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2008年12月07日

天皇制と道教の関係とは?~支配層の思惑~

[弥生ー律令時代の集団統合]

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みなさんこんばんは☆

前回の記事、『日本になぜ天皇制が確立されたのか?』に引き続いて、
今回は天皇制と道教の関係について追求してみます。

まず天皇と道教の関係について挙げてみます。

(1)天皇大帝(天皇)
道教において天皇大帝(天皇)とは、もともと北辰の星、すなわち北極星を神格化したものです。だいたい紀元前三世紀、中国の戦国時代の終わりごろから発達してくる星占術的な天文学のなかで、天体観測の最高基準になる北極星(=天の周りの中心)が神格化されて天皇大帝が出現しています。

(2)天皇即位と三(二)種の神器
天皇の位を象徴するものを三種の神器と呼んでいますが、日本書紀や養老令によると古い時代には鏡と剣との二種の神器であり、皇位を伝えるときには、その璽(しるし)として鏡と剣とが授与されると記されています。(ちなみに三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))道教では宇宙の最高神である天皇大帝の聖なる権威を象徴するものとして、鏡と剣の二種の神器があるとされています。

(3)皇室が尊重する紫色
日本では古くから紫色が尊重され、紫色が現在に至るまで皇室の色とされています。道教では、天皇大帝は天上世界の宮殿である紫宮に住んでいるとされ、紫色は中国→日本で重用されるようになっています。

(4)四方拝の儀式
元旦に天皇が宮中で行っている四方拝の儀式は、中国における道教の宗教儀礼をそのまま日本の宮廷に持ち込んだものとされています。四方拝とは、四方を拝して一年間の無病息災を祈るものですが、これは道教の経典に具体的な記述がなされています。

このように天皇と道教には深い関係があるようです。

ではここから、なぜ天皇と道教はこれほどの
関わりを持っているのか?を考えてみたいと思います。


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2008年11月25日

7,8世紀の法及び制度の変遷の意味するものは?

[弥生ー律令時代の集団統合]
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皆さん、法や制度ってどのようなものだと思いますか?
権利争いが生じるのを防ぐ、あるいは生じてしまっても治める役割を持っていますよね。
つまり、集団や社会を統合しようとする概念の一つであると思われます。

また、その一方で、権力者に都合よく定められた法などは、弱者は搾取されるだけで何のメリットも無く、権力者の体制を磐石のものにする為に用いられてきました。

では、過去にはどのような法や制度があったのでしょうか?
主に7,8世紀についてその形成過程を見ていきたいと思います。

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2008年11月11日

「ケガレ」意識を基盤に形作られた律令制度

[弥生ー律令時代の集団統合]

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古代史グループでの追求により、古代日本史が実は朝鮮半島からの侵略史であり、氏族間の争い(ex.物部氏vs蘇我氏)も皇位継承を巡る争い(ex.天智天皇系vs天武天皇系)も、実は朝鮮半島における国家間の争いの縮図となっていることが徐々に鮮明になってきました。特に推古天皇朝以降の百済系勢力と新羅系勢力の争いは熾烈なものであったようですが、奈良時代を通じて徐々に天智天皇系(百済系勢力。藤原氏なども含まれる)にその主導権が移っていきました。この間、徐々に官僚制度の整備が進み、律令時代と呼ばれる時代へと入っていきます。

日本』という国を形作り統合するためには、「規範」が必要不可欠です。律令制度への移行においては、縄文人が持っていた規範意識・規範観念を下敷きにして、様々な規範が成立していきました。

この縄文人が持っていた基底的な規範観念が、今でも強く私たちの意識を形作る『ケガレ』です
現に、この『ケガレ』とタタリを大きな軸として描かれた「もののけ姫」は、私たちの心をつかみ、大ヒットを記録しました。

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2008年10月08日

中国、朝鮮、日本を貫く共通シンボル「八咫烏」

[弥生ー律令時代の集団統合]

今日は一風変ったところで、八咫烏(やたがらす)と中国、高句麗、高麗神社、熊野神社、天皇家の礼服のお話し。Jリーグのシンボルマークでもあります。
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[高句麗の古墳壁画]
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2008年09月27日

蘇我氏の歴史隠蔽のために日本書記は4人のうち2人は中国人が担当した

[弥生ー律令時代の集団統合]

 
 天武天皇が六八一年に日本書記の編纂を命じました。そしてできあがったのは七二〇年です。その間三九年。多数の編纂者が参加しました。それでもできあがった書紀を直接書いた人物はそんなに多くはなく、実は計四人をかぞえるにすぎないそうです。

