/> 縄文と古代文明を探求しよう!
 
 

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2008年10月10日

古事記を知る!~るいネットの投稿群から

[弥生ー律令時代の国造り]

こんばんわ。
るいネットで今、古事記と日本書紀について続々と投稿が行われています。

目的は
①古事記と日本書紀は誰が何の為に書いたのか?
②古事記と日本書紀は何が事実で何が嘘か?
③日本の歴史書と言われているそれらの書の偽書説の真意とは?

という3段階になります。
このブログでも引き続き紹介していきたいと思いますが、
今日はまずは古事記の投稿群についていくつか拾ってみます。

:m282: まずは彗星さんのこの投稿から始まりました。
古事記、日本書紀は偽造文書

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2008年08月15日

聖徳太子はいなかった?

[弥生ー律令時代の国造り]

:D くまなです

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ひとむかし前の方々なら一万円札や五千円札でよくお目にかかった聖徳太子。
教科書で、一度に十人の人の話を聞き分けたということを習い、そんなすごい人がいたんだと思っていました。

ところが、歴史学では権威のある方が「聖徳太子はいなかった」という内容の著書を出し、これを最近マスコミが取り上げることで多くの方が知るところとなったのです。

その真相に迫りたいと思います。

今回は、まだよく知らないという方のために、基本を押えましょう。

まずは、聖徳太子はどんな人だったか。まずプロフィールを紹介します。

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2008年08月01日

新説「古墳はビビらす為に作られた!」

[弥生ー律令時代の国造り]

こんばんわ!
古墳は何の為に作られたのか? :shock:
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古墳は3世紀後半から7世紀まで北海道、東北地方、沖縄を除く各地に作られました。
その数は夥しく近畿、関東、九州と凡そ人の居たところには古墳ありという状況です。
またその形も方形、円形、前方後円とさまざまで同じように古墳文化が発達した中国、朝鮮に比べてその数も規模も形態も著しく突出しているのです。
これは何を示すのでしょうか?なぜこんなに古墳が作られたのでしょうか?

①中国、朝鮮の文化伝来説~古墳は日本で作られる前から中国、朝鮮にあった!
②日本オリジナル説~前方後円墓は中国にも朝鮮にもない!

しかし :shock: これは現在の考古学の世界でも諸説がありまだ明らかになっていません。
というかこの時代にこれだけの古墳ができたのは謎であるとさえ言われています。
ではなぜ古墳はこれほどまでに作られたのでしょうか?

今日はこの問題に切り込んでいきたい 8) と思います。

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2008年07月18日

弥生以降の国際的外圧と国家統一の流れ

[弥生ー律令時代の国造り]

「弥生~古墳時代の勢力争いを解明する!」tonoさん
「-騎馬民族は来なかったか?-」naotoさん

の投稿から、縄文から弥生にかけて、渡来人と日本の統一国家成立までの大きな流れは

BC2,000 第一波 中国南部の環境避難民 三苗人が稲作を広める

BC500~0 第二派 アマテラス スサノオらの中国戦乱避難民が次々とやってきて九州地方から近畿まで戦乱が拡大

AC0~300年 第三派 天皇家に繋がる北方騎馬民族が統一王朝=大和王朝を建設

さらに、6世紀以降は、戦乱の中国を統一してできた国家、隋や唐の登場により、さらに一段周囲の国家の緊張感が一気高まった ようです。

左から5・6・7世紀、中国・朝鮮の国家勢力図です。図は「人命歴史年表」より引用させて頂きました。
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この日本が統一国家建設に向けて、一つにまとまる必要性から天皇制が必要であったと考えられます。その源流が北方騎馬民族かどうかは、tonoさんの投稿にもあるように、諸説があるようですが、間違いなくこれらの外圧に対抗するために次の「憲法十七条」制定や「大化の改新」が必要だったと考えられます。

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2008年07月16日

弥生~古墳時代の勢力争いを解明する!

