/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2008年08月11日

縄文:再葬墓≒死者への同化⇒再生

[縄文人の外圧]

今晩は、さーねです :o 先週と同じ、縄文の信仰を調べていたら、興味深い :m208: 埋葬の形を見つけました。

再葬墓」です。

>「再葬墓」とは、一度葬送した後、骨になった段階で、人骨を納めて再度埋葬する方法です。
レアメモリー諏訪の縄文時代より

なんで、再葬したのか :m050: 考えてみたいと思います :tikara:

dokoubo.bmp
:m116: 土坑墓 :m116:

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posted by sawatan : | |

2008年07月10日

縄文の精霊信仰~山岳信仰

[縄文人の外圧]

今日は、縄文人の精霊信仰を探求してみようと思います。
なんで、自然を対象化したか?
原初的山岳信仰の変遷より、抜粋して探求していきましょう :tikara:

P61800171.jpg
岩石信仰は現代でも残っている

byさーね

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posted by sawatan : | |

2008年06月12日

ヒト&縄文:難産という出産障害

[縄文人の外圧]

最近、るいネットなんでや劇場で熱い :m116: 生物史参考投稿) :m193:
改めて、我々の細胞が形成している機能や免疫細胞等…生物~人類まで、いかに進化を積み重ねてきたか :m052: とても面白い :m051: 今日は、そんな生物史にちょっとヒントをえて、視点を変えてみました。
今までは、縄文人を取り巻く自然圧力などを対象に外圧状況を探ってきましたが、縄文人自身はどんな状態だったのか?古病理学を視点に探ってみたいと思います :m044:

byさーね :o

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参考図書「骨から見た日本人~古病理学が語る歴史 鈴木隆雄 著」 :m061:
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2008年04月11日

ヒスイの広域に渡る存在は、交易か贈与か?

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

:D くまなです。

縄文時代の広域にわたる物の移動が贈与なのか、交易なのかについて、「ヒスイ」に注目して深めていきたいと思っています。

20061126116453883429316300.jpg
写真は北海道美々4号遺跡の曲玉。EnjoyKoreaより。

過去、このブログでの記事には以下があります。
縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの

縄文時代において、黒曜石やヒスイが広範囲に出土する状況について、一般的には「交易」の結果だといわれています。一方、このブログでは集団間の緊張緩和のための「贈与」の結果であるとの提起がされてきました。

「交易」と「贈与」には大きい違いがあります。
縄文人が他集団、すなわち、集団を超えた‘社会’に接したとき、どのように捉え、どう対処しようとしたのか。交易は自集団の利益のために他集団と取引(≒騙し)をしようとしたのであり、贈与は争いを避けるために友好関係を結ぼうとしたということになります。

縄文時代の物の広域移動が「贈与」である根拠は以下の2点です。
A)交易であれば一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずであり、広域の広がりを説明できない。
B)自給度が高い歴史を積み重ねてきた原始共同体にとって、他の部族に自らの生活条件及び生存条件の一部を依存するという発想は極めて出てきにくい。

参照:黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②

上記を念頭に置きつつも、縄文時代における物の広域移動が「贈与」であるということが出土状況等のデータから検証できないか、というのが現在の課題意識です。

この間、いろいろ調べる中で、なかなかスッキリとした答えが見えてきません。
どのような状況がハッキリすれば贈与と断定できるのか…(あるいは交易と断定できるのか…)

現時点での疑問点=解明しようとしている課題を次に示します。

その前に :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : | |

2008年03月12日

縄文集団はどのように争いを回避してきたのか?

[縄文人の外圧]

前投稿で、集団規模の拡大→分割に伴う同類闘争圧力の増大について触れましたが、日常的に彼らはどのようにして争いを回避してきたのでしょう。
「贈与」以外の方法はなかったのでしょうか?

