2008年09月22日
神話の背景にある社会構造
日本人の起源シリーズ。今日は、神話です。
文献に記録されて伝わる神話は、必ずしもその民族の神話の原初的内容を示すものではない。神話はその民族の主権者がみずからの権威を高め、また保障する必要性からつくられるものである。そこで権力の背景にある社会構造の変化に伴って、そのたびに修正される可能性をもっている。つまり当初につくられた神話が、のちのちまでその内容を変えないとはかぎらず、その民族の環境や生活様式の変化に伴い、それに対応した神話の内容で語られるようになる。(古代朝鮮と倭族 鳥越憲三郎著 中公新書)
なんで神話が必要だったか?主権者自らの権力を維持するために、自らが神であるよう知らしめる必要があるわけです。そのようなベールで包まれた神話を読み解く上で重要なのは、その背景にある社会構造の変化を読み取るということ。
朝鮮半島から日本への渡来したことは間違いない。しかし、日本と神話は類似性もあるが相違性もあるようです。今日は、日本と朝鮮では社会構造の何が違うのか?神話を通して考えてみたいと思います。 :o
「朝鮮と日本の神話を考える」上田正昭 京都大学名誉教授を参考にさせていただきました :m061:
byさーね
:m118: :m118: 応援よろしくです :m118: :m118:
posted by sawatan : 19:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年09月15日
日本人の起源:“倭人”のルーツは中国大陸の呉・越
日本の教科書で、“倭”といえば古代日本を指すものだと教えられて、なんとなくモヤモヤしながらもそのまま信じていたのですが、どうもそれは誤りというか違うということがわかってきました。倭人のルーツは中国大陸、そして朝鮮半島にあったのです!
さーねさんの長江文明崩壊の時⇒日本へ渡来?! の続きです。
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posted by ihiro : 22:48 | コメント (3) | トラックバック (0)
2008年09月09日
埴輪の種類と役割
埴輪は古墳の上やまわりにたて並べられ、古墳を飾りました。種類も多くあり、役割もそれぞれにあったようです。
(参考サイト:芝山町立芝山古墳・はにわ博物館)

posted by dai1028 : 12:30 | コメント (3) | トラックバック (0)
2008年07月06日
教科書の弥生時代-2(中学編)
:D くまな です。
前回の教科書の弥生時代は、学校で初めて日本の歴史について学ぶ小学校6年生の教科書でした。今回は、中学校編です。
中学校の教科書で、弥生時代はどのように扱われているでしょうか。
参照した教科書は帝国書院(H18.1)、教育出版(H19.1)、大阪書籍(H18.2)の3点です。
( )内は発行年月。いずれも平成17年3月検定済。

内容に入る前に、まず教科書づくりの指針となる指導要領を見てみます。
参照した教科書の指針となっている平成10年に改訂され平成14年に施行された現行の指導要領はどうなっているでしょうか。また、平成20年に公布され、平成24年に施行される新指導要領ではどう変わっているでしょうか?
比較しやすいように、同一項目は青文字にしています。
■現行指導要領
古代までの日本ア 人類が出現し,やがて世界の古代文明が生まれたこと,また,日本列島で狩猟・採集を行っていた人々の生活が農耕の広まりとともに変化していったことを理解させる。
イ 国家が形成されていく過程のあらましを,東アジアとのかかわり,古墳の広まり,大和朝廷による統一を通して理解させる。その際,当時の人々の信仰,大陸から移住してきた人々の我が国の社会に果たした役割に気付かせる。
ウ 大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ,その後,天皇・貴族の政治が展開されたことを,聖徳太子の政治と大化の改新,律令国家の確立,摂関政治を通して理解させる。
エ 国際的な要素をもった文化が栄え,後に文化の国風化が進んだことを理解させる。
■新指導要領
古代までの日本ア 世界の古代文明や宗教のおこり,日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰,大和朝廷による統一と東アジアとのかかわりなどを通して,世界の各地で文明が築かれ,東アジアの文明の影響を受けながら我が国で国家が形成されていったことを理解させる。
イ 律令(りつりょう)国家の確立に至るまでの過程,摂関政治などを通して,大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ,その後,天皇や貴族の政治が展開したことを理解させる。
ウ 仏教の伝来とその影響,仮名文字の成立などを通して,国際的な要素をもった文化が栄え,後に文化の国風化が進んだことを理解させる。
授業時数が多くなっているにもかかわらず、「古代までの日本」についての項目や具体的な記述内容も減少しています。
「人類の出現」や「狩猟・採集を行っていた人々の生活」の記述がなくなり、代わって追加されるのが、
①世界の文明に関して「宗教のおこり」
②弥生時代については、農耕の広まりとともに変化した「人々の信仰」
③律令国家への過程での「仏教の伝来とその影響」「仮名文字の成立」
古代の日本においては総じて、縄文以前は減少し、宗教について手厚く学習する傾向になっています。
では、内容に入りましょう。
中学校の教科書で弥生時代はどのように扱われているでしょうか。
posted by kumana : 21:32 | コメント (10) | トラックバック (0)