 それは誰か。
森博逹『日本書紀の謎を解く』(中公新書)によって紹介します。
 

 山田史御方
神代から二〇代天皇安康までと三三代推古天皇、三四代舒明天皇。四〇代天武天皇を担当しています。

 続守言
二一代雄略天皇から三二代崇峻天皇までを担当しています。
 
 薩弘恪
三五代皇極から三八代天智天皇までを担当しています。
 
 紀清人
四一代持統天皇を担当しています。
 
以上の4人です。そのうち続守言薩弘恪の2人は中国人だそうです。


 この2人の中国人が書いた日本書記についての問題を、建築家渡辺豊和氏が「日本書記の罠」http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/jpn/nswana/nsw-00.htmlで提起しています。

 この2人の中国人が書いた部分は、
事実を改変する必要があった部分、=蘇我氏の歴史隠蔽
中国、当時の唐王朝に日本歴史を認めさせるため
という理由があったのではないかと解説しています。

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2008年07月04日

持ち込まれた婚姻様式

[弥生ー律令時代の集団統合]

渡来人の持ち込んだ最大のものは稲作などではなく、「私権意識と私権制度」であるという視点は、弥生時代以降を考える上で、極めて重要な視点だと思います。
さらに、前投稿では、「大陸でほぼ確立された支配制度(税制と体制組織)と自集団の婚姻様式(遊牧・略奪由来の私有婚)がもたらされた」と述べられています。
今回は、さらに突っ込んで、彼らの婚姻様式がどのようなものだったのかに触れてみたいと思います。

遊牧部族の父系制への転換 るいネット より

>当時、狩猟部族も採取部族も母系制ですが、遊牧集団は父系制にいち早く転換したようです。この父系制=男原理への転換が私権性の高まりや略奪闘争開始を解明する鍵ではないか、と直感的には思うのですが・・・。邪心集団→略奪闘争説への疑問 るいネット
もともと母系制であった集団が、遊牧に転じたら何故父系制に転換したのか、という問題から考えたいと思います。

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posted by naoto : | |

2008年07月03日

北方民族が日本に至るまで

[弥生ー律令時代の戦争][弥生ー律令時代の集団統合]

先日のsimasanのエントリーでは、北方民族の渡来によって日本での私権制が確立されたことを述べられていましたが、今回は日本に至るまでの遊牧民族の概略の歴史を押さえておきたいと思います。

るいネットに、よくまとまった投稿がありますので、この投稿を紹介させていただきます。


96255 掠奪闘争と部族大移動の概観①
96621 掠奪闘争と部族大移動の概観②  井上宏さん
(③は、交易の部分までとなりますので、ここでは省略させていただきます)


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①第一次大移動(5500年前~4000年前頃)

・イラン高原周辺の始原掠奪闘争(5500年前頃) 
 → 西方へ:アラブ~北メソポタミアのセム遊牧・掠奪部族形成
       (シュメールは?)
       →メソポタミアやエジプトで国家形成(約5000年前)
 → 東方へ:北方モンゴロイドの掠奪部族形成 
       →黄河流域へ、竜山文化形成?(約5000年~4000前頃)
 
 → 北方へ:コーカサス・カスピ海周辺の草原地帯での掠奪闘争
       印欧語族形成へ
 
イラン高原から繋がる、遊牧民の住む中央アジアの草原地帯が掠奪闘争の伝播路となった。
イラン高原に近い農耕地帯のメソポタミア・エジプトでは国家形成が早く、同様に近接する中央アジアの大草原では、他の掠奪部族との闘争を繰り返す中で、印欧語族のような強力な掠奪部族が形成され始める。


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posted by yuyu : | |

2008年07月02日

日本の私権制は、弥生後期の北方民族の襲来によって確立された!

[弥生ー律令時代の集団統合]

これまでの流れを整理すると、

①最初に日本に渡来したのは大陸の騒乱を逃れてきた江南人である可能性が高い。
②その当時、戦闘が行なわれた形跡はない。また、江南人は稲作の技術を持っていたので、寧ろ、高い技術力を持って縄文人を指導し、融合したのではないか。
③それら南方系の渡来人の高い技術力に加え、組織力が縄文集落を拡大し、拡大した集団どうしが勢力争いをする中で、勝った方が服属関係を強めていった。


しかし、ここまでは日本全国を統一するほどの巨大な勢力にはなっていない。

では、日本の私権制は、どのようにして確立されていったのか?