今回は日本社会システムの起源を参照させて頂きます。《一部編集》

他の単位集団との関係が問題になるとすれば,やはり生業をとおしてのものである。 すなわち,縄文社会の単位集団は狩猟・採集にかかわる領有圏,テリトリーをもっていたと考えられ,この領域の設定あるいは維持をとおして相互関係が不可避であった。
縄文時代に数千年にわたって人々が生活したことによって生まれた福井県の鳥浜貝塚の場合,「人口30人内外の集団を支えるために必要とされた領域は半径5キロメートル程度であったと思われる」と指摘している。 この領有圏内の植物資源,水産資源をそれぞれの季節ごとに多面的に利用しながら,この鳥浜貝塚の住人は豊かな生活を営んでいたことがわかっている。 この5キロメートルという領有圏は先土器時代と比較すれば小さな範囲となったことは確かだろう。 しかし,狩猟・採集・漁撈に良好な地域には単位集団が集中することは自然である。 したがって,この領有圏をめぐっては単位集団の自由な設定が困難であった可能性は高く,単位集団間の調整が必要とされただろう。

posted by naoto : | |

2008年03月11日

縄文人が水田稲作を始めなかったのはなんで?

[縄文人の外圧]

こんばんわ。tanoです。
水田稲作は縄文時代には定着しませんでした。なぜでしょうか?

以前私は佐々木高明氏の著書から抜粋して、るいネットの縄文人と農耕技術で以下のような投稿をしました。

縄文人が稲作を拒否したのかについては・・・下記のくだりで説明できる。
”後期、畑稲作が始まった後も平行して網羅的食料体系は残っており、稲作が始まった後、他文明で見られる、階層社会の成立や戦争の開始といった社会のシステムや枠組みを大幅に変換させるような形跡は見られなかった。
それは、畑稲作は既存の共同体組織で充分に対応できたと思われるし、余剰を生み出さないイデオロギーが残存し、自然を大きく破壊しない、サイクルを変動させないタブーが存在したとさえ想定できる。
後期に登場した呪術の技術はそれ(自然との関係の破壊)を戒めるために使われたとも考えられ、そのことにより、縄文時代の農耕は伝統的な獲得経済の一部を構成したにとどまり、けっして支配的な食料獲得様式にはならなかった。”

稲作を拒否したのではなく、稲作による社会の変質を拒否したのである。

今日は、縄文人が稲作を拒否したのか、稲作ができなかったのか?について考えてみたいと思います。
:m117: まずは縄文人が稲作をできなかったという立場です。
仮説)
1.水田稲作は灌漑など高度な技術で渡来人が持ち込まなければ到底できないような技術だった。
2.水田稲作が可能な稲は陸稲とは異なり、多段階の品種改良が行われた上で栽培が可能になる。
つまり種や苗がなければ栽培ができない。

だから渡来人が技術を持ち込んで縄文人の集落に融合する事で水田稲作を伝える事ができた。
::::学説ではそうなっています。

本当にそうなのでしょうか?まずは仮説を疑ってみます。

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posted by tano : | |

2008年02月21日

縄文人の注視する力

[縄文人の外圧]

今日は、若干個人の感想レベルになってしまうかもしれませんが :m196: …先日アップされた縄文人、再生への祈りのこの部分。正直、現代社会に生きる自分にとっては驚きでした :shock:

実際、生まれた子どもは15歳になるまでにほとんど死んでしまう状況で、かつ、産んだ女性も命を落とすことがあるという状況で、無事生まれ、育っていくことへの祈りは切実であったろうと思います。

縄文人の平均寿命は本当に15才 :m052:
現代人の平均寿命の1/4にも満たない…
いかに、縄文人が生き延びたのか :m050: 改めて、身が震える想いです :confused:
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環境研ミニ百科第30号 縄文人は、短命だった?

byさーね

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posted by sawatan : | |

2007年12月13日

礼文島の民は三内丸山から流れてきた!?

[縄文人の外圧]

縄文時代に市場取引はなかった。これは正しいと思う。
しかし一方で三内丸山にあるように多くの物資の移動は行われてた。
また、3500年前の礼文島では船舶遺跡と呼ばれるようにヒスイや琥珀など多くの各地の名産が集まっており、逆に貝のアクセサリーをアスファルトと交換にサハリンを越えて大陸へと運んでいた。

それらの物資の移動を一言で交換市場と対比させて贈与と呼んでいいものだろうか?