[弥生ー律令時代の国造り]

弥生~古墳時代ってどこまで知っていますか?
まずは簡単な中学生向きの年表を見てください。

「がんばれ凡人サイト」さんから借用しました。
日本史の年表

皆さんも大体こんな感じで弥生時代~飛鳥時代を習っていたと思います。
覚えることは大和朝廷の発足と大化の改新くらい、後は中国から来た律令制度。
奈良時代以降は人名がたくさん出てきて複雑になりますが、弥生から飛鳥時代の教科書の記述は至ってシンプルだったと記憶しています。しかし、この800年間をわずか数行の史実で終わらせるにはあまりにもいい加減ではないですか!その結果未だに弥生時代って何?古墳時代って何?大和朝廷はどこにあったの?など自国の国の始まりにも関わらず大半はわからないことだらけです。
つまり、大化の改新以前は詳しく知らせたくない何らかの意図が介在しているのではないでしょうか?
大化の改新以前は日本書記が書く神話の世界が未だに正しいとされています。
しかし事実は・・・・。統一国家が出来上がるまでの権力争いの歴史なのです。
権力を巡って日本に深く侵入した渡来人の戦乱史なのです。
天皇制を基本的に否定できない日本の教科書にはそれはかけない。なぜなら、人神である天皇が日本という列島を作ったという事になっているからです。従って国家形成の事実は大雑把にしておこうという意識が当局には働くのです。

今回はそれに果敢に挑戦してみたい :tikara: と思います。
まずは難解な列島制覇の系統図を見てください。古代であそぼ!さんから借用しました。
ファイルをダウンロード

今日はこの年表を元に弥生時代の渡来人の流れを一気に勉強していきたいと思います。
内容は、この時代の渡来人の流れを非常に丁寧に書いたHP「古代で遊ぼ」さんより抜粋させていただきました。少し長いのですが頑張って読んでみて下さい。段落の最後にまとめを太字で入れておきます。時間のない人はそこだけを読んでいただいてもOKです。

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2008年06月02日

時に協力、時に対立していた渡来系弥生人集団

[弥生ー律令時代の国造り]

どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのだろうか。?

前回、「縄文と弥生の境目:共存のディテール」で、近畿地方では縄文晩期の土器を使う縄文人系の集落と遠賀川系弥生土器を使う渡来系弥生人の集落が100~150年間併存していたことを紹介しました。

今回も同様に他の地域ではどうか見ていきたい。今回も産経ニュースの-文化-学術-に「試行私考 日本人解剖」と言うシリーズの中からお借りして届けします。

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水稲農耕を取り入れた地方毎の「弥生」の始まり

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2008年05月22日

縄文と弥生の境目:共存のディテール

[弥生ー律令時代の国造り]

tanoさんの投稿に続きます。
どのように縄文から弥生に時代的に連続していったのだろうか。?

 これは今のところ有力な根拠とされているのは、発掘される土器や稲作をしていたかどうかだそうです。
土器は縄文時代を通しての芸術性豊かなものから、弥生時代には実用本位のシンプルなものに大きく変化します。
また、鉄器も登場し時を同じくして稲作が盛んになっています。

しかし、稲作が始まったのは縄文からと言う説があるくらい所によっては古くから作られていたようです。
今日は私がよく見ている産経ニュースの-文化-学術-に「試行私考 日本人解剖」と言うシリーズがあります。
今回はここからお借りして縄文から弥生へ移行していった詳細をお届けします。

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【九州の縄文系弥生人(左)と渡来系弥生人(右):土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムより】

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posted by mukai : | |

2007年06月12日

国を統一して譲ったヒーロー、大国主命とは?

[弥生ー律令時代の国造り]

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こんばんは!bunchanです。 

「古事記の世界」 さんを参考に、古事記の中では、「国をつくって国を譲った男」として描かれている「大国主命オオクニヌシノミコト」について紹介してみたいと思います。(「古事記の世界」 さんより、要約・引用させてもらっています)

1.兄弟から追われる

大国主命はスサノオ七世孫として誕生しました。
大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)これが若かりし頃の大国主神の名前でしたが、稲羽に八上比売ヤカミヒメという大変ミメ麗しい媛がいました。
大穴牟遅神の兄弟達は皆、我こそは八上比売を妻に!という思いを胸の内に秘め、揃って稲羽へ出掛けることに。大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行ったのですが・・・。(途中、因幡の白兎を助ける)
八上比売ヤカミヒメが「あなた方の言うことは聞きません。大穴牟遅神と結婚致します」といったばかりに、大穴牟遅神(オオアナムジノカミ)は兄弟から何度も殺害計画をたてえられ、生き返らされたり逃げたりの連続でした。最後には須佐之男命(スサノオノミコト)のいる根之堅州国ネノカタスクニへ行くことに。


