2008年12月09日
縄文の文明原理
こんばんわ :D
歴史を学ぶとは・・・自然の摂理と歴史事実の因果関係を探る事
に続いて安田先生の著書から今日は縄文の文明原理をお届けします。
縄文時代を読み解く一つのガイドラインにもつながると思いますので全文を投稿します。
縄文の文明原理
縄文文明における永続的な固有の技術や装置・制度系・組織化された生活システム・精神世界とは何であったのか。1万年以上にもわたって一貫した文化的共通性を支えた文明原理とは何であったのか。
今後の研究においていくつもの縄文文明の文明原理が発見されるであろうが、現時点において、とりあえず以下の8点が縄文の文明原理として指摘できるであろう。
posted by tano : 23:55 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年12月02日
無土器~縄文草創期~縄文早期 の 婚姻様式
縄文時代の婚姻様式について、兄弟ブログである知られざる人類婚姻史と共同体社会が先行して追求しておりますので、そちらを数回に分けて投稿してきます。
まずは、無土器~縄文前期の婚姻様式(族内婚)です。
もう少し厳密に言えば、無土器~縄文草創期(10000年前)を経て縄文早期(7000年前)の婚姻様式です。
本文にも記載しておりますが、族内婚を明らかにするのは記録がない為難しようですが、遺跡や遺物、遺語、招婿婚(婿入婚)から類推できるそうです。高群逸枝著『日本婚姻史』からポイントを抜粋して紹介してくれています。
(写真は「縄文のビーナス」)
posted by mrran : 19:09 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年12月01日
縄文時代の婚姻を解明するには?
今日のネットサロンにて、縄文時代の婚姻形態について調べていました。ネットを一通り探ってみたのですが、婚姻形態だけを捉えてしまっていると気付きました :-(
概ね、縄文人の婚姻形態といえば「母系」で男側が婿入りするという形態でしょう :m061:
では、その形態をとっていたのはなんで?
そんな風に考えながら、記事を書いてみました(かなり直感です^^;)

女性器の形?
byさーね
:m118: 応援よろしくです :m051: :m118:
![]()
posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年07月29日
縄文~現代:日本が誇る13,000年の精霊信仰
今晩は、さーねです :o 前回の縄文の精霊信仰~山岳信仰に引き続き、日本の精霊信仰に迫ってみたいと思います :tikara:
同じく、原初的山岳信仰の変遷を参考にしました。

秩父の神奈備山”武甲山”
:m118: :m051: 応援よろしくです :m051: :m118:
![]()
続きを読む "縄文~現代:日本が誇る13,000年の精霊信仰"
posted by sawatan : 20:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年05月31日
木を通じて縄文気質を考える
縄文時代の気質とは何か?

「国際派日本人養成講座」の「国柄探訪:地球を救う自然観」の抜粋の中の木を巡る意識を通じて縄文時代の気質とは何か?を考えて見ます。以下は抜粋です。尚、この抜粋先の投稿は日本人の気質を示しており全文を一読して見て下さい。
■4.木も人も自然の分身■
木が命を持ち、その命を大切にしようという姿勢は、木も人も、
自然の中で生かされている「生きとし生けるもの」の同じ仲間だと
いう考え方に基づく。 :roll: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
posted by sakashun : 21:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年05月30日
縄文:祭りが生産活動=食の確保を確実にした!
先日投稿しました縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!のtanoさんからのコメント
>祭りって見るもの、楽しむものという解脱というイメージがありましたが、本来は生産なんですね。
実は、祭りそのものが生産活動=食の確保を確実にした?そんなネタがありました。
今日も先日と同じNPO法人国際縄文学協会のカミの発生と縄文時代(萩原秀三郎先生)の論文を参考に投稿したいと思います :tikara:

秋田県大湯遺跡の日時計状組石
:m059: byさーね :m059:
:m118: 今日も応援よろしくです :m051: :m118:
続きを読む "縄文:祭りが生産活動=食の確保を確実にした!"
posted by sawatan : 19:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年05月29日
“縄文気質”を考えてみよう-3
縄文気質”を考えてみようシリーズ、久しぶりの投稿になりますが・・・
過去2回の投稿
“縄文気質”を考えてみよう-1 (2008年04月18日)
“縄文気質”を考えてみよう-2 (2008年05月01日)
から、本日は日本人気質として呼べるであろうキーワードを整理してみました。

↑これ なんで屋カード工房からお借りしました。おもいやりって大切ですね!
posted by mrran : 20:49 | コメント (8) | トラックバック (0)
2008年05月25日
縄文時代:共生と循環の文明
こんにちは。縄文文化に興味があって勉強してみました。
共生と循環の文明と言われているようです。以下は共生と循環の縄文文明から引用させていただきます。尚、ここで記載されている内容は実に興味深いことが多く是非とも全文を読んでいただければと思います。
以下引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
縄文文化が自然との調和の中で、高度の土器文化を発展させ、一万年以上にわたって一つの文化を維持しえたことは、驚異というほかはない。 :shock: 縄文文化が日本列島で花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。
東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古代文明は強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方的略奪を根底に持つ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。 :roll:
応援を宜しくお願いします。ポチットお願いします。
posted by sakashun : 13:26 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年05月15日
縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!
以前の記事 :m136: 三内丸山は語る(1)でも書かれていますが、
この御柱祭は諏訪大社という神道の祭事であり、それをはるか縄文時代、しかも社会構成の違う時代の人々が残した時代の人々が残した遺構と、ただちにくらべることはできない。しかし、巨木の山だしから建立までに投じられる人手とそのエネルギーは、縄文のそれを彷彿とさせるし、何よりも祭事をとおして、一つの共同体という意識のもとに人々を結びつける重要な役割をはたしていたということでは相通じるものがある。
諏訪大社の御柱祭 :tikara: は、の写真。よく話題になりますよね :o

今日は、NPO法人国際縄文学協会の小山修三先生の論文「巨木の祭り-御柱と縄文-」を参考に、縄文時代の祭りの様子を探りたいと思います :m051:
byさーね :o
posted by sawatan : 21:23 | コメント (4) | トラックバック (0)
2008年05月02日
“真似・応用”:現在の日本人から縄文体質を探る
“縄文気質”を考えてみようのmrranさんに続いて現在の日本人から縄文体質を探ってみたいと思います。 今回は「真似、応用」です。
日本人はいつも、自分でものを考えたり造ったりせず、よそで生まれたものの真似、それも「いいとこどり」をして手本より優れたものを作ってきたと言われています。
この「真似て手本より優れたものを作り出す文化」はどこから来ているのだろうか?

主に「縄文塾」というサイトからお借りして纏めました。
ブログランキングUPにご協力下さい。
:m118: :m118:
![]()
続きを読む "“真似・応用”:現在の日本人から縄文体質を探る"
posted by mukai : 20:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年05月01日
“縄文気質”を考えてみよう-2
“縄文気質”を考えてみよう-1に引き続き、今回も外国人から見た日本人像を紹介したいと思います。

今回も『ぼやきくっくり』さんの『外国人から見た日本と日本人の姿(1)~(5)』からお借りしました。
今回は前回よりもう少し新しい文献(1920年代~2006年)を紹介します。
posted by mrran : 19:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年04月18日
“縄文気質”を考えてみよう-1
突然ですが、皆さん“縄文気質”って言ったらどんな気質のことを指すのか考えたことありますか?「何となくわかるようで・・・でもそれが本当にそうか分らない・・・」と言った感想を持つ人が殆どではないでしょうか?
“縄文気質”に近しいと思われるものに“日本人気質”って言葉があります。今日はいきなり縄文まで遡るのも大変なので“日本人気質”に焦点を当てたいと思います。
そこでますは日本人はどう見られているのか?=日本人気質とは何か?といった第三者(=外国人)にはどのように写っているのか?を紹介したいと思います。
『ぼやきくっくり』さんが『外国人から見た日本と日本人の姿(1)~(5)』として文献に残っているものを紹介してくれていますのでそこから一部お借りして紹介したいと思います。
※今回当ブログで紹介するのは“日本人気質”に関係しそうな文献を選定していますが、純粋に過去の日本人が世界からどのような評価を得ていたのかを知る上で、非常によく纏ったブログですので、興味のある方は是非『ぼやきくっくり』に訪問して見てください。
posted by mrran : 21:30 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年04月17日
縄文:祭りの主宰者は女性だった?
縄文時代にも祭りがあったことは、このサイトでも紹介されており、考古学史料からもその存在は疑いのないものだと思います :wink:
ただ、精霊信仰の一言ではどうも、その姿がイメージできないというか…。そこで、今日は諏訪春雄のホームページを参考に、よりイメージできるよう探って見たいと思います。