以下はるいネットで扱われている市場と贈与の定義である

【市場】交換取引は、武力闘争(およびその帰結たる身分制度による私権拡大の封鎖)からの抜け道として登場した。それどころか、最初に交換関係が登場した動機は、額に汗して働くよりも、(相手にこの品物が大きな可能性を与えてくれると信じ込ませることさえ出来れば)交換によって得る益の方が、ずっと大きいからである。
実際、古代市場も、女の性的商品価値を一層高めてくれそうな宝石や絹や毛皮を主要な交易品として、拡大していった。(なお、近世→近代も、呉服や毛織物やレースが起点になる。)それに対して日常の主食品(米や麦やイモなど)に対しては、その様な幻想的な可能性など描き様がない。

【贈与】共認原理に基づく友好の証
・他集団との接触によって生じた緊張圧力を相互の贈与によって回避。
・双方とも私有意識・自集団第一の意識は存在せず、友好の証として各々の集団が最も貴重と考える品を交換条件なしに贈与し合う。

礼文島の広域交易を贈与と呼ぶべきなのか市場の萌芽なのか・・・それとも・・・。
今日は縄文時代中期以降に頻繁に移動した物資の流れ=交流とはいったいなんだったのか?について徹底追求してみます。

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posted by tano : | |

2007年11月13日

シャーマンは神官の始まりか?

[縄文人の外圧]

縄文人の意識の基底部に、「万物の背後に精霊を観る」という精霊信仰があったことは疑いようがないと思います。
しかし、この精霊信仰も、晩期頃には、シャーマニズムへと変質していくようです。
シャーマンがプロ化するのと同時に、縄文社会に広がっていった抜歯の風習。
両者の関係を追ってみたいと思います。

◆縄文晩期の徴兵忌避より

《引用開始》
巨大石棒の生産は、中期縄文の中心地域・中部山地で盛況を見たが、おそらく、共同体にかかる負担が、大きすぎたからだろう、人口減少の激しくなった、後期に入って衰え、晩期には、ほとんど見られなくなってしまう。

もちろん、石は千年たっても腐らない。
一つ作ってしまえば、補充の必要も、そうはあるまい。
だが石棒作りが衰えれば、信仰そのものの変質は当然である。
陽気な男祭りの祝祭性は薄らぎ、陰気で、もったいぶったシャーマニズムが、勢いを得る。

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posted by naoto : | |

2007年10月27日

縄文:東北の華やかさの裏には「豪雪」という外圧があった

[縄文人の外圧]

日本列島の冬は、太平洋側の晴天とからっ風、日本海側の豪雪 :m009: に特色づけられる「トンネルを抜けるとそこは雪国」という風景が出現したのは、どうもこの一万年前の頃であるらしい”(環境考古学事始 安田喜憲著 洋泉社より)

今晩は、さーねです :o 今回は「 :m009: :m009: 」。どうも、日本で豪雪地帯が出現したのは一万年前。ちょうど、縄文草創期にあたります :confused:

自然現象の中では、今も「雪」は結構な外圧。(東京ではすぐ電車が止まっちゃったりしますね :x )

一方、東北の縄文文化はこのブログでも取り上げられているように、時折すごいっ :m051: :shock: と思わせるものがたくさんありますね。そんな文化の背景である外圧を前回に引続き、環境考古学的視点で迫ってみようと思います :D

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:m009: 雪の三内丸山 :m009:

:m118: 当時の人々の意識に迫ろう :m051: :P :m118:
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2007年10月11日

旧石器&縄文:世界最古の土器出現の謎~環境考古学の視点

[縄文人の外圧]

今晩は、さーねです :o 今日は環境考古学の視点から、土器出現の謎に迫りたいと思います。この環境考古学は、当時の自然外圧状況を把握し、出土物含めて、当時の人々の生活様式を解明しようとするものです。自然外圧を把握するという点では、なかなか優れた学問ではないか…ということで、最近このような本を読んでおります :m061:
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土器の必要性は、このブログでも投稿されていますが、その必要に迫られた状況=自然外圧は実は明確になっていません。今日はそこを環境考古学を通して鮮明にできたらと思います :tikara: :P

数十万年にわたって石器のみの文化の中にあった人々が、突然、粘土をこね、焼成して土器をつくりはじめる。それは人類の文化史の中では、極めて画期的な出来事であった。

確かに、そうなんですよね。これは、画期的であったはず :m051: :P

:m118: :m118: いつもの通り、応援よろしくお願いします :m118: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年09月28日

縄文草創期の現実~洞窟に隠れ住むしかなかった

[縄文人の外圧]

今晩は、さーねです。縄文に関する投稿記事もかなりの数がなされ、縄文人の生活様式が徐々に解明されていく感じがしています :o 一方、縄文時代の先駆けである草創期に関しては、データや出土物も少なく、当時の人々の生活にまだ肉迫できていないなと感じるところです :-(