るいネット「日本に私権制と私有婚をもたらした北方遊牧民」に興味深い記事がありましたので引用させて頂きます。

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posted by simasan : | |

2008年04月22日

弥生時代⇒家族の登場

[弥生ー律令時代の集団統合]

当グループでは現在、縄文末期から弥生にかけての社会構造と縄文人の意識状況について調べています。と言ってもその決定打はなかなか見つかりません。先日naotoさんが末期の縄文時代の状況を諏訪地方の記述からエントリーされましたが、それも一つの事例紹介としては有効だと思います。
つまり人口が1000年間で1/3に減じた縄文社会の食糧事情とは滅亡寸前であったという事です。
縄文から弥生にかけての集団の変化とはそういった外圧状況の中で起こりました。

ただ集団規模や居住形態は縄文末期から弥生前期にかけてほとんど変わりません。集団規模は30人規模で、居住形態は竪穴式住居です。しかしミクロに見ていくと劇的な変化があるのです。
私はそれを大集団の中に登場した家族の存在だと考えています。家族の起源は考古学や人類学でもさまざまでここでは細かく紹介しませんが、人類は家族から始まったとされる極論から大集団と居住単位や婚姻形態を基にする家族とは構造的に異なる存在とする理論と考え方が分かれます。

家族とは一旦、以下の定義をします。
①共同居住 ②血縁がある ③婚姻形態がある ④生産と消費を共同で行う。 ⑤財産の私有権がある
①~⑤までを行う最小単位を家族と仮に呼ぶことにする。

縄文時代も5~6人で共同居住していたが、①~③を満足しても④、⑤は明らかに異なり、生産は集団全体で行い、消費も集団全体で行っていた。当然、財産の私有もなかった。
弥生時代になると子割りした農地を管理する集団が必要になり、5~6人の規模で①~⑤を概ね満たす小集団が登場した。当然経済的な自立は難しく、④、⑤はまだ緩やかなものであった。しかしそれがその後の家族の起源になったのである。

鷲田豊明氏は「環境と社会経済システム」の中でから弥生と縄文の集団に関して以下のように記述しています。は私の意見です。

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posted by tano : | |

2008年03月26日

私権社会への変遷(弥生庶民の状況分析)

[弥生ー律令時代の集団統合]

縄文時代が終焉し、弥生時代を経て日本はいよいよ私権国家へと変遷していくのですが、分岐点である弥生時代がるいネットやこのブログを通じてまだまだ明らかにされていないように思います。

私権社会への変遷のキーワードはそれまでの共同体が解体し、渡来人が持ち込んだ私権社会の様式に染め上げられていく課程です。日本の場合は他国と異なり侵略、武力支配の明確な転換点はありません。渡来人が持ち込んだ水田技術や婚姻制を含めた社会統合手法、私権規範などを刷り込まれることで徐々に(ではあるがわずか500年弱)私権社会へ変化していった可能性があります。
一方で、その後の歴史においても日本人としてのアイデンティティーは各時代を経て残存し続けており、それらが縄文時代に培った本源性であることは明らかです。それが、日本人が世界史的に見ても特殊で稀有な存在として注目されている所以でもあります。

つまり、「日本は弥生時代に私権社会へ一気に移行していない」のではないかという仮説を立ててみたくなるのです。

私権社会への変遷とは一言で言えば自我を正当化した私権観念の支配度合いであり、同時に略奪部族に対抗する為の超集団の統合手段でも在ります。私権社会への移行が遅れた、私権観念の浸透度度合いが比較的少なかった所以は自我を封鎖するしくみを残存させていたからであり、そのまま縄文社会の共同体が庶民レベルではかなり後まで残っていた可能性があるのです。私達は歴史の便宜上、縄文―弥生と時代を切り分けあたかも弥生時代でスッパリと庶民の意識まで国家統合へ向かったかのように思いがちですが、庶民レベルではきっと縄文社会の連続性の中に農耕を受け入れていったのではないか、そういう可能性も決して捨てがたいものだと思うのです。

これから数回に渡ってこのテーマを追求していきたいと思います。
縄文時代から弥生時代に渡って果たして自我は封鎖されていたのか
このテーマを解明する為に弥生時代の基礎資料が必要になります。
今回はその1回目として弥生時代の庶民の社会構造を見ていきたいと思います。

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2007年08月05日

古代文字

[弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の集団統合]

◎日本ではいつごろから文字が使われるようになったのでしょうか。
また、現代に繋がる「かな遣い」はいつごろから使われだしたのでしょうか
日頃何気なく使っている漢字とかなまじりの日本語は、いつごろから使われだしたのかまだはっきりしない様です。
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神代文字(アヒル文字)の一種」

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2007年05月05日

まとめ・・・・お墓の変遷

[Ⅲ弥生ー律令][弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の集団統合]