・・・・続く
ぽちっと押して続きをお楽しみください :m030:

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posted by bunchan : | |

2007年02月14日

弥生時代のクニの形成過程

[弥生ー律令時代の国造り][弥生ー律令時代の戦争][弥生ー律令時代の農業][弥生ー律令時代の集団統合]

おはようございます、tanoです。久しぶりに弥生に戻ってまいりました。
今日は弥生時代のクニの形成について考えてみたいと思います。

弥生時代は縄文晩期に渡来した中国・朝鮮系渡来人によって作られました。
弥生時代の特徴は集団規模の拡大と階層化の登場です。

弥生ミュージアムではクニの形成を以下の4段階に分けています
■第一段階 農業開始期
■第二段階 クニの成立期
■第三段階 クニの相互期
■第四段階 クニの連合期

【この4つの段階は大きくは以下のようになります。】
渡来人の定住・農耕の開始
:m118:
人口の増加=集団規模の拡大
:m118:
環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の成立
:m118:
中核的環濠集落の中身の拡充
:m118:
環濠集落の消滅
:m118:
古墳の登場

???なぜ集落が消滅したのでしょう?

これには祖霊信仰と武器の祭器化が絡んできます。 :roll:
上記を流れを詳しく図解化風に書いてみました。

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posted by tano : | |

2007年02月13日

弥生時代に持ち込まれた祖霊信仰

[Ⅳ中国文明][弥生ー律令時代の国造り][弥生ー律令時代の集団統合]

こんばんは~ :m017: 最近信仰ってなんだろう~?と追求中のbunchanです :m072:

ひとことで「信仰」といっても、いろんな信仰があります。
始源人類の最初の信仰は、「精霊信仰」でした。
精霊信仰とは、万物の背後に霊を見るというもの。あらゆる自然を注視し、それは観念機能の獲得にもつながっていくものでした。縄文人もこの精霊信仰をしていたと思われます。縄文から弥生に時代が移ったとき、弥生時代にもたらされたのが「祖霊信仰」でした。もともとは皆同じように墓に葬られていたのですが、特定の人の墓に特別な副葬品(銅鏡など)を一緒に埋葬したりやがてはその特定の人の祭祀を行ったりして先祖を祭るようになっていきました。
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福岡県須玖岡本遺跡出土の前漢鏡(草葉文鏡)のレプリカ「弥生ミュージアム」 さんよりおりしています。

「祖霊信仰」ってなに?どこからきたの?
続きを読む前にクリックお願いします :m030:

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posted by bunchan : | |

2007年01月01日

日本の私権国家への道すじ(3)

[弥生ー律令時代の国造り]

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明けましておめでとうございます。 :P くまなです。
今年もみんなでブログを盛り上げていきましょう :m049:

突然ですが、1年は、なぜ冬のこの時期に始まるのかご存知ですか?

古代メソポタミアでは1年のはじまりは春分の日でした。すべてのものが生まれ出るからです。古代中国では冬至の次の日や立春を1年のはじめとしていたようです。日本も江戸時代までは中国の影響で立春が1年の始まりでした。農耕⇒豊饒⇒自然への期待が込められています。

1年のはじまりをいまの1月1日の時期に決めたのはローマ帝国で、この時期にあたる神様が一番偉かったからだそうで、自然より観念統合を重視したようです。日本も明治以来、この時期が正月になったようです。⇒参照

***

さて、日本の私権国家への道すじ(3)です。
前回は、前3世紀、天孫族(アマテラス)と箕子朝鮮(スサノオ)を紹介しました。

天孫族は南朝鮮経由で渡来しているので、箕子朝鮮は天孫族と同族あるいは近縁であると考えられます。箕子朝鮮は殷(商)人の末裔と考えられていますので、北方の遊牧民と混血している可能性が高く、遊牧系の天孫族とは服属・嫁派遣等により混血している可能性が高いと思われます。ですから、古事記・日本書紀ではアマテラスとスサノオは姉弟とされているのでしょう。


今回は前2世紀からはじめます。

このあたりの時代は未だ古事記・日本書紀等に描かれた神話世界です。
神話は支配者(勝者)が自己を正当化するために作ったもので、創作物ですが、
事実無根のつくり話ではなく、事実が基礎にあるというスタンスに立っています。


↓さて、さて本題です。

posted by kumana : | |

2006年12月30日

鉄器の登場と戦争の関係は?

