/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2008年11月09日

貝は語る(シリーズ①)

[縄文人の外圧]

ずっとこの疑問を暖めていました。
縄文時代の海進、海退とその温度変化はどのようであったのか?

その変化は地域の温暖化をどのように推し進めたのか?
具体的には縄文時代に多く人が住んでいたと言われる東北地方の気候状況とはどうであったのか?
西日本の気候はどうであったのか?
縄文時代は人は気候変動に併せてどのように移動したのだろうか?

そしてそれらを明らかにするには
    ・
    ・
    ・

縄文時代1万年の気候を知る有効な手がかりを見つけた。 :m208:

今日からシリーズでこの本の中の記事を紹介しながら、この課題に迫ってみたいと思います。

「貝は語る縄文海進ー南関東、+2℃の世界」 松島義章著
kai.jpg

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さて、下手な私の解説はできるだけ省略してこの本の原文を掲載していきます。


posted by tano : | |

2008年08月11日

縄文:再葬墓≒死者への同化⇒再生

[縄文人の外圧]

今晩は、さーねです :o 先週と同じ、縄文の信仰を調べていたら、興味深い :m208: 埋葬の形を見つけました。

再葬墓」です。

>「再葬墓」とは、一度葬送した後、骨になった段階で、人骨を納めて再度埋葬する方法です。
レアメモリー諏訪の縄文時代より

なんで、再葬したのか :m050: 考えてみたいと思います :tikara:

dokoubo.bmp
:m116: 土坑墓 :m116:

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posted by sawatan : | |

2008年07月10日

縄文の精霊信仰~山岳信仰

[縄文人の外圧]

今日は、縄文人の精霊信仰を探求してみようと思います。
なんで、自然を対象化したか?
原初的山岳信仰の変遷より、抜粋して探求していきましょう :tikara:

P61800171.jpg
岩石信仰は現代でも残っている

byさーね

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posted by sawatan : | |

2008年06月12日

ヒト&縄文:難産という出産障害

[縄文人の外圧]

最近、るいネットなんでや劇場で熱い :m116: 生物史参考投稿) :m193:
改めて、我々の細胞が形成している機能や免疫細胞等…生物~人類まで、いかに進化を積み重ねてきたか :m052: とても面白い :m051: 今日は、そんな生物史にちょっとヒントをえて、視点を変えてみました。
今までは、縄文人を取り巻く自然圧力などを対象に外圧状況を探ってきましたが、縄文人自身はどんな状態だったのか?古病理学を視点に探ってみたいと思います :m044:

byさーね :o

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参考図書「骨から見た日本人~古病理学が語る歴史 鈴木隆雄 著」 :m061:
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posted by sawatan : | |

2008年04月11日

ヒスイの広域に渡る存在は、交易か贈与か?

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

:D くまなです。

縄文時代の広域にわたる物の移動が贈与なのか、交易なのかについて、「ヒスイ」に注目して深めていきたいと思っています。

20061126116453883429316300.jpg
写真は北海道美々4号遺跡の曲玉。EnjoyKoreaより。

過去、このブログでの記事には以下があります。
縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの

縄文時代において、黒曜石やヒスイが広範囲に出土する状況について、一般的には「交易」の結果だといわれています。一方、このブログでは集団間の緊張緩和のための「贈与」の結果であるとの提起がされてきました。

「交易」と「贈与」には大きい違いがあります。
縄文人が他集団、すなわち、集団を超えた‘社会’に接したとき、どのように捉え、どう対処しようとしたのか。交易は自集団の利益のために他集団と取引(≒騙し)をしようとしたのであり、贈与は争いを避けるために友好関係を結ぼうとしたということになります。

縄文時代の物の広域移動が「贈与」である根拠は以下の2点です。
A)交易であれば一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずであり、広域の広がりを説明できない。
B)自給度が高い歴史を積み重ねてきた原始共同体にとって、他の部族に自らの生活条件及び生存条件の一部を依存するという発想は極めて出てきにくい。

参照:黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②

上記を念頭に置きつつも、縄文時代における物の広域移動が「贈与」であるということが出土状況等のデータから検証できないか、というのが現在の課題意識です。

この間、いろいろ調べる中で、なかなかスッキリとした答えが見えてきません。
どのような状況がハッキリすれば贈与と断定できるのか…(あるいは交易と断定できるのか…)

現時点での疑問点=解明しようとしている課題を次に示します。

その前に :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : | |

2008年03月12日

縄文集団はどのように争いを回避してきたのか?

[縄文人の外圧]

前投稿で、集団規模の拡大→分割に伴う同類闘争圧力の増大について触れましたが、日常的に彼らはどのようにして争いを回避してきたのでしょう。
「贈与」以外の方法はなかったのでしょうか?

今回は日本社会システムの起源を参照させて頂きます。《一部編集》

他の単位集団との関係が問題になるとすれば,やはり生業をとおしてのものである。 すなわち,縄文社会の単位集団は狩猟・採集にかかわる領有圏,テリトリーをもっていたと考えられ,この領域の設定あるいは維持をとおして相互関係が不可避であった。
縄文時代に数千年にわたって人々が生活したことによって生まれた福井県の鳥浜貝塚の場合,「人口30人内外の集団を支えるために必要とされた領域は半径5キロメートル程度であったと思われる」と指摘している。 この領有圏内の植物資源,水産資源をそれぞれの季節ごとに多面的に利用しながら,この鳥浜貝塚の住人は豊かな生活を営んでいたことがわかっている。 この5キロメートルという領有圏は先土器時代と比較すれば小さな範囲となったことは確かだろう。 しかし,狩猟・採集・漁撈に良好な地域には単位集団が集中することは自然である。 したがって,この領有圏をめぐっては単位集団の自由な設定が困難であった可能性は高く,単位集団間の調整が必要とされただろう。

posted by naoto : | |

2008年03月11日

縄文人が水田稲作を始めなかったのはなんで?

[縄文人の外圧]

こんばんわ。tanoです。
水田稲作は縄文時代には定着しませんでした。なぜでしょうか?

