2008年11月18日
縄文の衣服

今回は、世界学問研究所の公式HPから衣服について引用したいと思います。
posted by dai1028 : 12:06 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年11月04日
縄文時代の食物

今日は縄文時代の食文化について、世界学問研究所の公式HPから引用したいと思います。
posted by dai1028 : 17:40 | コメント (4) | トラックバック (0)
2008年05月30日
縄文:祭りが生産活動=食の確保を確実にした!
先日投稿しました縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!のtanoさんからのコメント
>祭りって見るもの、楽しむものという解脱というイメージがありましたが、本来は生産なんですね。
実は、祭りそのものが生産活動=食の確保を確実にした?そんなネタがありました。
今日も先日と同じNPO法人国際縄文学協会のカミの発生と縄文時代(萩原秀三郎先生)の論文を参考に投稿したいと思います :tikara:

秋田県大湯遺跡の日時計状組石
:m059: byさーね :m059:
:m118: 今日も応援よろしくです :m051: :m118:
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posted by sawatan : 19:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年03月06日
日本の長寿の源流は、縄文人にある?!
縄文のネタをネットで探していて、とても面白いブログを見つけました :o
その中でも、このネタはなかなか縄文人ってすごいなと思わせる仮説です。
日本が男女とも“世界一の長寿国”である記録は、今年も継続されている。
先日発表された日本人の平均寿命は、男性が79歳・女性がほぼ86歳と男女とも世界一の長寿王国が続いている。現代医薬や医療機器の恩恵を欧米諸国ほど受けていない日本、又今日の環境汚染問題は先進国として恥ずべき社会問題化して久しい。社会環境的・物理的・医療的に日本人長寿の原因は見当たらない。
そこで日本人長寿の根源は、縄文人に遡るという仮説を立ててみたい。
根拠もしっかりあり、とても面白い仮説です。縄文人…自然の摂理にに学ぶべきっ!と改めて感じました :o
byさーね
posted by sawatan : 21:25 | コメント (4) | トラックバック (0)
2008年01月09日
土器の起源を探る
縄文時代を勉強していく中で、土器の起源について興味がわいてきたので、少し調べて見ました。
土器の起源については、新たに古いものが発見されるたびに、更新されていく状況にあるようですが、現在、世界最古の土器と言われているのは、中国で発掘されたもののようだ。
>中国における土器の起源については、暦年代2万~1万8000年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼりうるものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大龍潭遺跡では暦年代2万年前にまでさかのぼる土器が、さらに江西省万年県仙人洞遺跡・吊桶環遺跡、湖南省道県玉蟾岩遺跡(写真1)からは暦年代1万8000~1万7000年前にさかのぼる土器(写真2)が発見されている。世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前に誕生していたとみなしてよいであろう。
http://www.jiid.or.jp/files/04public/02ardec/ardec29/key_note3.htm

<玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器>
>一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前にさかのぼる土器が発見されている。
さらに、日本国内に目を移すと、先の青森県大平山元遺跡(16500年前)の他、福井洞窟(吉井町)の隆線文土器や佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡(12000~13000年前)の豆粒文土器が発見されている。
http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/054.html
このように、南方の中国と北方のシベリアから土器が発見されていることと、日本国内においても、九州や青森といった南と北から土器が発見されており、土器の使用初期段階とは言え、結構広範囲にわたって分布していることが分かる。
寒い気候でもあった北方からも土器が発見されているが、まだ氷河期終盤の時代でもあり、寒い時代に使用された土器は、一体どのような使い方をされていたのだろうか。
応援の方もよろしくです↓
posted by yuyu : 23:51 | コメント (1) | トラックバック (1)
2007年12月18日
山菜と日本人
こんばんは~ :m017: みつこ :D です。
さて、早速ですが、、、みなさん :m001:
これ :m118: なんだかわかりますか~?

はい、そのとおり、”つくし”です :nihi:
今日は日本の野菜の元祖?! :m146: 山菜 :m147: について調べてみましたので、報告しまーす!
ところでみなさん、山菜っていくつ名前を挙げられますか?
みつこは、つくし、ぜんまい、みつば、ふきのとう、、、これくらいしか知りませんでした :m081:
山菜っていろーんな種類があるんですよ!今だって里山には生えてたりします :m072:
さて、クイズ。次の写真の山菜はなんでしょう~???