[弥生ー律令時代の国造り][弥生ー律令時代の戦争]

12月20日のみつこさんの記事「灌漑による集団統合課題の登場☆」、みなさん読まれましたか:m052:
水利をめぐって、戦争がおこるようになってしまったのはなぜ:m052:
ヒントは”鉄器”とのことで・・・私がそのネタ奪っちゃいます :nihi: :m034: :m034:

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  :m118:   :m118:
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posted by pingu : | |

2006年12月29日

渡来人と豪族の盛衰

[弥生ー律令時代の国造り]

5世紀中頃(古墳時代後期)から飛鳥時代を経て、平安京が築かれた奈良時代にかけて、それまでの物部・蘇我氏などの豪族と呼ばれる人たちの争いから、藤原氏を中心とする、強固な国家を造ろうとする動きが登場してきました。

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図は「飛鳥の時代」さんよりお借りしています。

藤原氏らは、唐や新羅と争う一方で、中国の制度をとり入れた新しい国家の建設に努め、天武・持統両天皇の時にこの事業はほぼ完成しました。

律令(刑法と行政法)が国家の法典とされ、豪族の支配下にあった全国の民衆は、中央・地方に置かれた役所を通じて中央政府に支配され、694年の藤原宮の完成をもって律令制国家ができあがったといえます。

この豪族の盛衰と国家統合の背後にどのような力関係があったのか、
知りたい!と思った方はポチッとお願いします。

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posted by simasan : | |

2006年12月27日

藤原氏って何者?

[弥生ー律令時代の国造り]

学校の日本史の授業でところどころ「藤原氏」という名前がでてきます。
飛鳥時代から出現して、日本を動かした中心となった家というイメージですが、どんなふうに影響を与えてきたのでしょう?今回は藤原氏について調べてみました。
(この記事は、「系図でみる近現代」 「ウィキペディア」を参考にさせていただいています。)

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●はじまりは中臣鎌足
最初に「藤原氏」を名のったのは、中臣鎌足。
大化の改新の功により天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族が藤原氏のはじまりです。

鎌足の死後、中臣氏を率いた右大臣中臣金が壬申の乱で処刑された事もあって、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えた。

●藤原不比等(645年-740年)・・・奈良時代の権力者
藤原不比等は藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖ともいえます。

●不比等の4人の息子
藤原武智麻呂(むちまろ)680年 - 737年 (藤原南家)
藤原房前(ふささき)681年 - 737年 (藤原北家)
藤原宇合(うまかい)694年? - 737年 (藤原式家)
藤原麻呂(まろ)695年 - 737年 (藤原京家)
不比等亡き後、元正天皇・聖武天皇の時代に渡る長屋王との政権争いに勝ち、729年から737年の間、朝廷の政治を担ったが、737年の天然痘の流行により相次いで病死。四兄弟の子が若かったため、実務は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が担うことになった。この間、主立った実務官僚も次々に亡くなり、ついで、四兄弟のうち宇合の息子藤原広嗣が740年に乱を起こし、討伐されたため藤原氏の高位官僚の不在時代がしばらく続くことになるが隆盛を極めたのが、房前を初代とする藤原北家。

●現代の藤原氏は「藤原さん」ではないそうです。
実は、数世紀にわたって、大家族に膨れ上がった藤原氏は、日常生活を
するうえでの紛らわしさから、便宜的にその居住地に由来する家名を
名乗るようになり、鎌倉時代あたりからそれは、次第に定着していった。
例えばこの藤原北家のなかでも、道長・頼通の直系で、
摂政・関白になり得る最高の家柄を摂家・・・近衞・九條・二條・一條・鷹司(たかつかさ)を名乗るようになる。これが五摂家。


実質的には「藤原氏」の祖といっても過言じゃない藤原不比等はどんな仕事をしたのでしょう。まずはクリックお願いしま~す  :m148:
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2006年12月26日

大和朝廷の支配体制

[弥生ー律令時代の国造り]

天皇家を中心に、日本統一を果たした大和朝廷ですが、どのような方法を用いたのでしょうか?
当時の支配体制をまとめてみたいと思います。

氏姓制度http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-4-4.htmより抜粋

大和朝廷は、日本を統一し、天皇家中心による中央集権国家を築くことを目指していた。
それを実現させるためには、当然、中央・地方の諸豪族を支配体制下に組み入れる必要がある。
そこで、大和朝廷が導入した制度が氏姓制度(しせいせいど)だ。

