2008年07月03日
北方民族が日本に至るまで
先日のsimasanのエントリーでは、北方民族の渡来によって日本での私権制が確立されたことを述べられていましたが、今回は日本に至るまでの遊牧民族の概略の歴史を押さえておきたいと思います。
るいネットに、よくまとまった投稿がありますので、この投稿を紹介させていただきます。
96255 掠奪闘争と部族大移動の概観①
96621 掠奪闘争と部族大移動の概観② 井上宏さん
(③は、交易の部分までとなりますので、ここでは省略させていただきます)

①第一次大移動(5500年前~4000年前頃)
・イラン高原周辺の始原掠奪闘争(5500年前頃)
→ 西方へ:アラブ~北メソポタミアのセム遊牧・掠奪部族形成
(シュメールは?)
→メソポタミアやエジプトで国家形成(約5000年前)
→ 東方へ:北方モンゴロイドの掠奪部族形成
→黄河流域へ、竜山文化形成?(約5000年~4000前頃)
→ 北方へ:コーカサス・カスピ海周辺の草原地帯での掠奪闘争
印欧語族形成へ
イラン高原から繋がる、遊牧民の住む中央アジアの草原地帯が掠奪闘争の伝播路となった。
イラン高原に近い農耕地帯のメソポタミア・エジプトでは国家形成が早く、同様に近接する中央アジアの大草原では、他の掠奪部族との闘争を繰り返す中で、印欧語族のような強力な掠奪部族が形成され始める。
続きは、クリックの後で!!
posted by yuyu : 23:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年06月20日
農耕生産は私権闘争には直結しない
naotoさんからバトンタッチで、今回は 「農耕が戦争の引き金になるのか?」 を扱いたいと思います。
2つ前の当ブログの投稿で、くまなさんが「教科書の弥生時代」でも言われているとおり、
人間は余剰生産物ができると、それらの貯蔵を巡って所有関係が発生し、たくさん所有した人は別の品物と交換していろいろなものを手に入れたくなる。そこで、土地を巡って争いが始まる、というのが教科書を始め、歴史書に書かれている大筋の戦争の起源の話ですが、比較的豊かな暮らしができていた縄文人が、余剰生産物ができると戦争を起こしてまで、さらに豊かな生活を求めるのでしょうか?

図はhttp://www.saga-s.co.jp/yoshi_vol3.htmlより引用
疑問あり!と思った方はポチッとお願いします。
posted by simasan : 21:06 | コメント (2) | トラックバック (0)
2008年02月05日
余剰が冨の集中と戦争をもたらすって本当?
こんにちわちわわです。
日本史の教科書では、概略すると、弥生時代に入って水稲栽培が広まると余剰生産物が生じ、すると冨が支配階級に集中し、戦争が発生する。と書いてあるようですが、本当でしょうか?