答えは、ポチっと応援の後で :m103:
ありがとうございます :m022:
posted by mituko : 23:27 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年12月05日
マリタ遺跡より極寒地での古代人の暮らしを垣間見る
こんばんは。
前回のエントリー以降、縄文人はじめ、古代人の人々の暮らしやその生活技術等に興味があって、ちょくちょくネット上を探索しているのですが、今回は縄文人のルーツと言われている、シベリアの旧石器人について、その暮らし等を紹介していきたいと思います。
以前、このブログでも、SimasanさんやHiroshiさんのエントリーによって、紹介されていますが、シベリアの旧石器人を参考にする上で、必ず紹介されるのが、マリタ遺跡です。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000242.html
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/11/000386.html#more
今回は、主に、この遺跡を通じてシベリアでの古代人の生活ぶりを紹介させていただきます。
まず、マリタ遺跡は、何時ごろ、がどんなところにあったのか。
>今からおよそ2万5000年前、現在より平均気温が7~8度も低かった最終氷期に、人類は、シベリアに通年使用する「定住」的なムラを築き始めました。シベリアの古都イルクーツク市の北西80kmに世界的に有名なマリタ遺跡があります。2万3000年前のマンモスハンターの遺跡です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/2/2-06.html
2万5000年前なんでんすね。シベリアというだけで寒そうですが、現在よりも平均気温が7~8度も低かったので、相当寒かったのではないかと思います。
ちなみに現在の、現在のイルクーツクの気温は、
>夏期の平均気温は15~20度程度。冬期は-25度前後と大陸性の気候。冬の積雪はそれほど多くはないが、夏は雨も多い。冬は-30度を下回る日も多いので防寒には注意が必要。
http://www.pref.niigata.jp/seisaku/kokusai/yuko/ru_iru/index.html
確かに冬は極寒といってもよさそうですが、実は、シベリアといっても、夏場は、私たちが想像しているよりは、暖かかったようです。
>「大陸性の気候のシベリアは、冬はものすごい寒さですが、夏は実に暖かいのです。今でも内陸の盆地では+40度近くまで気温が上がることがよくあります。氷河期もそれは同じでした。夏は気温が上がり、緑の草木に覆われました。動物の成長に適した豊かな環境だったのです」 実際、氷河期のシベリアには、こうした豊かな環境を示す「オープン・ウッドランド」と呼ばれる地域が、幅広い帯びのように東西に連なっていた。「開けた森」。疎林の間に草原が広がるアフリカのサバンナのような場所だったと考えられている。(「北限の古代史―1」「原人のフロンティア・極寒の地へ進出」)http://kodaisi.gozaru.jp/kitanokodaisiB/kitanokodaisi/manmosunoato/manmosu.html
とはいえ、冬場は、とてつもなく、寒いところに暮らしていたことにはかわりありません。
では、その冬の寒さをしのぐ為に、どのような工夫をしていたのか。
↓よかったら、ポチット押してから、続きをご覧、願います。↓
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posted by yuyu : 20:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年11月20日
釣針の歴史から縄文人の工夫思考を垣間見る
こんばんは。最近、縄文人が使っていた、道具に興味があって、ちょこちょこ本やHP等を見たりしていますが、少し整理を兼ねてエントリーしてみたいと思います。
参考にさせていただいている「縄文の生態史観」(西田正規氏著)によれば、道具類の大きな分類は、縄文人の生活用途に応じて下記のように分類できます。
○漁労、狩猟、採取用具
○調理食用具
○住用具
○加工用具
○着用具
○呪術、葬送用具
○施設、その他
その中で、生きていくうえで、もっとも重要な、食料を獲得するための漁労、狩猟、採取用具
に関する道具を上げてみます。
・弓矢
・ワナ
・槍(やり)
・鹿笛
・漁網
・ヤナ
・ウケ
・モリ
・ヤス
・釣針
・握り棒
・打製石斧
・鹿角斧
・運搬具
・船
現代人が思いつく以上に、多様な種類の道具を駆使して、獲物の獲得を行っていたことが伺えます。
その中でも特に今回は、現代人にもっともなじみのある道具の一つである、釣り(釣針)を取り上げて、もう少し縄文人にせまって見たいと思います。
↓応援よろしくです!
posted by yuyu : 20:57 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年11月07日
縄文時代の野菜って?
こんばんは~ :m017: 。みつこです :D 。

みなさん、野菜 :m270: 食べてますか?
なかなか外食、コンビニ食が多い人は十分に取れているとはいいがたい、、、ですよね。
ところで、縄文人ってどんな野菜を食べてたのかな~?
栗、どんぐり、、などの木の実は当然として、葉っぱものってあったのかなぁ?
そんな疑問が沸いたので、調べてみました~☆
応援のあと、読んでくださいね :m021:
ありがとうございます :m022:
posted by mituko : 22:26 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年10月12日
『日本人』と『大麻』の関係
今日は『日本人』と『大麻』の関係について紹介します。

【↑これが大麻の葉です】
『大麻』と言えば現在の日本では「大麻取締法」なんてものもあって、(免許がな限り)所持することも栽培することもできず、もし所持及び栽培していることが見つかれば、殺人罪に匹敵するような重い罰を与えられるので、ある意味非常に危険な物質(植物)と思っている方も多くいらっしゃるのでないでしょうか? :m252:
でもです。日本において<strong>『大麻』はかなり古くから人々の日常生活に密接に関わっている非常に重要な植物だったんですよ! :shock:
“かなり古く”っていつからって?
それは縄文時代からなんです!
今日はそのあたりがわかり易くまとめてくれるサイトがありましたのでご紹介します。(当ブログでは部分的な紹介に留めますので、より興味のある方は是非 【麻も実食品】を訪れてください。
posted by mrran : 19:02 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年09月15日
縄文:鹿を狩る縄文人の意識とは?
今晩は、さーねです :o 今まで食料といえば、堅果類や穀物などが注目されてきましたが、今日のるいネットサロンで、動物にも注目してみよう!ということになり、今日は鹿を調べてみました :D

写真はエゾシカ :m051: すごい角…こんなのを捕まえるって… :shock:
:m118: 応援よろしくお願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : 13:30 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年09月08日
竪穴式住居
:m013: 竪穴式住居 :m013: ってどんなもの :m052: :m052:
縄文時代から平安時代初期までの住まいであった、「竪穴式住居」はどんなものかを調べました。いろんな効果、工夫があることがわかります。