以前私は佐々木高明氏の著書から抜粋して、るいネットの縄文人と農耕技術で以下のような投稿をしました。

縄文人が稲作を拒否したのかについては・・・下記のくだりで説明できる。
”後期、畑稲作が始まった後も平行して網羅的食料体系は残っており、稲作が始まった後、他文明で見られる、階層社会の成立や戦争の開始といった社会のシステムや枠組みを大幅に変換させるような形跡は見られなかった。
それは、畑稲作は既存の共同体組織で充分に対応できたと思われるし、余剰を生み出さないイデオロギーが残存し、自然を大きく破壊しない、サイクルを変動させないタブーが存在したとさえ想定できる。
後期に登場した呪術の技術はそれ(自然との関係の破壊)を戒めるために使われたとも考えられ、そのことにより、縄文時代の農耕は伝統的な獲得経済の一部を構成したにとどまり、けっして支配的な食料獲得様式にはならなかった。”

稲作を拒否したのではなく、稲作による社会の変質を拒否したのである。

今日は、縄文人が稲作を拒否したのか、稲作ができなかったのか?について考えてみたいと思います。
:m117: まずは縄文人が稲作をできなかったという立場です。
仮説)
1.水田稲作は灌漑など高度な技術で渡来人が持ち込まなければ到底できないような技術だった。
2.水田稲作が可能な稲は陸稲とは異なり、多段階の品種改良が行われた上で栽培が可能になる。
つまり種や苗がなければ栽培ができない。

だから渡来人が技術を持ち込んで縄文人の集落に融合する事で水田稲作を伝える事ができた。
::::学説ではそうなっています。

本当にそうなのでしょうか?まずは仮説を疑ってみます。

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posted by tano : | |

2008年02月21日

縄文人の注視する力

[縄文人の外圧]

今日は、若干個人の感想レベルになってしまうかもしれませんが :m196: …先日アップされた縄文人、再生への祈りのこの部分。正直、現代社会に生きる自分にとっては驚きでした :shock:

実際、生まれた子どもは15歳になるまでにほとんど死んでしまう状況で、かつ、産んだ女性も命を落とすことがあるという状況で、無事生まれ、育っていくことへの祈りは切実であったろうと思います。

縄文人の平均寿命は本当に15才 :m052:
現代人の平均寿命の1/4にも満たない…
いかに、縄文人が生き延びたのか :m050: 改めて、身が震える想いです :confused:
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環境研ミニ百科第30号 縄文人は、短命だった?

byさーね

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posted by sawatan : | |

2007年12月13日

礼文島の民は三内丸山から流れてきた!?

[縄文人の外圧]

縄文時代に市場取引はなかった。これは正しいと思う。
しかし一方で三内丸山にあるように多くの物資の移動は行われてた。
また、3500年前の礼文島では船舶遺跡と呼ばれるようにヒスイや琥珀など多くの各地の名産が集まっており、逆に貝のアクセサリーをアスファルトと交換にサハリンを越えて大陸へと運んでいた。

それらの物資の移動を一言で交換市場と対比させて贈与と呼んでいいものだろうか?

以下はるいネットで扱われている市場と贈与の定義である

【市場】交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。
実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。

【贈与】共認原理に基づく友好の証
・他集団との接触によって生じた緊張圧力を相互の贈与によって回避。
・双方とも私有意識・自集団第一の意識は存在せず、友好の証として各々の集団が最も貴重と考える品を交換条件なしに贈与し合う。

礼文島の広域交易を贈与と呼ぶべきなのか市場の萌芽なのか・・・それとも・・・。
今日は縄文時代中期以降に頻繁に移動した物資の流れ=交流とはいったいなんだったのか?について徹底追求してみます。

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posted by tano : | |

2007年11月13日

シャーマンは神官の始まりか?

[縄文人の外圧]

縄文人の意識の基底部に、「万物の背後に精霊を観る」という精霊信仰があったことは疑いようがないと思います。
しかし、この精霊信仰も、晩期頃には、シャーマニズムへと変質していくようです。
シャーマンがプロ化するのと同時に、縄文社会に広がっていった抜歯の風習。
両者の関係を追ってみたいと思います。

◆縄文晩期の徴兵忌避より

《引用開始》
巨大石棒の生産は、中期縄文の中心地域・中部山地で盛況を見たが、おそらく、共同体にかかる負担が、大きすぎたからだろう、人口減少の激しくなった、後期に入って衰え、晩期には、ほとんど見られなくなってしまう。

もちろん、石は千年たっても腐らない。
一つ作ってしまえば、補充の必要も、そうはあるまい。
だが石棒作りが衰えれば、信仰そのものの変質は当然である。
陽気な男祭りの祝祭性は薄らぎ、陰気で、もったいぶったシャーマニズムが、勢いを得る。

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posted by naoto : | |

2007年10月27日

縄文:東北の華やかさの裏には「豪雪」という外圧があった

[縄文人の外圧]

日本列島の冬は、太平洋側の晴天とからっ風、日本海側の豪雪 :m009: に特色づけられる「トンネルを抜けるとそこは雪国」という風景が出現したのは、どうもこの一万年前の頃であるらしい”(環境考古学事始 安田喜憲著 洋泉社より)

今晩は、さーねです :o 今回は「 :m009: :m009: 」。どうも、日本で豪雪地帯が出現したのは一万年前。ちょうど、縄文草創期にあたります :confused:

自然現象の中では、今も「雪」は結構な外圧。(東京ではすぐ電車が止まっちゃったりしますね :x )

一方、東北の縄文文化はこのブログでも取り上げられているように、時折すごいっ :m051: :shock: と思わせるものがたくさんありますね。そんな文化の背景である外圧を前回に引続き、環境考古学的視点で迫ってみようと思います :D

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:m009: 雪の三内丸山 :m009:

:m118: 当時の人々の意識に迫ろう :m051: :P :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年10月11日

旧石器&縄文:世界最古の土器出現の謎~環境考古学の視点

[縄文人の外圧]

今晩は、さーねです :o 今日は環境考古学の視点から、土器出現の謎に迫りたいと思います。この環境考古学は、当時の自然外圧状況を把握し、出土物含めて、当時の人々の生活様式を解明しようとするものです。自然外圧を把握するという点では、なかなか優れた学問ではないか…ということで、最近このような本を読んでおります :m061:
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土器の必要性は、このブログでも投稿されていますが、その必要に迫られた状況=自然外圧は実は明確になっていません。今日はそこを環境考古学を通して鮮明にできたらと思います :tikara: :P

数十万年にわたって石器のみの文化の中にあった人々が、突然、粘土をこね、焼成して土器をつくりはじめる。それは人類の文化史の中では、極めて画期的な出来事であった。

確かに、そうなんですよね。これは、画期的であったはず :m051: :P

:m118: :m118: いつもの通り、応援よろしくお願いします :m118: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年09月28日

縄文草創期の現実~洞窟に隠れ住むしかなかった

[縄文人の外圧]

今晩は、さーねです。縄文に関する投稿記事もかなりの数がなされ、縄文人の生活様式が徐々に解明されていく感じがしています :o 一方、縄文時代の先駆けである草創期に関しては、データや出土物も少なく、当時の人々の生活にまだ肉迫できていないなと感じるところです :-(

その中で一つ疑問をもちました。草創期の初期は、洞窟生活をしていた=定住の始まりというところです。形態としては定住だと思うのですが…果たしてそんなに簡単に定住にできたのか :m050:

洞窟生活に至った草創期の縄文人がどんな状況であったか?そこを鮮明にしたいと思います :m051:

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縄文草創期が発見されるきっかけとなった小瀬ヶ沢洞穴
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posted by sawatan : | |