2008年07月01日
日本における私権社会への移行(渡来人第1波が作った土台)
最初に稲作技術を持った渡来人達は、技術を伝播しながら縄文人と融合していった可能性が高く、寧ろ、その後大陸北方を中心とした侵略戦争を経てやってきた渡来人の方が弥生以降の戦争に影響を強く与えた存在ではないかと思います。
6月20日のしまさんの記事で紹介された上記の記述、私権社会への転換は第2波の北方渡来人の侵略性に焦点が当たっていますが、少し立ち止まって考えて見ましょう。
本当に第1波の渡来人の影響は少なかったのでしょうか?実は・・・
以下は2002年9月にるいネットに投稿された北村さんの記事から紹介します。
日本における私権時代への移行
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posted by tano : 22:09 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年06月19日
【渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである】
弥生時代というと、渡来人が稲作技術を持ち込み、あっというまに日本を席巻し、本源的な縄文文化を破壊し戦争→私権社会を築いたという認識のもと、否定的にとらえていたのですが、これは固定観念にすぎないのかもしれません。
この気づきを与えてくれた投稿が、るいネットにあったので、紹介したいと思います。
渡来人が弥生時代を創ったというのは誤りである。るいネット:田野さん
弥生時代は多くの渡来人が稲作の技術をもって訪れ、たちまちに縄文文化を凌駕した。鉄器やガラス細工といった工芸が定着し、土器も縄文時代よりうすくて赤みをおび、模様がなく形も整った土器が使われるようになった。又、環濠集落に代表されるように、集落外周を堀で固め、戦闘、防衛が有ったことを伺わせ弥生集落の特徴的なことの第一義として挙げられている。これらは考古学的資料の少ない時代(根拠が薄い)に作り上げられた教科書的に言われている弥生時代への固定観の一つにすぎないことが、最近の縄文-弥生論争で明らかになりつつある。
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posted by naoto : 09:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年06月18日
教科書の弥生時代
:D くまなです
弥生時代とは何か?
学校の教科書でどのように記述されているのかを紹介します。
そのことで、世間で定説となっている弥生時代に対する認識がわかります。
日本の歴史について初めて学ぶのは小学校6年生の社会です。

今回、内容を紹介するのは、小学6年生の社会の教科書3冊(東京書籍、教育出版、大阪書籍)です。平成16年に検定をうけ、平成17年から使われています。
ところで、このブログの記事「小6教科書から縄文時代が消えた!」でカッピカピさんが紹介されているように、今の小学生の教科書に縄文以前は登場しません(一部を除く)。ゆとり教育以来、そのような状態が約20年続き、ようやく平成23年に縄文以前が教科書に復活します。参照「小学社会に「縄文」」
現在の小学6年生の学習指導要領では「農耕の始まり,古墳について調べ,大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際,神話・伝承を調べ,国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。」となっています。(平成23年度から実施される新しい指導要領では上記の冒頭に「狩猟・採集や」が入ります。)
それでは、弥生時代の記述です。
その前に、 :m118: ポチっと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : 15:00 | コメント (8) | トラックバック (0)
2008年06月17日
弥生時代の概観
こんばんは。
少し前になりますがtanoさんからの「弥生を丸裸にせよ!」というエントリーを受けて、今後しばらくは、るいネットに投稿された多くの弥生に関する投稿文を使い、弥生シリーズとして追求していきます。そこで最初である今回は、弥生時代の歴史のおさらいを行なっておきたいと思います。
弥生時代前後の日本及び中国大陸・朝鮮半島の様子については、このブログ内でも、kumanaさんの力作である
「日本の私権国家への道すじ」
「日本の私権国家への道すじ(2)」
「日本の私権国家への道すじ(3)」
に詳しく追求紹介されていますのでそちらもあわせて参照願います。
今回は、るいネットに、弥生時代の歴史を紹介した投稿がありますので、この投稿を紹介します。
「弥生の侵略闘争」 (岡本氏の投稿より)
>私は弥生時代は総じて戦争前夜だと思うのです。条件がそろいながらも回避する工夫をしていた。(中略)戦争の引き金を引いたのは弥生末期に登場した騎馬民族の系統を引く渡来人の略奪行為が皮切りではないかと考えています。(田野氏25427)
弥生時代の戦争については、考古学的事実以外にも、中野さんが投稿されておられるように「魏志倭人伝」等で伺い知ることができ、遅くとも弥生中期後半には侵略闘争が激化しています(戦争前夜ではありません)。年代を追って記すと以下のようになります。
具体的な歴史内容をご覧になられる前にポチッと応援をお願います。
posted by yuyu : 23:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年05月20日
弥生を丸裸にせよ!
