2008年05月21日
弥生社会はどのように縄文人を巻き込んだか
前投稿の続きです。
同じく、藤尾慎一郎氏のHPから紹介します。
>弥生Ⅰ期以降におこった狩猟採集民の農耕民化と位置づけた四箇遺跡タイプの出現過程は,早期のそれとはいろいろな面で異なっている。
まず狩猟採集民は後・晩期以来の土地で農耕民化することである。彼らは水田にするには好条件の場所をもちながら,長い間,水稲農耕に専業化しなかった。もし後・晩期のコメづくりを認めるとすればその期間は1200年もの長きに及ぶ。
しかしⅠ期になると情勢の変化が下流域から訪れる。
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2008年02月29日
水田稲作は縄文人も求めていたから拡大した
縄文時代から弥生時代への変遷は縄文晩期のBC1000年ごろから北九州を中心に波状的に拡大していき弥生時代前期には近畿まで拡がっていきました。この1200年間が大きくは日本における私権社会への転換期に当たるのですが、この期間に何があったのか?どのようにして縄文社会は渡来人の文化に取り込まれていったのか?しばらく方々のサイトを探索して事実に相当する記事を集めていきたいと思います。
渡来人との融合、水田稲作の伝播により社会構造は大きく変化していきます。
今回はHP「日本人の起源」さんより紹介させていただきます。非常に的確に分析しており弥生前夜の水田稲作の伝播についての状況がよくわかります。リンク
水田稲作は大きくは渡来人の縄文人支配の結果ではありますが、そうではない、”縄文人が大陸に技術を盗みに行った”という歴史事象も残っています。以下、NHKレポートをまとめた記事です。ちょっと、とんでもですが・・・。
:m118: 応援よろしくお願いします :m049: :m118:
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2007年05月19日
縄文時代、既に農業(稲作)はあったが、普及しなかった訳
こんにちは、simasanです。
今日は、日本での農業(稲作)の起源の話です。
戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡からは水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかになっています。
さらに、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中からは、6000年前のもの最も古いプラントオパールが検出され、それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえ出てきたのです。

注:プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05・程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができるそうです。
では、何故、縄文時代は稲作が普及しなかったのでしょうか?
知りたいっと思った方は、ポチっと お願いします!
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posted by simasan : 18:00 | コメント (12) | トラックバック (0)
2007年02月14日
弥生時代のクニの形成過程
おはようございます、tanoです。久しぶりに弥生に戻ってまいりました。
今日は弥生時代のクニの形成について考えてみたいと思います。
弥生時代は縄文晩期に渡来した中国・朝鮮系渡来人によって作られました。
弥生時代の特徴は集団規模の拡大と階層化の登場です。
弥生ミュージアムではクニの形成を以下の4段階に分けています
■第一段階 農業開始期
■第二段階 クニの成立期
■第三段階 クニの相互期
■第四段階 クニの連合期
【この4つの段階は大きくは以下のようになります。】
渡来人の定住・農耕の開始
:m118:
人口の増加=集団規模の拡大
:m118:
環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の中身の拡充
:m118:
環濠集落の消滅
:m118:
古墳の登場
???なぜ集落が消滅したのでしょう?
これには祖霊信仰と武器の祭器化が絡んできます。 :roll:
上記を流れを詳しく図解化風に書いてみました。
続きを読みたい人はポチッと押してみてください(関係ないけど)
posted by tano : 09:01 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年12月20日
灌漑による集団統合課題の登場☆
こんばんは~ :m017: 面白い記事が続いていますが、今日はちょっと縄文・弥生にトリップしてください :m083: :m003:
るいネットの投稿『縄文人の集団規模と共認の関係』に、
縄文時代は30人規模の単位集団だった。それは意思疎通が図れる範囲で、共認形成を諮ることを第一義としたから!という紹介がありました。みなさん、お読みになられましたか :D ?
でもね、集団のありようも時代(外圧変化)とともに変化するものなんです。。。
今日は灌漑稲作が始まって、集団のありようはどういう変化を迫られたのか?を見ていきたいと思います!
まず、ちょっとお勉強・・・。そもそも、灌漑って何?

寺家遺跡(弥生) 灌漑用の水路を、完掘した状態です。この溝の周辺には水田が広がっていたものと思われます。 いしかわの遺跡 さんから頂きました。
灌漑(かんがい)とは農地 :m146: に外部から人工的に水 :m010: を供給すること(by ウィキペディア)で、日本における灌漑技術の段階は大きく以下の4段階だそうです。(以下、引用及び参考は鷲田豊明氏『日本社会システムの起源』より。)
①弥生時代初頭~後期
自然河川に堰を設けて水位を上昇させ、溝で導水する
②弥生時代末期~5世紀の中頃
自然河川相互を結ぶ人工流路の掘削
③5世紀末or6世紀初頭~
②に、堤防を構築することによって自然河川を堰き止め流路を変更する、つまり、自然河川を途中から人工河川に転換する方式が加わる。
④7世紀初頭~
長大な人工流路の掘削による計画的大開発と溜池潅漑の普及
(その内、弥生時代は①~②に該当。だんだん技術が進歩してるのが分かりますね :m103: )
つまり、自然の雨水 :m007: に頼ったりするのではなく、人工的に河川水 :m064: を利用して農業を行うってことみたい。でもでも、この技術が私たちの先祖の集団関係に大きな影響を及ぼすのです!
えっ、どういう風に :shock: ?って思われた方、ポチっと押して続きをどうぞ :m027:
posted by mituko : 22:30 | コメント (3) | トラックバック (0)