お墓の歴史のHPを最近我がチーム縄文で扱っています。この際ですから、縄文時代から古墳時代までのお墓の歴史を大つかみで追いかけてみたいと思います。

縄文時代~古墳時代にかけてお墓は大きく以下のように変遷していきます。

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2007年04月29日

古代の墓の変遷~集団統合から、支配・国家統合の為の装置へ

[弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の集団統合]

こんにちは、simasanです。

お墓についての話題で盛り上がっていますが、ここでちょっと、古代の墓の変遷について、時代背景と墓の特徴を整理してみました。

以下、一部
 「お墓の歴史 縄文時代」 
 「日本社会システムの起源」 から引用させてもらってます。

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2007年04月26日

弥生~古墳時代 一般人の墓事情

[弥生ー律令時代の集団統合]

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「方形周溝墓」
画像は発掘情報いばらき さんよりお借りしました。

こんばんは :m208: bunchanです。今日もお墓の話題です。

646年。「薄葬令」っていう御触れがだされています。墓や葬るにあたって、簡素化しなさいってことのようです。・・・てことはそれまでは華美だったってことですよね。
時代は大化の改新の翌年。その前は古墳時代でした。中国・魏文帝の節喪令の影響が見られるそうです。

『史記』、孝文帝紀には次のように書かれています。


『今日では、世の中の人々は生を喜び死を憎み、過剰な葬儀を営まんが為に仕事も出来ず、しかも喪に服する期間が長い為に皆痩せ細って今にも死にそうである。このような現状を自分はとても受け入れる事が出来ない。しかも余は不徳で人民の生活を助ける事も出来なかった。今、自分が死んだ後、三年にも及ぶ長い期間このようなことをさせる訳にはいかない。天下の君主になって二十余年になるが、その間天地の祖霊と皆々のお陰で戦争さえなかった。さぁ、天下の官吏民衆に告げよ。この令が届いたなら、会葬すること三日で喪服を脱ぎ、娘は嫁にも出してやれ。神と先祖を祀り、酒を飲み、肉を食する事も許し、会葬に臨む者は裸足でなくてもよい。喪服の帯は三寸を超えてはならない。車・兵器は布で覆わず、宮殿の中で泣くのは朝夕二回、各々十五回声を出せばよい。棺を墓に納めたなら、大功の喪服の者は十五日、小功の者は十四日、麻の喪服の者は七日間で喪服を脱げ。この令にないことはこれに準じて行なえばよい。天下に布告して私の気持ちを知らせよ。山河の自然はそのままにし、後宮の女官は一人残らず家に帰してやるがいい。』

薄葬令では、墓の大きさ・造営期間・そのための人員等が細かく規定され、また殉死の禁止も定められています。

例えば、皇族以上に対しては

   墓の内は長さ約2.7メートル、幅1.5メートル。
   外域は縦横とも15メートル、高さ8.5メートル。
   工夫1000名、工事期間は7日。
   葬礼の垂れ帛は白布。

一般庶民は

   死者は一日も留めることなく土中に埋葬すること。
   垂れ帛は粗い布。
   また、葬り場所は決められた場所のみとし、方々にみだりに埋葬してはならない。   
   宝物を納めたり、哀悼の為に髪を切るなどしてはいけない。

等の規定があった。

以上参考、「お墓の歴史

皇族以外の一般庶民にもこんなおふれがだされるとは・・・当時の墓事情ってどうだったのでしょうか。
続きにいくまえにぽちっと・・・おねがいします :m023:
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posted by bunchan : | |

2007年04月24日

屈葬とベンガラについて~その2

[Ⅰ文明前夜・石器時代・巨石文明][弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の集団統合]

前回は、屈葬ベンガラの意味について、胎児の姿勢をまねて再生を願ったとする説を中心にした紹介でしたが、では、実際にどこからベンガラが使用された遺跡が見つかっているのかについて、少し調べてみた内容と、別の説を補足として、エントリーしておきます。

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<屈葬:縄文文化の超自然観より>
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/area/ne_asia/Jomon/index

実はあまり全国的には発掘事例は多くはないようなのですが、日本では、北海道から東北部にかけて、また縄文後期から晩期にかけて、ベンガラがまかれた遺跡が発掘されているようです。

その内、代表的なベンガラがまかれた遺跡は、北海道の恵庭市カリンバ跡(縄文時代後期後半(約3500年前))のようです。

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posted by yuyu : | |

2007年03月31日

弥生時代の身分制度(番外編)-奴婢、軽罪は妻子没収、重罪は一族にも刑が及ぶ

[弥生ー律令時代の集団統合]