その中で一つ疑問をもちました。草創期の初期は、洞窟生活をしていた=定住の始まりというところです。形態としては定住だと思うのですが…果たしてそんなに簡単に定住にできたのか :m050:

洞窟生活に至った草創期の縄文人がどんな状況であったか?そこを鮮明にしたいと思います :m051:

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縄文草創期が発見されるきっかけとなった小瀬ヶ沢洞穴
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posted by sawatan : | |

2007年08月28日

日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か②

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

どーも、○です :m043:

以前、ちわわさんが投稿されていた『日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。』に、気づかされたことがありまして、今回は勝手ながら続編を投稿しようと思います :m101:

さて、ちわわさんの投稿に

「その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。」

とありましたが、日本人は動植物ばかりでなく、命なき物にも魂があると考えていました。

例えば、雷 :m008: が鳴れば
誰かの怨念だ :m252: (菅原道真公の話は有名ですね)
とかね。

それ以外にも、あらゆる自然災害を神(精霊)の仕業としたり、とにかく何でもかんでも「人間以外の何者か」の存在を意識していたんですね。

・・・とまぁ、これまでは読者の皆様なら誰もが
「何を今さら :m196: 」
と思われることだと思います。

でも :m049:
それだけじゃないんです・・・

続きの前にポチッとな :m032:

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posted by maru : | |

2007年08月11日

東北の縄文文化から学ぶ

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文土器・土偶]

このところ当ブログでは、 【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?や、東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化など、東北地方を基盤に発展した都や、豊かな森と食糧資源に支えられた縄文時代の東北地方がクローズアップされていますね!

tanoさんが日本人の基層には西の文化がある!で触れていますが、弥生以降の稲作文化が浸透するまでは、実は、縄文文化は東北地方を中心に発展したのではないかと思うほど、そこから我々が学ぶべきものはたくさんある、ということが分かってきました!

東北地方の縄文文化について、かなり詳しく紹介しているサイトがありました。以下、 「研究調査報告書「縄文文化と東北地方」―東北の基礎文化を求めて」より引用です。

>東北地方の人々の心の中に現在も息づく自然との共生、生活文化習慣などは、気づく気づかないに関わらず、独自のものとして歴史の中でゆっくりと形成され、今日も人々の心の中に潤いを与えている、地域性の最たるものであると言えよう。そして、それを形成したのは、現在の経済システムを形作ってきた稲作農耕文化とは異なる狩猟採集を生業とした縄文時代という歴史なのである。そして、現在のシステムが綻びを見せ、新たな社会システムが模索されはじめている今日、このような歴史を持つ東北地方は、新たな価値観による・新たな社会の旗手となる可能性を秘めていると言えよう。

この先、もっと知りたいと思った方は、ポチッとお願いします!
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posted by simasan : | |

2007年08月07日

戦った縄文人

[弥生ー律令時代の戦争][縄文人の外圧]

縄文人はなす術も無く弥生人に駆逐された。

この縄文ー古代ブログでもそう認識している人は少なくないだろう。我々は戦争という技術を持って、人を支配する事を当然の社会摂理とする弥生人と戦争を知らず、友好的でおだやかな縄文人という構図を知らぬ間にイメージしている。

しかしそうだろうか?
実は縄文人が弥生人と明確に戦争をした史実がある。戦争というより抗戦という形で・・・。

北九州や中国地方に縄文時代から弥生時代にかけて1000年に渡って波状的に上陸した中国や朝鮮の渡来人は縄文人と融合し農業社会を構築し人口は増大した。弥生時代に入り農耕社会は九州、西日本からあっという間に関東地方まで広がっていった。大和朝廷が成立した後は日本は一部の地域を除いて統一されていた。

その一部の地域は最後まで抵抗した。それが現在の東北地方の蝦夷(エミシ)である。
大和朝廷の征服軍の攻撃をしのぎ38年間に渡って闘ったのがエミシだった。
今日はその蝦夷討伐に抵抗した縄文人の戦いを振り返ってみたい。

最近ご無沙汰していました。夏休みに向けて頑張って投稿しますので応援よろしくお願いします。
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posted by tano : | |

2007年07月31日

日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。

[縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

:m015: :m014: :m014: :m015: :m052: :m015: こんにちわちわわです。

日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。
それは縄文時代の狩猟採集社会の精神世界です。
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その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。

アイヌに残るこうした思いは縄文人から受け継がれた大切な思いです。縄文人すばらしいと思った方↓↓ぽちっと!
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posted by tiwawa : | |

2007年07月27日

ブナ林ってすごい!