「千葉市の貝塚」というブログで紹介されていましたのでまとめました。
1.<竪穴式住居のかたち> 深さ数十cm~1m、直径 5~20㎡の円形の穴を掘り、円錐形の屋根を作った家です。縄文人は円形の住居が好きだったようです。5000~10000年前には、方形の住居がありましたが、4000~5000年前にはほとんどが円形になりました。3000年前には方形の住居がまた作られました。
2.<保温機能>穴が深いほど、土の温度は一定(17~18℃)になります。北海道の竪穴式住居には、2mの深さのものがあります(北海道南茅部町大船C遺跡、函館空港遺跡など)。深さ2mのものだったら、竪穴式という言葉がはっきり当てはまると思います。竪穴式住居は貯蔵庫としていい機能を持っています。”竪穴式住居”に深さ1mの穴を掘り、土器を埋めれば、食料を地表から2mの深さの恒温倉庫に保存できます (今から40年前、冷蔵庫が普及する前、台所の床下の穴に、梅酒や醤油や食料品の一部を保存していました;今は床下貯蔵庫という、単なる収納スペースを確保しているものはあります)。
深さ1mの地面は、それなりの恒温状態です。深さ1mの地面は、冬はぬくもりがあり、夏は涼しさがあります。竪穴式住居は、縄文人が自然の冷暖房を利用するために、地面を掘り下げたのではないでしょうか。
3.<家の排気システム>がどうかによって、その家が過ごしやすいか否かが変わります。遺跡に復元されている家を見ると、屋根の構造がこんな簡単でよいかと考えさせられます。初期の竪穴式住居には炉跡はありませんでした。縄文人は、毎日バーベキューをしていました。しかし、約5000年前には炉を住居の中に入れ、煮炊きをするようになりました。炉を家の中に入れると、室温だけでなく、排煙の問題があります。縄文人は、排気システム、涼暖房システムを考えたはずです。
隙間風が入るため、排煙効率は良く、排煙に問題はなかった、煙による薫蒸があり、屋根のカヤは腐りにくくなっていたなどの話もあります。縄文時代の住居は中二階方式で、中二階に寝たと言う説がありますが、中二階はどう考えても夏暑く、冬寒い所です。物置や煙による防虫効果しか期待できないので、貯蔵庫だったかもしれません。
4.<防水機能>竪穴式住居は、屋根や壁が地面に接する場所に盛土をしています。雨水が家に流れ込むことを防いでいます。竪穴式住居の入り口は盛土部分を一段か二段上がり、穴部分の階段を数段下がる構造になっています。
5.<出入り口>一般的に、竪穴式住居の出入り口は南向きが多いと思っていました。しかし、加曾利貝塚の住居跡の出入り口は、様々な方向を向いています。出入り口が南にあると、冬に陽光が差し込み、暖かになります。夏はひさしがあれば、太陽の高度が高いため、灼熱が直接差し込むことはありません。南向きは合理的なのですが、実際は、集落の中の”道”に向って出入り口を作っていたと考えられます。みんなとの交流を優先したということですね。ツマ付き住居であれば、排煙や夏場の温度上昇の問題を解決できます。北海道栄浜遺跡で発見された家形石製品のように、入母屋風の上屋を示す例もあります。
posted by norio : 20:35 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月24日
琉球の交流の歴史~概要編
少し前、etoさんも取り上げられていましたが、本土とは違った歴史を歩んできた琉球について、なかなか面白そうなので、少しだけ紹介してみようと思います。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000234.html
琉球というと、古琉球という時代区分に当たる、琉球王国の時代に象徴されるように、中国(明)との朝貢貿易を主軸に、北は日本、朝鮮から、南はシャム・マラッカ・ルソンなど東南アジアの港史国家との中継交易を盛んにおこなっていたことが思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/jyankkoekitoriyukyu.htm
このように、地理的には、199余りの島々から構成される琉球弧とよばれる地域には、連なる島々を行き交うように、琉球王国以前からも、周辺地域との交流の歴史があったようです。

<琉球弧の島々>
簡単に、時代を遡る形で、その痕跡の歴史を振り返ってみたいと思います。
ぽちっとしてください。
posted by yuyu : 01:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月23日
旧石器時代に使われた磨製!?石斧
こんばんは :m017: bunchanです :m034: 今日は石器のお話です。 :m146:
旧石器時代には打製石器 http://db.gakken.co.jp/jiten/ta/303850.htm
新石器時代には磨製石器 http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/219320.htm
石器を磨くようになったのは単純に新石器時代からなんだ~ :m030: と理解していました。そして旧石器時代と新石器時代の分かれ目は12000年前です。http://ao.jpn.org/kuroshio/widechrno.htm
と こ ろ が です・・・
1968~70年頃から東京・武蔵野台地を中心に、旧石器時代遺跡の大規模発掘が頻発し、1973年(昭和48)栗原遺跡で刃部を研磨した立派な磨製の斧形石器が発掘された。出土層準は立川ローム第X層中であった。同じ頃、千葉・三里塚55地点遺跡でも同層準から磨製例が出土し注目された。この厚く堆積した関東ローム層準から、確かな年代的裏付けをもって発見された「磨製石器(斧)」の登場で、旧石器時代に磨製石器が存在する事実は疑う余地がなくなってしまったのである。
日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3~4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。

旧石器時代の磨製石斧(小田静夫)より参照・引用させていただきました。
なぜ石斧は磨かれたのでしょうか? :roll:
posted by bunchan : 23:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月17日
縄文時代“塩”はどこからどうやって採取してたのか?
いやー、ここ数日ホントに暑いですね~。北海道では建物の(防災機器)熱感知器が数百件も誤作動したそうですね。また15日には群馬県の館林で40℃を超えたとか・・・。全国では毎日数百件も熱中症で病院に運び込まれている患者がいるそうです!みなさんも熱中症にはくれぐれも気をつけてください。

ちなみに・・・、熱中症対策としては“失った水と塩分を取り戻す”ことが重要ですよ。
汗は体から熱を奪い、体温が上昇しすぎるのを防いでくれます。しかし、失われた水分を補わないと脱水状態になり、体温調節能力や運動能力が低下してしまいます。暑いときにはこまめに水分を補給しましょうね。また、汗からは水と同時に塩分も失われてしまいます。塩分が不足すると熱疲労からの回復が遅れますから水分と同時に塩分の補給が必要ですよ!覚えておいてくださいね!!
と、前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入りましょうか・・・。
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posted by mrran : 17:53 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月13日
縄文時代に栽培!?
前回の記事で、 縄文時代は「木の文化」 を書きましたが、それにHiroshiさんがコメントしてくださいました。アリガトー :blush:
木といえば、縄文人は大規模な栗林を栽培していたらしいですね。他にもいろいろ栽培していたらしいですよね。 どなたかか記事にしてくれるかな~。
縄文人が栽培 :shock: :m049:
栗とか猪とか魚や貝などなど食べてて、けっこうグルメだったのは以前記事で書きましたが・・・・・栽培ですか :m050:
早速調べてみますっ :m071:

posted by pingu : 13:15 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月11日
東北の縄文文化から学ぶ
このところ当ブログでは、 【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?や、東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化など、東北地方を基盤に発展した都や、豊かな森と食糧資源に支えられた縄文時代の東北地方がクローズアップされていますね!
tanoさんが日本人の基層には西の文化がある!で触れていますが、弥生以降の稲作文化が浸透するまでは、実は、縄文文化は東北地方を中心に発展したのではないかと思うほど、そこから我々が学ぶべきものはたくさんある、ということが分かってきました!
東北地方の縄文文化について、かなり詳しく紹介しているサイトがありました。以下、 「研究調査報告書「縄文文化と東北地方」―東北の基礎文化を求めて」より引用です。
>東北地方の人々の心の中に現在も息づく自然との共生、生活文化習慣などは、気づく気づかないに関わらず、独自のものとして歴史の中でゆっくりと形成され、今日も人々の心の中に潤いを与えている、地域性の最たるものであると言えよう。そして、それを形成したのは、現在の経済システムを形作ってきた稲作農耕文化とは異なる狩猟採集を生業とした縄文時代という歴史なのである。そして、現在のシステムが綻びを見せ、新たな社会システムが模索されはじめている今日、このような歴史を持つ東北地方は、新たな価値観による・新たな社会の旗手となる可能性を秘めていると言えよう。
posted by simasan : 18:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月08日
縄文時代の図鑑?

