指し、殷系諸邑制国家をことごとく解体しました。そして、その主要な地には一族・同姓のものを、小規模な邑には功臣にあたる異姓の諸侯を派遣してその地に住まわせ、その地の民と田畑の新たな支配者（諸侯）にすると同時に、その諸侯に周囲の土着の諸族が住む小邑を支配させる体制をとったのです。

　<span style="color:#ff3300;">この分権的要素をもった諸侯国は中国各地へと分散し、それぞれの間で交流をもち、交換関係を進展させ交易へとその形を進化させていったと考えられます。そして、この時代の交易に大きく従事したのが周に敗れた殷（商）の残党たちだったのです。</span>

　殷の交易者たちは各地の新しい支配者のもとに散り、自らを商の人と名乗り、交易に従事しました。<span style="color:#ff3300;">その行いが、交易を商の人の生業、つまりは商業と呼ぶようになり、これにたずさわる人を、その出身に関わらず、商人と呼ぶようになったのです。</span>殷を商と呼称するようになったのも周の時代以降なのです。

　ただ、この時代の交易の発注者は依然として、王朝や諸侯であり、まだ管理交易の性格を強く持っていたと考えられます。

　私的商人がはっきりとしたかたちで登場し、彼らが私人のために各地の特産物を流通させるようになったのは、鋳造貨幣がつくられた次の春秋・戦国時代に入ってからであり、周代はその準備期間だったのです。

<span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;">②春秋・戦国時代に入って一気に市場が拡大したのはなんで？</span></span>

　交易ネットワークが広がったことによって、諸侯国は活性化し、支配者たちは与えられた土地の経営・開発を競い合いました。その結果、農耕の技術水準が高まり、農耕地域の拡大が一気に進み、各諸侯は徐々にその独立性を強めていったのです。そして、<span style="color:#ff3300;">この動きを加速させたのが、鉄器による農具の発展だったのです。</span>

<img alt="%E9%89%84%E8%BE%B2%E5%85%B7.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E9%89%84%E8%BE%B2%E5%85%B7.jpg" width="180" height="156" />

　鉄の農工具は、それ以前の石や木、あるいは青銅の農耕具に比べてはるかに優れ、深耕・除草・土木作業を容易にしました。<span style="color:#ff3300;">この鉄器による農耕革命によって、各諸侯が邑制国家として独立することが可能になったのです。そして、邑制国家の支配者たちは鉄器を手に入れるために、鉄の交易ルート開発を競いあったのです。</span><span style="color:#009933;">その結果、市場の組織化が進み、鉄器の売買が盛んに行なわれ、それを引き金に青銅製の鋳造貨幣があらわれるようになったのです。</span>

<img alt="%E9%8B%B3%E9%80%A0%E8%B2%A8%E5%B9%A301_img.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E9%8B%B3%E9%80%A0%E8%B2%A8%E5%B9%A301_img.jpg" width="257" height="373" />

　つまり、鉄器の出現が各諸侯による領土拡大合戦の火付け役となり、同時に市場の組織化、活性化を呼び起こしたのです。鉄器は、この時代に各地が進めていた大規模灌漑農耕に欠かすことの出来ない最先端技術であり、農民にとっても農地拡大を目指すために必要不可欠なものだったのです。

　しかし、こうしてみてみると、古代中国市場で出回ったもの（鉄器や銅、手工業品）は、西洋の市場で売買された貴金属や絹織物etcといった高級品と比べて、かなり地味だったことに気付きます。

<span style="font-size:130%;"><span style="color:#6666ff;">③西洋での市場拡大の原動力と中国のそれとの違いは？</span></span>　

　ここで、西洋での市場の起源を振り返ってみたいと思います。以下、<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=168367">なんで屋劇場『金貸し支配とその弱点』１～市場の起源、原資拡大の方法、その真実の姿～</a>からの引用です。

　　 :m215: 　　 :m216: 　　 :m217: 　　 :m218: 　　 :m219: 　　

<blockquote>２． 原資拡大の方法
・ 国家に対する寄生虫である市場がその資金源を拡大させていく方法は、概ね、以下の４つがある。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
・略奪・・つまり、武力にものを言わせて、財を奪い取るという方法だが、これは市場の初期形態にとどまらず、近代市場から現代のグローバリズム資本主義までをも貫く、極めて本質的かつ普遍的な方法論のひとつである。近代市場はアメリカ大陸とアジア大陸の豊かな冨の収奪の上につくられたし、イラク戦争は、アメリカによる石油資源の収奪に他ならない。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　
・騙し・・貴金属をはじめとする市場商品は突き詰めると、なくても困らないものである。しかし、それが希少価値etcといった美辞麗句の下では、圧倒的に価値の高いものとみなされ、幻想価値→幻想価格が形成される。人々が孕む性幻想や快美欠乏を梃子として作り出される市場商品と農産品の価格格差。それ自体が騙しであるが、この騙しこそが市場拡大の固有の原動力である。</blockquote>

　　 :m215: 　　 :m216: 　　 :m217: 　　 :m218: 　　 :m219: 

　ここから分かる事は、西洋における市場拡大の原動力は<span style="color:#ff3300;">『騙し』</span>であり、いかにして幻想価値を高めるかが商人の腕の見せ所だったということです。だからこそ、西洋市場で出回ったものは、貴金属や絹織物etcといった高級品であり、取引相手は普段の生活に全く困らない、貴族階級だったのです。

　<span style="color:#009933;">それに対し、中国の市場で出回ったものは鉄器という生活に不可欠なものであり、取引相手は庶民にまで及んでいます。つまり、中国での市場拡大の原動力は西洋のような『騙し』ではなく、現実に広がった開墾さえすればいくらでも可能な</span><span style="color:#ff3300;">『農地拡大への可能性』</span><span style="color:#009933;">だったのです。</span>


　ではこの違いはどこからきたのでしょうか。


　<span style="color:#ff3300;">一つは、土地の豊かさの違いです。</span><a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/11/001348.html">「日本は中国と共働できるか？」５～中国の自然外圧は豊か？厳しい？</a>の記事にもあるように、中国は恵まれた地勢と気候、そして開墾が容易な黄土を有しています。それゆえに、<span style="color:#6666ff;">必要な鉄工具さえあれば、家族単位でも農地を開墾し、収穫＝冨を得ることが出来るのです。</span>裏返せば農地拡大合戦が繰り広げられ、それに呼応する形で市場が形成されました。従って市場の原資となる交易対象は西洋より広く、また実質的な商品に絞られるのです。

　<span style="color:#ff3300;">二つ目は、鉄の作られ方と使われ方です。</span>西洋では、鉄器の製造は鍛鉄からはじまり、鋳鉄に移行したのは１３世紀以降ですが、中国では既に紀元前２千年前から鋳造からはじまっています。<span style="color:#6666ff;">鋳鉄は硬いがもろい性質をもっており、それは武器よりも農工具に適していました。さらに鋳鉄は大量生産が可能であり、中国社会の農耕技術の発展に大きく貢献したのです。</span>

　この黄土という豊かな土地と鋳鉄という製法を得た中国は、黄河流域を中心に、鉄器という商品を媒介にして市場を拡大・活性化していったのです。戦国末期には諸侯を上回る富豪商も登場するなど、西洋を上回る活況を市場は呈しまいした。<span style="color:#009933;">それは商人の人数や利益が大きかっただけでなく、西洋の市場が王族に限られた幻想商品の段階に留まっていたのに対して、中国では大衆レベルまで裾野が広がっており、その商品の中心は生活必需品に近い鉄や塩といった、いわば「実質市場」に終始していたからだと考えられます。</span><span style="color:#ff3300;">つまり、中国の市場は「幻想市場」を経由せずいきなり「実質市場」から始まったのです。</span>

　<span style="color:#6666ff;">しかし、西洋をしのぐ勢いで活性化した中国の市場は、秦の登場によって一変します。</span>

　<span style="color:#ff3300;">秦は周代から既に武器を四川に調達しており、それは国家が主導して市場を動かしていました。

　その後の秦の中国統一以降、漢に至るまで中国の鉄や塩は国家が独占します。</span>鉄官を各地に配し、国内の鉄は全て国家が抑えます、同時に商人は懲役や労役に従事させられ、民間市場はあっという間に縮小、市場を国家が仕切る事になります。

　<span style="color:#009933;">よく、</span><span style="color:#ff3300;">中国は市場国家</span><span style="color:#009933;">（参考投稿：<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=249296">岡田史観を紹介～中国の本質は市場である</a>）だと言われる説がありますが、これは秦代以降の官僚主導、国家主導の市場経済を指し、その後の中国の市場と国家の関係の基礎がこの時代に形成されます。</span>しかし、商人は抹殺されたわけでなく、国家の規制が厳しい時代には裏に潜り、規制が緩めば表に出てきます。宋代に再び活性化した民間市場はその流れの中で見る事ができ、現在成長する中国経済も国家市場から民間市場へ規制を緩めることで活性化しているに過ぎないと見る事ができます。

　<span style="color:#6666ff;">しかしこの国家と市場の持ちつ持たれつの関係は一方的に国家が市場に搾取されてきた西洋に比べると異質で、良し悪しは別としてこれが中国市場のひとつの特徴であると言えるのではないでしょうか。</span>　
　
参考文献：早稲田商学第388号
<a href="http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4769/1/93024_388.pdf">『市場と文明の進化誌②』</a>

