2008年06月26日
「縄文と弥生の境目」、朝鮮半島から「縄文人」が渡来した?
○「縄文と弥生の境界」についてmukaiさんの後を受けて、「試行私考 日本人解剖」からの紹介です

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2007年12月31日
縄文ー古代ブログの3年目の探求に向けて
こんばんは。 :D 管理人のtanoです。2007年も最後の日になりました。
縄文―古代ブログも早いもので開設してから1年と3ヶ月が経ちました。その間の記事数は既に397回、ほぼ毎日の投稿を実践してきました。非常に更新数の多いこのブログですが、その秘訣は複数名の持ち回りで記事を書いているという事なんです。
そこで今年最後の縄文―古代ブログの記事は少しその裏話(記事の製作現場)を紹介したいと思います。
この縄文と古代文明を探求しよう!というブログは当初るいネットの衛星ブログとしてるいネットへたくさん投稿している人たちを集めて結成されました。その時に25人の主幹メンバーが構成されています。
るいネットとは何?って事ですが、
旧い私権という秩序がガタガタになった現在、社会を統合する為の新しい秩序が求められています。るいネットはその為に必要な認識を求めて集まっているネット上の認識形成の場です。(詳しくはるいネットTOPページ、るいネットの趣旨をご覧下さい。)
その上でなぜ、縄文時代や古代文明を追求するのかという事になるのですが、現在の閉塞している社会がこの3000年間でできた私権社会の結果であるとしたら、その根本原因が私権社会の成立構造にあるのではないか、であるとしたら私権社会に移行する前の社会を解明する事が次の新しい社会を作るヒントになるのではないか?このような問題意識があります。
今年は応援どうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
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2007年12月28日
三内丸山は語る(2)
前回記事に続き三内丸山は語る~久慈 力氏の著書からの紹介です。
その前に当ブログでこれまで扱ってた三内丸山の記事を紹介します。
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた
巨大噴火がひき起こした円筒土器文化
三内丸山のピーク時の人口は一般に500人程度、未発掘地域も含めれば1000人とみられているが、久慈氏はこの数字を多すぎると見ている。住居跡は各年代によって建て替えられ、重層的に利用したと考えられ、極端には一時期の人口が50人に過ぎなかったと見る人もいるが、せいぜい、多く見積もっても200人から300人程度ではないかと思われる。1000人以上になると確固とした農耕社会のようなものが形成され、プレ国家のような組織がないと継続しないが三内丸山には明確な農耕もなければ当然国家と呼べる組織もない。
縄文集落では200人という規模ですら他に例がない。ましてや500人や1000人という規模は単にセンセーショナルな情報で先進性と巨大さを強調しすぎているきらいがある。
縄文時代の生活領域は単一集落で普通、数キロの範囲に及ぶ。三内丸山の生活領域はそれよりはもっと広い範囲を生活領域としていたと考えられ、概ね10キロ程度が生活圏ではなかったかと推察されている。
三内丸山全景
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2007年12月27日
三内丸山は語る(1)
三内丸山は何が解明されてきたか?
このブログで何度か断片的に取り上げられてきましたが、意外と知ってるようで知ってない。
良質で最大の考古学資料である三内丸山について少し腰を落ち着けて記事を書いてみたいと思います。三内丸山研究の第一人者である久慈 力氏が各学者の三内丸山評を総括して1冊の本にしていましたので、2000年出版の本ですが、そこから抜粋して三内丸山についての現在明らかになっている基礎的情報、そこから推測されている縄文社会について何回かに分けて掲載してみます。