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2006年12月19日

卑弥呼伝説を明らかにする(2)

[弥生ー律令時代の国造り]

こんばんわ! :D tanoです。

前回の投稿から~以上から卑弥呼は海部氏の家系の人物(第6代孫)であると特定できるようだ。
さて海部氏とはなんだろうか?丹後半島に弥生時代に海部氏の足跡がある。卑弥呼を説く鍵は丹後半島にあった。次回に続く・・・。

今回も日本建国史さんから紹介します。

私は弥生時代の強力な王権は、稲作に適した平野部に生まれたと考えていた。
なのに丹後地方は、日本海に面した山の中である。卑弥呼を擁立するような、王権が生まれるなど、とても信じ難い。
しかし、私の疑問を解く発掘がある。

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2006年12月16日

卑弥呼伝説を明らかにする!(1)

[弥生ー律令時代の国造り]

:D tanoです。

卑弥呼は非常に謎の多い女王である.
卑弥呼とはどんな人物か?どこに拠点があったのか?何をした人なのか?
どんどん関心が高まります。まだ調べ始めたところでタイトルのように展開できるかは自信がないのですが、方々の優秀な諸氏のHPを参考にしながら読み解いていきたいと思います。(予定では数回に分けて投稿しますが今回はまず第1回です)

まずは基礎データーを押さえておきましょう。ウィキペディアから紹介http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
>卑弥呼(ひみこ、158年頃?-248年頃?)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。

himiko.jpg

↑卑弥呼復原像~大阪府立弥生文化博物館より拝借しました。

次に魏志倭人伝から(同じウィキペディアから掲載です)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏志倭人伝によると、
「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」
卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明)。

「年已長大 無夫壻」
年長大であったが夫を持たず、

「有男弟佐治國」
弟がいて彼女を助けていたらしい。

「自爲王以來 少有見者」
王となってから後は、彼女を見た者は少なく、

「唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設」
ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。

「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

魏志倭人伝を素直に読むと卑弥呼は大衆を惑わす?とてつもない呪術師であり、王になってからは姿すら誰も見れない。生涯独身で長寿。唯一使えたのが側近の男性。卑弥呼の死と共に大衆は悲しみ後を追って死んだという。

さて天照大神から神功皇后まで諸説があるが古事記、日本書紀には卑弥呼の明確な記載はない。
卑弥呼を推定するにはこの魏志倭人伝が唯一の根拠になる。従って卑弥呼の実態には諸説があり、まさに史実から古代ロマンに近いものまで女王伝説が乱立しているのである。


その中で海部氏の『勘注系図』から卑弥呼を割り当てた論説がある。
海部氏(あまべし)とは・・・

>京都府の日本海側、宮津市に、日本三景の一つと知られる、天の橋立がある。
天の橋立が、あたかも参道のように海中に延びた北の端に、籠(この)神社と呼ばれる古い神社がある。その神社の宮司家である、海部(あまべ)家に古い系図が伝わる。

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2006年12月14日

邪馬台国ってどこにあるの?・・・近畿説と九州説

[弥生ー律令時代の国造り]

邪馬台国ってどこにあるんでしょうか?
魏志倭人伝にかかれた邪馬台国への道のりを図にすると次のようになります。

弥生ミュージアムさんからお借りしました)
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邪馬台国の場所についてはいろいろな説があります。
「邪馬台国はなかった」という説まで・・・・・
が、そのなかでも有力と見られている説は近畿説九州説です。
今日は、この近畿説と、九州説を紹介します。

ぽちっと押して続きを読んでくださいねっ :m021:
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2006年12月12日

卑弥呼は大倭の女王?