[縄文人の外圧]

こんばんは、bunchanです :m072:

今日は、mitukoさんのブナ林とマタギ、pinguさんの縄文時代は木の文化、tanoさんの日本人の基層には西の文化がある!、simasanさんの森が育んだ日本の漁労に続いて、木と林つながりで「ブナ林と古代史」 さんより、縄文人にとってブナ林がどんな恵みを与えていたのかを要約・引用で紹介しま~す。

まず・・・ブナの一生 :m146: :m147: :m207: :m207: です

 ブナは落葉高木で、安定した土壌に群生する。一般に樹高20~25m、胸高直径1m前後、樹齢250年くらいであるが、なかには樹高30m、胸高直径1.5m、樹齢300年を越すものもある。樹皮は滑らかで灰色、よく地比類、コケ類が着生し斑紋をつくる。葉は卵形で、側脈が7~11対、葉脈は波状で鈍鋸葉、花は雄雌同体で、ごく地味である。
 ブナの花は4~5月にかけて、林床の花が終わる頃に咲き、二つの花をつけた上向きの雌花が一個と、黄色の葯をつけた毛玉のような雄花が数個ぶら下がる。この雌花は受粉すると、やがて殻斗に包まれた実に成長する。
 ブナの結実は、樹齢が約50~70年ごろから始まるといわれている。実は、生り年と少ない年があり周期性をもつ。これは隔年結果現象といい、およそ4~8年ごとに豊作の年が来て、その間は平作と凶作の年が交互に来る。
 夏に緑色だった殻斗も、やがて秋になると茶褐色になり、中の二個の三角錘の実は熟し、殻斗が割れて実がはじけ、林内に飛散する。

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 この実は、晩霜、異常低温、或いは虫食いなどによって一夜にして駄目になることもある。又、夏に雨が多く降るとよく実り、少ないと空の実(しいな)が多くできるといわれる。
 落下した実は殆どは、動物に食べられたり、腐ってしまうが、生き残ったわずかなものが、やがて、カギ形の幼根を出して固定し、冬を越す。そして雪に耐え、うまく冬越しをした実だけが翌春かわいい双葉をだす。

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しかし、この芽生えの多くも、やはり動物に食べられたり、陽光の届かない所では枯れてしまうものが多い。こうして運良く生き残ったものだけが稚樹となり、その年が翌年に成葉をつけ、わずかな光の中で少しずつ大きくなっていくのである。
 やがて、低木、亜高木の状態で待機していたブナは、周囲のブナが寿命で枯死したり、台風、雷などで倒れ、陽光を遮るものがなくなると、急速に伸びて隙間を埋め、最後には森を支配してしまう。
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 長い風雪に耐えたブナの老齢木は、やがて倒木となり、朽ち果てることで林地を肥やし、自ら次の世代が育つ環境を残していく。こうして一見何の動きもないようなブナの森も、緩慢ではあるが、確実に世代交代を行い、全体として安定した状態を維持し続けているのである。こうした極相状態の森は、ブナが成長する分だけ他で枯れており、動的には成長量がゼロとなって安定する。
 ブナは、冷温帯の厳しい自然環境のもとで、人間の一生に例えると、凡そ親子四代以上に当たる長い長い歳月を生き手いることになる。現在、老齢の大径木となっているものは丁度江戸時代中期に芽生えたものであろうか。

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人間の親子4代以上の長い一生!! 育つのにも時間がかかるということですね~
ところで・・・食物が豊富だったと言われるブナ林ですが、具体的にはどんなふうに豊富だったのでしょうか。

続きに行く前に、クリックおねがいしま~す :m030:
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posted by bunchan : | |

2007年07月11日

東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化

[縄文人の外圧]

こんばんは :m027:  bunchanです。
縄文時代のなんで?を、http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000251.htmlにひきつづいてもう少し調べてみたいと思います :P

縄文時代の人口は東日本に多く、その理由は東日本に分布したナラ林を中心とする植生のおかげといえます。

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ナラ林(上)とブナ林(下)
趣味千山よりお借りしました。
明るい光が差す林という感じですね :m146:

もののけ姫を読み解く からの引用を紹介します。

●東北日本の源流たるナラ林文化

 一方、日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていた。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」と名付けたのも中尾佐助氏であった。
 ナラ林文化の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富であったことだ。砕けば食べられる堅果が大量に落ち、日光照射もあるため森の下草である植物種も豊富である。そこには当然狩猟対象となる動物も多い。
 堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
 稲作と鉄器の文化は、弥生時代に渡来人によって伝えられたと言われる。弥生文化は、北九州を起点に、食料資源の少ない照葉樹林地帯には急速に広まったが、中部以北にはなかなか伝わらなかった。南とは食体系が違い、北では採集・狩猟・畑作資源が豊富なのであるから、わざわざライフスタイルを壊して稲作を始める必要がなかったのである。しかし、稲作を基盤として成立した大和朝廷は、武力制圧によって強引な稲作同化・単一文化圏化を押し進めた。縄文人は、北へ北へと追いやられながら文化圏を維持していた。後述する蝦夷と朝廷の戦争は、縄文人の末裔と弥生人の末裔の闘いであった。
 純粋なナラ林文化は、照葉樹林文化と融合した稲作文化に吸収され、十二~十三世紀にはほぼ崩壊したとされる。

これってnaotoさんが紹介されているアイヌ民族の婚姻様式 のような文化だったのですね~ :o

では、照葉樹林とはどんな地帯なのでしょう~?
ぽちっ :m208: と押して続きを読んでください
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posted by bunchan : | |

2007年07月07日

【仮説】縄文:ふさわしい時代区分は?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合][縄文土器・土偶]

こんばんは、さーねです :D
今日は、カッピカピさんが先日投稿された縄文時代のなんで新テーマ①縄文時代を土器で時代区分するのはなんで?でカッピカピさんが言われている時代区分新基準に挑戦したいと思います :tikara:

僕自身も、去年縄文の時代区分を投稿しました。多くの歴史が権力支配の興亡によって、時代が区分されているのに対して、土器による時代区分はある意味新鮮でした :o

カッピカピさんの記事を読んで、るいネット縄文・弥生論争への視点を改めて読んでみました :m027:

現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている… …つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。 私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合される…

このような、歴史構造そのものに対する認識転換が必要という気がします。極端に言えば、土器による区分は年代判断をするためのものであり、その時代の生活の様子や外圧状況を想起させるものではないと思います :confused:

まずは、集団のあり方や外圧状況に視点をおくような時代区分を設定してみたらどうでしょうか?素人的発想の【仮説】ですが、皆さんと一緒にテーマ付けをしていけたらなと思います :m194: :m051:

今日は、阿蘇ネットワーククラブ(日本超古代文明年表)を参考にさせて頂きました :m061:

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このような、生活が想像できるような歴史を :m051:

:m118: :m118: みんなが認める歴史事実をつくろう :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年06月22日

縄文時代のなんで

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合][縄文土器・土偶]

こんにちは、カッピカピです。

 いつも、このブログを読んでくれているみなさん、ありがとうございます。みなんさんの応援のおかげで、ここ最近は人気ブログランキング一位をキープし続けてることが出来ています。今後もみなさんの期待に応えるべく、そして、ランキング一位にふさわしいブログにしていくために、改めて、縄文時代についての追求テーマを設定してみたいと思います。

 
 その新たなテーマは・・・・・
 
 その前に、ポチッ↓とよろしくお願いします。

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posted by hi-ro : | |

2007年06月11日

縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた、稲作もそのころ伝わったと考えられる?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文土器・土偶]

◎日本で稲作が開始されたのは従来言われていた2000年前ごろから遡り3000年前ごろではな
いかというのが最近の説です。
 3000年前にすでに稲作の始まっていた朝鮮半島と縄文人の交流があった。


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posted by ryujin : | |

2007年06月08日

鬼界カルデラの大噴火により、琉球発のネットワークが始まった?