縄文時代の遺跡から見つかったこれは何? 画像は「こまきのいせきものがたり」http://www.komakino.jp/index.htmlからお借りしました。
こんばんは :m030: bunchanです :m034:
今日は縄文時代の遺跡からの出土品の中からみつかった土製品をとりあげてみたいと思います。
「こまきのいせきものがたり」より「縄文時代のきのこについて」工 藤 伸 一 (日本菌学会会員)からの要約・引用をご紹介します。
東北地方および北海道の縄文時代の遺跡からの出土品の中に、円盤形の裏面につまみ状の突起が付いいるものが発見されています。
さてこれは一体何でしょう?
:m281: スタンプ説
:m282: 表面が平滑なことから縄文クッキーを平面に仕上げるための用具説、
:m283: 柄の部分はつまみで傘の部分は蓋!土器の蓋説、
:m281: 土器を作成するに当たって土器の内側を滑らかに仕上げるための用具説
などなど、さまざまな説があり、用途については考古学的には一致していません。
「きのこ形土製品」と言われるものの出土例は報告書等によると、1999年現在、青森県で13遺跡58点、秋田県で10遺跡60点、岩手県で19遺跡51点、山形県で1遺跡2点、福島県で13遺跡24点、北海道で4遺跡4点で、合計60遺跡から199点が出土していますが、その形態は様々です。(中略) これらの「きのこ形土製品」を注意深く観察しますと、ある特定の「種」を意識して模倣したと考えられるものと、単に「きのこ」の一般的な形状を模倣しただけと考えられるものの二つのタイプがあることがわかります。前者は、そのつくりがとても丁寧であり、ひだや管孔の表現はないものの形状も極めてリアルです。また、後者は、そのつくりが一般に粗雑であり、「きのこ」であろうと推定できる程度です。この後者の存在が、今まで「きのこ形土製品」を「スタンプ」や「土器の蓋」などと混同させてきた原因と思われます。これら両者の時代背景は不詳であり、また、両者がすべて明確に区分できるものではありませんが、典型的な両者を区分して比較研究することは、これらの用途および変遷などを探るうえで重要なことと考えられます。
でも・・・きのこを形どった土製品は何に使われていたのでしょう??
ぽちっ :m023: と押して、続きにいってみましょう~ :m149: ・・・ :m149:・・・ :m149:
posted by bunchan : 23:27 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月25日
森が育んだ日本の漁撈
つい先日起こった、新潟中越沖地震は、その直前に近くで起こった輪島沖・中越地震に続き、またかと思いましたね :x
日本は太古から地震や台風などの災害が人々の生活を脅かしてきましたが、このように災害が多い日本の地理や地形だからこそ、世界に類をみないほど日本は豊かな資源に恵まれた国である、ということが縄文を勉強する中からだんだん分かってきました。

当ブログの記事でbunchanが「東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化」
で
>堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリなど)の採集。トナカイ、熊、鹿、海獣の狩猟。そして、川にのぼって来るサケ・マスの漁撈。これらの狩猟・採集文化により、一定の人口までは充分に生活出来たのである。日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で発展した。事実、縄文時代の遺跡群は圧倒的に東北日本に集中している。
森が育んだ豊かな縄文文化の様子を紹介しています。これまで木の実などの森の植物性の食料の豊かさは盛んに言われてきましたが、海の食料は貝塚に代表されるように貝類しか注目されてきまんでした。しかし、既に縄文時代から日本は世界一の漁撈生産が行なわれてきた ことが最近知られるようになってきてます。(単位容積当たりの魚類の生息量では、瀬戸内海は地中海のなんと25倍らしい)
posted by simasan : 20:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月24日
日本人の基層には西の文化がある!
こんばんわ。tanoです。久しぶりに投稿します。
今日はこの間からここに度々登場している照葉樹林文化についてです。
縄文時代といえば三内丸山遺跡や東北、中部地方に多くの人口が分布したことからナラ林の落葉樹文化が中心と論じられていますが、弥生以降の農耕文明を作り出し、現在の日本人の基層になったのは縄文時代に培った照葉樹林文化の中にあると言われています。
「縄文文化と日本人」という本の中で佐々木高明氏が詳しく書いています。
この本の中では容易にサケ等の海洋資源やクリ、トチなど容易にそのまま食べられる食料が手に入るナラ林文化とかなり工夫をしなければ食料として得られない照葉樹文化の2つが同時並行的に縄文時代に存在していたことが書かれています。

その書籍の中から今回は照葉樹林文化の特徴と発展、その後の日本に至る流れを紹介したいと思います。私がとても感銘を受けた部分です。
posted by tano : 20:44 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年07月22日
縄文時代は「木の文化」
縄文時代といえばもちろん :m034: 土器 :m034: というイメージですが・・・
縄文時代は :m221: 木 :m221: の文化でもあったのです。
縄文人は森と共に(自然と一体になって)暮らした人々。当たり前といえば当たり前ですね :D
そのあたりは7/11にbunchanさんも書いてくれています。アリガトー :m023:

応援クリックお願いします :m118: :m118: :m118: そして続きへ~ :m083: :m003:
posted by pingu : 16:40 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年07月07日
【仮説】縄文:ふさわしい時代区分は?
こんばんは、さーねです :D
今日は、カッピカピさんが先日投稿された縄文時代のなんでの新テーマ①縄文時代を土器で時代区分するのはなんで?でカッピカピさんが言われている時代区分新基準に挑戦したいと思います :tikara:
僕自身も、去年縄文の時代区分を投稿しました。多くの歴史が権力支配の興亡によって、時代が区分されているのに対して、土器による時代区分はある意味新鮮でした :o
カッピカピさんの記事を読んで、るいネットの縄文・弥生論争への視点を改めて読んでみました :m027:
現在弥生時代開始が500年遡るのではないか?との論争が花を賑わせている。しかし私はこの論争自体に少し違和感を感じている… …つまりその背景にあるのは、マルクスの提起した、「生産様式が社会構造の根底にある」という見解である。従って必然的に各指標の中でも「稲作の開始」が決定的に重要なものとされている。 私はこの点において注目すべきは社会統合の様式ではないかと思う。人類社会は共認によって統合される…
このような、歴史構造そのものに対する認識転換が必要という気がします。極端に言えば、土器による区分は年代判断をするためのものであり、その時代の生活の様子や外圧状況を想起させるものではないと思います :confused:
まずは、集団のあり方や外圧状況に視点をおくような時代区分を設定してみたらどうでしょうか?素人的発想の【仮説】ですが、皆さんと一緒にテーマ付けをしていけたらなと思います :m194: :m051:
今日は、阿蘇ネットワーククラブ(日本超古代文明年表)を参考にさせて頂きました :m061:

このような、生活が想像できるような歴史を :m051:
:m118: :m118: みんなが認める歴史事実をつくろう :m051: :m118: :m118:
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posted by sawatan : 21:28 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年06月22日
縄文時代のなんで
こんにちは、カッピカピです。
いつも、このブログを読んでくれているみなさん、ありがとうございます。みなんさんの応援のおかげで、ここ最近は人気ブログランキング一位をキープし続けてることが出来ています。今後もみなさんの期待に応えるべく、そして、ランキング一位にふさわしいブログにしていくために、改めて、縄文時代についての追求テーマを設定してみたいと思います。
その新たなテーマは・・・・・
その前に、ポチッ↓とよろしくお願いします。
posted by hi-ro : 09:23 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年06月11日
縄文人は3000年前に朝鮮人と交流していた、稲作もそのころ伝わったと考えられる?
◎日本で稲作が開始されたのは従来言われていた2000年前ごろから遡り3000年前ごろではな
いかというのが最近の説です。
3000年前にすでに稲作の始まっていた朝鮮半島と縄文人の交流があった。

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posted by ryujin : 22:43 | コメント (5) | トラックバック (0)
2007年06月10日
縄文の文化圏:交換物の分布から「文化圏」が見えてくる
以前「縄文時代の集団規模」と「縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった」と言う投稿で「集団の規模や生活、他集団との交流」が一定明らかになりました。
今回は交流の際の「交換物」の資料を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
■交換物と文化圏:交換産物とは、野うさぎなど小型動物の毛皮、漆工芸品、樹皮・繊維製品があるが、今の時代に残っているものは少ない。
またアスファルト、黒曜石、ヒスイ、コハク(八幡一郎『先史時代の交易』1938年)などは比較的残りやすい。
縄文人は陸路・海路(丸木船)これらを持参して、東北、伊豆諸島、沖縄など遠隔地とも交流していた。
(小林達夫「縄文人の世界観」『縄文人の世界』34頁以下)。
多彩な加工食品は、集落間の分業が行われていたことと、加工食品が集落間で交易されていたことを物語っている。石器の材料としての黒耀石やサヌカイトの産地は限られているが、全国各地から出土しているし、各地で出土する土器も、遠隔地で製作されたものが出土するなど、縄文時代を狩猟採集を基盤とする単純な自給自足の封鎖経済と片付けることはできない。
後段で詳細に見ていきたい。
クリックしてから続きをお読みください。
:m118: :m118: :m118:
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posted by mukai : 18:00 | コメント (6) | トラックバック (0)
2007年06月09日
縄文の交流は、自然恩恵への感謝・喜びの交換だった。
以前、「縄文時代の集団規模」と言う投稿で「集団の規模や生活」が一定明らかになりました。
今回は「他集団との交流」がどうであったか?
を前回と同じ「縄文文化と現代:縄文村」というサイトから抜粋、要約し紹介します。
クリックしてから続きをお読みください。
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posted by mukai : 16:45 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年06月07日
縄文人は黒潮をどうやって横断したのか?
>なぜ、海を渡ろうとしたのか 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで?縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?
さーねさんも疑問に思っているように、黒潮の流れに逆らってどーやって本土から八丈島に行けたか気になりますね。それについて仮説を立てているサイトがありましたので今日はそれを紹介します。ちょっと面白いです。
:m118: これ宜しくお願いいたします :wink:
posted by mrran : 22:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年05月29日
西アジアと日本の農耕の歴史の違い
こんにちは、simsasanです。
前回の「縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳」に続いて、今回は、日本と比べて農耕が先に発達した西アジアはどうだったのか?比較してみました。
先ず、農耕の歴史に入る前に農耕と栽培の違いは何なのか?
「るいネット縄文前期の稲栽培」(細田さん)が分かり易く説明していますので、以下引用します。
>人類が採取・狩猟という生業様式(適応様式)を開始するのと同時に、植物の栽培や動物の飼育は方法としては見出されます。採取・狩猟時代の人類は、食料獲得の方法として風土に応じて狩猟・採取・漁労・栽培のいずれかあるいは全てが併用しているのが通常です。日本では三内丸山の栗林の菅理栽培が有名ですし雑穀の栽培は各地の縄文遺跡にその痕跡が発見されています。
一方農業(や牧畜→遊牧)という様式は、主要な食料のほとんど全てを人工的な栽培(や飼育)に頼るという様式で、相当大がかりな土地や土木施設を必要とします。そのような人工的な(多大な労力を必要とする)生産様式が必要とされる背景には、人の数がその居住する周辺の自然の生産力を超えてしまうという事態があると考えられます。その理由としては、同類緊張圧力による一定地域への集住や短期的な特殊寒冷期に移動もままならなくなった部族の生き残りのため等が考えられます。
では、具体的に古代、西アジアと日本では、どのような栽培→農耕の歴史をたどってきたのでしょうか?
posted by simasan : 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月25日
縄文人は、なぜ「海」に可能性を求めたか?
今晩は、さーねです :m193:
黒潮圏の考古学というサイトを今勉強しているのですが、その中でも八丈島の先史時代で、すごい不思議だなと思うことがあります。
6,000年前にピ-クを迎えた縄文海進時に、縄文人が漁撈活動地域を内陸や沿岸部から近海に拡大し、海洋航海技術を熟達させ外洋を舞台にした縄文集団(海の縄文人)が誕生した。彼らは外洋航海民としての素養を備え、最初は北部伊豆諸島を中心に渡島活動を行っていた。やがて近畿・東海と中部・関東の二地域から、黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島へ渡航した集団が登場する。黒潮圏の考古学:八丈島の先史時代の倉輪遺跡より
なぜ、海を渡ろうとしたのか :m050: 特に、八丈島は北部伊豆諸島と比較し、本土からの距離が遠い。黒潮の流れを簡単に突っ切れるほど甘くはない。どうみても決死行としか思えない。逆に、そこまで行こうとしたのはなんで :m050:

彼らが置かれた状況や意識、行動様式を推察してみたいと思います :m193: :tikara:
:m118: 歴史は面白い :m051: 応援お願いします :m051: :m118:
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posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年05月19日
縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳
こんにちは、simasanです。
今日は、日本での農業(稲作)の起源の話です。
戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡からは水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかになっています。
さらに、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中からは、6000年前のもの最も古いプラントオパールが検出され、それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえ出てきたのです。

注:プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができるそうです。
では、何故、縄文時代は稲作が普及しなかったのでしょうか?
知りたいっと思った方は、ポチっと お願いします!
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posted by simasan : 18:00 | コメント (12) | トラックバック (0)
2007年05月04日
縄文時代の集落規模
以前、「縄文人の集団規模と共認の関係」で縄文時代の集落が小規模のままで30人以上になることはなかった。とあったが青森の三内丸山では500人から1000人とも言われています。
縄文時代の集団の規模や生活、他集団との交流等もっと知りたくてサイト探索してみました。
少し長くなりますが「縄文文化と現代:縄文村」からの抜粋、要約です。
クリックしてから続きをお読みください。
:m118: :m118: :m118:
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posted by mukai : 12:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年04月17日
屈葬とベンガラについて
縄文の死の話盛り上がってますね。
特に、naotoさんも紹介されている「屈葬」について、興味わきましたので、調べて見ました。
まずは、るいネットの過去の投稿の中から、調べてみると、屈葬についての紹介がありました。
屈葬の理由は諸説ありますが、いくつかあげると、
1・掘らなければならない墓穴が小さくてすむためという省エネ説
2・胎児の姿勢をまねて再生を願ったとする説
3・休息の姿勢であるという説
4・死霊を恐れた事が原因とする説
(20128 屈葬の意味 三ヶ本万州夫氏 )
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=20128
4つも説があったんですね。

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/publish_db/books/dm2000/japanese/02/02-05.html
<屈葬状態の縄文人骨格ー東京大学総合研究博物館>
で、さらにるいネット内過去投稿を調べてみると
縄文時代の屈葬において、田野さんも紹介されているように、遺体の頭から胸部にかけてベンガラを散布する風習があります。人のなきがらに赤い顔料を振りかける風習は、旧石器時代以来、世界の各地で行われているとのこと。 先史時代の人びとは赤い色に何か特別の呪術的な力が秘められていると信じていたのかもしれません。
記事内の「血液の代わり」というのがひっかかったのですが、次のような仮説がありました。「太陽が生まれるとき、死ぬとき、それぞれ「赤」に包まれるからこそ再生されると考えていた。朝焼けと夕焼けの「赤」と、出産時の出血と埋葬のベンガラの「赤」は同じ役割を持っていて、向こうの世界に生まれ変わるための橋、あるいは向こうの世界を開く扉なのである。だから屈葬という、まるで母胎内にいる胎児の形で埋葬するのである」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=20332
(20332 屈葬とベンガラ 三ヶ本万州夫氏)
屈葬とベンガラすごく関係がありそうです。

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/008.html
<ベンガラぬりの「つぼ」二戸市 雨滝(あまたき)遺跡>
posted by yuyu : 00:16 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年02月22日
寒冷化により、まず穀物栽培に転換した
こんばんは。
『縄文晩期の気候変動が農耕につながった?』と、以前tanoさんの投稿にありましたが、今日は「生業からみた縄文から弥生」さんの論文から検証してみたいと思います。
さーねさんが前に、堅果類食糧について書かれていますが、縄文から弥生にかけての生業類型は概ね、
狩猟傾斜型→植物採集傾斜型→植物採集+雑・穀物栽培型→水稲栽培型(農耕)へと推移していきます。
ここで用語の定義ですが、
○栽培とは、植物の生殖を管理すること。
○農耕とは、デンプンの供給源としてのメジャーフードとなりうる栽培型植物の栽培を指す。
採集、栽培、農耕は明確に異なることが分かりますね。
さてどのように、採集→栽培→農耕へと推移していったか見ていきましょう。
posted by nishipa : 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年02月09日
縄文:東西-堅果類食料の違い~生活様式の違い
今晩は。さーねです :wink:
今日は、『生業からみた縄文から弥生』の中で、堅果類食料の違いから東西の生活様式の違いを解明していきたいと思います :m050:
まずは、堅果類食料の種類と分布をおおまかにまとめてみました。
(詳しくは、『生業からみた縄文から弥生』を参考に)
●照葉樹林-アカガシ・アラカシ(水さらし),シイノキ(処理不要)
⇒西日本では、メジャーフード。縄文中後期の関東には存在したが、中部・東北には分布していなかった。
●落葉樹林-クリ・オニグルミ(処理不要),クヌギ(水さらし),ミズナラ・コナラ・トチノキ(水さらし+加熱)
⇒ほぼ列島全域に分布。(北海道を除く)
※『生業からみた縄文から弥生』の2 植物質食糧の種類より
※食べるために、”何も処理不要”・”水さらし”・”加熱(=アク抜き)”に分けています。
>・西日本の照葉樹林帯でも落葉性のコナラ・ミズナラ・クリ・クヌギを利用できる環境にあったことがわかるのである。
>・東日本の海岸部も照葉性のカシ・シイ類を利用できる環境にあったのである。
概ね、東西分布の違いはあったものの、上記に挙げた堅果類食料を採取する状況にはあった。ただし、標高が高く他地域に比較して寒い中部・東北のみ限られていたという状況です。
では、なぜ東西の生活様式に違いが出たのか :m050: :o
:m118: ポチっと押してから :m051: :m118:
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posted by sawatan : 20:00 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年01月28日
縄文:黒曜石が贈与品になったのはなぜか?
先日、tanoさんよりご指導受けまして… :cry: 改めて、縄文時代の贈与・交易に関して、一つずつ積上げていけたらと思います :D :m051:
今日は、その品となった「黒曜石」
ただ、どうも縄文時代は交易?とか言われてますが…贈与と交易はだいぶ違いますので…以下の大事な認識を るいネットで確認。
黒曜石、翡翠の広域に渡る存在は、交易ではなく贈与の結果ではないか②
「贈与」と「掠奪・収奪」と「交易(交換取引)」
ここでは、贈与品として考えたいと思います。