<a href="http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/4770/1/93029_389.pdf">『市場と文明の進化誌③』</a>]]>
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   <title>「支配者から見た属国意識」～４．支配者が作り出した天皇主義3</title>
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   <published>2011-12-25T03:00:00Z</published>
   <updated>2011-12-25T03:35:51Z</updated>
   
   <summary>　　 　十六弁八重表菊紋　　古代朝鮮半島勢力図　　伊勢神宮宇治橋大鳥居 　次号より続きです。天皇制、天皇主義は、北方遊牧騎馬民族である扶余（ツングース）系が、半島の土着の倭人系（韓人）や中国の農耕部族を征服・混交を繰り返しつくられ、伽耶王国（そのうちの金官伽耶等）の王族・貴族より、日本に伝わったとしました。これには、いろいろと異論がありそうです。例えば、支配・侵略目的で来た列島への渡来人が持ち込んだのか？それを阻止しようと国家体制を固めるために作られたものか？はたまた、天智天皇（百済）あるいは、天武天皇（高句麗：蓋蘇文？）が持ち込んだか？天孫思想をもつ唯一？の豪族である物部氏（高句麗系　敏達天皇派）が天皇家（天孫族・天一族？）とともに持ち込んだのか？さらに、そのルーツのスキタイ民族系が持ち込んだのか？解明すべき点がかなりありそうです。（別号で検証したいと思います。 :m205:  :m206:  :m207: ） 　 いずれにしても、大陸・半島では、南方系農耕民族の文化に、新しく北方遊牧騎馬民族の文化が塗り重ねられたことは確かであると思います。 　さて、そのおおもとのツングース系やモンゴル系、チベット系に代表される遊牧騎馬民族がどのような集団の統治の仕方や部族の統治の仕方をしていたのでしょうか？また、彼らはどういった思想をもって、半島や大陸で農耕民を支配したのでしょうか？そして、やがて、彼らの意識が変遷しながら列島に伝道されましたが、どのように変わっていったのでしょうか？そこを解明したいと思います。 いつも読んでいただき、ありがとうございます。 :m021:  :m021:  :m021:  :m021:  　...</summary>
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      <name>2310</name>
      
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         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<img alt="%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%BC%81%E5%85%AB%E9%87%8D%E8%A1%A8%E8%8F%8A%E7%B4%8B.png" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%BC%81%E5%85%AB%E9%87%8D%E8%A1%A8%E8%8F%8A%E7%B4%8B.png" width="150" height="150" />　<img alt="20110514_1985091.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/20110514_1985091.jpg" width="112" height="150" />　<img alt="%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%A5%80%E3%82%8B%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%81%AE%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E5%B1%85%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E5%86%AC%E8%87%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AB%E6%98%87%E3%82%8B%E5%A4%AA%E9%99%BD.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E7%A5%9E%E3%82%92%E7%A5%80%E3%82%8B%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%81%AE%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E5%B1%85%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E5%86%AC%E8%87%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%81%AB%E6%98%87%E3%82%8B%E5%A4%AA%E9%99%BD.jpg" width="168" height="150" />
　十六弁八重表菊紋　　古代朝鮮半島勢力図　　伊勢神宮宇治橋大鳥居

　次号より続きです。天皇制、天皇主義は、北方遊牧騎馬民族である扶余（ツングース）系が、半島の土着の倭人系（韓人）や中国の農耕部族を征服・混交を繰り返しつくられ、伽耶王国（そのうちの金官伽耶等）の王族・貴族より、日本に伝わったとしました。これには、いろいろと異論がありそうです。例えば、<span style="color:#ff3300;">支配・侵略目的で来た列島への渡来人が持ち込んだのか？</span><span style="color:#6666ff;">それを阻止しようと国家体制を固めるために作られたものか？</span>はたまた、<span style="color:#ff3300;">天智天皇（百済）</span>あるいは、<span style="color:#6666ff;">天武天皇（高句麗：蓋蘇文？）</span>が持ち込んだか？<span style="color:#ff3300;">天孫思想をもつ唯一？の豪族である物部氏（高句麗系　敏達天皇派）が天皇家（天孫族・天一族？）とともに持ち込んだのか？</span>さらに、<span style="color:#6666ff;">そのルーツのスキタイ民族系が持ち込んだのか？</span>解明すべき点がかなりありそうです。（別号で検証したいと思います。 :m205:  :m206:  :m207: ）
　
<u>いずれにしても、大陸・半島では、南方系農耕民族の文化に、新しく北方遊牧騎馬民族の文化が塗り重ねられたことは確かであると思います。</u>

　さて、そのおおもとの<span style="color:#ff3300;">ツングース系やモンゴル系、チベット系に代表される遊牧騎馬民族</span><span style="color:#ff3300;">がどのような集団の統治の仕方や部族の統治の仕方をしていた</span>のでしょうか？また、<span style="color:#ff3300;">彼らはどういった思想をもって、半島や大陸で農耕民を支配したのでしょうか？そして、やがて、彼らの意識が変遷しながら列島に伝道されましたが、どのように変わっていったのでしょうか？</span>そこを解明したいと思います。

いつも読んでいただき、ありがとうございます。 :m021:  :m021:  :m021:  :m021: 

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      <![CDATA[◆前号より
 :m281: <span style="color:#ff3300;">4】</span><span style="color:#009933;">騎馬民族から由来したとしたら、もともと、天孫思想をもっていたと考えられ、それによって統治を行っていたはずですが、どのような統治をしたのでしょうか？</span>
です。
　まず、<span style="color:#6666ff;">江上波夫氏の遊牧騎馬民族の史観</span>を見てみましょう。これはとても説得力があるものであります。以前、当ブログであつかっていたものがありますのでご紹介します。<span style="color:#009933;">江上波夫氏の三つの著書、「騎馬民族征服王朝説」「騎馬民族国家」「騎馬民族は来た!?来ない?!」</span>からのご紹介です。
<img alt="noukou.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/noukou.jpg" width="200" height="150" />　<img alt="kazafzoku.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/kazafzoku.jpg" width="222" height="150" />
農耕民と遊牧騎馬民

<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/09/001320.html" target="_blank">◆著書分析より明らかにする日本支配の始まり～６．『騎馬民族征服王朝説』にみる天皇家の血筋と支配の手口～</a>
<blockquote>
＜江上氏の史観＞　
<span style="color:#6666ff;">●</span><span style="color:#ff3300;">その１、農耕民族は変わりにくい</span>
<span style="background:#FFE3E4"><u>一般的に見て農耕民族は、自己の伝統的文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の異質的な文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変革させるような傾向がきわめて少なく、農耕民である倭人の場合でも同様であったと思われること。（『騎馬民族国家』より）</u></span>

<span style="color:#6666ff;">●</span><span style="color:#ff3300;">その２、騎馬民族国家も大和朝廷も二元性支配</span>
●大陸における騎馬民族国家の支配体制（諸氏・部族・種族の編成の形）
<span style="background:#FFE3E3">①王家やその支族などを含めた王族系の氏・部族と、その姻族などを含め、異姓の氏・部族との並存的・分掌的存在</span>
<span style="background:#FFE3E3">②征服王朝の本族(国族)と被征服異族(土着系)との、両面的ないし重層的存在が認められる。</span>
●大和朝廷の氏姓制度
大和朝廷国家の創始・発展に、天皇氏(王族)とともに関与した諸豪族に、大別して二つのグループがあった。
<span style="background:#FFE3E3">①第一は、世襲の職能をもって朝廷に奉仕し、朝廷に直結ないし直属した、内的な豪族で、大和朝廷の軍事的・経済的基盤をなし、また大和朝廷を機能せしめたもの―主要には天孫天神系(姻族)。</span>
<span style="background:#FFE3">②第二は、土着の豪族で、皇室や大和朝廷との関係は、婚姻関係などを通じて非常に親縁なものから半独立的なものまでいろいろな段階がある―大部分が国神系。</span>

<span style="color:#6666ff;">●</span><span style="color:#ff3300;">その３、騎馬民族は頭を使って間接支配する</span>
<span style="background:#FFE3E3"><u>遊牧民自身は家畜以外に何も持っていない。しかし頭を持っている。</u></span>人間として人間たらしめるものは頭にあるんだ。いくら資源があったって、頭がなければだめなんだ。その働きに役立つのは情報と知識と判断力だ。それを持てば、簡単に世界は自分のものになる。初めからそれを知っていたのが遊牧民なんです。

　そのやり方は家畜との生活から学んだと思うんだ。家畜を持っていけば、草原があるかぎりどこでも住める。しかし、家畜をいかにするかということが問題だ。<span style="background:#FFE3E3"><u>遊牧民でいるあいだは家畜をどうしたらいちばん良いかというと、これは自然の中にいた動物、そこの草を食っていた動物なんだから、自然にしておけばまちがいないんだ。不自然にしちゃいけない。</u></span>自然地帯に行って、家畜を飼うようになると、今度はそこのやり方でやるわけだ。<span style="background:#FFE3E3"><u>農耕地帯に入ったら、自分たちは王侯貴族的になるだけで、百姓になるわけじゃない。支配者になるだけで、そうなったらもう戦争はいらないんだから、戦争はやめたと言えばいい。ただ騎馬民族の格好を装っていればいい。</u></span>