狩猟採集民から農耕転換した縄文人の集団内では、蔡紀のための統合者的存在はいると思われますが、自我が共認によって封鎖され、私有意識も存在していない集団内では、余剰が生じたからといって、冨の集中、ましてや戦争に直結するとは思えません。
問題は私有意識の有無にあると思います。
稲作を日本にもたらした渡来人は略奪で国を追われた私権闘争の経験者であり、既に私有意識を顕在化させた民族のはずで、彼らが稲作を生業とする生産集団の統合者に座る事によって、冨が私物として認識されるのであり、私権拡大の邪心によって他集団へ収奪に走るようになったのではないでしょうか。
大和朝廷の国家成立も私権拡大の過程であろうし、私婚制度が根付いているのも貴族階級のみであることからも、渡来人による覇権争いが弥生以降の日本の歴史なんだと思います。
posted by tiwawa : 23:53 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年08月16日
弥生時代の戦争は、近隣の集団どうしが戦った
:D くまなです
前回の投稿弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がったの続きです。
戦争による遺物(刺さった武器とその産地)から、各地で戦ったのは、同じ地域の集団同士であることがわかります。そこからは、一部の集団が侵略したのではなく、戦争の圧力が玉突き的に各地に広がっていったということを示します。
九州北部の場合、遺骸に突き刺さった武器は、ほとんどが磨製石剣・石戈(か)、または青銅の短剣などの金属製武器だ。磨製の石剣や石戈は、材質から形から、まずまちがいなく九州北部産といえる。青銅の短剣は、中国・四国や近畿にもあるが、圧倒的に普及率が高いのは、やはり九州北部だ。首を切るときに使ったと思われる鉄の刀も、この時期には、おそらくこの地方にしかないものだろう。九州北部の戦死者・戦傷者は、九州北部の人間の手によるものと結論できる。他の地方はどうだろうか。岡山市清水谷遺跡の木棺に眠る人物に射ち込まれたらしい二十本の打製石鏃は、柳の葉の形になかごがついたタイプで、香川・金山産のサヌカイト製であることから、岡山平野で作られたものとわかる。射ち込んだのは、おなじ岡山平野の人間だろう。
大阪府四條畷市の雁屋遺跡の木棺から出た十二本の打製石鏃も、この地方によくあるタイプで、二上山のサヌカイトでできている。奈良市に四分遺跡の女性に刺さった打製石鏃もそうだ。さらに、京都市の東土川遺跡の遺骸に刺さっていたと思われる七~八本の磨製石剣は、指した相手の出どころを、さらに細かくしぼりこめる資料だろう。磨製石剣を多く使うのは、近畿でも京都盆地あたりにほぼ限られるからだ。東土川の交戦相手は、おなじ京都盆地にいた可能性が高い。
このように見てくると、弥生時代の第二期抗争は、おなじ地域内、ことによっては同じ平野や盆地のなかの、ごく近いところに集落を営んだ集団どうしの争いだったと考えられる。同じ知己の中の利害を争う、近隣どうしの戦闘だったのだ。
では、戦争に際して縄文人はどうしたのでしょうか?
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posted by kumana : 11:00 | コメント (10) | トラックバック (0)
2007年08月10日
弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がった
:D くまなです
先の投稿では日本初の戦争犠牲者について紹介しました。(カテゴリーは「弥生―律令時代の戦争」です)
2500~2400年前に九州北部で勃発したと考えられる日本における戦争は、それから100年ほどがたつと西日本各地に広がっていきます。
戦争の広がりは、環濠集落、武器、戦死者・戦傷者の状況からわかります。概要を表にまとめてみました。
最初の戦争は九州北部に始まります。当時(2500~2400年前)、中国では春秋戦国時代の真っ只中であり、そこでの敗者や難民が大量に渡来し、人口の過密=縄張り侵犯から、戦争が勃発したのではないかと考えられます。
戦争圧力の第二波は2300~2100年前で、これは秦が中国を統一し、朝鮮半島に侵攻した時期です。ここでも朝鮮半島の戦争敗者や難民が渡来したことでしょう。武器の主流は石器や青銅器ですが、大陸では鉄器が普及する時期で、日本においても鉄器が見られるようになります。
そして戦争は、北部九州から周辺へと広がっていきます。
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posted by kumana : 20:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年08月07日
戦った縄文人
縄文人はなす術も無く弥生人に駆逐された。
この縄文ー古代ブログでもそう認識している人は少なくないだろう。我々は戦争という技術を持って、人を支配する事を当然の社会摂理とする弥生人と戦争を知らず、友好的でおだやかな縄文人という構図を知らぬ間にイメージしている。
しかしそうだろうか?
実は縄文人が弥生人と明確に戦争をした史実がある。戦争というより抗戦という形で・・・。
北九州や中国地方に縄文時代から弥生時代にかけて1000年に渡って波状的に上陸した中国や朝鮮の渡来人は縄文人と融合し農業社会を構築し人口は増大した。弥生時代に入り農耕社会は九州、西日本からあっという間に関東地方まで広がっていった。大和朝廷が成立した後は日本は一部の地域を除いて統一されていた。
その一部の地域は最後まで抵抗した。それが現在の東北地方の蝦夷(エミシ)である。
大和朝廷の征服軍の攻撃をしのぎ38年間に渡って闘ったのがエミシだった。
今日はその蝦夷討伐に抵抗した縄文人の戦いを振り返ってみたい。
最近ご無沙汰していました。夏休みに向けて頑張って投稿しますので応援よろしくお願いします。
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2007年06月29日
最古の戦争犠牲者は縄文人だった
:D くまなです
前回、最古の戦争犠牲者の紹介をしました。今回は、それが縄文人だった、という話しです。
この熟年男性は、骨をみると、列島の土着の、いわゆる「縄文人」の体つきをしている。おまけに、歯には、縄文時代以来の古い因習である抜歯のあとがうかがえるという。
「縄文人の体つき」というのは、いわゆる低顔、低身長のことです。
抜歯については、縄文晩期には「叉状研歯」なるものも出現しています。これについてはbunchanの叉状研歯(しゃじょうけんし)って!?」をご覧ください。
身も心も縄文人のようにみえる男性に突きささった朝鮮系の武器。渡来人が、武器を振りかざして縄文人にせまる状況が目にうかぶようだ。事実、そういう場面もあったにちがいない。
さらに、この男性が埋葬されていた墓は…
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2007年06月13日
日本最古の武器
:D くまなです
前回の日本における戦争の起源の続きです。
前回、戦争の証拠の1つとして「武器(人をあやめるための専用につくられた道具と、それから身を守るるための防具)」の存在があることを紹介しました。
■日本における最古の武器はどこにあるのか?
いま確認できる列島最古の武器は、「最古の水田」として有名な佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2500~2400年前)から出ている。ホルンフェルスとよばれる目の細かい堆積岩を磨き出して作った短剣と矢じりだ。
これらの武器は、朝鮮半島の南部で使われていたものと同じで、朝鮮系の磨製石剣・磨製石鏃とよばれている。
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菜畑遺跡から出土した短剣