[弥生ー律令時代の国造り]

邪馬台国については、九州説と畿内説の論争が続いているようですね。
今回は、畿内説の立場からの記事を紹介したいと思います。

女王の統属する範囲
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/10c.htm
要旨:女王の統属する範囲は、西は、対馬、壱岐を含む九州北部。東は京都府と滋賀県の境まで。
この範囲を魏志倭人伝は『倭国』と称す。

touzoku.gif
 
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日本の私権国家への道すじ(2)

[弥生ー律令時代の国造り]

こんばんは、くまなです。

前回は、前4世紀、海神族白狄人(イザナギ・イザナミ)を紹介しました。今回は、前3世紀から2世紀初頭です。

中国では秦が中国を統一する前夜です。
各地で戦乱が絶えません。

前277年:秦が楚を討ち、江南を取る。
前254年:秦が魏を討ち、呉城を取る。
前224年:楚、江南で挙兵する。

上記のように中国の南東部(長江河口域)で、激しい戦乱が起こります。

このころ日本に中国南部の河姆渡人と思われる海人(アマ)族が渡来します。
対馬経由で出雲、その後北部九州志賀島を拠点に、筑前・肥前の沿岸部に居住します。
海人族の特徴は、温和、漁労(潜水漁)、海洋技術、金属技術(青銅・銅鐸・銅矛の製作)、全身入墨、稲・葦・竜蛇・鴨を祀る、で出雲神話と一致します。
大国主命(オオクニヌシノミコト)ではないかという説があります。


さて、その後の中国は、

前222年:秦が燕を滅ぼす。
前221年:秦が中国統一。

【図:秦の中国統一】
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⇒詳細な画像


(「最新世界史図表」第一学習社より)

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2006年12月05日

スサノオは、箕子朝鮮から逃げ延びた王族の一派だった!?

[弥生ー律令時代の国造り]

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古事記によると、イザナギが黄泉の国から逃げ帰ってから川でみそぎをするのですが、その時に左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(すさのおのみこと)が生まれたとされます。

スサノオは、乱暴物 8)  として描かれています。アマテラスのところにいってさんざん暴れまわった挙句、とうとうアマテラスは岩戸に隠れるという事件を引き起こしたり・・・一体何者 :m052:
「古代で遊ぼ」さんによると、スサノオは逃げてきた箕子朝鮮の王族だったのでは?と考えられています。

そのまえに箕子朝鮮って何? と思った人はぽちっと押して次へどうぞ。
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posted by bunchan : | |

2006年11月30日

日本の私権国家への道すじ

[弥生ー律令時代の国造り]

こんばんは。くまなです。
弥生時代の研究は、神話のような古事記・日本書紀がベースで、ネットでも諸説あってよくわからないので、まとめてみることにしました。

目的は日本における私権制度の移入・確立のようすを明らかにすること。
これから数回に亘って、史実を時系列で押さえていこうと思います。

予定としては、まずは弥生時代から、日本に渡来した人々の時期と出自を明らかにします。また、できれば古事記や日本書紀に書かれた「神話」と言われている部分と史実との関連も明らかにしたいと考えています。

時代の射程は私有制身分制が確立する7世紀ごろまでを考えています。
最後は年表のかたちにまとめます。関連する情報の援護投稿も歓迎です!

弥生時代ということで、まずは↓これが‘弥生’の呼称を生んだ‘弥生町’で発見された土器
05.jpeg


それでは、まずは紀元前3世紀の江南人の渡来から。

posted by kumana : | |

2006年11月18日

長江文明の担い手『苗族』が日本に渡来し、稲作文化を伝えた

[弥生ー律令時代の国造り][長江文明]

苗族(ミャオ族)って知ってますか?
ウルルン滞在記でも時々紹介されているらしい。

今も中国の貴州省や雲南省に住む少数民族http://www.china.org.cn/ri-shaoshu/miao.htmで、その祖先が長江文明の担い手だったと言われています。
彼らは長江流域で稲作を営み、太陽・鳥・蛇を信仰し、太陽族・鳥族・蛇族の三苗と呼ばれました。

その彼らが、4000年前頃の気候変動(寒冷化)に伴い、北方の牧畜民(漢民族の祖先)が南下し、牧畜民との戦いに敗れ?、あるいは移動せざるを得なくなり、長江文明も滅んだとされています。

そしてその際、苗族は長江奥地の雲南省などに移動したわけですが、一部は船に乗って九州へ渡り、稲作文化を伝えたとされています。

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posted by nishipa : | |

2006年11月15日

ユダヤ人は弥生時代に日本に到達している!