2007年08月28日

日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か②

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

どーも、○です :m043:

以前、ちわわさんが投稿されていた『日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。』に、気づかされたことがありまして、今回は勝手ながら続編を投稿しようと思います :m101:

さて、ちわわさんの投稿に

「その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。」

とありましたが、日本人は動植物ばかりでなく、命なき物にも魂があると考えていました。

例えば、雷 :m008: が鳴れば
誰かの怨念だ :m252: (菅原道真公の話は有名ですね)
とかね。

それ以外にも、あらゆる自然災害を神(精霊)の仕業としたり、とにかく何でもかんでも「人間以外の何者か」の存在を意識していたんですね。

・・・とまぁ、これまでは読者の皆様なら誰もが
「何を今さら :m196: 」
と思われることだと思います。

でも :m049:
それだけじゃないんです・・・

続きの前にポチッとな :m032:

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posted by maru : | |

2007年08月11日

東北の縄文文化から学ぶ

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文土器・土偶]

このところ当ブログでは、 【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?や、東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化など、東北地方を基盤に発展した都や、豊かな森と食糧資源に支えられた縄文時代の東北地方がクローズアップされていますね!

tanoさんが日本人の基層には西の文化がある!で触れていますが、弥生以降の稲作文化が浸透するまでは、実は、縄文文化は東北地方を中心に発展したのではないかと思うほど、そこから我々が学ぶべきものはたくさんある、ということが分かってきました!

東北地方の縄文文化について、かなり詳しく紹介しているサイトがありました。以下、 「研究調査報告書「縄文文化と東北地方」―東北の基礎文化を求めて」より引用です。

>東北地方の人々の心の中に現在も息づく自然との共生、生活文化習慣などは、気づく気づかないに関わらず、独自のものとして歴史の中でゆっくりと形成され、今日も人々の心の中に潤いを与えている、地域性の最たるものであると言えよう。そして、それを形成したのは、現在の経済システムを形作ってきた稲作農耕文化とは異なる狩猟採集を生業とした縄文時代という歴史なのである。そして、現在のシステムが綻びを見せ、新たな社会システムが模索されはじめている今日、このような歴史を持つ東北地方は、新たな価値観による・新たな社会の旗手となる可能性を秘めていると言えよう。

この先、もっと知りたいと思った方は、ポチッとお願いします!
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posted by simasan : | |

2007年08月07日

戦った縄文人

[弥生ー律令時代の戦争][縄文人の外圧]

縄文人はなす術も無く弥生人に駆逐された。

この縄文ー古代ブログでもそう認識している人は少なくないだろう。我々は戦争という技術を持って、人を支配する事を当然の社会摂理とする弥生人と戦争を知らず、友好的でおだやかな縄文人という構図を知らぬ間にイメージしている。

しかしそうだろうか?
実は縄文人が弥生人と明確に戦争をした史実がある。戦争というより抗戦という形で・・・。

北九州や中国地方に縄文時代から弥生時代にかけて1000年に渡って波状的に上陸した中国や朝鮮の渡来人は縄文人と融合し農業社会を構築し人口は増大した。弥生時代に入り農耕社会は九州、西日本からあっという間に関東地方まで広がっていった。大和朝廷が成立した後は日本は一部の地域を除いて統一されていた。

その一部の地域は最後まで抵抗した。それが現在の東北地方の蝦夷(エミシ)である。
大和朝廷の征服軍の攻撃をしのぎ38年間に渡って闘ったのがエミシだった。
今日はその蝦夷討伐に抵抗した縄文人の戦いを振り返ってみたい。

最近ご無沙汰していました。夏休みに向けて頑張って投稿しますので応援よろしくお願いします。
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posted by tano : | |

2007年07月31日

日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

:m015: :m014: :m014: :m015: :m052: :m015: こんにちわちわわです。

日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。
それは縄文時代の狩猟採集社会の精神世界です。
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その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。

アイヌに残るこうした思いは縄文人から受け継がれた大切な思いです。縄文人すばらしいと思った方↓↓ぽちっと!
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posted by tiwawa : | |

2007年07月27日

ブナ林ってすごい!

[縄文人の外圧]

こんばんは、bunchanです :m072:

今日は、mitukoさんのブナ林とマタギ、pinguさんの縄文時代は木の文化、tanoさんの日本人の基層には西の文化がある!、simasanさんの森が育んだ日本の漁労に続いて、木と林つながりで「ブナ林と古代史」 さんより、縄文人にとってブナ林がどんな恵みを与えていたのかを要約・引用で紹介しま~す。

まず・・・ブナの一生 :m146: :m147: :m207: :m207: です

 ブナは落葉高木で、安定した土壌に群生する。一般に樹高20~25m、胸高直径1m前後、樹齢250年くらいであるが、なかには樹高30m、胸高直径1.5m、樹齢300年を越すものもある。樹皮は滑らかで灰色、よく地比類、コケ類が着生し斑紋をつくる。葉は卵形で、側脈が7~11対、葉脈は波状で鈍鋸葉、花は雄雌同体で、ごく地味である。
 ブナの花は4~5月にかけて、林床の花が終わる頃に咲き、二つの花をつけた上向きの雌花が一個と、黄色の葯をつけた毛玉のような雄花が数個ぶら下がる。この雌花は受粉すると、やがて殻斗に包まれた実に成長する。
 ブナの結実は、樹齢が約50~70年ごろから始まるといわれている。実は、生り年と少ない年があり周期性をもつ。これは隔年結果現象といい、およそ4~8年ごとに豊作の年が来て、その間は平作と凶作の年が交互に来る。
 夏に緑色だった殻斗も、やがて秋になると茶褐色になり、中の二個の三角錘の実は熟し、殻斗が割れて実がはじけ、林内に飛散する。

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 この実は、晩霜、異常低温、或いは虫食いなどによって一夜にして駄目になることもある。又、夏に雨が多く降るとよく実り、少ないと空の実(しいな)が多くできるといわれる。
 落下した実は殆どは、動物に食べられたり、腐ってしまうが、生き残ったわずかなものが、やがて、カギ形の幼根を出して固定し、冬を越す。そして雪に耐え、うまく冬越しをした実だけが翌春かわいい双葉をだす。

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しかし、この芽生えの多くも、やはり動物に食べられたり、陽光の届かない所では枯れてしまうものが多い。こうして運良く生き残ったものだけが稚樹となり、その年が翌年に成葉をつけ、わずかな光の中で少しずつ大きくなっていくのである。
 やがて、低木、亜高木の状態で待機していたブナは、周囲のブナが寿命で枯死したり、台風、雷などで倒れ、陽光を遮るものがなくなると、急速に伸びて隙間を埋め、最後には森を支配してしまう。
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 長い風雪に耐えたブナの老齢木は、やがて倒木となり、朽ち果てることで林地を肥やし、自ら次の世代が育つ環境を残していく。こうして一見何の動きもないようなブナの森も、緩慢ではあるが、確実に世代交代を行い、全体として安定した状態を維持し続けているのである。こうした極相状態の森は、ブナが成長する分だけ他で枯れており、動的には成長量がゼロとなって安定する。
 ブナは、冷温帯の厳しい自然環境のもとで、人間の一生に例えると、凡そ親子四代以上に当たる長い長い歳月を生き手いることになる。現在、老齢の大径木となっているものは丁度江戸時代中期に芽生えたものであろうか。