同時代の韓国の代表的な磨製石剣
おそらく、かれらが故郷の朝鮮半島からもってきたのだろう。人を傷つけるための武器は、稲作の文化といっしょに朝鮮半島から伝わってくることによって、はじめて日本列島に現れたのだ。(「人はなぜ戦うのか」松木武彦より)
戦争の証拠。次は「武器によって殺されたり、傷つけられたりした人の遺骸」です。
posted by kumana : 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年05月02日
日本における戦争の起源~戦争の考古学的証拠~
:D くまなです
今回は、日本における戦争(同類闘争=集団間闘争)の起源について数回にわたって紹介したいと思います。
ポイントとしては、いつ、どこで、誰が、なぜ始めたのか。
渡来人が始めたとしたら、縄文人はどうしたのか。
戦争はどのように広がっていったのか。
縄文人が戦争をしなかったとしたら、それはなぜか。
などです。
文字も記録も乏しい時代ですから、何をもって「戦争の証拠」とするかという問題もあります。
証拠の例としては、
●武器

●環濠集落

●首の無い遺骸

などがあります。
(いずれも、吉野ヶ里遺跡で発掘されたものですので、吉野ヶ里では戦争があったといえるでしょう。)
そこで、本題に入る前に、考古学でいう「戦いの証拠」とは何なのかをご紹介します。
その前に、 :m118: ポチッと応援よろしくお願いします。
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posted by kumana : 22:30 | コメント (3) | トラックバック (0)
2007年02月14日
環壕はなぜ忽然と姿を消したのか?
弥生時代の人々の意識を解明する上で、「環壕」が忽然と消え去ってしまった原因をおさえておく必要があると思います。
今回は、「環壕の起源」「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を、邪馬台国の道から紹介したいと思います。