写真は、縄文の祭りの再現 :shock: 井戸尻考古館情報より
byさーね :o
:m118: :m193: 応援よろしくお願いします :m051: :m193: :m118:
![]()
posted by sawatan : 21:10 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年04月11日
ヒスイの広域に渡る存在は、交易か贈与か?
:D くまなです。
縄文時代の広域にわたる物の移動が贈与なのか、交易なのかについて、「ヒスイ」に注目して深めていきたいと思っています。

写真は北海道美々4号遺跡の曲玉。EnjoyKoreaより。
過去、このブログでの記事には以下があります。
縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの
縄文時代において、黒曜石やヒスイが広範囲に出土する状況について、一般的には「交易」の結果だといわれています。一方、このブログでは集団間の緊張緩和のための「贈与」の結果であるとの提起がされてきました。
「交易」と「贈与」には大きい違いがあります。
縄文人が他集団、すなわち、集団を超えた‘社会’に接したとき、どのように捉え、どう対処しようとしたのか。交易は自集団の利益のために他集団と取引(≒騙し)をしようとしたのであり、贈与は争いを避けるために友好関係を結ぼうとしたということになります。
縄文時代の物の広域移動が「贈与」である根拠は以下の2点です。
A)交易であれば一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずであり、広域の広がりを説明できない。
B)自給度が高い歴史を積み重ねてきた原始共同体にとって、他の部族に自らの生活条件及び生存条件の一部を依存するという発想は極めて出てきにくい。
参照:黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②
上記を念頭に置きつつも、縄文時代における物の広域移動が「贈与」であるということが出土状況等のデータから検証できないか、というのが現在の課題意識です。
この間、いろいろ調べる中で、なかなかスッキリとした答えが見えてきません。
どのような状況がハッキリすれば贈与と断定できるのか…(あるいは交易と断定できるのか…)
現時点での疑問点=解明しようとしている課題を次に示します。
posted by kumana : 22:18 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年03月31日
縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの
前回、 「黒曜石の広がりは、交易か贈与か?」では、温暖化と人口増に伴い部族間の接触が頻繁になり、お互いの緊張関係を緩和する為に、自分達が大事にしているもの(黒曜石など)を贈与するようになったのでは、という仮設を立てましたが、そもそも交易と贈与とはどう違うのかというところにスポットをあて今回は追及してみた。
市場の始まりは交易からと言われるが、古代にあっては現在のように価格差を源泉に商人たちが利潤を得るために市場で商品を裁くという形態ではなかったようだ。
例えば、古代地中海に於いて、航海術で名を馳せた民族、フェニキア人の代表的な輸出品は紫の布や木材であった。これらは当時、一般庶民の生活には通常必要のないもので、要するに贅沢品であった。
航海術に長けたフェニキア人でさえ、品物を大量に船で輸出するのは、現在とは比べものにならないほど大きなリスクが伴ったに違いない。従って、これらの活動は領主や王など何らかの権威によって依頼され、それ相当の保証(収入や安全)を受けることでしか成立しなかった行為である。
以上、るいネット「フェニキア人の交易の移り変わり[1]~古代地中海の交易~」より一部引用
さて、一般に縄文時代に黒曜石の交易が盛んに行われていたと言われているが実際はどうだったか?
続きを読む "縄文の黒曜石の流通は、交易とは似て非なるもの"
posted by simasan : 23:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年02月22日
「縄文」から引き継がれているものは何か?
当ロブログでちわわさんが『日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。』
で、それは 縄文時代の狩猟採集社会の精神世界 だ!と紹介されました。
私はそれが具体的にどのようなかたちで引き継がれているのかを調べてみました。
ブログランキングのバナーをクリックして続きを読んで下さい。
↓ ↓ ↓
![]()
posted by mukai : 18:30 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年02月12日
本源集団の生産ー消費にセットで必要な相互扶助のシステム
こんばんわ。tanoです。
今日は縄文時代の生産シリーズ第2弾をお送りします。
1.縄文人の労働とはどんなだった?
2.過剰生産のない縄文社会。
3.相続のない縄文社会。
2番目の過剰生産のない縄文社会です。
縄文時代の生産と消費活動はどうだったんでしょう?
生産と消費の間に蓄財というものがあります。とかく現代は不安が多い世の中。
ある程度貯金がなければ不安になってしまいますよね。
しかし縄文社会には蓄財という観念がほとんどありませんでした。
なぜ蓄財をしなくても生きていけたのでしょう?
:m118: 応援よろしくお願いします :m049: :m118:
続きを読む "本源集団の生産ー消費にセットで必要な相互扶助のシステム"
posted by tano : 22:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年02月07日
縄文時代:アクセサリーの意味~集団統合のために
現在では、アクセサリー :m034: は女性のみならず、男性もシルバーアクセサリー :m034: などを身に付けるようになりましたね。縄文時代も、同じ様に身に付ける装飾というものが出土しています。
現在は、自分をキレイに見せたり…というような意味合いであると思いますが、縄文時代はどんな意味があったのか :m052: 追求してみたいと思います :m049: :m193:

今日参考にさせて頂いた縄文世界さんのサイトより~土製耳飾~土のピアス!
byさーね :tikara:
日本のアクセサリーの起源っ :m050:
:m118: 応援よろしくお願いします :m049: :m118:
続きを読む "縄文時代:アクセサリーの意味~集団統合のために"
posted by sawatan : 21:18 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年02月01日
縄文人の労働とはどうだったんだろう?
こんばんわ。tanoです。
年末に三内丸山の特集記事を書いてから1ヶ月放置していましたが、第2弾を再開したいと思います。
>第2弾で三内丸山の大きな経過、発祥、周辺との関係を見てきました。
次回はさらにその社会構造に迫ってみたいと思います。(三内丸山は語る2)
社会構造をいきなり書くと大変なので以下の3つの記事を紹介したいと思います
1.縄文人の労働とはどんなだった?
2.過剰生産のない縄文社会。
3.相続のない縄文社会。
今日は第1回で縄文人の労働観についてです。
posted by tano : 21:48 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年01月29日
ストーンサークルは「生きるために死がある」を体現した祭り場
ストーンサークルは、 「縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?」でも紹介しましたが、約3,500~4,000年前、東北から北海道にかけて急速に広まった巨大な構造物である。

また、この時代は温暖化がピークを過ぎ、急速に寒冷化した時代であり、何故これほど大掛かりな構築物をつくる必要があったのか?
縄文の大集落、三内丸山遺跡は、ちょうどこのストーンサークルが登場する前である。このような大集落は縄文中期に姿を消し、その後は小規模な集落が増えてくる。
その原因は、気候の寒冷化による食糧の減少か?謎はまだまだ多いが、
哲学者である梅原 猛氏は以下のように述べている。
>分散した集団は祭りのときに一堂に集まり、一族の絆を確かめ合っていたようです。環状列石の祭りの舞台であり、大規模な土木工事を行なってまで築かれた、彼等の絆・心の形として示した記念物なのです。人が死んだ後、魂が死骸から抜け出てあの世へ行くが、ストーンサークルはセックスの行為を示したのではないかと思う。
これはいったいどういうことか?何故、そういうことが言えるのか?
知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします。
続きを読む "ストーンサークルは「生きるために死がある」を体現した祭り場"
posted by simasan : 23:20 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年01月16日
縄文人の死生観~埋葬のしかたの意味~
:D くまなです
自然の摂理に対する意識のありようは、生死にどう接したかによく表れると思います。そこで、縄文人の埋葬のやりかたから、縄文人の死生観に迫ってみたいと思います。
縄文人の埋葬の特徴は、屈葬、ベンガラ、乳幼児甕埋葬、抱石葬です。
すべてを一貫して説明できるのは、再生への願い です。
(再生とは「誰かがよみがえるのではなく、誰かの魂が戻ってくるのでもなく、充足や活力が再生され(続ける)こと」です。前回の記事を参照してください。)
縄文の埋葬についてスッキリしたいと思った方↓ポチっと応援お願いします。
![]()
![]()
posted by kumana : 21:31 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年12月29日
やはり勾玉は胎児!
mrranです。
まずはこれ↓読んでください。
>厳しい自然外圧に晒されていた彼らにとって、集団の存続=種の存続が第一。出産や医療の技術もほとんど無に近い状態で、子孫を残すこと自体、大変であったと思います。だからこそ、子を想う気持ちも一段と強かったのでしょうなんで子を大切にしたか?
>生まれた子どもが元気に健全に育ってほしいという願い、産んだ女性が健全であってほしいという願い、そして子どもが生まれたことを皆で祝い、女性をねぎらう状況がうかがえます。
>未だ飢えと隣り合わせの縄文人にとって、集団規模を維持することすら大変なことだったはずで、子どもが生まれなかったり、育たなかったりすることは集団にとっての死活問題です。だから集団の維持は最上位の課題だったはずです。 縄文人、再生への祈り
縄文人の子を思う気持ちがひしひしと伝わってきますね。 :cry:
そこで勾玉。勾玉は腎臓、三日月信仰からくる三日月説、説胎児をかたどった胎児説等様々な解釈が存在しますが、私は縄文人の子を思う気持ちの強さから胎児説が有力であると考えています。 :m044:
posted by mrran : 20:09 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月26日
黒曜石の広がりは、交易か贈与か?
前回、 「弓矢の発明前夜、日本の黒曜石が大陸に運ばれた理由!」では、黒曜石によって縄文集団の生活が劇的に変化した、ことを書きましたが、では、黒曜石が産地から何百キロも離れたところで多く見つかっているのは、何故か?多くの考古学者は当時既に交易があったと述べていますが、本当に物流のネットワークが存在したのか?
るいネット「黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②」では、以下のような見方が提起されています。
>結論から言えば私は「贈与」によるものであると思う。
何故なら、まずこれだけの広域かつ多方面の広がりからみて、交易である事は考えにくい。何故ならば上記の物品(原石)が採掘できる場所は限られており、かつ仮に交易であれば、一般的に考えて特定の部族間でやり取りされるはずである。つまりこれだけの広域の広がりを説明できない。
逆に贈与であれば、潜在的な緊張関係のもとでかつ友好の意思を多方面に示す必要性が高く、広域に渡ることが説明がつきやすい。
●日本の代表的な黒曜石の産地