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人間の親子4代以上の長い一生!! 育つのにも時間がかかるということですね~
ところで・・・食物が豊富だったと言われるブナ林ですが、具体的にはどんなふうに豊富だったのでしょうか。

続きに行く前に、クリックおねがいしま~す :m030:
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posted by bunchan : | |

2007年07月11日

東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化

[縄文人の外圧]

こんばんは :m027:  bunchanです。
縄文時代のなんで?を、http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.htmlにひきつづいてもう少し調べてみたいと思います :P

縄文時代の人口は東日本に多く、その理由は東日本に分布したナラ林を中心とする植生のおかげといえます。

f-narabayosi.jpg  siragami-buna01.jpg
ナラ林(上)とブナ林(下)
趣味千山よりお借りしました。
明るい光が差す林という感じですね :m146:

もののけ姫を読み解く からの引用を紹介します。

●東北日本の源流たるナラ林文化

 一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
 ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
 堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
 稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
 純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二~十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。

これってnaotoさんが紹介されているアイヌ民族の婚姻様式 のような文化だったのですね~ :o

では、照葉樹林とはどんな地帯なのでしょう~?
ぽちっ :m208: と押して続きを読んでください
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posted by bunchan : | |

2007年07月07日

【仮説】縄文:ふさわしい時代区分は?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合][縄文土器・土偶]

こんばんは、さーねです :D
今日は、カッピカピさんが先日投稿された縄文時代のなんで新テーマ①縄文時代を土器で時代区分するのはなんで?でカッピカピさんが言われている時代区分新基準に挑戦したいと思います :tikara:

僕自身も、去年縄文の時代区分を投稿しました。多くの歴史が権力支配の興亡によって、時代が区分されているのに対して、土器による時代区分はある意味新鮮でした :o

カッピカピさんの記事を読んで、るいネット縄文・弥生論争への視点を改めて読んでみました :m027:

現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている… …つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。 私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合される…

このような、歴史構造そのものに対する認識転換が必要という気がします。極端に言えば、土器による区分は年代判断をするためのものであり、その時代の生活の様子や外圧状況を想起させるものではないと思います :confused:

まずは、集団のあり方や外圧状況に視点をおくような時代区分を設定してみたらどうでしょうか?素人的発想の【仮説】ですが、皆さんと一緒にテーマ付けをしていけたらなと思います :m194: :m051:

今日は、阿蘇ネットワーククラブ(日本超古代文明年表)を参考にさせて頂きました :m061:

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このような、生活が想像できるような歴史を :m051:

:m118: :m118: みんなが認める歴史事実をつくろう :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年06月22日

縄文時代のなんで

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合][縄文土器・土偶]

こんにちは、カッピカピです。

 いつも、このブログを読んでくれているみなさん、ありがとうございます。みなんさんの応援のおかげで、ここ最近は人気ブログランキング一位をキープし続けてることが出来ています。今後もみなさんの期待に応えるべく、そして、ランキング一位にふさわしいブログにしていくために、改めて、縄文時代についての追求テーマを設定してみたいと思います。

 
 その新たなテーマは・・・・・
 
 その前に、ポチッ↓とよろしくお願いします。

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posted by hi-ro : | |

2007年06月11日

縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた、稲作もそのころ伝わったと考えられる?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文土器・土偶]

◎日本で稲作が開始されたのは従来言われていた2000年前ごろから遡り3000年前ごろではな
いかというのが最近の説です。
 3000年前にすでに稲作の始まっていた朝鮮半島と縄文人の交流があった。


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posted by ryujin : | |

2007年06月08日

鬼界カルデラの大噴火により、琉球発のネットワークが始まった?

[縄文人の外圧]

こんばんは、etoです。
前回は、スンダランドから北上した港川人の人骨を紹介しました。リンク
琉球に住み着いた人々は、主に漁労生活を営んでいましたが、本土との交流はまだありませんでした。
が、約6000年前頃には鹿児島の前期縄文が沖縄本島へと南下しています。この頃からスンダランド由来の琉球文化が本土の文化と交わっていくわけですが、今回はそのあたりを考えてみました。


下の図は、鹿児島の南にある薩摩硫黄島です。
clip_image002.jpgclip_image005.jpg


実はこの島、縄文早期後半の約6300年前、海底火山「鬼界カルデラ」の噴火によって出来た火山島なんですね。
爆発規模は、雲仙普賢岳の凡そ100倍、火砕流の規模は雲仙普賢岳の1回の火砕流噴火の数10万倍に相当するほど驚異的で、過去一万年の日本火山史のなかで最大の噴火だったようです。
上空3万mの成層圏にまで達した大量の火山灰は、遠く東北地方にまで飛散したほどで、南九州一帯は、60cm以上の厚さで埋め尽くされた、とのことです。スゴイですね!!

さて、この大噴火が琉球圏の人々の生活にどう影響したのでしょう?

「琉球弧の考古学」さん
>南九州の初期縄文社会は、巨大噴火によって壊滅的な打撃を被ってしまった。その後この地を逃れた南九州の縄文人は列島各地に拡散して行った。特に「海人集団」は丸木舟や筏舟で対馬暖流を北上し日本海を通り北海道へ、さらに黒潮本流に乗って太平洋沿岸地域から伊豆諸島の八丈島にまで移住した集団も確認されている。

「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」
>この火山災害を免れた南九州縄文早期人の一部は、陸路を九州中・北部に避難していった。一方、海人集団のなかには対馬海流を利用して海路丸木舟で西九州沿岸や日本海方面に移住した人びと、黒潮本流に乗って四国、紀伊半島の太平洋沿岸地域やさらに遠く伊豆諸島にまで到達した人びともいた。こうした南九州縄文人の航海の軌跡は、栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧が、高知県木屋ケ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域の遺跡、東京都八丈島などの遺跡で発見されていることで証明される。

沖縄から八丈島まで、こちらも想像を絶する大航海です!

想像を絶するほどの大噴火により大打撃を受けた島人たちは、命からがら可能性を求めて、北へ、東へ脱出を試みたのでしょう。その際に南方固有の磨製石斧が列島各地に伝わったわけですね。さらには、舟の技術、あるいは豊富な貝類で作った首飾りなども伝わっていったのかもしれません。その後、弥生時代にかけて貴重な装飾品を求める「貝の道」へと交易ルートが続いています。リンク

このようにして、琉球発の縄文ネットワークが始まったのではないか?と思った次第です。

以下に、黒潮圏の「海上の道」を紹介します。リンク
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ありがとうございました、応援よろしくです。
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posted by nishipa : | |

2007年05月26日

『豊かな森の大国』日本列島の気候はどうやって形成されたのか??