　そういう流儀で、やっていくんですね。農耕地帯に行ったら、そこの王侯貴族のように土着して、そこの文化を取り入れて、そこの人間になればいいんだ。何人も奥さんをもらって自分の仲間をふやす。自分の一族をふやすわけです。三代目には血も言葉もみんなそこの人間になっちゃうんですよ。そしてそれが転々と移動していくわけでしょう。
　<span style="background:#FFE3E3"><u>父系の方は一貫していても、母系の方は何本にもなっちゃう。</u></span>いろんな血も入ってしまう。モンゴルの諺に「骨は父方から肉は母方から貰う」とあるように。だから、外交も政治も学問も、みんなできるようになるんです。何代もやっていると要領をみんな覚えちゃう。彼らにはそういう伝統がある。

　<span style="background:#FFE3E3"><u>経済と文化は、そこの土地の人間にみんなまかせちゃう。間接統治をやって、直接にはやらない。数代すると名義上の王家になっちゃう、天皇のように。</u></span>トルコでもどこでも同じことですよ。たとえばカリフはイスラム帝国の名義上の首長で、実際の支配はスルタンにやらせておいても、王位を簒奪（さんだつ）することはない。

　<span style="background:#FFE3E3"><u>遊牧騎馬民族出身の王侯・将軍たちは何をやるかというと、外交、警察。</u></span>広大な地域を支配していますから、軍隊といったって、警察ですね。各地に小さい部隊を置いて。これはもう、どこでもやっていますよ。チンギス=ハン軍隊の子孫がアフガンにモゴール族として現存したり、乾隆帝（けんりゅうてい）のときの清の遠征軍の子孫が新疆に残っていたりしています。

　彼らの中央政府の構造は簡単明瞭なもので、遼（契丹（きったん））なんかはっきりしているんですよ。軍事・警察・外交は北院の専管で遊牧民系がやる。南院というのは経済・統治ですね、漢人・渤海（ぼっかい）人などの<span style="background:#FFE3E3"><u>農民系に統治と経済は全部まかせるんです。</u></span>
　しかし、契丹国も中期までいったら、両院ともほとんどその土地の人にまかせてしまう。<span style="background:#FFE3E3"><u>自分たちがその土地の人間になってもいいという覚悟ができたら、はっきりそうしてしまう。そしてそこの文化をめちゃくちゃ盛んにさせるんですよ。</u></span>康煕（こうき）・乾隆（けんりゅう）時代になると、まったくそうですね。全部まかせちゃって、<u><span style="background:#FFE3E3">今までの中国の歴代の大王・皇帝たちにもできなかった大文化事業を興すわけだ。</span></u>
　<span style="background:#FFE3E3"><u>『康煕（こうき）字典』なんで、中国の字引のものすごく大きいものを作らせたり、中国のあらゆる文化を集めた『古今図書集成』を作ったり、あるいは『四庫（しこ）全書』を編んでみたり、あくまで自分たちは、あなたがた地元のために、平和のために、やるんだという大宣伝をするんですね。</u></span>
　それがやはり騎馬民族の生き方であって、アラブでもどこでもそうですよ。支配したら今度は大がかりな文化事業をやる。だからアラブ文明とか、モンゴル文明とか、ペルシャ文明とかできるわけです。
　古代は宗教建築の石窟・寺院・神殿・教会やペルセポリスの宮殿、ペルシアの王陵・ヴェーダ・旧約・新約・仏典・コーランといった宗教経典。壁画・磨崖（まがい）彫刻・動物意匠の金属器といった美術がそうだし、中世になりゃ、天文・暦学、医・薬学、地理・哲学・歴史といった科学全般、大蔵経（だいぞうきょう）・地図などの出版と、みんな騎馬民族が主役なんだ。
<img alt="co_est_ae.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/co_est_ae.jpg" width="150" height="100" />

　<span style="background:#FFFFA4">もとはといえば、一介の、馬に乗って、かっぱらいやって、家畜を引き連れて草原をさまよっていた連中なんです。三、四代前までさかのぼれば、みんなそうだった。ところが、そういう人たち、騎馬民族が来なければ、知的な国家はできない。純農耕民族はどんなにやってもピラミッドのエジプトやインカ帝国のように知的な国家にはなれないんですよ。
　今までの世界の歴史家は、騎馬民族というものは全部文化の低い未開人（バルバロイ）で、都市もなければ文字も持たない、ただ戦争ばかりして、やかいだと。征服するのはなかなかむずかしいけれども、文化も何も持たないから、ほったらかしておけばいいのだと。そういう歴史観が、ヘロドトスだってそうだし、中国の『史記』の司馬遷だってそうなんです。</span>
　けれども、そういうやっかいな未開人が、農耕地帯に入ってきて、大世界帝国や大文明をつくるのはどういうことかと。しかも、そういうことが何百年とつづいて、むしろ世界史を特徴づけているのはどうしてなのか、と私は考えたわけです。
（『騎馬民族は来た!?来ない?!』より）
</blockquote>

　この遊牧騎馬民族の世界観を見ると、まっとうな見解であるとも思われます。古来、西アジアでは、<「農耕民は本能的に柵をめぐらし、遊牧民は本能的に柵を超えてゆく」という格言があるそうです。当然、土地に依存しない遊牧生産には柵や国家などどうでもよいと思えます。

　しかし、欠落している視点があります。<span style="color:#ff3300;"><u>遊牧騎馬民族が大文化事業を起こし、歴史書や建造物をつくらせるのも、掠奪・皆殺しをするのも、農耕民の上に君臨し、騎馬という武力をもつのも、全ては、縄張り闘争に端を発する力の原理で集団や民を支配・統合しようとするため</u></span>です。

　その根は、<u>性闘争本能（=縄張り闘争本能）からくる自我（他者否定と自己正当化）</u>であり、遊牧民は、私権集団であるということです。<span style="color:#ff3300;">遊牧部族は、土地をもたない根無し草で、共認原理で統合されていた農耕民の安定や秩序が保たれず、共認充足しえない、不安定な集団構造をしており、不全発の統合観念を持っていると思われます。</span>

　しかし、農耕民族と融合することを決めた遊牧民族は、<span style="color:#ff3300;">間接統治</span>を行い、<span style="color:#ff3300;">二元性をもって支配するという構造に変化</span>しています。上記にもあるとおり、<span style="color:#009933;">地域経済や文化を土着の農耕民に任せ、外交と警察をもって支配するという間接支配の構造</span>は、かつての<span style="color:#ff3300;">ユーラシア大陸の戦争の皆殺しの掠奪</span> :m039:  :m040:  :m261:  :m252: から変わっており、農耕部族を統治する中で、このような手法を学んだのだろうと思います。それは、<span style="color:#ff3300;">牧畜、遊牧の家畜を手なずけるという経験（家畜集団のボスを従えれば、その他の家畜が追従してくるという集団追従本能を持っていることを体感的に実感）していた</span>と思います。
これは、<u>遊牧民族が南方系農耕民を支配する構造と同じであり、部族・氏族共同体の長を手なずければ、武力を持たない下層の農民達は、追従してくることをよく知っていた</u>からです。

　日本神話から天皇制に繋がる特徴は、<span style="color:#ff3300;">万世一系（男子相続=父系制）、天孫降臨の天孫思想、現人神崇拝、太陽神の代表される天神思想、三種の神器、神社</span>などです。このような<span style="color:#ff3300;">超越存在としての天皇の権威付けと集団統治の方法</span>は、上述したような遊牧騎馬民族から発したもの</span>であり、もっと旧くは、シュメールやスキタイの文化から発したもの</span>であると思われます。余談ではありますが、日本で中央集権国家への業績をのこし、日本書紀編纂や中央集権国家に繋がる大宝律令を制定した<span style="color:#ff3300;">天武天皇（大海人皇子　高句麗系）</span>は、執政天皇として、<span style="color:#ff3300;">豪族の藤原氏（中臣鎌足（=百済使人・智積）は、高句麗系百済人）</span>とともに、遊牧騎馬民族の出身か、伽耶系金官伽耶の高句麗系の王族？あるいは、彼らの影響を受けた韓半島の王族・貴族の出との説もあり、納得するところです。

　さて、更に、半島から列島に渡った渡来人から、遊牧騎馬民族系のこのような思想が支配目的で1600年前に伝わってきたと一旦すると、<u>日本列島に持ち込まれて、なにがとう変わったのか？が問題となります。</u>

<img alt="15%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/15%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg" width="150" height="150" />　<img alt="25%E6%AD%A6%E7%83%88%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/25%E6%AD%A6%E7%83%88%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg" width="140" height="150" />　<img alt="40%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/40%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87.jpg" width="169" height="150" />