http://www.tiny.jp/~arugacom/suwakou/kokuyose.htmlより引用
今回は、黒曜石の産地と広がりについて紹介し、それは贈与か交易か?を探ってみたいと思います。
この先、知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします!
posted by simasan : 20:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月25日
縄文人、再生への祈り
:D くまなです
前回の生きとし生けるものは循環している、という縄文人の世界観」で案山子さんから
「僕は縄文人やアイヌの人たちが生死を自然の摂理から学んで人は死んでもまた生まれてくると考えたのは微妙だなと思います。自然の摂理からいけば死ねば土に戻るわけで、土から生まれてくるのは植物でしかないからです。自然の摂理における生命の循環の発想とは食物連鎖であり、決して生まれ変わることではありません。」という意見を頂きました。
仏教でいう“循環”と縄文人の世界観は違うと思いますので、言葉としては循環ではなく“再生”の方がふさわしいかもしれません。それを今後、検証していきたいと思っています。
自然の摂理に対する意識のありようは、生死にどう接したかによく表れると思います。そこで、まずは縄文人の埋葬のやりかたから、縄文人の死生観に迫っていきたいと思います。
と思っていたら、さーねさんが、縄文:なんで子を大切にしたか?で、縄文における子どもの埋葬について記事をアップしてくれました。そこで、少し調べてみると、その中で語られている「胞衣(えな)」の埋蔵は、戦後まで縄文と同じように行われていたということがわかりました。※えな:胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜など
胞衣(えな)信仰は、縄文と現代を繋ぐ習俗として、縄文の精神性を掴む糸口になるのではないかと思います。
posted by kumana : 23:58 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年11月15日
生きとし生けるものは循環している、という縄文人の世界観
:D くまなです。
今回は、縄文人の末裔と云われるアイヌの思想から、縄文人の世界観に迫ってみようと思います。
naotoさんが「ミトコンドリアDNAからみた日本人の成立」のなかで“沖縄の人々やアイヌこそ、渡来系との混血が少なく、近縁性を保ち続けたようです。やはり、彼らこそ縄文人の系列といえるかもしれませんね”とおっしゃられているように、アイヌの人々が縄文人の文化を色濃く残していることは間違いないと思います。(ただし、アイヌは沖縄とは出自が違う北方系縄文人を継承していると考えられます。)
今回はアイヌの文化のなかでも、彼らにとって重要な儀式である「イオマンテ」に注目してみます。
:m118: イオマンテに行く前にポチッと応援よろしくお願いします。
![]()
続きを読む "生きとし生けるものは循環している、という縄文人の世界観"
posted by kumana : 21:40 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年11月08日
なんで縄文人は物を大切にしたのか?
最近、読んでいる本の中で、ふと気付いた一文がありました。
>縄文人は物を大切にした(環境考古学事始 安田喜憲著 洋泉社新書より)
それに比べて、現代社会はなんと物を無精に扱っているか?いかに無駄を生み出しているか?皆さん実感しているところだと思います :-(
環境問題が叫ばれている中、それら問題も市場拡大・利益第一の中で宣伝文句として利用されてしまい、問題は一向に解決する様子さえ見せない :confused:
置かれた状況は全く違うだろうが、なんで縄文人は物を大切にしたのか?そこに学んでみたいと思います :o
縄文早期の木器です♪
歴史事実から得るものはたくさんある :m051:
今日も応援よろしくです :m118:
![]()
posted by sawatan : 21:15 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年11月01日
縄文人は自然と一体だった
:D くまなです
これから数回にわたって「縄文人の精神世界」をテーマに、そこから派生するであろう思想、言語、祭り、土偶などに関して追求し、その全貌を明らかにしていきたいと考えています。
縄文時代は1万年ものあいだ続きました。その基底部には、自然を畏れ敬う精神世界があったと言われています。
現代人は、自然の摂理を冒涜し、地球環境を破壊し続け、滅亡の道へまっしぐらです。
そのような現代人が、自然の摂理に適った生き方・考え方をつかむ上で、縄文人の精神世界が参考になるのではないでしょうか。

縄文人は、どんな世界観を持っていたのか?
そこに同化し、つかむことが出来れば、すべてが繋がっていく可能性があります。
精神世界をつかむ上で重要なのが、置かれた外圧状況の把握です。
posted by kumana : 22:30 | コメント (5) | トラックバック (0)
2007年10月31日
縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?
三内丸山遺跡などでも有名だが、ストーンサークルと呼ばれる遺構は、北海道から東北地方に集中している。
図・写真は「大湯ストーンサークル館」より引用

これらの遺跡は約3,500~4,000年前にできたと言われているが、何故、この時期に現れ、しかも、北方にしか発達しなかったのか?
また、当ブログでもnaotoさんが「縄文人にとってお墓とは何だったのか?」でも述べていますが、
>彼らが望んだのは、集団の永続的な安定と繁栄。成員の死に際しても、個人の死→埋葬という行為を超えて、集団の共同行為として墓制をとったのではないでしょうか?
と言うように、何故、この時期に集団統合力を強める必要があったのか?
考えれば考えれ程、ますます疑問が湧いてくるばかりです。
続きを読む "縄文の超集団統合は、北方民族から取り入れられた手法か?"
posted by simasan : 20:19 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年10月30日
著書『縄文「ムラ」の考古学』からの新たな視点
こんばんわ :D
縄文担当のtanoです。
このブログも最近マヤ、中国に押されて日本(縄文)の影が薄くなってきています。 :-(
ということで、私のグループではしばらく縄文時代を分野毎に追求していくことにしました。 :tikara:
今日はその第1弾です。

最近読んでいる本で縄文「ムラ」の考古学という著書があります。川崎 保氏という長野県立歴史館専門主事学芸員の方が執筆・編集されています。⇒一部をネットで見れます
この本は長野県の縄文遺跡を長く調査してきた川崎氏がご自身の研究成果としてまとめられただけでなく、縄文時代のムラを長野県の遺跡を下敷きにして道具、居住、交流、男女の役割等の観点で再現しようとする壮大な試みです。
この書の優れている点は考古学的データーだけでなく考古学に長年触れてきた著者の直感や仮説が各所に展開されている点です。今日は考古学資料の転載まではできませんが、著者の捉えた縄文時代のムラのありようについて連続シリーズでいくつか紹介してみたいと思います。(著者の川崎氏には大変申し訳ないのですが、紙面の都合で一部私の文章でまとめなおしている部分があります)
「縄文ムラの誕生」
定住とはなんだろうか?竪穴式住居跡があってもそこに連続して住んでいたという根拠がなくてはならない。住居の中に石や炉があったとしても定住化への発展的段階である可能性も残る。やはり定住的という以上は住居跡群に明確な特徴が必要になる。直線的や環状配置など明確な意図をもって人間集団が構成されていることを定住的と呼べなくもない。しかし最も目安となるのが「モニュメント」や「ランドスケープ」を持ってムラが形成されている場合である。
続きを読む "著書『縄文「ムラ」の考古学』からの新たな視点"
posted by tano : 22:52 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年10月25日
縄文の宗教