[縄文人の外圧]

こんばんは、etoです。
前回は、スンダランドから北上した港川人の人骨を紹介しました。リンク
琉球に住み着いた人々は、主に漁労生活を営んでいましたが、本土との交流はまだありませんでした。
が、約6000年前頃には鹿児島の前期縄文が沖縄本島へと南下しています。この頃からスンダランド由来の琉球文化が本土の文化と交わっていくわけですが、今回はそのあたりを考えてみました。


下の図は、鹿児島の南にある薩摩硫黄島です。
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実はこの島、縄文早期後半の約6300年前、海底火山「鬼界カルデラ」の噴火によって出来た火山島なんですね。
爆発規模は、雲仙普賢岳の凡そ100倍、火砕流の規模は雲仙普賢岳の1回の火砕流噴火の数10万倍に相当するほど驚異的で、過去一万年の日本火山史のなかで最大の噴火だったようです。
上空3万mの成層圏にまで達した大量の火山灰は、遠く東北地方にまで飛散したほどで、南九州一帯は、60cm以上の厚さで埋め尽くされた、とのことです。スゴイですね!!

さて、この大噴火が琉球圏の人々の生活にどう影響したのでしょう?

「琉球弧の考古学」さん
>南九州の初期縄文社会は、巨大噴火によって壊滅的な打撃を被ってしまった。その後この地を逃れた南九州の縄文人は列島各地に拡散して行った。特に「海人集団」は丸木舟や筏舟で対馬暖流を北上し日本海を通り北海道へ、さらに黒潮本流に乗って太平洋沿岸地域から伊豆諸島の八丈島にまで移住した集団も確認されている。

「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」
>この火山災害を免れた南九州縄文早期人の一部は、陸路を九州中・北部に避難していった。一方、海人集団のなかには対馬海流を利用して海路丸木舟で西九州沿岸や日本海方面に移住した人びと、黒潮本流に乗って四国、紀伊半島の太平洋沿岸地域やさらに遠く伊豆諸島にまで到達した人びともいた。こうした南九州縄文人の航海の軌跡は、栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧が、高知県木屋ケ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域の遺跡、東京都八丈島などの遺跡で発見されていることで証明される。

沖縄から八丈島まで、こちらも想像を絶する大航海です!

想像を絶するほどの大噴火により大打撃を受けた島人たちは、命からがら可能性を求めて、北へ、東へ脱出を試みたのでしょう。その際に南方固有の磨製石斧が列島各地に伝わったわけですね。さらには、舟の技術、あるいは豊富な貝類で作った首飾りなども伝わっていったのかもしれません。その後、弥生時代にかけて貴重な装飾品を求める「貝の道」へと交易ルートが続いています。リンク

このようにして、琉球発の縄文ネットワークが始まったのではないか?と思った次第です。

以下に、黒潮圏の「海上の道」を紹介します。リンク
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ありがとうございました、応援よろしくです。
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posted by nishipa : | |

2007年05月26日

『豊かな森の大国』日本列島の気候はどうやって形成されたのか??

[縄文人の外圧]

 まだ農耕・稲作の無い縄文時代において、定住による生活を可能にしたのは、豊かな森の恵みなくしては考えられなかったことでしょう。
 そこで、どのように豊かな森の王国・湿暖湿潤な水の豊富な日本列島が形成されたのか調べてみました :D
:m118: 興味のある人はポチっと押して続きをどーぞ :m027:
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posted by dai1028 : | |

2007年05月25日

縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術]

今晩は、さーねです :m193:
黒潮圏の考古学というサイトを今勉強しているのですが、その中でも八丈島の先史時代で、すごい不思議だなと思うことがあります。

6,000年前にピ-クを迎えた縄文海進時に、縄文人が漁撈活動地域を内陸や沿岸部から近海に拡大し、海洋航海技術を熟達させ外洋を舞台にした縄文集団(海の縄文人)が誕生した。彼らは外洋航海民としての素養を備え、最初は北部伊豆諸島を中心に渡島活動を行っていた。やがて近畿・東海と中部・関東の二地域から、黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島へ渡航した集団が登場する。
黒潮圏の考古学:八丈島の先史時代の倉輪遺跡より

なぜ、海を渡ろうとしたのか :m050: 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで :m050:

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彼らが置かれた状況や意識、行動様式を推察してみたいと思います :m193: :tikara:

:m118: 歴史は面白い :m051: 応援お願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : | |

2007年05月24日

縄文の海洋技術:『縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ』

[縄文人の外圧]

縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした(mukaiさん 2007年01月27日)

の投稿に引き続いて【縄文の海洋技術】について調べてみました。

以下、縄文人の航海ルートについて分かりやすくまとめてあるサイトを見つけたので紹介します。

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その前に :m118: これお願いしますね :m030:

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posted by mrran : | |

2007年05月17日

巨大噴火がひき起こした円筒土器文化

[縄文人の外圧][縄文土器・土偶]