:D くまなです

今回は階級社会の番外編として「奴婢」です。

私たちが奴隷と言われて思い浮かべる‘鎖につながれて重労働を強いられる’人々がいたとすれば、この奴婢と呼ばれる人たちで、罪を犯した人々です。奴婢の「奴」が男で、「婢」が女。


卑弥呼が死んだときに奴婢100名余りが殺され一緒に埋葬されたと、魏志倭人伝の記述があります。

彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人

●和訳:この時、卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、男女の奴隷を百人以上殉死させた。あらためて男王を立てたが、国中は不服として、そのため殺し合いになった。当時千人余りを殺した。

殉葬は、古代殷(商)で行われた習慣で、のちの朝鮮でも表れます。
それを卑弥呼(の一族)も行ったということです。

下は、古代殷(商)での殉葬の跡です。

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(写真はリンクよりお借りしました。)

殉葬制度については、加耶の歴史文化を参照してください。


奴婢は犯罪者ってことですが、当時の犯罪って?

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2007年03月30日

弥生時代の身分制度(2/2)-生口は偉い人への貢ぎ物

[弥生ー律令時代の集団統合]

こんばんは、くまなです :D

前回に引き続き、弥生時代の身分制度です。
今回は、一般に奴隷と言われている‘生口’が中心になります。

生口は、当時、卑弥呼や台与(卑弥呼の後継者)らが、魏(当時の中国)に献上した貢ぎ物 :m176: の中に含まれています。


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表は、サイト邪馬台国とは何だろうか?魏志倭人伝の語る日本を参考に追加作成しました。

弥生時代には、日本から中国への貢物として「生口」という人間が何度も送り込まれています。
魏志倭人伝での生口に関する記述を紹介します。

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2007年03月29日

弥生時代の身分制度(1/2)-下戸は道で大人に出会ったら草むらに退く

[Ⅲ弥生ー律令][弥生ー律令時代の集団統合]

こんばんは、くまなです。 :D

弥生時代の日本には、中国・朝鮮から渡来人とともに身分制度がやってきたようです。


魏志倭人伝によると、1700~1800年前の日本(倭国)には、大人下戸生口という身分階級がありました。(※魏志倭人伝は、正式には『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝中・倭人の条)


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図は、弥生ミュージアムさんからお借りしました。⇒参考:社会組織・階層


魏志倭人伝は当時の中国(西晋)の官僚である陳寿が自らの見聞や使者・地元民からの伝聞をもとに編纂したものです。
(参考:魏志倭人伝とは?)

今回は魏志倭人伝にある大人下戸に関する記述と現代和訳を以下に紹介します。(参考サイト:魏志倭人伝の原文と対話型和訳

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2007年03月28日

漢字の到来・・・文章語としての日本語

[弥生ー律令時代の集団統合]

さて、日本語の一番のポイントは漢字文化の到来です。
漢字とは言うまでもなく中国の文化ですが、楽浪郡という朝鮮の民族国家の亡命者を介して日本に移入されました。
それまでは縄文語だったわけで、通常、言語を変えるという事は魂を売るに等しい事です。漢字文化を注入されながらも日本流に加工して使いこなしたのです。

ここでも1万年に渡る日本人の精神性が発揮されます。

再び司馬先生の文章を掲載します。

「文章語としての日本語」より

古代、朝鮮半島に、漢の直轄領がありました。これが、楽浪郡であった・・・。紀元前108年からほぼ400年つづいた特別な地域でした。ここに、中国から役人や学者、あるいは画家や建築家などがやってきて、中国文明を移植しました。中国文明を牛乳にたとえるならば、楽浪郡はコンデンス・ミルクのように濃縮された文明の缶詰でした。ところが、4世紀初頭に楽浪郡がほろびます。すでに力を蓄えていた地元の朝鮮民族が、古代的な民族国家をつくります。失業した楽浪郡の知識人や技術者たちあるいはその子孫たちは、その後、朝鮮の民族国家に貢献するとともに、日本にもやってきました。

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2007年02月28日

弥生期の人口増は大量渡来か、それとも稲作化によるものか?