「自然人は、どこでもアニミズム、つまり超自然的存在、霊的存在への信仰をもっている。」と、言われているように、彼等の一切の行為は、経済的行為にせよ、政治的行為にせよ、芸術的行為にせよ、呪術・宗教的行為との混融を示し、宗教は未開人の生活の根幹をなすとされている。
では、縄文の宗教観はどういったものだったのでしょうか??「縄文文化と現代」に詳しく紹介されていますので、抜粋します :D
posted by dai1028 : 20:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月02日
沖縄の本源性の理由を探る~古琉球前夜の概況から
こんにちは。最近は、ちょくちょく、琉球の歴史のHPを見たりしていますが、「ニライカナイ」という言葉によく出くわします。確かに以前から、沖縄ソングの題名等にもなっていたりして、耳にのこってはいたのですが、あらためて意味を調べてみました。
万物の源・ニライカナイ
ニライカナイとは、神の住む海上はるかな遠い国であり、そこはあらゆる富、豊穣、生命の根源があるとされている。そして沖縄の伝統的村落には、ニライカナイから1年に1度神が訪れてきて、人々に祝福を与えて再び帰っていくという信仰があり、現在でも、その神々の来訪を演じる儀礼が、あちらこちらの祭りの中に残っている。
沖縄の穀物起源神話のなかのひとつに、次のようなものがある。
「海上はるか遠いニライカナイから、沖縄南部の東方海上に浮かぶ久高島に、麦、粟など五穀の種子が入った瓶が流れついた。しかし、その中には稲の種子は入っていなかったので、アマミキヨが天に祈り、鷲にニライカナイから稲の種子をとってくるように命じると、鷲は長い期間かかって3つの稲穂を口にくわえてきた。アマミキヨはそれをウキンジュ・ハインジュ(受け水・走り水)というところに播いた」
http://www.wonder-okinawa.jp/022/study/022_j46.html
理想郷のことを意味しているたんですね。
で、紹介されているように、沖縄の穀物起源神話の中に出てくる、「アマミキヨ」という神様が、ニライカナイからやってきて沖縄に穀物を伝えたという言い伝えがあるようだ。

<「アマミキヨ」が降り立った岬との伝説が残るハビャーン岬>
http://namoma.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_e8d8.html
では、この「アマミキヨ」という神様がやってきて、稲作を伝えたのは、一体いつの時代なんでしょうか。
↓続きはポチットの後で。よろしくです!!
続きを読む "沖縄の本源性の理由を探る~古琉球前夜の概況から"
posted by yuyu : 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月28日
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か②
どーも、○です :m043:
以前、ちわわさんが投稿されていた『日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。』に、気づかされたことがありまして、今回は勝手ながら続編を投稿しようと思います :m101:
さて、ちわわさんの投稿に
「その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。」
とありましたが、日本人は動植物ばかりでなく、命なき物にも魂があると考えていました。
例えば、雷 :m008: が鳴れば
「誰かの怨念だ」 :m252: (菅原道真公の話は有名ですね)
とかね。
それ以外にも、あらゆる自然災害を神(精霊)の仕業としたり、とにかく何でもかんでも「人間以外の何者か」の存在を意識していたんですね。
・・・とまぁ、これまでは読者の皆様なら誰もが
「何を今さら :m196: 」
と思われることだと思います。
でも :m049:
それだけじゃないんです・・・
続きの前にポチッとな :m032:
続きを読む "日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か②"
posted by maru : 21:30 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年08月09日
縄文人の性意識を探る(青森の民俗行事を通じて)
今回は、アイヌ民族にも受け継がれたであろう性意識を、青森の民族行事を通じて探ってみたいと思います。
縄文の世界・生活と文化より
《引用開始》
かつて、青森の集落のはずれの小高い丘に木製の大小の根精様を祭る祠があった。
また本家筋の家の祭壇に、蛯子、大黒と並んで根精様の小さな祠があった。
それらは、今はない。
縄文遺跡の祭祀的跡と思われる場所から男性の性器と思われる石棒が出土した。
石皿、くぼみ石等の陰石も出土した。
縄文時代の人々は、性をどのように捉えたのだろう。
続きを読む "縄文人の性意識を探る(青森の民俗行事を通じて)"
posted by naoto : 10:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月05日
古代文字
◎日本ではいつごろから文字が使われるようになったのでしょうか。
また、現代に繋がる「かな遣い」はいつごろから使われだしたのでしょうか
日頃何気なく使っている漢字とかなまじりの日本語は、いつごろから使われだしたのかまだはっきりしない様です。

「神代文字(アヒル文字)の一種」
posted by ryujin : 20:59 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月31日
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。
:m015: :m014: :m014: :m015: :m052: :m015: こんにちわちわわです。
日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。
それは縄文時代の狩猟採集社会の精神世界です。

その原型を見ることが出来るアイヌでは、人間と動物に本質的な区別はなく、動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしており、動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないといいます。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と動植物も平等なのです。
アイヌに残るこうした思いは縄文人から受け継がれた大切な思いです。縄文人すばらしいと思った方↓↓ぽちっと!
続きを読む "日本の神道や仏教が根底に持っている思想とは何か。"
posted by tiwawa : 23:35 | コメント (7) | トラックバック (0)
2007年07月07日
【仮説】縄文:ふさわしい時代区分は?
こんばんは、さーねです :D
今日は、カッピカピさんが先日投稿された縄文時代のなんでの新テーマ①縄文時代を土器で時代区分するのはなんで?でカッピカピさんが言われている時代区分新基準に挑戦したいと思います :tikara:
僕自身も、去年縄文の時代区分を投稿しました。多くの歴史が権力支配の興亡によって、時代が区分されているのに対して、土器による時代区分はある意味新鮮でした :o
カッピカピさんの記事を読んで、るいネットの縄文・弥生論争への視点を改めて読んでみました :m027:
現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている… …つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。 私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合される…
このような、歴史構造そのものに対する認識転換が必要という気がします。極端に言えば、土器による区分は年代判断をするためのものであり、その時代の生活の様子や外圧状況を想起させるものではないと思います :confused:
まずは、集団のあり方や外圧状況に視点をおくような時代区分を設定してみたらどうでしょうか?素人的発想の【仮説】ですが、皆さんと一緒にテーマ付けをしていけたらなと思います :m194: :m051:
今日は、阿蘇ネットワーククラブ(日本超古代文明年表)を参考にさせて頂きました :m061:

このような、生活が想像できるような歴史を :m051:
:m118: :m118: みんなが認める歴史事実をつくろう :m051: :m118: :m118:
![]()
![]()
posted by sawatan : 21:28 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年06月24日
縄文時代:女性の役割~育てる能力を生かした!-栽培
今晩はさーねです :D
最近、思うことですが、縄文時代の出土品や遺跡は日本全土で星の数ほどあると思います。遺跡の形や出土品はその時代の縄文人の行動を解明する上で大事な物差しとなり、様々な解明がなされていますが、何かその時代を解明する上で足りないなーと感じることがあります。それは、やはり縄文集団の統合軸,男女の役割等の人間の意識構造です。その意識構造を学ぶことで初めて、現代社会に生きる歴史を学ぶということになるのだと思います。 :wink:
そんな問題意識をもって、今日は、女性の役割に焦点を当てたいと思います。とても、面白い論文報告を見つけました。
国際縄文学協会紀要 第1号 2004 国際縄文学協会「熊本県上南部遺跡の土偶」
もちろん、女性は「子育てが役割!」男には絶対真似ができない役割ですね!この「育てる」という能力は女性にとって、やはり大事な能力であり、子育てに限らず、集団生活において様々な「役割」へ生かされていたと考えられるのです。

この土偶…なぜか常に核となる遺跡から出土するそうです… :wink:
続きを読む "縄文時代:女性の役割~育てる能力を生かした!-栽培"
posted by sawatan : 16:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年06月22日
縄文時代のなんで
こんにちは、カッピカピです。
いつも、このブログを読んでくれているみなさん、ありがとうございます。みなんさんの応援のおかげで、ここ最近は人気ブログランキング一位をキープし続けてることが出来ています。今後もみなさんの期待に応えるべく、そして、ランキング一位にふさわしいブログにしていくために、改めて、縄文時代についての追求テーマを設定してみたいと思います。
その新たなテーマは・・・・・
その前に、ポチッ↓とよろしくお願いします。
posted by hi-ro : 09:23 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年06月16日
先史時代の精霊信仰 ~シベリアのマリタ遺跡と縄文~
シベリアのマリタ遺跡は2万3千年前に、マンモスを追ってくらしていた、当時の人たちが暮らしていた遺跡で、その後ここから日本やアメリカ大陸へも渡ったと考えられています。
この遺跡からも地母神像のような、女性の像が発見されています。