雄略天皇と武烈天皇と天武天皇
:m282: <span style="color:#ff3300;">5】</span><span style="color:#009933;">属国意識の強い支配者の信奉対象が、日本に来て、「力」から「権威」になぜ変わったのか？天皇制とは、騎馬民族のもともとの発想をそのまま列島に転写？半島の南方系農耕部族の統合の仕方で学習して列島に渡来したのか？</span>
ですが、
　まず、大陸や半島で遊牧騎馬民族が農耕民族を支配する中で、概ね、天皇制のような統合観念の素養がすでに出来上がっていたと考えられます。よって<span style="color:#ff3300;">「武力」→「権力」</span>に変化したのは、<u>列島で変化したのではなく、大陸や半島で変化したのだろう</u>と考えられます。
　しかし、半島の王族・貴族たちが列島に渡来した時代は、<span style="color:#ff3300;"><u>既に、弥生人の共同性・受け入れ体質を色濃く残す部族・氏族が力をもっており、強固な自立性の高い共認統合による部族連合が出来上がっていた</u></span>と思われます。<span style="color:#ff3300;">小集団で渡来した半島の支配民は、完全に共同体を残すという統治方法を取らざるをえなかったのだろうと思います。</span>だから共同体を温存する形で統治したのだろうと思われます。
　それだけではなく、<span style="color:#ff3300;"><u>それ以前に半島から移住した氏族が、既に大きな力をもっており、半島から移住した各王族・貴族らをまとめる為には、中国や強国への朝貢意識に見られる属国意識や屈属意識を利用して、超越存在たる天皇を最高権威として位置づけ、土着氏族の安定・秩序期待の要請もあり、支配氏族間の闘争・戦争や部族間の掠奪を止揚することを考えた</u></span>と思われます。
　こうして、<span style="color:#ff3300;">下も上も秩序安定収束を形成</span>し、古事記、日本書紀のへ編纂を契機に、<span style="color:#ff3300;">権威という支配観念</span>が成立して、7Cから8C頃までに倭国→日本として中央集権国家となっていったと思われます。
　その後、天皇の権威を傘にした、藤原氏を初めとする支配豪族は、実質の支配権力を天皇から剥奪し、己の思うとおりの政治や統治を進めていったのだろうと思います。それは、天皇を天孫とする神話と神社を使って、民を観念支配して、豪族の争いを止揚し、執政と権力を手に入れ、この天皇制を固めていったものと思われます。かつて、「鼠は穴に伏せて生き、穴を失って死ぬ」という古人大兄皇子の寄生虫のような蘇我入鹿への言葉が象徴しているとおり、蘇我氏のもっていた<span style="color:#ff3300;">「強い天皇は必要ない」</span>という意識が豪族達のどこかにあったことを物語っています。
　
　このような<span style="color:#ff3300;">天皇制は、支配氏族が権威の傘下に入り、実質権力を握る隠れ蓑</span>ともいえます。しかし、それだけでは、1500年も曲がりなりにも連綿と継承された根拠にはなりえません。そこには、<span style="color:#ff3300;"><u>日本人の秩序・安心期待と共同体の共認充足、縄文人→弥生人の受け入れ体質</u></span>があったからこそ、この天皇制は、いままで継続してきたのだろうと思います。
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   <title>「支配者から見た属国意識」～４．支配者が作り出した天皇主義２</title>
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   <published>2011-12-21T03:00:00Z</published>
   <updated>2011-12-21T09:27:37Z</updated>
   
   <summary>　　 　十六弁八重表菊紋　　古代朝鮮半島勢力図　　伊勢神宮宇治橋大鳥居 　天皇主義の詳細を解明するために、具体的な史実を解明してゆく必要があります。全号では、社会統合という視点で、支配者と被支配者の意識の収束先を見て来ました。こうした根源的な意識の収束が、日本人に特異な体質である民の「お上捨象」とお上の「民の生活配慮」を生み出し、天皇という権威を現在まで継承してきました。 さて、今回はもう少し突っ込んで見たいと思います。 いつも読んでいただき、ありがとうございます。 :m021:  :m021:  :m021:  :m021:  　...</summary>
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         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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　十六弁八重表菊紋　　古代朝鮮半島勢力図　　伊勢神宮宇治橋大鳥居

　天皇主義の詳細を解明するために、具体的な史実を解明してゆく必要があります。全号では、社会統合という視点で、支配者と被支配者の意識の収束先を見て来ました。こうした根源的な意識の収束が、<span style="background:#FFE3E3">日本人に特異な体質</span>である<span style="color:#ff3300;">民の「お上捨象」とお上の「民の生活配慮」</span>を生み出し、<span style="color:#ff3300;">天皇という権威</span>を現在まで継承してきました。
さて、今回はもう少し突っ込んで見たいと思います。

いつも読んでいただき、ありがとうございます。 :m021:  :m021:  :m021:  :m021: 

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      <![CDATA[では、まずは、
 :m281: <span style="color:#ff3300;"> 1】</span><span style="color:#009933;">古代日本列島における部族統合とはどんな統治の仕方だったのか？</span>
・1600年前以前に列島で勢力を振るった豪族たちは、どのような部族であったか？
・どのような部族集団と部族集団間を統治していったのか？

　いままでのこのブログでも語られてきたように、縄文人は受け入れ体質を色濃く残しており、その後、中国の南方系農耕民族の江南人（呉人→越人）の文化が塗り重なって混血し弥生人が形成されました。その文化は<u>、縄文人の受け入れ体質を継承し、集団間を贈与という贈り物でつなぎ、部族内は、母系制・母権制を取り、精霊信仰をベースとしてまとまり、海人族と言われるように航海術や農耕技術などに優れた文化をもっていました。</u>部族の方針は、合議制で決定され、信認のある部族のボスが長となって集団を形成していたのだと推測されます。

下記を参考として下さい。
<span style="color:#ff3300;">◆江南人と縄文人の融合と弥生人の形成過程などは下記が詳しいです。</span>
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=258116" target="_blank">●日本人の「お上」意識と支配階級の属国意識～中間整理　江南人との混血における受け入れ体質</a>
<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/11/001349.html" target="_blank">●弥生時代の解明１　～倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか？</a>
<a href="http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/11/000476.html" target="_blank">●外圧状況から見る日本婚姻史　～群婚の崩壊～</a>

<span style="color:#ff3300;">◆江南人とはなにか？は下記が詳しいです。</span>
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184200" target="_blank">●江南人と日本人：：：倭人とは何者か？１</a>
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184201" target="_blank">●江南人と日本人：：：倭人とは何者か？２</a>

<span style="color:#ff3300;">◆婚姻に関しては下記が詳しいです。</span>
<a href="http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_05_01nihonnjinn_no_kisosuudann_no_keisei.html" target="_blank">●日本人の起源　第2部　縄文稲作の究明　05. 日本人形成の基層に在った集団－北部九州の人々－</a>

その後、弥生前期末（BC200）年から中期初頭（BC300年）に九州にあったとされる<span style="color:#ff3300;">伊都国、奴国、早良王国</span>などが登場します。この段階では、小国の集まりにすぎず、列島には、国家や民族、氏族や部族などの概念がなかったと思われ、それらが登場するのは、古墳時代からといえそうです。特に、<span style="color:#ff3300;">北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠（東海）・関東の勢力</span>が台頭し始めます。

　3世紀から始まる古墳時代に、ヤマト王権（「大和朝廷」「大和王権」「倭王権」「ヤマト政権」「大和政権」とも言われます）という「王」「大王」（おおきみ）などと呼称された倭国の王を中心として、有力氏族連合して成立した政治権力、政治組織ができました。この王権を構成するのが、<span style="color:#ff3300;">狗奴</span>（くな・呉系）・<span style="color:#ff3300;">任那</span>（みまな・加羅系）の両国が誓約（うけい=婚姻）で天皇家と合体した勢力と倭の国各地（各国）出身の豪族の<span style="color:#ff3300;">和邇</span>（呉系・百済派）、<span style="color:#ff3300;">葛城</span>（加羅系・任那派）、<span style="color:#ff3300;">大伴</span>（加羅系・百済派）、<span style="color:#ff3300;">物部</span>（呉系・新羅派）、<span style="color:#ff3300;">蘇我</span>（高句麗系、百済系）、<span style="color:#ff3300;">中臣</span>（加羅系・百済派・後の藤原氏）などの「王」です。<span style="color:#ff3300;">それぞれに日本列島の土地を領有する連合国家</span>で、まだ完全統一的なものでは無かったようです。

　ヤマト王権以前の弥生人には、統合観念（部族名や万世一系の父系継承制、現人神や三種の神器、天孫降臨思想や太陽神の信仰対象）は必要ではなく、部族独自の神話を持ち、それぞれの神々を祀っていたものと思われます。また、集団の自立性が高く、農耕生産による土着、自文化や思想を継承し続ける場合が多かったと推測されます。（後段の江上氏の見解も参照）

　弥生時代後期までは、日本には、部族共同体が残存しており、集団は、<u>部族連合という統合様式をとって同類圧力を止揚していたと推測され、そこには、前述した統合観念は殆ど見られないようです。</u>本源共認と規範があればそれで集団として一定のまとまりが可能であり、その部族内での信認された身分序列によって緩やかに統合されていたといえるでしょう。<u>民にとって必要なのは、現実の安定・秩序共認で、架空の遠い存在である天皇という身分や地位や権力などの統合観念や民族意識も不要である</u>との結論に至ります。

　このように、日本で生まれる素地がない天皇制を<u>誰が、どのように持ち込んだのでしょうか？</u>その前に、1600年前に支配目的で渡来した民族を見てみましょう。

 :m282: <span style="color:#ff3300;">2】</span><span style="color:#009933;">1600年前に支配目的で列島に渡来した民とは、ツングース系朝鮮系氏族とあるが、それは、具体的にどこのどのような民なのか？</span>
・半島で部族や国家を形成した後に渡来した、遊牧騎馬民族か？半島の農耕民族か？百済・新羅・高句麗・伽耶の王族・貴族？か、または、大陸より直接、日本海を渡った北方遊牧騎馬民族か？
です。

<span style="color:#ff3300;">◆◆2つの勢力があります。◆◆</span>
<span style="color:#009933;">◆半島から列島へ</span>
半島から列島に逃避して来たのが百済・新羅・高句麗・伽耶の王族・貴族です。彼らの歴史や社会及び文化から見ると、<u>韓半島に土着していた民+江南人の上に、北方騎馬民族（ツングース系）の支配層が塗り重ねられる</u>形で建国されています。彼らは、韓半島での三国と高句麗、中国の乱戦の時代に、王族、貴族がこぞって列島に避難してきました。しかし、その中で<u>、列島を支配する目的渡来した民族が、伽耶（金官伽耶国）の辰（秦）王国一族のようです。</u>【江上波夫の天皇騎馬民族説より】