[Ⅲ弥生ー律令][弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の外圧][縄文人の集団統合]

こんにちは、simasannです。

弥生から古墳時代にかけて、下表のように急激に人口が増えていったことは、ご存知の方も多いと思います。
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http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htmより引用

これについては、このブログでも以前tanoさんが投稿している、 「二重構造モデル」を提唱する埴原和郎さんの①「100万人規模の大量の渡来人によるもの」とする説と、

九州大学大学院の中橋孝博教授と九州歯科大学の飯塚勝助教授らが提唱する②「少数の渡来人による水稲耕作化と長寿命化によるもの」の2つの説があります。

考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」というように、現在もなお論争が続いています。

それぞれの主張は、そして、どっちがホント?、知りたいと思った方は、ポチッとお願いします。
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posted by simasan : | |

2007年02月27日

弥生時代の海上交通事情

[弥生ー律令時代の集団統合]

こんばんは~bunchanです :P

弥生時代の仕事といえば稲作。でも稲作だけが生業ではなかったのです。大陸との交易も行っていたんですよ~。
縄文時代の複数の遺跡からは丸木船が発掘されています。
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丸木船:画像は「弥生ミュージアム」さんからお借りしました

弥生時代の人々は、近隣地域を行き来するための川や沼、湖などの運行には縄文時代以来の丸木舟を、遠方への航海には弥生時代に登場した準構造船を利用していたものと思われます。

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準構造船:画像は「弥生ミュージアム」さんからお借りしました
この準構造船を使って弥生時代の人は大陸へ航海していたのです。
確かに縄文時代の丸木船にくらべて作りもしっかりしていますよね :m034:
が、しかし、この航海はかなりたいへんなものでした・・・

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2007年02月14日

環壕はなぜ忽然と姿を消したのか?

[弥生ー律令時代の戦争][弥生ー律令時代の集団統合]

弥生時代の人々の意識を解明する上で、「環壕」が忽然と消え去ってしまった原因をおさえておく必要があると思います。
今回は、「環壕の起源」「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を、
邪馬台国の道から紹介したいと思います。

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高島 日本最大の環壕集落として知られる吉野ケ里遺跡は紀元前3、4世紀から紀元3世紀までの約700年間、継続的に存在した。その初期の環壕が遺跡南側で確認されているが、形状はどうも韓半島にも類例がある楕(だ)円形のようだ。
 韓半島における環壕集落の成立は吉野ケ里遺跡より古く、その後、日本でいう弥生後期まで続いている。
韓国南岸には多くの環壕集落が確認されており、その中に環壕の形状が楕円形もある。南山(ナムサン)遺跡などがそうで、吉野ケ里遺跡のように大きくはないが、成立年代も同じとみている。形状や成立年代など類似点は多く、日本の環壕集落の起源は韓半島の可能性が高い。

西谷 関係の深さを感じさせる遺物も多い。福岡市の板付遺跡に代表される弥生時代初期の環壕集落から出土する磨製石器と同じ形式のものが検丹里(コムタンリ)環壕集落で確認されている。磨製石器のほかにも韓半島に源流を持つ支石墓が吉野ケ里遺跡の近くにある。環壕だけでなく付随する遺物や遺構までそっくりだ。やはりルーツは韓国と考えたほうが自然だろう。

引き続き、「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を紹介します。

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弥生時代のクニの形成過程

[弥生ー律令時代の国造り][弥生ー律令時代の戦争][弥生ー律令時代の農業][弥生ー律令時代の集団統合]

おはようございます、tanoです。久しぶりに弥生に戻ってまいりました。
今日は弥生時代のクニの形成について考えてみたいと思います。

弥生時代は縄文晩期に渡来した中国・朝鮮系渡来人によって作られました。
弥生時代の特徴は集団規模の拡大と階層化の登場です。

弥生ミュージアムではクニの形成を以下の4段階に分けています
■第一段階 農業開始期
■第二段階 クニの成立期
■第三段階 クニの相互期
■第四段階 クニの連合期

【この4つの段階は大きくは以下のようになります。】
渡来人の定住・農耕の開始
:m118:
人口の増加=集団規模の拡大
:m118:
環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の中身の拡充
:m118:
環濠集落の消滅
:m118:
古墳の登場

???なぜ集落が消滅したのでしょう?

これには祖霊信仰と武器の祭器化が絡んできます。 :roll:
上記を流れを詳しく図解化風に書いてみました。

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posted by tano : | |

2007年02月13日

弥生時代に持ち込まれた祖霊信仰

[Ⅳ中国文明][弥生ー律令時代の国造り][弥生ー律令時代の集団統合]

こんばんは~ :m017: 最近信仰ってなんだろう~?と追求中のbunchanです :m072:

ひとことで「信仰」といっても、いろんな信仰があります。
始源人類の最初の信仰は、「精霊信仰」でした。
精霊信仰とは、万物の背後に霊を見るというもの。あらゆる自然を注視し、それは観念機能の獲得にもつながっていくものでした。縄文人もこの精霊信仰をしていたと思われます。縄文から弥生に時代が移ったとき、弥生時代にもたらされたのが「祖霊信仰」でした。もともとは皆同じように墓に葬られていたのですが、特定の人の墓に特別な副葬品(銅鏡など)を一緒に埋葬したりやがてはその特定の人の祭祀を行ったりして先祖を祭るようになっていきました。
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福岡県須玖岡本遺跡出土の前漢鏡(草葉文鏡)のレプリカ「弥生ミュージアム」 さんよりおりしています。

「祖霊信仰」ってなに?どこからきたの?
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posted by bunchan : | |

2007年01月13日

たたら製鉄は日本ならではの製鉄技術?