火焔土器が話題になっているようですね。
私には、あれは、とてつもなく大きな炎=火山噴火あるいは火砕流による大火災を表しているように見えてしかたありません。
そこで、縄文時代の火山噴火を調べてみました。

「変転する大地が生み出す新しい文化」 リンク より引用させて頂きました :m208:
《引用開始》
三内丸山からの大量の土器発掘で明らかになった円筒土器文化は、縄文前期の中頃、突然現れ、東北地方北部から北海道南西部に広がった。津軽海峡による分断もものともしない広がりである。
円筒土器に先行してその地域に存在したのは、表館(おもてだて)式や早稲田6類、大木1式など、それぞれ互いに関連性をもちながらもまとまりのない土器群であり、どれも円筒土器へ直結するような形跡は認められていない。
円筒土器の不可解な出現は、長い間問題にされずにきたが、三内丸山遺跡の発見も一つのきっかけとなり、円筒土器と大木式土器が並存する岩手県を中心に、これまでに集積された考古学の資料が見直された。
その結果、最初の円筒土器である円筒下層a式土器が大木2a式土器の直後に現れること、二つの土器型式の間に十和田火山の巨大噴火による火山灰(十和田中せりテフラ)が挟まっていることが確かめられた(下図)。

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噴火によって広域におよんだ山林火災が、周囲の生態系を壊滅状態に追いやり人間社会に甚大な影響を与えたことは間違いない。一次生産者である植物に依存する動物社会にとってもその存続を脅かす大事件だったろう。いわば東北北部の広大な地域の生態系の構成員であるさまざまな生物の様相が災害で変化し、それが人間の暮らしに影響を与えていく状況が読み取れる興味深い事例である。

ぽち、ぽちしてから続きをどうぞ :roll:
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posted by naoto : | |

2007年05月11日

人骨が示す過酷な生活

[Ⅰ文明前夜・石器時代・巨石文明][縄文人の外圧]

こんにちは、etoです。

tokumaruさんがクラシーズ洞窟を紹介していただきましたね。感激です!
はるか太古の人類がどのような生活をしていたのか、興味は尽きないですね。
そんなわけで今回は、日本で発見された人骨の紹介です。

下の写真、何だか分かりますか? こちらからお借りしました。
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沖縄は港川で発見された港川人(1万8000年前の旧石器時代)の脛(スネ)のレントゲン写真です。

横に何本か線が入っているのが分かりますか? その線がハリス線と呼ばれるものです。
で、ハリス線とは何かというと、
栄養失調や病気などで一定期間成長が止まると、骨の両端に化骨作用が起きて、ハリス線と呼ばれる横線が現れるようで、縄文人の人骨にも多く見られるようです。
あと港川人の人骨は、咀嚼筋が発達し歯が著しく磨り減っていることから、硬い粗末な食物を食べていたことが推察されています。

沖縄といえば、暖かくて、食べ物も豊富に獲れそうなイメージがありますが、1万8000年前ではまだ氷河期ですから、相当に厳しい環境だったのでしょうね。
歯が磨り減るほどの硬い食物って、、、木の根っ子とか、それこそ人骨をも砕いて髄をしゃぶっていたかもしれませんね。

港川からは全部で9人分が発見されていますが、男性壮年が9人、女性壮年が2人です。
子どもは発見されていないんですね。なんでだろう?
人骨の分析からは、ワジャク人と類似していることから、スンダランドより移動してきた可能性が強いようです。スンダランドから移動せざるを得なかったのでしょうが、たどり着いた沖縄もまた、過酷な状況だったのでしょう。

彼らがどのような生活をして、どのように縄文文化と融合していったのか、沖縄圏を中心に少し調べていこうと思います。


応援ヨロシクです。
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posted by nishipa : | |

2007年05月04日

縄文時代の集落規模

[縄文人の外圧][縄文人の生活技術][縄文人の集団統合]

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以前、「縄文人の集団規模と共認の関係」で縄文時代の集落が小規模のままで30人以上になることはなかった。とあったが青森の三内丸山では500人から1000人とも言われています。

縄文時代の集団の規模や生活、他集団との交流等もっと知りたくてサイト探索してみました。
少し長くなりますが「縄文文化と現代:縄文村」からの抜粋、要約です。

クリックしてから続きをお読みください。
  :m118:   :m118:   :m118:   
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posted by mukai : | |