詳しくは下記の井上宏さんの記事を参照下さい。
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=199988" target="_blank">■天皇騎馬民族説の進化①　朝鮮半島において、騎馬民族と韓人が混交して加羅を形成</a>
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=199989" target="_blank">■天皇騎馬民族説の進化②　加羅の王朝による日本征服</a>
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=199991" target="_blank">■天皇騎馬民族説の進化③　日本に本拠を移した辰王朝が、“倭の五王”</a>
<a href="http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=199993" target="_blank">■天皇騎馬民族説の進化④　百済と日本の秦氏は辰王朝の系統</a>
<span style="color:#009933;">◆大陸から列島へ</span>
大陸の北方騎馬民族は、日本海を直接渡って、列島の日本海側に上陸していた可能性があるということです。

有史以来、高句麗より直接、日本海を経て、何度も列島の日本海側の越と呼ばれる場所に渡った形跡があります。<u>その後、新潟、長野、武蔵国などにも北方騎馬民族や高句麗の影響のある遺跡や神社が作られます。この事例は、北方騎馬民族が支配目的で列島に渡来し、東国に殖民したことを示します。</u>

　日本書紀の斉明6年（660）3月条の記事に、幣賂弁島と渡島（へろべのしま=奥尻島?か大和碓にあった島か？参照：<a href="http://utukusinom.exblog.jp/13504790/" target="_blank">■伊那の谷から古代が見える</a>）という島が日本海中央にあり、また、ツングース系狩猟民族の<span style="color:#ff3300;">粛慎</span>（アシハセ）等が渡来し戦闘を繰り広げ植民したという記録もあります。

中国の五胡十六国時代（304年～439年）に、中国華北に分立興亡したモンゴル系、チベット系遊牧民族民族（五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌など）のあり、その戦乱に押し出されたツングース系遊牧騎馬民族（<span style="color:#ff3300;">粛慎</span>（アシハセ）らは日本にも及び、日本海を直接、渡っただろうと推測されます。（『十六国春秋』より）
このようにして、1600年前の北方遊牧騎馬民族の文化が北九州や東国日本海側から持ち込まれたと思われますが、列島への影響の大きさは、後世を見ると、どちらかというと<span style="color:#ff3300;"><u>半島の伽耶（金官伽耶国）の辰（秦）王国一族</span>の影響</u>が大きかったのだろうと推測されます。

 :m283: <span style="color:#ff3300;">3】</span><span style="color:#009933;">この時代の半島と大陸と列島の状況はどういった状況であったのか？</span>
に関しては、下記を参照下さい。
中国では、五胡十六国時代（304年 - 439年）～南北朝時代（439年 - 589年）、朝鮮半島は三国時代（新羅・百済・高句麗）の群雄割拠の時代です。この時代には、半島からも多くの避難民が列島に渡来したのだろうと推測されます。大陸の状況は前述したとおりです。
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2" target="_blank">■朝鮮半島の歴史（ウィキペディア）</a>
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2" target="_blank">■中国の歴史（ウィキペディア）</a>

半島の伽耶国は、高句麗はもちろん、百済、新羅と同様に遊牧騎馬民族の南下、掠奪により、支配層が幾重にも塗り換わっています。この<span style="color:#ff3300;">北方の遊牧騎馬民族から持ち込まれたとされる、<u>天孫思想が日本を統治する概念</u>となったと</span>推測されます。

北方遊牧騎馬民族の多くは、このように<u>天孫思想や万世一系の系統志向</u>をもっているようで、次回は、そこを調べてみたいと思います。なぜ、北方騎馬民族はこのような思想が必要だったのかを調べてみます。]]>
   </content>
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   <title>弥生時代の解明３～弥生時代は階層化していたのか？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001358.html" />
   <id>tag:blog.kodai-bunmei.net,2011:/blog//1.1358</id>
   
   <published>2011-12-20T14:33:13Z</published>
   <updated>2012-01-11T08:27:34Z</updated>
   
   <summary>   『吉野ヶ里歴史公園』より 前回記事、『弥生時代の解明２～倭人は、どのように縄文人と融合していったか？』で明らかにしたように、縄文人と江南人、そして呉越の民が融合して弥生人となり、弥生クニを形成していきました。 弥生時代は漁猟採取から稲作へ転換、集団統合のために階層化が行われていたと言うのが教科書的には言われてきました。 しかしながら、縄文人と江南人、そして呉越の渡来人は戦争を経ず融合したことと、墳墓に副葬品が登場したことは、一見矛盾しているように思えます。 弥生時代に本当に階層化が行われていたのでしょうか？ また、階層化が存在したとすれば、それはどのようなものだったのでしょうか？ 再度、縄文人と江南人、そして呉越の民の流入から集団形成について見てみたいと思います。 いつも応援ありがとうございます！ 続きに行く前に :m092: ポッチ！とお願いします。   ...</summary>
   <author>
      <name>yoriya</name>
      