こんばんわ!tanoです。
日本の歴史で最も大きな転換点は弥生時代であるとよく言われます。また中学の教科書などには文明の曙として弥生時代以降を日本の歴史としている件もあります。
この最も大きな転換点である弥生時代を私達はどれほど知っているでしょうか?
先日もいつもの縄文ブログの仲間と話していてこの600年間が全く持って茫洋としている事に気が付きました。
せいぜい、農耕の伝来、弥生人の渡来、戦争の始まり、クニのはじまりなどの社会の教科書に毛が生えた程度の情報しか押さえられていない、なぜこんなに弥生時代の事がわからないのか?そこに行き着いたのです。
縄文時代という本源集団が解体され、1000年後に大化の改新によって律令制度が敷かれるまで弥生―古墳時代の間はまさに私権社会への転換時期に当たります。その最初の弥生時代とは一体どんな時代だったのか?どのように縄文社会が駆逐されていったのか、どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのか?縄文人は渡来人を受け入れたのか?反発したのか?
史実に即して明らかにしていけたらと思っています。
視点は教科書に出てくる表舞台の話ではなくできるだけ庶民、社会、意識という側面から明らかにしていきます。
「弥生を丸裸にせよ!」しばらくはこの企画で連続していきたいと思います。
初回は縄文人の農耕民化について扱ってみたいと思います。
藤尾慎一郎氏のHPから紹介します。
渡来人と縄文人の綱引きがよくわかる論説です。ちょっと長くなりますが、お付き合い願います。
posted by tano : 23:45 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年08月16日
弥生時代の戦争は、近隣の集団どうしが戦った
:D くまなです
前回の投稿弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がったの続きです。
戦争による遺物(刺さった武器とその産地)から、各地で戦ったのは、同じ地域の集団同士であることがわかります。そこからは、一部の集団が侵略したのではなく、戦争の圧力が玉突き的に各地に広がっていったということを示します。
九州北部の場合、遺骸に突き刺さった武器は、ほとんどが磨製石剣・石戈(か)、または青銅の短剣などの金属製武器だ。磨製の石剣や石戈は、材質から形から、まずまちがいなく九州北部産といえる。青銅の短剣は、中国・四国や近畿にもあるが、圧倒的に普及率が高いのは、やはり九州北部だ。首を切るときに使ったと思われる鉄の刀も、この時期には、おそらくこの地方にしかないものだろう。九州北部の戦死者・戦傷者は、九州北部の人間の手によるものと結論できる。他の地方はどうだろうか。岡山市清水谷遺跡の木棺に眠る人物に射ち込まれたらしい二十本の打製石鏃は、柳の葉の形になかごがついたタイプで、香川・金山産のサヌカイト製であることから、岡山平野で作られたものとわかる。射ち込んだのは、おなじ岡山平野の人間だろう。
大阪府四條畷市の雁屋遺跡の木棺から出た十二本の打製石鏃も、この地方によくあるタイプで、二上山のサヌカイトでできている。奈良市に四分遺跡の女性に刺さった打製石鏃もそうだ。さらに、京都市の東土川遺跡の遺骸に刺さっていたと思われる七~八本の磨製石剣は、指した相手の出どころを、さらに細かくしぼりこめる資料だろう。磨製石剣を多く使うのは、近畿でも京都盆地あたりにほぼ限られるからだ。東土川の交戦相手は、おなじ京都盆地にいた可能性が高い。
このように見てくると、弥生時代の第二期抗争は、おなじ地域内、ことによっては同じ平野や盆地のなかの、ごく近いところに集落を営んだ集団どうしの争いだったと考えられる。同じ知己の中の利害を争う、近隣どうしの戦闘だったのだ。
では、戦争に際して縄文人はどうしたのでしょうか?