[縄文人の外圧]

 まだ農耕・稲作の無い縄文時代において、定住による生活を可能にしたのは、豊かな森の恵みなくしては考えられなかったことでしょう。
 そこで、どのように豊かな森の王国・湿暖湿潤な水の豊富な日本列島が形成されたのか調べてみました :D
:m118: 興味のある人はポチっと押して続きをどーぞ :m027:
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posted by dai1028 : | |

2007年05月25日

縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術]

今晩は、さーねです :m193:
黒潮圏の考古学というサイトを今勉強しているのですが、その中でも八丈島の先史時代で、すごい不思議だなと思うことがあります。

6,000年前にピ-クを迎えた縄文海進時に、縄文人が漁撈活動地域を内陸や沿岸部から近海に拡大し、海洋航海技術を熟達させ外洋を舞台にした縄文集団(海の縄文人)が誕生した。彼らは外洋航海民としての素養を備え、最初は北部伊豆諸島を中心に渡島活動を行っていた。やがて近畿・東海と中部・関東の二地域から、黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島へ渡航した集団が登場する。
黒潮圏の考古学:八丈島の先史時代の倉輪遺跡より

なぜ、海を渡ろうとしたのか :m050: 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで :m050:

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彼らが置かれた状況や意識、行動様式を推察してみたいと思います :m193: :tikara:

:m118: 歴史は面白い :m051: 応援お願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年05月24日

縄文の海洋技術:『縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ』

[縄文人の外圧]

縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした(mukaiさん 2007年01月27日)

の投稿に引き続いて【縄文の海洋技術】について調べてみました。

以下、縄文人の航海ルートについて分かりやすくまとめてあるサイトを見つけたので紹介します。

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その前に :m118: これお願いしますね :m030:

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posted by mrran : | |

2007年05月17日

巨大噴火がひき起こした円筒土器文化

[縄文人の外圧][縄文土器・土偶]

火焔土器が話題になっているようですね。
私には、あれは、とてつもなく大きな炎=火山噴火あるいは火砕流による大火災を表しているように見えてしかたありません。
そこで、縄文時代の火山噴火を調べてみました。

「変転する大地が生み出す新しい文化」 リンク より引用させて頂きました :m208:
《引用開始》
三内丸山からの大量の土器発掘で明らかになった円筒土器文化は、縄文前期の中頃、突然現れ、東北地方北部から北海道南西部に広がった。津軽海峡による分断もものともしない広がりである。
円筒土器に先行してその地域に存在したのは、表館(おもてだて)式や早稲田6類、大木1式など、それぞれ互いに関連性をもちながらもまとまりのない土器群であり、どれも円筒土器へ直結するような形跡は認められていない。
円筒土器の不可解な出現は、長い間問題にされずにきたが、三内丸山遺跡の発見も一つのきっかけとなり、円筒土器と大木式土器が並存する岩手県を中心に、これまでに集積された考古学の資料が見直された。
その結果、最初の円筒土器である円筒下層a式土器が大木2a式土器の直後に現れること、二つの土器型式の間に十和田火山の巨大噴火による火山灰(十和田中せりテフラ)が挟まっていることが確かめられた(下図)。

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噴火によって広域におよんだ山林火災が、周囲の生態系を壊滅状態に追いやり人間社会に甚大な影響を与えたことは間違いない。一次生産者である植物に依存する動物社会にとってもその存続を脅かす大事件だったろう。いわば東北北部の広大な地域の生態系の構成員であるさまざまな生物の様相が災害で変化し、それが人間の暮らしに影響を与えていく状況が読み取れる興味深い事例である。

ぽち、ぽちしてから続きをどうぞ :roll:
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posted by naoto : | |

2007年05月11日

人骨が示す過酷な生活

[Ⅰ文明前夜・石器時代・巨石文明][縄文人の外圧]

こんにちは、etoです。

tokumaruさんがクラシーズ洞窟を紹介していただきましたね。感激です!
はるか太古の人類がどのような生活をしていたのか、興味は尽きないですね。
そんなわけで今回は、日本で発見された人骨の紹介です。

下の写真、何だか分かりますか? こちらからお借りしました。
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沖縄は港川で発見された港川人(1万8000年前の旧石器時代)の脛(スネ)のレントゲン写真です。

横に何本か線が入っているのが分かりますか? その線がハリス線と呼ばれるものです。
で、ハリス線とは何かというと、
栄養失調や病気などで一定期間成長が止まると、骨の両端に化骨作用が起きて、ハリス線と呼ばれる横線が現れるようで、縄文人の人骨にも多く見られるようです。
あと港川人の人骨は、咀嚼筋が発達し歯が著しく磨り減っていることから、硬い粗末な食物を食べていたことが推察されています。

沖縄といえば、暖かくて、食べ物も豊富に獲れそうなイメージがありますが、1万8000年前ではまだ氷河期ですから、相当に厳しい環境だったのでしょうね。
歯が磨り減るほどの硬い食物って、、、木の根っ子とか、それこそ人骨をも砕いて髄をしゃぶっていたかもしれませんね。

港川からは全部で9人分が発見されていますが、男性壮年が9人、女性壮年が2人です。
子どもは発見されていないんですね。なんでだろう?
人骨の分析からは、ワジャク人と類似していることから、スンダランドより移動してきた可能性が強いようです。スンダランドから移動せざるを得なかったのでしょうが、たどり着いた沖縄もまた、過酷な状況だったのでしょう。

彼らがどのような生活をして、どのように縄文文化と融合していったのか、沖縄圏を中心に少し調べていこうと思います。


応援ヨロシクです。
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posted by nishipa : | |

2007年05月04日

縄文時代の集落規模

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合]

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以前、「縄文人の集団規模と共認の関係」で縄文時代の集落が小規模のままで30人以上になることはなかった。とあったが青森の三内丸山では500人から1000人とも言われています。

縄文時代の集団の規模や生活、他集団との交流等もっと知りたくてサイト探索してみました。
少し長くなりますが「縄文文化と現代:縄文村」からの抜粋、要約です。

クリックしてから続きをお読みください。
  :m118:   :m118:   :m118:   
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posted by mukai : | |

2007年04月19日

縄文人にとって病気は致命傷だった!!