[弥生ー律令時代の集団統合]

みつこさんの記事の「鉄器の流通」のコメントの中からたたら製鉄の話が出てきました。
日本の製鉄の始まりであり、日本にしかないこの製法について詳しく書かれたブログがありましたので紹介したいと思います。

ブログのタイトルは

「もののけ姫」を読み解く

です。⇒このブログは読み物としてもかなり面白いですので時間があればぜひ一読下さい。
その中の たたら製鉄の記事です。もののけ姫の映画を見た人はたたら鉄を踏むシーンを思い浮かべながら読んでください。

日本の製鉄は太古より行われていた。日本には、原材料となる鉄鉱石は乏しかったが、火山国の特性として上質の砂鉄が大量に採掘出来た。このため、砂鉄を炊いて鉄塊を精製する特殊な製鉄技術が発達した。この日本独特の製鉄技術を「タタラ製鉄」と呼ぶ。  タタラとは、神話時代から使われていた古い言葉であり、今も地名に残っている。タタラには、年代順に「蹈鞴」「鑪」「高殿」などの漢字が当てられた。「蹈鞴」は、「鞴」を「蹈む」という意味。「鑪」は製鉄に使う溶鉱炉の意味。「高殿」は製鉄用の特殊な建物(後述)を示す。漢字の推移は、そのままタタラの発展を示すものでもある。  タタラ製鉄は、諸外国で行われた鉄鉱石の製鉄に比して、はるかに硬度と柔軟性に富む上質の鉄を作り出す技術であった。不純物が混在している鉄鉱石に比して、砂鉄は原料段階で不純物を除去出来る。砂鉄自身の純度が高ければ、極上の鉄塊を作ることが出来るのだ。タタラ製鉄で出来た鉄塊は、現在の製鉄技術を駆使しても及ばないと言われるほど高純度なのである。世界最高峰の鉄刀と言われ、各国に輸出されていた日本刀も、タタラ製鉄なればこそ出来たのである

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「ふみふいご」(右)と、改良された「てんびんふいご」(左)。これらを合理的な装置に改良したのが「たたら炉」である。(鉄の語る日本の歴史上/飯田賢一/そしえて文庫)

ではそのたたら製鉄とはどうやって作ったのでしょうか?

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posted by tano : | |

2007年01月10日

鉄器の流通

[弥生ー律令時代の戦争][弥生ー律令時代の集団統合]

明けましておめでとうございます :m227: :m226: みつこ :D です。
今年も少しづつですが、このブログで勉強していきたいと思います :m103:

さて、今日は古代の鉄について調べてみました~。
弥生時代はこれまでの石器に変わって鉄器が普及して、農業の生産効率を飛躍的に上げることになるのでしたよね。
でもその普及にも、やはり段階があるようです :roll: 。

一緒に勉強 :m061: :m060: って思ってくれた方は、ぽちっとお願いしますね。
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posted by mituko : | |

2006年12月07日

二重構造モデルの補足の補足

[Ⅰ文明前夜・石器時代・巨石文明][Ⅸエトセトラ(その他諸々)][弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の外圧]

カッピカピさんこんばんわ。 :D
tanoです。コメントにかけなかったのでエントリー投稿します。

さてカッピカピさんが補足していただいた二重構造モデルって一体なんなんでしょう
少し調べて判ってきた事がありますので補足の補足をします。

二重というのは何かの上に何かが重なるという事ですね。(文字の通り :confused: )
この二重とは基層となる縄文人に渡来人(弥生人)の血が加わり現在の日本人ができているという理論です。なぜ二重構造モデルが必要になったのか?ネットで検索して拝借した下記の論文ではその事に少し触れています。

縄文文化の担い手たちを「縄文人」、弥生文化の担い手たちを「弥生人」と呼ぶとすると、縄文人=弥生人というのが、この説の主張するところです。縄文文化の担い手であった日本人の先祖たちが、大陸や朝鮮半島の進んだ文化を受け入れて、弥生時代という新しい文明段階に進んでいった、というわけですね。
ところが近年、形質人類学や分子人類学、ウイルス学等の発達に伴い、骨格や頭蓋骨の形と歯形、そしてウイルスやDNAなどをより厳密に比較することが可能となり、縄文人と弥生人との間には、とうてい同一人種とはみなせない相違があることが明らかとなりました。