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2007年08月15日
現代における縄文人、弥生人のDNA分布
こんにちは!ベジ紀です :m026:
今回は縄文人、弥生人と同じDNAをもつ人々が現在はどのあたりに多く住んでいるのか?がちょっと気になりましたので調べてみました。
現在はまだ、縄文人と弥生人を合わせて100体あまりのDNAしか解析されていませんが、その現状の結果を知ることができましたので、お伝えします。
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posted by jomon10 : 10:27 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年08月10日
弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がった
:D くまなです
先の投稿では日本初の戦争犠牲者について紹介しました。(カテゴリーは「弥生―律令時代の戦争」です)
2500~2400年前に九州北部で勃発したと考えられる日本における戦争は、それから100年ほどがたつと西日本各地に広がっていきます。
戦争の広がりは、環濠集落、武器、戦死者・戦傷者の状況からわかります。概要を表にまとめてみました。
最初の戦争は九州北部に始まります。当時(2500~2400年前)、中国では春秋戦国時代の真っ只中であり、そこでの敗者や難民が大量に渡来し、人口の過密=縄張り侵犯から、戦争が勃発したのではないかと考えられます。
戦争圧力の第二波は2300~2100年前で、これは秦が中国を統一し、朝鮮半島に侵攻した時期です。ここでも朝鮮半島の戦争敗者や難民が渡来したことでしょう。武器の主流は石器や青銅器ですが、大陸では鉄器が普及する時期で、日本においても鉄器が見られるようになります。
そして戦争は、北部九州から周辺へと広がっていきます。
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posted by kumana : 20:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月26日
海を渡った縄文人:ワラ算とキープの関連から
以前、このサイトの“みつこ”さんの投稿で「文字がない社会って?!」 でインカ帝国のキープが紹介されました。
私が今興味を持っている琉球や沖縄で「ワラ算」という結縄文字にも触れられていました。
写真をよく見ていただくと分りますが、非常に似ています。


ワラ算(日本) キープ(インカ)
調べていくとこの時代、単に紙とペンがなかっただけで、器用な日本人の祖先にとっては、ワラや縄はもっとも身近な記録媒体だったのかもしれない。
「ワラ算」も、太平洋をわたった縄文人により南米にもたらされ、それをもとに独自にキープとして発展を遂げたのではないか?
と言う疑問が沸いてきます。 このキープとワラ算の関連を調べてみました。
気になりますよね、、
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:m118: :m118: :m118:
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2007年05月05日
まとめ・・・・お墓の変遷
お墓の歴史のHPを最近我がチーム縄文で扱っています。この際ですから、縄文時代から古墳時代までのお墓の歴史を大つかみで追いかけてみたいと思います。
縄文時代~古墳時代にかけてお墓は大きく以下のように変遷していきます。
posted by tano : 12:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年03月29日
弥生時代の身分制度(1/2)-下戸は道で大人に出会ったら草むらに退く
こんばんは、くまなです。 :D
弥生時代の日本には、中国・朝鮮から渡来人とともに身分制度がやってきたようです。
魏志倭人伝によると、1700~1800年前の日本(倭国)には、大人、下戸、生口という身分階級がありました。(※魏志倭人伝は、正式には『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝中・倭人の条)

図は、弥生ミュージアムさんからお借りしました。⇒参考:社会組織・階層
魏志倭人伝は当時の中国(西晋)の官僚である陳寿が自らの見聞や使者・地元民からの伝聞をもとに編纂したものです。
(参考:魏志倭人伝とは?)
今回は魏志倭人伝にある大人、下戸に関する記述と現代和訳を以下に紹介します。(参考サイト:魏志倭人伝の原文と対話型和訳)
!その前に、 :m118: ポチッと応援よろしくお願いします
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posted by kumana : 21:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年03月22日
中国文明&縄文:漢字はなんで必要になったか?~支配のためだった?
みつこさん⇒ぴんぐ~さん⇒さーねが勝手にバトン受け取りました :wink:
以前、さーねも中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?で、文字ネタ調べてみましたが、今日は漢字文化圏の文字として焦点を当てたいと思います :m051:

神代文字:日本において漢字伝来以前に存在した文字 :m052: :m052: :m052: しかし、学会では後の信仰のために捏造されたものと言われています。(ウィキペディア参照)
(写真は、神代文字より)
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posted by sawatan : 22:04 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年02月28日
弥生期の人口増は大量渡来か、それとも稲作化によるものか?