三内丸山の存在した年代
現在、三内丸山の存在した年代として国立歴史民族博物館の辻誠一郎助教授は2度ほど修正をしている。
5100年前~3900年前の1200年間(98年3月)
5800年前~4100年前の1700年間(99年3月)
現在まだ発掘中であり、その年代がさらに早まる可能性はあるが、2007年の現時点では99年に発表された年代が最も最新の情報である。
その頃の外圧状況を見てみよう
三内丸山分化が始まったとされる5500年前は、縄文前期の中ごろにあたり、終焉されたとされる4000年前頃は縄文中期の中頃にあたる。つまり、縄文文化の成熟期に三内丸山文化は花開き、実を結んだのである。この時期は平均気温が2度も高く、海水面が現在より5mから6mほども高い。いわゆる縄文海進の最盛期にあたるとされる。
中でも5500年前は最も気温が最も上昇し、落葉広葉樹が繁殖し、陸奥湾が内陸まで侵入してきた時期である。山の幸、海の幸に恵まれた理想的な自然条件であった。現在はJR青森駅から4キロ内陸に入った三内丸山の地もこの頃は海岸線が集落から数百メートルの位置にあり、暖流と還流が交わる魚貝の宝庫に近接していた。また陸と海の間には海水と淡水が混じるラグーン(潟湖)があり、集落のすぐそばを沖館川が流れ、八甲田山系の森林の栄養分を運んでくる。
魚貝は豊富で、さば、ぶり、まだい、こち、さけ、にしん、いわし、アジなどの他くじら、いるか、オットセイなどの海獣類も捕っていた。カニやウニもとれる。植物系の食料はミズナラ、コナラ、クリの混交林が広がり、クルミ、トチ、クリなどの木の実、ニワトコ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマグワなどの実、ヤマノイモ、クズ、ユリなどの根菜類がとれ、ヒエやクリの栽培もしていた。
イノシシ、シカなどの大型獣は少ないが、ウサギやムササビなどの小型の動物が捕れた。ガン、カモ、ハクチョウなども捕獲されている。動物性食料は豊かであったが、全体として植物性食料に依存していたと推察されているが、食糧事情は総じてかなり豊かであったことが想像できる。
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2007年12月21日
縄文:なんで子を大切にしたか?
縄文人は子供が亡くなった時 :cry: 大人とは別に、住居の近くなどに埋甕したそうです :confused:

逆位底部穿孔埋甕(うめかん)
住居の入口に逆さに埋められていた埋甕。不思議な文様がほどこされ、底には植木鉢のような穴が開けられている。内部から人骨は発見されなかったが、ミニチュア土器や土製円盤が発見されたものもあることから、赤ん坊の遺体を入れたという仮説が有力である。⇒出典
子を大事にした縄文人の想いが伝わってくる…子供への虐待や子育て放棄が横行する現代社会にとって、学ぶべき認識だと感じました。ぜひ読んでみてください :m051: :o
byさーね
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2007年10月05日
縄文時代研究史(2)
◆昭和20、30年代~14C年代測定法の登場による縄文移行期の決着へ
昭和21年、相沢忠洋による岩宿遺跡の発見や、昭和25年の神奈川県夏島貝塚の発掘などは、静岡県登呂遺跡と並んで、戦後の考古学研究に大きな促進剤となった。
昭和31年に、新潟県本ノ木遺跡の発掘で、尖頭器(石槍)と一緒に縄文土器が見つかったことにより、石器時代から縄文土器への移行が問題となった。山内清男は「両者は同時期のもの。これまで知られなかった縄文文化だ」と主張、芹沢長介は「両者は共存しない。旧石器時代の遺跡に土器が混入しただけだ」だと対立。
35年には、福井洞窟で細石刃が発見され、土器と石器の共存説が有力になったが、30年代後半には、さらに古い「隆起線文土器」の存在が明らかにされている。
これと並行して、縄文土器の型式学的研究が山内を補強する方向で積極的に深められ、隆起線文→瓜形文→押圧縄文→撚糸文へという「土器の序列」がとりあえず明らかになった。
詳しくは当ブログの「縄文土器体系化の祖、山内先生のお話」を参照下さい!
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縄文時代研究史(1)
◆江戸時代までの縄文研究~神話的解釈から事実解明への転換期
奈良時代の『常陸風土記』には、大串貝塚が巨人に食された、とか、『続日本後紀』(839年)には「出羽国田川郡の西浜に石鏃が天から降ったがこれは神戦のためであろうから、それを鎮めるために当時の東北地方の重鎮、大物忌神社の神階正五位下を従四位下に特進させた」という記述があったり、研究と言うより、神話に近い話が多かったのである。
江戸時代になると、津軽藩は青森県亀ヶ岡式土器の出土を記し、菅江真澄は東北の亀ヶ岡、三内土器を区別して記述。また、田邨省三は、石器と土器との関連、集落地の立地などに言及。
既にこの時代、三内丸山に遺跡があることや、、縄文文化が東北地方にあったことは知られていたのである。
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2007年10月03日
学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(後半)
千田先生の論文の続きです。縄文社会の自然との関わりを現代と比較して書いています。
>「こうした脈絡で、自然の中で生活していた縄文社会が注目されるのである。確かにドイツ歴史学派やアダム・スミスなどは、こういう歴史の起点を「未開状態」とした。例えば、スミスは、「分業がなく、交換がまれにしかおこなわれず、各人がすべてのものを自分で調達するという、社会の未開状態」とみた。だが、決してこの時代は未開などではなく、見事な自然調和文化が花開いていたのである。欲望が社会の掟、文化によって規制され、日常生活に必要なものが生産され、交換されていたのであった。
もちろん、自然の中で生きるということは、自然環境に生活を大きく影響されることである。
>縄文社会は絶えず食糧危機に直面し、不安に満ち満ちた社会であった。生易しい自然調和などではなかった。自然と調和するとは、人間が自らも自然の一部として、厳しい自然の法則に敬意をはらうということなのである。それは、数十万年の後に、ようやく人類が手にした「脅威ある自然との折り合いのついた」生活であった。
>そして、こうした自然の脅威にさらされている点では、縄文時代も現代も同じである。よく現代日本社会には「安全神話」が崩壊したか否かなどが議論されるが、宇宙的・地球的視野からみれば、我々は依然として自然の厳しい脅威にさらされているのである。貧富差緩和と治安強化で「安心」は維持されても、自然の脅威を克服できる社会はとうてい実現維持などできないのである。
縄文時代を自然と折り合いが付いた(完成された)文化であると著者は語っています。さらに自然を克服できる社会は未来永劫できない。人間の傲慢であると。
現代にあっても自然の脅威は決して減っていません。現代人でも大きな地震や台風の時にさらされる感覚です。大きく見れば温暖化であってもその原因の一部を人類が作ったか否かすら判っておらず、自然の脅威の一つに変わりはないのです。
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学者「千田稔氏」の論文を論評してみる!(前半)
縄文時代の研究家に千田稔氏という著名な学者がいます。今回はその方の論文を取り上げて「今、なぜ縄文が取り上げられてきているのか」そして「どうする?日本!」に迫ってみたいと思います。
物質文明の現代に異を唱え、縄文時代にその答えを見出そうとする研究スタンスには我々が立ち上げて勉強している縄文―古代ブログに相通じるものがあり、共感を覚えます。著者の研究から私たちが追求しているテーマとの共通点と相違点を抽出してみました。
著者の論文「縄文文化と現代」の中から著者の論説の中心となる部分をピックアップしながら感想を入れていきます。
>自然破壊の深刻化するなか、我々はどういう時代に生きているのか、何をなすべきか、これを知ることは国民的な課題にもなっていると言ってよい。これには、前近代社会を「学問」的にとらえることが必要となろう。そのためには、具体的には、もはやマルクス経済学とか近代経済学ではなく、「新しい経済学」に依拠して、近現代と先史時代の比較検討を経済に限らず総体的に学問的に行うこと、これが重要になってくるのである。
・・・なるほど、書き出しがいいですね。
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2007年10月01日
改めて「縄文ブログ」の探求テーマを挙げてみました
○「今年の「縄文ー古代ブログ」を振り返って」、を参考に、現在までの「縄文ブログ」でまだ探求しきれていない、あるいはまだまだ疑問が多い項目を挙げて見ました。
1 集団や集落の統合の体制・様式は?
婚姻様式は?
家族形態は?(一単位の集団規模はどのくらい?)
祭りはどんなことをしていた?
文字はほんとに無かった?
2 他集団との関係は?
略奪や戦争が既にあったのか?
奴婢・奴隷の存在は?
黒曜石やヒスイの行き来は贈与か交換か?
3 生産手段は?
稲作はいつごろから?どんな方法で?
栽培生産はどこまで行われていた?
鯨などの大きな獲物はどうやって捕獲した?
4 生活は?
食料・食事はどんなものを採取していた?
装身具は何のため?
「石棒」は何のために使った?
犬や牛や猫を飼っていた?
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2007年09月27日
エジプト発~貴重品として世界に広まった“ネコ”
こんばんは :-)
さーねさんの鹿に続いて、ネコの話題です :m172:
現在の家畜(~ペット)といえば、なんといっても犬や猫ですが、古代はどうだったのでしょう?
羊や犬に牛や豚などはすぐに思い浮かびますが、では猫は???
なんか大して役に立ちそうにないし、食べてもまずそうだし、、、
でも、縄文にはネコの土偶?があるらしい。

山梨県御坂町上黒駒出土 縄文時代(中期)
うーん、これってネコに見えますか??
縄文時代から猫っていたのかな~?
ということで、ネコのルーツを探ってみました :-)
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2007年09月07日
環太平洋圏の海流・気流は縄文人をどこに導いたか?
mukaiさんの縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした や縄文の海洋技術:『縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ』でも言われていますが、既に1万年前から6000千年前に、縄文人は太平洋を航海していたのではないかと多くの考古学者が述べているようです。
中には、インディアンの祖先やポリネシア人の祖先は縄文人ではないかと言われる人もいますが、そんなことがあり得るのでしょうか? :shock:
実際、ノルウェーの人類学者、ヘイエル・ダール博士は、筏船で、ペルーのカヤオ港から南太平洋のツアモツ島まで4,300マイル(8千km弱)の横断を試み、102日間でたどり着いたそうです。その他にも、tanoさんが
黒潮に乗って でも紹介しているように、この環太平洋を流れる海流の作用はコマを流す実験でも実証されているようです。
果たして、インディアンやポリネシア人の祖先が縄文人かどうか分かりませんが、少なくともエンジンも海図も持たない古代人が、遥か何千キロも先の大陸や島々に舟を運ぶのに、地球の海流や大気の流れはどのように影響するのでしょうか?
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2007年09月06日
新旧モンゴロイドの混血による縄文人の形成
:D くまなです
前回の「縄文人の故郷、スンダランド」の続きです。前回は2万年前までの状況を紹介しました。
約2万年前は氷期のピークで、今よりも平均気温で7~8℃低かったと考えられています。その後1.3万年間で温暖化し、約1.2万年前(縄文時代の始まる頃)には現在と同等の気温まで上昇しました。この気温の上昇に伴って、氷期に形成された(主に極地方の)陸上の氷や雪が融解したのと、海水の膨張により、海水面が100mほど上昇したと考えられています。