[弥生ー律令時代の国造り]

こんばんわ!tanoです。 :-)
この話はかなり有名な話で聞いたことのある人も多いかと思いますが、私は最近知るようになりました。最近勉強させていただいているブログ「新しい日本の歴史」でもかなり力を入れてこの事が書かれています。

著者の説によるとユダヤ系民族は紀元前に朝鮮半島から日本に渡り、主に岡山県を活動拠点としていたようです。 :shock:
神の付く地名が岡山県にたくさんあり、ユダヤ人は主にその地を渡って絹を運んでいたのではないかと考えられています。また有史では初代天皇とされている9代神武天皇はユダヤ人という説もあり、神武天皇の吉野が里征服、国家統一にユダヤ系渡来人が大きく寄与したとの事です。 :m198:

以下ブログからの転載です。
岡山県小田郡笠岡町に神ノ島があり、その南隣が、神武天皇が八年駐留したと言われる高島です。この地域の式内社の分布は、美作11 備前26 備中16 備後 17 安芸3 というように、全部あわせても、73社です。他地域に比べて圧倒的に少なく、これだけしか式内社を獲得できなかったと言うことでは、漢人が入る余地がなかったことなり、天皇勢力の強かったことは確かです。
これらのことから、ユダヤ人は、早い頃から、天皇の側についていたようですし、神武天皇の東征のおりには、いろいろの面で援助したことが推察できます。また、神武天皇が、安芸に七年、吉備に八年駐留した理由も説明がつきます。

それでもユダヤ人が日本に来た、さらに天皇家の血に流れている、というのはまだ根拠が不足しているのでは・・・・
と疑う方は以下を読んでみてください。 8)

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:m118: 興味のある人はポチっと押して続きを読んでね
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弥生期以降の氏族系統(2)

[弥生ー律令時代の国造り]

弥生期は、様々な異民族が日本に流れ込んできた激動の時期だったようですね。 :m196:
引き続き、その様子を見ていきたいと思います。

【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm
その王家の支族は二世紀前半頃に筑前海岸部へ遷住(いわゆる「天孫降臨」で、「日向」とは筑前国怡土郡から那珂郡にかけての一帯とその近隣地域のこと)、更にその王族庶子が遙か東方の大和へ移動して(いわゆる「神武東遷」。後記)、二世紀後葉に原初大和朝廷を形成した。
この王家一族の後裔諸氏の多くは、皇別(皇親)や神別の天孫に属したが、初期大和朝廷の王統(皇統)自体はこの部族内で交替があったとみられる。天皇家のほかでは、物部連、出雲臣、額田部連、服部連、鳥取連、玉祖連などを代表とする。

  この種族の源流は、中国古代の周・殷・羌族などの東夷系(北狄ともかなりの混血があったか、習俗で似通ったものがある)に通じており、箕子朝鮮の王族ないし扶余王族の流れとしてよさそうである。地域的には、朝鮮半島南部の伽耶(とくに安羅)→忠清南道北部→中国の遼西→山西省南部、さらにはその遠い源としては西域まで遡る可能性がある。また、西域から四川省に進出し、古代三星堆文明を築いた種族も同族とみられる。

  この一派として別途、遅れて日本列島に渡来したのが天日矛の一族であり、子孫が一旦朝鮮半島に戻って暫時留まった後、その子孫(この引率者も同名の「天日矛」として伝える)が再来日して但馬の出石地方に定住した。出石定住は三世紀前半頃とみられる。

  以上の三ないし四の種族・部族が主となって融合して、現代の日本人の多くにつながってきたものとみられるが、当然ながら、日本列島の中でも地域により混血の対象・程度に濃淡の差がかなりある。
なお、古代の蝦夷・熊襲・隼人などは、弥生文化を拒絶して辺地に居住した部族のようであり、古来からの山祇系の色彩が強い

(4) その後も絶え間なく、大陸や朝鮮半島から新しい文化や技術・信仰などをもって人々が渡来してきた。なかでも、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての応神朝頃の渡来の波(このときは弓月君を中心とする秦部族や、阿智使主を中心とする東漢部族が二大要素)、五世紀後葉の雄略朝頃の渡来の波(今来の漢人)が大きかった。
  七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入してきた人々も、また大量であった。奈良時代にも、大陸との交流を通じて人々がやってきたが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途断した。このころから一千年超の期間、現代日本人にむけての形成・融合の過程が着実に進行することになる。
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posted by naoto : | |

2006年11月14日

弥生期以降の氏族系統(1)

[弥生ー律令時代の国造り]