こんにちは、simasannです。
弥生から古墳時代にかけて、下表のように急激に人口が増えていったことは、ご存知の方も多いと思います。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htmより引用
これについては、このブログでも以前tanoさんが投稿している、 「二重構造モデル」を提唱する埴原和郎さんの①「100万人規模の大量の渡来人によるもの」とする説と、
九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授らが提唱する②「少数の渡来人による水稲耕作化と長寿命化によるもの」の2つの説があります。
考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」というように、現在もなお論争が続いています。
それぞれの主張は、そして、どっちがホント?、知りたいと思った方は、ポチッとお願いします。
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posted by simasan : 22:53 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年11月17日
中国・朝鮮から日本への渡来ルートを探る

縄文から弥生にかけて、大陸の人が東シナ海や朝鮮ルートを通って九州北部に渡来してきた。その後、縄文人と混血したり戦争を通じて国家統一を成し遂げた、というのが定説になっているようですが、「「新しい日本の歴史」
にこれと違う見解が書かれていましたので紹介します。
>丹後半島の中国人 その2
中国人が九州にいっぱいやって来たことは、書きました。九州に限らず、日本海の各地には流れ着いたと思います。韓国から九州に直接来ることは相当エネルギーが必要です。中国の福建省あたりを出発しますと九州に到達します。韓国辺りを出発すると島根半島から丹後半島の間と思います。
魏志倭人伝に倭国の国々の名前が挙げられています。九州の末盧国から始めますから、日本史は訳の解らないものになりました。やはり、松江に最初に着いたことにすれば、邪馬台国は吉備の辺りになります。
であれば、出雲や丹後半島の伝説でよく知られる
イザナギノミコトや天照大神系の人たちは朝鮮から渡来、
九州北部に到達した人たちは中国南部から渡来、
ということになりますが、実際どうなんでしょうか?
この先読みたいと思った人は、ポチッとお願いします :m044:
posted by postgre : 22:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2006年10月11日
考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。
こんにちわ ちわわ です。 よろしく :roll: !
縄文って奥深いですねー。
おもしろい意見があったのでこぴぺ :m057: します。
:m030: 考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。 :m030:
この全く正反対の結論を、どのように整合させたらよいのか。
この難問に挑んだのが、九州大学教授で形態人類学を研究する中橋孝博氏である。
先ほど甕棺の人骨は、最初の渡来から200-300年が経った時期のものであると述べた。
中橋さんは、この時間差に注目した。
つまり、考古学が示すように、当初に渡来してきた人々の数は決して多くなかった。
しかし数百年のうちに渡来系の人々は、その数を増やして、
人類学が示す渡来系一色の状態が作り出された。
これが中橋さんが両者を矛盾なく説明するために立てた仮説だった。
結論を先取りして言うと、
渡来系の人々は爆発的に人口を増加させる事によって、
あっという間に縄文系の人々の人口を追い越し、福岡周辺の平野を埋め尽くしていったのだ。
中橋さんの研究から、縄文系と渡来人の人々の平均寿命も明らかになっている。
縄文系の平均寿命は僅か :shock: 14歳、これに対して渡来系は :evil: 25歳である。
このように書くと現在の我々との余りの落差に、どちらも短命だったように見えるが、これは乳幼児の死亡率が非常に高いためである。
渡来系の人々でも成人になるまでに生きられる人は、半分程度だという推計が出ている。
だが、乳幼児の危機を乗り切ったひとが、
その後に何歳くらいまで生きられたかを見てみると、縄文系と渡来系では大きな差が出てくる。
中橋さんは一例として15歳の女性の平均余命(=15歳の女性が平均して、あと何年生きられるか)を挙げている
それによると縄文系が :m032: 16年なのに対して、渡来系は :m043: 30年を超えている。
これは単に、その人が長生きでおめでたいと言うだけの話ではない。
女性を引き合いに出したのは、わけがある。
つまり15歳を出産開始年齢と仮定すると、子供を産める期間が16年から30年へと倍増しているのである。
これは渡来系の人々の方が、縄文系の人々より、かなり子だくさんだった可能性が高い :roll: 事を示している。
水田稲作という安定した生産基盤が持つ高い人口支持力。
良好な栄養状態に支えられた長い寿命と多産。
渡来系の人々は、縄文系の人々に比べて遙かに増殖力の高い人達だった。
これが人口爆発を引き起こし、容易に縄文系の人々の人口を逆転できた要因だったのだ。 :shock:
渡来人は年に十数人しか渡来しておらず、専従縄文人と対立するほど集団の体を成していなかったのではないでしょうか。 :m300:
posted by postgre : 13:13 | コメント (1) | トラックバック (0)