(当ブログ内のRさんの記事縄文時代の海水面、気候変動グラフを参考に、「海のほしと私たち」よりお借りしました)
スンダランドは赤道直下(北緯15度~南緯10度)にあります。現在は熱帯雨林気候ですが、氷期には温帯だったと考えられます。氷期において赤道直下の地域は温暖湿潤な気候であり、その行き止まりの半島部分に多くの人類が行き着いたと考えられます。
その上、海や川からの豊富な食糧、片面が海という防衛のしやすさ、侵食等により隠れ住む洞窟の多さが考えられ、しばらくすると人口も増加し、多くの人類が縄張りを接するように暮らしていたと考えられます。
そのような状況下で、気候が温暖化し、海水面が徐々に上昇し始めます。海岸沿いに住む人々は、住みか(洞窟)が失われ、縄張りが減少していきます。
内陸に進出しようとしても他集団がいます。一部には合流した集団もいましたが、大半は海側を島伝いに新天地を求めて出て行ったと考えられます。その第一波は、すでに5万年前、南東端の沿岸地方に住んでいた人々が、東に漕ぎ出し、島伝いに現在のオーストラリアに到達しています。
温暖化がすすみ、現在のフィリピンやマレー半島に囲まれた大陸棚地域も水没しはじめると、その地域の人類は同様に海側に新天地を求めて漕ぎ出していきます。その場合に、ちょうど黒潮の海流に乗ることができます。ただし、当時は大海原に漕ぎ出したわけではなく、漁業の技術も近海や河川でのものでしたので、あくまで島伝いに新天地を探索したと思われます。
現在でも、フィリピン近海から台湾、沖縄、日本をつなぐ海域は浅く、現在よりも島(陸地)も多かったのではないかと考えられます。

海面の上昇に伴って、同様にして海に出て行く人々が増えますが、皆同じような航路を取るため、途中の島々にはすでに先行して流れ着いた人々がおり、安住の地を得られず、さらに次の地を目指して漕ぎ出します。そのように、時代が進むにつれ、黒潮に沿って北へ北へと進んでいきます。
温暖化は1.2万年前まで続きますが、1.8万年前には上記のようにして沖縄に到達した集団がいました。それが港川人です。(湊川人の骨格はインドネシアのワジャク人に似ている日本人はるかな旅展)
そして1.2万年前には日本本土に到達しています(志風頭遺跡、栫ノ原遺跡など日本人はるかな旅展)。
スンダランドを出た旧モンゴロイドは、2万年前から、海面が再上昇する7000年前までの1.3万年の間に日本に到達します。船での移動なので人数は限定的ですが、波状的に多くの人々が渡来したと考えられます。
彼らは、温暖化と共に北上していったことから、環境の変化とともに、それまで培った生活技術(生産様式等)が可能な土地へと移動していったと言ってもいいでしょう。漁労技術や広葉樹林からの木の実を煮炊きする土器、小動物を捕獲する弓矢を持ち、その後の日本で人口を増やしていったと考えられます。
一方、北からのルート(新モンゴロイド)はどうなったのでしょうか。
その前に、 :m118: ぽちっと応援よろしくお願いします。
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2007年09月04日
もう一つの日本列島史
北海道においては、縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化の流れをたどったと理解していたのですが、それだけではないと分ってきました。