[縄文人の外圧]

今晩はさーねです :P
最近、ちょっと前までインフルエンザ 8) が流行ってましたね :m002:

このような伝染病(これが社会的問題になる疫病と呼ばれます)実は縄文にもあったと言われています。しかも、後期・晩期の人口激減は、寒冷化と共に疫病説も唱えられています。

>4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。社会実情データ図録より

縄文人の人口激減は諸説あるようですが、今日は、縄文人にとって病気はどのくらいの外圧だったか :m050: 調べてみました :m051: :cry:

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:m043: :m118: いつも応援ありがとうございます :m118: :m044:
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posted by sawatan : | |

2007年02月28日

弥生期の人口増は大量渡来か、それとも稲作化によるものか?

[Ⅲ弥生ー律令][弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

こんにちは、simasannです。

弥生から古墳時代にかけて、下表のように急激に人口が増えていったことは、ご存知の方も多いと思います。
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http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htmより引用

これについては、このブログでも以前tanoさんが投稿している、 「二重構造モデル」を提唱する埴原和郎さんの①「100万人規模の大量の渡来人によるもの」とする説と、

九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授らが提唱する②「少数の渡来人による水稲耕作化と長寿命化によるもの」の2つの説があります。

考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」というように、現在もなお論争が続いています。

それぞれの主張は、そして、どっちがホント?、知りたいと思った方は、ポチッとお願いします。
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posted by simasan : | |

2007年02月22日

寒冷化により、まず穀物栽培に転換した

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術]

こんばんは。

『縄文晩期の気候変動が農耕につながった?』と、以前tanoさんの投稿にありましたが、今日は「生業からみた縄文から弥生」さんの論文から検証してみたいと思います。

さーねさんが前に、堅果類食糧について書かれていますが、縄文から弥生にかけての生業類型は概ね、
狩猟傾斜型→植物採集傾斜型→植物採集+雑・穀物栽培型→水稲栽培型(農耕)へと推移していきます。

ここで用語の定義ですが、
栽培とは、植物の生殖を管理すること。
農耕とは、デンプンの供給源としてのメジャーフードとなりうる栽培型植物の栽培を指す。
採集、栽培、農耕は明確に異なることが分かりますね。

さてどのように、採集→栽培→農耕へと推移していったか見ていきましょう。

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posted by nishipa : | |

2007年02月09日

縄文:東西-堅果類食料の違い~生活様式の違い

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術]

今晩は。さーねです :wink:
今日は、『生業からみた縄文から弥生』の中で、堅果類食料の違いから東西の生活様式の違いを解明していきたいと思います :m050:

まずは、堅果類食料の種類と分布をおおまかにまとめてみました。
(詳しくは、『生業からみた縄文から弥生』を参考に)

照葉樹林アカガシ・アラカシ水さらし),シイノキ処理不要
⇒西日本では、メジャーフード。縄文中後期の関東には存在したが、中部・東北には分布していなかった。

落葉樹林クリ・オニグルミ(処理不要),クヌギ(水さらし),ミズナラ・コナラ・トチノキ水さらし+加熱
⇒ほぼ列島全域に分布。(北海道を除く)

※『生業からみた縄文から弥生』の2 植物質食糧の種類より
※食べるために、”何も処理不要”・”水さらし”・”加熱(=アク抜き)”に分けています。

>・西日本の照葉樹林帯でも落葉性のコナラ・ミズナラ・クリ・クヌギを利用できる環境にあったことがわかるのである。
>・東日本の海岸部も照葉性のカシ・シイ類を利用できる環境にあったのである。

概ね、東西分布の違いはあったものの、上記に挙げた堅果類食料を採取する状況にはあった。ただし、標高が高く他地域に比較して寒い中部・東北のみ限られていたという状況です。

では、なぜ東西の生活様式に違いが出たのか :m050: :o

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posted by sawatan : | |

2007年01月12日

縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合]

今晩は、さーねです。今日は縄文です :wink:
まずは、改めて、縄文で追究していく課題を確認 :P

今年の「縄文ー古代ブログ」を振り返って

tanoさんのこの課題整理で♪非常にわかりやすい!再度、抜けている部分や真相を明らかにしていきましょう!ということで、まだ追究されていない縄文時代の贈与・交易について調べてみました。

やはり、人口が最も増加しながらも、寒冷化という外圧に直面した縄文中期以降に発達したのではないでしょうか?
寒冷化という外圧に再度直面し、みんなが生き延びるためには?⇒他の集団の良いところを取り入れよう!という意識になったのではないでしょうか :m050:

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出土したヒスイ⇒祭りのための装飾品 :m052: 精霊が宿るお守り :m052:

以上のような仮説を立てながら、関係する史実を追ってみました。考古学や人類学上の資料も、やはり人々の意識と合わせて考えるとより生きてきますねー :o

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posted by sawatan : | |

2006年12月17日

縄文の言葉が残ったこと・・・・

[縄文人の外圧]

縄文文化って今の日本にいったいどの位のこってるのかなー?と疑問に思ったことがあったけど、

先日あっそうか!と思った。普段はなしている言葉(日本語)ってひょっとすると・・・縄文時代から連綿と続いているのでは・・・


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3000年位前の熊の土偶(青森県尾上山)
森の精霊、かわいいね。


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posted by ihiro : | |

2006年12月16日

舟を通じた中国文明と古代日本の交易

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][長江文明]

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三星堆文明の縦目仮面

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青森県亀ヶ岡遺跡の土偶

中国文明と古代日本の関係を交易を通じて俯瞰してみます。

中国には黄河流域の「馬の分化」と長江流域の「舟の分化」の2つがあったようです。今回は「舟の分化」を紀元前までの期間で辿ってみます。

>環シナ海に広がる「百越の民」と倭人たちは、秦・漢以前からゴンドラ型の竜骨舟にのって往来していたのだろう。東シナ海の荒波にもまれてしばしば遭難したこともあったろうが、呉越の造船技術や操船技術の発達はかなりのもので、すでに春秋戦国期に外洋航海の記録がある。 船首と船尾の反り上がったゴンドラ型の船は、季節風と黒潮に乗って朝鮮や日本に到来したことは、朝鮮海峡や日本海岸に残されたこの竜骨舟の絵図からも知られている。

 この往来を通じて環シナ海の自然崇拝の観念が共有されるようになっても不自然ではない。長江中下流域の「良渚文化」から上流域の「三星堆文化」にいたるまで、越系の人々が河姆渡以来の太陽信仰・精霊信仰・鳥信仰・目玉信仰などの観念を共有していたことは、『ギャラリ-』の「長江文明のイメ-ジ」を参考にしてもらえれば、それが稲作と操船の民のどんな自然崇拝であったかを見ることができるが、朝鮮半島や日本に居住した倭人もまた太陽(女神)信仰・鳥信仰・蛇信仰などの観念を共有していたのである。 

 文明の周縁より

⇒三星堆遺跡から発掘された縦目仮面と青森県亀ヶ岡遺跡から出土された縄文時代の土偶の目がいずれも大きいのは、目玉信仰の系譜を踏んでいるように感じます。

*時代整理:
日本の縄文時代BC10000~BC500年。
中国の良渚文化と三星堆分化BC3300~BC1000年

疑問はBC8000~BC3300年の空白期間の交易はどのようなものだったのか?
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posted by postgre : | |