黒曜石って何?実は、縄文の人々にとっては最も必要で貴重な加工具であったのです :m051:
posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年01月27日
縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした
縄文人の海上航海の道具である丸木舟は、現在、150例以上発見されています。 :lol:
三内丸山遺跡では、縄文時代前期から中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡が見つかっています。
特に縄文時代の大集落跡からは膨大な出土物が出ているが、その中でも目を引くのが 巨大なヒスイ の珠だ。 ヒスイは青森では産出されずおよそ500kmも離れた新潟県の糸魚川周辺からはるばる運ばれてきた物だ。 黒曜石 を原料とした石器類も多数出土しているが、黒曜石もはるばる北海道から運ばれてきた。更には岩手県からは、琥珀が運ばれてきている。
また、横須賀市平坂貝塚から出土した無文土器(平坂式土器)と同じタイプの土器が伊豆大島で住居跡とともに大量に発見されたり、横須賀市の久里浜伝福寺裏で見つかった丸木舟は一緒に紀伊半島方面の土器も見つかっています。
これらから縄文人が海を使って広範囲で盛んに交易していたことが分かり、海人として高度な航海技術を身に付け海洋(黒潮)文化を担っていたことがわかります。
縄文人が船で沖へ乗り出し、漁を行っていた証拠も三内丸山から見つかっている。なんと1メートルもある真鯛の骨で、縄文人が沿岸ばかりでなく遥か沖合まで出向いて漁を行っていた事の証だ。もっと広範な交易活動は現在幾つかの説が発表されています。
「縄文人の大航海」 を参照して下さい。
このような広範な活動を支えた「縄文の海洋技術」はどのようなものなのでしょうか。
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posted by mukai : 18:05 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年01月25日
縄文の食料庫・どんぐり
今では殆ど食用にすることは無くなりましたが、縄文人の1万年に渡る食生活を支えたのは、でんぷん質に富むどんぐりと言われています。 :wink:
<どんぐりとは、ブナ科という大きなグループのうち、コナラ属、シイ属、マテバシイ属に入れられる植物 :m178: の果実のことです>http://www.rekihaku.ac.jp/kodomo/5/tayori22.html
しかし、「どんぐり」と一言で言っても下の絵のように、その種類は20種類に及ぶそうです。

posted by ryujin : 21:37 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年01月23日
北の古代史~続縄文
先日のエントリーで、tanoさんが、縄文時代の区分を紹介されていますが、北海道においては、本州の縄文時代が終わった後も、縄文時代が続いており、さらにその次に「続縄文」という時代があったようです。
実は、何を隠そう私も「続縄文」という言葉を知ったのは、つい最近のことでして、「えっ、縄文時代には続きがあったの?」と、ちょっと驚いたので、調べてみました。
まずは、北海道における時代区分。
約30,000年前~10,000年前 :旧石器文化
約10,000年前~約1,800年前 :縄文文化(早~晩期までの5期区分)
約1800年~1500年前 :続縄文文化
約1200年~600年前 :擦文文化
約1200年~600年前 :オホーツク文化
約600年~200年前 :アイヌ文化
約200年~現在 :近・現代(和人による支配、同化政策)

http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html
(アイヌ文化入門より)
上記年表をみると、本州が弥生に入ったあとも、しばらくは縄文時代が続いた後に、続縄文時代に入ったことがわかります。
では、縄文文化と、続縄文文化との違いはどこにあるのでしょうか。
posted by yuyu : 01:27 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年01月12日
縄文時代の贈与・交易は寒冷化を生き延びるため?
今晩は、さーねです。今日は縄文です :wink:
まずは、改めて、縄文で追究していく課題を確認 :P
tanoさんのこの課題整理で♪非常にわかりやすい!再度、抜けている部分や真相を明らかにしていきましょう!ということで、まだ追究されていない縄文時代の贈与・交易について調べてみました。
やはり、人口が最も増加しながらも、寒冷化という外圧に直面した縄文中期以降に発達したのではないでしょうか?
寒冷化という外圧に再度直面し、みんなが生き延びるためには?⇒他の集団の良いところを取り入れよう!という意識になったのではないでしょうか :m050:

出土したヒスイ⇒祭りのための装飾品 :m052: 精霊が宿るお守り :m052:
以上のような仮説を立てながら、関係する史実を追ってみました。考古学や人類学上の資料も、やはり人々の意識と合わせて考えるとより生きてきますねー :o
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posted by sawatan : 19:00 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年01月11日
縄文人はどんな服装だったのか?
かつては毛皮を腰に巻いて、原始的な生活をしていたと考えられていた事もあったようですが、実際には想像以上に洗練された服装をしていた ことが分かってきました。かなりおしゃれな人々であったようです。