イザナギ、イザナミ、スサノオ、天照大神・・・ずっと、神話の世界の作り話だと思っていました。
でも、あれこれ探求してみると、実在していたようですね :shock:
だとしたら、彼らは何者?
ちょっと長いのですが、わかりやすく説明されているサイトがあったので、2回に分けて、紹介させて頂きます :roll:

【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm

○ 現代日本人は単一民族の後裔ではない。中国や朝鮮半島の国々と同様、上古以来、周囲から日本列島に流入したいくつかの種族が長い期間のうちに混合融解して形成されたものとみられる。その形成の時期・過程については明確には記述し難いが、言語や神話・祭祀などから、大づかみに把握することは何とかできそうである。

(1) 日本列島の形成が一万年ほど前のこととして、その前後から原日本人が居住していたことが考えられる。この主体を縄文人とか「山祇族」と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。
  この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏の多くは、神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。

(2) 次に、中国江南沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部(忠清南道南部の松菊里遺跡に関係か)を経て、紀元前の時代(明確にはし難いが、前三~前二世紀か)に日本列島に到来してきた種族がいた。主として筑前・肥前北部の沿岸地域に居住し、水稲耕作農業を行い青銅器を使用して、わが国の弥生文化前期の主力を担ったもので(「弥生人」は、前者(1)との混血の結果生じたもので、語の用い方に注意を要する)、航海・漁労に優れた能力をもつ人々であり、「海神(綿積)族」と呼んでよかろう。
  この種族は、中国のタイ語族(現代の主要民族としてはチワン族など)やタイの人々に類似する要素が大きい。この後裔諸氏の多くは、神別の地祇に属したが、出自を仮冒して皇別や神別(天孫)に分類された諸氏も、また多い。阿曇連や和珥臣、尾張連、三輪君などを代表とする。

(3) 三番目に、中国東北地方の内陸部を原住地として、朝鮮半島を経、その南部を根拠として紀元一世紀代頃に日本列島に到来した種族がいた。鉄器文化や鳥トーテミズムをもち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。古代朝鮮の箕子朝鮮、扶余・高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族とも同族の可能性が強く、「天孫族」と呼んでおく(これもやはり弥生人の一大構成要素であったことに注意)。
  この種族は、松浦半島に上陸して松浦川に沿って溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)の北麓~西麓の辺り、筑後国の御井・山本郡を中心とする地域に定着した。これが、『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(いわゆる「高天原」。ただし、この呼称はそれまでの居住地についても用いられた可能性あり)であり、こうした原始国家を二世紀初頭前後頃から形成し、それが魏朝のときに最盛期をむかえ女王卑弥呼などを出した。

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2006年11月07日

倭人のルーツ~地図より

[弥生ー律令時代の国造り][長江文明]

タノです。
弥生が熱いですね。 :o
面白いHPがありました。個人の方の資料なのですがよく調べてあり、縄文後期~弥生の倭人の動きと日本列島での移動状況がわかります。
弥生を概観する上で参考になります。以下の文章を読んだ後に地図を見てください。

地図ですリンク

>倭人のルーツを単独に特定することは非常に難しいが、一般的には大きく三つの地域の人種が融合した結果が、現在の日本人を形成していると考えられている。その三つの地域の人々とは、

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2006年11月02日

吉野ヶ里は漢人の日本侵略拠点ではないか

[弥生ー律令時代の国造り]

はじめまして :D 、くまなです。よろしくお願いします。

ブログ「新しい日本の歴史」の内容を紹介します。

当該ブログの論説では、弥生時代を、日本国内での漢人(中国)と天皇(朝鮮)の対立抗争の時代という構図で描いています。その中で、吉野ヶ里遺跡は、日本における漢人(中国)の拠点と位置づけておられます。

【論旨】
漢人(中国系)は、吉野ヶ里を拠点に絹(主に秩父から)の集荷と輸出を行い、九州南部(熊襲:漢人系か?)との協力関係も築いていた。一方、朝鮮人(天皇系)は、九州北部に拠点をもち、吉野ヶ里の包囲網として周辺に神明宮(祭祀:天照大御神)を数多く配置する。とくに漢人と熊襲との結びつきを断つために天草周辺には多く配置し、苗族を入植させた。遠賀川流域の岡田宮を拠点に吉野ヶ里を攻撃した。

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以下に詳細な記述を掲載させていただきます。

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