「日本人はるかな旅展」より 右は同遺跡の住居(マンモスの骨でできた住居)
↓応援よろしくお願いします。
![]()
続きを読む "先史時代の精霊信仰 ~シベリアのマリタ遺跡と縄文~"
posted by ihiro : 20:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年06月10日
縄文の文化圏:交換物の分布から「文化圏」が見えてくる
以前「縄文時代の集団規模」と「縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった」と言う投稿で「集団の規模や生活、他集団との交流」が一定明らかになりました。
今回は交流の際の「交換物」の資料を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
■交換物と文化圏:交換産物とは、野うさぎなど小型動物の毛皮、漆工芸品、樹皮・繊維製品があるが、今の時代に残っているものは少ない。
またアスファルト、黒曜石、ヒスイ、コハク(八幡一郎『先史時代の交易』1938年)などは比較的残りやすい。
縄文人は陸路・海路(丸木船)これらを持参して、東北、伊豆諸島、沖縄など遠隔地とも交流していた。
(小林達夫「縄文人の世界観」『縄文人の世界』34頁以下)。
多彩な加工食品は、集落間の分業が行われていたことと、加工食品が集落間で交易されていたことを物語っている。石器の材料としての黒耀石やサヌカイトの産地は限られているが、全国各地から出土しているし、各地で出土する土器も、遠隔地で製作されたものが出土するなど、縄文時代を狩猟採集を基盤とする単純な自給自足の封鎖経済と片付けることはできない。
後段で詳細に見ていきたい。
クリックしてから続きをお読みください。
:m118: :m118: :m118:
![]()
続きを読む "縄文の文化圏:交換物の分布から「文化圏」が見えてくる"
posted by mukai : 18:00 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年06月09日
縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった。
以前、「縄文時代の集団規模」と言う投稿で「集団の規模や生活」が一定明らかになりました。
今回は「他集団との交流」がどうであったか?
を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
クリックしてから続きをお読みください。
:m118: :m118: :m118:
![]()
続きを読む "縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった。"
posted by mukai : 16:45 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月17日
土器の文様は共認を表現したのではないか?
縄文土器と言えばその豊富な文様に注目されます。
しかし、その文様の意味は学術的にはいまだ明らかになっていないそうです。
縄文心象のHPを見ていく中で、ふと気が付くものがありました。これだけの土器の複雑な文様は何の為にあったのでしょうか?無文字文化であった縄文人は文様で何かを伝えたかったという事はほぼ間違いないでしょう。
しかし、縄文人の文様は誰が誰に何を伝えたのでしょうか?
縄文時代の文様の意味を考える中で、文様自体が持つ普遍的な必然性についても触れてみたいと思います。
posted by tano : 18:20 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年05月16日
縄文土器に見る雌雄和合の模様
こんばんは :wink: bunchanです。今日は縄文土器の文様から、縄文人の世界観を垣間見てみたいと思います。「縄文心象」よりの引用を紹介します。
雄と雌の和合
地球上の原子がプラスとマイナスで安定しているように、彼らは世界のすべてが雄と雌の霊魂が和合してできていると固く信じていた。この和合を示す『交合文(和合文)』は、対で構成されていることが特徴である。 『交合文』は雄を意味する三角・菱形・十字・矢印と、雌を意味する渦巻・円・二重円から各々1つないし1つ以上が対(ペア)になってつくられる。それらは一見ただの装飾文様のようだが、それは彼らの心の世界『雌雄和合』そのものなのだ。
←←←
そういわれるとそんな気が・・・♂♀記号にもにてますよねっ :m049:
んん~でも♂が三角・菱形・十字・矢印で♀が渦巻・円・二重円なのはどこからきてるの?? :roll:
気になる人はぽちっと押してもらって、続きをどうぞ :m026: :m027: :m028: :m029: :m030:
posted by bunchan : 21:00 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年05月05日
まとめ・・・・お墓の変遷
お墓の歴史のHPを最近我がチーム縄文で扱っています。この際ですから、縄文時代から古墳時代までのお墓の歴史を大つかみで追いかけてみたいと思います。
縄文時代~古墳時代にかけてお墓は大きく以下のように変遷していきます。
posted by tano : 12:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月04日
縄文時代の集落規模
以前、「縄文人の集団規模と共認の関係」で縄文時代の集落が小規模のままで30人以上になることはなかった。とあったが青森の三内丸山では500人から1000人とも言われています。
縄文時代の集団の規模や生活、他集団との交流等もっと知りたくてサイト探索してみました。
少し長くなりますが「縄文文化と現代:縄文村」からの抜粋、要約です。
クリックしてから続きをお読みください。
:m118: :m118: :m118:
![]()
posted by mukai : 12:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年04月29日
古代の墓の変遷~集団統合から、支配・国家統合の為の装置へ
こんにちは、simasanです。
お墓についての話題で盛り上がっていますが、ここでちょっと、古代の墓の変遷について、時代背景と墓の特徴を整理してみました。
以下、一部
「お墓の歴史 縄文時代」
「日本社会システムの起源」 から引用させてもらってます。
知りたいっと思った方は、ポチッとお願いします。
続きを読む "古代の墓の変遷~集団統合から、支配・国家統合の為の装置へ"
posted by simasan : 15:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月25日
縄文人にとってお墓とは何だったのか?
旧石器時代には見ることのなかったお墓。
縄文人にとって、お墓とは何だったのでしょう?
「大湯環状列石」 より
《引用開始》
集団墓としてかなり明瞭な性格を示す環状土離に対し、大湯環状列石はその性格をめぐって論争を引き起こしたことはよく知られているところである。
この配石遺構をめぐる論議の一つは、その機能が共同墓地であるか、或いは“まつり”にかかわる施設であるかという点に集約される。
この調査では約100基の組石の中から任意の14基についてその下部が調査され、その多くから幅1×0.7m、深さ約0.7mほどの比較的小さな小判型をした土坑が検出されたが、それらの土坑からは、人骨や埋葬用の副葬品は発見されなかった。
周辺からの出土した土器から、縄文時代後期につくられた可能性が高くなったが、墓である確証は得られず、それが積極的に墓地説を推進する上でブレーキになったのである。
posted by naoto : 18:00 | コメント (2) | トラックバック (1)
2007年04月24日
屈葬とベンガラについて~その2
前回は、屈葬とベンガラの意味について、胎児の姿勢をまねて再生を願ったとする説を中心にした紹介でしたが、では、実際にどこからベンガラが使用された遺跡が見つかっているのかについて、少し調べてみた内容と、別の説を補足として、エントリーしておきます。

<屈葬:縄文文化の超自然観より>
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/area/ne_asia/Jomon/index
実はあまり全国的には発掘事例は多くはないようなのですが、日本では、北海道から東北部にかけて、また縄文後期から晩期にかけて、ベンガラがまかれた遺跡が発掘されているようです。
その内、代表的なベンガラがまかれた遺跡は、北海道の恵庭市カリンバ跡(縄文時代後期後半(約3500年前))のようです。
posted by yuyu : 23:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月17日
屈葬とベンガラについて
縄文の死の話盛り上がってますね。
特に、naotoさんも紹介されている「屈葬」について、興味わきましたので、調べて見ました。
まずは、るいネットの過去の投稿の中から、調べてみると、屈葬についての紹介がありました。
屈葬の理由は諸説ありますが、いくつかあげると、
1・掘らなければならない墓穴が小さくてすむためという省エネ説
2・胎児の姿勢をまねて再生を願ったとする説
3・休息の姿勢であるという説
4・死霊を恐れた事が原因とする説
(20128 屈葬の意味 三ヶ本万州夫氏 )
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=20128
4つも説があったんですね。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/publish_db/books/dm2000/japanese/02/02-05.html
<屈葬状態の縄文人骨格ー東京大学総合研究博物館>
で、さらにるいネット内過去投稿を調べてみると
縄文時代の屈葬において、田野さんも紹介されているように、遺体の頭から胸部にかけてベンガラを散布する風習があります。人のなきがらに赤い顔料を振りかける風習は、旧石器時代以来、世界の各地で行われているとのこと。 先史時代の人びとは赤い色に何か特別の呪術的な力が秘められていると信じていたのかもしれません。
記事内の「血液の代わり」というのがひっかかったのですが、次のような仮説がありました。「太陽が生まれるとき、死ぬとき、それぞれ「赤」に包まれるからこそ再生されると考えていた。朝焼けと夕焼けの「赤」と、出産時の出血と埋葬のベンガラの「赤」は同じ役割を持っていて、向こうの世界に生まれ変わるための橋、あるいは向こうの世界を開く扉なのである。だから屈葬という、まるで母胎内にいる胎児の形で埋葬するのである」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=20332
(20332 屈葬とベンガラ 三ヶ本万州夫氏)
屈葬とベンガラすごく関係がありそうです。