本州では、弥生文化が全国に広がり、縄文時代が終わりを告げました。
一方、北海道では、本州の古墳時代の終わり頃、突如として「オホーツク文化」が姿を現し、忽然と姿を消していきます。
「オホーツク文化」って何?と思われた方は、ぽちっとお願いします。
posted by naoto : 20:29 | コメント (7) | トラックバック (0)
2007年08月25日
縄文人の故郷、スンダランド
:D くまなです。
縄文人のふるさとと思われるスンダランドについて調べていたら、日本人の起源についての記述がありましたのでご紹介します。
まず、予備知識として…
縄文人の遥か祖先、始原人類は500~700万年前に出現し、180~150万年前にはユーラシア大陸に進出し、40~50万年前には北京原人やジャワ原人として存在しています。その頃、旧人がアフリカを出て、10万年前頃には東アジアまで到達します(図1)。ただし、それら原人や旧人は絶滅しています。縄文人につながる現生人類(新人)は15~10万年前頃にアフリカを出ます。
図1:原人・旧人の拡散

(九州大学ミュージアム「モンゴロイドの形成」よりお借りしました。人類発祥は最大700万年前に遡る可能性があります。)
図2:現生人類(新人)のスンダランドへの道のり
(サイトJOURNEY OF MANKINDよりお借りしました。なお、新人の骨は南アフリカから発見されている⇒参照日本人はるかな旅展)
図2によると、現生人類の祖先(新人)は9万年前頃に紅海を渡り(既に船を利用か)、海岸線沿いに移動し、8~7万年前頃には東南アジア(スンダランド)から東アジアに到達します。 彼らがモンゴロイドを形成します。モンゴロイドは、北方に移動する人々とスンダランドにとどまる人々に別れ、それぞれの気候・風土に合わせて適応します。北方適応した人々を新モンゴロイドと呼ぶのに対して、南方にとどまった人々を旧モンゴロイドと呼びます。
図3:スンダランド

(図はサイト米と酒と鳥と貝よりお借りしました)
スンダランド(Sundaland)とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷河期に形成した広大な沖積平野で、現在ではタイ湾から南シナ海へかけての大陸棚として海底に没している。72000年~16000年前頃の氷河期には海面が100メートル程度低く陸地で、14000年前~6000年前にわたる海面上昇により海底に没した。
スンダランドのモンゴロイドが、数万年に亘っていくつかの経路から日本列島に到達し、混血してできたのが縄文人といわれています。
続きの前に、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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2007年08月15日
現代における縄文人、弥生人のDNA分布
こんにちは!ベジ紀です :m026:
今回は縄文人、弥生人と同じDNAをもつ人々が現在はどのあたりに多く住んでいるのか?がちょっと気になりましたので調べてみました。
現在はまだ、縄文人と弥生人を合わせて100体あまりのDNAしか解析されていませんが、その現状の結果を知ることができましたので、お伝えします。
続きはポチッと押してからヨロシク!↓
posted by jomon10 : 10:27 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年08月02日
【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?
今晩は :m030: さーねです :D
今日は、縄文のなんでの縄文時代の都が1500年も続いたって本当?を解き明かしてみたいと思います :m051: :tikara:
その代表が三内丸山遺跡ですが、まずは、るいネットのマスコミが歴史的事実も歪めている・・・三内丸山遺跡の実態・・・を読んでみました :roll:
確かに、何かおかしい… :roll:
このお題は、歴史を学ぶという点でとても示唆に富んでいます :m049: :P
なかなか面白いお題です :m051: :P
頑張ってみましたっ :m051: :tikara:

大きい・長い・多い~三内丸山遺跡…
今、僕達に必要なのは事実と自然の摂理 :m051: :P
一緒に追究しましょう :m118: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 21:29 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月26日
アイヌ民族の海獣猟
前回は、アイヌの婚姻様式を紹介しましたが、今回は彼らの主要な生産基盤のひとつであった海獣猟を紹介したいと思います。 古代オホーツクと氷民文化《参照》
○海獣とは
海獣という呼称は、海を主な生活の場とする哺乳類の寄せ集めで、イルカ・クジラ類や、ジュゴンなどの海牛類、アシカやアザラシ、ラッコなどの血縁的にはまったく異なるグループをまとめて呼んだものである。
この中でも、ここでは、流氷が押し寄せるオホーツク海沿岸と特に関わりが深い、アシカやアザラシの仲間をとりあげてみたい。
○北海道の鰭脚類-アシカの仲間
北海道近海には、アシカの仲間(アシカ科)が三種生息している。

体の大きい順に、トド・ニホンアシカ・キタオットセイである。
このうちニホンアシカは、かつては北海道から九州までの日本各地の沿岸で見られたが、一九七五年の日本海の竹島での目撃情報が最後となっており、既に絶滅した可能性が高い。
先史時代から人間に利用されていたらしく、北海道礼文島の浜中二遺跡からは、縄文人によって捕獲されたと考えられる大量のニホンアシカの骨が見つかっている。
posted by naoto : 13:17 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月18日
ブナ林とマタギ
こんばんは~ :m017: みつこ :D です。
またちょっぴり縄文に戻ります :m108:
東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化
縄文文化とブナ林 :m019: って切っても切り離せないようですね。
今日は、そんなブナ林に生きた、マタギたちの信仰について紹介します。
主に『ブナ林と古代史』さんからいただきました。
:m221: マタギって何?
マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう。中でも秋田県の仙北や阿仁地方には、マタギの村が多かった。彼らは、クマ狩りなどの集団猟を得意とし、晩秋から早春にかけて山に入り、拠点となる場所に設けた簡単な狩り小屋に泊まり込んで、クマ、カモシカなどの大型獣を捕った。