以下は縄文人の服装について良くまとまっているサイトです。
縄文人は刺青もしていたようです。これにはかなり驚きです。 :shock:
詳しくは 縄文世界 を覗いてね!
posted by mrran : 22:30 | コメント (4) | トラックバック (0)
2007年01月03日
縄文人の漁業って?教えて!
あけましておめでとうございます。
今年もくっちゃね、くっちゃねの正月を過ごしております。 :m093: はい。
ところで、いきなり縄文に引き付けますが・・・
縄文人ってどんな猟をしていたんだろ?って気になりませんか?
食べ物についてはいろいろな資料があるので、知っている方も多いと思いますが、
問題はじゃーそれを“どうやって獲(採)っていたの?”と思うわけです。
そしてその中でも特に気になっているのが、魚の捕獲。平たく言えば漁業なんですが。
なんであんなにすばしこい魚達を縄文人が捕まえられたのか?
釣りを趣味にしている私いとってはどうも理解できません。
私なんか複雑な仕掛けを駆使していつも試行錯誤を繰り返しているのに、
いつも魚は釣られてくれませんわ!
特に、マグロ、カツオ。
これらは私も毎年釣りに行くのになかなか釣れません。 :m109:
彼らは平均時速50kmのスピードで一生泳ぎ続け(寝ている時も泳ぎ続け)、
餌を捕らえる時などには時速100kmに達するスピードで泳ぐんですよ!!
縄文人がなんで?なんで?どうやって?捕獲したの?って純粋に疑問ですわ!
誰か知っている人がいましたら是非、是非コメントください。
By:R
posted by mrran : 17:06 | コメント (3) | トラックバック (0)
2006年12月16日
舟を通じた中国文明と古代日本の交易
中国文明と古代日本の関係を交易を通じて俯瞰してみます。
中国には黄河流域の「馬の分化」と長江流域の「舟の分化」の2つがあったようです。今回は「舟の分化」を紀元前までの期間で辿ってみます。
>環シナ海に広がる「百越の民」と倭人たちは、秦・漢以前からゴンドラ型の竜骨舟にのって往来していたのだろう。東シナ海の荒波にもまれてしばしば遭難したこともあったろうが、呉越の造船技術や操船技術の発達はかなりのもので、すでに春秋戦国期に外洋航海の記録がある。 船首と船尾の反り上がったゴンドラ型の船は、季節風と黒潮に乗って朝鮮や日本に到来したことは、朝鮮海峡や日本海岸に残されたこの竜骨舟の絵図からも知られている。
この往来を通じて環シナ海の自然崇拝の観念が共有されるようになっても不自然ではない。長江中下流域の「良渚文化」から上流域の「三星堆文化」にいたるまで、越系の人々が河姆渡以来の太陽信仰・精霊信仰・鳥信仰・目玉信仰などの観念を共有していたことは、『ギャラリ-』の「長江文明のイメ-ジ」を参考にしてもらえれば、それが稲作と操船の民のどんな自然崇拝であったかを見ることができるが、朝鮮半島や日本に居住した倭人もまた太陽(女神)信仰・鳥信仰・蛇信仰などの観念を共有していたのである。 文明の周縁より
⇒三星堆遺跡から発掘された縦目仮面と青森県亀ヶ岡遺跡から出土された縄文時代の土偶の目がいずれも大きいのは、目玉信仰の系譜を踏んでいるように感じます。
*時代整理:
日本の縄文時代BC10000~BC500年。
中国の良渚文化と三星堆分化BC3300~BC1000年
疑問はBC8000~BC3300年の空白期間の交易はどのようなものだったのか?
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2006年12月12日
縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたの?vol.2
竪穴式住居についてさらに調べてみました。
調べていくとなかなか興味深い事が分かってきましたよ。
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posted by mukai : 20:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年12月11日
縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたの?vol.1
縄文時代の人々は、どのような「家」に住んでいたのでしょうか?
答えは、みなさんご存じのように竪穴式住居です。 :lol:
これまでの調査・研究の成果から「竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)」と「平地式住居(へいちしきじゅうきょ)(掘立柱建物:ほったてばしらたてもの)」という、2種類の建物に暮らしていたのではないか、と考えられます。
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2006年11月21日
縄文人の食卓
9/13カッピカピさんの『縄文人の主食「木の実」について』の記事に引き続き縄文人の食べ物シリーズです :m078: :m078:
前回は木の実や山菜、サケやマス、イノシシなどを食べていたことがわかりましたが、なんと今回は驚くべき発見を :shock: :m049:
なんと、ハンバーグを食べていたそうです。
縄文人ってなかなかグルメ :m028: :m029:
続きに行く前にクリックお願いします
:m118: :m118: :m118:
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2006年11月09日
遺跡分布図から見た生活様式の変遷
旧石器時代・縄文時代・弥生時代の遺跡分布から当時の人口・気候・生活様式の変遷を推察 :m051:
■旧石器時代

旧石器時代には定住化がまだ始まっておらず、住居や墓などの「遺構」は非常に少ない :shock:
遺跡は一部を除き、関東平野を含む西日本に集中。当時の海面は現在より100m程度低かったが、多数旧石器時代の遺跡を残していることから、狩猟採集を生活の糧としていた旧石器人は、動物たちの移動を観察しやすい高台で生活していたのでは :m050:
posted by postgre : 22:42 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年10月29日
縄文貝塚は防腐剤?
貝塚を単なるごみ捨て場と思ったら、明らかに間違いであろう。とにかく、いろいろなものがこの遺跡から出てくる。縄文の“玉手箱”である。ここからしばしば、人骨も出土するので貝塚墓地とも呼ばれる。
県内では八戸市の長七谷地貝塚などでも、人骨が見つかっているが、その代表的なケースが上北町の古屋敷貝塚(縄文前期中葉)だ。ここからは若い成人女性と胎児のそれが出土している。二十歳前後と推定される女性の周囲には、貝殻が敷き詰められていたため残存状態が良好で、ほぼ全体の骨格部がそろっていた。
三内丸山遺跡もそうだが、概して日本は酸性土壌のため、古い人骨は残りにくいといわれている。それでも、考古学教授の小林達雄さんが書いた「縄文人追跡」によると、これまでに発見された縄文人骨は一万体以上に上り、弥生人のほぼ三倍以上になるそうだ。弥生より古い時代にもかかわらず、縄文人の遺体が多く見つかるのは縄文人自らが築いた貝塚のおかげ、と小林さんは書いている。
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_09.htm
さーねさんから紹介いただいたテーりー東北新聞社のコラムからの紹介です。
貝が遺体の酸化を防いだという事でしょうか?
それにしても縄文人の人骨は1万体も発見されているとは知りませんでした。
弥生時代がその1/3というのは貝のせいもありますが、縄文時代に比べて600年と時代の期間が1/20しかないのも原因かもしれませんね。人口が増えたのも弥生後半になってからだし・・・。
tano
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2006年10月26日
縄文人って弓矢を発明?したんじゃないの?
るいネットやこのブログにて縄文の基礎情報がたくさん集まってきましたね :D
今日は、一風変って、新聞社の縄文に関するコラムを読んでみました。その中でも、弓矢の存在に注目しました。
デーリー東北新聞社~縄文紀行 北日本の遺跡~実像に迫る
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_menu.htm
参考にしたコラムは
6.韮窪遺跡”新兵器”弓矢の登場
7.大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感です。
上記のコラムを参考に考察すると、もしかして縄文人って弓矢を発明 :m050: したんじゃないの :m050: (というのはオーバーで、適応するために自ら生み出したのではないか :m052: という説です) :nihi:

縄文後期:韮窪遺跡「狩猟文土器」⇒見事に弓と矢が表現されてます :m051:
by さーね
:m118: お :m050: っと思ったらクリックしてくださいね :m118:
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