高島 日本最大の環壕集落として知られる吉野ケ里遺跡は紀元前3、4世紀から紀元3世紀までの約700年間、継続的に存在した。その初期の環壕が遺跡南側で確認されているが、形状はどうも韓半島にも類例がある楕(だ)円形のようだ。
沈 韓半島における環壕集落の成立は吉野ケ里遺跡より古く、その後、日本でいう弥生後期まで続いている。
韓国南岸には多くの環壕集落が確認されており、その中に環壕の形状が楕円形もある。南山(ナムサン)遺跡などがそうで、吉野ケ里遺跡のように大きくはないが、成立年代も同じとみている。形状や成立年代など類似点は多く、日本の環壕集落の起源は韓半島の可能性が高い。
西谷 関係の深さを感じさせる遺物も多い。福岡市の板付遺跡に代表される弥生時代初期の環壕集落から出土する磨製石器と同じ形式のものが検丹里(コムタンリ)環壕集落で確認されている。磨製石器のほかにも韓半島に源流を持つ支石墓が吉野ケ里遺跡の近くにある。環壕だけでなく付随する遺物や遺構までそっくりだ。やはりルーツは韓国と考えたほうが自然だろう。
引き続き、「環壕を普及化したのは誰か?」「環壕の目的」を紹介します。
続きを読む前に、ぽちっとお願いします :D
posted by naoto : 20:00 | コメント (1) | トラックバック (0)
弥生時代のクニの形成過程
おはようございます、tanoです。久しぶりに弥生に戻ってまいりました。
今日は弥生時代のクニの形成について考えてみたいと思います。
弥生時代は縄文晩期に渡来した中国・朝鮮系渡来人によって作られました。
弥生時代の特徴は集団規模の拡大と階層化の登場です。
弥生ミュージアムではクニの形成を以下の4段階に分けています
■第一段階 農業開始期
■第二段階 クニの成立期
■第三段階 クニの相互期
■第四段階 クニの連合期
【この4つの段階は大きくは以下のようになります。】
渡来人の定住・農耕の開始
:m118:
人口の増加=集団規模の拡大
:m118:
環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の中身の拡充
:m118:
環濠集落の消滅
:m118:
古墳の登場
???なぜ集落が消滅したのでしょう?
これには祖霊信仰と武器の祭器化が絡んできます。 :roll:
上記を流れを詳しく図解化風に書いてみました。
続きを読みたい人はポチッと押してみてください(関係ないけど)
posted by tano : 09:01 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年01月10日
鉄器の流通
明けましておめでとうございます :m227: :m226: みつこ :D です。
今年も少しづつですが、このブログで勉強していきたいと思います :m103:
さて、今日は古代の鉄について調べてみました~。
弥生時代はこれまでの石器に変わって鉄器が普及して、農業の生産効率を飛躍的に上げることになるのでしたよね。
でもその普及にも、やはり段階があるようです :roll: 。
一緒に勉強 :m061: :m060: って思ってくれた方は、ぽちっとお願いしますね。
posted by mituko : 20:30 | コメント (5) | トラックバック (0)
2007年01月09日
縄文人に学ぶ現代人
初投稿~(実は違いますが・・・)
○といいます。今後ともよろしくです :lol:
さて、タイトルにあります通り今回は「縄文人に学ぶ」というお話を :m039:
「縄文人に何を学ぶのさっ!!」と思ったそこのアナタ。はい、続きを読みましょう。
posted by maru : 21:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年12月30日
鉄器の登場と戦争の関係は?
12月20日のみつこさんの記事「灌漑による集団統合課題の登場☆」、みなさん読まれましたか:m052:
水利をめぐって、戦争がおこるようになってしまったのはなぜ:m052:
ヒントは”鉄器”とのことで・・・私がそのネタ奪っちゃいます :nihi: :m034: :m034:
続きへ行く前にワンクリックお願いします。
:m118: :m118:
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posted by pingu : 07:11 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年11月05日
環壕集落ってなに?
こんにちは、yuyuといいます。
最近、ブログ「新しい日本の歴史」を読んで勉強しているんですが、その中で「環壕集落」がでてきたので、少し調べてみました。
>大和286、河内・和泉175、近江155 この三ヶ所は、最大の環濠集落を有する所です。順番に、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。下之郷遺跡にいたっては、3条の内濠(内郭)と6条の外濠(外郭)の合計9条の構造になっていて、いかに、外部からの攻撃を恐れたかが判ります。
河内・和泉には、池上・曽根遺跡があります。環濠というものの、深さは浅く防御用とは考えにくいですが,河内平野にある巨大古墳は、中国人との関連でみる必要があると思われます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page571.html
(「新しい日本の歴史」No16式内社が教えてくれること その3より)
>環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
(ウィキペディア「環濠集落」より)
なるほど読んで字の如く、周囲に堀をめぐらせた集落のことなんですね。
(大塚遺跡)

(大塚遺跡の復元図)
posted by yuyu : 21:57 | コメント (1) | トラックバック (0)