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/008.html
<ベンガラぬりの「つぼ」二戸市 雨滝(あまたき)遺跡>
posted by yuyu : 00:16 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年04月12日
縄文人にとって死は恐怖ではなく悲しみだった。
最近このブログでは死のお話が花盛りですね! :-)
今回は死生観について追及してみたいと思います。
死は誰だって怖い。古代の人は死の恐怖をどうやって克服していたのでしょう?
上記を考えていて宗教家の木村隆徳氏の面白い論文に出会ったので紹介してみます。(追記に本編を掲載します)
私たちが肉親や親しい人が死んだ時どう思うだろう?哀しいと同時に寂しく感じる感情は誰しも同じであろう。何故悲しく、寂しく感じるかというと死者が共同体から別れるからである。実はこの感情、縄文人の死生観に繋がっているのではないだろうか。
縄文人は共同体の中で暮らしていて、自分と他者が一体となっている。
集団の喜びを自分の喜びと感じ、集団の悲しさを自分の感情に投影させる。縄文人は自らの死を共同体との別れと感じ、周りの感情を慮り悲しいと思ったのではないだろうか?自分の死を悲しいと感じる感性はどのようになっているのだろう?
続きを読む "縄文人にとって死は恐怖ではなく悲しみだった。"
posted by tano : 18:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年04月11日
死者を再起させない縄文人
枌(へぎ)洞穴遺跡は、大分県下毛郡本耶馬渓町大字今行にあり、通称枌洞穴といわれています。
枌洞穴の調査は、昭和49年から57年(1974~82)の間、8次の調査を本耶馬渓町教育委員会において実施されました。
洞穴内の堆積層は自然状態を保ち、6層の生活遺構の層位(生活層の重なり)をなしていたようです。
以下、死者を再起させない縄文人より引用させて頂きます。
>枌洞穴の調査で、もっとも重要であったことは、層ごとに時代の変化を追求することができたことであるが、その興味深いことが埋葬の問題であった。
一般的にみて縄文時代の人は死者を「 屈葬(くっそう) 」して穴に埋める。この屈葬という方法は、手や足を強く折りまげて縛り、再起をさせない方法と考えられているが、なぜだろうか。
縄文時代の人は、悪霊にとりつかれて死ぬと考えていたのかも知れない。
とすれば死者の再起防止には「屈葬」が一番よい。
枌洞穴では64体の人骨がみつかり、そのうちの大部分が埋葬遺構をもっていた。
posted by naoto : 18:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月10日
縄文人は死者を恐れたってホント!?

画像出典: IPA「教育用画像素材集サイト」三内丸山遺跡(縄文時代) ⇒ お墓(子供の墓) ⇒ 子供の墓
【子供の墓】 子供の墓は大人の墓に比べて、その量は圧倒的に多い。子供の墓に埋葬されたのは主に乳児だと考えられる。また、埋葬時の儀礼であったのか、土器の中に、握りこぶし大の丸い石が1~2個含まれているものもある。(写真提供:青森県教育庁文化課)
本日は縄文人は死者に対してどんな風に思っていたのかについてです :m030:
お墓の歴史より
遺跡発掘調査等によると、古代の集落では死者の埋葬地=墓地は集落の一部、あるいはその隣接地が当てられていた事がわかってきた。当初は集落の中央付近に埋葬され、時と共に周辺へと移っていったものと考えられている。
ふむふむ
遺体は埋葬の際に手足を折り曲げて、しゃがんだ姿勢で埋葬する『屈葬』が殆どで、時には胸部から腹部にかけて大きな石を乗せた『抱石葬』で葬られていることもある。遺体を丸く小さく埋葬する事は、小さな穴を掘るための人々の智慧だったのであろう。また、石を抱く形は人が休んでいる時の姿勢、母の胎内にいた時の胎児の姿勢、或いは死者を恐れ死者の霊を恐れた古代の人々が、死者を拘束するためにとった形だとも言われている。古代の人々がいかに死者を恐れていたかという事は、遺体を強く縛り付けたり石を抱かせる等の他に、埋葬した後平らな石を足元から首の辺りまで敷き詰めていたという例、歩き出さないように足の骨だけを拭き取ったという例からも覗うことができる。
んん~、墓地を集落の一部として捉えていたってことは、恐れていたというのとはちょっとちがうのでは・・・?
石を抱かせる埋葬の仕方をしていた理由として、「生き返らないようにしていた」
ということのようですが、「恐れる」ってなんか現代人ぽくて違和感おおありなんですよね~。
死者を恐れていたのだったら住んでいる場所と墓地は別々にしますよね、フツー。
むむー :roll: と調べ物をしていたらるいネット になるほど~ :m051: という投稿が・・・
続きはこれを↓ぽちっと押してから読んでくださいね~ :m023:
posted by bunchan : 22:34 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年04月06日
日本語はもっとも自然に近い発音を持つ言語
日本語がなぜ難しいのか?なぜ日本人は漢字をカナに変えて理解しようとしたのか・・・。
そのヒントを見つけました。耳鼻科医師の角田忠信『日本人の脳』の中に書かれています。
>日本人は音の処理を、西欧人を始め、他の民族とは全く異なる音声処理を行っている。 虫の声・せせらぎ・潮騒(しおざい)・雨音などを、ほとんどの民族が右脳で雑音として処理するものを、日本人は左脳でそれぞれの音や声として処理しているというのだ。 日本語に多い「擬態語・擬音語」は、自然の音や、音を持たない動作などを独特の音として表現するものだが、それは「日本語がもっとも自然に近い発音を持つ言語だからだ」右脳は感性を左脳は理性を支配すると言われている。そして人は、言葉の中で、必要に応じて右脳と左脳を使い分けているのだという。角田が謂う日本人とそれ以外の民族との差異はかくも大きい。
我々の先祖は、古来よりの言語を継続して使い続けてきた。この事実は、逆に弥生の民がいつしか縄文の民に吸収され同化していったことを示している。そして時代に即応して変化を続けながらも、今に至っても他国とは全く異質な、自然に同化した言語を使い続けていることがはっきりしてきた。
角田氏の衝撃的な分析はストンと納得がいく。なぜ縄文人が弥生文化に支配されなかったのかの重要なヒントにもなる。以下、中村忠之先生の縄文ブログで扱っていた全文を紹介します。
posted by tano : 08:15 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年03月28日
縄文言語と日本人の精神性
縄文語ってどんな言葉だったんでしょうか?
司馬遼太郎の随筆の中に母音が中心の言語だったのではないかと書かれています。所謂、あ・い・う・え・お・・・ですね。
母音中心の言語は広く南~東南アジアに共通するようです。
日本語の系譜をわかりやすく書いたものに過去のるいネットの投稿(リンク)があります。
>ところで、縄文語はどのような言葉であったのか。
これまで日本語はいろいろな言葉と比べられてきたが、日本列島周辺の言葉のうち、となりの中国語、韓語・朝鮮語、日本国内のアイヌ語などは日本語とまったく系統的関係がないことが明らかになっている。逆にいえば、これらの言葉はそれぞれが独自の長い歴史を持っていることを意味する。
そして比較研究の結果、現在、日本列島をはさんで北と南に大きく広がるツングース諸語とオーストロネシア諸語が日本語を産みだした最有力候補で、縄文時代中期以降、これらの言葉が日本列島でたがいに接触し、その後、混合することによって現在の日本語の母体を形成したことが分かってきた。
このようにして、日本語の中の単語の多くはオーストロネシア語に、助詞や助動詞という文法要素は大部分をツングース語に負っていることになるが、奈良時代までまだ盛んに用いられていた接頭語はオーストロネシア語の要素を受け継いでいる。
~国立民族学博物館 崎山 理教授の研究を紹介するHPの引用
司馬遼太郎氏は縄文言語と日本人の精神性を以下のように表現しています。 :roll:
その前に応援よろしくお願いします↓
![]()
posted by tano : 00:42 | コメント (8) | トラックバック (0)
2007年02月28日
弥生期の人口増は大量渡来か、それとも稲作化によるものか?
こんにちは、simasannです。
弥生から古墳時代にかけて、下表のように急激に人口が増えていったことは、ご存知の方も多いと思います。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htmより引用
これについては、このブログでも以前tanoさんが投稿している、 「二重構造モデル」を提唱する埴原和郎さんの①「100万人規模の大量の渡来人によるもの」とする説と、
九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授らが提唱する②「少数の渡来人による水稲耕作化と長寿命化によるもの」の2つの説があります。
考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」というように、現在もなお論争が続いています。
それぞれの主張は、そして、どっちがホント?、知りたいと思った方は、ポチッとお願いします。
続きを読む "弥生期の人口増は大量渡来か、それとも稲作化によるものか?"
posted by simasan : 22:53 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年02月06日
「贈り物」の起源?!アカに見る食料分配
![]()
一日平均2~5時間で食料を確保することができ、農耕をしないのか?との質問に「ふんだんにモンゴンゴの実 :m078: があるのに、何でわざわざ作物 :m146: を植えたりしなければいかんのかね」と語ったという狩猟採取民。あとの時間は、歌 :m027: や踊り :m113: など余暇?を過ごしていたりするそうです。
う~ん、うらやましいような。。。
でもでも、それで集団が統合できたの :m052: ってずーっと疑問だった、みつこ :D です。
外圧が低下した狩猟採集民がどのように集団を統合していたか?
その社会システムがわかる研究を見つけましたので、報告しまーす!
山口大学の北西功一氏のHPより「中央アフリカの熱帯雨林に住む狩猟採集民アカ」についての記事から引用させてもらいました。とても詳しくて嬉しくなりました~ :m106:
注目したのは、彼らの「食料分配」。
彼らは獲得した食料を成員に平等に(?)分配しているのですが、、。
さて、いかに?
ぜひ、読んでね :m001: その前に応援もよろしくお願いします :m072:
posted by mituko : 23:36 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年02月03日
土偶は縄文人が観た精霊の姿
みなさん、多彩な表情の土偶に何を感じますか?