   </author>
         <category term="　日本人はいつモノを考え始めるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="弥生ー律令時代の集団統合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/">
      <![CDATA[<Table align="right"><Tr><Td>
 <img alt="yoshinogari.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/yoshinogari.jpg" width="200" height="157.6" />
</Td></Tr><Tr><Td><Div Align="right"><a href="http://datespo.jp/saga/yoshinogari.html">『吉野ヶ里歴史公園』</a>より</Div>
</Td></Tr>
</Table>
前回記事、<a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001351.html">『弥生時代の解明２～倭人は、どのように縄文人と融合していったか？』</a>で明らかにしたように、縄文人と江南人、そして呉越の民が融合して弥生人となり、弥生クニを形成していきました。<br>
<br>
<span style="color:#FFAE35;">弥生時代は漁猟採取から稲作へ転換、集団統合のために階層化が行われていたと言うのが教科書的には言われてきました。</span><br>
<br>
しかしながら、縄文人と江南人、そして呉越の渡来人は戦争を経ず融合したことと、墳墓に副葬品が登場したことは、一見矛盾しているように思えます。<br>
<br>
<span style="color:#FFAE35;">弥生時代に本当に階層化が行われていたのでしょうか？</span><br>
<br>
また、階層化が存在したとすれば、それはどのようなものだったのでしょうか？<br>
再度、縄文人と江南人、そして呉越の民の流入から集団形成について見てみたいと思います。<br>
<br>
いつも応援ありがとうございます！<br>
続きに行く前に :m092: ポッチ！とお願いします。<br>
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<br>
]]>
      <![CDATA[<Div Align="center">:m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: 　 :m162: </Div><br>
<br>
<span style="font-size:120%;"> :m282: <span style="color:#000080;"><b>江南人と縄文人による弥生邑の形成（3000年前～2400年前）</b></span></span> <br>
『弥生時代の解明２～倭人は、どのように縄文人と融合していったか？』で述べられているように「渡来した倭人だけで稲作を開始したのではない！」という事が分かってきましたが、渡来した倭人（江南人）と縄文人が融合する素地とはどの様なものだったのでしょうか？<br>
<br>
日本考古学の定説では、縄文と弥生は性格も文明の質もまったく違う、片方は狩猟採集、片方は農耕をやっており、そこには大きな断絶があると言われてきましたが、文明研究の結果から、稲作漁労に立脚する農耕文明、その延長上にある弥生の文明には、いくつもの共通点する部分があることが分かってきました。<br>
<br>
その中でも最も共通する部分は<span style="color:#ff3300;">「生命・生産活動に根ざした信仰＝生命文明」</span>だったことが明らかになってきています。<br>
<blockquote>縄文が生命文明の原点であり、稲作漁労文明も生命文明の伝統を継承したものです、その稲作漁労文明は生命の源の水の循環系に立脚した文明だったのです。稲作を行うには水がいります。その水を生み出す山を稲作漁労民は崇拝しました。<br>
～・中略・～<br>
稲作漁労民は森、里、海の水の循環系にぴったりと歩調を合せ、生物多様性に満ちた美しい大地を作り出したのです。縄文の人々も弥生の人々も古墳の人々も翡翠をものすごく大事にしました。そして<b>縄文の人々も弥生の人々も太陽、柱、鳥、蛇を崇拝しました。縄文人が崇拝したものと同じものを稲作漁労民も崇拝している</b>という事です。<br>
<Div Align="right"><span style="font-size:80%;">参考：対論 文明の原理を問う／安田善憲／麗澤大学出版</span></Dir></blockquote>
また、縄文人と江南人が融合し弥生邑を形成した時代の墳墓は以下のようなものでした。<br>
<blockquote>弥生時代前期初頭から前半の墓は、土壙墓（木棺墓）が主体です。北部九州地方や西北九州地方ではこれに支石墓、甕棺墓など独自の地方的特色を備えた墓が加わります。いずれも集落に近接した場所に、小さな群れをなして営まれることが多いのが特徴です。これは、弥生時代全時代を通して、最も基本的な墳墓のあり方です。<br>
<Div Align="right"><span style="font-size:80%;"><a href="http://www.yoshinogari.jp/ym/episode02/hensen01.html">弥生ミュージアム「弥生時代の集落と墓 ３.弥生時代の墳墓の変遷」</a>より</span></Dir><br>
<table align="center"><tr><td>
<img alt="%E6%9C%A8%E6%A3%BA%E5%A2%93.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E6%9C%A8%E6%A3%BA%E5%A2%93.jpg" width="146" height="150" />
</td><td>
<img alt="%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93.jpg" width="200" height="150" />
</td></tr><tr><td>木棺墓</td><td>甕棺墓</td></tr>
<tr><td ColSpan="2"><Div Align="right"><span style="font-size:80%;"><a href="http://selfpit.way-nifty.com/selfpit/2010/07/post-3892.html">倭国について（７） 葬礼［墓、葬儀］</a>より</span></Div></td></tr></table></blockquote>
縄文人と江南人は生命文明（精霊信仰）を源流にしていたが故に、<span style="color:#ff3300;">共通観念としての精霊・自然神信仰で融合して稲作漁労文明、弥生邑を形成</span>していたことや、当時の墳墓も邑ごとの違いはあれ<span style="color:#ff3300;">邑内での違いが無い</span>ことからも、<span style="color:#ff3300;">階層化した痕跡は確認されず、まさに融合し一体化して邑を形成</span>したことが伺えます。<br>
<br>
<br>
<span style="font-size:120%;"> :m282: <span style="color:#000080;"><b>呉越の開墾民による弥生クニの形成（2400年前～1500年前）</b></span></span> <br>
呉越の渡来人はクニを追われた難民であるが故に、渡来してもしばらくは弥生邑から離れて彼らの拠点を築き、稲作をはじめたと思われます。つまり、中国を追われた彼らが真っ先に行ったのは日本での<b>拠点づくり→生産基盤の確立</b>であり、土地が必要であったことが想像できます。<br>
<br>
彼らはそれまでの弥生邑とは決定的に「異なるもの」＝<b>「金属器」</b>を持ち込んでいました。それゆえに弥生邑から少し離れた場所で、未開の地域を選択し、金属器の鍬で雑地を開墾し水田に変えていったと考えられます。呉人が青森まで北上し稲作を行っていますが、これも稲作を伝播させたと言うより、生活基盤を拡大させるために、積極的に開墾して北上したと見た方が整合するように思われます。<br>
<br>
また、呉越の難民は本国では追われた弱者ではありますが、そもそも<span style="color:#ff3300;">呉越の国の誕生は小規模な氏族集団の集合体として既に数百年経験してきた民</span>です。彼らは氏族を超える集団統合の必要から何らかの統合手法は身に付けていたと考えられます。<br>
<br>
そんな彼らが持ち込んだのが祭祀による土着民との連携です。<span style="color:#ff3300;">開墾にはそれなりの人力が必要であり、それを現地の弥生邑（縄文人＋江南人）を取り込み渡来した集団ごとに日本国内に広がり、弥生クニを形成</span>していったと思われます。<br>
<blockquote>銅剣、銅矛の青銅器は紀元前４世紀から日本に渡来しますが、その銅の成分分析から江南地方であることが確認されており、九州一帯、さらに西日本に青銅器を最初に持ち込んだのは呉人だったのです。ただ、中国内では武器として使われた銅剣が日本では祭祀具として使われ大型化し、祭壇に祭られました。青銅器を中心に、武器としてではなく祭祀具として縄文人に融合した呉人の取った手法は、いかにも日本的、縄文的融和手法であると言えるでしょう。武器を平和の道具に変えてしまったのです。
<Div Align="right"><span style="font-size:80%;"><a href="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2011/12/001351.html">『弥生時代の解明２～倭人は、どのように縄文人と融合していったか？』</a>より</span></Div></blockquote>
これは越人も同様であり、この<span style="color:#ff3300;">武器としての青銅器（銅剣、銅矛、銅戈）が祭祀具へと変化していった事例から見て、弥生邑の弥生人（縄文人と江南人）と呉越の渡来人とが<b>融和的に共存、混血</b></span>していったと考えられます。<br>
<br>
<br>
<span style="font-size:120%;"> :m282: <span style="color:#000080;"><b>呉越の祖霊信仰による集団統合</b></span></span><br>
<span style="color:#FFAE35;">呉越の渡来人が融和的に弥生邑を取り込んでいったとすると、階層化は行われていないような気がするのですが、なぜ「階層化していたこと」が通説となっているのでしょうか？</span><br><br>
弥生時代前期末から中期になると、北部九州地方で銅剣・銅矛・銅戈などの青銅器を特定の墳墓群に集中して副葬する例が出てくるようになります。これは首長墓と考えられ、首長墓に対する祖霊祭祀とこれに伴う各種の儀礼が、弥生時代の政治的社会の形成に大きな役割を果たしたと考えられています。<br>

<blockquote>『魏志』倭人伝の記述から、大人という支配階層のなかにも身分の格差があり、最高身分として最高権威者と最高権力者（女王・王）がいて、その下にはクニを 支配するための行政組織があり、それを統括するような「官」「副官」などの地位を持つ人々があり、特に力のある人々が「一大率」「大倭」となったことが想 像できます。こうした「官」や「副官」などの地位に就く人々は、やはり大人の中でも身分が高い人々であったことでしょう。<br>
<br>
こうした身分はどのように決められたのでしょうか。その手がかりとなるのが、先述した弥生時代の王墓です。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓をはじめ、豪華な副葬品 や施設を備えた墓に埋葬されているのは成人で、子供が厚く葬られることはありません。このことは、こうした特別の墓に葬られるような身分・地位にある人々がその能力を認められる「大人（おとな）」であることを必要としていたことを表しています。このことから、弥生時代の首長や王などの身分はそのクニの成員 によって、相応しいと思われる人物が立てられるものであり、特定の血筋の家族が代々その地位を踏襲するものではなかったと考えられます。ただし、高い身分・地位につく人々は支配者層である大人層であり、そのなかでもその土地を開拓した一族の子孫など格の高い人々であったことが想像できます。<br>
<Div Align="right"><span style="font-size:80%;"><a href="http://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/organization_6.html">弥生ミュージアム「弥生時代の社会　１．社会組織・階層」</a>より</span></Div></blockquote>

つまり、弥生時代の前期末～中期初頭になると以前とは異なり、多くの副葬品や墳丘などを持つ「王墓」や「首長墓」の出現が、階層化していた根拠として取上げられます。<br>
<br>
しかし、これをもって階層化していたと捉えることができるのでしょうか？<br>
<br>
王墓に埋葬されたのが成人であり、子供が葬られていないことからも、王らしい身分はあるものの、「それは個人の能力に起因するものであり、決して彼ら特定の氏族に与えられたものではない」ということです。従って、<span style="color:#ff3300;">王やシャーマンという能力ヒエラルキーは存在したが、支配階級や特権階級と呼ばれるような氏族は存在していない</span>と考えられます。<br>
<br>
生産手段が漁労採集から稲作に変わり自然外圧が弱まったとは言え、稲作も自然外圧の影響を受けており、自然を対象化する能力はまだまだ必要であったと思われます。つまり、<span style="color:#ff3300;">弥生クニの王は縄文時代の長老の役割と近似しており、大衆と王の関係を見ても階層化していたとは考えられません。</span><br>
<br>
<br>
<span style="font-size:120%;"><span style="color:#000080;"><b>◆まとめ</b></span></span><br>
<span style="color:#6666ff;"><table>
<tr Valign="top"><td><nobr><b>１）</b></nobr></td>
<td><b>縄文人と江南人は共通観念としての精霊・自然神信仰で融合して「弥生邑」を形成。</b></td></tr>
<tr Valign="top"><td><nobr><b>２）</b></nobr></td>
<td><b>弥生邑に近接した呉越の邑集団は、集団統合の観点から精霊・自然神信仰にかわる祖霊信仰によって集団統合を図り「弥生クニ」を形成。</b></td></tr>
<tr Valign="top"><td><nobr><b>３）</b></nobr></td>
<td><b>子供が埋葬されていないなど墳墓の事例からも支配者層が集団を統合していたのではなく、氏族の首長たちによって選ばれた王によって統合されていたと考えられます。また、墳墓の副葬品についても当時の祖霊信仰＝集団統合によるものであり、支配者層による階層化はなかったと考えられます。</b></td></tr></table></span>
<br>
なお、この弥生クニの<span style="color:#6666ff;">墳墓は<b>「古墳」</b></span>へと、<span style="color:#6666ff;">祭祀を行う場は<b>「神社」</b></span>へと移り変わります。<br>
氏族集団が連合するために造られた古墳は弥生クニの集団統合の様式を象徴しているように思えますが、神社への変化とはどのようなものだったのでしょうか。<br>
<span style="color:#6666ff;">神社からは別の力学＝支配層の影が見え隠れ</span>します。次回はこの<b>「神社」</b>について扱っていきます。ご期待下さい :m030: <br>]]>
   </content>
</entry>
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   <title>「日本と中国は次代で共働できるか？」６～春秋戦国時代～秦・漢時代の支配・戦争の歴史</title>
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   <published>2011-12-18T06:05:05Z</published>
   <updated>2011-12-18T09:42:18Z</updated>
   