2006年12月07日

二重構造モデルの補足の補足

[Ⅰ文明前夜・石器時代・巨石文明][Ⅸエトセトラ(その他諸々)][弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の外圧]

カッピカピさんこんばんわ。 :D
tanoです。コメントにかけなかったのでエントリー投稿します。

さてカッピカピさんが補足していただいた二重構造モデルって一体なんなんでしょう
少し調べて判ってきた事がありますので補足の補足をします。

二重というのは何かの上に何かが重なるという事ですね。(文字の通り :confused: )
この二重とは基層となる縄文人に渡来人(弥生人)の血が加わり現在の日本人ができているという理論です。なぜ二重構造モデルが必要になったのか?ネットで検索して拝借した下記の論文ではその事に少し触れています。

縄文文化の担い手たちを「縄文人」、弥生文化の担い手たちを「弥生人」と呼ぶとすると、縄文人=弥生人というのが、この説の主張するところです。縄文文化の担い手であった日本人の先祖たちが、大陸や朝鮮半島の進んだ文化を受け入れて、弥生時代という新しい文明段階に進んでいった、というわけですね。
ところが近年、形質人類学や分子人類学、ウイルス学等の発達に伴い、骨格や頭蓋骨の形と歯形、そしてウイルスやDNAなどをより厳密に比較することが可能となり、縄文人と弥生人との間には、とうてい同一人種とはみなせない相違があることが明らかとなりました。

この問題を解決するため、人類学者の埴原和郎氏は「二重構造モデル」という仮説を提出しています。『日本人の骨とルーツ』という本から、少し長いのですが、引用します。この中で埴原氏は縄文系と渡来系という言葉を使っていますが、渡来系とは弥生人のことであるとお考えください。

さて、埴原氏の文献を見て見ましょう!。

『日本人の骨とルーツ』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31018072
「日本人の起源と形成の問題はいまだに研究者の興味を引き、論争の的になっている問題も少なくない。本書では、現代にもみられる日本人の地域性を、縄文系集団と渡来系集団の混血の濃淡によって説明し、地域性や自然環境、文化の発展などにも着目する。日本人の形成史を縄文系と渡来系の「二重構造モデル」で分析し、自然人類学の視点で日本人のルーツを探る。」~yahooブックス解説より

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埴原氏の原文を読んでみたい と思った人はぽちっと押して次へどうぞ。
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2006年12月02日

縄文人と弥生人の特徴の違いについて

[弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の外圧]

こんばんはyuyuです。
 
いつも、読んで勉強させていただいている、「新しい日本の歴史」HPさんの中に、「日本人とATLウィルスの関係」というタイトルがあります。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page695.html
 
何ゆえ、歴史にウィルス?と、少し疑問に思ったので、ちょっと調べてみました。
 
 
■「二重構造モデル」

>そうした近年の諸研究から様々な渡来モデルが提唱されているが、一般的には埴原和郎の「二重構造モデル」が良く知られていよう。この説は「もともと日本列島にはアジア南部に由来する縄文人が広く住んでいたが、弥生時代になるとそこに、かつては中国東北部にいたツングース系の人々が朝鮮半島経由で流入した。その結果、彼らの影響の及ばなかった日本の南北両端の琉球人と北海道アイヌには、共に縄文人的な特徴が残った」、という考えである。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/161.html

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http://www.gmnh.pref.gunma.jp/demeter/demeter7-02.html
(群馬県立博物館HPより)

「二重構造モデル」って、古代史ファンの間では、結構有名なモデルなんですね。

先のATLウィルスもその特徴を表す要素の一つのようです。

では、その他の具体的な、縄文人と弥生人の特徴の違いって、どんなのがあるのでしょうか?

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2006年11月24日

縄文人へ同化してみませんか?

[縄文人の外圧]

こんばんわ。管理人のtanoです。
今日は縄文人への同化という観点でひとつ投稿したいと思います。

安田 喜憲氏の著書である「日本よ森の環境国家たれ」の冒頭の文章からの抜粋です。

>「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさの涙こぼるる」

これは西行法師が伊勢神宮の内宮でよんだ歌である。
森羅万象に神の気配を感じ、思わず涙する。これが「森の民」としての日本人の感性の根幹を形成している自然観なのである。

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いつも読んでいただいてありがとう!続きは・・・
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2006年11月17日

中国・朝鮮から日本への渡来ルートを探る

[Ⅲ弥生ー律令][縄文人の外圧]

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縄文から弥生にかけて、大陸の人が東シナ海や朝鮮ルートを通って九州北部に渡来してきた。その後、縄文人と混血したり戦争を通じて国家統一を成し遂げた、というのが定説になっているようですが、「「新しい日本の歴史」
にこれと違う見解が書かれていましたので紹介します。

>丹後半島の中国人  その2
中国人が九州にいっぱいやって来たことは、書きました。九州に限らず、日本海の各地には流れ着いたと思います。韓国から九州に直接来ることは相当エネルギーが必要です。中国の福建省あたりを出発しますと九州に到達します。韓国辺りを出発すると島根半島から丹後半島の間と思います。
魏志倭人伝に倭国の国々の名前が挙げられています。九州の末盧国から始めますから、日本史は訳の解らないものになりました。やはり、松江に最初に着いたことにすれば、邪馬台国は吉備の辺りになります。

であれば、出雲や丹後半島の伝説でよく知られる
イザナギノミコトや天照大神系の人たちは朝鮮から渡来

九州北部に到達した人たちは中国南部から渡来

ということになりますが、実際どうなんでしょうか?

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posted by postgre : | |

2006年10月25日

人口減少に憂う縄文人

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合][縄文土器・土偶]

縄文時代の人口は気候変動などの要因もあり、中期に最盛期を迎え以後減少してゆきます。

縄文草創期 1万2千年~1万年前  人口不明   
・縄文時代の基礎構築時代
縄文早期  1万年~6千年前    約2万人     
・南九州で縄文文化が開花
縄文前期  6千年~5千年前    約10万5千人
・文化の中心が東日本に移る
縄文中期  5千年~4千年前    約26万1千人
・人口が最高となる・縄文文化の最盛期
縄文後期  4千年~3千年前    約16万人    
・気候の寒冷化・人口激減
縄文晩期  3千年~2千5百年前  約7万6千人  
・出生率の低下・渡来人の帰化始まる

縄文人は人口減少危機に対応するため祭りや文化を発達させていったようです。


土偶は、魔よけや動植物の繁殖、子孫の繁栄を願って製作されました。しかし、縄文中期には全国に26万人いた人口が、後期から晩期には7万5千人にまで急減したと推定されています。藤田富士夫氏は、縄文人がこの事態を新しい祭式を導入することによって乗り切ったと推測しています(「生と死の姉妹土偶」富山新聞2003年6月10日)。これまでの土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。真脇遺跡(石川県能登町)からは天狗のように目をつり上げて怒りをあらわにしている土製仮面(縄文後期)が出土しました。顔を仮面で覆い、呪術者が精霊に化身したと推定されています。