:m221: マタギとブナ林の関わりって?
ブナ林を構成しているのはブナ、ナラ、クリ、ミズナラなどである。これらの実がクマの主要な食物となっている。他にもヤマブドウやアケビなどがある。晩秋とか春先には落葉を掻き分けて地上にこぼれたブナの実をあさる。これをホリバミ(掘食)という。初秋のころは樹上で枝をへし折ってナラの実を食む。これをオリバミ(折食)という、クマのついた木は丁度棚をかいたようなありさまになっている(これを熊棚という)このようにクマの生息はブナ林の恵みに負っている。
なるほど、ブナ林 :m019: があったからこそ、マタギ :m223: が登場しえたのですね。
マタギの信仰から人々の自然への思いを読み取ってみたいです :m022:
応援おねがいします :m092:
ありがとうございます :m001:
posted by mituko : 20:49 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月13日
アイヌについて
先日naotoさんが、アイヌの婚姻形式について投稿されていますが、そもそもアイヌってどんな人たちなのと、素朴な疑問が起こったので、少し調べてみました。
> アイヌとは、「人間」を意味します。アイヌ民族は、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで、祈り、さまざまな儀礼を行いました。
それらの神々には、火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、舟、鍋といった物神、さらに家を守る神、山の神、湖の神などがあります。そういった神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶのです。
http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html
(アイヌ文化入門)

アイヌって、アイヌの人々のことの総称程度の認識だったのですが、「人間」そのものを意味しているとは知りませんでした。
一方で、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなしたいたということですが、自分たち恩恵をもたらしてくれるもの等を敬いの対象=神として認識していたということをだと思います。
これは、自然の恵みに感謝の念を抱くという、日本人が潜在的に持ち合わせているであろう感覚に近いようにも感じます。
しかし、一方で
>これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
(ウィキペディア)
アイヌの大地に、進出してきた当時の日本人に対して、自分たちを神々と対の言葉である人間という意味の「アイヌ」であると呼ぶように求めたんですね。アイヌの人々にとって、領土や交易の拡大を目的とし、この大地の神々との関係を重視しない日本人は、この大地に根ざした自分たちとは違った人種の人たちであるという風に映っていたのでしょう。
実際、アイヌの地にやってきた日本人(和人)は、だまし討ち等を行うことで戦いに勝つ、明治以降の和風化を強制する政策等、結構ひどいことをやっていたようです。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/hito/rekishi/rekishi.html
(アイヌの人達とともに)
アイヌの人たちの自然観について、以前このブログでtanoさんもご紹介されていた萱野茂さん言葉に、言い表されていると思いますので、紹介させていただきます。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2006/11/000046.html
>したがって、遠くに見える山、近くを流れる川、沢など、これらの自然はアイヌにとっては神様であったのです。山も木も川もみんな神様です。なぜそれを神様と考えたのか。それは自然全体、山も川も沢も、これらはいつも新鮮な食料を供給してくれる食料貯蔵庫であったのです。ということは、川があるから魚がいる。木がはえているからシカがいる、そこへ行って食べ物をちょうだいしてくるという謙虚な心をつねづね持っていました。このように自然を神と崇め、豊富にある物といえども乱獲を慎み、それによって神=自然とアイヌの間に相互信頼が確立していたのです。
「アイヌの里二風谷に生きて」 萱野茂著 北海道新聞社刊 より引用
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Ainu.htm

(萱野茂さん)
アイヌの人たちの、自然に対する想いが、伝わってくるようです。
この自然観に、何かしら感動を覚える人も多いのではないでしょうか。
このことは、私たちの中にも、アイヌの人たちに通ずる自然観を潜在的に持ち合わせているからだと思います。
あらためて気づかされる、大切にしていきたい感覚です。
posted by yuyu : 23:46 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月10日
アイヌ民族の婚姻様式
縄文時代の人々は、どのような婚姻様式をとっていたのでしょうか?
縄文人気質を探求する上で、最も重要な要因のひとつだと思うのですが、これだ!という文献に出くわしたことがありません :m111:
そこで、今日は、続縄文時代から繋がるアイヌ民族の婚姻様式を紹介し、冒頭の問題を探求するきっかけを作りたいと思います :shock:
アイヌ文化入門より
>結婚
本人がまだ幼いときに、親同士の約束や、あるいは仲に立った人によっていいなずけにしておき、年頃になって本人たちに伝え、結婚させます。
また、本人同士の意思による結婚もありました。
また、ある地方では、娘が年頃になると、家の南壁にトゥンプといわれる小室を設けて娘を住まわせ、遊びにくる男性のなかから相手を選んだりしました。