この問題を解決するため、人類学者の埴原和郎氏は「二重構造モデル」という仮説を提出しています。『日本人の骨とルーツ』という本から、少し長いのですが、引用します。この中で埴原氏は縄文系と渡来系という言葉を使っていますが、渡来系とは弥生人のことであるとお考えください。

さて、埴原氏の文献を見て見ましょう!。

『日本人の骨とルーツ』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31018072
「日本人の起源と形成の問題はいまだに研究者の興味を引き、論争の的になっている問題も少なくない。本書では、現代にもみられる日本人の地域性を、縄文系集団と渡来系集団の混血の濃淡によって説明し、地域性や自然環境、文化の発展などにも着目する。日本人の形成史を縄文系と渡来系の「二重構造モデル」で分析し、自然人類学の視点で日本人のルーツを探る。」~yahooブックス解説より

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埴原氏の原文を読んでみたい と思った人はぽちっと押して次へどうぞ。
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2006年12月02日

縄文人と弥生人の特徴の違いについて

[弥生ー律令時代の集団統合][縄文人の外圧]

こんばんはyuyuです。
 
いつも、読んで勉強させていただいている、「新しい日本の歴史」HPさんの中に、「日本人とATLウィルスの関係」というタイトルがあります。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page695.html
 
何ゆえ、歴史にウィルス?と、少し疑問に思ったので、ちょっと調べてみました。
 
 
■「二重構造モデル」

>そうした近年の諸研究から様々な渡来モデルが提唱されているが、一般的には埴原和郎の「二重構造モデル」が良く知られていよう。この説は「もともと日本列島にはアジア南部に由来する縄文人が広く住んでいたが、弥生時代になるとそこに、かつては中国東北部にいたツングース系の人々が朝鮮半島経由で流入した。その結果、彼らの影響の及ばなかった日本の南北両端の琉球人と北海道アイヌには、共に縄文人的な特徴が残った」、という考えである。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/161.html

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http://www.gmnh.pref.gunma.jp/demeter/demeter7-02.html
(群馬県立博物館HPより)

「二重構造モデル」って、古代史ファンの間では、結構有名なモデルなんですね。

先のATLウィルスもその特徴を表す要素の一つのようです。

では、その他の具体的な、縄文人と弥生人の特徴の違いって、どんなのがあるのでしょうか?

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posted by yuyu : | |

2006年11月05日

環壕集落ってなに?

[弥生ー律令時代の戦争][弥生ー律令時代の集団統合]

こんにちは、yuyuといいます。
最近、ブログ「新しい日本の歴史」を読んで勉強しているんですが、その中で「環壕集落」がでてきたので、少し調べてみました。

>大和286、河内・和泉175、近江155 この三ヶ所は、最大の環濠集落を有する所です。順番に、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。下之郷遺跡にいたっては、3条の内濠(内郭)と6条の外濠(外郭)の合計9条の構造になっていて、いかに、外部からの攻撃を恐れたかが判ります。
河内・和泉には、池上・曽根遺跡があります。環濠というものの、深さは浅く防御用とは考えにくいですが,河内平野にある巨大古墳は、中国人との関連でみる必要があると思われます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page571.html
(「新しい日本の歴史」No16式内社が教えてくれること その3より)

>環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
(ウィキペディア「環濠集落」より)

なるほど読んで字の如く、周囲に堀をめぐらせた集落のことなんですね。

  iseki.jpg    
  (大塚遺跡) 

  hukugen.jpg
  (大塚遺跡の復元図)


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posted by yuyu : | |

2006年11月01日

古事記って。。。(その2)

[弥生ー律令時代の集団統合]

前回の続きです~。
つぎつぎと日本各地を征服(平定?)していったイザナギとイザナミはどこからやってきた人たちだったのでしょう :m052: :m052: :m052:

posted by bunchan : | |

古事記って。。。(その1)

[弥生ー律令時代の集団統合]

はじめまして、ぶんです :m146:  よろしくお願いします。

古事記は、和銅五年(712年)太安万侶によって献上された日本最古の歴史書 :m061: です。
稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものです。
上巻(かみつまき)には、天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が日本神話の形式で語られています。

天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナギ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。
こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。
そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。
イザナギは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98(ウィキペディアから抜粋)<

実は、この神話の意味って侵略と同類闘争の過程を述べているものだったようなんです!! :shock:

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