 この仮面祭祀が盛んに行われるようになることで、それまでの土偶の姿にも変化がおこりました。仮面を装着した土偶を製作することで、より一層の呪力や効果を期待しました。
 土偶が大型化し、独鈷石や石刀、石剣などの祭祀・呪術的な遺物が増え、桜町遺跡(小矢部市)のように祭礼の場とみられるウッドサークル(縄文晩期)が造られるなど後期~晩期は縄文時代の精神文化が色濃く表れてきます。

 長岡八町遺跡から出土した土偶は、わざとこわされ、谷に捨てられていました。こわして谷に捨てることによって、新たな命の誕生を願うまつりごとを行っていたと考えられます。2点もの大型土偶が用いられた背景には、縄文時代の長岡八町ムラが周辺地域の村々の人々が集まり、祭祀が行われていた拠点的な集落となっていたと推定されます。当時の人々のよりどころとなっていたのでしょうか。

posted by tiwawa : | |

2006年10月24日

縄文集団が小規模なのはなんで?

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

こんばんは~、谷光です。 :D

しばらくインダス文明が続きましたが、縄文も追究続けます :tikara:

と、言っても、、、 あぁぁ :m081:
今日はみんなで鷲田豊明氏の『日本社会システムの起源』を読んだのですが、なかなか理解できず・・・。そこでみなさんに質問 :m049: してみようと思います。

どれどれ、答えてやろう :P と思ってくれた方は、ポチっとお願いします :m027:
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posted by mituko : | |

2006年10月14日

縄文基礎情報/人口分布

[縄文人の外圧]

縄文時代の人口分布について、調べてみました。

地域毎の人口一覧表はこちら→http://www.komenet.or.jp/database/culture/culture02/culture02-1.html

>縄文時代で人口が最大になるのが中期で、日本の総人口は約27万人でした。これを地域別にみると、人口の分布(図2-2)は西日本よりも東日本がより密で、東北と関東だけで全体の半分以上を占めています。この人口分布の地域的な差異は、野生動植物の資源量が日本列島の東と西で非常に違うことが原因と思われます。このため、東日本では西日本よりも安定した豊かな生活が営まれていたと考えられています。


地域毎の人口分布を年代別に表わしたのが下図です。

by eto

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posted by postgre : | |

2006年10月13日

縄文時代の海水面、気候変動グラフ

[縄文人の外圧]

【縄文―基礎情報アレコレ】

●縄文時代の海水面、気候変動グラフ

 『縄文人と私たちhttp://www.jamstec.go.jp/jamstec-j/enlight/umihoshi/learning/2_0800.html』から

By 「R」

 

 

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2006年10月12日

縄文の時代区分

[縄文人の外圧][縄文土器・土偶]

縄文の時代区分について、まだ明確にわかっていなかった :m050: ので、サイトで探索してみました :D

以下「縄文文化と東北地方―東北の基礎文化を求めて」からの抜粋です。http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j21jyomontime4.html

>なぜ、土器の形式によって分類するのであろか。

>我々は、通常は時代を、あるエポックメーキング的な出来事・それが何年に起きたのか、ということによって区分していく。その多くは国の成立、支配者の交代など、何らかの権力の移行とそれに伴う社会/文化の変化であろう。

しかし、縄文時代はそのような考え方では分類出来ない。縄文時代の文化は、現在残っているものとして、土のなかから発見される遺物、とりわけその出土量が豊富な土器によってその特徴・広がり等を表さざるを得ない。しかし、土器は、地域・時代によって変化の速度が様々である。従ってこれが年代の数値的な変化を跡づけるものとはなりえない。そのため、山内清男がその研究理念で述べているように、土器型式の研究は縄文文化の相対的な時代区分の指標をつくるという作業仮説なのである。

時代区分の捉え方として、とても面白いと感じたと同時に、日常生活の変化や進化が時代区分となっているということ自体新鮮でした。ある意味、権力がはびこっている世の中ではなかったという表れでもあります。このような人々の意識を捉えた歴史観は、歴史事実を学ぶ時にも重要だと思います。

さーね

posted by postgre : | |

2006年10月10日

縄文人はどうやって渡来人を受け入れた?

[縄文人の外圧][長江文明]

縄文人は、突然やってきた渡来人を特に争いもなく受け入れ、一緒に集団を作っているのが不思議だなぁと思ったのですが・・・

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posted by postgre : | |

2006年09月30日

縄文晩期の気候変動が農耕につながった?

[Ⅱ縄文時代][縄文人の外圧]

るいネットの衛藤さんの投稿にタイムリーな気象データーがありました。
日本列島のヤンガードリアス期後の1万年前からのデーターです。縄文時代の気候状況
>10200~10000年前  再び急速に上昇
10000年前  -2℃日本列島分離
10000~ 7500年前  ここからはゆっくり上昇
(9500年前まで漸暖期)
(8000~5000年前ヒプシサーマル(高温期))
7500年前  0℃
7500~5000年前  さらに上昇
(6500年前~照葉樹林)
(5700年前~スギ林)
5000年前  +2℃最高期縄紋海進期海面+5m
5000~4000年前  急速に下降
4000~3000年前  0℃かすかに上昇がみられる
(3500年前サントリーニ火山の大爆発)
3000~2500年前  急速に下降
(2500年前まで減暖期海面0m)
2500年前  -1℃極小期
2500~2000年前  急速に上昇
2000年前  0℃現在まで続く

注目していただきたいのは太字の部分です。BC1000年、この時期は世界的にも大きな気候変動が起きています。気候変動は同時に世界の文明史を大きく動かす事になります。
中国は安定した殷の時代が終わり、この後戦国時代に突入します。
また西アジアではアッシリアができ、ユダ、イスラエルが登場し各国がせめぎあう時代に入ります。
ヨーロッパでは鉄器時代に突入し、ギリシア支配が始まります。その後しばらくしてギリシャ哲学が生まれます。つまりBC1000年~BC0年は世界中で思想(宗教や哲学)がはじまり現在の国家の原型がでいあがる時代です。

当然、縄文時代においてもこの時代に大きな変化が起きているはずです。
その上で3000年ー2500年の気候変動の動きは一つの軸になるのではないでしょうか?
海岸線が変わるほどのこの時期の気候変動、どれほど凄まじかったのだろうか?
大阪平野もこの時代に生まれたと言われています。
何か情報がありましたら投稿願います。

追記に縄文時代の主要な遺跡と気候に関する情報をまとめてあります。大雑把に縄文時代を押さえるのに使ってください。
(tano)

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