   <summary>こんにちわちわわです。 今回は春秋戦国から秦・漢の時代の戦争・支配の歴史を扱います。 夏・殷・周は部族連合の国家でしたが、周末期には各部族の力が拮抗してきて、周の領土拡大が停止し、土地の切り売りによる細分化と村落共同体の解体が進んでゆきました。 こうした中、部族や農民を吸収再編して力をつけてゆく国がいくつか登場し、春秋戦国時代へと突入してゆきます。 おおまかに時代の流れを追っていくと、 周王朝の衰退（～B.C.770） B.C.771第12代幽王の外交失策により、西方の遊牧民犬戎の侵入を許すこととなった周王朝の権威は縮小し、中国最初の戦国時代に突入する。 春秋時代（B.C.770～B.C.403） 春秋時代には、「斉の桓公」「晋の文公」「宋の襄公」「秦の繆公」「楚の荘王」という有力な諸侯が現れ、これを春秋五覇と言う。 後半になると、南方の「呉」「越」が力をつけてくる。 戦国時代（B.C.403～B.C.221） B.C.403晋が韓・魏・趙に分裂、ここから戦国時代が始まる。 「燕」「趙」「斉」「魏」「韓」「秦」「楚」の七雄が残った。 秦の天下統一（B.C.221～） 戦国時代後半、燕・趙・斉・魏・韓・楚が“合従策”を結んで、力をつけてきた秦に対抗しようとするが、B.C.221始皇帝が本格的に東征してわずか10年弱で、天下は秦によって統一された。 おおまかにつかんだところで、これらの時代がどんな時代だったのか？細かくみてゆくことにしましょう。 中国いんちきくさい！と思った方↓↓ぽちっと！！ ...</summary>
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      <name>tiwawa</name>
      
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      <![CDATA[こんにちわ<span style="color:#FFAE35;">ちわわ</span>です。

今回は春秋戦国から秦・漢の時代の戦争・支配の歴史を扱います。

夏・殷・周は<span style="color:#ff3300;">部族連合</span>の国家でしたが、周末期には各部族の力が拮抗してきて、周の領土拡大が停止し、土地の切り売りによる細分化と村落共同体の解体が進んでゆきました。
こうした中、<span style="color:#ff3300;">部族や農民を吸収再編</span>して力をつけてゆく国がいくつか登場し、<span style="color:#ff3300;">春秋戦国時代</span>へと突入してゆきます。

おおまかに時代の流れを追っていくと、

<strong><span style="color:#800080;">周王朝の衰退（～B.C.770）</span></strong>
B.C.771第12代幽王の外交失策により、西方の遊牧民犬戎の侵入を許すこととなった周王朝の権威は縮小し、中国最初の戦国時代に突入する。

<strong><span style="color:#800080;">春秋時代（B.C.770～B.C.403）</span></strong>
春秋時代には、「斉の桓公」「晋の文公」「宋の襄公」「秦の繆公」「楚の荘王」という有力な諸侯が現れ、これを春秋五覇と言う。
後半になると、南方の「呉」「越」が力をつけてくる。
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<strong><span style="color:#800080;">戦国時代（B.C.403～B.C.221）</span></strong>
B.C.403晋が韓・魏・趙に分裂、ここから戦国時代が始まる。
「燕」「趙」「斉」「魏」「韓」「秦」「楚」の七雄が残った。
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<strong><span style="color:#800080;">秦の天下統一（B.C.221～）</span></strong>
戦国時代後半、燕・趙・斉・魏・韓・楚が“合従策”を結んで、力をつけてきた秦に対抗しようとするが、B.C.221始皇帝が本格的に東征してわずか10年弱で、天下は秦によって統一された。

おおまかにつかんだところで、これらの時代がどんな時代だったのか？細かくみてゆくことにしましょう。

中国いんちきくさい！と思った方↓↓ぽちっと！！
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      <![CDATA[<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;">【春秋と戦国って何がどう違うの？】</span></span>
<span style="color:#800080;"><strong>～春秋時代は、覇者を頂点とする部族連合、戦国時代は戦争と外交による武力支配だった～</strong></span>

春秋時代の覇者とは、周王朝の延長で一番力の強い氏族が王としてあがめられ、諸侯間の紛争に割り込んで強大な武力を背景に有無をいわせぬ調停役を担い、諸侯に号令して異民族の進出をふせぐ役目を果たしていました。

春秋時代の戦争は4大戦争といわれる戦争でも期間はせいぜい<span style="color:#ff3300;">1日</span>、長くても2日でした。本格的な殺傷をともなう戦争は兵器や兵力が整う戦国時代になってからです。
<a href="http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point82.html">http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point82.html</a>

戦国時代になると、各国は、強国が弱小国を滅ぼして直接支配していくという<span style="color:#ff3300;">領土国家</span>へと転身し、他国との侵略・闘争圧力の下、国家体制の整備が急速に進められます。
農民各々の収穫量に応じて税を徴収される魯の税制や、晋の「州兵の制」のように地域に兵器を整備する経済的な義務を負わせたり、軍備を充実するための税制度へと移行していく国が次々と表れます。
<a href="http://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/heisyo3.htm">http://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/heisyo3.htm</a>

それまで血族・宗族を中心とした政治体制から、優秀な人材を血族に関係なく選ぶ新たな封建・官僚政治が始まり、今までの血族の祖霊信仰に替わる新しい統合軸が必要となり、孔子の儒教等、<span style="color:#ff3300;">諸子百家</span>の思想が生まれたのです。


<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:Font;">【中国の思想ってどのようにして生まれたの？】</span></span></span>
<span style="color:#800080;">～春秋戦国は、中華思想の原型をつむぎ出した時代～</span>

春秋戦国というのは、乱世という印象がつよいですが、<span style="color:#000080;">実際には殷・周がもっていた農業生産が騰り、新興の地主が力を得、さらには、官僚、戦士、職人、商人、あるいは思想家という非農耕者を社会が余裕をもって食わせ得るようになったという面でとらえたほうが、より実態にちかいでしょう。</span>

それを可能にしたのが<span style="color:#ff3300;">鉄という生産用の道具</span>です。鉄器の普及が、灌漑土木をさかんにし、農地をふやし、生産性を向上させ、商品生産をさかんにし、中国史上最も進化と発展をうながし、華々しく<span style="color:#ff3300;">可能性放散</span>した時代を築いたのです。

<span style="color:#000080;">思想史的にいえば、諸子百家の時代といってよいでしょう。</span>
社会のなかに欲望と競争心という種が発芽し、それを成長させるための好奇心を肥やしとし、実現するための観念群が一斉に開花するのです。
百家というのは百種類ほどもある思想家とその団体ということですが、整理すれば、<span style="color:#6666ff;">儒家、陰陽家、墨家、法家、刑名家、道家、縦横家</span>などとなります。
<img alt="%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C%E5%9B%B3.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C%E5%9B%B3.jpg" width="400" height="273" />


あらゆる個性が、それぞれに適合した思想をつむぎ出し、たがいにその<span style="color:#ff3300;">異とするところを論争しあう現象</span>がうまれたのは、<span style="color:#ff3300;">中国史上最大の壮観</span>というべき光景でした。

「士」という、自分の倫理的、思想的責任においてのみ進退する自由人がむらがってあらわれ、その多くが、「百家」という思想団体のいずれかに属していた、という現象も、ヨーロッパの１８、９世紀を連想させる<span style="color:#ff3300;">文明の爛熟現象</span>であるかと思われます。

各国は、諸子百家という、いわゆる浪人をかき集め、<span style="color:#ff3300;">国家統制</span>の原理と、<span style="color:#ff3300;">生産力向上</span>のための技術学問、そして、他国との<span style="color:#ff3300;">外交の策謀</span>のために都合のいい人材を登用しました。これにより、<span style="color:#000080;">自国の正当化と他国とのだましと駆け引きをものすごい深いレベルまで進化</span>させてゆくのです。

この時代を通じて、中国人の自己中心、ご都合主義、独善、責任転嫁といった独特の意識が形成されていったものと思われます。その原動力となったのが、<span style="color:#ff3300;">私権獲得の自由競争</span>だったのです。

そして七雄の中から秦が頭角を現してきます。



<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:Font;">【なんで秦は中国を統一できたの？】</span></span></span>

秦は中国大陸の西北角にあり、半農半牧の非漢民族が雑居していました。これらを統御するには法律と刑罰と鞭による統制主義による以外になく、秦は早くからその方式を採用し、<span style="color:#ff3300;">法家</span>の国とされていました。

中国では華北で<span style="color:#ff3300;">鋳鉄技術</span>が発達し、高温で加熱溶融するため炭素を吸収し、硬いが脆く、<span style="color:#ff3300;">主に農機具</span>として利用されてきました。一方江南地方、特に<span style="color:#ff3300;">四川</span>は、良質な鉄鉱石を産出し、西アジアから<span style="color:#ff3300;">錬鉄技術</span>も伝わり、硬くて鋭利で殺傷能力の高い<span style="color:#ff3300;">武器</span>の製造が可能となり、四川は一大製鉄地帯であったことが分ってきました。
秦はこの四川を押さえたことにより、地をふかくうがつ農具も、するどい兵器も他の六国に比べてはるかに豊富でした。
<a href="http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron02.pdf">http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron02.pdf</a>

この秦がもつ<span style="color:#ff3300;">統制主義</span>と<span style="color:#ff3300;">生産力</span>と<span style="color:#ff3300;">兵器</span>の優越が、この国をして他の六国をしのがせ、秦王政にいたり、やがて六国を滅ぼして、奇跡としかいいようがない<span style="color:#ff3300;">大陸の統一</span>を遂げさせたのです。


<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:Font;">【ファーストエンペラー（始皇帝）ってどんな人？】</span></span></span>

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」に秦と始皇帝を表す巧みな表現があります。

秦の始皇帝。かれが六国を征服して中国大陸をその絶対政権のもとに置いたのは、紀元前221年である。それまでこの大陸は、諸方に王国が割拠し、つまりは<span style="color:#ff3300;">分裂している状態こそが常態</span>であるとされてきた。<span style="color:#ff3300;">統一の方が異常</span>であったといっていい。