おや!これって夜這いの風習ではないの?と思った方は、ポチッとどうぞ :roll:
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posted by naoto : 21:07 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年05月26日
海を渡った縄文人:ワラ算とキープの関連から
以前、このサイトの“みつこ”さんの投稿で「文字がない社会って?!」 でインカ帝国のキープが紹介されました。
私が今興味を持っている琉球や沖縄で「ワラ算」という結縄文字にも触れられていました。
写真をよく見ていただくと分りますが、非常に似ています。


ワラ算(日本) キープ(インカ)
調べていくとこの時代、単に紙とペンがなかっただけで、器用な日本人の祖先にとっては、ワラや縄はもっとも身近な記録媒体だったのかもしれない。
「ワラ算」も、太平洋をわたった縄文人により南米にもたらされ、それをもとに独自にキープとして発展を遂げたのではないか?
と言う疑問が沸いてきます。 このキープとワラ算の関連を調べてみました。
気になりますよね、、
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:m118: :m118: :m118:
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posted by mukai : 07:30 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月21日
世界文明 vs 縄文・・・・そして反転がはじまる!?
この↓図版をみて、驚いた。1万年が一目瞭然!注目です。

※この図は佐原真氏の作成らしい、秀逸です。図は「国民の歴史」より
スキャンしたので、傾いて粗っぽい画像ですみません。
続きを読む "世界文明 vs 縄文・・・・そして反転がはじまる!?"
posted by ihiro : 18:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年04月22日
農業と文明と環境の関係
農業は産業革命と並んで文明発展の転換点となったといわれていますが、「人類は何故農業を始めたのか」、またその「農業が生んだ古代文明はその農業の失敗によって滅んだ」という視点から「ユーラシア1万年の農業史から人類の未来を考える 」取り組みをしている人を紹介しよう。
posted by ryujin : 21:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年03月22日
中国文明&縄文:漢字はなんで必要になったか?~支配のためだった?
みつこさん⇒ぴんぐ~さん⇒さーねが勝手にバトン受け取りました :wink:
以前、さーねも中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?で、文字ネタ調べてみましたが、今日は漢字文化圏の文字として焦点を当てたいと思います :m051:

神代文字:日本において漢字伝来以前に存在した文字 :m052: :m052: :m052: しかし、学会では後の信仰のために捏造されたものと言われています。(ウィキペディア参照)
(写真は、神代文字より)
続きを読む "中国文明&縄文:漢字はなんで必要になったか?~支配のためだった?"
posted by sawatan : 22:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年01月23日
北の古代史~続縄文
先日のエントリーで、tanoさんが、縄文時代の区分を紹介されていますが、北海道においては、本州の縄文時代が終わった後も、縄文時代が続いており、さらにその次に「続縄文」という時代があったようです。
実は、何を隠そう私も「続縄文」という言葉を知ったのは、つい最近のことでして、「えっ、縄文時代には続きがあったの?」と、ちょっと驚いたので、調べてみました。
まずは、北海道における時代区分。
約30,000年前~10,000年前 :旧石器文化
約10,000年前~約1,800年前 :縄文文化(早~晩期までの5期区分)
約1800年~1500年前 :続縄文文化
約1200年~600年前 :擦文文化
約1200年~600年前 :オホーツク文化
約600年~200年前 :アイヌ文化
約200年~現在 :近・現代(和人による支配、同化政策)