(写真は「庁鼻和窯ほーむぺーじ」さんからお借りしました)
こんばんは、くまなです。 :D
土偶は、縄文人が思い描いた「精霊」そのものではないでしょうか。
その豊かな表情を見ていると、そんな感じがしてきませんか?
土偶=精霊だと考えれば、その異様さも多彩さも納得できます⇒参照土偶の写真集(上記写真)、縄文人の表情
土偶の多くは女性(多くは妊婦)を表わしています。
産む性としての女性に精霊との近しさを見出していくのは自然だし、その偉業に集団が感謝し、精霊にも感謝したことは容易に想像できる。成熟した女性のチャネリング能力が精霊との近さを感じさせたこともあるでしょう。
土偶の多くは目はつり上がっています。参考⇒縄文中期の土偶たち
縄文人にとって、精霊(≒自然)は厳しいものでもある。だからこそ祈り、応望する。そして精霊は期待に応えてくれる。だから怒り一辺倒ではない。そのような精霊の存在が、土偶の表情に表れているように思います。
土偶の多くは割られています。割ることを前提に作られているようです。
どうして精霊を‘割って’しまうのでしょうか?
posted by kumana : 17:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年01月30日
縄文人とマムシ
>三角頭で銭形といえばマムシである。この怖い毒蛇を口縁部にわざわざ付けたのは何故だろう?

蛇体把手付深鉢
(写真は遥かなる縄文さんからお借りしました。)
この土器にも、見事なマムシが飾られていますが、縄文の人たちは、マムシをどのように感じていたのでしょう?
なるほどと思える記事があったので紹介したいと思います。
posted by naoto : 21:17 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年01月28日
縄文:黒曜石が贈与品になったのはなぜか?
先日、tanoさんよりご指導受けまして… :cry: 改めて、縄文時代の贈与・交易に関して、一つずつ積上げていけたらと思います :D :m051:
今日は、その品となった「黒曜石」
ただ、どうも縄文時代は交易?とか言われてますが…贈与と交易はだいぶ違いますので…以下の大事な認識を るいネットで確認。
黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②
「贈与」と「掠奪・収奪」と「交易(交換取引)」
ここでは、贈与品として考えたいと思います。

黒曜石って何?実は、縄文の人々にとっては最も必要で貴重な加工具であったのです :m051:
posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年01月27日
縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした
縄文人の海上航海の道具である丸木舟は、現在、150例以上発見されています。 :lol:
三内丸山遺跡では、縄文時代前期から中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡が見つかっています。
特に縄文時代の大集落跡からは膨大な出土物が出ているが、その中でも目を引くのが 巨大なヒスイ の珠だ。 ヒスイは青森では産出されずおよそ500kmも離れた新潟県の糸魚川周辺からはるばる運ばれてきた物だ。 黒曜石 を原料とした石器類も多数出土しているが、黒曜石もはるばる北海道から運ばれてきた。更には岩手県からは、琥珀が運ばれてきている。
また、横須賀市平坂貝塚から出土した無文土器(平坂式土器)と同じタイプの土器が伊豆大島で住居跡とともに大量に発見されたり、横須賀市の久里浜伝福寺裏で見つかった丸木舟は一緒に紀伊半島方面の土器も見つかっています。
これらから縄文人が海を使って広範囲で盛んに交易していたことが分かり、海人として高度な航海技術を身に付け海洋(黒潮)文化を担っていたことがわかります。
縄文人が船で沖へ乗り出し、漁を行っていた証拠も三内丸山から見つかっている。なんと1メートルもある真鯛の骨で、縄文人が沿岸ばかりでなく遥か沖合まで出向いて漁を行っていた事の証だ。もっと広範な交易活動は現在幾つかの説が発表されています。
「縄文人の大航海」 を参照して下さい。
このような広範な活動を支えた「縄文の海洋技術」はどのようなものなのでしょうか。
ランキングに参加しています。続きを読んで頂く前にクリックをお願いします。
posted by mukai : 18:05 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年01月26日
縄文の祭り ~地域性と集団形態による差異~
自然の中に生き、その恵みと厳しさの双方を知っていた縄文世界の人々にとって、村の安泰と子孫の繁栄は、自分たちの人智を超えた、切実な願望であったに違いない。彼らは、彼らを取り巻く自然界のあらゆるものに“いのち”を感じ、あるときは収穫の恵みに感謝の念を捧げ、またあるときは不順な天候の好転を願って、あらゆる場面で素朴な祈りを捧げた。このような自然崇拝は、先史時代の諸民族に普遍的な原始宗教のかたちだが、縄文人は年々の季節の移り変わりに、いのちそのものの“よみがえり”を感じ中期段階には家族共同体レベルの直接的な“まつり”と、集落共同体レベルの“祭祀” が、次第に分化していく。(http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j33maturinochi1.html)
縄文の“まつり”がどのように変化していったのか ??各時代の代表的な出土品、地域性を比較することで見えてくるものがありそうです。
クリックを押して続きをどーぞ ↓↓
posted by dai1028 : 18:56 | コメント (4) | トラックバック (0)
船泊縄文人の海上ネットワークは交易か?
こんにちは。
北海道は礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡って知ってますか?
日本最北端の縄文後期の遺跡です(3800~3500年前)。
場所はココ↓

写真は「日本人はるかな旅展」よりお借りしました。
その船泊遺跡では、イモガイ、タカラガイ、マクラガイといった九州や沖縄のように暖かい海の貝で作られた装飾品が出土しています。他にも、新潟県の糸魚川産のヒスイのペンダントなども発見されています。
写真は↓↓ キレイですね :m030: (上がマクラガイ、下がヒスイですヨ。)


さらに、礼文島といえば周りは海。海といえば魚。彼らは魚を捕まえるための銛と、その先端につける矢じりの接着に、天然のアスファルトを使っていたようです。天然アスファルトの産地は限られており、秋田や新潟などの国内産ではなく、さらに北方のサハリン産である可能性が高いようです。
写真はコチラ↓


船泊遺跡の人たちが船に乗って南方や新潟やサハリンへと渡ったのでしょうか? それとも南方や新潟やサハリンの人たちが渉ってきたのでしょうか?(当時サハリンにも人が住んでた???)
いずれにしても、かなり広範囲の交流があったのは間違いないですね。
posted by nishipa : 12:30 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年01月16日
叉状研歯(しゃじょうけんし)って!?