彼以前、地上に君臨する者として、国々に王というものがいた。貴族もいた。ところが、<span style="color:#000080;">かれはそれらの王制や貴族を一挙に廃してしまった。</span>以前は、人民は生まれながらに人民であり、生まれながらの王や貴族を氏神に似たものとして尊敬し、その天賦の地位を人民はあらがおうとしなかった。それでもって大地は治まっていた。ただ、大飢饉があると人民どもは群れをなし、食を求めて流浪し、王や貴族をかえりみなかった。それだけのことであった。

<span style="color:#000080;">始皇帝は、なんとなく統治し、統合されているという過去のあいまいな制度のすべてを一掃した。</span>
それにかわるに、<span style="color:#ff3300;">中央集権</span>という不思議な機構をもちこみ、大網のように大陸にひろげ、<span style="color:#ff3300;">精密な官僚機構の網の目</span>でもってすべての人民をつつみこもうとした。
<span style="color:#ff3300;">包み込みの原理は法</span>であった。法でもって刑罰や徴収、労役など全てが運営され、強制されるなどは、今までこの大陸の人間たちが経験しなかったものだった。

この皇帝制度の創設者は、ひどく<span style="color:#ff3300;">土木事業</span>を好んだ。人民という人民が、かれの宮殿の普請か、かれの生前墓の建設工事か、または、辺境の匈奴を防ぐための長城の工事か、あるいは、首都咸陽から八方に通じている皇帝専用道路の工事に駆り出されていた。
<span style="color:#ff3300;">「ただ1人が、億兆の人間を所有している。」</span>というかれの権力思想は、具体的には<span style="color:#000080;">無数の人間をそれらの郷村から追い出して土工にしてしまうということでもあった</span>。
そのほか、<span style="color:#000080;">ごくささいな理由で多数の人民を虐殺</span>してみせるということにおいても示された。
<img alt="%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%81%AE%E5%83%8F.jpg" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%81%AE%E5%83%8F.jpg" width="200" height="150" /><img alt="%E7%A7%A6%E9%87%91%E9%87%8F%E3%82%8A.bmp" src="http://blog.kodai-bunmei.net/blog/img2011/%E7%A7%A6%E9%87%91%E9%87%8F%E3%82%8A.bmp" width="220" height="150" />



これらの虐殺は、かれの他の統一事業と、基本の思想としてひとつのものであった。それまで文字が地域によって異同であったが、かれはそれらの多くを捨て、整理し、漢民族の使う<span style="color:#ff3300;">文字を一種類</span>にした。度量計をつくり、<span style="color:#ff3300;">量りも統一</span>した。<span style="color:#ff3300;">貨幣も統一</span>した。かれはまことに多忙であった。

もっとも重要な事業のひとつは、天下を巡幸して彼自身の顔を人民どもに見せてまわるということだった。この点、かれは、歴史的経験をへた後世の皇帝たちよりも不慣れであったといえるだろう。たとえば後世の皇帝なら帝都の宮殿を荘厳にし、百官百姓を礼をもって縛り、皇帝がいかに尊貴なものであるかを示すだけでよかった。そのために礼教の学である<span style="color:#ff3300;">儒教が作動</span>した。しかし、始皇帝は最初の皇帝であるがために、自分を居ながらに荘厳にしてくれる儒教の使い道を知らず、逆に儒教を禁止し、儒書を焼き捨てさせたほか、儒者四百六十余人を生きながらに穴に埋めた。

<span style="color:#000080;">このように同類圧力によって華々しく進化した産業も経済も思想も独裁者1人の意志に封じ込まれ、以後、中国の停滞と自虐的な破壊の歴史が繰り返されてゆくことになるのです。</span>

<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:Font;">【漢はどうやって成立したの？】</span></span></span>

始皇帝の死後、宦官による腐敗政治が繰り広げられ、農民は工役に苦しめられます。

そうした中、土木工事に駆り出された農民の陳勝ら一行がその役につく行程中、天候不良に見舞われ、予定日時に到着できそうもなくなってしまいます。間に合わなければ殺される、行かなければ殺されるという、にっちもさっちもいかなくなって<span style="color:#ff3300;">、「行くも地獄、帰るも地獄」</span>と奇声を上げ反乱を引き起こします。これが中国最初の農民の反乱<span style="color:#ff3300;">「陳勝の乱」</span>です。

この乱に乗じ、楚の遊牧民支配層出自の浪人である項羽と、漢の農民の出自でゴロツキをしていた劉邦が中原を征し、20年足らずで秦王朝は滅んでしまいます。

百選百敗だったけど優秀な家臣に恵まれ民衆の共認を獲得した劉邦軍が、英雄ではあったものの残虐で独裁的であった項羽を、最後は儒家の策謀で<span style="color:#ff3300;">四面楚歌</span>に追い打ち、400年続く<span style="color:#ff3300;">漢帝国</span>を建国します。


<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:Font;">【漢は秦の何を引き継ぎ、どのように国家を統合したの？】</span></span></span><span style="color:#800080;">～漢の徳化政策と朝貢制度～</span>

秦・漢の皇帝の理想は、地上のあらゆる人間、牛馬にまで及ぶ全世界が、<span style="color:#ff3300;">皇帝の「徳に化せられ」、</span>支配者皇帝の一部分となり、その意思を奉じて作用する状態の実現でした。

<span style="color:#000080;">「徳化」とは、中国の君主の徳に相手が“同化されること</span>”で、一人の中国の君主のもとに、あらゆる地域の人間が、また民族が、中国の君主の権威高揚のための手足となり、<span style="color:#ff3300;">一人のためだけの世界</span>が成立することを理想として打ち出されたものです。

しかし、漢も国内においては郡県制度を立てて漢の礼・法を徹底させ、諸侯王国といえども漢の礼・法を奉ずるのが原則ではありましたが、<span style="color:#000080;">生活習慣の違う異民族を支配する場合、漢の礼・法を相手の国内へ徹底させることは容易でなく、礼・法の徹底度の相違を容認しなければなりませんでした。</span>

そのため現実的には<span style="color:#ff3300;">、「徳化」の程度</span>、ひいては<span style="color:#ff3300;">礼・法の浸透度の相違</span>をもとにして、
『内臣＞外臣＞外客臣＞絶域の朝貢国＞隣対の国』という区別を立てて対応したのです。

<span style="color:#6666ff;">①『内臣』：郡県制と封建王国制を併用した郡国制のなかの臣下で、漢の礼・法を奉じる。</span>
<span style="color:#6666ff;">②『外臣』：君主は漢の礼・法を奉じるが、その支配下では民族独自の礼・法を奉じる自治を保障された家臣。</span>
<span style="color:#6666ff;">③『外客臣』：独自の政治勢力として自立性を持つ同盟者。</span>
<span style="color:#6666ff;">④『燐対国』：東夷、西戎・南蛮・北狄といわれる敵対関係にある異民族。</span>
※朝貢国は外臣に属する。朝貢制度は、徳化政策の現実対応として登場した制度。

このように、秦の時代に形成され漢に継承された<span style="color:#ff3300;">唯我独尊の『徳化』志向</span>が、中国の思想の底流に刻印されたのです。

前漢の時代は帝国の安定と共認形成のために、さまざまな妥協を許した時代です。後漢になると武帝が秦の始皇帝の再来として登場し、帝国権力の強化に乗り出します<span style="color:#ff3300;">。「歴史は繰り返す」</span>といわれるように、武帝の死後、帝国は混乱し、五湖十六国の戦国時代に再突入してゆくことになるのです。


<span style="color:#800080;"><span style="font-size:130%;"><span style="font-size:Font;">【まとめ】</span></span></span><span style="color:#800080;">～春秋戦国時代は中国史上もっとも自由だった時代、それを破壊したのが秦・漢帝国～</span>

①周代に導入された<span style="color:#ff3300;">私権活力</span>が、周の凋落により強国間の<span style="color:#ff3300;">同類闘争</span>に転化したのが春秋時代です。<span style="color:#000080;">この同類圧力の下、私権拡大と呪術に変わる統合原理の要求から諸子百家が登場</span>します。

②戦国時代になると、<span style="color:#ff3300;">錬鉄技術</span>の発達から<span style="color:#ff3300;">兵器が登場</span>して本格的な戦争が始まり、<span style="color:#ff3300;">同類圧力がより一段階上昇</span>します。各国は<span style="color:#ff3300;">富国強兵</span>と<span style="color:#ff3300;">国家統合の必要</span>から、<span style="color:#000080;">鉄器を主とする流通市場や諸子百家の観念群が飛躍的に発展してゆきます。</span>
この時代が中国史上最も私権活力が上昇し、独自の進化をとげた時代といえるでしょう。

③秦は、<span style="color:#ff3300;">東洋的な集団の価値観を破壊</span>し、<span style="color:#ff3300;">西洋的な皇帝の個を頂点</span>とする権力構造を導入した<span style="color:#ff3300;">特殊な時代</span>といえるでしょう。この違和感から秦は早々と滅亡し、再度<span style="color:#ff3300;">東洋的な価値観で国家統合</span>に取り組んでいったのが漢の時代です。</span>

<span style="color:#ff3300;">氏族や家族といった小集団ながらも、集団性だけは残存させたのが、西洋と東洋の決定的な違いだと思われます。</span>

次回は市場についてこの違いを鮮明にしてゆくはずです。
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