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html
(アイヌ文化入門より)
上記年表をみると、本州が弥生に入ったあとも、しばらくは縄文時代が続いた後に、続縄文時代に入ったことがわかります。
では、縄文文化と、続縄文文化との違いはどこにあるのでしょうか。
posted by yuyu : 01:27 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年01月06日
黒潮に乗って
tanoです。今日から仕事始め。長い正月休暇をいただいて体調万全です。今年も頑張れそう~ :-)
さて今年最初の投稿は正月のマグロドラマに感動して海洋民の話から・・・
日本人の起源は、るいネットの「スンダランド海洋航海民」や「日本人の渡来経路(縄文時代以前)」などにあるように、スンダランドから黒潮に乗ってやってきた人々を基層に持つとされている。(柳田国男が唱えた「海上の道」。)今回このルートを確かめるべく、黒潮の海流調査が行われた。昨年の調査結果と共に紹介してみたい。
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2005年6月2日沖縄タイムス
日本人のルーツ解明手掛かりに/黒潮海流調査で考古学研究グループ
日本海流(黒潮)の流れを解明する海流調査のため1日、日本最西端に位置する与那国町からコマ1000個が投入された。今後20ヶ月間を通し合計1万個を流し、季節や気候の変動による海流の変化を長期的に調査する。コマと同時に人工衛星の端末を備えた漂流ブイも一緒に投入。日本海側の海流はどのように流れているのか、追跡調査が始まった。調査を企画したのは有志で考古学を研究する「グループ・ニライカナイ」(東京都)。米国の海洋学者カーティス・エッベスマイヤー博士の指導の下、黒潮に乗ってやってきたといわれる日本人のルーツ解明の手掛かりを得たいと話す。
日本海側の海流調査は太平洋側に比べほとんど実施されていないことから、近年増えている漂着ごみなど海洋汚染の実態解明や、水難事故捜索で必要な海流データなどにも役立てたい意向だ。
ニライカナイ事務局の綿貫信一さんは「近年は電子メールの普及により、国際的な通信が簡単になった。投入するコマに連絡先を明記することで、世界各地からの拾得情報がこれまでにない高い確率で得ることができる」と期待する。
初回投入が実施された1日、一行は・・・・
続きはワンクリックして進んでね。
posted by tano : 01:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月11日
考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。
こんにちわ ちわわ です。 よろしく :roll: !
縄文って奥深いですねー。
おもしろい意見があったのでこぴぺ :m057: します。
:m030: 考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。 :m030:
この全く正反対の結論を、どのように整合させたらよいのか。
この難問に挑んだのが、九州大学教授で形態人類学を研究する中橋孝博氏である。
先ほど甕棺の人骨は、最初の渡来から200-300年が経った時期のものであると述べた。
中橋さんは、この時間差に注目した。
つまり、考古学が示すように、当初に渡来してきた人々の数は決して多くなかった。
しかし数百年のうちに渡来系の人々は、その数を増やして、
人類学が示す渡来系一色の状態が作り出された。
これが中橋さんが両者を矛盾なく説明するために立てた仮説だった。
結論を先取りして言うと、
渡来系の人々は爆発的に人口を増加させる事によって、
あっという間に縄文系の人々の人口を追い越し、福岡周辺の平野を埋め尽くしていったのだ。
中橋さんの研究から、縄文系と渡来人の人々の平均寿命も明らかになっている。
縄文系の平均寿命は僅か :shock: 14歳、これに対して渡来系は :evil: 25歳である。
このように書くと現在の我々との余りの落差に、どちらも短命だったように見えるが、これは乳幼児の死亡率が非常に高いためである。
渡来系の人々でも成人になるまでに生きられる人は、半分程度だという推計が出ている。
だが、乳幼児の危機を乗り切ったひとが、
その後に何歳くらいまで生きられたかを見てみると、縄文系と渡来系では大きな差が出てくる。
中橋さんは一例として15歳の女性の平均余命(=15歳の女性が平均して、あと何年生きられるか)を挙げている
それによると縄文系が :m032: 16年なのに対して、渡来系は :m043: 30年を超えている。
これは単に、その人が長生きでおめでたいと言うだけの話ではない。
女性を引き合いに出したのは、わけがある。
つまり15歳を出産開始年齢と仮定すると、子供を産める期間が16年から30年へと倍増しているのである。
これは渡来系の人々の方が、縄文系の人々より、かなり子だくさんだった可能性が高い :roll: 事を示している。
水田稲作という安定した生産基盤が持つ高い人口支持力。
良好な栄養状態に支えられた長い寿命と多産。
渡来系の人々は、縄文系の人々に比べて遙かに増殖力の高い人達だった。
これが人口爆発を引き起こし、容易に縄文系の人々の人口を逆転できた要因だったのだ。 :shock:
渡来人は年に十数人しか渡来しておらず、専従縄文人と対立するほど集団の体を成していなかったのではないでしょうか。 :m300:
posted by postgre : 13:13 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年09月30日
縄文晩期の気候変動が農耕につながった?
るいネットの衛藤さんの投稿にタイムリーな気象データーがありました。
日本列島のヤンガードリアス期後の1万年前からのデーターです。縄文時代の気候状況
>10200~10000年前 再び急速に上昇
10000年前 -2℃日本列島分離
10000~ 7500年前 ここからはゆっくり上昇
(9500年前まで漸暖期)
(8000~5000年前ヒプシサーマル(高温期))
7500年前 0℃
7500~5000年前 さらに上昇
(6500年前~照葉樹林)
(5700年前~スギ林)
5000年前 +2℃最高期縄紋海進期海