東京大学コレクションII 哺乳類-人類- よりお借りした写真です↑
前歯のところを見てください。
この前歯のぎざぎざは、叉状研歯(しゃじょうけんし)っていうのです。
わざわざ健康な歯を削ってこのようにしているんです :m251: すっごいきれいな模様といえなくもないのですが、これって隠れたお洒落 :m034: だったのでしょうか??
続きを読む前にクリックお願いします :m021: :m023:
posted by bunchan : 21:48 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年01月12日
縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?
今晩は、さーねです。今日は縄文です :wink:
まずは、改めて、縄文で追究していく課題を確認 :P
tanoさんのこの課題整理で♪非常にわかりやすい!再度、抜けている部分や真相を明らかにしていきましょう!ということで、まだ追究されていない縄文時代の贈与・交易について調べてみました。
やはり、人口が最も増加しながらも、寒冷化という外圧に直面した縄文中期以降に発達したのではないでしょうか?
寒冷化という外圧に再度直面し、みんなが生き延びるためには?⇒他の集団の良いところを取り入れよう!という意識になったのではないでしょうか :m050:

出土したヒスイ⇒祭りのための装飾品 :m052: 精霊が宿るお守り :m052:
以上のような仮説を立てながら、関係する史実を追ってみました。考古学や人類学上の資料も、やはり人々の意識と合わせて考えるとより生きてきますねー :o
続きを読む "縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?"
posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年01月09日
縄文人に学ぶ現代人
初投稿~(実は違いますが・・・)
○といいます。今後ともよろしくです :lol:
さて、タイトルにあります通り今回は「縄文人に学ぶ」というお話を :m039:
「縄文人に何を学ぶのさっ!!」と思ったそこのアナタ。はい、続きを読みましょう。
posted by maru : 21:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年12月08日
縄文時代の「よくわからない石器」~争いに触れてしまった縄文人の意識
るいネットの投稿「土偶に見る収束不全」
は、縄文後期の意識状況に近いんじゃないかな?と感じさせるものであると思います。その中で、以下の部分が僕としてはすごーく気になったところです :confused:
>弥生に突入する直前、BC1000年頃土偶が急激に増えています。土器もさまざまな複雑な表現が加えられます。その時代朝鮮半島から弥生人が入りだし併せて農業が始まった事と重なります。その後弥生時代を迎える九州地方は突然土器の様式が無紋という形に変化し土偶は完全に姿を消します。
BC1000年頃=約3000年前は、ちょうど縄文時代後期に当りますが、この時期になんのために作ったのか?「よくわからない石器」が増えているのです。
一体この時期に何が起きたのでしょうか :m050:
:m118: :m118: ポチっとクリックしてくださーい :m118: :m118:
byさーね
続きを読む "縄文時代の「よくわからない石器」~争いに触れてしまった縄文人の意識"
posted by sawatan : 12:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2006年11月27日
大型竪穴住居 5000年前の北海道森町に!
はじめまして。縄文ファンのオカです。
以前、るいネットの投稿「縄文時代の同類緊張圧力」(by細田氏)に、青森三内丸山に匹敵する北海道函館の縄文巨大遺跡サイベ沢遺跡の紹介がありましたが、2004年にそのすぐ北の森町で大型竪穴住居が発掘されています。

↑写真は三内丸山遺跡のものです。
『大型竪穴住居 5000年前の北海道 大人80人が車座に』2004年12月19日毎日新聞より
北海道森町の「森川3遺跡」で縄文時代前期末(約5000年前)の土ぶき屋根の竪穴式住居跡が見つかった。大人80人が車座になれる大きさで、保存状態も極めて良い。北海道埋蔵文化財センターが02年度から発掘調査していた。
最大の住居跡は長軸13メートル、短軸11メートルのだ円形で床面積約130平方メートル。壁の周辺に主柱の穴が8カ所、中心部に大黒柱を立てたとみられる穴が2カ所あった。住居跡の床面は、厚さ20~80センチの黄色いローム層の粘土で覆われていた。粘土は縦穴を掘るときに出たもので、そのまま屋根として利用したとみられる。建物が放棄された後、崩落、覆いかぶさったらしい。
道埋蔵文化財センター第2調査部の熊谷仁志第3調査課長は「粘土はきめが細かく、水を浸透させないので虫害もない。夏はかやぶきよりも涼しく、冬は暖かい住居だったと考えられる」と話している。(以上、記事)
「円筒土器と石刃鏃①」(by細田氏)の投稿にあるように、森町の森川3遺跡は、サイベ沢遺跡を拠点集落とする衛星集落だったのであろうか(その場合は三内丸山と緊張状態にある)、それともサイベ沢遺跡、森川3遺跡とも三内丸山の衛星集落なのであろうか?
土器型式では、東北地方、北海道南端の渡島半島とも、縄文時代前期は円筒下層式、中期は円筒上層式と共通の文化圏である。
サイベ沢遺跡の詳細を調べれば見えてくるように思います。
サイベ沢遺跡調べたくなりました? 8)
posted by staff : 23:50 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年11月26日
アイヌに関して~故萱野氏を偲んで
こんばんわ。tanoです。今日はアイヌネタで一つ投稿します。
2年前の週間朝日のシリーズコラム(夫婦の情景)でアイヌの血を引く現在アイヌ民族学者の萱野 茂(78歳)とその奥さんのれい子さん(73歳)のインタビューを通したアイヌ文化が紹介されました。その中からいくつか読み取れた現在のアイヌについて紹介します。

>萱野氏はアイヌ唯一の元参議院議員。出身である苫小牧東部に位置する平取町二風谷は、アイヌコタン(集落)が今でも点在する。平取町6千人のうちアイヌの血を引く人は2千人。萱野氏は二風谷アイヌ資料館館長を勤めておられる。
アイヌ文化には文字がない。アイヌ社会でアイヌに精通する人はすでに少なくなっているが、茂さんの父親はアイヌ語を知り尽くしていた。茂るさんが幼い頃囲炉裏端で毎晩のようにアイヌ語で昔話を語ってくれた祖母かってさんは、1945年に95歳で亡くなるまで、ついに日本語を話さなかった。
茂さんは畑で収入が上がらず木の彫り物をして収入を得ていく。その傍ら、民話も残したいと思い1960年、テープレコーダーの購入とともに様々なアイヌの口承文化を録音していった。彫刻でお金を得てそれでテープを購入、そのくりかえしだったそうだ。その時間は800時間にものぼり、うち翻訳が済んだのがまだ40時間分。78歳の現在、仕事はまだまだ残っているという。
posted by staff : 01:53 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年11月08日
縄文人の集団規模と共認の関係
ちょっと前に、「縄文集団が小規模なのはなんで?」 :roll: :m052: というみつこさんからの投稿がありましたが、ワタクシ、ぴんぐ~も調べて見ました。
縄文時代の集団規模が単位集団(核家族数単位分)であった理由 :m027: :m028: :m029:
ポチっと押してから次へ進んでね~ :P :m042:
:m118: :m118: :m118:
posted by postgre : 17:34 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年10月25日
人口減少に憂う縄文人
縄文時代の人口は気候変動などの要因もあり、中期に最盛期を迎え以後減少してゆきます。
縄文草創期 1万2千年~1万年前 人口不明
・縄文時代の基礎構築時代
縄文早期 1万年~6千年前 約2万人
・南九州で縄文文化が開花
縄文前期 6千年~5千年前 約10万5千人
・文化の中心が東日本に移る
縄文中期 5千年~4千年前 約26万1千人
・人口が最高となる・縄文文化の最盛期
縄文後期 4千年~3千年前 約16万人
・気候の寒冷化・人口激減
縄文晩期 3千年~2千5百年前 約7万6千人
・出生率の低下・渡来人の帰化始まる
縄文人は人口減少危機に対応するため祭りや文化を発達させていったようです。
土偶は、魔よけや動植物の繁殖、子孫の繁栄を願って製作されました。しかし、縄文中期には全国に26万人いた人口が、後期から晩期には7万5千人にまで急減したと推定されています。藤田富士夫氏は、縄文人がこの事態を新しい祭式を導入することによって乗り切ったと推測しています(「生と死の姉妹土偶」富山新聞2003年6月10日)。これまでの土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。真脇遺跡(石川県能登町)からは天狗のように目をつり上げて怒りをあらわにしている土製仮面(縄文後期)が出土しました。顔を仮面で覆い、呪術者が精霊に化身したと推定されています。
この仮面祭祀が盛んに行われるようになることで、それまでの土偶の姿にも変化がおこりました。仮面を装着した土偶を製作することで、より一層の呪力や効果を期待しました。
土偶が大型化し、独鈷石や石刀、石剣などの祭祀・呪術的な遺物が増え、桜町遺跡(小矢部市)のように祭礼の場とみられるウッドサークル(縄文晩期)が造られるなど後期~晩期は縄文時代の精神文化が色濃く表れてきます。
長岡八町遺跡から出土した土偶は、わざとこわされ、谷に捨てられていました。こわして谷に捨てることによって、新たな命の誕生を願うまつりごとを行っていたと考えられます。2点もの大型土偶が用いられた背景には、縄文時代の長岡八町ムラが周辺地域の村々の人々が集まり、祭祀が行われていた拠点的な集落となっていたと推定されます。当時の人々のよりどころとなっていたのでしょうか。
posted by tiwawa : 23:47 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年10月24日
縄文集団が小規模なのはなんで?
こんばんは~、谷光です。 :D
しばらくインダス文明が続きましたが、縄文も追究続けます :tikara:
と、言っても、、、 あぁぁ :m081:
今日はみんなで鷲田豊明氏の『日本社会システムの起源』を読んだのですが、なかなか理解できず・・・。そこでみなさんに質問 :m049: してみようと思います。
どれどれ、答えてやろう :P と思ってくれた方は、ポチっとお願いします :m027:
:m118: :m118: :m118:
![]()
posted by mituko : 23:44 | コメント (3) | トラックバック (0)

